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一松書院のブログ

ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

 李良傳についてのブログを3回に分けてアップしたが、その後、新しい資料が出てきた。ブログの第3話を補完する内容で、特にここで紹介する2番目の資料は李良傳の生まれた年が1911年となっていることにも絡むもの。ただ、一度アップしたものを安易に書き換えるのも何なので、とりあえずここに「補遺」として資料を紹介して、新たな推測を記しておくことにする。

(1)李良傳の葉書3通

 J -DACの近現代史料データベース「オンライン版 市川房枝資料 1905-1946」に李良傳から婦選獲得同盟あてに送られた葉書が3枚ある。
 
① 1930年(昭和5年)9月15日
 
 1930年4月27日の「第1回全国婦選大会」に李良傳は出席して発言している。この葉書には「御蔭様で無事再び上京する事になりましたから御安心下さいませ」と書かれており、「婦選大会」の後李良傳は東京を離れたのであろう。そして9月に再び東京にきて住まいを決めた。住所は「東京市神田区猿楽町二丁目十一番地ノ一 堀尾方」、下の地図にあるように明治大学のすぐそば。翌年4月の明大専門部女子部の入学に向けて着々と準備を進めていたように思える。そう考えると、一旦9月まで東京を離れていたのは、子供を朝鮮の実家に預けに行っていたのではないか… そんな推測も成り立つような気がするのだが。
 
② 1932年(昭和7年)7月2日
 明大専門部女子部の2年生の時も「婦選獲得同盟」の活動に関わっていた。2銭切手は絵ハガキや印刷したハガキの発送に使われるものか。
 
③ 1933年(昭和8年)年賀状

 

 明大専門部女子部2年生の正月の年賀状。この当時、それなりの枚数を出す場合は個人でも年賀状を印刷するのはさほど珍しいことではなかったようだ。李良傳は、すでにかなりの社会活動を経験して、年賀状の送り先も多かったのであろう。

 

 

(2)1946年3月26日付『中央新聞』記事

法曹界に異彩
司法要員に二人の女性が志願

 先日来、法務局で銓衡中の司法要員養成所の志願者に二人の若い女性がいて、我が女性界が万丈の気炎を吐いている。話題の主人公は、市内の踏十里町205番地の李良傳さんと大和町二丁目116番地に住む洪容淑さん。李良傳さんは京畿高女を卒業して明大専門部女子部から法学部を優秀な成績で卒業し、1937年には日本の特許局弁理士試験に合格し、その後早稲田大学大学院で2年間親族・財産法を専攻した篤学者だ。
 洪容淑さん淑明高女を出て、やはり明治大学の専門部女子部を経て1944年秋に明大法学部を優秀な成績で卒業した。判事・検事をサポートする女性は初めてであるだけに非常に注目されている。
 この記事に大学院での専攻も親族・財産法と具体的に記されており、李良傳が早稲田大学の大学院にいたことはほぼ間違いない。多分1939年か40年に修了したのだろう。
 
 司法要員養成所は、解放の翌年1月に「司法官及び弁護士資格者を養成するため」に設置が決まったもので、修学期間は1年。2月1日から20日までの期間に定員100名で募集された。入所資格は、
  1. 文官高等試験司法科試験合格者
  2. 朝鮮弁護者試験合格者
  3. 学務局が認定する大学もしくは専門学校で3年間法律学科を修了した者
  4. 中等学校を卒業したもので本養成所の予備試験に合格した者
となっていた(『東亜日報』1946年1月30日夕刊)。李良傳は3の資格で問題なく入所できたのであろう。ところが、この養成所は4月に講習が始まってわずか2ヶ月で閉鎖になり、62名の入所生のうち18名だけが司法官試補として任用されたが、残りの44名については行き場がなくなり、司法部の責任を問う声が上がっていた(『自由新聞』1946年6月25日)。日本の植民地支配時からの朝鮮人司法官がそのままポストに居座ったため新たに養成しても行き場がないことになったのではなかろうか。
 
 この司法要員養成所の閉鎖時期(6月)と、女子警察官募集の時期(6月)が重なっている。司法部は、行き場のない44名の一人李良傳の行き先として警務部に女子警察官への任用を依頼した、あるいは押し付けた可能性もある。その際に、年齢制限のあった採用人事を通すため李良傳の生年月日をどこかで書き換えたとも考えられる。5月にすでに決まっていた女子警察幹部16名には40代の女性もいたが、その後の採用には年齢制限があったようだ。解放直後のことで混乱があったとしても、個人が生年月日を詐称してすんなり通るとは考えにくい。上記のような官庁側の思惑と都合があったとすれば、方便として生年記載の「変更」はあり得ただろう。その女子警察採用時の「便宜上の生年」が1956年の『大韓民国 建国十年誌』に記載されてしまったことで、いまだに「1911年生まれの李良傳を3・1運動での貢献で褒賞する」という妙なことになっているのではないだろうか。
  • 「虎に翼」時代の朝鮮女子学生
  • 李良傳イヤンジョンの経歴資料
  以上は(3/1)
  • 3・1独立運動、そして東京へ
  • 3・1独立運動一周年
  • 朴烈パックヨルの救援活動と金柏枰キムペクピョン
  以上は(3/2)
ここから
  • 日本での「婦選運動」
  • 明治大学女子部入学・法学部編入
  • 解放後の李良傳
  • エピローグ

 

  日本での「婦選運動」

 1930年5月6日付の『朝鮮日報』は、日本の無産政党の合同問題を記事にして掲載した。東京発のこの記事の中で、4月27日に開かれた「第1回全国婦選大会」にも言及しており、そこに李良傳イヤンジョンの名前が出てくる。

 

この席上、李良傳という一人の女性がいて異彩を放っていた

 この大会で、李良傳は単に「異彩を放っていた」だけではなく、「すべての婦人団体と共闘することを申し合わせ事項とする」との重要な発言をしている(婦選獲得同盟『婦選』1930年5・6月号)。この大会の参加者は、「遠くは満洲、北海道から」と紹介されているが、朝鮮からの参加者という記載はない。李良傳は東京からの参加者として登録されていたようだ。

 

 さらに、この年の年末に神田YWCAで開かれた婦選獲得同盟の創立六周年記念会の晩餐会では、李良傳が朝鮮の歌を披露したことが紹介されている。

 

『婦選』1931年1月号

 

 この婦選獲得同盟の前身の婦人参政同盟は、女性の参政権の獲得だけでなく、女性弁護士の実現も目指していた。1926年10月30日に明治大学講堂で開かれた第2回総会では、「婦人弁護士法制定の促進」を、「世帯主の婦人公民権・参政権の獲得」とともに運動方針として決定している。

 

 

  明治大学女子部入学・法学部編入

 李良傳が、1931年4月に明治大学法科専門部の女子部に入学したのは、女性弁護士の実現を運動方針として掲げていた婦選獲得同盟の活動の実践でもあった。運動の実践といっても、東京での李良傳の学費や生活費まで婦選獲得同盟がサポートしていたとは考えにくい。1945年以降、アメリカに移った金柏枰が、息子をアメリカに呼び寄せたりもしている。また、「李良傳は金柏枰の保護の下で学業を続けた」との崔恩喜の記述もあり、1945年以前から、金柏枰が養育費などの名目で李良傳をサポートしていた可能性もありそうだが、確証はない。

 

 冒頭紹介したように、1937年の『明治大学一覧』の卒業者名簿で李良傳の名前が確認できるが、それだけではなく朝鮮の『東亜日報』や『毎日申報』にも掲載されている。

 

 

 この李良傳の1学年下で、同じコースを歩んだのが、ドラマ「虎に翼」で猪爪寅子のモデルになった武藤嘉子である。

 

 1938年、武藤嘉子、それに田中正子、久米愛子の3人が高等試験司法科に合格し、初の女性弁護士が登場することになった。一方、明治大学法学部を卒業した女子学生数名は、銓衡を経て弁理士として登録している。その中に李良傳も入っている。


 明治大学を卒業した李良傳は1937年8月9日に弁理士登録された(白德烈「韓國の辨理士制度創設經緯とその理由」)。その後早稲田大学の大学院に通ったようだ。『韓国女性独立運動史』に出身校として早稲田大学とあり、後述する1963年の国会議員選挙に出馬した時の李良傳の候補者履歴にも、早稲田大学大学院修了とある(中央選擧管理委員會『歷代國會議員選擧狀况』1963)。

 

 日本における李良傳に関しての情報はここで途絶えている。日中戦争から太平洋戦争に突入していく時期であった。

 

  解放後の李良傳

 1945年8月の日本の敗戦直後、任永信イムヨンシンが朝鮮女子国民党を立ち上げた。『毎日新報』9月14日の紙面に、朝鮮女子国民党の「政治部長 李良傳」と出てくる。

 

 

 任永信は、アメリカ留学から帰国して1932年に中央チュンアン保育学校を開校し、1936年には木下栄が開発した明水台住宅地(現在の黒石洞フクソクドン)の中に校舎を新築した。1946年9月にはこの学校を中央女子大学(現在の中央大学校の前身)として自ら学長となり、政界への進出も図った。

 

 李良傳が、日本の敗戦直後のソウルで女性政党の立ち上げに加わっていることから考えて、戦時中にすでに東京から京城に戻っていたものと思われる。戦時体制が強まる1940年9月には婦選獲得同盟が解散を余儀なくされており、それも一つの契機となったかもしれない。

 

 1946年、アメリカ軍政庁は警務部公安局に女子警察を新設することを決定した。5月にまず幹部となる女性16名を選抜し、6月3日締切りで女子警察官を募集した。

 

 

 李良傳は、16名の幹部には含まれておらず、7月1日に首都管区警察庁に任用されているので、この6月の募集に応募したのであろう。

 

 当時、アメリカ軍政下で女性の社会進出促進の動きはあったものの、韓国最初の女性弁護士李兌栄イテヨンが資格を取得したのが1954年になってからということが示すように、日本と同じように、あるいはそれ以上に女性が法曹界で資格を得ることは難しかった。女子警察は、李良傳にとって法律の知識を活かせる場であった。同時に、日本の敗戦の混乱の中で安定的な収入を確保する必要があったのかもしれない。

 

 この時の女子警察官の応募条件の資料は探せていないが、1947〜48年の女子警察官の応募条件では満25歳から40歳となっている。また、専門学校や大学の卒業証明がなければ35歳未満でなければ応募できなかった。

 

 

 女子警察官応募の時点で、1900年生まれの李良傳は満46歳。何らかの手を使って、生まれた年を1911年としたのではないのかと考えられる。1956年の『大韓民国 建国十年誌』にはそれがそのまま記載され、2018年10月の韓国警察庁の報道資料にも、1911年生まれと記載せざるを得なかったのだろう。

 李良傳にとっては、3・1運動への貢献が年齢的に矛盾するなど、様々なリスクは承知の上で、これまで学んだ法律の知識を活かし、これまでの女性運動の実践にもつながる女子警察官への道を選んだのではなかろうか。

 

 1950年6月の朝鮮戦争勃発で、1950年12月には臨時首都となった釜山の鉄道警察隊勤務となり、1953年6月11日に第3代釜山女子警察署長に就任した。1956年2月25日、依願退職して忠清北道チュンチョンプクド清州チョンジュ市の清州大学法学科の教授となった。

 

 1960年の4・19学生革命で李承晩イスンマン政権が倒れ、1961年5月には朴正煕パクチョンヒによる軍事クーデターが起きた。1963年に朴正煕政権下での初の国会議員選挙が行われたが、この選挙に李良傳は呉在泳オジェヨン秋風会チュプンフェの婦女部長として全国区に立候補している。

 

 

 しかし、秋風会は地方区33人、全国区5人が全員落選した。李良傳は、全国区の5人の候補者の5番目。1番目が清州大学院長なので、義理による出馬なのかもしれない。この選挙でも、李良傳は「55歳」としている。数え年だとしても、実年齢と10歳ほどの差がある。

 

 年齢を偽っても自分の学びを活かし、女性の社会活動を実現しようとした李良傳の事情を、崔恩喜や黄信徳などは理解していたのであろう。『祖国を取り戻すまで』や『韓国女性独立運動史』で、李良傳の活動遍歴や、金柏枰との関係について、曖昧な書き方になっていたり、モザイクがかけられて矛盾点や不可解な点が多くなっているのは、李良傳の生き方への「配慮」だったのかもしれない。

 

  エピローグ

 昨年(2023年)8月15日の『韓国日報』は、警察庁提供の写真を掲載して「独立運動有功警察官」として李良傳を紹介している。生没年は、依然として「1911年〜未詳」となっているが…。警察庁としてはこれは変更できないかもしれない。

 金柏枰は、1990年にアメリカで逝去した。2009年に国外独立有功者の一人として遺骨をアメリカから韓国に移送し、大田テジョンの国立顕忠院ヒョンチュンウォン墓地に埋葬された。ただ、2020年3月には、一部マスコミで金柏枰がドイツでナチの医学研究に協力したのではないかという疑義が提起されたこともあった。

 

 李良傳は、日本による植民地統治下の朝鮮で3・1運動に参加し、その後日本に渡ってハングルの女性雑誌を刊行、東京での3・1運動一周年行事では警察署長を殴って1週間勾留された。その後、朴烈・金子文子の救援活動にも関わり、日本の婦人参政権獲得運動の活動にも加わっていた。明治大学の法科専門部女子部への入学、そして法学部への編入学は、その女性の権利獲得運動の延長線上にある実践だったとも言えそうだ。

 その間の金柏枰との関係も気になるところだが、あくまでも資料をもとにした推測の域を出ない。

 解放後の韓国における活動からも、啓蒙や教育よりも自らの実践活動を優先するところに重きを置いた生き方を、李良傳は最後まで貫いたのかもしれない。

 

(完)

 

このあと、二つ新しい資料が出てきて「ドラマ「虎に翼」時代の李良傳(補遺)」をアップしました。合わせてお読みください。

 

 

 

 

 

 

  • 「虎に翼」時代の朝鮮女子学生
  • 李良傳イヤンジョンの経歴資料
  以上は(3/1)
ここから
  • 3・1独立運動、そして東京へ
  • 3・1独立運動一周年
  • 朴烈パックヨルの救援活動と金柏枰キムペクピョン
ここまで
  以下は(3/3) に続く
  • 日本での「婦選運動」
  • 明治大学女子部入学・法学部編入
  • 解放後の李良傳
  • エピローグ

 

  3・1独立運動、そして東京へ

 李良傳イヤンジョンは、1900年に全羅北道全州で生まれ、その後一家は京城に引っ越した。何らかの事情で2〜3年遅れで京城女子高等普通学校(女子高普)に入学し、1919年3月に卒業見込みだった。

 

 1919年1月に高宗コジョンが逝去すると、日本政府は3月3日に李太王(高宗)の国葬を京城で行うことを公表した。多くの人が集まる国葬前のタイミングを好機として、朝鮮の宗教指導者や独立運動家、学生などが、独立宣言書を配布して街頭デモを計画した。自宅通学だった李良傳は、全羅南道の麗水から上京して京城高等普通学校に通っていた金柏枰キムペクピョンから前日にこの計画を知らされた。京城女子高普の寄宿舎(現在の憲法裁判所のところ)にいた崔恩喜などの地方出身者はすでに情報を共有していたのであろう。

 

 

 

 3・1運動の前夜、専門学校の朝鮮人学生や普通学校の生徒たちは、謄写版で作成した独立宣言書をそれぞれ運搬・分配して、翌日学内や街頭で配布すべく周到な準備をしていた。3月1日だけでなく、3月3日の国葬後の3月5日にもデモが予定されていた。それに向けては、警察に拘束された金柏枰に代わって李良傳も謄写版での配布物の作成に加わった。3月5日のデモで、李良傳は腰に重傷を負い、一旦京城を離れて全州チョンジュで怪我の治療をした。逮捕・勾留されていた金柏枰は、11月6日になって京城地方裁判所で保安法違反、出版法違反で懲役10ヶ月を宣告されたが、他の71名の被告とともに控訴。しかし、1920年2月27日に控訴は棄却されて服役した。崔恩喜は「金柏枰は、その年の11月の公判で無罪釈放となったので、李良傳は金柏枰と共に留学のため東京に旅立った」と書いているが、これは記憶違いだ。そのように間違うほど、金柏枰と李良傳とは東京で親密な関係にあったとも思われるが…。

 

 李良傳は、1919年秋に単身で東京に渡った。東京での最初の活動は、ハングルでの女性雑誌の出版だった。日本の警保局保安課の1920年6月30日調べの「朝鮮人概況」に、李良傳が雑誌『女子時論ヨジャシロン』を1920年1月に発刊したことが記録されている。

 

 

 保安課の資料には「横濱ニ於テ發行」とあるが、実際の発行人は東京本郷区元町の李良傳、発行元は本郷区東竹町の女子時論社。現在の水道橋の順天堂大学とその近くである。印刷を行った横浜の福音印刷は、キリスト教系の印刷会社でハングルの活字があって組版もできた。これ以降も朝鮮語の書籍の印刷実績がある。

 

 『女子時論』は李良傳個人の雑誌ではなく、編集方針を決めて原稿を集めて印刷・製本をして刊行された雑誌で、李良傳が東京に来る前から組織的な作業が進んでいたものとみられる。

 

 

 後日、1955年12月のことだが、北朝鮮で南朝鮮出身の大物共産主義者朴憲永パクホニョンの粛清裁判が行われた。この時の判決文の中にこの『女子時論』のことが出てくる。

被告朴憲永は、1919年頃、ソウルで雑誌「女子時論」の編集員を務めていた時に、同雑誌を主幹する親米分子車美理士チャミリサとキリスト教宣教師として延禧専門学校の教員(後に校長)を務めていたアメリカ人アンダーウッドとの親交を通じて崇米思想を抱くようになり···

林敬碩『而丁 朴憲永一代記』2004

 朴憲永は、3・1運動の時は、金柏枰と同じ京城高等普通学校に在学中だった。『女子時論』は、日本の植民地時代の朝鮮における女性解放運動の先駆者の一人とされる車美理士が主幹し、朴憲永はその編集員だったという。李良傳も編集員であったのかもしれない。3・1運動後の京城での印刷・発行を断念して日本で刊行することを李良傳に託した可能性もある。この雑誌は、1921年6月の第6号が4月23日に発売頒布禁止処分になって(『東亜日報』1921年4月26日)廃刊となった。

 

 朴憲永の裁判は「粛清」という特殊性もあり、裁判記録に記された過去の事実関係をそのまま信じることはできないが、李良傳が朝鮮の独立だけでなく、女性の権利拡大や地位向上などに強い関心を持ち、日本に渡る前から具体的な活動にも関与していたことの証しにはなるだろう。

 

  3・1独立運動一周年

 1920年3月1日、3・1運動1周年の日に合わせて、東京の朝鮮人留学生約100名が神田の中華民国青年会館に集まった。しかし、出動した警察隊によって解散させられ、一旦は解散したが、午後2時に日比谷公園に集まり屋外集会を開いた。ここで参加者のうち53名が日比谷署に検束されたが、そのうち女子学生2名が抵抗して増田署長を殴ったとして拘留7日間の処分を受けたことが『東京日日新聞』に報じられている。上海の大韓臨時政府の機関紙『独立新聞トンニップシンムン』は、その二人が黄俊徳と李良傳だと伝えている。黄俊徳は、黄信徳ファンシンドクの誤記である。

 

 

 黄信徳は、1915年に平壌ピョンヤン崇義スンウィ女学校を卒業して1918年12月に日本に渡り、朝鮮での3・1独立運動の時は東京の千代田高等女子校に在学していた。1920年3月に日比谷公園で拘束された後、高等女学校を卒業して1922年に日本女子大学社会事業学科に入り1926年3月に卒業した。東京では李良傳とも一緒に活動していた。1926年に朝鮮に戻り、京城で『時代日報』『中外日報』の記者となり、その後、女性の教育問題に取り組んだ。京城家庭女塾を運営し、解放後は中央チュンアン女子中学・高校と秋渓チュゲ芸術専門学校(現:秋溪芸術大学校)を建てた。

 

 この3・1運動1周年の日比谷での事件の2年後、京城で発刊されていた『毎日申報』の1922年2月23日付の紙面に下関発で「下関署に捕えられた女子学生」という記事が掲載された。

 

下関署に捕えられた女子学生 独立運動の宣伝かと取り調べ中

20日午後8時50分に下関に到着し下車したツイードの洋服にブーツを履いた朝鮮人女学生一人を、東京の淀橋警察署からの電報で捜査していた下関警察署の係官が見つけて本署で秘密裏に取り調べ中だという。聞くところによれば、彼女は慶尚北道キョンサンプット出生の李大権イデグォンの次女で、東京女子大学2年の李良傳という女学生。去る19日午後、世の中が嫌になったので自殺すると書き残していなくなり、帝国大学2年生に在学中の兄の李某氏からの保護願いが出されて探していたものだが、同女学生は過激な思想があって警察の取り調べにも黙秘したり悪態もついている。普通の学生とは思想が異なり、独立運動の宣伝をするかもしれないということで、警察では秘密裏に厳重に取り調べ中だという。

 朝鮮総督府の朝鮮語の機関紙の役割を果たしていた『毎日申報』が、独立運動との関わりが疑われるとはいえ、なぜ東京の一女子学生のことを下関発で記事にしたのか疑問だが、この記事には李良傳のいくつかの新しい情報が盛り込まれている。李良傳は慶尚北道出生の李大権の次女で、東京女子大学の2年生。兄が東京帝国大学2年生に在学中で、書き置きを見つけて警察に保護願いを出したとなっている。だが、この記事の人的事項に関しては、上掲の経歴資料との矛盾点が多い。『韓国女性独立運動史』には「全羅道出身」の「無男独女」とあるのに対して、『毎日申報』の記事では「慶尚北道李大権」の「次女」となっている。また、保護願いを出したのが「帝国大学在学中の兄」という点も「無男独女」と矛盾している。出自の情報はあまり当てにならない。東京女子大も、東京の女子大という可能性もあるが、この時はまだ明治大学に通っていたのではなかった。
 

 この時期が李良傳が精神的なトラブルを抱えていたという時期なのかもしれない。日本女子大学社会事業学部に在学していた崔恩喜は、『祖国を取り戻すまで』に、「李良傳は金柏枰の保護の下で学業を続けたが、一時期は精神を病んで…」と書いている。この記事にある「精神を病んだ」のと関連がありそうだ。ただし、この新聞報道が出た時期には金柏枰はまだ日本には来ていなかった。

 

  朴烈の救援活動と金柏枰

 金柏枰キムペクピョンは、3・1独立運動の時に逮捕され、翌年2月に懲役10ヶ月の実刑が確定して西大門刑務所で服役した。

日帝監視対象人物カード

 

 1920年4月28日に出所した後、実家のある全羅南道チョルラナムド麗水ヨスに戻って、退学させられた地元青年などを糾合して「マットップ会(合手会)」を立ち上げてその会長となり、地方の青年や女性を対象にした啓蒙運動を展開した。1923年6月22日には、麗水青年会館で開かれた青年討論会に参加していることが『東亜日報』の1923年6月27日付け記事で確認できる。従って、金柏枰が日本に渡ったのはこれ以降のことであろう。

 

 1923年9月に関東大震災が起きた。関東に居住していた多くの朝鮮人、それに内地人の社会主義者や地方出身者が虐殺されたが、李良傳の周辺の朝鮮人留学生にはその虐殺の魔手は及ばなかったようだ。

 

 この震災直後に、朴烈パクヨルが金子文子とともに天皇の暗殺を企てたとして逮捕される事件が起きた。9月3日に予防検束で拘束され、翌1924年2月15日に爆発物取締罰則違反で起訴されたが、この拘束された時期に、東京に残っていた朝鮮人留学生たちは、朴烈の支援活動を行なった。「大逆罪」の容疑に切り替えられるまでは支援活動もさして難しくなかったのだろう。

 

 『祖国を取り戻すまで』の「第32章 東京での足跡」「勾留された朴烈への支援活動」で、崔恩喜は次のようなエピソードを紹介している。

 朴烈が勾留された時、彼の支援活動をしたのは東京の朝鮮人留学生だった。男子学生たちも様々な形で資金を工面したが、女子学生たちは朴順天、黄信徳、韓小濟ハンソジェなどを中心にハンカチを作って販売した。東京留学生運動会の売上高は大きな収穫をあげた。ハンカチは誰にでも必要なものなので、少し無理をしてでも、また多少値段が高くても、寄付するつもりで誰彼となく1ダース、半ダースと現金で買って売切れになったという。その収入は大そうなもので、かなり長いあいだ拘置所の朴烈への差し入れをまかなうことができた。

 この留学生運動会が縁になって後日結婚にまで至ったエピソードがある。任鳳淳イムボンスンと黄信徳の二人は留学生運動会の役員として一緒に活動していた。初対面から印象に残り、互いに好感を持った。それ以前にも、キリスト教青年会館でハンサムな青年が黄信徳ににっこり笑いかけたことがあった。その時、その青年はカスリの着物を着た早稲田大学専門部の学生だった。黄信徳が自分の友達に、

良傳ヤンジョン! このあいだ礼拝堂で若い男の子が私を見てにっこり笑ってた」

と言った。自分には熱愛する恋人がいた李良傳は、

「信徳姉さんには恋愛はできないよ。 4〜5年後には恋愛が分かるかもしれないけど。 信徳姉さんは若年寄りだからね…」

とからかったというのだ。黄信徳は、日本女子大学を卒業して帰国し、『時代日報』『中外日報』の記者を経て、実践シルチョン女子学校の教師として就職してから、当時『東亜日報』の社会部記者になっていた任鳳淳との恋がついに実って結婚した。

 同じ書物の李良傳を紹介した部分では、特に脈絡もないまま「金柏枰はドイツに渡って医学博士号を取り、アメリカで暮らしている」と、わざわざ金柏枰に言及している。

 

 さらに、『韓国女性独立運動史』(1980)にも、

李良傳の配偶者である金氏は名門の家の出で、大きな志を抱いてドイツに渡って医学を専攻し、生涯独身で暮らした。解放後には米国に渡って、蓄えた財産で老人福祉機関を設立し、奉仕活動をしている。 金氏は彼らの一人息子とその家族を数回にわたってアメリカに呼び寄せたことがあり、現在は80歳を越えて健康が優れないながらも老人福祉事業を運営している。

との記載がある。ドイツに行った「配偶(原文は배필:配匹)」の「金氏」が、金柏枰であることは間違いない。そして、『韓国女性独立運動史』に「金氏は彼らの一人息子とその家族を数回にわたってアメリカに呼び寄せたことがあり」とあることから、李良傳と金柏枰との間に子供がいたことを示唆している。

 

 その金柏枰が、いつ、なぜ、どのようにして日本からドイツに行ったのかはわからない。ただ、1925年11月21日付の『朝鮮日報』の「在ドイツ高麗学友」という記事には、生物学を専攻する金柏枰の名前が出てくる。

 

 

 従って、1924年から1925年の前半に、金柏枰はドイツへの留学を実現させたのであろう。1919年の3・1運動で拘束されて有罪となった金柏枰は、学歴としては京城高等普通学校中退で、日本での高等教育機関への進学は難しかった。李良傳がシングルマザーになることを決意したのもこの頃なのであろう。

 

 その後、金柏枰は1930年代になってベルリン大学で生物学と医学で博士号を取った。その間、在独留学生の金柏枰の消息は『東亜日報』や『朝鮮日報』でも伝えられている。ただ、李良傳と連絡を取り合っていたのかどうかは資料や証言では確認できない。

 

(3/3)に続く