一松書院のブログ -21ページ目

一松書院のブログ

ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

  • 「閔妃」と「明成皇后」
  • 乾清宮
  • 王妃殺害の目撃者
  • サバチンの展示会

 

 1895年10月8日、朝鮮駐在特命全権公使であった三浦梧楼の主導の下、日本の官僚や軍、いわゆる「壮士」らが景福宮キョンボックンに乱入し、高宗コジョンの王妃を殺害する事件が起きた。日本では、「閔妃暗殺事件」「閔妃殺害事件」として知られ、韓国では、事件が乙未年に起こったため、「乙未ウルミ事変」と呼ばれる。

 この事件を扱った日本語の著作物としては、この2冊がある。

  • 角田房子『閔妃暗殺―朝鮮王朝末期の国母』(新潮社 1988) 
     2024年8月 ちくま学芸文庫で復刊 解説:森万佑子
  • 金文子『朝鮮王妃殺害と日本人―誰が仕組んで、誰が実行したのか』(高文研 2009)

  「閔妃」と「明成皇后」

 1897年に、それまでの「朝鮮チョソン」という王朝名が「大韓帝国テハンジェグッ」の国号に変わった。高宗は「ワン」から「皇帝ファンジェ」となり、すでに殺害されていた高宗の「王妃ワンビ」も「皇后ファンフ」に追封され、「明成ミョンソン皇后」の諡号が与えられた。ただ、日本の植民地支配下では「閔妃びんぴ」と呼ばれ、解放後の韓国でも、1990年代までは一般にはそのまま「閔妃ミンビ」の呼称が使われることが多かった。

NAVERNews Libraryデータベースより作成

 

 高宗の王妃をモデルにして1974年にMBCで放映されたドラマのタイトルも「閔妃」だった。

 ところが、1990年代半ばから「明成皇后」の呼称が多くなる。金泳三キムヨンサム大統領による日本統治時代の事物の排除—たとえば朝鮮総督府の建物の撤去など—が影響したものとも思われる。特に、2001年5月から翌年にかけて、KBS2でドラマ「明成皇后」が放映され、好評を博した。これ以降、韓国では「閔妃」の呼称は「明成皇后」にほぼ置き換えられた。

 

 

  乾清宮

 王妃殺害事件の現場となった乾清宮コンチョングンは、併合以前の1909年に撤去されていた。

 

撤去前の乾清宮(北闕図形より)

 

 その後更地になっていたが、植民地支配末期の1939年5月になって総督府美術館がここに建てられた。解放後は、その建物が美術展示場として使用され、1975年からは韓国民俗博物館ミンソッパンムルグァン、その後伝承工芸館チョンスンコンイェグァンとして使用された。

 

 

 1995年の旧朝鮮総督府庁舎の取り壊しを契機に、景福宮の大々的な復元計画が建てられ、乾清宮復元のため、総督府美術館として建てられた建物も1998年に撤去された。この建物の東側に、李承晩イスンマン政権時代に建てられた「明成皇后遭難之地」の石碑と朴正煕パクチョンヒ大統領名の入った「明成皇后殉国崇慕碑」、それに日本人が襲撃したときのイラストが掲示された東屋あずまやがあったが、乾清宮復元工事が始まる2004年に見られなくなった。

 

 
 2007年に復元工事が完成し、2010年からは一般に公開された。現在は建物の内部にも入れる。ただ、復元工事前にあった王妃殺害関連の碑石や東屋はなくなっている。

 


 

  王妃殺害の目撃者

 この事件を目撃した二人の西洋人がいた。一人は、1888年から侍衛隊シウィデの軍人の訓練にあたっていたアメリカ人のW・M・ダイ(William McEntyre Dye)であり、もう一人は、1883年に建築技師として朝鮮にわたったロシア帝国のウクライナ人アファナシ・イバノビッチ・セレディン・サバチン(Афанасій Іванович Середін Сабатін)だった。

 

 サバチンは、開化期の朝鮮で、仁川インチョン海関ヘグァン庁舎、世昌洋行セチャンヤンヘンの社屋、ロシア公使館、徳寿宮トクスグン重明殿チュンミョンジョン静観軒チョングァンホンを設計し、独立協会が建てた独立門トンニンムンの設計も手がけた技師なのだが、1895年10月の王妃殺害事件当時は、景福宮内で侍衛隊の指揮にあたっていた。 

 

 この二人が、日本人による朝鮮王妃殺害の現場にいて、この事件を目撃したことは日本側も気づいていた。1895年11月7日に京城公使館の一等領事內田定槌サダツチが外務大臣臨時代理西園寺公望あてに送った「明治38年10月8日王城事變顚末報告書」には、ダイとサバチンについてこのように書かれている。

『駐韓日本公使館記錄』第8巻

此時最早日出後なりしが晨きに部下の侍衛隊に逃げられ唯一人残り居りたる米国人「ゼネラル・ダイ」は其近傍に佇立して本邦人の暴行を目撃し居りたるより或者は直ちに彼を殺害すべしと叫ぶあり又某守備隊士官は堀口に向ひ彼洋人を此処より退去せしむるは君の任務なり宜しく速かに之を他に避けしむべしと請求したるに「ダイ」曰く自分は米国人なり日本人の命に従ふ能はずと退去を肯ぜず山田烈盛も亦英語を以て之と応答を始めたりしが其後間も無くして仝人は一時現場を立去り暫あつて再び出て来り傍観せり尚ほ仝日「ダイ」と共に王宮内に宿直せる露国人「サバチン」なる者も亦隠かに之を傍観し居れりと云ふ

 また、王妃殺害に実際に加担した小早川秀雄が書いた回顧録『閔后殂落事件』にもこの二人が登場する。この小早川の回想録は限定刊行されたもので、原本は未見。『世界ノンフィクション全集』に川村善二郎による現代語訳が収録されているので、それを引用する。

 

原本はこのような体裁らしい

 壁垣の中央にかまえた中門をはいり、さらに右へまがって二つの小門を進むと、国王の便殿である乾清宮の前庭に出ることができる。九重(宮中)は雲深いというが、堅牢な城門も兵士のとつぜんの進入に破れ、宮殿の内部も志士に蹂躙されて、衰退する王国の末路はまことに憐れなものではないか。
 乾清宮に奉侍する宮官は、あけがたに銃声が城内におこるのを聞いてびっくりしているところへ、早くも志士の一団が進入してきたので、なすところを知らず、あわてふためいた。殿上の韓人はことごとく顔色を失った。このとき国王は、一室の中に起立したまい、待臣数名がかたわらにいて、大君主陛下であることを、手をあげて注意していた。志士はそれが国王であることを知ると、敬意を表して、あえて殿内に入る者なし。その右手の室はすなわち 王妃の居室で、数人の婦人が室内にいて混みあい、宮内大臣李耕植もまたその中にあって王妃を擁護していたが、王妃はこの室内において白刃のもとに崩御したもうた。李耕植は室外に走って逃げようとした時、拳銃で股を撃たれ、一刀を右肩より浴びせられて、殿外に倒れた。伝えられるところによれば、洋服を着け仕込杖をたずさえた数名の朝鮮人が、志士の中にまぎれこんでいて、この惨殺を行なったともいわれる。
 この前夜、宮中においては、閔族の俊英、閔泳駿が宮中に登用されるのを祝して、盛宴が催された。宮内大臣李耕植、農商工部協弁鄭乖夏もこの宴に列席し、夜ふけて散会したのち、ともに宮中に泊まった。王妃は、盛宴の興に疲れて眠っていたので、難を避ける暇がなく、李耕植もまた、宮中にいたため、二人とも白刃の下に非命の死をとげたのである。
 殿上殿下には白刃がひらめき、庭前には将士志士が激しく往来しているとき、一名の白人が殿下に立って、この騒擾を熟視していた。彼は宮中の御雇技師であるロシア人サバチンである。また侍衛隊の訓練をつかさどるアメリカ人ゼネラル・ダイもまた、朝鮮人の従僕一名をつれ、乾清宮庭の通路で、この混乱を目撃し、日本志士に逢うごとに、帽子をとって敬礼をおこない、白髪ほうほうたる老顔に微笑をたたえて、媚を示していた。この二人は、国王の居室からわずか三、四十間のところに、宏壮な洋館を建てて住んでいたから、すぐに出てきて、この紛争を実地に目撃したのである。彼らの証言は、後日、国際間の紛議に有力な材料となった。

 さらに朝鮮側の記録にもサバチンが登場する。王妃殺害事件の翌年1896年2月に高宗はロシア公使館に避身した(俄館播遷アグァンパチョン)。そして、ロシア公使館の中からアメリカ人のグレートハウス(Clarence  Ridgley Greathouse) を顧問として王妃殺害事件についての審判と調査を命じた。その公式の報告書がアメリカ人宣教師が発行していた『THE KOREAN REPOSITORY』1896年3月号に転載されている。その中にこのような記述がある。

 

http://anthony.sogang.ac.kr/Repository/Vol0303.pdf

P.126

 30人以上の日本人“壮士”は、リーダー格の日本人の指揮のもと、抜刀して建物に入り込んで部屋中を捜索し、捕まえた宮女たちの髪の毛を引きずり回して殴りつけ、王妃の居場所を聞き出そうとした。この様子は、国王殿下の警護に当たっていた外国人のサバチン氏を含む多くの人々が目撃した。サバチン氏はこの裁判に短時間ながら出廷し、宮殿の前庭にいた日本人将校が日本人兵士を指揮していた様子や朝鮮人宮女への暴行の模様、そして彼自身も日本人から何度も王妃の居場所を聞かれ、知らないというと殺されかねなかった状況を証言した。
 彼の証言は、日本軍の将校が中庭にいて日本人“壮士”の行為を知っていながら、日本人兵士が中庭を囲んで“壮士”が人殺しをする間、中庭の門を守っていたことを決定的に示している。
 部屋中をくまなく捜索した“壮士”は、脇の部屋に隠れていた王妃を見つけ、捕まえて日本刀で切りつけた。

  サバチンの展示会

 2020年10月19日から11月11日まで、徳寿宮重明殿で「1883年 ロシア青年サバチン、朝鮮にたる(1883년 러시아청년 사바틴, 조선에 오다)」の展示会が開かれた。1990年9月に盧泰愚ノテウ大統領が訪問先のサンフランシスコでソ連のゴルバチョフ書記長と会談し、電撃的に韓国とソ連の国交樹立が発表されてから30年。この展示会は、「韓国・ロシア修交30周年記念特別展」として開催され、駐韓ロシア大使も行事に出席した。

 

 ただ、サバチンは上述のようにウクライナ人。2022年のロシアによるウクライナ武力侵攻の後、『朝鮮日報』はこんなイラストを掲載した。

 武力侵攻前だったから開けた展示会だったとも言えそうだ。

 

 この展示会では、開化期の最も早い西洋人建築家としてのサバチンに焦点を当てると同時に、「乙未事変」の時の王妃殺害現場の目撃者としてのサバチンにも注目が集まった。この展示会には、帝政ロシア対外政策文書保管所所蔵の目撃証言記録や、事件当時の見取り図などの史料が展示された。

文化遺産ギャラリー 1883 러시아 청년 사바틴, 조선에 오다 ①

 

 2021年9月12日付『中央日報』の「ロシア人目撃者、あの日の証言」から翻訳・転載する。 

 1895年10月7日から8日にかけての夜、王宮にはダイ将軍と私がいた。何事もない平和な夜だった。午前4時、私とダイ将軍が寝ていた住居に、朝鮮陸軍中佐の李甲均イガプキュンが飛び込んできた。李甲均はダイ将軍の通訳官だった。彼は息を切らして興奮した口調で、日本軍と日本人の訓練を受けた訓練隊の兵士が宮殿を包囲していると言った。私たちはすぐに衛兵所に駆けつけた。ダイ将軍は李中佐に一緒に情勢を見に行こうと言ったが、李中佐は「国王に事情を説明しなければならない」と同行を拒んだ。

 午前5時、王宮への攻撃が始まった。北東門の外から大きな声が聞こえてきた。演説をしているようだった。途切れることなく流暢に演説をしていることから、前もって練習していたことは明らかだった。演説が終わると、朝鮮人の軍から叫び声が起こった。王宮には1500人の兵士と40人の将校が配置されていたが、午前4時30分から5時までの時間帯には、250〜300人の兵士と8人の将校だけが残っていた。日本軍の射撃を受けた侍衛隊の兵士は、応戦することなく銃を捨て、軍服を脱ぎ捨て弾を抜いて逃亡した。逃亡者の群れは2方向に向い、そのうちの1つの集団はダイ将軍を道の左側から私たち西洋人が住む家の方向に連れ去った。

 約300人の兵士や王宮の使用人、そして宦官などからなるもう一つのグループが、私を王妃と女官の居所である玉壺樓オッコルの庭に連れて行った。庭には、訓練隊の兵士や日本軍の将校たちもいた。

 一人の日本人が、女官たちの髪をつかんでは外に引きずり出し、6フィート(約180cm)の高さの窓から下に投げ出していた。私が庭に立っている間、日本人たちが10〜12人の女官を窓から投げ落として殺した。女官たちは、髪をつかまれて引きずられるときも、窓から投げられたときも、一言も叫ばず、ただ黙ってなされるままになっていた。

 この15分間、私は女官たちが殺害されるのを目撃した。王妃の住まいの庭で私が行き場のないまま立ち止まっていると、興奮した様子の5人の日本人が現れた。

 一人の日本人が日本語で演説を始めた。その演説は激烈なものだった。演説が終わると、5人の日本人は再び建物の中に駆け込んでいった。しばらくすると、また叫び声を上げながら、ある女官の髪の毛をつかんで外に飛び出した。

 興奮した日本人たちは、私の襟首をつかみ、またある者は私のジャケットの袖と襟をつかんで、王妃の居場所を教えろと脅迫的な口調で迫ってきた。私の襟首をつかんでいた日本人の一人で、かなり英語が理解できる者が私に言った。

「王妃はどこにいるんだ?王妃の居場所を教えろ!」

 私は懸命に弁明して、王妃を見分けられないことを説明した。すなわち、私は王妃の顔を見たことがなく、西洋人であり男であるために朝鮮の王妃の顔を見ることができず、また王妃の居場所を知ることもない。これらを懸命に説明したが、日本人たちは私を王妃のいそうなところに連れて行った。おそらく、彼らは私に王妃の居場所を教えさせようと決心したようだった。

 ちょうどその時、日本人の指揮官が現れた。彼が現れたとき、私を連れて行っていた日本人たちは、私を放して敬礼して指揮官に私と私のことを知っている朝鮮人を指差しながら、何かを説明していた。部下の話を聞いたその日本人指揮官は私のところに近づき、非常に厳しい声で尋ねた。

「私たちは王妃を見つけることができていない。あなたは王妃がどこにいるか知らないのか?」

 私は、王妃がどこにいるかを私に尋ねることがどんなに無意味であるかを説明した。私は朝鮮の習慣と法に従って王妃を見ることができず、また王妃の居場所を知ることができないからだ。その日本人は私の説明に納得したかのように、部下に私を傷つけないように放っておけと命じた。しかし、私のことを知っている朝鮮人は、日本の兵士に何かを熱心に話していた。私は、その朝鮮人が事件の唯一の目撃者である私を生かしておくべきではないと説得していることに気づいた。

 私が王宮から抜け出たのは午前6時だった。王宮から抜け出した私は、その足ですぐにロシア公使館に向かった。午前6時30分頃に公使館に到着するとすぐに、私が目撃したすべてのことをベーベル公使に報告した。

 また、サバチンが描いた現場の見取り図が残されている。ハングルと漢字の書き込みは後の時点で書き込まれたと思われるが、それに関する説明は見当たらない。

 

 

 この時の顛末を、サバチンはグレートハウスの調査時に証言をして、それが『THE KOREAN REPOSITORY』1896年3月号に掲載されているのであろう。

 

 現場の地図については、1895年12月21日に京城の内田定槌領事が外務次官原敬当てに送った機密第51号の公信に付属の地図が添付され、番号を振って現場の説明をしている。

機密第51号
御参考の為め別紙景福宮即ち現王居の見取図壱葉及進達候間御査収相成度右は或る本邦人の作りたる見取図に基き尚小官か実地の見聞により修正を加へ調製したるものにして固より精確を保し難く候得共概略におては格別の誤謬の無きものと相信候図中に示せる乾清宮は10月8日前後に於ける国王陛下初め王族方の御居殿にして長安堂は国王陛下坤寧閣は王妃陛下の御居間なり又坤寧閣の裏手に当り東西に横はれる一棟は王太子及王太子妃の御居間なり而して該事変の時王后陛下は図中に示せん(1)の所より(2)の所に引出され此処にて殺害に遭はれたる後屍骸は一旦(3)の室に持込み其後夾門より持出し(4)点に於て焼棄てられたる由にて11月22日小官が王城に入りたるとき燃残りたる薪類尚(4)点に散在し其傍らには何物をか埋めたる如き形跡歴然たるを認め候
右及具報候敬具

明治28年12月21日

在京城 一等領事 内田定槌

外務次官 原敬殿

 この内田定槌の公信の添付図にはサバチンの名前はないが、「ダイ等の立ち居りし処」となっているので、青マークあたりにダイとサバチンがいたものとしたのだろう。ダイの方が軍人で侍衛隊の訓練にあたり、技師のサバチンはサポート的役割にすぎなかったから。ただ、実際にはダイが、逃亡する侍衛隊の兵士に押されて現場から遠ざかった一方、サバチンは王宮の使用人などの集団に押されて現場の玉壺樓(王妃の居所坤寧閤にあった楼閣)の前庭まで行くことになり、間近に目撃することになった。内田定槌は地図にマークした時点ではそうした経緯を知らなかった。

 


玉壺樓(学習院大学東洋文化研究所蔵

 

 このように、史料を突き合わせていくと当時の現場の様子や、王妃の殺害に日本の官・民がどのように関わっていたかが浮き彫りになってくる。

 


 

 もう2年以上経ったが、2021年11月に「閔妃暗殺」に関する新たな史料発見のニュースが報じられた。王妃殺害の実行グループの一員だった領事官補堀口九万一くまいちが、事件の翌日に郷里の漢学者武石貞松に宛てた書簡が発見されたのである。記事によれば、

進入は予の担任たり。塀を越え(中略)、漸く奥御殿に達し、王妃を弑し申候

存外容易にして、却てあっけに取られ申候

などの記述があるという。堀口九万一は領事官補だから11月7日に「王城事變顚末報告書」を東京に送った一等領事內田定槌の部下に当たる。日本の官民が一体となった隣国朝鮮の王妃殺害事件だったことを如実に示すものである。

 

 パーシヴァル・ローウェル(Percival Lowell)が1883〜84年に朝鮮で撮影し、アメリカのボストン美術館がホームページで公開している写真についてはすでにブログで紹介した。

 

 ここでは、ローウェルの宿舎とソウルでの生活の一端、通訳や食事について見てみたい。


 ローウェルは、1883年の12月末にソウルに到着し、齋洞チェドン統理交渉トンニキョウソップ通商事務トンサンサム衙門アムンの建物に案内されここを宿舎とした。この宿舎の前を撮ったと思われる写真が残されている。

 

 ボストン美術館のキャプションには次のようにある。

The street ashes leading to the Blue Unicorn Valley. My own house on the left, brushwood carrier in foreground.

 「The street (of) ashes」とは、斎洞の「斎(재)チェ」を「灰(재)チェ」とかけてこれをasheと英訳したのかとも思われるが…。この道をまっすぐ北に上っていくと当時は翠雲亭チウンジョンがあった。現在の「北村ブクチョンヒルズ」のあたりだろう。この翠雲亭の直下に「青麟洞天」と刻字された岩があり、これは今も残っている。「青い麒麟」すなわちBlue Unicornである。

 


2008jsl님의 블로그より

 

 従って、この写真のキャプションの意味するところは、

青麟洞の渓谷に続いている斎洞の通り。左側が私の宿所で、前には薪を運ぶ人がいる。

となる。統理交渉通商事務衙門は、欧米や日本など非華夷世界の国々との外交通商関係を取り仕切る役所として、1882年に斎洞の閔泳翊ミニョンイクの旧宅に置かれた。現在の憲法裁判所のところがその場所で、その前から北岳山プガクサンを見上げると山陵がローウェルの写真とほぼ一致する。

 

 

 ローウェルは、宿舎となった統理交渉通商事務衙門の建物について『Chosön, the land of the morning calm』に次のように書き残している。

 長い旅は終わった。私は地球の反対で私の住まいとして用意された建物の敷居に立った。すでに敷居を二つ越えてきたが、さらにいくつかの敷居を越え、曲がりくねった迷路を進み、最後に短い階段を上って、ようやく立派な部屋に辿り着いた。その部屋で私は座るように勧められた。そこにはヨーロッパ風の椅子とテーブルがあった。後で分かったのだが、これらは少し前に国王殿下に贈られたもので、王宮から家具としてここに送られたものだった。接待係は、ヨーロッパ製のビスケットの箱を取り出し、発泡酒をいくつか開けた。皆が温かく迎えてはくれたが、暖房はなかった。私は座ったまま笑顔で震えていた。親切な接待係は寒さには無関心のようだった。後から彼らの服を着てみたときにその理由が分かった。すぐにお茶が出てきて、床下の暖房にも火が入った。しかし、飲み物が冷めて飲めるようになるまで、そして床下の暖房の温もりが感じられるようになるまで、長く待たなければならなかった。
 スライド式の扉は開け放たれており、部屋の温度は上がらなかった。翌日になって私がこの家の主人として振る舞えるようになってから、扉は閉めておくべきものだと私は訴えた。私の世話を命じられた人々は、そのようにするとは答えたものの、それがうまくいくとは思っていなかった。彼らは、使用人たちが「主人の言うことに従う習慣がない」ので、彼らにそれをやらせることは難しいのだと言った。朝鮮では、扉は閉めるためではなく開けるためにあるということも、落胆させられる事実なのだ。召使いたちは、名ばかりの召使いたちである。
 室内暖房がうまくいって、私が滞在するつもりになりさえすれば私の住居となるはずのこの広々とした家の中を案内された。それは、内側にいくつもの部屋があり、外側からはひと続きの家屋に見える建物だった。それは外交のための役所の迎賓館と呼ばれていた。これは新しくできた呼称だった。以前は、何人もの朝鮮の有力者の住まいであったし、最後は現在の王宮の寵臣である閔の屋敷だった。建物と同じくらい広い庭園や中庭があり、自分の住まいの中で自分が迷子になってしまいそうになった。

(1888年版 p.80)

 到着したのは陽暦の12月末。屋内でも相当に寒かったようだ。

 

 このローウェルの朝鮮訪問には、英語-日本語の通訳として宮岡恒次郎が同行していたとされている

※高田美一「宮岡恒次郎とパーシヴァル・ロウエル・エドワード・モース,アーネスト・フェノロサ : 明治東西文化交流の一面」『立正大学文学部論叢』97号(1993.3)
정영진「미국 보스턴미술관 소재 로웰의조선 사진 설명문의 오류와 정정 방안」『문화재』53巻2号(2020.6)

 

 宮岡恒次郎は、1865年生まれで10歳から東京英語学校で英語を学び、10代でエドワード・モースやアーネスト・フェノロサの通訳を務めた。その関係で、ローウェルが朝鮮の報聘使ポビンサ一行をエスコートして訪米する際には、宮岡がローウェルの私設秘書兼通訳としてアメリカに同行した。さらにその後のローウェルの朝鮮訪問にも宮岡が同行したといわれており、『Chosön』の前書きにMiyaoka Tsunejiroへの謝辞がある。

 

 朝鮮の報聘使一行がアメリカ到着後に撮った記念写真に宮岡恒次郎も写っている。左から3人目、ローウェルの左後ろに立っているのが当時東京帝国大学法学部の学生だった宮岡である。その後、1887年に東京帝大を卒業した宮岡は外務省に入省して外交官になった。

 

前列左からローウェル・洪英植ホンヨンシク・関泳翊・徐光範ソグァンボム・呉禮堂(中国語通訳)、後列左から玄興澤ヒョンフンテク・宮岡恒次郎・兪吉濬ユギルチュン崔景錫チェギョンソク高永喆コヨンチョル邊焼ピョンヨン

 

 当時は、朝鮮王朝にはまだ英語の通訳がおらず、ローウェルには日本語の通訳が付いた。  『Chosön』の記述から、釜山上陸時から東莱府の「倭学訳官」が同行したのではないかと思われる。ローウェル自身も日本語は多少はできたようだが、通常のコミュニケーションは、通詞が朝鮮語を日本語に訳したものを宮岡が英語でローウェルに伝えるというものだったのだろう。

 

Korean Interpreters into Japanese,

 

 ローウェルの世話を担当したのは崔景錫と李時濂イシリョムの二人だった。崔景錫は、武官として報聘使にも随行しており(前掲写真後列中央)、李時濂は、統理交渉通商事務衙門の司官として世話役を担った。

 

Korean Gentleman

 ローウェルは『Chosön』のまえがきで、宮岡恒次郎の名前とともにこの二人の名前を挙げて謝辞を贈っている。

 

 そして、本文中では崔景錫と李時濂について次のように言及している。

 二人の役人が私の世話をするために任命された。その一人はこの屋敷の一角に住んでいた。彼は将官級の軍人で、私の護衛として旧知の間柄だった。彼の役割は、住居の責任者として財務関係全般を取り仕切った。彼はこの世で最も善良で優しい人物であり、非常に物静かで細やかに配慮していた。彼が様子を見に来た時にはいつも穏やかな満足感が漂っていた。もう一人は外務官僚の書記官だった。彼の仕事は定期的に私を訪ねることだった。ほぼ一日に一回、私の前からなくなったものがないかを確認し、それを補充するように手配した。サクァン(それが彼の肩書だった)は最も有能な民間伝承学者だった。生まれつき話し上手な彼は、世話係の仕事に最適であった。他の国であれば宴会で人々を楽しませる存在になっていたであろう。彼が披露する物語や伝説は、それだけで一冊の本になるほどだった。自分が語ることすべてを信じていたという一点を除いて、彼は朝鮮における完璧な神話学者だった。

(1888年版 p.84)

 

 ローウェルが撮った写真の中にもう一枚興味深い人物写真がある。

 

My Japanese cook dressed in Korean clothes. A corner in one of the narrow streets 

(狭い通りの一隅に韓服を着て立つ私の日本人コック)

 この日本人コックに関して、ローウェルは『Chosön』で次のように述べている。

 私は、この地の住民が創意工夫で料理した「発明品」を食べ、コックがうまく料理できたと思う「実験的食べ物」を味わった。そのコックは、自分の知らない材料や奇妙なものを手に入れては、それを試した。その才能は非常事態に対応するのには長けていたというべきかもしれない。すでに述べたように、そのコックは、私のために朝鮮人が日本から連れてきた長崎出身の男だった。初めはホームシックにかかったように、いつ出航するのかと何度も尋ねた。しかし、日本人は抜け目がなかった。実は故郷に帰りたかったのではなく、ソウルで最初の外国料理店を開くという野心的な計画を立てていて、我々の出発を心待ちにしていたのだ。そのことを彼は私には話をしないまま、数ヶ月後に海岸で別れの挨拶をする際に、私にその決意を告げた。そこで私は彼を済物浦に残すことにした。その後、彼がその計画を実行したのか、もし実行していたとしても、その年の12月に起きた日本人の虐殺事件を生き延びることができたのか、私は彼の消息を聞くことはなかった。ただ、彼は私にとっては良い使用人だった。

(1888年版 p.83)

 この写真で韓服を着ているのは、ローウェルが「親切な接待係は寒さには無関心のようだった。後から彼らの服を着てみたときにその理由が分かった」と書いているように、韓服の方が防寒に優れていたからではないか。多分、長崎から持ってきた手持ちの衣服では到底朝鮮の寒さには太刀打ちできなかったのだろう。

 

 ローウェルが、この長崎から来た日本人コックを残して朝鮮を去った10ヶ月後の12月に、金玉均キムオッキュン朴泳孝パギョンホ・洪英植らによる甲申政変カプシンチョンビョンが起きた。この政変では、日本の竹添進一郎公使が日本軍の守備隊を引き連れて国王の居所であった昌徳宮チャンドックンに出動した。3日後にソウルに駐屯していた清軍との間で交戦になり、金玉均や朴泳孝らは国王を昌徳宮から北廟プンミョに送り出し、日本の竹添公使や守備隊と共に日本公使館に退却した。この当時の日本公使館は、現在の雲峴宮ウニョングンの向かい側、天道教チョンドギョの中央会堂があるあたりにあり、昌徳宮の北側を迂回して、ローウェルが宿舎にしていた統理交渉通商事務衙門の前を通って死傷者を出しながら公使館までたどり着いた。一方、洪英植は国王に随行して北廟に向かい、その後清軍によって殺害された。

 

 洪英植は、訪米した報聘使の一員であり、ローウェルとも親交があった。おまけに、ローウェルの宿舎だった統理交渉通商事務衙門のすぐ北側が洪英植の居宅だった。ローウェルは、洪英植の父で元領議政の洪淳穆ホンスンモクと兄・洪萬植ホンマンシク、弟・洪正植ホンジョンシク、それに子供たちが一緒の写真を残している。洪淳穆は12月の甲申政変の後で洪英植の子供を連れて自決した。

 

洪萬植(兄) 洪淳穆(父) 洪英植 洪正植(弟)

 

 ローウェルは、洪英植についても『Chosön』のまえがきで名前を挙げている。

 

忠実な友であり、真の愛国者であり、ついには政治的殉教者となった今は亡き洪英植に感謝を捧げる。

 この政変の最中、日本勢力が甲申政変の「反乱」を起こした側に加担したとして、ソウルに在住していた日本人が朝鮮人住民の攻撃のまとになった。ソウル在住で、日本公使館まで辿り着いた34名は、日本公使館の館員・関係者、それに守備隊とともに仁川に脱出した。また、アメリカ公使館に逃げ込んだ16名も仁川まで清軍と朝鮮側に警護されて送り届けられた。騒乱の中で40人の日本人が犠牲になり、そのうち27人が民間人だった。これが、ローウェルが言及した「その年の12月に起きた日本人の虐殺事件」である。ただ、残念ながらローウェルは、このコックの名前などは一切書き残していない。

 

 この時の民間人犠牲者の中に、長崎出身者が二人確認できる。一人は、長崎の船大工町出身の平民・友田亀次郎、もう一人は長崎魚町出身の平民・井奈田金三である。

 

 ローウェルのコックは、この二人ではなく、ソウルのどこかで初めての洋食屋を開業したのかもしれない。そうであってほしいと思うのだが…。

 1883年〜1884年にパーシヴァル・ローウェル(Percival Lowell)が朝鮮で撮影した写真が残されている。

 ローウェルは、朝米修好通商条約の締結後、朝鮮がアメリカに派遣した報聘使使節団に参賛官として同行し、その後1883年12月末から1884年3月中旬までソウルに滞在した。甲申政変カプシンチョンビョンが起きる数ヶ月前である。ローウェルはカメラを携行していて、80枚以上の写真を撮影した。そのうちの61枚がアメリカのボストン美術館に所蔵されており、同館のホームページで閲覧できる(時々接続できなくなるようだが…)。

 

 ローウェルはアメリカに帰国後、朝鮮での体験をまとめた『Chosön, the land of the morning calm ; a sketch of Korea(朝鮮 静かなる朝の国)』(Lowell、1886)を出版し、その初版本にはこの写真のうち25枚が掲載されている。

 1888年に出版されたこの本の第3版がLibrary of Congressで公開されているが、第3版には写真は5枚しか収録されていない。

 


 ボストン美術館所蔵の写真のうちの45枚を使ってナレーションを入れた動画がYouTubeにアップされている。ここでは、そこで使われている写真とその解説を日本語訳で掲載する。

 

 

 

 

アメリカの実業家で天文学者でもあったパーシヴァル・ローウェル(Percival Lowell)は、1883年、日本に滞在していた時に朝鮮からやって来た報聘使一行に出会った。朝米修好通商条約締結でアメリカに向かう使節たっだ。ローウェルは駐日アメリカ公使の依頼でこの使節一行をアメリカまで引率する役目を引き受けることになった。

前列左からローウェル、洪英植ホンヨンシク閔泳翊ミニョンイク除光範ソグァンボム

ローウェルの斜め後ろは日英通訳の宮岡恒次郎

    ローウェル 除光範
閔泳翊           洪英植

 

報聘使から報告を受けた高宗は、ローウェルの労をねぎらって朝鮮に招待し、ローウェルは1883年12月20日に朝鮮を訪れて3ヶ月ほど滞在した。この時に撮影した写真が朝鮮王朝末期のソウルの様子をありのままに伝えている。

 

ローウェルはこの時の滞在経験をもとに『朝鮮 静かなる朝の国』と題した本を著した。

 

 

済物浦チェムルポからソウルに行く途中にある麻浦マポナル。西の方を眺めたアングルで、遠く楊花ヤンファナルの蚕頭峰チャムトゥボンが見える(左側)。峰の形が蚕の頭のような姿をしていることから蚕頭峰と名付けられていたが、1866年の丙寅迫害の時、カトリック信者がここで頭を切られて処刑されたことから、切頭山チョルトゥサンとも呼ばれる。

 

麻浦の南には汝矣島ヨイドの砂浜が広がっている。中央の低い山は羊馬山ヤンマサンあるいはヒツジウマ山と呼ばれていた。馬や羊を飼育していたのでその名がつけられた。現在はこの山は削られ国会議事堂が建てられている。

 

麻浦から北の阿峴アヒョンの方向を眺めたアングル。中央左手に見える孔徳洞コンドクトンの丘の麓に黒く見えるのが興宣大院君フンソンテウォングンの別荘である我笑亭アソジョン、右側の丘陵の向こう側に都城がある。

※麻浦の淡淡亭タムタムジョン(現在の碧山ビラ(벽산빌라))からの撮影と推定される

 

現在の安国アングク駅の上の交差点から斉洞チェドン方向を眺めたアングル。ローウェルは斉洞に滞在した。この一帯は朝鮮王朝時代の両班が暮らしていたところで、今は北村プクチョン韓屋村ハノンマウルとして知られている。

憲法裁判所の前から北方向

 

ローウェルの宿舎で身の回りの世話をしていた少年がシャボン玉を吹いている。この当時、石鹸は珍しいものではあったが、購入することができた。1882年に、初めて商品化された石鹸を清国から輸入したという。

 

瓦葺きの店の前に仮建物が建てられている。店の外に売り場を出して物を売る今の店と同じようなやり方。鍾路チョンノ南大門路ナムデムンノのような通りには、このような「仮家カガ」が多かった。王の行幸があると撤去され、終わると再びこのような「仮家」が作られた。

 

品物が陳列された店の前の狭くなった路地にカッ(朝鮮式の帽子)のかぶった青年が立っている。ローウェルのために雇用された日本人コックだという。
※朝鮮側でローウェルのために日本人シェフを長崎で雇った。ローウェルが朝鮮を離れる際、この青年は西洋式食堂を開店するとして朝鮮に残った。甲申政変で無事だったかはわからない。(Lowell、1888、p.83)

 

木の実が並べられているのが印象的。ローウェルによると、柑橘類や干し柿のような果物より栗やクルミのような木の実の方が品質が良かったという。

 

帽子屋が、店の前だけでなく屋根の上にまで軍帽を並べており、軍人が列をなしている。斜めになった屋根は商品陳列棚としても役立っている。

 

ソウルの薬屋や医院はクリゲ(銅峴ドンヒョン)にたくさん集まっていた。クリゲは、現在の乙支路入口ウルチロイック明洞ミョンドン一帯にあった峠。

 

水標橋スッピョギョ広通橋クァントンギョとともに清渓川チョンゲチョンで最も通行の多かった橋。 この頃はまだ橋の欄干がなかったが、1887年に水標橋に欄干が設置された。

 

通りに人が 溢れている。国王の行幸を見物しようと集まったもので、行幸の時にはソウルの街は見物人で足の踏み場もなくなるほどだった。

 

この人たちも王の行幸を見物に来たのだろう。そこで、妙な機械を持ち歩いている西洋人を見ることになった。

 

永禧殿ヨンヒジョン入口の紅箭門ホンサルムンは、特に高くて大きい。永禧殿は、太祖テジョをはじめとする歴代の王の御真影を祀った場所で、現在の中区チュング苧洞チョドン2街の中部チュンブ警察署と永楽ヨンナク教会のあたりにあった。

 

 

永禧殿は光海君クァンヘグンの時に、太祖と世祖セジョの御真影を祀ることから始まり、哲宗チョルジョンまで計6人を祀っていた。

 

道端で穀物を干している家の前。 暗くてはっきりは見えなが、石臼(ヨンジャパンア)があるようだ。 水の天秤棒を担いだ水売りムルチャンスも見える。

ヨンジャパンア

 

道端の井戸で白髪の老人が水を汲んでいる。当時みんなが結っていたサントゥ(マゲ)を結っていない姿がもの珍しい。

 

鐘路の円覚寺址ウォンガクサジ(タプコル公園)のそばにある民家の様子。

 

南山の斜面に幼い少年が集まっている。瓦屋根の家が下に見えていて、背後には白岳山ペガクサンが写っている。クワを持った子供や飴売りの板ヨパンを首にかけた子供もいる。

 

朝鮮の仏教寺院を見たがっていたローウェルは、華渓寺ファゲサに行くことができた。 華渓寺は宗教施設としてだけでなくハイキングの場所としても人気があった。通訳を務めた尹致昊ユンチホをはじめ多くの人が同行した華渓寺への日帰り小旅行には妓生キセンも同行した。

 

親しくなったこの妓生の名前をローウェルは香り高いアヤメと記録している。しかし妓生の名前はアヤメではなく蘭だった。蘭をAillisと通訳したのだろう。これまで伝わっている写真の中で、この香蘭ヒャンナンが最初にカメラの前に立った朝鮮女性だと思われる。

 

華渓寺の境内で公演をする姿。 周りに人がいるが、一人ですべての役割と動作をする一人劇である。 ローウェルがわざわざ記録に残した木魚モゴが後ろに見えている。

목어(木魚)

 

坂の上に恵化門ヘファムンが立っている。ローウェルは華渓寺に行く途中で恵化門を通ったが、その位置が印象に残ったようだ。両側が急に切れて、足元に屋根が見え、深い渓谷からせり上がった丘に囲まれていると記録している。

정영진氏の論文によれば、手前に写っているのは弓術の練習に来た人物とその従者だという。

 

坂の下に都城外側の風景が広がっている。今でも恵化門前の東小門路トンソムンノを通ると高台になっていることが分かる。日本による植民地統治時代に敦岩洞トナムドンまで電車の路線を延長した時、恵化門を撤去して道路を削っており、元々は今よりもっと高かった。

※恵化町ー敦岩町間の電車が開通したのは1941年7月12日

 

西大門ソデムンの近く、現在江北サムソン病院があるところで撮った漢陽土城。仁旺山イナンサンに沿って城壁がうっすらと見える。

 

西大門外にあった慕華館モファグァンの近くの西池ソジ太宗テジョンの時に池を作り、開城ケソン崇教寺スンギョサの蓮の花をここに移植した。漢陽土城の内外に蓮池が3ヶ所あったが、この西池が最も大きくて蓮の花も多く、見物に訪れる人が多かった。

 

英祖の時、西池の横に天然亭チョニョンジョンを建てた。毋岳ムアクチェを行き来する官員がよくこの天然亭で宴会を開いていた。開港後、天然亭の近くに京畿監営キョンギカムヨンが置かれ、天然亭が日本公使館として提供されて「清水館チョンスグァン」と呼ばれた。ローウェルがここを訪れた時には、壬午軍乱イモグルラン(1882年)で清水館が焼かれて、日本公使館の跡だけが残っていた。

 

南別宮ナムビョルグンは、太宗の次女慶貞キョンジョン公主が住んでいたところで、小さな姫の住居があったということから小公洞という地名がついた。壬辰倭乱イムジンウェランの時、明の将軍李如松がここに滞在し、宣祖ソンジョが明の将軍に会うために頻繁に訪れたことから南別宮と呼ばれたという。

 

南別宮は清国の使臣と接見する場所として使われたが、1883年に清国公使(正確には淸国総辦朝鮮商務)として赴任した陳壽棠も南別宮に滞在した。赴任する直前に清国の公使館が完成していたにもかかわらず南別宮を居所とした。清国は1884年7月に南別宮を朝鮮に返還し、のちに高宗はそこに圜丘壇ウォングダンを建てることになった。

 

景福宮キョンボックンの東門である建春門コンチュンムンと遠くに東十字閣トンシプチャガックが見える。王宮の塀沿いに三清洞サムチョンドン川が流れている。少年が立っている向かい側が、今の国立現代美術館ソウル館の場所。三清洞川は1957年に覆蓋され暗渠となった。

 

 

慶会楼キョンフェルでは、外国の使臣を迎えたり、国の慶事の時に宴が開かれた。

 

慶会楼の橋の横の門を過ぎると狭い道を挟んでもう一つの塀があり、その向こうに康寧殿カンニョンジョンがある。慶会楼の塀は日本の植民地時代に取り壊されたが、今は復元されている。

 

 

慶会楼の2階から泰元殿テウォンジョン方向を望む。泰元殿は景福宮を再建した際、太祖の肖像画を祀るために建てられた。植民地統治下で取り壊され、2005年に復元された。

 

景福宮の裏門である神武門シンムムンを出ると青瓦台チョンアデの前に出る。警護の問題で長い間閉ざされていたが、2006年に開放された。

 

昌徳宮チャンドククンの後苑の芙蓉池プヨンジ越しに宙合楼チュハムヌと正門の魚水門オスムンが見える。宙合楼は正祖の時に建てられた2階建ての楼閣で、1階は奎章閣キュジャンカク、2階は宙合楼と呼ばれている。

 

 

昌徳宮の後苑、演慶堂ヨンギョンダンの中の濃繡亭ノンスジョンで撮影された高宗。高宗が初めて写真を撮られたのは1884年3月10日。立った姿勢、座った姿勢、遠景から撮ったものの3枚の写真が撮られた。

 

現在残っている高宗の写真はかなりの数にのぼるが、初めて高宗をカメラに収めたのはローウェルだった。

 

ローウェルは王世子だった李坧イチョク(純宗)の写真も撮った。この日、李坧は10歳の誕生日から5日目だった。

 

領議政ヤンウィジョン洪淳穆ホンスンモクは、報聘使の一員だった洪英植の父親。 洪英植が甲申政変に参加して失敗すると、孫と共に自決した。

 

閔泳穆ミンヨンモクは当初は開化政策に賛同していたが、閔氏戚族勢力の頭目として浮上し、権力の核心人物となると急進開化派と対立し、甲申政変の時に殺害された。

 

ローウェルがソウルに滞在した際、彼の世話をした官吏。 外衙門官吏の李時濂イシリョム(左)は朝鮮を訪問する外国人のサポートを担当し、報聘使で従事官を務めた崔景錫チェギョンソク(右)はローウェルの宿舎の使用人を管理した。

 

輿に乗っているのは初代アメリカ公使ルシアス·フート(Lucius Harwood Foote)の夫人ローズ。朝鮮とアメリカは1882年5月に朝米修好通商条約を締結し、翌年アメリカから政権公使フートが赴任した。

 

メレンドルフ(Paul Georg von Möllendorff)はドイツ出身の外交官で、朝鮮で外交顧問として活動した。高宗は壬午軍乱の時に殺害された閔謙鎬ミンギョンホの邸宅をメレンドルフに下賜した。現在の曹溪寺チョゲサ寿松スソン公園一帯を占める大邸宅だった。

 

開港後、外国との交渉が活発になると、英語通訳官を養成するための外国語学校として同文学トンムンハクを置いた。1883年、メレンドルフが統理交渉通商事務衙門の付属機関として設立したが、3年後に育英公院ユギョンゴンウォンが設立されると、同文学は閉鎖された。