一松書院のブログ -21ページ目

一松書院のブログ

ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

  • 「虎に翼」時代の朝鮮女子学生
  • 李良傳イヤンジョンの経歴資料
  (ここまで
   以下は(2/3) に続く
  • 3・1独立運動、そして東京へ
  • 3・1独立運動一周年
  • 朴烈パックヨルの救援活動と金柏枰キムペクピョン
  • 日本での「婦選運動」
  • 明治大学女子部入学・法学部編入
  • 解放後の李良傳
  • エピローグ

 

 NHKの朝の連続ドラマ「虎と翼」で、猪爪寅子のモデルになった武藤(三淵)嘉子は、1932年に明治大学専門部法科女子部に4期生として入学し、1935年に卒業した。そしてそのまま明治大学の法学部に編入し、1938年3月に法学部を卒業した。

 

 

 1920年代の末に、女性にも弁護士資格を認める方向で弁護士法改正の動きはあったが、実際に法改正が行われたのは1933年のこと。司法科試験の受験資格は、文部省の指定する法律専門学校卒か、大学の法学部在学中もしくは法学部卒となっていた。この当時、女性が受験資格を得るためには、1929年に専門部法科に女子部を新設し、そこから法学部への編入を認めていた明治大学に進むという道しかなかった。

 

  「虎に翼」時代の朝鮮人女子学生

 1929年に明治大学が専門部法科に女子部を開設すると、多くの女性が入学した。1932年に1期生54人が卒業したが、そのうち10名は台湾もしくは中国出身の女性であった。朝鮮人女性の最初の卒業生は1933年に卒業した2期生の金貞浩キムジョンホ。ただし、法学部の卒業生名簿には金貞浩の名前はないので学部への編入はしなかったのかもしれない。この金貞浩の一年後、李良傳イヤンジョンが1934年に法科女子部を卒業した。3期生である。そして1937年には法学部を卒業している。李良傳が、ちょうど武藤嘉子の一年上の学年で同じコースを歩んだことになる。

 

 

 卒業者名簿で見る限り、武藤嘉子の同学年や1年後輩には朝鮮人は見当たらない。台湾人もしくは中国人と思われる名前はかなり目につき、これはこれで非常に興味深い。金貞浩や李良傳については、朝鮮の『東亜日報』や『毎日申報』でも報じられており、この二人が朝鮮人女子学生であったことは確認できる。

 

 すでに話題になっているように、ドラマ「虎に翼」には、朝鮮からの女子学生「崔香淑」が登場する。ただ、李良傳がそのモデルというわけではなさそうだ。なぜなら、李良傳の正確な経歴などは、日本ではもとより、韓国でも詳細には検証されていない。また、実際の李良傳とドラマの中の崔香淑とは、年齢や経歴においてかなり違いがある。

 

 とは言っても、武藤嘉子と同じ時期に同じ場所で勉学に励んでいた朝鮮女性李良傳とはどのような女性だったのかが気になる。資料を検証してその足跡を追ってみたい。

 

  李良傳の経歴資料

 6年前の2018年10月。韓国の警察庁は、日本の植民地支配下で独立運動を行なった経歴があるにも関わらず「独立有功者」として認定されていない警察関係者の資料を発掘して報勲処に審査を要請したと発表した。その中に「李良傳イヤンジョン」の名前もあった。

 

 ただ、そこで発表された李良傳の経歴には不可解な点がある。

 

写真の左から3番目が李良傳

3代目の釜山女子警察署長を務めた李良傳警部(1911年〜不詳)は、1919年、京城女子高等普通学校の生徒たちと秘密団体を結成、3・1独立宣言書などを配布する万歳独立運動に積極的に参加した。1920年3月1日、東京留学生たちの独立宣言1周年祝賀デモに参加し、日帝警察の「要監視対象」になっていた。

 『京郷新聞』以外の新聞報道でも「1911生まれ」と記されているので、誤植ではなく警察庁の報道資料がそうなっていたということ。ただ、それだと3・1運動当時は8歳ということになってしまう。これはおかしい。

 その不可解さは、李良傳の長い人生をたどることで氷解するのだが、話は長くなる。しばらくお付き合いいただきたい。

 

 まず、李良傳イヤンジョンの略歴・経歴について書かれた三つの資料を紹介しておこう。

1.『大韓民国 建国十年誌』建国記念事業会(檀紀4189:1956年)

 この資料は、李良傳が1945年の解放後に在職していた女子警察在任中に作成されたもので、職場だった公安局の履歴記録が元データになったと思われる。上述の2018年の「報道資料」もこれによったと思われる。

 

 年号は、すべて檀君紀元の「檀紀タンギ」で書かれている。それを西暦に直すとこのようになる。

李良傳…本籍 ソウル 1911年12月6日生まれ 明大法学部卒 1950年釜山鉄道警察隊警備係女警主任 1952年治安局勤務 1953年慶南釜山女子警察署長

2.崔恩喜 編著『祖国を取り戻すまで(祖國을 찾기까지):1905-1945 韓國女性活動秘話』探求堂(1973)

 編著者の崔恩喜チェウンヒは、李良傳とは、3・1運動の時に京城女子高等普通学校(女高普)で同じクラスに在学していた。1919年に京城女高普を卒業し、日本女子大学社会事業学部に留学したが、中退して1924年から1931年まで『朝鮮日報』の敏腕女性記者として活躍した。解放後も言論人としてだけでなく女性運動の中心的な活動家でもあった。

 

 李良傳とは、京城女高普の時だけでなく、東京での留学時代も重なっており、この本の「第22章 三・一の足跡」で李良傳について一項を設けて紹介している。

 

 李良傳は、3・1運動の時、京城女子高等普通学校の本科最終学年だった。同じクラスの崔恩喜(著者)が主導する秘密サークル運動に2年前から参加し「校内の抗日闘争」「同胞の助け合い」「独立精神の昴揚」などの情宣と実践の先頭に立っていた。彼女は自宅通学だったので、3・1独立運動の前日の2月28日の夜になって、全羅南道麗水から上京して京城高等普通学校に通っていた4年生の金柏枰キムペクピョンから翌3月1日に民族代表33人の朝鮮独立宣言があることを知らされた。2月27日の夜、印刷された宣言書の京城府内での配布は、専門学校の学生代表を通じて各中等学校の学生たちが行うことになっていた。普成ボソン専門学校の康基徳カンキドクの連絡によって、中等学校の学生代表は2月28日夜に、33人の民族代表の一人李弼柱イピルジュ牧師が住む貞洞チョンドン礼拝堂構内に集まり、専門学校の学生代表は勝洞スンドンの礼拝堂に集まった。京城医学専門学校の金成国キムソングクが持ってきた宣言書1,500枚を貞洞礼拝堂で受け取り、中等学校の学生代表の集会場所に伝達した。京城高等普通学校の代表金柏枰は宣言書200枚を受け取り、3月1日午後に学生たちを先導してタプコル公園に向かう道すがら、通行人や商店・民家に配付した。金柏枰は、その日のデモで逮捕された。
 李良傳は3月1日、京城女子校等普通学校の女学生たちと一緒に日が暮れる頃まで万歳を叫びながら街頭行進をしたが、捕まることなく無事に帰ってきた。その翌日、李良傳は、3月5日の学生主催の万歳運動に必要な宣言書やビラを謄写するために金柏枰の同級生たちから連絡を受けて出かけた。 彼らは、こっそりやっている謄写印刷の作業がばれるのではないかと神経質になっていて、小さな物音にも驚いて謄写版を隠したりした。李良傳は、3月5日の万歳運動に参加し、無差別に振り下ろされる憲兵の銃で腰を殴られ、騎馬兵の馬の蹄に蹴られ、さらに道端に倒れたところを逃げ惑う群衆に踏まれて腰に重傷を負った。全羅道チョルラドの生まれ故郷で療養したが全快しないままだった。京城地方裁判所の予審に回された金柏枰は、その年の11月の公判で無罪釈放となったので、李良傳は金柏枰と一緒に留学のために東京に旅立った。

 1920年3月1日、100人余りの東京の留学生が日比谷公園に集まり、独立宣言1周年祝賀万歳デモを行い、53人が検束された。その中に黄信徳ファンシンドクと李良傳の二人の女子留学生もいて、日比谷警察署で1週間拘留された。その後、李良傳は金柏枰の保護の下で学業を続けたが、一時期は精神を病んで発作が起きると急に飛び起きて「謄写版、早く片付けて!早く!」と叫んでいたという。病状が悪化し、朴順天パクスンチョン朴定根パクチョングンなどが手配して海辺で療養したこともあった。金柏枰はドイツに渡って医学博士号を取り、アメリカで暮らしているという。李良傳は、東京の明治大学法学部を卒業し、解放後は釜山プサン女子警察署長、忠清北道チュンチョンプクド清州チョンジュ大学講師などを歴任した。

3.『韓国女性独立運動史:3・1運動60周年記念』3・1女性同志会(1980)

 この資料は、3・1運動の60周年を記念して、3・1女性同志会が1980年に出版したもので、独立運動史や女性運動史の研究者が資料収集や編集にあたった。出版時の3・1女性同志会の会長は上述の『祖国を取り戻すまで』の編著者崔恩喜だった。

 この本の李良傳の項目では、3・1運動への関与部分については、上掲の崔恩喜『祖国を取り戻すまで』の記述が使われている。ただ、エピソードの前後関係が変わっている部分がある一方で、生没年が「1900〜1979」と明らかにされており、李良傳に一人息子がいたことが記されている。さらに、その一人息子の父親はドイツに留学してアメリカに在住している「金氏」だとされている。さらに晩年の李良傳の様子も記されていることから、この項目の記述内容には、その一人息子からの情報が加味されていると思われる。上掲の2の資料と照らし合わせると、この「金氏」が金柏枰であることは明らかなのだが、ここでは実名は伏せられている。

 

 李良傳イヤンジョンは1900年に全羅北道全州で生まれ、男兄弟のいない一人娘で静かな生活環境で育った。京城女子高等普通学校の最終学年の時、第一高等普通学校の生徒たちと合流して3・1万歳運動に必要な宣言書およびビラを謄写版で作成して配布し、当日、パゴダ公園でのデモで、無差別に殴打する憲兵の銃台に腰を殴られたり騎馬兵の蹄で蹴られて負傷した。

 その後数年間、3月になると「謄写版を隠して!」「あっちから憲兵が来る!」などとうわごとを言うような精神錯乱が起きて苦しんだ。3・1万歳事件直後、東京に渡って療養した時、黃信德・朴順天・朴定根などが彼女を海辺に連れて行って療養させた。スコフィールド博士が奇特な行いだとして写真を撮ったこともあった。

 1920年、韓国留学生の主導で3・1独立万歳1周年記念式が日比谷公園で行なわれた際、黃信德とともに警視庁に連行・拘禁され、数週間の拘禁生活を経験した。その後、苦学生ながら東京の明治大学の法科と早稲田大学を出て、自分の専攻を生かして各方面で活躍した。朝鮮戦争の時は釜山女子警察署長となり、数年間清州大学の法科講師としても勤務した。

 李良傳の配偶者である金氏は名門の家の出で、大きな志を抱いてドイツに渡って医学を専攻し、生涯独身で暮らした。解放後には米国に渡って、蓄えた財産で老人福祉団体を設立して奉仕活動をしている。金氏は彼らの一人息子とその家族を数回にわたってアメリカに呼び寄せたことがあり、現在は80歳を越えて健康が優れないながらも老人福祉事業を行なっている。

 李良傳は、晩年は一人息子と5人の孫に囲まれて漢南洞で暮らしていたが、昨年11月に亡くなった。彼女が国家と民族のために捧げた70余年の生涯における苦難の歴史は、人よりも天がよく知るところであろう。普段は口数が少なかったのだが…

 2と3の資料に書かれた内容は、同時代の当事者の証言として有用な記述がある一方で、当時の新聞その他の資料と付き合わせると、伝聞や記憶違いに起因する錯誤、そしてその他の事情に起因する時期のズレや事実誤認があることが明らかになった。そのズレや誤記載、そしてモザイクがかけられた記述にも李良傳の波乱万丈の人生を垣間見ることができる。

 

以下(2/3)に続く

 1924年9月の「番地界入東京市拾五区区分図」の「麻布区」に「李王世子邸」の記載がある。現在の地図と重ねると、東洋英和女学院小学部の敷地がその場所にあたる。

 

 

  鳥居坂李王世子別邸

 この地図のこの場所が、1907年12月に日本留学の名目で東京に連れてこられた李垠イウンの住まいとなった鳥居坂李王世子別邸である。1912年8月6日付の『毎日申報』に次のようなキャプション付きで写真が紹介されている。

東京鳥居坂李王世子別邸

東京鳥居坂の別邸は数年前に大行天皇(明治天皇)の特別なご配慮で李王世子に下賜なされたもので、この別邸は庭園が広く木々が鬱蒼として景色がよく、李王世子はここで寝起きされながら勉学に励んでおられる

現在の東洋英和女学院小学部正門

 

 1907年のハーグ密使事件をきっかけに、韓国統監伊藤博文は高宗コジョン皇帝を退位させて李坧イチョク(純宗スンジョン)を即位させた。そして、李坧の異母弟である李垠を皇太子として擁立し、李垠を日本に留学させるよう進言。李垠は1907年12月に東京に到着した。当初、李垠は芝離宮に滞在していたが、鳥居坂にあった佐々木高行侯爵邸を改修して1911年に李垠に下賜した※。

伊藤博文と車に乗る李垠

 

 1910年に大韓帝国が日本によって併合されると、大韓帝国の「皇帝」は「王」に格下げされ、先代の皇帝の高宗は「李太王」、最後の皇帝(純宗)は「李王」、そして「皇太子」は「李王世子」とされた。

 

 李垠は、1911年9月に陸軍中央幼年学校に編入学し、その後陸軍士官学校に進んで1915年卒業、近衛歩兵第2連隊に士官として任官した。1916年8月3日付の新聞に「李王世子の御慶事 梨本宮方子マサコ女王殿下と御婚約」と報じられた。梨本宮方子自身は、この新聞報道を見てはじめて自分の結婚相手を知ったという。

 

『読売新聞』1916年8月3日朝刊

 

 この結婚のため、鳥居坂別邸には新居が新築された。

 

 

 ちょうどこの時期は、スペイン・インフルエンザが世界的に大流行していた。日本でも感染者が激増し、今回の「コロナ流行」と同じような混乱を引き起こしていた。しかし、李王世子李垠と梨本宮方子の婚姻は、翌年早々に挙式の方向で進んでいた。

 

 ところが、翌年1月21日早朝、高宗(李太王)が徳寿宮トクスグンで薨御した。李垠と方子の婚姻は先延ばしとなった。高宗の葬儀は国葬として3月3日に京城で執り行われたが、この高宗の薨御とその国葬をきっかけに、朝鮮全土で3・1独立運動が展開されることになった。

 

 延期されていた李垠と方子の婚礼の儀は、1920年4月28日に鳥居坂別邸において行われた。

 

 

  紀尾井町李王邸

 1924年に、紀尾井町の旧北白川宮邸の跡地が李王家に下賜された。ここは元々は紀州徳川家の屋敷があった場所で、1876年に北白川宮へ下賜された。北白川宮邸は1912年に高輪南町の新邸へ移転し、この敷地は宮内省に返上されていた。16,000坪のうち、李王家に12,300坪、2,900坪を宮内省官舎敷地、残りを東京都の公園敷地とした※。

 

「番地界入東京市拾五区区分図」麹町区

 

 1926年4月24日、純宗(李王)が薨御した。李王世子李垠は「昌徳宮李王垠」となった。そして、この紀尾井町の旧北白川宮邸の跡地で、その年の秋から「李王邸」の新築工事が始められた。

 

 

 邸宅は1930年初に完成し、この年の3月に李垠・方子夫妻は紀尾井町の「李王邸」に移った。そして1931年に鳥居坂の土地と邸宅は返上した。その後、鳥居坂の邸宅は1943年に昭和天皇の長女と結婚した東久邇盛厚(東久邇稔彦の長男)の新居となった。敗戦後、1952年4月11日に東洋英和女学院が東久邇盛厚からこの土地を購入、そこに小学部の校舎を建設した。

 

 

  日本の敗戦後

 1945年8月の日本の敗戦とともに、李王家への日本からの歳費の支給もなくなった。

 

東京都区分図 千代田区詳細図(1947)

 

 紀尾井町の邸宅については、国際基督教大学からの買収の申し入れがあったが李垠はこれを断り、参議院議長公邸に賃貸で貸し出して自分たちは家政婦の部屋で暮らした。日韓国交正常化のための日韓会談が始まると韓国政府から将来の在日韓国大使館用地として買取の申し出があった。しかし、入金がなくキャンセルとなり、結局、1952年に堤康次郎に売却された。李垠・方子夫妻は田園調布3丁目84(現:田園調布3丁目28の一角)に購入した住居に移った。


東京都区分図 大田区詳細図(1949)  1952-1958東京都(3千分1)

 

 1955年、旧「李王邸」を改装して赤坂プリンスホテルがオープンした。その後、赤坂プリンスホテルは新館やタワーを増築し、旧「李王邸」は旧館として利用された。しかし、赤坂プリンスホテルは老朽化などで2011年に営業を終了、跡地は2016年に東京ガーデンテラス紀尾井町となった。ただ、旧「李王邸」は、現在も「赤坂プリンス クラシックハウス」としてそのまま残されている。

 

赤坂プリンス クラシックハウス

 

 1948年に大韓民国が建国されたが、初代大統領の李承晩イスンマンは、自分自身が朝鮮王朝王家の傍系であることもあってか、直系である「李王家」に対して極めて冷淡であった。しかし、1960年に4・19学生革命で李承晩が失脚し、翌年の5・16軍事クーデターで実権を握った朴正煕は、李垠と方子の韓国への帰国に前向きであった。

 

 脳軟化症で寝たきりになっていた李垠に代わって、方子がまず1962年に韓国に渡った。

 

 

 そして方子の2回目の訪韓の時、一旦日本国籍になっていた李垠・方子夫妻の韓国国籍を回復させた。当時、読売新聞の嶋元謙郎特派員がソウル発で記事を書いている。

 

 

 李垠・方子夫妻は1963年11月22日に韓国に帰国した。

 

 

 1970年5月1日、李垠が聖母病院にて72歳で永眠。

 1989年4月30日、李方子が87歳で永眠。

 


※ 帝室林野局五十年史(1939)
鳥居坂御料地(157コマ)・紀尾井町御料地(154コマ)

  • 初期の日本からの渡航
  • 日韓国交正常化以降
  • 外人ウェインアパート」の建設
  • 日本人学校

 1945年8月15日の日本の敗戦時、米軍が敗戦処理を担当する朝鮮半島の北緯38度線以南には50万人近い日本人が居住していた。これが、「引揚げ」によって1945年末には日本人は2万8000人程度になり、翌年春までにはほぼ全ての日本人が退去した。ここでいう「日本人」とは、いわゆる「内地」、現在の日本の主権領域内に「本籍」がある人のこと。当時は、婚姻や養子以外で本籍を動かすことは極めて難しかった。特に、内地と朝鮮の本籍は厳格に区分管理されていた。それもあって、日本の敗戦時に、朝鮮から退去すべき人は容易に抽出することができた。朝鮮人との婚姻で朝鮮戸籍に入った日本女性は、日本に戻ろうとしても引揚げの対象にはならず、朝鮮に残留した。米軍政庁が許可した少数の日本人も残留することになった。

 そして、日本から朝鮮半島への公的な渡航は途絶した。

 

  初期の日本からの渡航

 公然ルートでの戦後初の渡航者は、朝鮮戦争の取材で韓国に入国した日本の各新聞社・通信社の特派員だろう。ただ、彼らは韓国政府の渡航査証ではなく、国連軍(米軍)の渡航許可を得て韓国に入ったものだった。朝鮮戦争休戦後も日本人記者は国連軍の証明で韓国内で取材を続けた。しかし、1956年11月に韓国の李承晩イスンマン政権は日本のマスコミ各社の記者に退去命令を出した。日本のマスコミ数社が韓国への取材渡航を申請したが、認められなかった。

 

 韓国政府が認めた初めての日本からの渡航者は、首相岸信介の個人特使として1958年5月19日に訪韓した国策研究会の矢次一夫。矢次には駐日韓国代表部の柳泰夏ユテハ公使が同行し、26時間のソウル滞在中に李承晩大統領とも面談している。

 

 1960年4月、李承晩政権が倒れると、5月3日に韓国政府は日本の特派員の韓国入国を認めることを表明、5月16日から5月17日にかけて15名の日本人特派員がソウルに入った。半島バンドホテル(現在のロッテホテルの場所にあった)にそれぞれ取材拠点を置いて、光化門クァンファムン交差点の国際電報局(現在工事中のKT光化門ビルの場所)から記事を日本に送った。(ブログ在韓特派員史参照)

 

 日本政府の官僚で最初に訪韓したのは、外務省北東アジア課の若手外交官だった町田貢。1960年の9月に半島ホテルに宿泊し、韓国外交部のエスコートで地方も視察した。翌年には、北東アジア課長前田利一も訪韓するが、韓国側は日本政府のソウル連絡事務所開設を認めなかったため、その後も駐在ではなく短期滞在での出張が繰り返された。(町田貢『ソウルの日本大使館から』1999 文藝春秋)

 

 この時期から、韓国側からの招請状があれば短期の渡航ビザが発給された。経済関係の代表団や視察団、親善交流や文化交流の訪韓、それにスポーツ交流試合のための渡航が徐々に増えていった。『朝鮮日報』が1963年から1966年4月までの日本人の出入国状況を報じている。

 

 

 こうした訪韓の中で、興味深い例がいくつかある。

 1962年にアジア映画祭がソウルで開催された。アジア映画製作者連盟の会長だった永田雅一以下、東映・松竹・東宝・日活の幹部が牧紀子、新珠三千代、松原智恵子などの女優とともに映画祭に参加した。この映画祭では、日活の「上を向いて歩こう」(坂本九・浜田光夫・吉永小百合など出演)が上映された。

 

 また、1963年6月には日本の女子プロレス選手団が訪韓して、韓国の女子プロレス選手と対戦している。

 

 前年1962年12月に、日本のプロレス・コミッショナーを務めていた自民党副総裁大野伴睦が、韓国からの要請もあって訪韓して朴正煕と会談した。その直後の翌年1月8日から11日まで、力道山が韓国を訪問している。この時、力道山は日本国籍を取得しており、日本の旅券を所持しての渡航だった。

 

 

 この1963年の11月22日には、李承晩政権下では帰国が認められず東京に滞在していた李垠イウン方子マサコ夫妻がJAL特別機で帰国を果たした(대한뉴스 제 445호-영친왕 환국)。

 その3日後の25日から12月2日にかけて、大宅壮一と梶山季之が韓国を訪問している。梶山季之は『文藝春秋』の1964年2月号に「朴大統領下の第二のふるさと」を寄稿した。梶山は、京城中学在学中に京城で敗戦を迎えた。企業小説や風俗小説などとともに「族譜」や「李朝残影」など朝鮮を題材にした小説も書いた。この訪韓時に、梶山が京城で住んでいた新堂町(新堂洞シンダンドン)の家を見に行っている。

 この訪問記の中に料亭の「清雲閣チョンウンガク」に行った話が出てくる。

 清雲閣は、もと三菱か何かの支店長の社宅だそうで、ここではオンドルも、湯を通したパイプを薄いコンクリートの床に埋めて、スチーム式だった。
 日本語を話す妓生は、ほとんど三十歳を越えており、彼女たちが最初に話しかける言葉は、「いつ韓国に来たか?」という質問だった。
 これは、日本の商社マンが、丸紅をはじめとして多く入り込んでいるためで、先ず第一質問によって、新鮮度を占うのだということだった。赴任して間もなくだったら、金を持っているからだろうか。

 青雲閣は、解放後に趙次任チョチャイムが始めた料亭で、鍾路区チョンノグ清雲洞チョンウンドン53-26、現在の紫霞門チャハムントンネルの手前にあった。政財界の要人が利用する高級料亭で、1965年の日韓国交正常化時の外務部長官主催の招宴もここで開かれた。その料亭に、1963年時点で日本の商社マンたちが出入りしていたことがわかる。その前年の1962年秋には、外相大平正芳とKCIA部長金鍾泌キムジョンピルの間で「請求権」をめぐる金額の話が出たことが報じられた。この金を狙って日本の商社などがすでに動き始めていた。日韓国交正常化後、日韓の要人への日本側企業からのキックバックやリベートの噂が絶えなかったが、この時すでに青雲閣などで関係を深めていたのだろうか…。

 

 駐韓日本代表部のソウル開設は実現しなかったが、1964年からは日本の外交官のソウル駐在が認められるようになった。上述の『ソウルの日本大使館から』には次のように記されている。

その後、出張で何回か韓国に足を踏み入れたが、ソウルに初めて駐在したのは1964(昭和39)年である。まだ国交が正常化されていなかったので、半島ホテルに事務所をおき、外務省の職員が交代で駐在した。
 この頃までには、日本の大手マスコミの特派員がソウルに駐在し報道に当たっていた。また、大手商社員たちの姿もチラホラ見られるようになっていた。
 日本人特派員もほとんどが単身赴任であり、われわれと同じように半島ホテルに居を構えていた。双方共に、韓国の政治情勢や社会状況を取材するのが目的なので、出かけるときも食事をするときも、気のあった仲間たちが数名ずつ、一緒になって行動していた。

  日韓国交正常化以降

 1965年12月18日に日本と韓国の国交が樹立された。

 

 

 東京には駐日韓国大使館が開設され、駐韓日本大使館は半島ホテルの5階フロアーに置かれた。ソウルに駐在する外交官や特派員、商社の駐在員などの日本人は、ほとんどが単身でホテル住まいをしていた。

 

 1967年1月18日の『毎日経済新聞』に、日韓国交正常化の最初の一年、1966年の外国人訪韓者の数字があり、そこで日本人の韓国渡航者数も報じられている。

法務部出入国管理当局は、昨年(1966)韓国に入国した外国人86,349人のうち、日本人が16,871人で、年々急増していると明らかにした。
外国人入国者全体の20%を占める日本人は、アメリカ人の30,126人に次いで2番目に多く、入国目的別では、観光が10,773人、商業関係が3,237人、文化・体育関係が999人となっている。
当局の統計によると、1962年に24,348人の外国人が入国したのに対し、1965年には48,562人と199%増加し、1966年には380%増加した86,349人が韓国に入国したとなっている。

 「観光」というのはツーリスト・ビザでの渡航者で、1月〜4月まで2,728人だったのが年間では1万人を越えた。旧朝鮮在住者などの再訪が多かったようだが、実際にはビジネスを目的とした渡航者も多かったといわれる(『朝鮮日報』1966年6月16日)。

 

  また、1967年には韓国政府招請留学生として池川英勝と藤本幸夫がソウル大学の大学院に留学している。それ以降、国費や私費での日本人の韓国留学が徐々に増えていった。1981年10月時点で、韓国全土の日本人留学生数は約100名になっていた(在韓日本大使館『一問一答』1983.11)。

 

 商用ビザでの渡航も増加しており、1967年7月20日には、ソウル日本人商工会が発足した。会長・副会長には三菱商事、伊藤忠、丸紅のソウル支店長が名を連ねている。

 

 

 このように、日韓の国交正常化以降、日本人の短期渡航だけでなく長期の在留が増加したが、家族を伴っての滞在には、まだハードルが高かった。一つは子供の教育の問題で、学齢期の子供の教育は当初は現地校しか選択肢がなかった。もう一つは、住居問題。一般の韓国の家屋では、風呂やトイレなど水回り、それに冬の暖房など不慣れな点が多かった。住居費の支払いも韓国特有の「伝貰チョンセ」が多く、まとまった現地通貨を用意しなければならず、日本式の「住宅手当」では対応が難しいこともあった。

 

  「外人アパート」の建設

 ちょうど同じ頃、韓国政府は外国人向けの住居、すなわち暖房・温水などが集中管理されたマンション型の賃貸式集合住宅の建設を進めていた。

 

 漢南洞ハンナムドン漢江ハンガン河岸の高台には、大韓住宅営団が管理する米軍・国連軍関係者の住宅地「UNビレッジ」があった。もとは日本統治時代に宅地化された華鏡台だったところ。

 

 

 このUNビレッジの東側に、1968年10月に「ヒルトップ外人ウェインアパート」が完成した。その後1990年代には外国人住宅ではなくなり、2002年に大規模改修され、現在はヒルトップ・トレジャーAPTになっている。

 

 

 さらに、1969年6月に、梨泰院イテウォンがら南山に上った循環道路沿いに16階建と17階建の2棟の「南山外人ナムサンウェインアパート」の建設に着手し、1972年12月に完成した。

 

 上掲の写真は、1972〜3年の冬、「南山外人アパート」の完成直後の写真だろう。ちなみに、写真下部の第3漢江橋チェサムハンガンギョ(現:漢南大橋ハンナムテギョ)は1969年に開通、1979年に営業を始めるハイアット・ホテルはまだない。

 

 「南山外人アパート」は、1994年に爆破解体されて跡地は現在は公園になっている。

 

 

 もう一ヶ所、外国人向け住宅が作られたのが東部二村洞トンブイチョンドンである。東部二村洞の河川砂地の宅地化開発が始められたのは1964年。

 

 

 1966年から1970年にかけて、公務員コンムウォンアパート、民営ミニョンアパート、漢江マンションなどの集合住宅と共に外国人向け住宅「リバーサイドビレッジ」が建設された。

 

 

 これらの「外人住宅」・「外人アパート」は、大韓住宅公社が管理していたので、「伝貰」ではなく「月貰ウォルセ」、すなわち家賃は月払い。日本人駐在員には、多額の外貨をウォンにする必要もなく住宅手当で賄えるメリットが大きかった。住宅は上下水道に都市ガスが完備しており、暖房や温水は集中管理。広さは日本の住宅よりも広いくらいで、「食母シンモ」と呼ばれた家政婦や運転手も雇用することができた。

 さらに、リバーサイドに隣接する漢江マンションは、当時としては一般市民の手の届かない高級分譲住宅。それなりの地位と財力の韓国人が購入した。複数戸数を購入した所有者の中には日本人向けに月貰で貸し出す人もいた。漢江マンション以外の東部二村洞のアパートでもそのような賃貸で貸し出す例が増えていった。

 

  日本人学校

 日本大使館は、1968年4月に中学洞チュンハクトンに770坪の土地を購入し、建物の建設を始めた。1970年に新たに完成した大使館に移転し、同時にこの大使館内に「日本人補習校」を開設した。

 

 1972年5月、漢南洞の礼式場イェシクチャンの2階に日本人学校ソウル校が開校した。

 

 

 大使館員や特派員、企業関係者などの長期滞在者が居住する外国人向け住宅のちょうど中間地点に日本人学校が設置されている。

 

 その後、次第に日本人の長期滞在者が増加する。単身赴任者の一部や留学生は「下宿」にも住んだが、増加する企業関係者は「外人住宅ウェインジュテク」を求めた。しかし、「南山外人アパート」や「ヒルトップ」「UNビレッジ」「リバーサイドビレッジ」は戸数に限りがある。そのためため、日本人学校への通学の便宜もあって、東部二村洞の漢江マンション、それに三益サミック、ジャンボ、王宮ワングン、レックスなどの韓国人所有のマンション住宅と個別に貸借契約を結んで居住する日本人世帯が多くなった。

 

 日本人学校の生徒数も増加し、1979年に漢江の南側の開浦洞ケポドンに土地を購入して、1981年に新校舎を建築して移転した。

『韓国生活事典』白馬出版(1987)

 

 

 日本人学校のスクールバスのルートの関係で、子供のいる日本人世帯はますます東部二村洞に集中することになり、1980年代には東部二村洞は「日本人タウン」と呼ばれるまでになった。漢江ショッピングに行くと日本の味噌や醤油、キューピーマヨネーズ、出前一丁が買えた。ジャウン製菓にいくと、生クリームのケーキを売っていた。

 

 1990年代に入ると、ソウルに居住する日本人の在留資格も多様化し、居住地域も広範囲に広がっていく。

 同時に、韓国の住宅事情も大きく変化し、外国人向け住宅を提供する必要がなくなった。「ヒルトップ」は1980年代に大韓住宅公社から民間に売却され、しばらくは外国人への賃貸が続いていた。しかし、1990年代末に2戸をぶち抜いて1戸に改装して高級マンションとして韓国富裕層に分譲された。「南山外人アパート」は1994年に爆破撤去され消滅した。東部二村洞の「リバーサイドビレッジ」も1999年に民間の高層高級マンションへの建て替えが決まり、2003年にLG漢江ザイAPTが建てられた。

 

 それでも、駐在員の住居の引き継ぎの関係や、不動産屋が日本人への賃貸に慣れていることなど、それに日本人学校のスクールバスの経路の関係もあり、企業の駐在員などを中心に、かなりの数の日本人居住者が東部二村洞に居住していた。

 日本人学校は、2010年に開浦洞から上岩洞サンアムドンのデジタルメディアシティに移転した。これによって、日本人の居住地にも変動が起きた。

 

 ちなみに、ソウル在住日本人の数(大使館に在留届を出した人数)は、分かる範囲では以下のとおりである。

 

2003年   7,357人
2018年 12,137人
2019年 14,920人
2020年 12,201人
2021年 12,665人
2022年 12,967人
2023年 13,546人

外務省領事局政策課

海外在留邦人数調査統計

 

  2019年の『国民日報』の記事では、「1000余名の日本人が暮らす東部二村洞」となっており、ソウル全体の在留邦人数からすると決して多くはない。

 

 それでも、これまで長々と書いてきたような経緯もあってのことだろう。東部二村洞に対する「日本人タウン」のイメージは、ソウル在住の日本人や在日韓国人、それに韓国人の間で今もなお消え去らずに残っているようだ。