- 「閔妃」と「明成皇后」
- 乾清宮
- 王妃殺害の目撃者
- サバチンの展示会
1895年10月8日、朝鮮駐在特命全権公使であった三浦梧楼の主導の下、日本の官僚や軍、いわゆる「壮士」らが景福宮に乱入し、高宗の王妃を殺害する事件が起きた。日本では、「閔妃暗殺事件」「閔妃殺害事件」として知られ、韓国では、事件が乙未年に起こったため、「乙未事変」と呼ばれる。
この事件を扱った日本語の著作物としては、この2冊がある。
- 角田房子『閔妃暗殺―朝鮮王朝末期の国母』(新潮社 1988)
2024年8月 ちくま学芸文庫で復刊 解説:森万佑子 - 金文子『朝鮮王妃殺害と日本人―誰が仕組んで、誰が実行したのか』(高文研 2009)
「閔妃」と「明成皇后」
1897年に、それまでの「朝鮮」という王朝名が「大韓帝国」の国号に変わった。高宗は「王」から「皇帝」となり、すでに殺害されていた高宗の「王妃」も「皇后」に追封され、「明成皇后」の諡号が与えられた。ただ、日本の植民地支配下では「閔妃」と呼ばれ、解放後の韓国でも、1990年代までは一般にはそのまま「閔妃」の呼称が使われることが多かった。
NAVERNews Libraryデータベースより作成
高宗の王妃をモデルにして1974年にMBCで放映されたドラマのタイトルも「閔妃」だった。
ところが、1990年代半ばから「明成皇后」の呼称が多くなる。金泳三大統領による日本統治時代の事物の排除—たとえば朝鮮総督府の建物の撤去など—が影響したものとも思われる。特に、2001年5月から翌年にかけて、KBS2でドラマ「明成皇后」が放映され、好評を博した。これ以降、韓国では「閔妃」の呼称は「明成皇后」にほぼ置き換えられた。
乾清宮
王妃殺害事件の現場となった乾清宮は、併合以前の1909年に撤去されていた。
撤去前の乾清宮(北闕図形より)
その後更地になっていたが、植民地支配末期の1939年5月になって総督府美術館がここに建てられた。解放後は、その建物が美術展示場として使用され、1975年からは韓国民俗博物館、その後伝承工芸館として使用された。
1995年の旧朝鮮総督府庁舎の取り壊しを契機に、景福宮の大々的な復元計画が建てられ、乾清宮復元のため、総督府美術館として建てられた建物も1998年に撤去された。この建物の東側に、李承晩政権時代に建てられた「明成皇后遭難之地」の石碑と朴正煕大統領名の入った「明成皇后殉国崇慕碑」、それに日本人が襲撃したときのイラストが掲示された東屋があったが、乾清宮復元工事が始まる2004年に見られなくなった。
2007年に復元工事が完成し、2010年からは一般に公開された。現在は建物の内部にも入れる。ただ、復元工事前にあった王妃殺害関連の碑石や東屋はなくなっている。
王妃殺害の目撃者
この事件を目撃した二人の西洋人がいた。一人は、1888年から侍衛隊の軍人の訓練にあたっていたアメリカ人のW・M・ダイ(William McEntyre Dye)であり、もう一人は、1883年に建築技師として朝鮮にわたったロシア帝国のウクライナ人アファナシ・イバノビッチ・セレディン・サバチン(Афанасій Іванович Середін Сабатін)だった。
サバチンは、開化期の朝鮮で、仁川の海関庁舎、世昌洋行の社屋、ロシア公使館、徳寿宮の重明殿や静観軒を設計し、独立協会が建てた独立門の設計も手がけた技師なのだが、1895年10月の王妃殺害事件当時は、景福宮内で侍衛隊の指揮にあたっていた。
この二人が、日本人による朝鮮王妃殺害の現場にいて、この事件を目撃したことは日本側も気づいていた。1895年11月7日に京城公使館の一等領事內田定槌が外務大臣臨時代理西園寺公望あてに送った「明治38年10月8日王城事變顚末報告書」には、ダイとサバチンについてこのように書かれている。
此時最早日出後なりしが晨きに部下の侍衛隊に逃げられ唯一人残り居りたる米国人「ゼネラル・ダイ」は其近傍に佇立して本邦人の暴行を目撃し居りたるより或者は直ちに彼を殺害すべしと叫ぶあり又某守備隊士官は堀口に向ひ彼洋人を此処より退去せしむるは君の任務なり宜しく速かに之を他に避けしむべしと請求したるに「ダイ」曰く自分は米国人なり日本人の命に従ふ能はずと退去を肯ぜず山田烈盛も亦英語を以て之と応答を始めたりしが其後間も無くして仝人は一時現場を立去り暫あつて再び出て来り傍観せり尚ほ仝日「ダイ」と共に王宮内に宿直せる露国人「サバチン」なる者も亦隠かに之を傍観し居れりと云ふ
また、王妃殺害に実際に加担した小早川秀雄が書いた回顧録『閔后殂落事件』にもこの二人が登場する。この小早川の回想録は限定刊行されたもので、原本は未見。『世界ノンフィクション全集』に川村善二郎による現代語訳が収録されているので、それを引用する。
原本はこのような体裁らしい
壁垣の中央にかまえた中門をはいり、さらに右へまがって二つの小門を進むと、国王の便殿である乾清宮の前庭に出ることができる。九重(宮中)は雲深いというが、堅牢な城門も兵士のとつぜんの進入に破れ、宮殿の内部も志士に蹂躙されて、衰退する王国の末路はまことに憐れなものではないか。
乾清宮に奉侍する宮官は、あけがたに銃声が城内におこるのを聞いてびっくりしているところへ、早くも志士の一団が進入してきたので、なすところを知らず、あわてふためいた。殿上の韓人はことごとく顔色を失った。このとき国王は、一室の中に起立したまい、待臣数名がかたわらにいて、大君主陛下であることを、手をあげて注意していた。志士はそれが国王であることを知ると、敬意を表して、あえて殿内に入る者なし。その右手の室はすなわち 王妃の居室で、数人の婦人が室内にいて混みあい、宮内大臣李耕植もまたその中にあって王妃を擁護していたが、王妃はこの室内において白刃のもとに崩御したもうた。李耕植は室外に走って逃げようとした時、拳銃で股を撃たれ、一刀を右肩より浴びせられて、殿外に倒れた。伝えられるところによれば、洋服を着け仕込杖をたずさえた数名の朝鮮人が、志士の中にまぎれこんでいて、この惨殺を行なったともいわれる。
この前夜、宮中においては、閔族の俊英、閔泳駿が宮中に登用されるのを祝して、盛宴が催された。宮内大臣李耕植、農商工部協弁鄭乖夏もこの宴に列席し、夜ふけて散会したのち、ともに宮中に泊まった。王妃は、盛宴の興に疲れて眠っていたので、難を避ける暇がなく、李耕植もまた、宮中にいたため、二人とも白刃の下に非命の死をとげたのである。
殿上殿下には白刃がひらめき、庭前には将士志士が激しく往来しているとき、一名の白人が殿下に立って、この騒擾を熟視していた。彼は宮中の御雇技師であるロシア人サバチンである。また侍衛隊の訓練をつかさどるアメリカ人ゼネラル・ダイもまた、朝鮮人の従僕一名をつれ、乾清宮庭の通路で、この混乱を目撃し、日本志士に逢うごとに、帽子をとって敬礼をおこない、白髪ほうほうたる老顔に微笑をたたえて、媚を示していた。この二人は、国王の居室からわずか三、四十間のところに、宏壮な洋館を建てて住んでいたから、すぐに出てきて、この紛争を実地に目撃したのである。彼らの証言は、後日、国際間の紛議に有力な材料となった。
さらに朝鮮側の記録にもサバチンが登場する。王妃殺害事件の翌年1896年2月に高宗はロシア公使館に避身した(俄館播遷)。そして、ロシア公使館の中からアメリカ人のグレートハウス(Clarence Ridgley Greathouse) を顧問として王妃殺害事件についての審判と調査を命じた。その公式の報告書がアメリカ人宣教師が発行していた『THE KOREAN REPOSITORY』1896年3月号に転載されている。その中にこのような記述がある。
http://anthony.sogang.ac.kr/Repository/Vol0303.pdf
P.126
30人以上の日本人“壮士”は、リーダー格の日本人の指揮のもと、抜刀して建物に入り込んで部屋中を捜索し、捕まえた宮女たちの髪の毛を引きずり回して殴りつけ、王妃の居場所を聞き出そうとした。この様子は、国王殿下の警護に当たっていた外国人のサバチン氏を含む多くの人々が目撃した。サバチン氏はこの裁判に短時間ながら出廷し、宮殿の前庭にいた日本人将校が日本人兵士を指揮していた様子や朝鮮人宮女への暴行の模様、そして彼自身も日本人から何度も王妃の居場所を聞かれ、知らないというと殺されかねなかった状況を証言した。
彼の証言は、日本軍の将校が中庭にいて日本人“壮士”の行為を知っていながら、日本人兵士が中庭を囲んで“壮士”が人殺しをする間、中庭の門を守っていたことを決定的に示している。
部屋中をくまなく捜索した“壮士”は、脇の部屋に隠れていた王妃を見つけ、捕まえて日本刀で切りつけた。
サバチンの展示会
2020年10月19日から11月11日まで、徳寿宮重明殿で「1883年 ロシア青年サバチン、朝鮮に来たる(1883년 러시아청년 사바틴, 조선에 오다)」の展示会が開かれた。1990年9月に盧泰愚大統領が訪問先のサンフランシスコでソ連のゴルバチョフ書記長と会談し、電撃的に韓国とソ連の国交樹立が発表されてから30年。この展示会は、「韓国・ロシア修交30周年記念特別展」として開催され、駐韓ロシア大使も行事に出席した。
ただ、サバチンは上述のようにウクライナ人。2022年のロシアによるウクライナ武力侵攻の後、『朝鮮日報』はこんなイラストを掲載した。
武力侵攻前だったから開けた展示会だったとも言えそうだ。
この展示会では、開化期の最も早い西洋人建築家としてのサバチンに焦点を当てると同時に、「乙未事変」の時の王妃殺害現場の目撃者としてのサバチンにも注目が集まった。この展示会には、帝政ロシア対外政策文書保管所所蔵の目撃証言記録や、事件当時の見取り図などの史料が展示された。
文化遺産ギャラリー 1883 러시아 청년 사바틴, 조선에 오다 ①
2021年9月12日付『中央日報』の「ロシア人目撃者、あの日の証言」から翻訳・転載する。
1895年10月7日から8日にかけての夜、王宮にはダイ将軍と私がいた。何事もない平和な夜だった。午前4時、私とダイ将軍が寝ていた住居に、朝鮮陸軍中佐の李甲均が飛び込んできた。李甲均はダイ将軍の通訳官だった。彼は息を切らして興奮した口調で、日本軍と日本人の訓練を受けた訓練隊の兵士が宮殿を包囲していると言った。私たちはすぐに衛兵所に駆けつけた。ダイ将軍は李中佐に一緒に情勢を見に行こうと言ったが、李中佐は「国王に事情を説明しなければならない」と同行を拒んだ。
午前5時、王宮への攻撃が始まった。北東門の外から大きな声が聞こえてきた。演説をしているようだった。途切れることなく流暢に演説をしていることから、前もって練習していたことは明らかだった。演説が終わると、朝鮮人の軍から叫び声が起こった。王宮には1500人の兵士と40人の将校が配置されていたが、午前4時30分から5時までの時間帯には、250〜300人の兵士と8人の将校だけが残っていた。日本軍の射撃を受けた侍衛隊の兵士は、応戦することなく銃を捨て、軍服を脱ぎ捨て弾を抜いて逃亡した。逃亡者の群れは2方向に向い、そのうちの1つの集団はダイ将軍を道の左側から私たち西洋人が住む家の方向に連れ去った。
約300人の兵士や王宮の使用人、そして宦官などからなるもう一つのグループが、私を王妃と女官の居所である玉壺樓の庭に連れて行った。庭には、訓練隊の兵士や日本軍の将校たちもいた。
一人の日本人が、女官たちの髪をつかんでは外に引きずり出し、6フィート(約180cm)の高さの窓から下に投げ出していた。私が庭に立っている間、日本人たちが10〜12人の女官を窓から投げ落として殺した。女官たちは、髪をつかまれて引きずられるときも、窓から投げられたときも、一言も叫ばず、ただ黙ってなされるままになっていた。
この15分間、私は女官たちが殺害されるのを目撃した。王妃の住まいの庭で私が行き場のないまま立ち止まっていると、興奮した様子の5人の日本人が現れた。
一人の日本人が日本語で演説を始めた。その演説は激烈なものだった。演説が終わると、5人の日本人は再び建物の中に駆け込んでいった。しばらくすると、また叫び声を上げながら、ある女官の髪の毛をつかんで外に飛び出した。
興奮した日本人たちは、私の襟首をつかみ、またある者は私のジャケットの袖と襟をつかんで、王妃の居場所を教えろと脅迫的な口調で迫ってきた。私の襟首をつかんでいた日本人の一人で、かなり英語が理解できる者が私に言った。
「王妃はどこにいるんだ?王妃の居場所を教えろ!」
私は懸命に弁明して、王妃を見分けられないことを説明した。すなわち、私は王妃の顔を見たことがなく、西洋人であり男であるために朝鮮の王妃の顔を見ることができず、また王妃の居場所を知ることもない。これらを懸命に説明したが、日本人たちは私を王妃のいそうなところに連れて行った。おそらく、彼らは私に王妃の居場所を教えさせようと決心したようだった。
ちょうどその時、日本人の指揮官が現れた。彼が現れたとき、私を連れて行っていた日本人たちは、私を放して敬礼して指揮官に私と私のことを知っている朝鮮人を指差しながら、何かを説明していた。部下の話を聞いたその日本人指揮官は私のところに近づき、非常に厳しい声で尋ねた。
「私たちは王妃を見つけることができていない。あなたは王妃がどこにいるか知らないのか?」
私は、王妃がどこにいるかを私に尋ねることがどんなに無意味であるかを説明した。私は朝鮮の習慣と法に従って王妃を見ることができず、また王妃の居場所を知ることができないからだ。その日本人は私の説明に納得したかのように、部下に私を傷つけないように放っておけと命じた。しかし、私のことを知っている朝鮮人は、日本の兵士に何かを熱心に話していた。私は、その朝鮮人が事件の唯一の目撃者である私を生かしておくべきではないと説得していることに気づいた。
私が王宮から抜け出たのは午前6時だった。王宮から抜け出した私は、その足ですぐにロシア公使館に向かった。午前6時30分頃に公使館に到着するとすぐに、私が目撃したすべてのことをベーベル公使に報告した。
また、サバチンが描いた現場の見取り図が残されている。ハングルと漢字の書き込みは後の時点で書き込まれたと思われるが、それに関する説明は見当たらない。
この時の顛末を、サバチンはグレートハウスの調査時に証言をして、それが『THE KOREAN REPOSITORY』1896年3月号に掲載されているのであろう。
現場の地図については、1895年12月21日に京城の内田定槌領事が外務次官原敬当てに送った機密第51号の公信に付属の地図が添付され、番号を振って現場の説明をしている。
機密第51号
御参考の為め別紙景福宮即ち現王居の見取図壱葉及進達候間御査収相成度右は或る本邦人の作りたる見取図に基き尚小官か実地の見聞により修正を加へ調製したるものにして固より精確を保し難く候得共概略におては格別の誤謬の無きものと相信候図中に示せる乾清宮は10月8日前後に於ける国王陛下初め王族方の御居殿にして長安堂は国王陛下坤寧閣は王妃陛下の御居間なり又坤寧閣の裏手に当り東西に横はれる一棟は王太子及王太子妃の御居間なり而して該事変の時王后陛下は図中に示せん(1)の所より(2)の所に引出され此処にて殺害に遭はれたる後屍骸は一旦(3)の室に持込み其後夾門より持出し(4)点に於て焼棄てられたる由にて11月22日小官が王城に入りたるとき燃残りたる薪類尚(4)点に散在し其傍らには何物をか埋めたる如き形跡歴然たるを認め候
右及具報候敬具明治28年12月21日
在京城 一等領事 内田定槌
外務次官 原敬殿
この内田定槌の公信の添付図にはサバチンの名前はないが、「ダイ等の立ち居りし処」となっているので、青マークあたりにダイとサバチンがいたものとしたのだろう。ダイの方が軍人で侍衛隊の訓練にあたり、技師のサバチンはサポート的役割にすぎなかったから。ただ、実際にはダイが、逃亡する侍衛隊の兵士に押されて現場から遠ざかった一方、サバチンは王宮の使用人などの集団に押されて現場の玉壺樓(王妃の居所坤寧閤にあった楼閣)の前庭まで行くことになり、間近に目撃することになった。内田定槌は地図にマークした時点ではそうした経緯を知らなかった。

玉壺樓(学習院大学東洋文化研究所蔵)
このように、史料を突き合わせていくと当時の現場の様子や、王妃の殺害に日本の官・民がどのように関わっていたかが浮き彫りになってくる。
もう2年以上経ったが、2021年11月に「閔妃暗殺」に関する新たな史料発見のニュースが報じられた。王妃殺害の実行グループの一員だった領事官補堀口九万一が、事件の翌日に郷里の漢学者武石貞松に宛てた書簡が発見されたのである。記事によれば、
進入は予の担任たり。塀を越え(中略)、漸く奥御殿に達し、王妃を弑し申候
存外容易にして、却てあっけに取られ申候
などの記述があるという。堀口九万一は領事官補だから11月7日に「王城事變顚末報告書」を東京に送った一等領事內田定槌の部下に当たる。日本の官民が一体となった隣国朝鮮の王妃殺害事件だったことを如実に示すものである。


























































































