一松書院のブログ -21ページ目

一松書院のブログ

ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

 1979年10月26日午後8時前、大統領官邸の西側に隣接する宴会場で朴正煕パクチョンヒ大統領が銃撃され死亡した。撃ったのは軍事独裁政権を支えてきた側近の一人金載圭キムジェギュ中央情報部(KCIA)部長だった。


 この大統領の暗殺直後から、それまで反独裁運動をしてきた人々が政治・社会活動の表舞台に姿を現わした。日本の新聞などはこれを「ソウルの春」と報じた。しかし、その背後では、大統領殺害事件の捜査に当たった保安司令官全斗煥チョンドゥファン少将が勢力を固め、12月12日に「粛軍クーデター」を起こして実権を掌握した。民主化を危険視する軍の中堅幹部のグループ「ハナ会」を中心とするこの勢力は「新軍部」と呼ばれた。そうした中で、軍事独裁の再登場に反発する学生・市民の民主化要求の声はますます高まった。新軍部は1980年5月17日に全国に戒厳令を布告し、野党指導者の金泳三キムヨンサム金大中キムデジュン、旧軍部につながる金鍾泌キムジョンピルなどを軟禁・逮捕して民主化要求を抑え込もうとした。

 

 金大中の地元全羅南道チョルラナムドでも、その中心地光州クァンジュで民主化要求の声は高まっていた。光州では、戒厳令宣布の翌日5月18日に起きた学生デモに対し、その弾圧に戒厳軍が投入された。市内に展開した空挺部隊は無差別に激しい暴力を振るった。これが市民の怒りに火をつけ、市民たちがバスやタクシーでバリケードを築き、市街地で空挺部隊に激しく抵抗した。


 5月21日、市民・学生に対して空挺部隊の実弾射撃による武力弾圧が本格化した。市民側も郷土予備軍の武器庫から奪った武器で武装して全羅南道道庁に立てこもった。光州の地元有力者による市民収拾対策委員会が戒厳軍側との交渉にあたったが収束には至らず、一部市民は最後まで抵抗の姿勢を崩さなかった。5月27日、市民が拠点としていた全羅南道道庁が戒厳軍に制圧され、市民・学生の抵抗は終わった。戒厳軍による数日間にわたる無差別の激しい武力行使によって市民・学生側に多数の死傷者・行方不明者がでた。

 

  ヒンツペーターの取材

 この間、光州市は戒厳軍によって外部と遮断され、韓国全土にわたって厳しい報道管制が敷かれた。そうした中で、ソウルから光州まで東京駐在のドイツ人特派員ユルゲン・ヒンツペーター(Jürgen Hinzpeter)を送り届け、取材した写真ネガや映像フィルムとともにヒンツペーターをソウルまで連れ帰ったタクシー運転手キム・サボクをモデルにした映画が「タクシー運転手ー約束は海を超えてー」だった(2017年 日本公開2018年4月)。

 

 この時にヒンツペーターが光州で取材したニュースは、映像とともに5月22日には西ドイツの公営放送ARDの夜20時のニュース番組で放送された。

 

 

 ヒンツペーターの光州現地取材に関しては、2003年5月18日のKBS日曜スペシャルで「80年5月 青い目の目撃者 ヒンツペーター」を放送して注目を集めた。現在、その番組は光州KBSがYoutubeに再掲載している。

 

 

  キム・サボクのタクシー

 ヒンツペーターが雇ったタクシーの運転手の名前はキム・サボク。名前はわかっていたが、その後ヒンツペーターも連絡が取れず、所在がわからなくなっていた。ところが、映画「タクシー運転手」の公開をきっかけに、息子のキム・スンピルが、この映画のモデルは自分の父のサボクだと名乗り出た。サボクはすでに亡くなっていた。実際に光州を往復したタクシーは、映画で描かれているような一般タクシーではなく、ホテルタクシー、日本で言うと黒塗りのハイヤーで、日頃から外国人記者なども顧客としてよく利用していたという。

 

『東亜日報』2018-12-25
ヒンツペーターとキム・サボク

 

 実は、キム・サボク氏のホテルタクシーは、1974年の文世光ムンセグァン事件の時にもその名前が出てくる。

 

 1974年8月15日、光復節の式典が奨忠洞チャンチュンドンの国立劇場で開かれた。朴正煕大統領の式辞の途中で演壇に駆け寄った文世光が客席から拳銃を発砲、壇上の大統領夫人陸英修が死亡する事件が起きた。文世光は在日韓国人である上、犯行に使われた拳銃が大阪府警で盗まれたものだった。「北朝鮮系組織の日本国内での活動を取り締まらない日本政府の責任」として韓国で対日批判が高まった。

 

 この時、文世光が朝鮮ホテルから国立劇場まで使った車は、パレスホテルのキム・サボクのホテルタクシーだった。ただ、この時に運転したのは、キム・サボクではなく予備の運転手だった。

 

この車は、ソウル中区会賢洞1街92-6のパレスホテルに所属するコールタクシーで、運転手金砂福キムサボク氏の予備運転手の黄涛東ファンドドン氏が運転していた。

 この車で国立劇場の正面玄関に乗り付けた文世光は、招待状がなかったにも関わらずそのまま会場に入れてしまった。VIPと誤認されたというのだから、キム・サボクのタクシーは高位・高官が乗るような高級車だったということだろう。

 

 それにしても、キム・サボクはなかなか数奇な運命の持ち主だったようだ。

  日本のプレスの光州取材

 映画「タクシー運転手」の日本公開の際のチラシには、「戒厳下の物々しい言論統制をくぐり抜け、唯一・・、光州を取材し、全世界に5.18 の実情を伝えたウイルゲン・ヒンツペーター」とあるのだが、この時にはヒンツペーター以外にも外国人プレスが光州に入って取材を行っており、その中には日本のプレスもいた。

 

 共同通信の光州事件の取材については、『週刊金曜日』2020年5月15日号「光州事件40年 共同通信支局閉鎖の真相」で、事件当時、外信部韓国担当デスクだった菱木一美が現地取材の内幕を詳しく書いている。

 

 

 当時、新聞・TV・通信社のソウル支局は日本からの常駐特派員は一人に制限されていた。共同通信ソウル支局も支局長林憲一郎の一人体制。5月に入って新軍部と民主化勢力の対立が緊迫してきたため、本社の外信部から西倉一喜を取材応援でソウルに送ろうとした。だが、すでに東京の韓国大使館は取材ビザの発給を停止していた。そのためソウル経由で香港に向かうトランジット(当時は5日間有効)で韓国に入国した。5月19日早朝、運行停止直前の高速バスでソウルから光州に入り翌日次のような記事を配信した。

【光州(韓国)20日共同】軍隊の強硬な対応に対する市民の反感はかなり強く、「学生も行き過ぎだが、国民が信頼している軍隊のやり方は、まるで共産軍と同じだ」と怒りをぶちまけるタクシーの運転手もいた。

 取材ビザなしで取材活動をした西倉一喜は、この後ソウルに戻り香港に脱出した。

 

 同時期に、共同通信マニラ支局長だった鈴木真一がマニラの韓国大使館で取材ビザを申請したら取得できた。5月20日に光州に入って取材をし、22日に戒厳軍の包囲網を徒歩で突破して、近郊でタクシーをつかまえて全州チョンジュに出て、ソウルに戻ってルポ記事を東京に送った。鈴木真一の記事は「ソウル発共同」として5月23日の各紙に掲載された。

 その後、再び光州に戻り、戒厳軍が光州を完全制圧した5月27日の光州の惨状を、かろうじて電話が通じていた光州近郊の長城チャンソンから電話送稿した。5月29日の『京都新聞』は、この共同通信の記事を「光州制圧 さながら敵国攻撃 同胞へ非情の銃口」というヘッドラインで報じた。

 

 

 6月2日に共同通信ソウル支局に閉鎖命令が下され、林憲一郎支局長には強制退去となった。

 

 朝日新聞は、この時、たまたま大阪本社社会部の斉藤忠臣と写真部の青井捷夫カツオの二人の記者が江原道カンウォンドでの紀行記事取材のため韓国に入っていた。光州での異変を知ったソウル支局長の藤高フジタカ明は、江原道束草に滞在していた二人に連絡して光州での取材を依頼した。斉藤と青井は急遽ソウルに戻り、5月19日の朝の高速バスで光州に向かった。

 

 斉藤忠臣は、2008年7月に「非核の政府を求める京都の会」で「拒否した力の支配 民主化を求めた光州事件の教訓―その取材記から」と題した講演を行い、この時の光州取材の顛末を語っている。

 

 光州の手前で高速バス運行が打ち切られ、タクシーで光州に入った。4日間取材をしたが、外部との通信がすべて遮断されていて記事も写真も送れない。やむなく、5月23日に徒歩で戒厳軍の封鎖線を突破して光州郊外の農家のトラックに乗せてもらい、一旦ソウルに戻り、記事を電話で東京に送った。青井捷夫が撮った写真は、アメリカのAPに送ってそこから東京に転送した。

 

 

 斉藤忠臣と青井捷夫は、5月27日にソウルでチャーターしたタクシーで再び光州に向かった。27日の夜、その日の未明に戒厳軍が市民・学生に多数の犠牲者を出して全羅南道道庁を制圧して未だ殺気だっていた光州市内に入った。途中の戒厳軍の検問は、同行していた支局のローカルスタッフが手に入れた「雀が1羽、2羽」(참새가 한마리 두마리?)という合言葉を使ってくぐり抜けた。

 この時のルポ記事と写真は、5月29日の紙面に掲載された。

 

 

 7月3日付で朝日新聞ソウル支局にも閉鎖命令が出された。藤高明支局長は国外退去となった。

 

  残されていたネガ

 2021年5月27日付の朝日新聞夕刊が、2017年に亡くなった青井捷夫の遺品の中から1980年5月の光州での取材時に撮影した247コマのフィルムが出てきたことを報じた。

 

 

 5・18民主化運動記録館と業務提携を結び、翌2022年5月11日から7月31日まで青井捷夫が撮影した写真の特別展が開かれた。

 

 

 この展示会にあわせて、朝日新聞は7月11日から15日までの5回にわたって武田肇記者による連載記事「あの日、光州の街で」を掲載した。

※これは有料記事だが、新聞記事データベースが利用できる公共図書館が多くある。朝日新聞は「朝日新聞クロスサーチ」で検索・閲覧が可能

 


 

 共同通信ソウル支局は、281日目の1981年3月7日に再開することができたが、朝日新聞のソウル支局再開が認められたのは1981年5月18日のことだった。

 

 李良傳についてのブログを3回に分けてアップしたが、その後、新しい資料が出てきた。ブログの第3話を補完する内容で、特にここで紹介する2番目の資料は李良傳の生まれた年が1911年となっていることにも絡むもの。ただ、一度アップしたものを安易に書き換えるのも何なので、とりあえずここに「補遺」として資料を紹介して、新たな推測を記しておくことにする。

(1)李良傳の葉書3通

 J -DACの近現代史料データベース「オンライン版 市川房枝資料 1905-1946」に李良傳から婦選獲得同盟あてに送られた葉書が3枚ある。
 
① 1930年(昭和5年)9月15日
 
 1930年4月27日の「第1回全国婦選大会」に李良傳は出席して発言している。この葉書には「御蔭様で無事再び上京する事になりましたから御安心下さいませ」と書かれており、「婦選大会」の後李良傳は東京を離れたのであろう。そして9月に再び東京にきて住まいを決めた。住所は「東京市神田区猿楽町二丁目十一番地ノ一 堀尾方」、下の地図にあるように明治大学のすぐそば。翌年4月の明大専門部女子部の入学に向けて着々と準備を進めていたように思える。そう考えると、一旦9月まで東京を離れていたのは、子供を朝鮮の実家に預けに行っていたのではないか… そんな推測も成り立つような気がするのだが。
 
② 1932年(昭和7年)7月2日
 明大専門部女子部の2年生の時も「婦選獲得同盟」の活動に関わっていた。2銭切手は絵ハガキや印刷したハガキの発送に使われるものか。
 
③ 1933年(昭和8年)年賀状

 

 明大専門部女子部2年生の正月の年賀状。この当時、それなりの枚数を出す場合は個人でも年賀状を印刷するのはさほど珍しいことではなかったようだ。李良傳は、すでにかなりの社会活動を経験して、年賀状の送り先も多かったのであろう。

 

 

(2)1946年2月26日付『中央新聞』記事

法曹界に異彩
司法要員に二人の女性が志願

 先日来、法務局で銓衡中の司法要員養成所の志願者に二人の若い女性がいて、我が女性界が万丈の気炎を吐いている。話題の主人公は、市内の踏十里町205番地の李良傳さんと大和町二丁目116番地に住む洪容淑さん。李良傳さんは京畿高女を卒業して明大専門部女子部から法学部を優秀な成績で卒業し、1937年には日本の特許局弁理士試験に合格し、その後早稲田大学大学院で2年間親族・財産法を専攻した篤学者だ。
 洪容淑さん淑明高女を出て、やはり明治大学の専門部女子部を経て1944年秋に明大法学部を優秀な成績で卒業した。判事・検事をサポートする女性は初めてであるだけに非常に注目されている。
 この記事に大学院での専攻も親族・財産法と具体的に記されており、李良傳が早稲田大学の大学院にいたことはほぼ間違いない。多分1939年か40年に修了したのだろう。
 
 司法要員養成所は、解放の翌年1月に「司法官及び弁護士資格者を養成するため」に設置が決まったもので、修学期間は1年。2月1日から20日までの期間に定員100名で募集された。入所資格は、
  1. 文官高等試験司法科試験合格者
  2. 朝鮮弁護者試験合格者
  3. 学務局が認定する大学もしくは専門学校で3年間法律学科を修了した者
  4. 中等学校を卒業したもので本養成所の予備試験に合格した者
となっていた(『東亜日報』1946年1月30日夕刊)。李良傳は3の資格で問題なく入所できたのであろう。ところが、この養成所は4月に講習が始まってわずか2ヶ月で閉鎖になり、62名の入所生のうち18名だけが司法官試補として任用されたが、残りの44名については行き場がなくなり、司法部の責任を問う声が上がっていた(『自由新聞』1946年6月25日)。日本の植民地支配時からの朝鮮人司法官がそのままポストに居座ったため新たに養成しても行き場がないことになったのではなかろうか。
 
 この司法要員養成所の閉鎖時期(6月)と、女子警察官募集の時期(6月)が重なっている。司法部は、行き場のない44名の一人李良傳の行き先として警務部に女子警察官への任用を依頼した、あるいは押し付けた可能性もある。その際に、年齢制限のあった採用人事を通すため李良傳の生年月日をどこかで書き換えたとも考えられる。5月にすでに決まっていた女子警察幹部16名には40代の女性もいたが、その後の採用には年齢制限があったようだ。解放直後のことで混乱があったとしても、個人が生年月日を詐称してすんなり通るとは考えにくい。上記のような官庁側の思惑と都合があったとすれば、方便として生年記載の「変更」はあり得ただろう。その女子警察採用時の「便宜上の生年」が1956年の『大韓民国 建国十年誌』に記載されてしまったことで、いまだに「1911年生まれの李良傳を3・1運動での貢献で褒賞する」という妙なことになっているのではないだろうか。
  • 「虎に翼」時代の朝鮮女子学生
  • 李良傳イヤンジョンの経歴資料
  以上は(3/1)
  • 3・1独立運動、そして東京へ
  • 3・1独立運動一周年
  • 朴烈パックヨルの救援活動と金柏枰キムペクピョン
  以上は(3/2)
ここから
  • 日本での「婦選運動」
  • 明治大学女子部入学・法学部編入
  • 解放後の李良傳
  • エピローグ

 

  日本での「婦選運動」

 1930年5月6日付の『朝鮮日報』は、日本の無産政党の合同問題を記事にして掲載した。東京発のこの記事の中で、4月27日に開かれた「第1回全国婦選大会」にも言及しており、そこに李良傳イヤンジョンの名前が出てくる。

 

この席上、李良傳という一人の女性がいて異彩を放っていた

 この大会で、李良傳は単に「異彩を放っていた」だけではなく、「すべての婦人団体と共闘することを申し合わせ事項とする」との重要な発言をしている(婦選獲得同盟『婦選』1930年5・6月号)。この大会の参加者は、「遠くは満洲、北海道から」と紹介されているが、朝鮮からの参加者という記載はない。李良傳は東京からの参加者として登録されていたようだ。

 

 さらに、この年の年末に神田YWCAで開かれた婦選獲得同盟の創立六周年記念会の晩餐会では、李良傳が朝鮮の歌を披露したことが紹介されている。

 

『婦選』1931年1月号

 

 この婦選獲得同盟の前身の婦人参政同盟は、女性の参政権の獲得だけでなく、女性弁護士の実現も目指していた。1926年10月30日に明治大学講堂で開かれた第2回総会では、「婦人弁護士法制定の促進」を、「世帯主の婦人公民権・参政権の獲得」とともに運動方針として決定している。

 

 

  明治大学女子部入学・法学部編入

 李良傳が、1931年4月に明治大学法科専門部の女子部に入学したのは、女性弁護士の実現を運動方針として掲げていた婦選獲得同盟の活動の実践でもあった。運動の実践といっても、東京での李良傳の学費や生活費まで婦選獲得同盟がサポートしていたとは考えにくい。1945年以降、アメリカに移った金柏枰が、息子をアメリカに呼び寄せたりもしている。また、「李良傳は金柏枰の保護の下で学業を続けた」との崔恩喜の記述もあり、1945年以前から、金柏枰が養育費などの名目で李良傳をサポートしていた可能性もありそうだが、確証はない。

 

 冒頭紹介したように、1937年の『明治大学一覧』の卒業者名簿で李良傳の名前が確認できるが、それだけではなく朝鮮の『東亜日報』や『毎日申報』にも掲載されている。

 

 

 この李良傳の1学年下で、同じコースを歩んだのが、ドラマ「虎に翼」で猪爪寅子のモデルになった武藤嘉子である。

 

 1938年、武藤嘉子、それに田中正子、久米愛子の3人が高等試験司法科に合格し、初の女性弁護士が登場することになった。一方、明治大学法学部を卒業した女子学生数名は、銓衡を経て弁理士として登録している。その中に李良傳も入っている。


 明治大学を卒業した李良傳は1937年8月9日に弁理士登録された(白德烈「韓國の辨理士制度創設經緯とその理由」)。その後早稲田大学の大学院に通ったようだ。『韓国女性独立運動史』に出身校として早稲田大学とあり、後述する1963年の国会議員選挙に出馬した時の李良傳の候補者履歴にも、早稲田大学大学院修了とある(中央選擧管理委員會『歷代國會議員選擧狀况』1963)。

 

 日本における李良傳に関しての情報はここで途絶えている。日中戦争から太平洋戦争に突入していく時期であった。

 

  解放後の李良傳

 1945年8月の日本の敗戦直後、任永信イムヨンシンが朝鮮女子国民党を立ち上げた。『毎日新報』9月14日の紙面に、朝鮮女子国民党の「政治部長 李良傳」と出てくる。

 

 

 任永信は、アメリカ留学から帰国して1932年に中央チュンアン保育学校を開校し、1936年には木下栄が開発した明水台住宅地(現在の黒石洞フクソクドン)の中に校舎を新築した。1946年9月にはこの学校を中央女子大学(現在の中央大学校の前身)として自ら学長となり、政界への進出も図った。

 

 李良傳が、日本の敗戦直後のソウルで女性政党の立ち上げに加わっていることから考えて、戦時中にすでに東京から京城に戻っていたものと思われる。戦時体制が強まる1940年9月には婦選獲得同盟が解散を余儀なくされており、それも一つの契機となったかもしれない。

 

 1946年、アメリカ軍政庁は警務部公安局に女子警察を新設することを決定した。5月にまず幹部となる女性16名を選抜し、6月3日締切りで女子警察官を募集した。

 

 

 李良傳は、16名の幹部には含まれておらず、7月1日に首都管区警察庁に任用されているので、この6月の募集に応募したのであろう。

 

 当時、アメリカ軍政下で女性の社会進出促進の動きはあったものの、韓国最初の女性弁護士李兌栄イテヨンが資格を取得したのが1954年になってからということが示すように、日本と同じように、あるいはそれ以上に女性が法曹界で資格を得ることは難しかった。女子警察は、李良傳にとって法律の知識を活かせる場であった。同時に、日本の敗戦の混乱の中で安定的な収入を確保する必要があったのかもしれない。

 

 この時の女子警察官の応募条件の資料は探せていないが、1947〜48年の女子警察官の応募条件では満25歳から40歳となっている。また、専門学校や大学の卒業証明がなければ35歳未満でなければ応募できなかった。

 

 

 女子警察官応募の時点で、1900年生まれの李良傳は満46歳。何らかの手を使って、生まれた年を1911年としたのではないのかと考えられる。1956年の『大韓民国 建国十年誌』にはそれがそのまま記載され、2018年10月の韓国警察庁の報道資料にも、1911年生まれと記載せざるを得なかったのだろう。

 李良傳にとっては、3・1運動への貢献が年齢的に矛盾するなど、様々なリスクは承知の上で、これまで学んだ法律の知識を活かし、これまでの女性運動の実践にもつながる女子警察官への道を選んだのではなかろうか。

 

 1950年6月の朝鮮戦争勃発で、1950年12月には臨時首都となった釜山の鉄道警察隊勤務となり、1953年6月11日に第3代釜山女子警察署長に就任した。1956年2月25日、依願退職して忠清北道チュンチョンプクド清州チョンジュ市の清州大学法学科の教授となった。

 

 1960年の4・19学生革命で李承晩イスンマン政権が倒れ、1961年5月には朴正煕パクチョンヒによる軍事クーデターが起きた。1963年に朴正煕政権下での初の国会議員選挙が行われたが、この選挙に李良傳は呉在泳オジェヨン秋風会チュプンフェの婦女部長として全国区に立候補している。

 

 

 しかし、秋風会は地方区33人、全国区5人が全員落選した。李良傳は、全国区の5人の候補者の5番目。1番目が清州大学院長なので、義理による出馬なのかもしれない。この選挙でも、李良傳は「55歳」としている。数え年だとしても、実年齢と10歳ほどの差がある。

 

 年齢を偽っても自分の学びを活かし、女性の社会活動を実現しようとした李良傳の事情を、崔恩喜や黄信徳などは理解していたのであろう。『祖国を取り戻すまで』や『韓国女性独立運動史』で、李良傳の活動遍歴や、金柏枰との関係について、曖昧な書き方になっていたり、モザイクがかけられて矛盾点や不可解な点が多くなっているのは、李良傳の生き方への「配慮」だったのかもしれない。

 

  エピローグ

 昨年(2023年)8月15日の『韓国日報』は、警察庁提供の写真を掲載して「独立運動有功警察官」として李良傳を紹介している。生没年は、依然として「1911年〜未詳」となっているが…。警察庁としてはこれは変更できないかもしれない。

 金柏枰は、1990年にアメリカで逝去した。2009年に国外独立有功者の一人として遺骨をアメリカから韓国に移送し、大田テジョンの国立顕忠院ヒョンチュンウォン墓地に埋葬された。ただ、2020年3月には、一部マスコミで金柏枰がドイツでナチの医学研究に協力したのではないかという疑義が提起されたこともあった。

 

 李良傳は、日本による植民地統治下の朝鮮で3・1運動に参加し、その後日本に渡ってハングルの女性雑誌を刊行、東京での3・1運動一周年行事では警察署長を殴って1週間勾留された。その後、朴烈・金子文子の救援活動にも関わり、日本の婦人参政権獲得運動の活動にも加わっていた。明治大学の法科専門部女子部への入学、そして法学部への編入学は、その女性の権利獲得運動の延長線上にある実践だったとも言えそうだ。

 その間の金柏枰との関係も気になるところだが、あくまでも資料をもとにした推測の域を出ない。

 解放後の韓国における活動からも、啓蒙や教育よりも自らの実践活動を優先するところに重きを置いた生き方を、李良傳は最後まで貫いたのかもしれない。

 

(完)

 

このあと、二つ新しい資料が出てきて「ドラマ「虎に翼」時代の李良傳(補遺)」をアップしました。合わせてお読みください。