ローウェルの宿舎と通訳・世話係・コック | 一松書院のブログ

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 パーシヴァル・ローウェル(Percival Lowell)が1883〜84年に朝鮮で撮影し、アメリカのボストン美術館がホームページで公開している写真についてはすでにブログで紹介した。

 

 ここでは、ローウェルの宿舎とソウルでの生活の一端、通訳や食事について見てみたい。


ローウェルは、1883年の12月末にソウルに到着し、齋洞チェドン統理交渉トンニキョウソップ通商事務トンサンサム衙門アムンの建物に案内されここを宿舎とした。この宿舎の前を撮ったと思われる写真が残されている。

 

 ボストン美術館のキャプションには次のようにある。

The street ashes leading to the Blue Unicorn Valley. My own house on the left, brushwood carrier in foreground.

 「The street (of) ashes」とは、斎洞の「斎(재)チェ」を「灰(재)チェ」とかけてこれをasheと英訳したのかとも思われるが…。この道をまっすぐ北に上っていくと当時は翠雲亭チウンジョンがあった。現在の「北村ブクチョンヒルズ」のあたりだろう。この翠雲亭の直下に「青麟洞天」と刻字された岩があり、これは今も残っている。「青い麒麟」すなわちBlue Unicornである。

 


2008jsl님의 블로그より

 

 従って、この写真のキャプションの意味するところは、

青麟洞の渓谷に続いている斎洞の通り。左側が私の宿所で、前には薪を運ぶ人がいる。

となる。統理交渉通商事務衙門は、欧米や日本など非華夷世界の国々との外交通商関係を取り仕切る役所として、1882年に斎洞の閔泳翊ミニョンイクの旧宅に置かれた。現在の憲法裁判所のところがその場所で、その前から北岳山プガクサンを見上げると山陵がローウェルの写真とほぼ一致する。

 

 

 ローウェルは、宿舎となった統理交渉通商事務衙門の建物について『Chosön, the land of the morning calm』に次のように書き残している。

 長い旅は終わった。私は地球の反対で私の住まいとして用意された建物の敷居に立った。すでに敷居を二つ越えてきたが、さらにいくつかの敷居を越え、曲がりくねった迷路を進み、最後に短い階段を上って、ようやく立派な部屋に辿り着いた。その部屋で私は座るように勧められた。そこにはヨーロッパ風の椅子とテーブルがあった。後で分かったのだが、これらは少し前に国王殿下に贈られたもので、王宮から家具としてここに送られたものだった。接待係は、ヨーロッパ製のビスケットの箱を取り出し、発泡酒をいくつか開けた。皆が温かく迎えてはくれたが、暖房はなかった。私は座ったまま笑顔で震えていた。親切な接待係は寒さには無関心のようだった。後から彼らの服を着てみたときにその理由が分かった。すぐにお茶が出てきて、床下の暖房にも火が入った。しかし、飲み物が冷めて飲めるようになるまで、そして床下の暖房の温もりが感じられるようになるまで、長く待たなければならなかった。
 スライド式の扉は開け放たれており、部屋の温度は上がらなかった。翌日になって私がこの家の主人として振る舞えるようになってから、扉は閉めておくべきものだと私は訴えた。私の世話を命じられた人々は、そのようにするとは答えたものの、それがうまくいくとは思っていなかった。彼らは、使用人たちが「主人の言うことに従う習慣がない」ので、彼らにそれをやらせることは難しいのだと言った。朝鮮では、扉は閉めるためではなく開けるためにあるということも、落胆させられる事実なのだ。召使いたちは、名ばかりの召使いたちである。
 室内暖房がうまくいって、私が滞在するつもりになりさえすれば私の住居となるはずのこの広々とした家の中を案内された。それは、内側にいくつもの部屋があり、外側からはひと続きの家屋に見える建物だった。それは外交のための役所の迎賓館と呼ばれていた。これは新しくできた呼称だった。以前は、何人もの朝鮮の有力者の住まいであったし、最後は現在の王宮の寵臣である閔の屋敷だった。建物と同じくらい広い庭園や中庭があり、自分の住まいの中で自分が迷子になってしまいそうになった。

(1888年版 p.80)

 到着したのは陽暦の12月末。屋内でも相当に寒かったようだ。

 

 このローウェルの朝鮮訪問には、英語-日本語の通訳として宮岡恒次郎が同行していたとされている

※高田美一「宮岡恒次郎とパーシヴァル・ロウエル・エドワード・モース,アーネスト・フェノロサ : 明治東西文化交流の一面」『立正大学文学部論叢』97号(1993.3)
정영진「미국 보스턴미술관 소재 로웰의조선 사진 설명문의 오류와 정정 방안」『문화재』53巻2号(2020.6)

 

 宮岡恒次郎は、1865年生まれで10歳から東京英語学校で英語を学び、10代でエドワード・モースやアーネスト・フェノロサの通訳をやっていた。その関係で、ローウェルが朝鮮の報聘使ポビンサ一行をエスコートして訪米する際には、宮岡がローウェルの私設秘書兼通訳としてアメリカに同行した。さらにその後のローウェルの朝鮮訪問にも宮岡が同行したといわれており、『Chosön』の前書きにMiyaoka Tsunejiroへの謝辞がある。

 

 朝鮮の報聘使一行がアメリカ到着後に撮った記念写真に宮岡恒次郎も写っている。左から3人目、ローウェルの左後ろに立っているのが当時東京帝国大学法学部の学生だった宮岡である。その後、1887年に東京帝大を卒業した宮岡は外務省に入省して外交官になった。

 

前列左からローウェル・洪英植ホンヨンシク・関泳翊・徐光範ソグァンボム・呉禮堂(中国語通訳)、後列左から玄興澤ヒョンフンテク・宮岡恒次郎・兪吉濬ユギルチュン崔景錫チェギョンソク高永喆コヨンチョル邊焼ピョンヨン

 

 当時は、朝鮮王朝にはまだ英語の通訳がおらず、ローウェルには日本語の通訳が付いた。『Chosön』の記述から、釜山上陸時から東莱府の「倭学訳官」が同行したのではないかと思われる。ローウェル自身も日本語は多少はできたようだが、通常のコミュニケーションは、通詞が朝鮮語を日本語に訳したものを宮岡が英語でローウェルに伝えるというものだったのだろう。

 

Korean Interpreters into Japanese,

 

 ローウェルの世話を担当したのは崔景錫と李時濂イシリョムの二人だった。崔景錫は武官として報聘使にも随行しており(前掲写真後列中央)、李時濂は統理交渉通商事務衙門の司官として世話役を担った。

 

Korean Gentleman

 ローウェルは『Chosön』のまえがきで、宮岡恒次郎の名前とともにこの二人の名前を挙げて謝辞を贈っている。

 

 そして、本文中では崔景錫と李時濂について次のように言及している。

 二人の役人が私の世話をするために任命された。その一人はこの屋敷の一角に住んでいた。彼は将官級の軍人で、私の護衛として旧知の間柄だった。彼の役割は、住居の責任者として財務関係全般を取り仕切った。彼はこの世で最も善良で優しい人物であり、非常に物静かで細やかに配慮していた。彼が様子を見に来た時にはいつも穏やかな満足感が漂っていた。もう一人は外務官僚の書記官だった。彼の仕事は定期的に私を訪ねることだった。ほぼ一日に一回、私の前からなくなったものがないかを確認し、それを補充するように手配した。サクァン(それが彼の肩書だった)は最も有能な民間伝承学者だった。生まれつき話し上手な彼は、世話係の仕事に最適であった。他の国であれば宴会で人々を楽しませる存在になっていたであろう。彼が披露する物語や伝説は、それだけで一冊の本になるほどだった。自分が語ることすべてを信じていたという一点を除いて、彼は朝鮮における完璧な神話学者だった。

(1888年版 p.84)

 

 ローウェルが撮った写真の中にもう一枚興味深い人物写真がある。

 

My Japanese cook dressed in Korean clothes. A corner in one of the narrow streets 

(狭い通りの一隅に韓服を着て立つ私の日本人コック)

 この日本人コックに関して、ローウェルは『Chosön』で次のように述べている。

 私は、この地の住民が創意工夫で料理した「発明品」を食べ、コックがうまく料理できたと思う「実験的食べ物」を味わった。そのコックは、自分の知らない材料や奇妙なものを手に入れては、それを試した。その才能は非常事態に対応するのには長けていたというべきかもしれない。すでに述べたように、そのコックは、私のために朝鮮人が日本から連れてきた長崎出身の男だった。初めはホームシックにかかったように、いつ出航するのかと何度も尋ねた。しかし、日本人は抜け目がなかった。実は故郷に帰りたかったのではなく、ソウルで最初の外国料理店を開くという野心的な計画を立てていて、我々の出発を心待ちにしていたのだ。そのことを彼は私には話をしないまま、数ヶ月後に海岸で別れの挨拶をする際に、私にその決意を告げた。そこで私は彼を済物浦に残すことにした。その後、彼がその計画を実行したのか、もし実行していたとしても、その年の12月に起きた日本人の虐殺事件を生き延びることができたのか、私は彼の消息を聞くことはなかった。ただ、彼は私にとっては良い使用人だった。

(1888年版 p.83)

 この写真で韓服を着ているのは、ローウェルが「親切な接待係は寒さには無関心のようだった。後から彼らの服を着てみたときにその理由が分かった」と書いているように、韓服の方が防寒に優れていたからではないか。多分、長崎から持ってきた手持ちの衣服では到底朝鮮の寒さには太刀打ちできなかったのだろう。

 

 ローウェルが、この長崎から来た日本人コックを残して朝鮮を去った10ヶ月後の12月に、金玉均キムオッキュン朴泳孝パギョンホ・洪英植らによる甲申政変カプシンチョンビョンが起きた。この政変では、日本の竹添進一郎公使が日本軍の守備隊を引き連れて国王の居所であった昌徳宮チャンドックンに出動した。3日後にソウルに駐屯していた清軍との間で交戦になり、金玉均や朴泳孝らは国王を昌徳宮から北廟プンミョに送り出し、日本の竹添公使や守備隊と共に日本公使館に退却した。この当時の日本公使館は、現在の雲峴宮ウニョングンの向かい側、天道教チョンドギョの中央会堂があるあたりにあり、昌徳宮の北側を迂回して、ローウェルが宿舎にしていた統理交渉通商事務衙門の前を通って死傷者を出しながら公使館までたどり着いた。一方、洪英植は国王に随行して北廟に向かい、その後清軍によって殺害された。

 

 洪英植は、訪米した報聘使の一員であり、ローウェルとも親交があった。おまけに、ローウェルの宿舎だった統理交渉通商事務衙門のすぐ北側が洪英植の居宅だった。ローウェルは、洪英植の父で元領議政の洪淳穆ホンスンモクと兄洪萬植ホンマンシク、弟洪正植ホンジョンシク、それに子供たちが一緒の写真を残している。洪淳穆は12月の甲申政変の後で洪英植の子供を連れて自決した。

 

洪萬植(兄) 洪淳穆(父) 洪英植 洪正植(弟)

 

 ローウェルは、洪英植についても『Chosön』のまえがきで名前を挙げている。

 

忠実な友であり、真の愛国者であり、ついには政治的殉教者となった今は亡き洪英植に感謝を捧げる。

 この政変の最中、日本勢力が甲申政変の「反乱」を起こした側に加担したとして、ソウルに在住していた日本人が朝鮮人住民の攻撃のまとになった。ソウル在住で、日本公使館まで辿り着いた34名は、日本公使館の館員・関係者、それに守備隊とともに仁川に脱出した。また、アメリカ公使館に逃げ込んだ16名も仁川まで清軍と朝鮮側に警護されて送り届けられた。騒乱の中で40人の日本人が犠牲になり、そのうち27人が民間人だった。これが、ローウェルが言及した「その年の12月に起きた日本人の虐殺事件」である。ただ、残念ながらローウェルは、このコックの名前などは一切書き残していない。

 

 この時の民間人犠牲者の中に、長崎出身者が二人確認できる。一人は、長崎の船大工町出身の平民友田亀次郎、もう一人は長崎魚町出身の平民井奈田金三である。

 

 ローウェルのコックは、この二人ではなく、ソウルのどこかで初めての洋食屋を開業したのかもしれない。そうであってほしいと思うのだが…。