一松書院のブログ -19ページ目

一松書院のブログ

ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

  • 初期の日本からの渡航
  • 日韓国交正常化以降
  • 外人ウェインアパート」の建設
  • 日本人学校

 1945年8月15日の日本の敗戦時、米軍が敗戦処理を担当する朝鮮半島の北緯38度線以南には50万人近い日本人が居住していた。これが、「引揚げ」によって1945年末には日本人は2万8000人程度になり、翌年春までにはほぼ全ての日本人が退去した。ここでいう「日本人」とは、いわゆる「内地」、現在の日本の主権領域内に「本籍」がある人のこと。当時は、婚姻や養子以外で本籍を動かすことは極めて難しかった。特に、内地と朝鮮の本籍は厳格に区分管理されていた。それもあって、日本の敗戦時に、朝鮮から退去すべき人は容易に抽出することができた。朝鮮人との婚姻で朝鮮戸籍に入った日本女性は、日本に戻ろうとしても引揚げの対象にはならず、朝鮮に残留した。米軍政庁が許可した少数の日本人も残留することになった。

 そして、日本から朝鮮半島への公的な渡航は途絶した。

 

  初期の日本からの渡航

 公然ルートでの戦後初の渡航者は、朝鮮戦争の取材で韓国に入国した日本の各新聞社・通信社の特派員だろう。ただ、彼らは韓国政府の渡航査証ではなく、国連軍(米軍)の渡航許可を得て韓国に入ったものだった。朝鮮戦争休戦後も日本人記者は国連軍の証明で韓国内で取材を続けた。しかし、1956年11月に韓国の李承晩イスンマン政権は日本のマスコミ各社の記者に退去命令を出した。日本のマスコミ数社が韓国への取材渡航を申請したが、認められなかった。

 

 韓国政府が認めた初めての日本からの渡航者は、首相岸信介の個人特使として1958年5月19日に訪韓した国策研究会の矢次一夫。矢次には駐日韓国代表部の柳泰夏ユテハ公使が同行し、26時間のソウル滞在中に李承晩大統領とも面談している。

 

 1960年4月、李承晩政権が倒れると、5月3日に韓国政府は日本の特派員の韓国入国を認めることを表明、5月16日から5月17日にかけて15名の日本人特派員がソウルに入った。半島バンドホテル(現在のロッテホテルの場所にあった)にそれぞれ取材拠点を置いて、光化門クァンファムン交差点の国際電報局(現在工事中のKT光化門ビルの場所)から記事を日本に送った。(ブログ在韓特派員史参照)

 

 日本政府の官僚で最初に訪韓したのは、外務省北東アジア課の若手外交官だった町田貢。1960年の9月に半島ホテルに宿泊し、韓国外交部のエスコートで地方も視察した。翌年には、北東アジア課長前田利一も訪韓するが、韓国側は日本政府のソウル連絡事務所開設を認めなかったため、その後も駐在ではなく短期滞在での出張が繰り返された。(町田貢『ソウルの日本大使館から』1999 文藝春秋)

 

 この時期から、韓国側からの招請状があれば短期の渡航ビザが発給された。経済関係の代表団や視察団、親善交流や文化交流の訪韓、それにスポーツ交流試合のための渡航が徐々に増えていった。『朝鮮日報』が1963年から1966年4月までの日本人の出入国状況を報じている。

 

 

 こうした訪韓の中で、興味深い例がいくつかある。

 1962年にアジア映画祭がソウルで開催された。アジア映画製作者連盟の会長だった永田雅一以下、東映・松竹・東宝・日活の幹部が牧紀子、新珠三千代、松原智恵子などの女優とともに映画祭に参加した。この映画祭では、日活の「上を向いて歩こう」(坂本九・浜田光夫・吉永小百合など出演)が上映された。

 

 また、1963年6月には日本の女子プロレス選手団が訪韓して、韓国の女子プロレス選手と対戦している。

 

 前年1962年12月に、日本のプロレス・コミッショナーを務めていた自民党副総裁大野伴睦が、韓国からの要請もあって訪韓して朴正煕と会談した。その直後の翌年1月8日から11日まで、力道山が韓国を訪問している。この時、力道山は日本国籍を取得しており、日本の旅券を所持しての渡航だった。

 

 

 この1963年の11月22日には、李承晩政権下では帰国が認められず東京に滞在していた李垠イウン方子マサコ夫妻がJAL特別機で帰国を果たした(대한뉴스 제 445호-영친왕 환국)。

 その3日後の25日から12月2日にかけて、大宅壮一と梶山季之が韓国を訪問している。梶山季之は『文藝春秋』の1964年2月号に「朴大統領下の第二のふるさと」を寄稿した。梶山は、京城中学在学中に京城で敗戦を迎えた。企業小説や風俗小説などとともに「族譜」や「李朝残影」など朝鮮を題材にした小説も書いた。この訪韓時に、梶山が京城で住んでいた新堂町(新堂洞シンダンドン)の家を見に行っている。

 この訪問記の中に料亭の「清雲閣チョンウンガク」に行った話が出てくる。

 清雲閣は、もと三菱か何かの支店長の社宅だそうで、ここではオンドルも、湯を通したパイプを薄いコンクリートの床に埋めて、スチーム式だった。
 日本語を話す妓生は、ほとんど三十歳を越えており、彼女たちが最初に話しかける言葉は、「いつ韓国に来たか?」という質問だった。
 これは、日本の商社マンが、丸紅をはじめとして多く入り込んでいるためで、先ず第一質問によって、新鮮度を占うのだということだった。赴任して間もなくだったら、金を持っているからだろうか。

 青雲閣は、解放後に趙次任チョチャイムが始めた料亭で、鍾路区チョンノグ清雲洞チョンウンドン53-26、現在の紫霞門チャハムントンネルの手前にあった。政財界の要人が利用する高級料亭で、1965年の日韓国交正常化時の外務部長官主催の招宴もここで開かれた。その料亭に、1963年時点で日本の商社マンたちが出入りしていたことがわかる。その前年の1962年秋には、外相大平正芳とKCIA部長金鍾泌キムジョンピルの間で「請求権」をめぐる金額の話が出たことが報じられた。この金を狙って日本の商社などがすでに動き始めていた。日韓国交正常化後、日韓の要人への日本側企業からのキックバックやリベートの噂が絶えなかったが、この時すでに青雲閣などで関係を深めていたのだろうか…。

 

 駐韓日本代表部のソウル開設は実現しなかったが、1964年からは日本の外交官のソウル駐在が認められるようになった。上述の『ソウルの日本大使館から』には次のように記されている。

その後、出張で何回か韓国に足を踏み入れたが、ソウルに初めて駐在したのは1964(昭和39)年である。まだ国交が正常化されていなかったので、半島ホテルに事務所をおき、外務省の職員が交代で駐在した。
 この頃までには、日本の大手マスコミの特派員がソウルに駐在し報道に当たっていた。また、大手商社員たちの姿もチラホラ見られるようになっていた。
 日本人特派員もほとんどが単身赴任であり、われわれと同じように半島ホテルに居を構えていた。双方共に、韓国の政治情勢や社会状況を取材するのが目的なので、出かけるときも食事をするときも、気のあった仲間たちが数名ずつ、一緒になって行動していた。

  日韓国交正常化以降

 1965年12月18日に日本と韓国の国交が樹立された。

 

 

 東京には駐日韓国大使館が開設され、駐韓日本大使館は半島ホテルの5階フロアーに置かれた。ソウルに駐在する外交官や特派員、商社の駐在員などの日本人は、ほとんどが単身でホテル住まいをしていた。

 

 1967年1月18日の『毎日経済新聞』に、日韓国交正常化の最初の一年、1966年の外国人訪韓者の数字があり、そこで日本人の韓国渡航者数も報じられている。

法務部出入国管理当局は、昨年(1966)韓国に入国した外国人86,349人のうち、日本人が16,871人で、年々急増していると明らかにした。
外国人入国者全体の20%を占める日本人は、アメリカ人の30,126人に次いで2番目に多く、入国目的別では、観光が10,773人、商業関係が3,237人、文化・体育関係が999人となっている。
当局の統計によると、1962年に24,348人の外国人が入国したのに対し、1965年には48,562人と199%増加し、1966年には380%増加した86,349人が韓国に入国したとなっている。

 「観光」というのはツーリスト・ビザでの渡航者で、1月〜4月まで2,728人だったのが年間では1万人を越えた。旧朝鮮在住者などの再訪が多かったようだが、実際にはビジネスを目的とした渡航者も多かったといわれる(『朝鮮日報』1966年6月16日)。

 

  また、1967年には韓国政府招請留学生として池川英勝と藤本幸夫がソウル大学の大学院に留学している。それ以降、国費や私費での日本人の韓国留学が徐々に増えていった。1981年10月時点で、韓国全土の日本人留学生数は約100名になっていた(在韓日本大使館『一問一答』1983.11)。

 

 商用ビザでの渡航も増加しており、1967年7月20日には、ソウル日本人商工会が発足した。会長・副会長には三菱商事、伊藤忠、丸紅のソウル支店長が名を連ねている。

 

 

 このように、日韓の国交正常化以降、日本人の短期渡航だけでなく長期の在留が増加したが、家族を伴っての滞在には、まだハードルが高かった。一つは子供の教育の問題で、学齢期の子供の教育は当初は現地校しか選択肢がなかった。もう一つは、住居問題。一般の韓国の家屋では、風呂やトイレなど水回り、それに冬の暖房など不慣れな点が多かった。住居費の支払いも韓国特有の「伝貰チョンセ」が多く、まとまった現地通貨を用意しなければならず、日本式の「住宅手当」では対応が難しいこともあった。

 

  「外人アパート」の建設

 ちょうど同じ頃、韓国政府は外国人向けの住居、すなわち暖房・温水などが集中管理されたマンション型の賃貸式集合住宅の建設を進めていた。

 

 漢南洞ハンナムドン漢江ハンガン河岸の高台には、大韓住宅営団が管理する米軍・国連軍関係者の住宅地「UNビレッジ」があった。もとは日本統治時代に宅地化された華鏡台だったところ。

 

 

 このUNビレッジの東側に、1968年10月に「ヒルトップ外人ウェインアパート」が完成した。その後1990年代には外国人住宅ではなくなり、2002年に大規模改修され、現在はヒルトップ・トレジャーAPTになっている。

 

 

 さらに、1969年6月に、梨泰院イテウォンがら南山に上った循環道路沿いに16階建と17階建の2棟の「南山外人ナムサンウェインアパート」の建設に着手し、1972年12月に完成した。

 

 上掲の写真は、1972〜3年の冬、「南山外人アパート」の完成直後の写真だろう。ちなみに、写真下部の第3漢江橋チェサムハンガンギョ(現:漢南大橋ハンナムテギョ)は1969年に開通、1979年に営業を始めるハイアット・ホテルはまだない。

 

 「南山外人アパート」は、1994年に爆破解体されて跡地は現在は公園になっている。

 

 

 もう一ヶ所、外国人向け住宅が作られたのが東部二村洞トンブイチョンドンである。東部二村洞の河川砂地の宅地化開発が始められたのは1964年。

 

 

 1966年から1970年にかけて、公務員コンムウォンアパート、民営ミニョンアパート、漢江マンションなどの集合住宅と共に外国人向け住宅「リバーサイドビレッジ」が建設された。

 

 

 これらの「外人住宅」・「外人アパート」は、大韓住宅公社が管理していたので、「伝貰」ではなく「月貰ウォルセ」、すなわち家賃は月払い。日本人駐在員には、多額の外貨をウォンにする必要もなく住宅手当で賄えるメリットが大きかった。住宅は上下水道に都市ガスが完備しており、暖房や温水は集中管理。広さは日本の住宅よりも広いくらいで、「食母シンモ」と呼ばれた家政婦や運転手も雇用することができた。

 さらに、リバーサイドに隣接する漢江マンションは、当時としては一般市民の手の届かない高級分譲住宅。それなりの地位と財力の韓国人が購入した。複数戸数を購入した所有者の中には日本人向けに月貰で貸し出す人もいた。漢江マンション以外の東部二村洞のアパートでもそのような賃貸で貸し出す例が増えていった。

 

  日本人学校

 日本大使館は、1968年4月に中学洞チュンハクトンに770坪の土地を購入し、建物の建設を始めた。1970年に新たに完成した大使館に移転し、同時にこの大使館内に「日本人補習校」を開設した。

 

 1972年5月、漢南洞の礼式場イェシクチャンの2階に日本人学校ソウル校が開校した。

 

 

 大使館員や特派員、企業関係者などの長期滞在者が居住する外国人向け住宅のちょうど中間地点に日本人学校が設置されている。

 

 その後、次第に日本人の長期滞在者が増加する。単身赴任者の一部や留学生は「下宿」にも住んだが、増加する企業関係者は「外人住宅ウェインジュテク」を求めた。しかし、「南山外人アパート」や「ヒルトップ」「UNビレッジ」「リバーサイドビレッジ」は戸数に限りがある。そのためため、日本人学校への通学の便宜もあって、東部二村洞の漢江マンション、それに三益サミック、ジャンボ、王宮ワングン、レックスなどの韓国人所有のマンション住宅と個別に貸借契約を結んで居住する日本人世帯が多くなった。

 

 日本人学校の生徒数も増加し、1979年に漢江の南側の開浦洞ケポドンに土地を購入して、1981年に新校舎を建築して移転した。

『韓国生活事典』白馬出版(1987)

 

 

 日本人学校のスクールバスのルートの関係で、子供のいる日本人世帯はますます東部二村洞に集中することになり、1980年代には東部二村洞は「日本人タウン」と呼ばれるまでになった。漢江ショッピングに行くと日本の味噌や醤油、キューピーマヨネーズ、出前一丁が買えた。ジャウン製菓にいくと、生クリームのケーキを売っていた。

 

 1990年代に入ると、ソウルに居住する日本人の在留資格も多様化し、居住地域も広範囲に広がっていく。

 同時に、韓国の住宅事情も大きく変化し、外国人向け住宅を提供する必要がなくなった。「ヒルトップ」は1980年代に大韓住宅公社から民間に売却され、しばらくは外国人への賃貸が続いていた。しかし、1990年代末に2戸をぶち抜いて1戸に改装して高級マンションとして韓国富裕層に分譲された。「南山外人アパート」は1994年に爆破撤去され消滅した。東部二村洞の「リバーサイドビレッジ」も1999年に民間の高層高級マンションへの建て替えが決まり、2003年にLG漢江ザイAPTが建てられた。

 

 それでも、駐在員の住居の引き継ぎの関係や、不動産屋が日本人への賃貸に慣れていることなど、それに日本人学校のスクールバスの経路の関係もあり、企業の駐在員などを中心に、かなりの数の日本人居住者が東部二村洞に居住していた。

 日本人学校は、2010年に開浦洞から上岩洞サンアムドンのデジタルメディアシティに移転した。これによって、日本人の居住地にも変動が起きた。

 

 ちなみに、ソウル在住日本人の数(大使館に在留届を出した人数)は、分かる範囲では以下のとおりである。

 

2003年   7,357人
2018年 12,137人
2019年 14,920人
2020年 12,201人
2021年 12,665人
2022年 12,967人
2023年 13,546人

外務省領事局政策課

海外在留邦人数調査統計

 

  2019年の『国民日報』の記事では、「1000余名の日本人が暮らす東部二村洞」となっており、ソウル全体の在留邦人数からすると決して多くはない。

 

 それでも、これまで長々と書いてきたような経緯もあってのことだろう。東部二村洞に対する「日本人タウン」のイメージは、ソウル在住の日本人や在日韓国人、それに韓国人の間で今もなお消え去らずに残っているようだ。

 今や韓国の街角には、日本語を教える学院ハグォンの看板が出ていたり、居酒屋風の店がまえに日本語の看板が出ていたりするのは当たり前の風景になっている。

 

 そんな「今」を、日本と朝鮮半島の関係の中で理解するためには、「今の当たり前」が「当たり前ではなかったこと」を知ることが有益だろう。日本の植民地支配から解放された韓国で、日本語を学ぶということがどのように捉えられ、政策や社会動向がどのように変わってきたのか。解放直後から、KBSテレビで日本語講座が始まる1980年代あたりまでの動きを追ってみた。

  • 日本語の排除
  • 4・19以後の日本語ブーム
  • 日本語教育の「陽性化」
  • 日本語学習の定着

  日本語の排除

 1945年8月の日本の敗戦によって朝鮮は日本による植民地支配から解放された。米軍政庁は、1945年9月29日の軍政庁法令第6号で「朝鮮の学校における教育用言語は朝鮮語とする」と定め、1947年6月28日の軍政庁行政命令第4号で「南朝鮮過渡政府の公用語は朝鮮語とする」と定めた。植民地支配末期の戦時体制下での日本語強要も相まって、解放時の朝鮮では、公的な場のみならず私的な日常生活にも日本語が入り込んでいた。近代化の過程が日本による侵略と重なったことから、近代的文物や概念の用語が日本語の漢字の置き換えを多く使うことになった。そのため、日本語の影響を一気に排除することは容易ではなく、とりあえずは目につく「倭色ウェセック」を薄めて行く作業を進めていくしかなかった。当然のことながら、日本語を学んだり教えたりということはタブー視された。

 

 他方で、韓国に引き継がれることになった朝鮮総督府図書館や京城府図書館、それに各種教育機関の図書館などに残された蔵書資料の大半は日本語の資料であり、日本人が引き揚げの時に放置したり二束三文で売り払った書籍もあちらこちらに出回っていた。建国後の新たな国づくりのために、さらには1950年からの朝鮮戦争で荒廃した国土を復興するためには、英語などを通した知識・情報の活用とともに、これら日本語による知的資産の活用も必要であった。

 

 「倭色」除去の裏面では、こうした日本語の利用が行われていた。新生韓国を様々な分野で牽引することになった人々は中等教育・高等教育を日本語で受けざるを得なかったため、それが可能だった。ところが、解放から10年以上が経過すると、日本語を新たに学習して習得する必要な世代が出てくる。それらの人々も日本への反感や警戒心は強かったが、ツールとしての日本語の必要性も感じていた。そうしたことから、1950年代後半から、日本語学習の欲求は、特に若い世代で強まっていた。しかし、李承晩イスンマン政権は、「反共防日」政策を掲げて、あくまでも日本語の教育を容認しようとはしなかった。

 

日本語教育はダメ
文教長官が警告

朝鮮日報 1958年2月25日
24日、文教部長官は全国の各教育機関に対して、正規の教育課程やその他の名目の教育においても日本語を教えないよう通達した。現在、ソウルの鐘路書館に連絡事務所を置く蛍雪文化社では「日本語会得参考書」を制作・市販しているとし、20代の青年の学習者がこれに関心を示して読んでいるとしながらも、文教部は「日本語習得の目的が学術的な面にあるとしても、現下の「反共防日」教育に鑑み、教育機関で公然と教えたり、学べる環境を用意するのは適切ではない」と指摘し、慎むべきだとした。

 この時、蛍雪文化社ヒョンソルムナサは『알기 쉬운アルギシウン 日本語』を販売していたが、文教部長官が法務部長官にあてた公文「日本語会得参考書発行に対する対策講究の件(일본어해득참고서 발행에 대한 대책강구의건)1957年 管理番号CA0026768」の中では、

現下の国内外の実情と反共防日の国策に照らし、日本語を普及させることは親日的感情を助長し、日本の文化的な侵攻を許す結果を招くものと思われる。近頃、ソウル特別市鍾路 2街の出版社蛍雪文化社が日本語参考書『알기 쉬운 日本語』を刊行・販売中であるところ、国家的立場からこれを看過することはできない。

と具体的に書名を挙げて排除の対象とされていた。蛍雪文化社以外でも、文洋社ムニャンサが1958年4月に出した『日本語 첫걸음チョッコルム(第一歩)』などがあったが、この本の巻頭言では「倭色一掃は我々が取り組むべき課題であるが、“敵を打ち破るためには敵を知らねばならない”」という出版の目的が強調されていた。これは、当局の目を意識したものであろう。

 

 

  4・19以後の日本語ブーム

 1960年3月の大統領選挙では李承晩が再選されたが、不正選挙だとする抗議運動が激しくなり4月19日の大規模な学生デモをきっかけに李承晩は大統領を辞任して国外に脱出した(4・19サーイルグ革命)。李承晩政権の崩壊を契機に、それまで水面下で広まっていた日本語学習・日本語教育が表舞台に登場することになった。李承晩大統領辞任から2ヶ月後、目の敵にされていた蛍雪文化社は日本語通信講座の広告を大々的に『東亜日報』に掲載している。

 

 

 1961年1月13日付の『朝鮮日報』「書籍界」欄ではソウル市内の日本語講習所について触れられている。

 現在、ソウル市内には約20ヶ所の日本語講習所があるが、その規模は千差万別。6ヶ月間の講習期間で1,500ファンから3,000圜程度の受講料を払って一日平均の講義時間は60分。明洞近くのS語学院はその中でも小規模で10人余りの受講生がいる。全員が24歳以下で、男性より女性の方が多く8割が女性だ。職業はほとんどが大学生だが、職業女性もいる。

(中略)

 「なぜ日本語を学ぶのか」というアンケートに対し、20代男女100人の答えは次の通りだ。勉学のため40%、ラジオを聴くため10%、小説を読むため40%、翻訳するため5%、留学のため5%となっている。

 さらに、1961年3月11日の『朝鮮日報』は「日語ブーム」という記事を掲載した。

日本語ブーム

講習所は超満員
李政権が崩壊するやいなや、いつの間にか

 4・19革命が起きた昨年、15年ぶりに解放後初の日本ブームが起こり、日本語のレコードが氾濫し、低俗なエロ雑誌が公然と輸入・販売されるなど、止められていた日本文化が革命の風に乗って入ってきて、まるで解放直後の英語やアメリカのブームに似た社会現象が続いている。特に、日本による植民地支配の屈辱を経験していない20代前後の男女学生の日本熱は日増しに高まっており、停滞したままの韓日会談、タングステン契約をめぐる政界の醜態、そして暫定的とはいえ日本政府による対韓輸出停止など、微妙な韓日関係にもかかわらず、道義的な警戒心を失ってしまっているかのようだ。
 日本文学全集が発刊され、日本のベストセラー小説が韓国の昨年度のベストセラーになり、喫茶店や料亭などで日本の音楽の海賊版が流されても取り締まれずにいる。
 4・19革命以前は、1〜2ヶ所でこっそりとやっていた日本語講習所も、この10ヶ月で英語塾に負けないほど増加して雨後の竹の子状態。 韓国初の外国語大学には今年から日本語科が新設されて学生募集が始まった。ほぼ全ての人文系の大学が日本語科を新設しようと文教部に申請している。一方、反日政策が徹底していた4・19以前にはほとんどみられなかった無認可の私設日本語講習所がソウル市内だけも大小50ヶ所にはのぼるだろうというのが当局の推計。市の教育委員会は、このうち摘発した12ヶ所に対して3月6日付で閉鎖するよう通告したが、1カ所もそれには応じておらず、逆に新聞広告で生徒募集までしている。ソウル市教育委員会は昨年8月にも日本語講習所に閉鎖通告をしたが閉鎖したところはないという。これらの講習所が 正式に認可申請を出してきた場合、認可すべきかという問い合わせに対し、文教部は2月6日付で「時期尚早」で認可すべきでないと回答している。市当局は、認可をすることもできず、また氾濫している無認可の私設講習所についても取り締まる法規がないため、放置するしかないという。検察や警察に告発しても処罰規定がないため、どうすることもできず、監督機関が見回る程度で、警察の権威が地に落ちた昨今はどうしようもないという。社会教育機関および私設講習所に関する法規は50年前の総督府令第3号のみで、この規定の第1条によって当局の認可がない講習所に対しては閉鎖を命じることができるものの、行政命令に違反した場合の罰則規定はない。
 このような法規の不備と当局の無策によって、日本の国定教科書である「中学国語」まで教材として使う講習所もあり、「日本語の第一歩」など5〜6種類の日本語教科書が飛ぶように売れている。

 対日感情が和らいだわけでも日本に憧れを抱くようになったわけでもない。解放後の教育を受けた若い世代は、日本語を外国語として学ぶ必要に迫られていた。また、独裁政権下で多様性を求めたり多角的な情報に接するツールとしての需要もあった。だが、植民地支配を経験した世代から見ると、若い世代の日本語学習熱は、日本への警戒心の欠如のようにもみえたのであろう。

 

 『京郷新聞』1963年8月22日の記事でも、日本語学校が増加していることについて、

大学図書館で手軽に読めるのは日本語の本。 現在、ソウル大学の60万9553冊の蔵書のうち東洋書が45万2641冊、その大部分が日本語書籍だ。高麗大学図書館は16万数千冊の蔵書のうち9万2千数百冊が東洋書で、そのうち約5万冊が日本の書籍。 延世大学もほぼ同じ割合だ。日本語講習所の受講生は理工系の学生が一番多く、人文・社会科学系がそれに続く。

と日本語学習の必要性をレポートしている。だが、同時に大学教授のコメントを引用して、「精神と物質面で日本に奪われてしまう」懸念や、「民族の主体性は常に守っていなければならない」といった警戒感が示されていた。

 

  日本語教育の「陽性化」

 1965年の日韓国交正常化以降、日本の「文化侵略」警戒論は依然根強かったものの、日韓交流の窓口は広げられることになった。1967年に、韓国政府は日本への留学を正式に認めるものとし、日本への留学資格試験に日本語を課し、合わせて日本語学校を正式に認可していく方針を示した。

 

 

 これ以前にも、日本に渡航して日本の大学などで学ぶ「留学」は存在していた。ただ、まだ韓国の海外渡航は自由化されておらず、日本への留学を目的とした旅券申請は却下された。これ以前の「留学」は、何らかの別の名目で旅券を取得するか、非正規のルートで日本に渡って日本で学んだものだった。ビデオアートの創始者として知られる白南準(ナム・ジュン・パイク)は1949年に香港の学校に移りその後日本に渡って1952年に東大文科部に入学した。世運商街や蚕室競技場など数多くの建築物を設計した金壽根キムスグンは1954年に東京藝大に入学しているが、彼は非正規ルートによる「留学」であった。


 ちなみに、1967年に日本人初の韓国政府招請留学生として池川英勝(歴史学:元東京外大・天理大学教授)と藤本幸夫(言語学:元富山大学教授)が韓国に留学している。1969年には馬越徹(教育学:元名古屋大学教授)と菅野裕臣(言語学:元東京外大教授)が、また、文部省からの派遣留学生として稲葉継雄(教育学:元九州大学教授)が留学した。1968年には長璋吉(文学:元東京外大教授)が留学ビザを取得して延世大学に私費留学している。延世大学と慶應義塾大学の間に交換協定が1970年10月に締結され、最初の交換留学生として1972年に小此木政夫(政治学:元慶應大教授)が留学した。

 

 1972年4月3日、極東放送(FBS)がラジオの日本語講座「오늘의オヌレ 日本語(今日の日本語)」の放送を開始した。午前5時から10分間の放送で、午前11時から再放送。ただ、『東亜日報』のラジオ欄には、「外国語講座(再)」とだけ表記されていて日本語の扱いの微妙さが見てとれる。

 

 1972年7月5日、朴正煕パクチョンヒ大統領は経済企画院で開かれた月間経済動向報告の会議で、それまでのフランス語、ドイツ語に加えて日本語を第2外国語に指定し、高校で日本語教育実施をするよう指示した。7月5日の夕刊各紙がこれを伝えているのだが、この前日の7月4日には朝鮮戦争後初の「南北共同声明」を中央情報部長の李厚洛イフラクが劇的に公表していた。その話題で持ちきりだった最中での「日本語第二言語化」の発表は、どさくさ紛れの「日本語教育陽性化」の感が強い。

 

 

 極東放送のラジオ講座は、日本語が第二外国語になり高校での授業科目に採択されたことを受けてリスナーが増加したと報じられた。

 

 

 高校の第二外国語の選択科目に日本語を入れるという朴大統領の指示を受け、1973年度から高校での日本語授業が始められることになった。文教部は、前年11月から1月までの間に外語大などで150名の日本語教師を養成したが、1973年度に日本語科目を開講できたのは、全国1,015校の高校のうち139校であった(『毎日経済新聞』1973年2月17日付)。この時に、高等学校用の『日本語読本』の教科書が初めて編纂された。

 

 

 その後、年度を追うごとに日本語を授業科目とする高校が増加していった。ところが、1973年に入学した高校生が3年生になった1975年、次年度の大学入試の日本語での受験をめぐって問題が起きた。当時の大学入試は、「予備考査イェビコサ」と各大学の個別入試成績の合算で合否が決まっていた。1975年3月に「予備考査」の第二外国語試験科目に日本語が入れられることが公表されたが、各大学、特にソウル大や高麗大などの上位校の個別入試での日本語の扱いが未定となっていた。当時の高校での日本語の選択率は30%を超えていた。

文教当局が調査した今学期の高校での第二外国語選択状況は、ドイツ語が17万7千人で最も多く、日本語が11万4千人、フランス語6万3千人、中国語4千7百人で、日本語を選択する生徒が全体の30%を超えている。

『東亜日報』1975年3月13日付

 さらに、個別入試での日本語科目受験について、ソウル大学のこのような消極的姿勢も報じられた。

①ソウル大学には日本語科や日本語講座がなく、②厳密な意味で日本語が学問に必要な第2外国語と見なすことはできず、③日本語に対する抵抗感がいまだ潜在的に存在し、④日本語の問題を出題する教授が探せない点などを挙げ、すぐに入試科目とすることは困難という見解を示している。

『東亜日報』1975年3月13日付

 こうした報道によって、日本語履修者は大学進学で決定的な不利益を被るのではないかなどと各方面で大きな混乱を招いた。結局、8月になってソウル大が第二外国語として日本語とスペイン語の試験実施を公表し、他大学もこれと同様の措置をとり、日本語履修者が受験の機会を失う事態は回避された。

 

 

  日本語学習の定着

 このように、1970年代の後半にかけて、日本語の学習は定着してきた。ただ、日本が好きなのでも、日本の文化に興味をもっているのでもないと強調する学習者が多かった。仕事や勉強に必要だから、英語よりも手っとり早いから学んでいるのだという。日本語は、ツールとして学ぶ語学の一つということで、韓国社会で許容されるようになった。

 

 延世大学は、1966年に英語教育のための附属機関を設け、1969年にこれを「外国語学堂ウェグゴハクタン」と改称して4学期制10週のコースとした。日本語コースが開設されたのは1974年からである。当時、外国語学堂は韓国語学堂ハングゴハクタンと同じ中央図書館の裏手の建物にあった。私が教えていた1982年頃の夜の日本語コースの受講生はほとんどが会社帰りの社会人だった。

 

 

 また、在韓日本大使館でも日本語の授業を1977年から開始した。ソウルの日本大使館は、1970年1月に中学洞チュンハクドンに本館が完成し、1971年7月に鍾路チョンノ警察署(現在工事中)の向かいのガールスカウト会館に文化広報官室をオープンした。1974年に齋洞チェドン交差点の南東側(現地下鉄安国アングック駅④出口)の国源クグォンビルに移転した(昨年ツインツリータワーに移転)が、「日本の文化侵略」との批判を警戒してか、敢えて「日本文化院」の名称は使用しなかった。この広報官室の3階の教室で1977年3月から社会人を対象とした日本語講座が始められた。

 

 無料日本語講座を開設、基礎クラスは月~木曜日、会話クラスは火〜金曜日の夕方6時から8時までの5ヵ月コース。7日から基礎クラス30人、会話クラス20人が講習を受けているが、受講資格は「業務遂行上日本語が必要な人」となっており、主に会社員で日本側で選考した人たち。

 日本大使館広報官室では、1983年に独自の教科書『初級日本語 上・下』を刊行した。当時広報官室に勤務していた門脇誠一(元北海道大学教授)と成澤勝(元東北大学教授)、それに日本語教育専門家として派遣されていた高瀬晶子(元国際日本語普及協会教師)が編纂した。高瀬晶子は、1978年から3年間、日本語教育の専門家として韓国に滞在し、当時の韓国における日本語学習の様子を国際日本語普及協会の雑誌『AJALT』(1982-05)に寄稿している。(https://dl.ndl.go.jp/pid/7954768:国会図書館登録IDが必要)。

 

 

 KBSテレビの日本語講座「やさしい日本語」は1980年12月に始まった。「日本語会話」の初回放送は、12月3日午後9時30分からKBS第2TVでオンエアーされた。

 

 

 KBSテレビ講座の放送開始から8ヶ月後の『朝鮮日報』(1981年7月3日付)によれば、テレビ・ラジオの放送講座の視聴者・リスナーの80%が英語と日本語に集中しているという。1981年2月2日からはUHFによるKBS第3TVとFM教育の放送が始まり、日本語講座の放送が充実するとともに放送時間帯も大幅に変更になった。

 

 

 この時期のKBS教育ラジオの放送はここで聴くことができる(朴煕泰・高橋万里子)。

 

 この時期に英語や日本語の学習熱が高まったのは、1980年秋に韓国政府が旅券法の改正を打ち出し、それまで厳格な審査を行なってきた旅券の発給条件を緩和して、海外旅行が一部自由化されることになったのもその一因であった。ただ、まだ一般の人が国外に観光旅行ができる社会状況ではなく、特に若い男性は、徴兵などの関係で旅券の取得は容易ではなかった。

 

 1983年、名門校とされる高麗大学コリョデハックに初めての日語・日文学科ができた。1980年代の中ごろに日語・日文学科のある学生は、日本の政治家の「妄言」などがあって「学内で抗議デモが始まると、日語日文の学生は真っ先に駆けつけて先頭に陣取ることになっている」と語っていた。あくまでも研究の対象のツールとして日本語を学んでいるのであって、日本に「なびいているわけではない」ことをアピールする必要があったからだ。

 

1985年のKBS「やさしい日本語」の一場面 講師は高麗大李賢起教授

 


 

 1990年代に入ると、日本語だけでなく、日本のいわゆる「大衆文化」にも関心が寄せられるようになる。X JAPANのファンクラブができたり、1997年に映画「ラブレター」が公開されると「오겡끼데스까オゲンキデスカ」が一番有名な日本語になった。

 その一方で、ソウル大学は、1994年度の大学別入試から第二外国語の日本語を入試科目から除外し、他のいくつかの大学も同様の措置をとった。

 

 1990年代以降の日本語教育・日本語学習については、また別の機会に考えてみることにする。

 1980年代のソウル。昌徳宮チャンドックン敦化門トナムンの向かい側の路地を入っていった最初の角の右側に雲堂ウンダン旅館の大門テムンがあった。

 

 

 私が最初に泊まった1970年代の半ばには、大門を入ってすぐ右に、バストイレ付きの特室があり、さらに奥に進むと3畳ほどの小部屋が両側にずらっと並んでいた。各部屋の前に幅の狭い濡れ縁と練炭の焚き口があり、冬はそれでオンドルを炊いてくれる。ゴムシンが置いてあって共同のトイレに行く時はそれを履いて行く。朝食は一人用の膳にご飯にスープ、それに小鉢がずらっと並んだ豪華なものが出てきた。

 

 


雲堂旅館のオーナーは、伽倻琴カヤグムの名手で人間文化財にもなった朴貴姫パクグィヒ(本名吳桂花オゲファ)。朴貴姫は、1921年に慶尚北道漆谷チルゴックで生まれ、10代の時から名唱に唱を学び、解放後、国楽の普及・発展に貢献し後身の育成にも熱心だった。1960年には石串洞ソッカンドンにソウル国楽芸術学校を建てている。

 

 朝鮮戦争が停戦になった後、朴貴姫は鍾路チョンノ雲泥洞ウンニドン韓屋ハノクを1億2千万ウォンで買い取った。朝鮮王朝時代から、敦化門前から鍾路に向かう道の左右の雲泥洞・臥龍洞ワリョンドンには内官(内侍)が多く住んでいた。内官とは、王や王妃の最側近に侍る役職の宦官で、邸宅を下賜され王宮の門外に住居を与えられていた。朴貴姫は、そうした雲泥洞の屋敷の一つを改修して自宅兼国楽教授場とし、東側の部分を「雲堂旅館」と名付けて旅館業を始めた。さらに、1974年には純宗スンジョン皇帝の皇后ユン氏の貞陵チョンヌン別荘を買収して建物を雲泥洞に移築して旅館の規模を拡大した。この雲堂旅館では1958年以来、韓国棋院が主催する国手戦・名人戦・棋王戦など囲碁や将棋の大会の決勝対局が行われ、雲堂旅館は格式ある韓屋の旅館として有名になった。

 

 雲堂旅館は、在日韓国人や日本人の利用も多かった。特に韓国をフィールドとする研究者の利用が多かった。1982年にソウル大学大学院に留学中だった李良枝が中上健次に出会ったのもこの雲堂旅館。1985年の新年特別号で一冊丸ごと韓国特集をやって話題になった『平凡パンチ』の取材の第一陣が泊まったのもこの雲堂旅館だった。

 

 

 1985年出版の『韓国グラフィティ』(みずうみ書房)では、イラスト入りで紹介されている。

 

 

 ところが、1989年3月、朴貴姫は1960年に自身が設立したソウル国楽芸術高等学校に雲堂旅館を寄贈した。芸術高校は、雲堂旅館の敷地をオフィステル建設業者セウォン産業に売却し学校施設拡充の資金にすることにした。雲堂旅館は営業を終了することになった。

 

 

 当時、文化広報部の高位官僚で朴貴姫の国楽普及活動の理解者でもあった金東虎キムドンホが映画振興公社の社長に就任し、南楊州ナミャンジュに40万坪の土地を購入して総合撮影所を建設しようとしていた。雲堂旅館売却の新聞報道が出るとすぐに金東虎が動いた。セウォン産業の朴社長と朴貴姫と交渉して、雲堂旅館本館と貞陵別荘から移築した建物を買い取って総合撮影所に移すことにした。解体された資材は、京畿道九里クリ市の東九陵トングヌンの敷地で保管され、3年後に南楊州総合撮影所で復元工事が始められ1993年11月に完成した。(「金東虎が残したい話〈12〉」『中央サンデー』2022.07.16)

 

 

 この旧雲堂旅館の建物では、イム・グォンテク監督の映画「酔画仙」(2002)や「スキャンダル」(2003)「王の男」(2005)「ファン・ジニ」(2007)などが撮影された。

 

 

 2013年に公共機関の地方移転にともない、映画振興委員会(旧映画振興公社)の釜山プサン移転が決定すると南楊州総合撮影所も釜山に移転されることになり、2018年5月で南楊州総合撮影所の一般公開を終了した。ところが、撮影所の釜山移転は計画通りには進まなかった。そのため、2020年1月に南楊州総合撮影所を再び映画撮影のために運営することになった(YTN20202020年01月09日)。

 

 その一方、建設計画が大幅に遅れていた機張キジャン郡の釜山撮影所の建設計画が昨年末にやっと動き始め、今年3月に着工して2026年9月に竣工予定と報じられた(KBS釜山映画撮影所、来年3月に着工)。釜山撮影所の完成後、南楊州の既存施設がどうなるのかは今のところわからない。

 

 2023年の航空写真で南楊州総合撮影所を確認すると、「JSA」の撮影で使われた板門店パンムンジョム休戦会談場のセットも、その左側の「雲堂」の建物もそのまま残されている。

 

 

 韓国映画振興委員会のWEBサイトの施設案内にも南楊州総合撮影所の案内がそのまま掲載されている。

 

 雲堂旅館がなくなってから、建物もなくなったものだと思っていた。南楊州の撮影所の共同警備区域のセットは大いに話題になってその存在は知っていたが、「本物の方をちょくちょく見に行ってるので行かなくていいや」とパスしていた。そのそばに雲堂旅館の建物があったとは思いもよらなかった。あの頃行っておけば…。ただ、私が泊まっていた使用人の小部屋が並んでいるような旅館が復元されているわけではなさそうなので、行っていても気づいたかどうかわからない。

 ただ、ここまで調べたら何か昔の雲堂旅館を思い起こさせるものが残っているような気もする。建物が残っているうちに一度は行ってみたいものだと思っている。