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一松書院のブログ

ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

  • 「虎に翼」時代の朝鮮女子学生
  • 李良傳イヤンジョンの経歴資料
  以上は(3/1)
ここから
  • 3・1独立運動、そして東京へ
  • 3・1独立運動一周年
  • 朴烈パックヨルの救援活動と金柏枰キムペクピョン
ここまで
  以下は(3/3) に続く
  • 日本での「婦選運動」
  • 明治大学女子部入学・法学部編入
  • 解放後の李良傳
  • エピローグ

 

  3・1独立運動、そして東京へ

 李良傳イヤンジョンは、1900年に全羅北道全州で生まれ、その後一家は京城に引っ越した。何らかの事情で2〜3年遅れで京城女子高等普通学校(女子高普)に入学し、1919年3月に卒業見込みだった。

 

 1919年1月に高宗コジョンが逝去すると、日本政府は3月3日に李太王(高宗)の国葬を京城で行うことを公表した。多くの人が集まる国葬前のタイミングを好機として、朝鮮の宗教指導者や独立運動家、学生などが、独立宣言書を配布して街頭デモを計画した。自宅通学だった李良傳は、全羅南道の麗水から上京して京城高等普通学校に通っていた金柏枰キムペクピョンから前日にこの計画を知らされた。京城女子高普の寄宿舎(現在の憲法裁判所のところ)にいた崔恩喜などの地方出身者はすでに情報を共有していたのであろう。

 

 

 

 3・1運動の前夜、専門学校の朝鮮人学生や普通学校の生徒たちは、謄写版で作成した独立宣言書をそれぞれ運搬・分配して、翌日学内や街頭で配布すべく周到な準備をしていた。3月1日だけでなく、3月3日の国葬後の3月5日にもデモが予定されていた。それに向けては、警察に拘束された金柏枰に代わって李良傳も謄写版での配布物の作成に加わった。3月5日のデモで、李良傳は腰に重傷を負い、一旦京城を離れて全州チョンジュで怪我の治療をした。逮捕・勾留されていた金柏枰は、11月6日になって京城地方裁判所で保安法違反、出版法違反で懲役10ヶ月を宣告されたが、他の71名の被告とともに控訴。しかし、1920年2月27日に控訴は棄却されて服役した。崔恩喜は「金柏枰は、その年の11月の公判で無罪釈放となったので、李良傳は金柏枰と共に留学のため東京に旅立った」と書いているが、これは記憶違いだ。そのように間違うほど、金柏枰と李良傳とは東京で親密な関係にあったとも思われるが…。

 

 李良傳は、1919年秋に単身で東京に渡った。東京での最初の活動は、ハングルでの女性雑誌の出版だった。日本の警保局保安課の1920年6月30日調べの「朝鮮人概況」に、李良傳が雑誌『女子時論ヨジャシロン』を1920年1月に発刊したことが記録されている。

 

 

 保安課の資料には「横濱ニ於テ發行」とあるが、実際の発行人は東京本郷区元町の李良傳、発行元は本郷区東竹町の女子時論社。現在の水道橋の順天堂大学とその近くである。印刷を行った横浜の福音印刷は、キリスト教系の印刷会社でハングルの活字があって組版もできた。これ以降も朝鮮語の書籍の印刷実績がある。

 

 『女子時論』は李良傳個人の雑誌ではなく、編集方針を決めて原稿を集めて印刷・製本をして刊行された雑誌で、李良傳が東京に来る前から組織的な作業が進んでいたものとみられる。

 

 

 後日、1955年12月のことだが、北朝鮮で南朝鮮出身の大物共産主義者朴憲永パクホニョンの粛清裁判が行われた。この時の判決文の中にこの『女子時論』のことが出てくる。

被告朴憲永は、1919年頃、ソウルで雑誌「女子時論」の編集員を務めていた時に、同雑誌を主幹する親米分子車美理士チャミリサとキリスト教宣教師として延禧専門学校の教員(後に校長)を務めていたアメリカ人アンダーウッドとの親交を通じて崇米思想を抱くようになり···

林敬碩『而丁 朴憲永一代記』2004

 朴憲永は、3・1運動の時は、金柏枰と同じ京城高等普通学校に在学中だった。『女子時論』は、日本の植民地時代の朝鮮における女性解放運動の先駆者の一人とされる車美理士が主幹し、朴憲永はその編集員だったという。李良傳も編集員であったのかもしれない。3・1運動後の京城での印刷・発行を断念して日本で刊行することを李良傳に託した可能性もある。この雑誌は、1921年6月の第6号が4月23日に発売頒布禁止処分になって(『東亜日報』1921年4月26日)廃刊となった。

 

 朴憲永の裁判は「粛清」という特殊性もあり、裁判記録に記された過去の事実関係をそのまま信じることはできないが、李良傳が朝鮮の独立だけでなく、女性の権利拡大や地位向上などに強い関心を持ち、日本に渡る前から具体的な活動にも関与していたことの証しにはなるだろう。

 

  3・1独立運動一周年

 1920年3月1日、3・1運動1周年の日に合わせて、東京の朝鮮人留学生約100名が神田の中華民国青年会館に集まった。しかし、出動した警察隊によって解散させられ、一旦は解散したが、午後2時に日比谷公園に集まり屋外集会を開いた。ここで参加者のうち53名が日比谷署に検束されたが、そのうち女子学生2名が抵抗して増田署長を殴ったとして拘留7日間の処分を受けたことが『東京日日新聞』に報じられている。上海の大韓臨時政府の機関紙『独立新聞トンニップシンムン』は、その二人が黄俊徳と李良傳だと伝えている。黄俊徳は、黄信徳ファンシンドクの誤記である。

 

 

 黄信徳は、1915年に平壌ピョンヤン崇義スンウィ女学校を卒業して1918年12月に日本に渡り、朝鮮での3・1独立運動の時は東京の千代田高等女子校に在学していた。1920年3月に日比谷公園で拘束された後、高等女学校を卒業して1922年に日本女子大学社会事業学科に入り1926年3月に卒業した。東京では李良傳とも一緒に活動していた。1926年に朝鮮に戻り、京城で『時代日報』『中外日報』の記者となり、その後、女性の教育問題に取り組んだ。京城家庭女塾を運営し、解放後は中央チュンアン女子中学・高校と秋渓チュゲ芸術専門学校(現:秋溪芸術大学校)を建てた。

 

 この3・1運動1周年の日比谷での事件の2年後、京城で発刊されていた『毎日申報』の1922年2月23日付の紙面に下関発で「下関署に捕えられた女子学生」という記事が掲載された。

 

下関署に捕えられた女子学生 独立運動の宣伝かと取り調べ中

20日午後8時50分に下関に到着し下車したツイードの洋服にブーツを履いた朝鮮人女学生一人を、東京の淀橋警察署からの電報で捜査していた下関警察署の係官が見つけて本署で秘密裏に取り調べ中だという。聞くところによれば、彼女は慶尚北道キョンサンプット出生の李大権イデグォンの次女で、東京女子大学2年の李良傳という女学生。去る19日午後、世の中が嫌になったので自殺すると書き残していなくなり、帝国大学2年生に在学中の兄の李某氏からの保護願いが出されて探していたものだが、同女学生は過激な思想があって警察の取り調べにも黙秘したり悪態もついている。普通の学生とは思想が異なり、独立運動の宣伝をするかもしれないということで、警察では秘密裏に厳重に取り調べ中だという。

 朝鮮総督府の朝鮮語の機関紙の役割を果たしていた『毎日申報』が、独立運動との関わりが疑われるとはいえ、なぜ東京の一女子学生のことを下関発で記事にしたのか疑問だが、この記事には李良傳のいくつかの新しい情報が盛り込まれている。李良傳は慶尚北道出生の李大権の次女で、東京女子大学の2年生。兄が東京帝国大学2年生に在学中で、書き置きを見つけて警察に保護願いを出したとなっている。だが、この記事の人的事項に関しては、上掲の経歴資料との矛盾点が多い。『韓国女性独立運動史』には「全羅道出身」の「無男独女」とあるのに対して、『毎日申報』の記事では「慶尚北道李大権」の「次女」となっている。また、保護願いを出したのが「帝国大学在学中の兄」という点も「無男独女」と矛盾している。出自の情報はあまり当てにならない。東京女子大も、東京の女子大という可能性もあるが、この時はまだ明治大学に通っていたのではなかった。
 

 この時期が李良傳が精神的なトラブルを抱えていたという時期なのかもしれない。日本女子大学社会事業学部に在学していた崔恩喜は、『祖国を取り戻すまで』に、「李良傳は金柏枰の保護の下で学業を続けたが、一時期は精神を病んで…」と書いている。この記事にある「精神を病んだ」のと関連がありそうだ。ただし、この新聞報道が出た時期には金柏枰はまだ日本には来ていなかった。

 

  朴烈の救援活動と金柏枰

 金柏枰キムペクピョンは、3・1独立運動の時に逮捕され、翌年2月に懲役10ヶ月の実刑が確定して西大門刑務所で服役した。

日帝監視対象人物カード

 

 1920年4月28日に出所した後、実家のある全羅南道チョルラナムド麗水ヨスに戻って、退学させられた地元青年などを糾合して「マットップ会(合手会)」を立ち上げてその会長となり、地方の青年や女性を対象にした啓蒙運動を展開した。1923年6月22日には、麗水青年会館で開かれた青年討論会に参加していることが『東亜日報』の1923年6月27日付け記事で確認できる。従って、金柏枰が日本に渡ったのはこれ以降のことであろう。

 

 1923年9月に関東大震災が起きた。関東に居住していた多くの朝鮮人、それに内地人の社会主義者や地方出身者が虐殺されたが、李良傳の周辺の朝鮮人留学生にはその虐殺の魔手は及ばなかったようだ。

 

 この震災直後に、朴烈パクヨルが金子文子とともに天皇の暗殺を企てたとして逮捕される事件が起きた。9月3日に予防検束で拘束され、翌1924年2月15日に爆発物取締罰則違反で起訴されたが、この拘束された時期に、東京に残っていた朝鮮人留学生たちは、朴烈の支援活動を行なった。「大逆罪」の容疑に切り替えられるまでは支援活動もさして難しくなかったのだろう。

 

 『祖国を取り戻すまで』の「第32章 東京での足跡」「勾留された朴烈への支援活動」で、崔恩喜は次のようなエピソードを紹介している。

 朴烈が勾留された時、彼の支援活動をしたのは東京の朝鮮人留学生だった。男子学生たちも様々な形で資金を工面したが、女子学生たちは朴順天、黄信徳、韓小濟ハンソジェなどを中心にハンカチを作って販売した。東京留学生運動会の売上高は大きな収穫をあげた。ハンカチは誰にでも必要なものなので、少し無理をしてでも、また多少値段が高くても、寄付するつもりで誰彼となく1ダース、半ダースと現金で買って売切れになったという。その収入は大そうなもので、かなり長いあいだ拘置所の朴烈への差し入れをまかなうことができた。

 この留学生運動会が縁になって後日結婚にまで至ったエピソードがある。任鳳淳イムボンスンと黄信徳の二人は留学生運動会の役員として一緒に活動していた。初対面から印象に残り、互いに好感を持った。それ以前にも、キリスト教青年会館でハンサムな青年が黄信徳ににっこり笑いかけたことがあった。その時、その青年はカスリの着物を着た早稲田大学専門部の学生だった。黄信徳が自分の友達に、

良傳ヤンジョン! このあいだ礼拝堂で若い男の子が私を見てにっこり笑ってた」

と言った。自分には熱愛する恋人がいた李良傳は、

「信徳姉さんには恋愛はできないよ。 4〜5年後には恋愛が分かるかもしれないけど。 信徳姉さんは若年寄りだからね…」

とからかったというのだ。黄信徳は、日本女子大学を卒業して帰国し、『時代日報』『中外日報』の記者を経て、実践シルチョン女子学校の教師として就職してから、当時『東亜日報』の社会部記者になっていた任鳳淳との恋がついに実って結婚した。

 同じ書物の李良傳を紹介した部分では、特に脈絡もないまま「金柏枰はドイツに渡って医学博士号を取り、アメリカで暮らしている」と、わざわざ金柏枰に言及している。

 

 さらに、『韓国女性独立運動史』(1980)にも、

李良傳の配偶者である金氏は名門の家の出で、大きな志を抱いてドイツに渡って医学を専攻し、生涯独身で暮らした。解放後には米国に渡って、蓄えた財産で老人福祉機関を設立し、奉仕活動をしている。 金氏は彼らの一人息子とその家族を数回にわたってアメリカに呼び寄せたことがあり、現在は80歳を越えて健康が優れないながらも老人福祉事業を運営している。

との記載がある。ドイツに行った「配偶(原文は배필:配匹)」の「金氏」が、金柏枰であることは間違いない。そして、『韓国女性独立運動史』に「金氏は彼らの一人息子とその家族を数回にわたってアメリカに呼び寄せたことがあり」とあることから、李良傳と金柏枰との間に子供がいたことを示唆している。

 

 その金柏枰が、いつ、なぜ、どのようにして日本からドイツに行ったのかはわからない。ただ、1925年11月21日付の『朝鮮日報』の「在ドイツ高麗学友」という記事には、生物学を専攻する金柏枰の名前が出てくる。

 

 

 従って、1924年から1925年の前半に、金柏枰はドイツへの留学を実現させたのであろう。1919年の3・1運動で拘束されて有罪となった金柏枰は、学歴としては京城高等普通学校中退で、日本での高等教育機関への進学は難しかった。李良傳がシングルマザーになることを決意したのもこの頃なのであろう。

 

 その後、金柏枰は1930年代になってベルリン大学で生物学と医学で博士号を取った。その間、在独留学生の金柏枰の消息は『東亜日報』や『朝鮮日報』でも伝えられている。ただ、李良傳と連絡を取り合っていたのかどうかは資料や証言では確認できない。

 

(3/3)に続く

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 NHKの朝の連続ドラマ「虎と翼」で、猪爪寅子のモデルになった武藤(三淵)嘉子は、1932年に明治大学専門部法科女子部に4期生として入学し、1935年に卒業した。そしてそのまま明治大学の法学部に編入し、1938年3月に法学部を卒業した。

 

 

 1920年代の末に、女性にも弁護士資格を認める方向で弁護士法改正の動きはあったが、実際に法改正が行われたのは1933年のこと。司法科試験の受験資格は、文部省の指定する法律専門学校卒か、大学の法学部在学中もしくは法学部卒となっていた。この当時、女性が受験資格を得るためには、1929年に専門部法科に女子部を新設し、そこから法学部への編入を認めていた明治大学に進むという道しかなかった。

 

  「虎に翼」時代の朝鮮人女子学生

 1929年に明治大学が専門部法科に女子部を開設すると、多くの女性が入学した。1932年に1期生54人が卒業したが、そのうち10名は台湾もしくは中国出身の女性であった。朝鮮人女性の最初の卒業生は1933年に卒業した2期生の金貞浩キムジョンホ。ただし、法学部の卒業生名簿には金貞浩の名前はないので学部への編入はしなかったのかもしれない。この金貞浩の一年後、李良傳イヤンジョンが1934年に法科女子部を卒業した。3期生である。そして1937年には法学部を卒業している。李良傳が、ちょうど武藤嘉子の一年上の学年で同じコースを歩んだことになる。

 

 

 卒業者名簿で見る限り、武藤嘉子の同学年や1年後輩には朝鮮人は見当たらない。台湾人もしくは中国人と思われる名前はかなり目につき、これはこれで非常に興味深い。金貞浩や李良傳については、朝鮮の『東亜日報』や『毎日申報』でも報じられており、この二人が朝鮮人女子学生であったことは確認できる。

 

 すでに話題になっているように、ドラマ「虎に翼」には、朝鮮からの女子学生「崔香淑」が登場する。ただ、李良傳がそのモデルというわけではなさそうだ。なぜなら、李良傳の正確な経歴などは、日本ではもとより、韓国でも詳細には検証されていない。また、実際の李良傳とドラマの中の崔香淑とは、年齢や経歴においてかなり違いがある。

 

 とは言っても、武藤嘉子と同じ時期に同じ場所で勉学に励んでいた朝鮮女性李良傳とはどのような女性だったのかが気になる。資料を検証してその足跡を追ってみたい。

 

  李良傳の経歴資料

 6年前の2018年10月。韓国の警察庁は、日本の植民地支配下で独立運動を行なった経歴があるにも関わらず「独立有功者」として認定されていない警察関係者の資料を発掘して報勲処に審査を要請したと発表した。その中に「李良傳イヤンジョン」の名前もあった。

 

 ただ、そこで発表された李良傳の経歴には不可解な点がある。

 

写真の左から3番目が李良傳

3代目の釜山女子警察署長を務めた李良傳警部(1911年〜不詳)は、1919年、京城女子高等普通学校の生徒たちと秘密団体を結成、3・1独立宣言書などを配布する万歳独立運動に積極的に参加した。1920年3月1日、東京留学生たちの独立宣言1周年祝賀デモに参加し、日帝警察の「要監視対象」になっていた。

 『京郷新聞』以外の新聞報道でも「1911生まれ」と記されているので、誤植ではなく警察庁の報道資料がそうなっていたということ。ただ、それだと3・1運動当時は8歳ということになってしまう。これはおかしい。

 その不可解さは、李良傳の長い人生をたどることで氷解するのだが、話は長くなる。しばらくお付き合いいただきたい。

 

 まず、李良傳イヤンジョンの略歴・経歴について書かれた三つの資料を紹介しておこう。

1.『大韓民国 建国十年誌』建国記念事業会(檀紀4189:1956年)

 この資料は、李良傳が1945年の解放後に在職していた女子警察在任中に作成されたもので、職場だった公安局の履歴記録が元データになったと思われる。上述の2018年の「報道資料」もこれによったと思われる。

 

 年号は、すべて檀君紀元の「檀紀タンギ」で書かれている。それを西暦に直すとこのようになる。

李良傳…本籍 ソウル 1911年12月6日生まれ 明大法学部卒 1950年釜山鉄道警察隊警備係女警主任 1952年治安局勤務 1953年慶南釜山女子警察署長

2.崔恩喜 編著『祖国を取り戻すまで(祖國을 찾기까지):1905-1945 韓國女性活動秘話』探求堂(1973)

 編著者の崔恩喜チェウンヒは、李良傳とは、3・1運動の時に京城女子高等普通学校(女高普)で同じクラスに在学していた。1919年に京城女高普を卒業し、日本女子大学社会事業学部に留学したが、中退して1924年から1931年まで『朝鮮日報』の敏腕女性記者として活躍した。解放後も言論人としてだけでなく女性運動の中心的な活動家でもあった。

 

 李良傳とは、京城女高普の時だけでなく、東京での留学時代も重なっており、この本の「第22章 三・一の足跡」で李良傳について一項を設けて紹介している。

 

 李良傳は、3・1運動の時、京城女子高等普通学校の本科最終学年だった。同じクラスの崔恩喜(著者)が主導する秘密サークル運動に2年前から参加し「校内の抗日闘争」「同胞の助け合い」「独立精神の昴揚」などの情宣と実践の先頭に立っていた。彼女は自宅通学だったので、3・1独立運動の前日の2月28日の夜になって、全羅南道麗水から上京して京城高等普通学校に通っていた4年生の金柏枰キムペクピョンから翌3月1日に民族代表33人の朝鮮独立宣言があることを知らされた。2月27日の夜、印刷された宣言書の京城府内での配布は、専門学校の学生代表を通じて各中等学校の学生たちが行うことになっていた。普成ボソン専門学校の康基徳カンキドクの連絡によって、中等学校の学生代表は2月28日夜に、33人の民族代表の一人李弼柱イピルジュ牧師が住む貞洞チョンドン礼拝堂構内に集まり、専門学校の学生代表は勝洞スンドンの礼拝堂に集まった。京城医学専門学校の金成国キムソングクが持ってきた宣言書1,500枚を貞洞礼拝堂で受け取り、中等学校の学生代表の集会場所に伝達した。京城高等普通学校の代表金柏枰は宣言書200枚を受け取り、3月1日午後に学生たちを先導してタプコル公園に向かう道すがら、通行人や商店・民家に配付した。金柏枰は、その日のデモで逮捕された。
 李良傳は3月1日、京城女子校等普通学校の女学生たちと一緒に日が暮れる頃まで万歳を叫びながら街頭行進をしたが、捕まることなく無事に帰ってきた。その翌日、李良傳は、3月5日の学生主催の万歳運動に必要な宣言書やビラを謄写するために金柏枰の同級生たちから連絡を受けて出かけた。 彼らは、こっそりやっている謄写印刷の作業がばれるのではないかと神経質になっていて、小さな物音にも驚いて謄写版を隠したりした。李良傳は、3月5日の万歳運動に参加し、無差別に振り下ろされる憲兵の銃で腰を殴られ、騎馬兵の馬の蹄に蹴られ、さらに道端に倒れたところを逃げ惑う群衆に踏まれて腰に重傷を負った。全羅道チョルラドの生まれ故郷で療養したが全快しないままだった。京城地方裁判所の予審に回された金柏枰は、その年の11月の公判で無罪釈放となったので、李良傳は金柏枰と一緒に留学のために東京に旅立った。

 1920年3月1日、100人余りの東京の留学生が日比谷公園に集まり、独立宣言1周年祝賀万歳デモを行い、53人が検束された。その中に黄信徳ファンシンドクと李良傳の二人の女子留学生もいて、日比谷警察署で1週間拘留された。その後、李良傳は金柏枰の保護の下で学業を続けたが、一時期は精神を病んで発作が起きると急に飛び起きて「謄写版、早く片付けて!早く!」と叫んでいたという。病状が悪化し、朴順天パクスンチョン朴定根パクチョングンなどが手配して海辺で療養したこともあった。金柏枰はドイツに渡って医学博士号を取り、アメリカで暮らしているという。李良傳は、東京の明治大学法学部を卒業し、解放後は釜山プサン女子警察署長、忠清北道チュンチョンプクド清州チョンジュ大学講師などを歴任した。

3.『韓国女性独立運動史:3・1運動60周年記念』3・1女性同志会(1980)

 この資料は、3・1運動の60周年を記念して、3・1女性同志会が1980年に出版したもので、独立運動史や女性運動史の研究者が資料収集や編集にあたった。出版時の3・1女性同志会の会長は上述の『祖国を取り戻すまで』の編著者崔恩喜だった。

 この本の李良傳の項目では、3・1運動への関与部分については、上掲の崔恩喜『祖国を取り戻すまで』の記述が使われている。ただ、エピソードの前後関係が変わっている部分がある一方で、生没年が「1900〜1979」と明らかにされており、李良傳に一人息子がいたことが記されている。さらに、その一人息子の父親はドイツに留学してアメリカに在住している「金氏」だとされている。さらに晩年の李良傳の様子も記されていることから、この項目の記述内容には、その一人息子からの情報が加味されていると思われる。上掲の2の資料と照らし合わせると、この「金氏」が金柏枰であることは明らかなのだが、ここでは実名は伏せられている。

 

 李良傳イヤンジョンは1900年に全羅北道全州で生まれ、男兄弟のいない一人娘で静かな生活環境で育った。京城女子高等普通学校の最終学年の時、第一高等普通学校の生徒たちと合流して3・1万歳運動に必要な宣言書およびビラを謄写版で作成して配布し、当日、パゴダ公園でのデモで、無差別に殴打する憲兵の銃台に腰を殴られたり騎馬兵の蹄で蹴られて負傷した。

 その後数年間、3月になると「謄写版を隠して!」「あっちから憲兵が来る!」などとうわごとを言うような精神錯乱が起きて苦しんだ。3・1万歳事件直後、東京に渡って療養した時、黃信德・朴順天・朴定根などが彼女を海辺に連れて行って療養させた。スコフィールド博士が奇特な行いだとして写真を撮ったこともあった。

 1920年、韓国留学生の主導で3・1独立万歳1周年記念式が日比谷公園で行なわれた際、黃信德とともに警視庁に連行・拘禁され、数週間の拘禁生活を経験した。その後、苦学生ながら東京の明治大学の法科と早稲田大学を出て、自分の専攻を生かして各方面で活躍した。朝鮮戦争の時は釜山女子警察署長となり、数年間清州大学の法科講師としても勤務した。

 李良傳の配偶者である金氏は名門の家の出で、大きな志を抱いてドイツに渡って医学を専攻し、生涯独身で暮らした。解放後には米国に渡って、蓄えた財産で老人福祉団体を設立して奉仕活動をしている。金氏は彼らの一人息子とその家族を数回にわたってアメリカに呼び寄せたことがあり、現在は80歳を越えて健康が優れないながらも老人福祉事業を行なっている。

 李良傳は、晩年は一人息子と5人の孫に囲まれて漢南洞で暮らしていたが、昨年11月に亡くなった。彼女が国家と民族のために捧げた70余年の生涯における苦難の歴史は、人よりも天がよく知るところであろう。普段は口数が少なかったのだが…

 2と3の資料に書かれた内容は、同時代の当事者の証言として有用な記述がある一方で、当時の新聞その他の資料と付き合わせると、伝聞や記憶違いに起因する錯誤、そしてその他の事情に起因する時期のズレや事実誤認があることが明らかになった。そのズレや誤記載、そしてモザイクがかけられた記述にも李良傳の波乱万丈の人生を垣間見ることができる。

 

以下(2/3)に続く

 1924年9月の「番地界入東京市拾五区区分図」の「麻布区」に「李王世子邸」の記載がある。現在の地図と重ねると、東洋英和女学院小学部の敷地がその場所にあたる。

 

 

  鳥居坂李王世子別邸

 この地図のこの場所が、1907年12月に日本留学の名目で東京に連れてこられた李垠イウンの住まいとなった鳥居坂李王世子別邸である。1912年8月6日付の『毎日申報』に次のようなキャプション付きで写真が紹介されている。

東京鳥居坂李王世子別邸

東京鳥居坂の別邸は数年前に大行天皇(明治天皇)の特別なご配慮で李王世子に下賜なされたもので、この別邸は庭園が広く木々が鬱蒼として景色がよく、李王世子はここで寝起きされながら勉学に励んでおられる

現在の東洋英和女学院小学部正門

 

 1907年のハーグ密使事件をきっかけに、韓国統監伊藤博文は高宗コジョン皇帝を退位させて李坧イチョク(純宗スンジョン)を即位させた。そして、李坧の異母弟である李垠を皇太子として擁立し、李垠を日本に留学させるよう進言。李垠は1907年12月に東京に到着した。当初、李垠は芝離宮に滞在していたが、鳥居坂にあった佐々木高行侯爵邸を改修して1911年に李垠に下賜した※。

伊藤博文と車に乗る李垠

 

 1910年に大韓帝国が日本によって併合されると、大韓帝国の「皇帝」は「王」に格下げされ、先代の皇帝の高宗は「李太王」、最後の皇帝(純宗)は「李王」、そして「皇太子」は「李王世子」とされた。

 

 李垠は、1911年9月に陸軍中央幼年学校に編入学し、その後陸軍士官学校に進んで1915年卒業、近衛歩兵第2連隊に士官として任官した。1916年8月3日付の新聞に「李王世子の御慶事 梨本宮方子マサコ女王殿下と御婚約」と報じられた。梨本宮方子自身は、この新聞報道を見てはじめて自分の結婚相手を知ったという。

 

『読売新聞』1916年8月3日朝刊

 

 この結婚のため、鳥居坂別邸には新居が新築された。

 

 

 ちょうどこの時期は、スペイン・インフルエンザが世界的に大流行していた。日本でも感染者が激増し、今回の「コロナ流行」と同じような混乱を引き起こしていた。しかし、李王世子李垠と梨本宮方子の婚姻は、翌年早々に挙式の方向で進んでいた。

 

 ところが、翌年1月21日早朝、高宗(李太王)が徳寿宮トクスグンで薨御した。李垠と方子の婚姻は先延ばしとなった。高宗の葬儀は国葬として3月3日に京城で執り行われたが、この高宗の薨御とその国葬をきっかけに、朝鮮全土で3・1独立運動が展開されることになった。

 

 延期されていた李垠と方子の婚礼の儀は、1920年4月28日に鳥居坂別邸において行われた。

 

 

  紀尾井町李王邸

 1924年に、紀尾井町の旧北白川宮邸の跡地が李王家に下賜された。ここは元々は紀州徳川家の屋敷があった場所で、1876年に北白川宮へ下賜された。北白川宮邸は1912年に高輪南町の新邸へ移転し、この敷地は宮内省に返上されていた。16,000坪のうち、李王家に12,300坪、2,900坪を宮内省官舎敷地、残りを東京都の公園敷地とした※。

 

「番地界入東京市拾五区区分図」麹町区

 

 1926年4月24日、純宗(李王)が薨御した。李王世子李垠は「昌徳宮李王垠」となった。そして、この紀尾井町の旧北白川宮邸の跡地で、その年の秋から「李王邸」の新築工事が始められた。

 

 

 邸宅は1930年初に完成し、この年の3月に李垠・方子夫妻は紀尾井町の「李王邸」に移った。そして1931年に鳥居坂の土地と邸宅は返上した。その後、鳥居坂の邸宅は1943年に昭和天皇の長女と結婚した東久邇盛厚(東久邇稔彦の長男)の新居となった。敗戦後、1952年4月11日に東洋英和女学院が東久邇盛厚からこの土地を購入、そこに小学部の校舎を建設した。

 

 

  日本の敗戦後

 1945年8月の日本の敗戦とともに、李王家への日本からの歳費の支給もなくなった。

 

東京都区分図 千代田区詳細図(1947)

 

 紀尾井町の邸宅については、国際基督教大学からの買収の申し入れがあったが李垠はこれを断り、参議院議長公邸に賃貸で貸し出して自分たちは家政婦の部屋で暮らした。日韓国交正常化のための日韓会談が始まると韓国政府から将来の在日韓国大使館用地として買取の申し出があった。しかし、入金がなくキャンセルとなり、結局、1952年に堤康次郎に売却された。李垠・方子夫妻は田園調布3丁目84(現:田園調布3丁目28の一角)に購入した住居に移った。


東京都区分図 大田区詳細図(1949)  1952-1958東京都(3千分1)

 

 1955年、旧「李王邸」を改装して赤坂プリンスホテルがオープンした。その後、赤坂プリンスホテルは新館やタワーを増築し、旧「李王邸」は旧館として利用された。しかし、赤坂プリンスホテルは老朽化などで2011年に営業を終了、跡地は2016年に東京ガーデンテラス紀尾井町となった。ただ、旧「李王邸」は、現在も「赤坂プリンス クラシックハウス」としてそのまま残されている。

 

赤坂プリンス クラシックハウス

 

 1948年に大韓民国が建国されたが、初代大統領の李承晩イスンマンは、自分自身が朝鮮王朝王家の傍系であることもあってか、直系である「李王家」に対して極めて冷淡であった。しかし、1960年に4・19学生革命で李承晩が失脚し、翌年の5・16軍事クーデターで実権を握った朴正煕は、李垠と方子の韓国への帰国に前向きであった。

 

 脳軟化症で寝たきりになっていた李垠に代わって、方子がまず1962年に韓国に渡った。

 

 

 そして方子の2回目の訪韓の時、一旦日本国籍になっていた李垠・方子夫妻の韓国国籍を回復させた。当時、読売新聞の嶋元謙郎特派員がソウル発で記事を書いている。

 

 

 李垠・方子夫妻は1963年11月22日に韓国に帰国した。

 

 

 1970年5月1日、李垠が聖母病院にて72歳で永眠。

 1989年4月30日、李方子が87歳で永眠。

 


※ 帝室林野局五十年史(1939)
鳥居坂御料地(157コマ)・紀尾井町御料地(154コマ)