イエス・キリストの御名を賛美します -2ページ目

イエス・キリストの御名を賛美します

唯一の救い主である、イエス・キリストの愛を知ってほしい。
聖書の奥義を知ってほしい。
そして、選択して欲しい。

こんばんは、兄弟姉妹のみなさん

信仰についてのスポルジョン師の説教が長く続きますが、今日は、一時お休みにして、日本のある信仰の姉妹から送られてきたメッセージを紹介しようかと思います。

深く反省させられるメッセージです。


「心の備えが出来ているか  東日本大震災を受けて」



人知をはるかに越えた出来事が世界中を震撼とさせました。

多くの人の命が失われ、築き上げた様々な人生が、一瞬にして消えて行きました。人は歴史の内に幾度となく、このような苦しみを繰り返しながら、遂に今に至るまで、なぜこのような事が起きるのか、その根本を考える事がありませんでした。

いつも、いつも喉もと過ぎて、また同じ生活の中に帰って行きました。どうして、こんなに人は心の鈍い短絡的なその場しのぎの生き物になったのでしょうか?人間は本当にこんな生き方をする為に生まれて来たのでしょうか?

もはやこの惨事を通してさえ、その根源に心を向ける事をしなければ、人はこの地上で最も愚かな生き物として、最後を迎える以外にありません。

なぜ大地が揺れるのか? なぜ海が人々を襲うのか、真剣に考えなければなりません。

私たちは、この地球がまだ何の意味もなく、偶然に存在して、そこに偶然に生き物がいるに過ぎないと本当に思っています。
そして何となく生きて、何となく何処かに消えて行くとて思っています。
そんな存在の人間がどうして美しい空に感動したり、遥かな永遠に思いを馳せたりするのでしょうか?
どんな時にも一人でいる事がさみしく、いつも誰かと一緒に暮らしたいと思うのでしょうか?
私たちはもっと自分の心を正しく見つめ直さなければなりません。

自分は一体どのような人生を歩みたいのか? 
どのような人間と共に暮らしたいのか? 
どうしてそう思うのか? 

もう一度心に問いただして見なければなりません。
それは自分の心の中に全ての問題の解決がある事を知るたった一つの道だからです。
 
人間は、本当に大切な事に目を向けず、上辺の事ばかりに翻弄されて来ました。時は流れ、もはや地球の悲鳴は誰にも聞こえる程の有様になりました。こんな所に来るまで、なぜ私たちは自分の心を省みなかったのでしょうか? 

なぜこんなに豊かに与えられても、与えられても、それを充分とする事が出来ず、足りなさばかりに心を至らせ、全ての恵みを食いあさり続けたのでしょうか?

振り返って悲しかった時代を思う時、今の豊かさにどうして感謝する事が出来なかったのでしょうか? 

「私の恵みはもう充分です」と満足する事が出来なかったのでしょうか?

天井知らずの人間の欲望が自然を破壊し、禁断のエネルギーさえ、欲望の為に必要とせざるを得ない社会を造り出してしまいました。この災いは誰のものでもなく、私たち一人一人の責任です。「足るを知る事」の無かった自分自身の責任です。

この責任は地球に住む全ての人間がその身に負わなければなりません。
なぜなら、これから地球が最後を迎える時まで、世界中で起り得る災いだからです。

私たちの幸せは誰かの不幸の上に成り立っているものである事をもう知らなければなりません。それが人間だけでなく、全ての被造物の苦しみの上に成り立っているものである事を深く認識しなければなりません。

私たちの思いも及ばぬ事
神様が造られたもの(即ち、人間が造ったもの以外)には全て生命があり心があると言う事

この事がスピリットを失った人間には全く思いも及ばぬ事である事が、全ての災いの根源です。
ローマ8:19「被造物は切なるうめきをもって神の子の到来を待っている」
大切な聖書の御言葉です。

生命の源なる神様が創造された全てのものは人間が造ったもののような無機質で冷たいものはありません。
一つ一つに全て心があり、ことばがあり、意志があります。

ずっと以前、ある大きな公園の門をくぐった時、遠くからギャーという大きないくつもの悲鳴が聞こえました。 急いで、その声のする方向に走って行った時、目の前におびただしい数の、バラの花がそのつぼみや花びらを酸性雨によって焼かれ、真っ黒にただれていました。

その声は人間の鳴き声よりもっと澄んだ清い深い、深い、痛みと悲しみの声でした。
その時、「神様は人間の犯す罪の為にどれ程の被造物の苦しみの声を聞いておられるのだろう、そして、人間のわがままと被造物の苦しみの姿をいつも同時に、見ておられるお方の心はどれ程の怒りを忍耐しておられるのだろうかと初めて思い知らされました。

地震の起きた本当の理由は、生きている地球が自分の心を何一つ顕わす事が出来ず、どこまで耐えても終わる事のない人間の横暴に、力尽きて崩れて行く一つの過程だと言う事です。

地球は多くの生命を生み出し、育み、実らせ、その喜びを神様にお返しする、生きた大地です。
これはどこにも境界線を引く事の出来ない、誰にも所有権を主張する事の出来ない創造者の御手にある生きた大地です。
この生きた心を持った地球に私たち人間は、どんな事をし続けて来たでしょうか? 毒を流し、汚物を埋め、地表を固め、理不尽に殺された多くの生命の墓場として、悲しみ、苦しみ、憎しみ、恨みの心を受け続けさせ、地球が本来受けるべき、喜びや、感動がどんどん奪い取られ、もはや耐えて、この罪の後始末をする意志を失いました。
 
私たちは聞こえなかったのではなく、聞こうとしなかったのです。
知らなかったのではなく、知ろうとしなかったのです。


静かに心を開いて祈れば、はっきりと聞こえた声、へりくだって自分の罪に向き合えば、明らかに悟れる姿でした。どんな時にも自分が一番で、その陰で苦しんでいる生命の事を思いやる事をしませんでした。

もはや神様以外にこのわがままを受け、地球を支えて下さる力を持つお方はありません。
どんなに今日まで、天が私たちを許し、その罪を悔い改め日を待ち続けていて下さったか、こんな時に至るまで、なぜ天を畏れる心を持たなかったのか、自分自身の傲慢と欲深さを見なければなりません。

どこに行けば、地球の中に穏やかな平和を見つけ出す事が出来る事でしょうか、どこまで高く上がれば、美しい、清らかな空に出会えるのでしょうか?

どろどろの罪に閉じ込められたこの世界、光を失い、どこにも希望のないこの世界、人が神に背いて、歩んで来た、哀れな末路です。

今私たちが出来る事、ただ神様にお詫びし続ける事、この事です。

・愛さなかった事
・傷つけた事
・自分の罪を認めなかった事
・今ある事を感謝しなかった事
・どんな事にも欲望を満たす事ばかりを求めた事
・生きる意味を知ろうとしなかった事
・人間の使命を何一つ自覚しなかった事
・神に成り代わって、多くの生命を踏みにじった事
・欲望の中に自分自身を汚し続けた事
・この世界がどこまでも自分を許容するものだというとんでもない自我を持ち続けた事
・罪の後始末を他者に押し付け、自分は何一つ痛みを負おうとしなかった事
・心の深いところに、天の声を聞きながら、尚それを捨てて、罪を犯し続けた事。
・どこにもやり場のない自分の不満を何の落ち度もない者にぶつけて、いため続けた事
・どうしようもない欲望を次々と心に宿らせ、多くの贅を貪った事
・悲しむ人の心になお、自分の自我をもって臨んだ事
・どんな時も、良心がうずいた筈の罪を分かっていながら重ね続けた事
・自分たちの欲望がかなえられる為なら、相手がどんなに痛んでもかまわないと言う鬼の心を持った事

私たちの生きた道はこれ程に罪にまみれた醜い日々でした。その結果、このかけがえのない地球という星は、ここまで蝕まれ、もはや、再生不能の時に至りました。
この地球の所有者である天は、この結末をどのようになさるのか、私たちは畏れを持って、その心を知らなければなりません。

心を尽して、神にお詫びしなければなりません。

尊いみ心を踏みにじり続けた罪を一つ一つお詫びしなければなりません。
如何にして、この生命が、神に愛される心に変えられるか、本気で取り組まなければなりません。
もはや、時がありません。のど元を過ぎるような余裕はありません。

多くの者が惑わす者となり、世の終わりを語って、人々の心の中に不安を生み出します。
しかし、どのような時にも、全ての解決が自分自身の中にだけある事を決して忘れてはなりません。

神様が私たちの罪によって遠くに追いやられている事をしっかり悟って下さい。
どんな時にも罪なき心の中には、神が住まわれ全ての事から守って下さる事をしっかり悟って下さい。
 
心を騒がせてはなりません!!

心の内に決して惑わされる事のない平安の泉が一刻も早く、みなさんの中に湧き出て来る事を心から祈ります。

ああ、私たちの心は何と冷たい機械のような無神経なものに成り果てたのでしょうか?
あれ程の悲しみ、痛み、恐怖の出来事が、すでに喉元を過ぎて、また、何事もなかったかのように、欲望の日常に返って行きます。

どこにも自分を探し出す事もないまま、また、今までの自分中心の心に返って行きます。
今、多くの途方に暮れた人々の痛みが、どれ程の自分自身の痛みとして心に感じている事でしょうか?
冷たく、苦しい春をどれ程自分の春としているでしょうか?

私たちは結局、我が身に起る時まで、どんな事にも真剣になる事が出来ない程、心の鈍感な生き物になってしまいました。

いつ我が身に降りかかる惨事なのか、誰も知らないまま、尚、自分は自分の物差しを握って離しません。

なぜ人は、みんなで幸せになりたいと願う心がないのでしょうか?
なぜ、自分のして欲しいと願う事を人にして差し上げる事が出来ないのでしょうか? 
見えない所にいる人は、同胞ではないのでしょうか?
遠くにいる人は痛んでも平気なのでしょうか?
どうして、もしかしたら私だったかも知れないと、人の痛みを思いやる事が出来ないのでしょうか?
私たちはこのようにして、自分の人生を終えて行くのでしょうか? 
本当にこんな生き方が自分の心から願っている行き方なのでしょうか?
世を去る時、生涯を振り返って、空しさを覚える事がないのでしょうか?
こんな愛のない生き物として果てる事が、本当の願いなのでしょうか?

こんな尊い数知れない命が犠牲となり、数知れない生活の糧が、失われ、測り知れない心の痛みを抱えて、尚、生きなければならない数知れない人々を目の当たりにしながら、また、何事もなかったかのように日々を過せる感覚をどのようにして造り出して来たのでしょうか?

人はこの地上の生き物の中で、唯一「愛」を持った神の心を顕わす存在として造られました。
即ち、どんな生き物にも無い、霊(スピリット)を持った存在です。

このスピリット(霊)から出て来る閃きこそが、その土台である「愛」に裏打ちされた、かけがえのない世界を作り出して行くのです。
神様が望まれたこの世界は、リーダーである人間が、スピリット(霊)だけで築き上げる清く、愛に満ちた、全ての生き物が幸せに暮らす世界でした。

人が愛を捨てて、自我を握ったその時から、全ての命は死の恐怖の中に、その生涯を歩まなければならなくなりました。 たとえ五体満足で衣食住に満たされていても、心は既に罪の津波に飲み込まれて、人として正しく生きる力を持ちません。 
 
人の人たる所以は「愛」と言う神と等しい心を持っていると言う事です。

私たちが日ごろ口にするような意味合いのことばではなく、神の愛(アガペー)とは自分を捨ててさえも他者を生かしたいと願う本当の愛です。
誰の心の中にも神様が与えて下さっているかけがえのない愛です。
 
このとてつもない大惨事を乗り越え、もう一度、新たな生活を取り戻す為に何よりも先にしなければならない事は、大切な地球を破壊し続けた欲望を一つ一つ捨てて、全ての生命と調和して生きて行くと言う心の柱を打ち建てる事です。

外側のものばかりを追い求めて、人の心が変わる事がなければ、もっと大惨事の中に入る以外にありません。
どんな時でも、私たちの心がその判断を愛の基盤の上に置くならば、人々が互いに、喜びも、悲しみも、分ち合う事の出来る、平和な世界が生まれます。

どんな理論よりも、どんな富よりも本当に力を持つものは愛の心です。
私たちの尊い命は、実は欲望の命ではなく、愛の命なのです。
自分の中に深く埋もれている真実な愛は、欲望と言う土台を一つ一つ取り除けば、全ての人の中に必ずあるのです。

その土砂を取り除く唯一の重機が神様の御手だと言う事です。

意志なる神様は人が自分の心の中に溜め込んだ土砂を心から憎まなければ、決して御手をお動かしになられる事がありません。私たちに自由意志を与えられた神様は、今まで人間の犯し続ける罪の全てをじっと見つめ続けて来られました。

多くの被造物の苦しみの叫びを聞き続けられながらです。

その間にもどうにかしてこの罪に歯止めをかけたいと、あらゆる事をされました。それが、全て裏切られ、踏み躙られ、もはや、人間自身が罪の中で音を上げる以外に手立てなしと心に決められました。

意志のないところにどんな恵みも実る事は無いと思い知らされたからです。
私たちが腹の底から悔い改める以外に、もはや神の御手が動く事はありません。そして、このまま御手が動かなければ、どこをどのように繕っても、地球のあちこちから破れが生じて来るばかりです。
 
今、心の中では本当は未来が危機的状態にある事を誰もが感じています。

それでも私たちはまだ欲望を捨てる事が出来ません。心の中は次の土砂が欲しいと大きく口を開けている状態です。 その心がどれ程恐ろしい感覚を持っているのかを知ろうともしません。

どうしてこんなにまで、人は次々と自分の中に罪を生み出して行くのでしょうか? 
どうして、いつまで経っても自分の心を直視出来ないのでしょうか? 
ほんの一瞬の快楽と引き換えに、捨て続ける真心がどれ程のかけがえの無い宝であるかを、なぜ気付かないのでしょうか?
どんな時にも、なぜ心に与えて下さった良心が咎めないのでしょうか?

心の中に神様が与えて下さった、人が人として正しく生きる為のアンテナである良心がここまで腐り果ててしまいました。
どうしたら、このアンテナをもう一度、取り戻せるのか、私たちは今真剣に考えなければなりません。
もし私たちが自分の心をもう一度、正しく立て上げたいと思うなら、意志持って、天に対して犯した罪の一つ一つをお詫びしなければなりません。

私たちは結局、自分の犯した罪の中で、人生を腐らせて行く愚かな生き方をしているに過ぎません。どうしたら、本気になって、土砂に向き合えるのか、もはや、生か、死かの瀬戸際です。
 
愚かにも、自分が本来どのような存在であるのか、考える事もなく、漫然と生きて、それを当然とする歴史の流れが、人間をここまで支配して来ました。もっと違った視点から自由に物事を捉える客観性がどんどん失われ、もはや、生まれる事も死ぬ事も、今の姿が定着し、それを疑問に思う事すら、おかしいと感じさせる程に、人々は固定観念に縛られる存在となりました。

なぜ不思議と思わないのでしょうか?
こんなに多くの人々が亡くなる事を、なぜ、不思議と思わないのでしょうか? 

こんなに悲しい出来事が起きても、平気で自分の事だけを思う自分の不真実さを。
どうしたら、もっと熱く同胞の事を我が事として、事実の行動に移せるのかを本気で考える事の出来ない心のつめたさを。
人がどれ程、遠く愛から離れてしまったか?
それは一つ一つの、その時の道の選択を欲望の方に軍配を上げ続けて来た結果です。本心を退け、自我に軍配を上げ続けた結果です。
 
―マタイ16:26「たとえ全世界を儲けても、永遠の命(真心)を失ったら、何になろうか?」―

有名な聖書のことばです。


事実の中にだけ本当の愛があります。そして、心の中に大きな力を持つ人となります。
加えて、どんな時にも揺るがない真実な生きる指針となります。
私たちがこの行き詰った世界に本当の力を持って臨む事が出来たら、滅亡に向かうしかない方向性が必ず変えられると確信します。

お一人、お一人の心にある本当の願いを深い罪の土砂の中から掘り起こして下さる事を心から祈ります。

以上
こんにちは、兄弟姉妹の皆さん

昨日の続き、テーマは「信仰」の第⑦弾です。

記事の元は、以下のリンクを辿ってください。
http://homepage2.nifty.com/grapes/SpurgeonS0032.htm


1855年7月1日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於ニューパーク街会堂


「使徒たちは主に言った。『私たちの信仰を増してください。』」(ルカ17:5)

7.また、あなたの信仰に注意を払うべきなのは、信仰だけが困難に陥ったときのあなたを慰められるからである。

左様、とある人々は云う。
それこそ、あなたがたが四六時中考えていることなのだ。
困難なことがあれば、信仰を用いて慰めを受けるわけだ、と。

さて私は、神の民が慰めを求めるからといって、決して彼らを笑い飛ばそうとは思わない。
私の信ずるところ、彼らが甘いものを好むこと、それは彼らが子どもである非常に大きな証拠である。
もし彼らがそうしなかったとしたら、残念ながら彼らは全然神の子らではないのではないかと思う。

しかし、私は教役者たちがこう云っているのが聞こえる。
「あゝ、あなたがたは常に云ってるのだな。慰めがほしい、慰めがほしい、と」。
左様、確かに私も、彼らがそう云っていると云うものである。
だが、彼らがそれを欲するのは、彼らが決してそれをあなたからは得られないからなのだ。

私の信ずるところ、神の民には慰めが必要である。
確かに彼らは、それを有すべきでないときにも、それを欲しすぎるきらいがあるとはいえ。

しかし、彼らは約束を非常にしばしば必要とするし、それを有すべきである。
さて、信仰は魂にとって最上の気付け薬である。

おゝ、何か非常に大きな困難が迫りつつあるとき、いかに信仰が慰めとなることか!

「あゝ!」、と信仰は云う。
「神は云っておられる。『あなたの力が、あなたの生きるかぎり続くように』[申33:25]と」。

「あゝ!」、と信仰は云う。
「これは、険しい道だ。茨は鋭く尖っている。火打ち石がばらまかれている。だがそのとき、『あなたのくつは、鉄と青銅である』[申33:25 <英欽定訳>]」。

そして信仰は、その強い古靴を見つめて、「思い切ってやってみよう」、と云う。
そして信仰は出立する。

小さな信仰は、片隅でぶつくさ云いながら座り込んでいるが、大きな信仰は火の中でも歌っている。
「彼らは寝床で声高く神をたたえ、火の中で高らかに賛美を歌う」。
小さな信仰は意気消沈して立ちつくし、その涙を大水と混ぜ合わせる。

大きな信仰は云う。
「あなたが川の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、大水にも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない」*[イザ43:2]。

あなたは慰めに満ちて幸福になりたいだろうか?
陽気な、陰気くさくないキリスト教信仰を持ちたいだろうか?
ならば、より多くの信仰を求めるがいい。
あなたは、ごくごく小さな信仰によっても救われるであろうが、幸せな救われ方はしないであろう。
たといあなたが、この上もなくちっぽけにしか信じていなくても、死後あなたは幸せになるであろう。

だが、あなたが地上で幸せになれるのは、あなたが完全に、不断に、そして真剣に信ずるとき、エホバの真実な約束を、そのご人格のあらゆる輝かしい威厳によって、また、その恵みの真実さと不変性の一切において強く信じるときにほかならない。

もしあなたがたがキリスト者の雲雀になろうとし、キリスト者の梟になりたくないというのであれば、より多くの信仰を求めるがいい。
もしあなたがたが暗闇を愛し、その暗闇の中を陰鬱に、また惨めに飛び回っていたいしというなら、小さな信仰で満足しているがいい。

しかし、もしあなたがたが日差しのもとで上へ昇り、昼間の鳥のように喜び歌いたいというなら、強い確信を求めるがいい。


8.もう1つの理由がある。
あなたの信仰に注意を払うべきなのは、愛する方々。
それがしばしば非常に弱く、あなたの心を完全に傾注する必要があるからである。

私は、あなたがたの中のだれかが、自分の信仰を強すぎると感じているかどうかは知らない。
だが私は、一度として自分の信仰が十分に強いと感じたことはない。

それは、一日の苦労を担うに足るだけの強さはあるように思える。
だが、それが鉋(かんな)がけを受けて、ほんの一片でも削ぎ落とされたとしたら、立っていないであろう。
私は一原子たりとも切り落とされる余裕はない。
それは十分に満足だが、それ以上ではない。

私たちの中のある人々について云えば、私たちの信仰はあまりにも弱いため、いかに小さな困難によっても、食い尽くされる恐れがある。
山羊が通りすぎては、その若葉を噛み取るであろう。
冬になれば、それは冷えこまされ、凍てつかされ、今にも死にそうにされる。

そして私の信仰は、非常にしばしば、貧弱きわまりない糸にぶらさがっているようなものである。
それは、今にも息を引き取りそうに見える。

あなたの信仰に注意を払うがいい。
キリスト者よ。あなたの信仰に注意を払うがいい。

夜、戸外に何を置きっぱなしにするとしても、この信仰という小さな子どもを放置しておいてはならない。
いかなる植物が霜にさらされようと、信仰は屋内に入れておくがいい。

信仰に注意を払うがいい。
それは通常はごく弱く、よくよく保護される必要があるからである。

このようにして私は今朝、自分にできる限り、私たちの信仰に注意すべきである大きな必要について述べてきた。そして私たちの祈りは、使徒たちの願いと同じように、「私たちの信仰を増してください」、でなくてはならない。


(続く)
こんにちは、兄弟姉妹の皆さん

昨日の続き、テーマは「信仰」の第5弾です。

ここで、1回目からおさらいします。
第1弾、自分の信仰を試しなさい。何故なら、もし信仰が間違っていれば、すべてが間違っているからである。でした。
第2弾、あなたの恵みは信仰にかかっているから。でした。
第3弾、信仰は如何に神に評価されるか。でした。
第4弾、信仰は祝福を得られる唯一の道だ。でした。
第5弾、敵の前で信仰に注意を払え。でした。

今日は続きです。


記事の元は、以下のリンクを辿ってください。
http://homepage2.nifty.com/grapes/SpurgeonS0032.htm


1855年7月1日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於ニューパーク街会堂


「使徒たちは主に言った。『私たちの信仰を増してください。』」(ルカ17:5)


6.さて六番目の理由である。
あなたの信仰に注意を払うべきなのは、さもないと、あなたは自分の義務をよく果たせないからである。
信仰は、魂が戒めの道を行進していくための足である。

愛はその足をよりすみやかに動かせるであろう。
だが、信仰こそ魂を運んでいく足である。

信仰は、聖なる献身と熱心な敬虔さの車輪をより円滑に動かせる潤滑油である。
だが信仰がなければ、その車輪は戦車から外れ、私たちはのろのろと身を引きずることになる。

信仰があれば、私には何でもできる。
信仰がなければ、私は神への奉仕において、いかなることを行なう気持ちも力もなくなるであろう。

もしあなたが神に最も良く仕えている人々を見いだすとしたら、そうした人々が最も大きな信仰の人であることに気づくであろう。
小さな信仰も人を救うであろうが、小さな信仰に大きなことは行なえない。

あわれな薄信者に「アポルオン」と戦うことはできなかった。
否。それを行なうのは「基督者」でなくてはならなかった。

あわれな薄信者に、「巨人絶望者」を打ち殺すことはできなかったであろう。
この怪物を打ち倒すには、「大勇氏」の腕が必要であった。

小さな信仰も確実きわまりなく天国に達することができるが、それはしばしば、団栗(どんぐり)の殻の中に逃げ隠れしなくてはならず、その宝石以外のすべてを失ってしまう。

もし大きな戦闘があり、なすべき大きな働きがあるとしたら、そこには大きな信仰がなくてはならない。
確信は山々をも背負うことができる。

小さな信仰は、もぐらづかにもつまずく。
大きな信仰は、ヨブ記の巨獣のように、「ヨルダン川を一息で鼻から吸い込む」*[ヨブ40:23]。

小さな信仰は、雨粒の一滴で溺れてしまう。
それは、少しでも困難があると、すぐに引き返すことを考え出す。

大きな信仰は神殿を建てることができる。
それは城をも築ける。

福音を宣べ伝えることができる。
キリストの御名を敵どもの前で宣言できる。
一切のことを行なうことができる。

そして、もしあなたが本当に偉大になり、あなたの《主人》に大きく仕えたいと思うのなら(私はあなたがそう思っていると信じているが)、あなたは信仰が増し加えられることを望むであろう!
そうすることによってあなたは義務においてより勤勉になるからである。

おゝ、あなたがた、活動的なキリスト者たち。
信仰に満たされるがいい!

あなたがた、多忙なキリスト者たち。
信仰を確実に守るがいい!

ひとたびそれが倒れたら、あなたがたはどうしようというのか?
日曜学校の教師として、説教者として、病人の訪問者として、あるいは何があなたの義務であるとしても、信仰があなたの強さであり確信でなくてはならないと心に思い定めるがいい。

もしそれがくじけるなら、そのときあなたはどこにいるだろうか?


(続く)
こんにちは、兄弟姉妹の皆さん

昨日の続き、テーマは「信仰」の第5弾です。

ここで、1回目からおさらいします。
第1弾では、自分の信仰を試しなさい。何故なら、もし信仰が間違っていれば、すべてが間違っているからである。でした。
第2弾では、あなたの恵みは信仰にかかっているから。でした。
第3弾では、信仰は如何に神に評価されるか。でした。
第4弾では、信仰は祝福を得られる唯一の道だ。でした。

今日は続きです。


記事の元は、以下のリンクを辿ってください。
http://homepage2.nifty.com/grapes/SpurgeonS0032.htm


NO. 32増し加えられた信仰の必要⑤


1855年7月1日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於ニューパーク街会堂


「使徒たちは主に言った。『私たちの信仰を増してください。』」(ルカ17:5)

5.次に、愛する方々。あなたの敵たちのゆえにあなたの信仰に不断に注意を払うがいい。

なぜなら、たとい友人たちとともにいるときには信仰を必要としなくとも、あなたの敵に相対するときには、それを必要とすることになるからである。
あの勇敢な老戦士パウロは、かつてエペソ人たちを武器庫の中に導き入れ、彼らが身につけるべき履き物や、帯や、胸当てや、かぶとや、剣を彼らに示した後で、こう厳粛に云っている。

「これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい」[エペ6:16]。

万が一かぶとを忘れるようなことがあっても、大盾だけは手に取るようにするがいい。
たといあなたからかぶとが跳ね飛ばされても、大盾があれば打撃を避けることができ、頭部を守れるからである。
あなたは、「平和の靴や正義の胸当て」を身につけるべきだが、何か1つを省くとしても、「信仰の大盾」だけは手に取っているように注意するがいい。
「それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます」。

よろしい。さて、信仰は、人が敵を向こうに回しているとき、その人を非常に強める

もしある人が自分は正しいと信ずるならば、それが天性のものの見方によるとしても、真理のために君主や王たちの前に連れ出されるとき、いかにその人が獅子奮迅の働きをすることか!

その人は云うであろう。
「私は屈することができない。屈することはありえない。真実が私の味方をしているのだから」。

左様、たとい他の人々がそれを度し難い頑固さだと呼ぼうと、人をして、「私は屈さない」、と宣言させるのは魂の真の気高さである。

それよりさらに強いのが、真に霊的な信仰である。
それは殉教者を火刑柱へと赴かせ、炎に包まれたときも、その人に歌わせることができた。
また、それは別の人を海へと赴かせた。
そして、私たちが古い殉教者列伝で読む人物のように、それは年老いた老婦人すら助けて、「キリスト様こそすべてです」、と叫ばせた。

信仰は火の勢いを消し、獅子の口を閉ざし、弱い者なのに私たちを強くしてきた[ヘブ11:33-34]
それは、世の征服者たちの全軍勢よりも多くの敵を打ち負かしてきた。
私は、ウェリントンのおさめた数々の勝利など聞きたくない。
ナポレオンの数々の戦いなど語らぬがいい。

信仰が何を成し遂げたかを告げるがいい!
おゝ!もし私たちが信仰の誉れのために記念碑を立てるとしたら、その巨大な台座にはいかに種々の名前を刻むべきだろうか?

私たちは、ここに「獅子の穴」を刻み、あそこに「豹の戦い」を刻むべきである。
あるいは、ここに、信仰がいかに紅海を2つに分けたかを記録し、そこに、いかに信仰がミデヤン人を打ったか、また、そこには、いかに信仰によってヤエルがシセラを殺したかを記すべきである。
いかなる信仰の争闘を私たちは彫刻しなくてはならないだろうか?

おゝ、信仰よ!
お前の旗は高く翻っている!
お前の紋章入りの盾ほど輝かしいものはない!
お前は偉大であり、勝利に満ちている!
おゝ、信仰よ。
お前によって私はこの世に挑戦し、勝利を確実におさめる。

小さな子どもを私と戦わせてみるがいい。
だが信仰がなければ、小さな女中の前のあわれなペテロと同じく、私は震えて、自分の《主人》を否定するであろう。

しかし、同じペテロは、信仰を備えていたとき、渋面をした議会の前で恐れることなく立っている。
スコットランド女王メアリーは、「ジョン・ノックスの祈りと信仰の方が、一万人の軍隊よりも恐ろしい」、と云った。
そして、分別のある敵であれば、それほど無敵のものが自分と戦っている場合、震えて当然であろう。

私は、信仰の人が私に立ち向かって戦うことだけは御免こうむる。
この世が私を憎んでいると告げるがいい。
私はそれを喜ぶであろう。
だが、信仰の人が私を押しつぶそうと決心したと告げるがいい。
そのとき私は震えざるをえない。

というのも、その人の腕には権威があるからである。
その人の打撃にはすさまじい力がこもっている。
そして、その人が強打するときには、鉄の杖をもってするように、深手を負わせる。

震えるがいい。
あなたがた、神の敵たち。
信仰は勝利せざるをえないからである。

そして、おゝ、あなたがた、生ける神のしもべたち。
あなたの信仰をよく守るがいい。
というのも、これによって、あなたがたは勝利を得るからである。
また、岩のように立ち、嵐の最中でも動かされず、迫害の暴風によっても揺るがされないからである。

(ペリカン雑感)
わたしの勝手な思いを書いて読み手の受け取り方を束縛したくないので、ペリカン雑感はやめます。

主の御名を賛美します。


こんにちは、兄弟姉妹の皆さん

昨日の続き、テーマは「信仰」の第4弾です。

第3弾では、信仰はいかに神から尊ばれているかでした。

今日は続きです。


記事の元は、以下のリンクを辿ってください。
http://homepage2.nifty.com/grapes/SpurgeonS0032.htm


NO. 32増し加えられた信仰の必要④


1855年7月1日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於ニューパーク街会堂


「使徒たちは主に言った。『私たちの信仰を増してください。』」(ルカ17:5)


4.次に、キリスト者よ。
あなたの信仰によくよく気を遣うべきなのは、思い出してほしいが、信仰こそ、あなたが祝福を獲得できる唯一の道だからである。

もし私たちが神から祝福を授けてほしければ、信仰による以外、何物もそれを天から取ってくることはできない。祈りが神の御座から答えを引き下ろせるのは、それが信仰を持っている人の熱心な祈りである場合に限る。

信仰は、私の魂が天に一歩一歩上っていくためのはしごである。
もしそのはしごを壊したとしたら、いかにして私は私の神に近づけるだろうか?

信仰は、魂と天国の間の天使めいた使者である。
その天使が引っ込んでしまえば、私は祈りを上に送ることも、その答えを上から受けとることもできない。

信仰は、地上と天国を繋ぐ電信線(現時代で喩えるならネットワークかな)である。
その線の上を神の祝福は瞬時に走り、私たちが呼ぶ前から神は答え、私たちがまだ語っている間に神はお聞きになる。

しかし、もしその電信線がぷっつり切れたら、いかにして私たちは約束を受け取れるだろうか?

私が困難に陥っているとする。
私は信仰によって困難への助けを獲得できる。

私が敵に打ち叩かれているとする。
私の魂は、信仰によって、かの愛し隠家(いえ)に頼る。
詩篇18: 2「主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。」

しかし、信仰を取り去ってしまえば、私が神を呼んでも無駄である。
私の魂と天国の間には何の道もない。

信仰こそ、厳寒の真冬にも祈りの馬が旅することのできる道路である。
左様、身を切るような霜があればなおのことである!

しかし、その道路を遮断してしまえば、いかにして私たちは、私たちの偉大な王とやりとりできるだろうか?

信仰は私を神性と繋いでいる。
信仰は私に神格の衣をまとわせている。
信仰はエホバの全能性をして私に味方させている。
信仰は神の御力を私に与える。

というのも、それはその力を私のために確保するからである。
それは私に地獄の軍勢を向こうに回して一歩も引かせない
それによって私は、自分の敵を屈服させ、勝ち誇って歩むことができる

しかし信仰がなければ、いかにして私は主から何かを受け取れるだろうか?
疑っている者(海の大波のような者)は、神から何かをいただけると思ってはならない![ヤコ1:6-7]

おゝ、ならば、キリスト者たち。
あなたの信仰をよく見張るがいい。

というのも、信仰があれば、あなたは、いかに貧しくとも、あらゆるものをかちとれるが、信仰がなければ、何1つ獲得できないからである。

マイダス(Midas)王は、自分の手で触れる物をことごとく黄金に変える力があったという。
それと同じことが信仰についても云える。――それはあらゆるものを黄金に変える。

だが、信仰が損なわれれば、私たちは自分のすべてを失ったのである。
私たちは、みじめで、貧しい者となる。
なぜなら、私たちは御父とも、御子イエス・キリストとも、何の交わりも保てないからである。


(ペリカン雑感)
信仰こそ祝福と力を得る為の必須条件であることを知りました。
困難に打ち勝つ力も信仰あってこそだということを知りました。
信仰が無ければ如何に恐ろしい自体になることかをよくよく考えるべきかと思います。
しかし、「私には信仰があるのだろうか?」と疑いたくなるようなことを日々の生活で感じてしまう人が多いのではないでしょうか?

主イエスの御名を賛美します。

こんにちは、兄弟姉妹の皆さん

昨日の続き、テーマは「信仰」の第3弾です。

昨日は、信仰が基礎になっていることが説明されていました。
信じてもいないお方を愛せるだろうか?
信仰も持たずに忍耐を働かせられるだろうか?
信仰がないとしたらだれが勇気を持てるだろうか?

今日は続きです。


記事の元は、以下のリンクを辿ってください。
>http://homepage2.nifty.com/grapes/SpurgeonS0032.htm


NO. 32増し加えられた信仰の必要③


1855年7月1日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於ニューパーク街会堂


「使徒たちは主に言った。『私たちの信仰を増してください。』」(ルカ17:5)

3.第三に、――あなたの信仰を気に留めなくてはならないのは、キリストがそれを高く評価しておられるからである。

新約聖書の中には、尊いと呼ばれているものが3つある。

その1つは、知っての通り、キリストの尊い血である[Iペテ1:19]。
もう1つは、尊い、すばらしい約束である[IIペテ1:4]。
そして、信仰は、三番目のものたる栄誉が与えられている。――「私たちと同じ尊い信仰を受けた方々へ」[IIペテ1:1]。

こういうわけで、信仰は神が尊ぶ3つのものの1つなのである。
これは、神が他のすべてにまさって評価される物事の1つにほかならない。

昨日、私は古い神学書を読んでいて非常に驚くべき思想に出会った。
その著者は、神が信仰にまとわせておられる栄誉について、こう云っているのである。

「キリストは、ご自分の頭から冠を外して、信仰の頭の上に置かれた」。

注意するがいい。
主が、いかに頻繁に、「あなたの信仰が、あなたを救ったのです」、と云われたことか[ルカ7:50; 18:42]。
とはいえ信仰が救うのではない。キリストがお救いになるのである。

「あなたの信仰があなたを癒したのです」[マタ9:22; マコ5:34]、と主は云われる。
とはいえ信仰が癒したのではない。キリストがお癒しになったのである。

だが、キリストはご自分から冠を外しても、信仰に冠をお与えになった。
主は、救いの王冠をご自分の頭から取って、それを信仰の額にかぶせ、そのようにして信仰を「王の王」とされた。そのとき信仰は、王の王[黙17:14]だけが戴くことのできる冠、「救いの冠」を戴いているからである。

あなたは「私たちは信仰によって義と認められる」[ガラ3:24]と書かれているのを知らないだろうか?
さて、ある意味でこれは事実ではない。

義認の実質は、転嫁されたイエス・キリストの義だからである。
私たちはキリストによって義と認められる。
※ペリカン注:もうお判りのことだと思いますが、義となられたのはイエス様であって、イエス様を信じる信仰が、天の御父にイエス様を通して義と認められているとのことです。


だが、キリストは信仰をご自分の王服で着飾らせ、それを真に光輝くものとしてくださる。
イエス・キリストは、常に信仰を栄誉ある座につかせておられる。

あの病気の娘を持ったあわれな女がやって来たとき、主は云われた。
「ああ、あなたの信仰はりっぱです」[マタ15:28]。

主は、「ああ、あなたの愛はりっぱです」、と云うこともおできになった。
りっぱな愛があればこそ彼女は群衆を押し分けて進み、娘のために懇願したからである。

あるいは、「あなたの忍耐はりっぱです」、と云うこともおできになった。
主が彼女を「犬」と呼んだときも、彼女は主にすがりつき、離れようとしなかったからである。
※ペリカン注:直接カナンの女を「犬」と言っているところはない、カナン人は異教徒であることから「犬に与えるのはよくない」と言われました。

あるいは、「あなたの勇気はりっぱです」、と云うこともおできになった。
彼女はこう云ったからである。
「ただ、小犬でも……パンくずはいただきます」。

あるいは、「あなたの知恵はりっぱです」、と云うこともおできになった。
彼女はかしこい女で、苦味の中から甘みを引き出すことができ、こう云っているからである。
「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも……パンくずはいただきます」[マタ15:27]。

しかし、主はこれらすべてを見過ごしにして、こう云われた。
「あなたの信仰はりっぱです」

よろしい。
キリストが信仰をこれほど評価しておられる以上、私たちはそれをこの上もなく尊重すべきではないだろうか?
キリストが最も価値あるものとみなしておられる宝石を、私たちが高く評価しすぎるなどということが可能だろうか?
主が信仰を美徳の額の最前面に据えておられる以上、また主がそれをキリスト者の冠の最上の宝石であるとみなしておられる以上、おゝ!それによって私たちは目覚めさせられ、自分が信仰を有しているかどうかを見てとらされるではないだろうか?

というのも、それを有していれば、私たちは富んでいるからである。――信仰と約束に富んでいるからである。
しかし、もし有していなければ、他に何を有していようと、私たちは貧しい。――現世で貧しく、来世でも貧しい。


(ペリカン雑感)
信仰は神(御言葉)が尊いと言われたなら、信仰を求めずにいられるでしょうか?
有していれば、私たちは富んでいるし、有していなければ、私たちは貧しい。(これはON or OFFですね)
前回、
小さな信仰の持ち主は、小さな愛の持ち主である。
大きな信仰の持ち主は、大きな愛情の持ち主である。
とありました。(これは、信仰の量のような気がします。)
どんなところでも、イエス様を大胆に証しすることが出来て、パウロのように「恥としない」ならば、どんな迫害・蔑み・嘲笑にあっても喜んでいられるでしょう。
しかし、学校や会社でクリスチャンであることを隠して、イエス様の証しも出来ないなら、どんなに小さな迫害であっても、傷つき悲しみに暮れるでしょう。(私もこちら側です。)
だからこそ、『私たちの信仰を増してください。』(ルカ17:5)なのではないでしょうか?


こんにちは、兄弟姉妹の皆さん

昨日の続き、テーマは「信仰」です。

昨日は、自分の信仰について格別な注意を払うべき理由について紹介しました。
「愛によってでもなく、勇気によってでも、忍耐によってでもなく、信仰によって救われる。」とありました。それは、エペソ2: 9「行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」にあるとおりだと思います。
また、信仰が無ければ生きられないと言っていました。
また、信仰が間違っていないかを試すべきだとも書いてありました。

今日は続きです。


記事の元は、以下のリンクを辿ってください。
http://homepage2.nifty.com/grapes/SpurgeonS0032.htm


NO. 32増し加えられた信仰の必要②


1855年7月1日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於ニューパーク街会堂


「使徒たちは主に言った。『私たちの信仰を増してください。』」(ルカ17:5)


2.自分の信仰を気遣わなくてはならないのは、あなたのすべての恵みがそれにかかっているからである。

信仰は、根元的な恵みである。
他のあらゆる美徳や恵みが、そこから生じている。

愛はどうか。
いかにして自分が信じてもいないお方を愛せるだろうか?

もし私が、神がおられること、神を求める者には報いてくださる方であることとを信じていないとしたら[ヘブ11:6]、一体いかにして私は神を愛せるだろうか?

忍耐はどうか。
いかにして信仰も持たずに忍耐を働かせられるだろうか?
信仰は、報酬が与えられるときを待ち望むからである。

信仰は、「すべてのことが働いて益となる」[ロマ8:28 <新改訳聖書欄外訳>]、と云う。

私たちの苦悩から、より大きな栄光が生ずると信ずる。
だからこそ耐え忍べるのである。

勇気はどうか。
信仰がないとしたらだれが勇気を持てるだろう?

あなたがいかなる美徳を取り上げても、それは信仰に依存していることがわかるであろう。

信仰はあらゆる恵みの真珠を通しておくべき銀の糸である。
それを断ち切れば、その糸を切ったのと同じである。
真珠は地面に散らばり、あなたを飾るため身につけられなくなってしまう。

信仰はあらゆる美徳の母である。
信仰はいけにえを焼き尽くす火である。
信仰は根を養う水である。
信仰は、あらゆる枝に活力を分け与える樹液である。

もしあなたに信仰がなければ、あなたの恵みはみな死なざるをえない。
そして、あなたの信仰が増し加わるにつれて、あなたのあらゆる美徳も増し加わるであろう。
すべてが同じ度合にではないにせよ、すべてがある程度は増し加わるであろう。

小さな信仰の持ち主は、小さな愛の持ち主である。
大きな信仰の持ち主は、大きな愛情の持ち主である。

神を信ずる大きな信仰を持っている人は、神のために死をも選べるが、神を信ずる信仰が小さな人は、その愛がひ弱なために火刑柱から尻込みするであろう。

あなたの信仰に気を遣うがいい。

というのも、あなたの美徳は信仰にかかっているからである。
そして、もしあなたが善であること、「愛すべきこと、評判の良いこと」*[ピリ4:8]、
自分にとって誉れとなり、神を喜ばせることを努めて身につけたければ、あなたの信仰をよく守るがいい。

あなたの信仰に、すべてが基づいているからである。




(ペリカン雑感)
愛も、忍耐も、勇気も、信仰あってこその賜物であることを知りました。
愛、忍耐、勇気で、信仰を勝ち取るのではなく、信仰こそがその全てを与えてくれるものなのですね。



こんばんは、兄弟姉妹の皆さん

今日、選んだテーマは「信仰」、とても重要(どれも重要なのですが・・・)なので、少しずつ区切って記事にしたと思います。
記事の元は、以下のリンクを辿ってください。
http://homepage2.nifty.com/grapes/SpurgeonS0032.htm


NO. 32増し加えられた信仰の必要


1855年7月1日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於ニューパーク街会堂


「使徒たちは主に言った。『私たちの信仰を増してください。』」(ルカ17:5)



1.私たちは自分の信仰について(その正しさについても、その強さについても)格別な注意を払うべきである。

それは、何よりも第一に、救いにおいて信仰が占める位置を考えるときにそうである。
信仰は、救いの恵みである。

私たちは愛によって救われるのではない。
恵みによって救われるのであり、信仰によって救われるのである。
私たちは勇気によって救われるのでも、忍耐によって救われるのでもない。
信仰によって救われるのである。
すなわち、神はその救いを信仰にお与えになるのであって、他のいかなる美徳にもお与えにならない。

愛する者は救われる――などとはどこにも書かれていない。
忍耐深い罪人は救われる――などとはどこにも記されていない。

だが、こう云われている。

「信じてバプテスマを受ける者は、救われます」[マコ16:16]。

信仰は救いの要である。
人がもし信仰を欠いていれば、すべてを欠いている。

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません」[ヘブ11:6]。

もしある人に真の信仰があるなら(たといその人が、他の美徳をいかに僅かしか有していなくとも)、その人は安泰である。

しかし、かりに人が、この世のありとあらゆる美徳を備えられたとして、外見上は、使徒パウロその人と同じくらいキリスト者らしく見えたとしよう。熾天使と同じくらい熱心であったとしよう。
自分の《主人》への奉仕において、いと高き所の御使いと同じくらい熱心であると考えられるとしよう。

それでも、「信仰がなくては」、と神のことばは宣言している。――「神に喜ばれることはできません」。

信仰は、救いに至る恵みである。――それは、魂とキリストを繋ぐ環である。

それを取り去れば、すべてが失われる。
信仰を取り除けば、船の竜骨を挽き切ったのと同じく、沈没するしかない。
信仰を取り去れば、盾を取り去られたのと同じで、切り殺されるしかない。
信仰を取り除けば、キリスト者のいのちは存在を停止する。
即座に絶え果てる。

というのも、「義人は信仰によって生きる」からである[ロマ1:17; ガラ3:11]。

信仰なしに、彼らは、一体いかにして生きられるだろうか?

ならば、こう考えるがいい。

信仰が救いにおいてそれほど重要であるからには、私たちひとりひとりは、自分に信仰があるかないかを、いやまして熱心に調べるのが当然である、と。

おゝ、私の兄弟たち。

この世には、にせものがごまんとある。――信仰の模造品がごまんとある。
だが、真の、生きた、救いに至る信仰はただ1つしかない。

観念的な信仰はいくらでもある。――健全な信条をいだくことに最も重きを置く信仰、人に命じて偽りを信じさせる信仰、まだ苦い胆汁と不義のきずな[使8:23]の中にいる人をも安全だという確信でくるみこむような信仰、増上慢に自分を信頼することを根本とするような信仰。

偽りの信仰はいくらでもある。
だが、真の信仰は1つしかない。

おゝ!もしあなたがたが、最後には救われたいと願っているというなら、もしあなたがたが自分をごまかしたまま、目をつぶって断罪へ行進していきたくないというなら、今朝、あなたの信仰を手に取って、それが純粋なポンド貨幣かどうか見てみるがいい。

私たちは、自分の信仰について他の何よりも注意を払うべきである。
確かに私たちは、自分のふるまいを吟味すべきである。
自分の行ないを調べるべきである。
自分の愛を試すべきである。

だが、何にもまして自分の信仰を試すべきである。

というのも、もし信仰が間違っていれば、すべてが間違っているからである。
もし信仰が正しければ、私たちはそれを自分の真摯さの試金石とすることができる。

「神の御子を信じる者のうちには、永遠のいのちがとどまっている」*[ヨハ3:36参照]。


☆ペリカン雑感
信仰って。強く信じれば良い事と漠然と考えていました。
しかし、この説教の導入部(ここでは省いていますが)、12使徒たちさえ「信仰を増してください!」と叫んだのです。
どれだけ強い思いなのか、信仰についてさっぱり知らなかったことを知らされました。
そして、私の普段の行動が、信仰を持っていないことの証明にもなっていました。

主イエス・キリストにあって、兄弟姉妹となられた皆さんへ、恵みと祝福が大いにありますように!
ハレルヤ!主の御名を賛美します!

こんばんは、兄弟姉妹の皆さん

今日も、C.H.スポルジョン氏の説教集からご紹介します。
ご存知の方も多いと思います。
以下のHPから引用させていただきました。
http://homepage2.nifty.com/grapes/SpurgeonS3154.htm

紹介している説教は、全文ではありません。
是非、上のリンクから全文をお読みください。


メトロポリタン・タバナクル講壇

NO. 3154 神の忍耐について

1909年7月22日、木曜日発行の説教
説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1873年4月20日、主日夜

「それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか」。――ロマ2:4

神の側における愛を大きく示す1つのしるしは、神がへりくだって人間たちと論じ合ってくださることである。
彼らがご自分にそむいたとき、神は彼らに向かって、「わたしは、お前たちの罪ゆえに、お前たちを罰することにしよう」、と云い放ち、その脅かしを実行に移す日が来るまで、彼らのもとから立ち去ることもおできになったであろう。

しかし、そうする代わりに、神はひとりでも滅びることを望まず[IIペテ3:9]、ご自身の宣言に従い、決して悪者の死を喜ばれない。
かえって、悪者がご自分のもとに立ち返って、生きることをお喜びになる[エゼ33:11]。
それで神は、立ち止まって諭してくださる。

神があなたの益を欲し、あなたの幸せを願っていないはずがないと考えるがいい。
さもなければ、神がそのしもべにお命じになり、こうあなたに云わせたはずがない。
あなたは、「神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか」、と。


パウロの時代にも今の時代と同じく、一部の人々は、人類の非常な罪深さを見てとるとともに、
神が不敬虔な者をすぐには滅ぼさないことに気づいて、その事実からこう推測していた。

「われわれがどんな罪や犯罪を犯そうと、何の違いがあるというのか?明らかに神は眠り込んでいるか、こうした行為に目をつぶっているのだ。
あるいは、神など全くいないのかもしれない。
いずれにせよ、われわれは罪の中に生き、そこで大いに楽しもうではないか。
そうしても何の悪い結果も生じないだろうからだ。
上等な肉を食べ、甘い葡萄酒を飲み、心ゆくまで楽しんでも、誰ひとりわれわれの責任を問う者などいないだろう」。

それで彼らは、神が慈愛に富んでおられるという事実そのものから、自分たちがいくら罪におぼれようと、いくら反逆に反逆を重ねようとかまわないと推断した。
また、神の足が復讐を伴って来るのが遅いからといって、いざ神がやって来られるときにも、その御手は重くないだろうと想像し、こう云ったのである。

「飲めよ。食らえよ。どうせ、あすは死ぬのだから」[イザ22:13]。

こうした種類の罪人に対してこそ、パウロはこの問いを発したのである。
「神の……豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか」、と。


I.神の慈愛と忍耐と寛容とを尊ぼうではないか。

使徒によって示された描写は三重である。
「神の……豊かな①慈愛と②忍耐と③寛容」。

神の「慈愛」とは、神が私たちの過去の罪すべてを見過ごし、まだ、それらについて正義をもって私たちを取り扱ってはおられないあり方に言及しているのであろう。

神の「忍耐」とは、私たちの現在のもろもろの罪(この日この時のそむきの罪)に言及しているのであろう。

神の「寛容」とは、私たちの未来のもろもろの罪に言及しているのであろう。

あなたは、人に怒りを覚えたとき、どれだけ癇癪を抑えておけるだろうか?
一時間だろうか?
残念ながら、あなたがたの中の多くの人々はそのようなことはしようとせず、たちまち、自分に挑みかかるような不遜なことをした相手に食ってかかるのではないかと思う。

ならば、あなたは、神について何と云えば良いだろうか?
神は、この場にいるある者らのことを40年、50年、60年、70年、ことによると80年も我慢しておられるのである。

おゝ、神の驚くばかりのあわれみよ!
この神は、ひとりの罪人を12箇月の50倍さえ辛抱することがおできになる。
そして、なおも我慢することができ、憐れみ深く懇願する調子で、こう仰せになることがおできになるのである。

「『さあ、来たれ。いま来たれ。そして論じ合おう』、と主は仰せられる。
『たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。
たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる』」[イザ1:18参照]、と。


今のあなたに対する神の豊かな忍耐を軽んじてはならない。

あなたは人間相手に嘘をついたのではなく、神に嘘をついてきた。
自分の良心を通して神から語りかけられたときには、それをあやして眠らせてきた。
神の聖霊があなたと争っておられたときには、聖霊を消すことすら行なった。
だが、今この瞬間まで、神は――ことば1つ発さずに、あなたの咎ある魂を地獄送りにできる神は――そうすることを忍んでおられる。

「わたしはどうしてあなたを引き渡すことができようか」[ホセ11:8]、と叫んでおられる。

反逆者を面前に見ながら、彼に向かってこう仰せになる。
「わたしは、いかにしてあなたを罪に定めることができようか?
いかにしてあなたを地獄に投げ込めようか?
あなたに対する私の同情は動かされている。
わたしはあわれみで胸が熱くなっている」。

さて、神はこれまであなたを、一度ならずその鞭で打ってこられた。
あなたは病や貧困、そして他の多くの艱難に苦しんできた。
神の鞭は今あなたを打ちすえている。
だが、神は、その斧を取り上げることを急がれない。
悔悟しない者に対するその審きは厳格だが、神は非常に憐憫と同情に満ちており、できるものなら死の一撃を加えたくないと思っておられる。
「悔い改めよ」、と神は云われる。

「悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか」[エゼ33:11]。

そして、懸河の弁(けんがのべん)によって人々に叫び求めるのである。ご自分のもとに立ち返り、生きよ、と。

それから、まだ犯されていないもろもろの罪に関する神の寛容がある。
おゝ、罪人よ。
あなたは、将来罪を犯さないと約束することができない!
あなたは愚かにも、「私は犯しません」、と云うかもしれない。
だが、クシュ人がそのその皮膚を変え、豹がその斑点を変えるよりもずっと困難なこと、それは、悪に慣れたあなたが自力で善を行ない始めることである[エレ13:23]。

あなたの心の泉は汚れているため、汚染された水流がそこから流れ続けざるをえない。
あなたは、そのような種族の生まれであり、かつ、自分の絶えざる罪深さによって生来の堕落ぶりをいやが上にも増し加えている。

このため、あなたは恵みがあなたを変えて更新するまで、ずっと罪を犯し続けるのである。
いかにして神は、このことを知りながら、あなたの存在を叩き消してしまわれないのだろうか?
神は、もう一年あなたを生き続けさせ、あなたのかたくなな心がご自分の愛になおも反抗するのをお許しになろうというのだろうか?

もし滅びの御使いが、いかなることをあなたが行なうことになるか告げられたとしたら、彼は立ってその剣を抜くか、その手をその柄にかけて云うであろう。
「恐るべき《主権者》よ。私に命じてください。
あなたの御名を冒涜し、あなたの律法を破る者たちを地上から一掃することを。
そうすれば、その通りになります」。

しかし、神は云われる。
「剣を鞘に収め、もう少し待っていなさい!
彼らにはもう一度訴えかけ、もう一度招き、もう一度懇願してみよう」。
おゝ、これらが彼らにとって有益なものとなり、彼らが神に立ち返って生きるようになるとしたら、どんなに良いことか!

---

「神の……豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか?」

まことに、私たちに対する神のあわれみは豊かさの宝庫に似ている。

私が自分自身のことを述べるのは、それがここにいる他の多くの人々と似通っていると知っているからである。
敬虔な家で揺りかごに入れられ、この上もなく優しい世話で養われ、幼少の頃から福音を教えられ、
両親というきわめて聖い模範を有し、考えうる限り、罪に走らないようにする最上の妨げに取り囲まれていながら、
そうした一切にもかかわらず、罪に罪を、反逆に反逆を重ねる。

跳躍しようとする軍馬の手綱を、乗り手が引いて止めようとするように、良心による抑制がかかる。
それでも、なおも罪を犯そうと決意し、その深みへ深みへと入り込もうと決心し、罪を抑制しようとする神に怒りを覚えるまでとさえなる。

その制御を振り切って先へ進もうとし、神から逃走して、以前にまして重い罪を犯す。
その後、神の御手によって病に倒され、恐怖と恐慌に襲われては、生き方を改める決意をするが、
再び健康へと引き上げられると、真剣な心の感銘を振り捨て、笑い声をあげては再び罪の愚かさに立ち戻る。

それから再び叱責を受け、震え上がり、雷で打たれたようになり、神の御前で畏怖させられる。
尊い《救い主》について聞かされる。
だが、このお方を押しのけ、また別の日にキリスト者になれば間に合うさ、とうそぶく。

これが、主権的な恵みに出会う前の私の悲しい物語であり、この場に出席している他の多くの方々の物語でもある。

---

だが、その間ずっと、神は数々の摂理の祝福をあなたに供し続け、あなたが決して欠乏しないようにしてこられた。
神は、他の非常に多くの人々が耐え忍ばなくてはならなかった数々の危険や、試練や、苦難からあなたを守ってこられた。

神がこうした一切のことをあなたのために行なわれたというのに、あなたの思いの中には、神に対する優しい考えが何もなく、
神の大いなるあわれみについて感謝すべき何の記憶もないのだろうか?

おゝ、考えてみるがいい。
あなたがとうの昔にどこに陥って行きかねなかったかを!
人々は、あなたの死んだからだを見下ろし、こう云っていたかもしれないではないだろうか?

「土は土へ、灰は灰へ、ちりはちりへと還る」、と。

十字架の上で罪人たちのために死なれた、神のキリストのことを考えてみるがいい。
地に下って、罪人たちを相手に争い、訴えておられる、神の御霊のことを考えてみるがいい。
自分の信頼を御子イエス・キリストに置くすべての者に授けられる、御父の全能の愛のことを考えてみるがいい。

おゝ、確かにそこには豊かなあわれみがある。
豊かな慈愛、豊かな忍耐、豊かな寛容がある。
そして、人よ。あなたはそのすべてを軽んじているだろうか?

あなたは、こうは云わないだろうか?
「私の神よ。私をお赦しください。これほど長いこと、あなたをなおざりにしてきたこの私を」。
それとも、あなたはなおも神の慈愛と忍耐と寛容を軽んじ続けるだろうか?

---

神の慈愛がいかに卓越したものであるかは、4つのことを考察するとき明らかに示される。

1.真正なご人格

いかなる者も、自分に劣る者から侮辱されることを好みはしない。
ならば、いかにして神が、ご自分の作られた被造物たちから侮辱されることを辛抱できるだろうか?
いかにして神は、人間のように全く取るに足らない、無価値な者によって反抗され、挑みかかられることを耐え忍べるだろうか?

だが、神はご自分の反逆的な被造物を粉砕して当然なのにそうはなさらないのである。

---

2.神の全知

時として私たちが人々を我慢するのは、彼らが云ったりしたりしたことの多くを忘れてしまうからである。
だが、二十年前の悪口や、あなたに対する敵の長い生涯にわたる辛辣な言葉や、意地悪な行為のすべてがあなたの心の目の前にあるとしたらどうなるだろうか?
だが、神は私たちの一切の罪をご自分の前に置いており、私たちの最も隠された罪もご自分の御顔の光の中に置いておられるが、それでも私たちを打って滅ぼすことを辛抱しておられるのである。

---

3.神はいかに強大なお方か

何者も、神が追跡するときに逃げおおせることはできない。
モーセはパロのもとから逃亡し、ミデヤンの地に隠れることはできた。
だが、神がひとたびご自分に反逆したことのある者全員を罰そうと決意されたとしたら、いかにして私たちは神の復讐から逃れて免れることができるだろうか?

その被造物のうち何者も神に対抗することはできない。
だがしかし、神には途方もない寛容さがあり、この長年月、私たちを我慢してくださった。

---

4.神の慈愛がいかなる存在に向かって明らかに示されているか

それは人間なのである。
人間がいかなるものか考えてみるがいい。
果たして、このようにちっぽけで、取るに足らない被造物が、あえて神に宣戦布告し、「俺様はお前が行なうよう命じたことを行ないはしない」、と云えるものかを。

――神の許しと支えがなければ、一瞬も生きることができない人間、それが立ち上がって、こう云うのである。
自分は神のしもべになるつもりはない、神が任命された《救い主》を受け入れるつもりなどない、と!

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別の測地線はこれである。
神の慈愛がいかなるふるまいに対する答えであるか、言葉を換えると、罪がいかなるものか考察するがいい。

この場にいるいかなる人も、神の御前において罪が真にいかなるものかを一度でも見てとったことはない。
極小の罪の中にも、地獄の中にある悪にもまさる悪が詰まっている。

そして、いくつかの罪は、あまりにも放恣で、あまりにもはなはだしく、あまりにも勝手気ままであり、人々はあまりにもことさらにそれらを犯そうとする。
――いくつかの罪は、あまりにもしばしば繰り返され、懲らしめを受けても変わらない。
――いくつかの罪は、あまりにも人を汚染し、あまりにも不潔で、その中にある人は自分自身のみならず他の人々をも堕落させ、滅ぼしてしまう。
そして、いくつかの罪はあまりにも破廉恥である。
このため、まさに驚異となるのは、神がそれらを犯す人をなおも忍んでくださり、その正義の雷電を抑えておく一方で、あわれみという銀の王笏を差し出し、罪人のかしらにさえこう仰せになることである。

「主イエス・キリストを信じなさい。そうすれば、あなたも……救われます」[使16:31 <英欽定訳>]。

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それから、もし私たちがもう一本、別の測線を欲するとしたら、
それは神の慈愛がもたらす数々の恩恵について考察することのはずである。

私たちに共通する種々のあわれみ――日ごとの糧、身にまとう着物、労働のために必要な健康、危地からの救出、死からの守り、
安息日という制度、聖書という賜物、救いの福音、――これらは測り知れない恩恵である。

ならば、誰が計算できるだろうか?
神の豊かな慈愛と忍耐と寛容がいかほどのものかを。

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II.人々がどのようにして神の慈愛と忍耐と寛容を軽んじるか。

1.最初に、多くの人々は、自分が神から慈愛を受けているなどとは全く考えもしないことによってそうする。
彼らは、神が彼らに与えておられる一切のものを当然のことと受け取り、決してそれらについて考えない。

仮にあなたが、どこかの貧乏な人に対して非常に気前良くしてやっており、何年間も彼が欠乏しないようにしてやっていたとしよう。
その場合、もしも彼がそれを当然視し、決してあなたに何の感謝も示さず、むしろ、あなたがこれほど長い間してきた通りのことをずっとし続けるように期待するとしたら、時としてあなたは悲しみを覚えるに違いないと思う。

あなたは自分に向かって云うであろう。
「私は、彼を助けてやる義理など全くない。これは、完全に私の親切心から出た行為なのだ」。
あなたは、「もはや彼には何もやるまい」、と云いたくはないが、そう云いたい気持ちに強くかられる。

この場にいる多くの人々は、恩知らずだと思われたくはないだろうと私は知っているし、また、同胞の人々に対して恩知らずなことはしていない。
そのような人格をあなたが軽蔑することを私は知っている。
だが、あなたは、あなたの最高の《友》に対して恩知らずなのである。



2.ある人々が神の寛容を軽んじるのは、そこにこめられた神の意図に逆らうことによってである。

神が慈愛を賜る意図は、悪人たちを善人にすることにある。
悔悟しない罪人たちに対する神のあわれみの意図は、彼らを悔悟させることにある。

神は、非常に重い病気にかかったあなたの寝床のかたらわにやって来られる。
死の冷たい汗があなたの額ににじんでいるが、神はあなたの体内から熱病を引き出し、
再びあなたのいのちを伸ばしては、地上でのもう十年間をあなたに与えてくださる。

だが、それでも、あなたは神に対して云う。
「いくらこんなことをされても、私はあなたを少しも愛するようにはなりませんよ」。

それが正しいことだろうか?
神はあなたを優しく導いてこられた。
あなたを追い立てず、あなたへの愛ゆえに、あなたをご自分のもとに引き寄せてこられた。
では、神の寛容を軽んじて、他の方向へ進んではならない。



3.ある人々は、それよりさらに悪いことをする。

というのも、彼らは神の寛容と忍耐をねじ曲げて、不信仰のままでいる理由にするからである。
彼らは自分に向かって云う。
「われわれは、この世で面白おかしく過ごしてきた。キリスト教信仰のことなどもはや考えなくなってもな。
だから、われわれは自分の好きなようにしていて良いのだ。神はわれわれのことを怒らないのだ。その手を伸ばしてわれわれを打つようなことはしないのだ」。

しかし、不敬虔でありながら繁盛している人、自分の船には順風しか吹いて来ず、あらゆる季節には隣人たちよりも良質の収穫が得られ、
子沢山でいられる等々という人については、


――なぜ神がその人に対してそのようにふるまわれるか、あなたは知っているだろうか?

ひとりのキリスト者婦人について聞いたことがある。
彼女には非常によこしまな夫がいた。
彼は、すさまじい悪態をついては、あらゆる善良な事がらについて常に彼女に反対した。
だが、彼女は、男が持つことのできる中でも最も親切な妻だった。

ある夜、あるいは、むしろ早朝に、彼が飲み仲間と酒を飲んでいるとき、彼は彼らに云った。
自分には素晴らしい女房がいて、たとい彼らが全員自分と一緒に家に来ようと、それが夜中の二時であっても、
彼女が寝床に入っていた後であったとしても、彼女は起きてきて、嫌な顔1つせずに彼らのために夕食を作ってくれるだろうし、
彼のために、まるで彼らが国の貴族たちででもあるかのように彼らに給仕してくれるだろう、と。
彼らはその家に行き、夫は彼女を呼んだ。
彼女が床に入っていたからである。
彼女は服を着て階下に降りてくると、ありあわせのもので食事を支度して、彼らを心から歓待した。
彼らは彼女に、なぜこんなにひどい仕打ちをしている者たちにそれほど親切にしてくれるのかと尋ねたが、彼女は答えようとはしなかった。

別の日に、夫から似たような問いを受けたとき、彼女は彼に云った。
「あたしは、あんたのために一千回もお祈りしてきたし、どうしてもあんたを《救い主》のもとに導こうとして、
できることなら何でもしてきたけど、今じゃ、あんたが失われちまうんじゃないかって、心の中で恐ろしくこわくなってるのよ。
残念だけど、神様にそむいて罪を犯し続けてる限り、あんたが地獄に送られることになるだろうってね。
だから、あたしは決めたのよ。
あんたがこの世にいる間は最高に幸せにしてやろうって。
可哀想だけど、死んじまったら、あんたは絶対に幸せになれないんじゃないかと思ってね」。


そして、私の信ずるところ、それと同じ理由で神は、悪人たちを金持ちになさるのである。
「さあ」、と主は云われる。
「彼らにはできる限り楽しい思いをさせてやろう。
地上にいる間は、彼らにこうしたものを与えることにしよう。
やがて来たるべき時には、わたしは彼らに何の憐れみも示さず、わたしの容赦ない正義によって彼らは一切の楽しみから永遠に放逐されざるをえないからだ」。
いま私が述べた男に、少しでも真実な男らしさがあったとしたら、彼は妻に向かってこう云ったろうと思う。
「お前や。お前は俺のことをそんなふうに感じてたのかい?
それほど俺を愛して、そんなに長く俺のために祈り、どんな不都合も我慢してきたのは、俺に親切にしてくれるためだったのかい?
なら、とにかく俺は、もう二度とお前には意地悪しないよ。
そして、それがどういうもんか聞くようにするよ。
お前が云う、俺を安らかにしてくれるってものをな」。
正気の人間なら、そのように語るであろう。
そして、もしあなたが正気をしているとしたら、私は切に願う。
今、あなたの神があなたに仰せになっていることを心に留めてほしい。
これこそ、神が遠い昔に事を云い表わされたしかたであり、神はそれをあなたに対しても同じように云い表わされるかもしれない。

「天よ、聞け。地も耳を傾けよ。……子らはわたしが大きくし、育てた。しかし彼らはわたしに逆らった。
牛はその飼い主を、ろばは持ち主の飼葉おけを知っている。
それなのに、イスラエルは知らない。わたしの民は悟らない」[イザ1:2-3]。

あなたがたの中の誰が、あなたにとって何の役にも立たないような牛やろばを飼っておくだろうか?
あなたがたの中の誰が、あなたが近づくとさっと逃げ出しているばかりのような犬ころ一匹でも家の中にいさせようとするだろうか?
だが、神はあなたを辛抱してこられた。
ご自分の恩知らずな被造物たちを、この長年月の間である。
あなたは自分を養ってくれる手に、決して口づけしようとしないのだろうか?
あなたは、ろばよりも愚かなのだろうか?
牛そのものよりも獣じみているのだろうか?
おゝ、願わくは神が罪人たちを、ご自分に対するそのような不正を続けることから、また、自分自身に対するそのような残酷さから救い出してくださるように!

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III.さて最後に、《神の慈愛が私たちを導いている力を感じようではないか》。「神の慈愛があなたを悔い改めに導くこと」を。


これは、私たちが神の慈愛を軽んじないための十分な理由となるべきである。
すなわち、それを軽んじることは非常に不正なことである。

私は、古典の歴史書の中に、この、人間と神との場合に並行するような事例が何かないか調べてみた。
そして、それに似たものを1つ見いだした。

アレクサンドロスの時代、ひとりの兵士がいた。
彼は難破して、ある人から手厚く迎え入れられた。
彼はこの兵士を自分の家に連れて行き、食物と着物を与えた。
だが、その兵士は、アレクサンドロスのもとに戻ることができたとき、すぐさまこの一件について、
あることないこと捏造した報告を行ない、この偉大な司令官に向かって、自分をもてなしてくれた人物の家を与えてくれるように願い出た。
後にアレクサンドロスは、この卑劣漢が、自分を接待してくれた人の家を奪って自分のものにしようとした恩知らずな男であることを見いだして、
その額に焼き印を押すよう命令した。
そして、その恩知らずな客がどこにいこうとそれと知られるようにした。
だが、いかなる焼き金、いかなるえにしだの熱い炭火[詩120:4]が、神に創造され、神に養われ、あわれみの道に置かれ、恵みに招かれながら、
だがしかし、それでも忘恩を続けているような恩知らずな者に焼きごてを押すだけの熱さを有しているだろうか?


人間は、その同胞である人に対していかに恩知らずなふるまいをしようと、それは、人間が自分の神に対してふるまう恩知らずほどのものになることはめったにない。
自分の同胞である人々から一銭盗むことにさえ目もくれないだろう当の人々が、一生の間、何の良心の呵責もなしに神から盗み続ける。
自分の同輩の商人たちに対しては徹底的に公正な扱いをする人々が、自分を創造してくださった神に対しては不正を犯し続けようとする。
なぜこのように卑しいふるまいをするのだろうか?
おゝ!私は切に願う。
ぜひそのようなことを続けるのはよしてほしい。
――私は目に涙しながらあなたに訴えたい。もはやそうし続けないでほしい。
あなたは、神への大きな義理があるではないだろうか?
あなたは、神があなたを造られたことを知っている。
あなたの魂の奥底では、1つの声があなたに向かって云っている。
「神がお前を生かし続けておられるのだ」、と。
あなたは、その通りであると知っている。
ならば、いかにしてあなたは想像できるのだろうか?
万物の《創造主》にして《保持主》なるお方を忘れ去っても罰を受けずにすむなどと。
神の慈愛をないがしろにしながら生きることがいかに危険であるか、あなたに思い起こさせる聖句を1つ示させてほしい。

「悪者どもは地獄に投げ込まれる」(特に、次の言葉に注意するがいい)。
「神を忘れたあらゆる国々も」[詩9:17 <英欽定訳>]。

私がこの聖句の引用を始めたとき、あなたは自分に向かってこう云ったかもしれない。
「私は悪者ではない。私は何も極悪なことはしていない」。
だが、その節の残りをもう一度聞くがいい。

「神を忘れたあらゆる国々も」。

――悪態をついたり、冒涜したり、神に反逆する国々ではない。
むしろ、「神を忘れたあらゆる国々」なのである。
「それは、ほんの1つの聖句でしかない」、とあなたは云うであろう。
あゝ!だが、ここにもう1つあり、そのようなものはたくさんある。

私たちは「どうしてのがれることができましょう」。

――何を?

「私たちがこんなにすばらしい救いをないがしろにしたばあい」[ヘブ2:3]。

――それが、すべてである。
――それは、単にないがしろにしたかどうかの問題である。

神を軽んじて神をないがしろにすること、神を軽んじて神を忘れること、これこそ、人々を永遠の破滅に陥らせるだろう、嘆かわしい種類の軽んじ方なのである。

「主よ!罪人を返らせ給え!覚まさせ給え、その無感覚(まどろみ)を。
汝が忠言(さとし)をば否ませず、その致死(あし)き選択(みち)をばとく悔ゆらせよ!」

あなたがたの中のある人々にとって、この会衆に向かい合うこと、また、私が今しているように話をすることなど、子どもの遊びのように思われるかもしれない。
だが、それが私にとって子どもの遊びでないことは主がご存知である。
私は、あなたがた全員について自分が神に責任を問われると感じている。
あなたがたは、もうほんのしばらくで、私の《主人》の審きの座の前に立たなくてはならないであろう。
さて、その最後の恐ろしい日に私が召還されて、いかにあなたがたに語りかけるこの機会を用いたかについて報告することになったとしよう。
また、神をないがしろにすればあなたの永遠の破滅であると平易にあなたに告げたかどうかを告白しなくてはならなくなるとしよう。
また、私が冷たくて、無関心であったと――今のあなたと同様に冷たくて、無関心であったと――告白せざるをえなかったとしよう。
――そのとき、私の魂は、あなたの魂の血で真紅に染まるであろう。
しかし、そのようなことはありえない。
そのようにさせはしない。
というのも、私はあなたに切に訴えているからである。
生ける神にかけて、罪人たちを救うために死なれたキリストにかけて、死の確実さにかけて、天国の光輝にかけて、地獄の恐怖にかけて、私は切に願う。
神の慈愛と忍耐と寛容を考えてほしい。
涙と願いをもって神に立ち返るがいい。
そし、何にもまして、ここに宣言されている福音に立ち返るがいい。

「主イエス・キリストを信じなさい。そうすれば、あなたも……救われます」[使16:31 <英欽定訳>]。
あるいは、それをキリストご自身の完全なしかたで云い表わせば、
「信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます」[マコ16:16]。

願わくは、主があなたがた全員を、その御子イエス・キリストを信じる単純な信仰へと至らせ、
それから、バプテスマという件においてキリストへの従順に至らせてくださるように。
そして、主があなたをその恵みによって人生最後の時まで保ってくださり、二度と再び軽んじることなく、むしろ、永遠に称賛させ続けてくださるように。
神の慈愛と忍耐と寛容とを。その愛する御名ゆえに!

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神の忍耐について[了]
ハレルヤ!主の御名を賛美します!

こんばんは、兄弟姉妹の皆さん

今日も、C.H.スポルジョン氏の説教集からご紹介します。
ご存知の方も多いと思います。
以下のHPから引用させていただきました。
http://homepage2.nifty.com/grapes/SpurgeonS1224.htm


どの説教も素晴らしいのですが、数も大変多く、どれも長い説教なので、読まれる機会がなかなか取れないのではないかと思います。
そこで、ここでは、説教の一部を紹介させていただき、興味を持たれたら、必ず全文を上記URLからお読み頂きたい。
特に今回は、後半の喩え話が身につまされるもので、省くことができなかった。


メトロポリタン・タバナクル講壇

NO. 1224 不信者のつまずきの石イエス
説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル

「したがって、信じているあなたがたには尊いものですが、不従順な人々にとっては、『家を建てる者たちが捨てた石、それが礎の石となった。』のであって、『つまずきの石、妨げの岩。』なのです。
彼らがつまずくのは、みことばに従わないからです」。――Iペテ2:7、8 <英欽定訳>


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イエスがやって来られる所には、それと同じことが常に起こる。
主は人々の集団を信仰者と不信者、従順な者と不従順な者に分割される。

しかし、なぜここで不信者は不従順な人々と呼ばれているのだろうか?
実は原語では、信ずることと従うことは語形と音韻がほとんど同じであり、確かに信じないことと従わないことは、非常に近い関係にある。

もし神が罪のためのなだめの供え物としてご自分の御子を公にお示しになったとき[ロマ3:25]、
私が御子を受け入れるのを拒否するとしたら、その拒否の中には不従順が含まれているのである。
不信仰はその内側に、人々にとって可能なあらゆる罪の卵を含んでいるのである。

ある人が自分の神を信じない場合、その人は神の律法を振り捨てる。
その人はすでに自分の福音を拒絶しているのである。
もし愛という絹の綱が真っ二つに断ち切られているとしたら、いかにしてその人が、律法の束縛を我慢するなどということがあるだろうか?

この不従順の結果は何だろうか?
この不従順は彼らを激越な反対へと至らせる。

彼らの反抗はいかなる効果を生み出すだろうか?
この聖句は私たちに、キリストご自身に及ぼされる、人間たちの反抗の結果を教える。

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I.《不信仰と人々の反抗とによって、主イエス・キリストに及ぼされる結果》

私たちは、主に関する限り、こう告げられている。
「家を建てる者たちが捨てた石、それが礎の石となった」。
つまり、それは全く何の効果も及ぼさなかった。

人類の反抗は、決して、また、いかなる程度においても、神がその愛する御子に着せかけた栄光を減じさせはしない。
この石につまずく者は粉々に砕かれるが、この石そのものは無傷であろう。

主イエスが人からいかに拒絶されたか注目するがいい。

最初に来たのはユダヤ人である。
イエスは、すべての造られた者に福音を宣べ伝える[マコ16:15]ために来られ、その弟子たちを異邦人にさえ遣わされる。
それゆえ、ユダヤ人は主を認めようとしない。

彼らは現世的な君主を求めていた。
主は、砂漠の地から出る根のように育ち、見とれるような姿もなく、輝きもない[イザ53:2]。
それゆえ、「除け!十字架につけろ!」[ヨハ19:15]

たといパレスチナで拒否されても、主のことばはギリシヤで受け入れられ、ローマで勝利し、スペインにまで伝えられ、英国にその住まいを見いだし、
今日、それは地の面を照らし出している。

エルサレムで使徒たちが迫害されたことによって、福音の伝播は早められた。
というのも、散らされた人たちは、みことばを宣べながら巡り歩いた[使8:4]からである。
それで、ユダヤ人の敵意は益へと転じられ、この愚かな家造りたちは、拒絶された礎石を掲げ上げるために一役買わされたのである。

次に、哲学者が福音の敵として起こり立った。
哲学が知られていた場所でパウロが宣教を始めるや否や、彼らはパウロをおしゃべりと呼んだ[使17:18]。

彼らは、パウロの云い分を聞き、彼を愚か者と宣告した。
死者の中からの復活、人間の罪の代わりに苦しんだ、受肉した神についての教理
これは、彼らにとっては単純すぎ、彼らの精緻な哲学と調和するには平易すぎた。

しかし、確かに哲学は、一時的にはグノーシス主義的な異端という形で神の教会をすさまじく蚕食しはしたが、
実際にそれはキリストの戦車の車輪を遅らせただろうか?

人手によらずに山から切り出された石[ダニ2:45]がそれらを粉々に打ち砕いた。
キリストの石投げから放たれた石は、異教の哲学の額を打った[Iサム17:49]。
その首なしの死骸は多くの古代の大冊の中に見受けられるが、その間ダビデの《子》は、勝利の上にさらに勝利を得ようとして[黙6:2]出て行っておられる。

こうした時代の後に、神の教会に対抗してやって来たのは、世俗的権力の断固たる反抗であった。
帝国の権力筋は、キリスト教の中に脅威を見てとった。

世俗の権力は云った。
「われわれは、こいつらを弾圧しよう。こいつらを裁きの座に引きずり出そう。牢獄に叩き込み、財産をはぎ取ってやろう。
もしそれでも、この新しい教えから追い出せなければ、拷問台やそういった類の苦しみを試してやろう。
それでもやめさせられなければ、殺してやろう。なぜ父祖伝来の神々を礼拝できないというのか?」

こうして彼らはイエスを信じる信仰を撲滅しようとして、その牢獄を人で満杯にし、
自分たちの脅かしに多量の血を注ぎ、死刑執行人たちをいやというほど働かせた。
残虐さによって行なえる一切のことが行なわれた。

その結果はどうなっただろうか?
キリスト者は、抑圧されればされるほど増し加わっていった。

殉教者の勇気によって人々はこう自問させられた。
「ここには何かがあるのではないか?このようなことを私たちは今まで一度も見たことがない」。

そして、ほどなくして帝国の軍団がキリストの十字架の前に額づくこととなり、このガリラヤ人が勝利をおさめた。


その時以来、教会は様々なしかたで攻撃を受けてきた。
アリウス派の異端はキリストの神性を襲撃したが、教会は、パウロが蝮を火の中に振り落としたように[使28:5]、
この忌まわしいものから自由になった。

それから教皇制――反キリスト――イエスの猿真似――主の犠牲の偽物――がやって来た。
ひとりの人間が祭り上げられて、無謬の神の御座に着かされている。
臆病風に吹かれた一部の人々は、ローマにいるキリストの代理者が他のすべてより高く、礎の石とされるだろう、と恐れている。

だが、主はそのようなことをお許しにならない。
種々の《教皇制》の様式は、イエス・キリストの十字架と御国の進展に立ちはだかった、他のすべてのものが過ぎ去ったように過ぎ去ることになる。

一瞬ごとに波の上に生ずる泡ぶくがたちまち割れては永遠になくなるように、こうしたすべては消滅するであろう。

雄々しくあるがいい。
より輝かしい時代が近づいているからである。
やがて、より大きな覚醒の時がやって来る。
ご自分の教会のために復讐なさる主がやがて身を起こされる。
そして、家を建てる者たちが却下した石、その同じ石が隅の礎の石となるであろう。

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私は、神の教会の隊伍の中に、いかなる信条も憎むと云う人々が寄り集まりつつあるのが見える。
それは、すなわち、いかなる真理も軽蔑するという意味である。

自分たちの不信心を最初は小出しにしか説かないが、次第次第に勇気をかき集め、その不信仰と異端ぶりを表に出すのである。

恐《信条》病が多くの人々を狂わせている。
無神論にも悪魔礼拝にも(実際、唯一の真の宗教以外のあらゆる宗教に)何か良いものが見つかるのではないかと希望しているように見受けられる。

私たちは慰めを受けようではないか。

というのも、人間たちや悪鬼たちによってなされうる一切のことにもかかわらず、
選ばれた魂は1つたりとも失われず、血で贖われた魂1つも《贖い主》の御手からひったくられることはないからである。
信仰のための主の民の熱心な戦いは主に誉れを帰すであろう。
彼らの忍耐強い苦しみは主を賛美するであろう。

このお方は、酒ぶねを踏み、その敵どもを征服した後で、大いなる力をもって進んで来る[イザ63:1-3]。
そのとき、このお方の安息は栄光に富むものとなり、その喜びは完全なものとなる。


ここまでが人間の反抗が及ぼす効果についてである。「家を建てる者たちが捨てた石、それが礎の石となった」。

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II.《この反抗が、反抗する者たちに及ぼす結果

人々がキリストの犠牲のみわざによる救いのご計画につまずくとき、何に彼らはつまずくのだろうか?
その答えは、いささか幅広いものとならざるをえないが、それは、人がその最良の友に対してよこしまな反抗を行なう理由をことごとく包含するものとは到底なりえない。

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ある人々はキリスト・イエスのご人格につまずく。
イエスが善人であることは、彼らも認める。
だが彼らは、主が御父と同等の、等しく永遠のお方であることを受け入れられない。

神以外の誰があなたを救えるだろうか?
また、無限の性質のお方が罪のためのなだめの供え物となることなくして、いかにして神の正義は満足させられることがありえるだろうか?
これは確実なことだが、それを離れて、良心にとっての平和の真の根拠はないからである。

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ある人々は、キリストのみわざにつまずく。
「あなたがたは信じません。それは、あなたがたがわたしの羊に属していないからです」[ヨハ10:26]。

私たちは個人的に堕落したのではなく、別の者にあって堕落した。
私たちの最初の父祖アダムこそ、最初に私たちを滅ぼした者であって、私たち自身ではなかった。

このようにして他者にあって転落した私たちは今、他者にあって浮かび上がる。

ひとりの人の違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に[ロマ5:18]、
ひとりの人の義の行為によって、その方を信じるすべての人のもとに赦しがやって来るのである。

代償の教理、または、代理の教理は、人間の歴史の源泉において始まっており、その行路全体を貫いている。

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ある人々はキリストの教えにつまずく。
では、その中の何につまずくのだろうか?

時として、それがあまりにも聖なるものすぎるからである。
しかし、そうではない。キリストは、罪のない楽しみを決して私たちに拒まれない。私たちの喜びを幾倍にもしてくださる。

だが、他の人々から私は正反対の非難を聞く。
というのも、私たちが無代価の恵みを宣べ伝えるとき、反対者たちは、「あなたは、罪の中にいる人たちを増長させています」、と叫ぶからである。

人々の子らを喜ばせる見込みは僅かしかない。
というのも、ある人々を満足させることは、別の人々を立腹させるからである。

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私たちの見いだすところ、ある人々がキリストの教えに反対するのは、それがあまりにも大きな謙遜を求めるからである。
主は自己信頼を打ち壊し、失われている者以外の誰にも救いを差し出さない。

だが私は、福音に対する1つの反対を聞いている。
それが人々を高慢にするというのである。
「よくもあなたは自分が救われていることを確信しているなどと云えるものですね。それは増上慢な云い草です。へりくだった心の者にはふさわしくありません」。

確かにあなたはキリストによって謙遜にさせられ、へりくだらされるが、キリストはあなたを、ちょうど良い時に高くしてくださる[Iペテ5:6]。
そして、主があなたをその恵みによって高くしてくださるとき、そこに誇りの恐れは全くない。
誇りは恵みによって排除されるからである[エペ2:9]。

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さらに私の知っている他の人々は、福音が神秘的すぎるからというので反対する。

だが、やはりその一方で、この広間の反対側からは、それがあまりに平易すぎるという反対が聞こえているのである。
こうした、単純にキリストを信じるだけで救われるというのは、多くの人々にとっては平易にすぎ、他の人々にとっては難しすぎるのである。

どちらの理由であれ、これにけちをつけてはならない。
子どものように教えられやすくなるがいい。
そうすれば、福音はあなたにとって甘やかになるであろう。

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私たちの知っているある人々がキリストにつまずくのは、主の民のためである。
彼らはこう云ってきた。
「キリストに従う人々を見てみなさい。彼らの不完全さと偽善者ぶりを見てみなさい」、と。

主の教えには私たちが罪を犯すことを助長するようなものは何1つなく、いかなる者にもまして偽善に対して峻厳なのは私たちの主キリスト・イエスである。

しかしながら、主の民にこのようにつまずくことは、しばしば別の理由に基づいている。

福音を愛する者たちは、一般に非常に貧しく、貧相な様子をしていると云われる。
最初の日から今に至るまで、福音が最も盛んであったのは、人々の間の流行や栄誉などが最もかまいつけない場所においてであった。

富者はそれほど徳の高さで際立っているだろうか?
権力者は、それほど特に善良だろうか?

人々の間で高貴な人々は、決してそうあってしかるべきほどには人にまさって善良ではない。
いかなる地位の人々にもまして重い責任をになっているのは、国王や君主たちである。
彼らの意志によって人間の血は水のように流され、彼らの戦争の結果としての飢饉や疫病によって国々は疲弊させられてきた。

神の御前において権力者たちは、不正な指導者であるとき、万人の中で最も卑しい者らとなるからである。

神があなたに恵みを与えてくださり、あなたが男らしくふるまって、キリストゆえのそしりを喜ばしく忍ぶことができるようになるようにと。

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このようにキリストにつまずくことは、不敬虔な人々にいかなる代価を払わせるだろうか?
それは彼らに途方もなく大きな代価を払わせることになる。


キリストをつまずきの岩とする人々は、そのことゆえに、現世において非常な失敗者となる。
イエスに対する反抗は、多くの人にとってとげのついた棒を蹴る[使26:14]ようなものである。

彼らの種々の迫害は彼ら自身を傷つける。
彼らは実は私たちの主を害することはできない。

迫害者は打って、打って、打って、打つかもしれない。
真のキリスト者は何も答えず、我慢強く耐え忍ぶ。
そして、長い目で見ると、忍耐強く耐えることによって迫害者は打ち砕かれてしまうものである。

不敬虔な人々はキリストに反抗するためにいかなる怒りを発させられることか!
彼らの中のある者らは、キリストを放っておくことができない。
イエスに関して云えば、人は愛するか憎むしかないというのは正しい。

主は、いつまでもあなたの眼中に入らないでいることはない。
こういうわけで、反対者たちには内的な争闘がやって来る。

私の思い出すひとりの不敬虔な人は、キリストに対して激烈な憎しみをいだいていた。
聖書が彼の家の中に持ち込まれたとき、彼はそれを手で掴むと、怒りにまかせて滅茶苦茶に引きちぎった。
彼は、娘が寝床についたとき、その目が父のそのような所業のため涙で濡れていたことを知らなかった。
そして、翌晩、彼女の頭の下には新約聖書があった。
やがて娘が神の家に出席していることを彼が突きとめたとき、そこには非常な脅かしがあった。
どれほどの怒号が浴びせられたか私には分からないが、それにもかかわらず教会出席はなされ、父の怒りに辛抱強く耐えることが続いた。
「よおし」、と彼は思った。
「あれは馬鹿な小娘だ。あれ止まりだろうよ」。
だが、たちまちもうひとりの娘が敬神の念をいだき始め、彼の怒髪は天を衝いた。
彼は細君に相談を持ちかけ、自分に協力するように云ったが、彼女の震えおののくしかたから、彼女が夫のやり方を好んでいないことが悟られた。
しばらくすると彼は、細君もまた、彼の不在中に、その小さい集会所にこっそり出入りしていたこと、娘たちとともに永遠の事がらの価値を感じていたことに気づいた。
よろしい。
少なくとも彼にはひとりの男の子があった。
女どもはいつだって馬鹿なのだ、と彼は云った。
だが、息子はもっと分別のあるところを見せ、惑わされないだろうと期待した。
父親に似て、この子は決して迷信に陥ることはないではないだろうか。
彼はそれを確かめてみようとして息子に質問した。
彼を驚かせたことに、少年は男らしくはっきりとこう云った。
「はい、父さん。ぼくも姉さんたちと同じように信じてます。そして、できるときにはいつでも神の家に行きますし、行くつもりでいます」。
驚くなかれ、彼は自分の家族全員が福音を聞きたがっており、そのほとんどは福音を信じていたことを見いだしたのである。
それについて彼が憤激しようと何にもならなかった。
だが彼は、ぞっとするほど荒れ狂うのが常であり、残念ながら、それによって寿命を縮めたのではないかと思う。
しかし、彼が何をどうしようと事は進み続けた。
その家のしもべたちも、集会の人々に加わり、彼の雇い人たちも同じ道を辿った。
神はその一家を祝福しようと意図され、敵にそれを防ぐ力は全くなかった。
それが彼に多くの怒りと憤りという代価を強いたとしても関係ない。

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あゝ、これが一部の人々に代価を払わせるのは、彼らが死ぬ段になった時である。
迫害が今よりもずっと公然たるものであった時代、多くの人々は清教徒について、あるいは、クエーカー教徒たちについて密告する罪を犯していた。
そうした密告者たちの死は、多くの場合、ぎょっとするようなものであった。
それは、彼らが耐え忍んでいる何か特定の苦痛のためではなく、自分の行なった迫害のことが、いまわの際の記憶に浮かび上がったためであった。
そして、彼らの中の何人かは、泣き叫んでは、自分の行なった不正を告白するため、安らぐことができなかった。
彼らは善良な人々を、神を礼拝したがゆえに狩り立てて牢獄に投じてきたのである。
もしもあなたがたの中の誰かがイエスを信じておらず、自分でもイエスによって救われたくないというなら、私はあなたにお勧めしたい。
イエスとその民をそっとしておくがいい。
というのも、もしあなたがイエスに反抗するなら、敗者となるのはあなたであって、イエスではないからである。

あなたは教会を害することも、神のことばを害することもできない。
夫に警告したときの、ハマンの妻のように賢くなるがいい。
彼はモルデカイに負けかけていたが、もしこのモルデカイが、ユダヤ民族のひとりであるなら、いかに敢然と彼と戦っても何にならないと彼女は云ったのである[エス6:13]。
この警告は正しいものであることが証明され、彼は高さ五十キュビトの柱にかけられることとなった。
天の王族の血筋に反抗しても、絶対に役に立たず、それに携わる者たちの破滅は確実になる。

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さて、かりにある人がこう云ったとしよう。
「私はイエス・キリストがこの世に来て、咎ある者のために死んだなんてことを信じるつもりはありません。
私の《救い主》だと認めもしません。私はその危険を冒します」。

よろしい。
もしあなたがそうするなら、それはあなた自身が支払う代価である。
覚えておくがいい。そうしようというなら、そうするがいい。

何年も前のこと、ひとりの船長が政府の御用船の一隻であるテティス号で、浅瀬か、岩礁か、何かそういった、地中海に存在すると云われていた障害物を発見しに派遣された。
その船長は古手の船乗りで、科学としての航海術についてはほとんど知らず、規則や、書物や、理論などといったことには、さらに関心がなかった。

彼は常に科学的な著作をあざ笑っていた。
彼は、問題の場所の近くを航行していたにもかかわらず、その岩礁を見つけられずに戻ってきた。
だが、彼の航海士のひとりは、それにもかかわらず、その報告書の中には何かがあると確信していた。
そして、少し後になって、彼自身が別の船の一等航海士になったとき、彼はその場所の近くを航海し、それを発見した。
それは海軍省の海図に記載され、彼はその発見を行なったことで相当の報償を得た。
老船長は、こうした、自分が見つけられなかったものを見つけることのできたいんちき連中を呪って毒づいた。
彼はその浅瀬がそこにあると信じようとはしなかった。
だが、このことだけは行なうつもりだった。
わしは、その岩礁とやらが記載された場所の上をテティス号で乗り越えてみせよう。
そして、それがみなたわごとであることを証明してやるわい。
もしそうしなかったとしたら、自分のことは嘘つき呼ばわりしてくれて良い、と。
それからしばらくして、彼には機会が訪れた。
外海へ出て遊弋することになったのである。
彼は、海図に記載された例の場所の近くに航海し、自分がその地点を通り越したと考えて、回りに立っている人間たちに向かって快哉を叫んだ。
冒涜的な云い回しを口走りながら、わしはあの小癪な若造どもが馬鹿で嘘つきであることを証明してやったわい、と云った。
彼が大威張りでそう云い終えるや否や、衝撃が走った。
船が岩礁に乗り上げ、ものの数分もしないうちに沈没し出したのである。
いともかしこき神の摂理によって、船長以外の乗員は全員脱出することができた。
彼は破れかぶれな精神状態になっており、最後にその姿が見えたときには、甲板上で襯衣の袖を翩翻とまつわりつかせ、狂気に陥っているかに思えた。
見ての通り、そんな岩礁はないという彼の固い信念は、事実を全く変えはしなかった。
彼は自分の強情さのために破滅したのである。

世では非常に多くの人々がこう云っている。
「おゝ、私はそんなこと信じませんよ。そんなことで、この頭を悩ませたりするものですか」。
よろしい。
私はあなたに警告はしておいた!
あなたには警告がなされていた。
覚えておくがいい!
世には、イエス・キリスト、受肉した神による救いの道がある。
そして、私たちはそれを受け入れるようあなたに嘆願している。
もしあなたがそうしないとしたら、この不信仰の岩礁はあなたの永遠の破滅となるであろう。

私は神に祈る。
私たちの中のある人々がキリストの前に屈服し、キリストを私たちの王として受け入れるようにと。
主はじきに私たちの審き主としてやって来るであろう!
おゝ、主を私たちの《仲保者》として礼拝しよう!
主を仰ぎ見るがいい。
その十字架についた主を仰ぎ見るがいい。
というのも、あなたがたは、じきにその御座に着いた主を仰ぎ見なくてはならないからである。
主の御傷を見るがいい!
かの贖罪の血潮を眺めるがいい!
主を仰ぎ見て、救いを探すがいい。
というのも、あなたがたがいま主を仰ぎ見ることをしようがすまいが、あなたがたはかの日には主を仰ぎ見なくてはならないからである。

その日、天と地は揺れ動いてよろめき、喇叭が鳴り響き、死人はよみがえり、その中にあなたもいて、
数々の書物が開かれ、永遠の御怒りの宣告が不従順な人々、不信仰な人々に下ることになる。

願わくは神が私たちすべてを救い出してくださるように。イエスのゆえに。アーメン。

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説教前に読まれた聖書箇所――Iペテロ2章
『われらが賛美歌集』からの賛美――118番、2番、961番
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不信者のつまずきの石イエス[了]


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