NO. 32増し加えられた信仰の必要⑦ | イエス・キリストの御名を賛美します

イエス・キリストの御名を賛美します

唯一の救い主である、イエス・キリストの愛を知ってほしい。
聖書の奥義を知ってほしい。
そして、選択して欲しい。

こんにちは、兄弟姉妹の皆さん

昨日の続き、テーマは「信仰」の第⑦弾です。

記事の元は、以下のリンクを辿ってください。
http://homepage2.nifty.com/grapes/SpurgeonS0032.htm


1855年7月1日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於ニューパーク街会堂


「使徒たちは主に言った。『私たちの信仰を増してください。』」(ルカ17:5)

7.また、あなたの信仰に注意を払うべきなのは、信仰だけが困難に陥ったときのあなたを慰められるからである。

左様、とある人々は云う。
それこそ、あなたがたが四六時中考えていることなのだ。
困難なことがあれば、信仰を用いて慰めを受けるわけだ、と。

さて私は、神の民が慰めを求めるからといって、決して彼らを笑い飛ばそうとは思わない。
私の信ずるところ、彼らが甘いものを好むこと、それは彼らが子どもである非常に大きな証拠である。
もし彼らがそうしなかったとしたら、残念ながら彼らは全然神の子らではないのではないかと思う。

しかし、私は教役者たちがこう云っているのが聞こえる。
「あゝ、あなたがたは常に云ってるのだな。慰めがほしい、慰めがほしい、と」。
左様、確かに私も、彼らがそう云っていると云うものである。
だが、彼らがそれを欲するのは、彼らが決してそれをあなたからは得られないからなのだ。

私の信ずるところ、神の民には慰めが必要である。
確かに彼らは、それを有すべきでないときにも、それを欲しすぎるきらいがあるとはいえ。

しかし、彼らは約束を非常にしばしば必要とするし、それを有すべきである。
さて、信仰は魂にとって最上の気付け薬である。

おゝ、何か非常に大きな困難が迫りつつあるとき、いかに信仰が慰めとなることか!

「あゝ!」、と信仰は云う。
「神は云っておられる。『あなたの力が、あなたの生きるかぎり続くように』[申33:25]と」。

「あゝ!」、と信仰は云う。
「これは、険しい道だ。茨は鋭く尖っている。火打ち石がばらまかれている。だがそのとき、『あなたのくつは、鉄と青銅である』[申33:25 <英欽定訳>]」。

そして信仰は、その強い古靴を見つめて、「思い切ってやってみよう」、と云う。
そして信仰は出立する。

小さな信仰は、片隅でぶつくさ云いながら座り込んでいるが、大きな信仰は火の中でも歌っている。
「彼らは寝床で声高く神をたたえ、火の中で高らかに賛美を歌う」。
小さな信仰は意気消沈して立ちつくし、その涙を大水と混ぜ合わせる。

大きな信仰は云う。
「あなたが川の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、大水にも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない」*[イザ43:2]。

あなたは慰めに満ちて幸福になりたいだろうか?
陽気な、陰気くさくないキリスト教信仰を持ちたいだろうか?
ならば、より多くの信仰を求めるがいい。
あなたは、ごくごく小さな信仰によっても救われるであろうが、幸せな救われ方はしないであろう。
たといあなたが、この上もなくちっぽけにしか信じていなくても、死後あなたは幸せになるであろう。

だが、あなたが地上で幸せになれるのは、あなたが完全に、不断に、そして真剣に信ずるとき、エホバの真実な約束を、そのご人格のあらゆる輝かしい威厳によって、また、その恵みの真実さと不変性の一切において強く信じるときにほかならない。

もしあなたがたがキリスト者の雲雀になろうとし、キリスト者の梟になりたくないというのであれば、より多くの信仰を求めるがいい。
もしあなたがたが暗闇を愛し、その暗闇の中を陰鬱に、また惨めに飛び回っていたいしというなら、小さな信仰で満足しているがいい。

しかし、もしあなたがたが日差しのもとで上へ昇り、昼間の鳥のように喜び歌いたいというなら、強い確信を求めるがいい。


8.もう1つの理由がある。
あなたの信仰に注意を払うべきなのは、愛する方々。
それがしばしば非常に弱く、あなたの心を完全に傾注する必要があるからである。

私は、あなたがたの中のだれかが、自分の信仰を強すぎると感じているかどうかは知らない。
だが私は、一度として自分の信仰が十分に強いと感じたことはない。

それは、一日の苦労を担うに足るだけの強さはあるように思える。
だが、それが鉋(かんな)がけを受けて、ほんの一片でも削ぎ落とされたとしたら、立っていないであろう。
私は一原子たりとも切り落とされる余裕はない。
それは十分に満足だが、それ以上ではない。

私たちの中のある人々について云えば、私たちの信仰はあまりにも弱いため、いかに小さな困難によっても、食い尽くされる恐れがある。
山羊が通りすぎては、その若葉を噛み取るであろう。
冬になれば、それは冷えこまされ、凍てつかされ、今にも死にそうにされる。

そして私の信仰は、非常にしばしば、貧弱きわまりない糸にぶらさがっているようなものである。
それは、今にも息を引き取りそうに見える。

あなたの信仰に注意を払うがいい。
キリスト者よ。あなたの信仰に注意を払うがいい。

夜、戸外に何を置きっぱなしにするとしても、この信仰という小さな子どもを放置しておいてはならない。
いかなる植物が霜にさらされようと、信仰は屋内に入れておくがいい。

信仰に注意を払うがいい。
それは通常はごく弱く、よくよく保護される必要があるからである。

このようにして私は今朝、自分にできる限り、私たちの信仰に注意すべきである大きな必要について述べてきた。そして私たちの祈りは、使徒たちの願いと同じように、「私たちの信仰を増してください」、でなくてはならない。


(続く)