心の備えが出来ているか  東日本大震災を受けて | イエス・キリストの御名を賛美します

イエス・キリストの御名を賛美します

唯一の救い主である、イエス・キリストの愛を知ってほしい。
聖書の奥義を知ってほしい。
そして、選択して欲しい。

こんばんは、兄弟姉妹のみなさん

信仰についてのスポルジョン師の説教が長く続きますが、今日は、一時お休みにして、日本のある信仰の姉妹から送られてきたメッセージを紹介しようかと思います。

深く反省させられるメッセージです。


「心の備えが出来ているか  東日本大震災を受けて」



人知をはるかに越えた出来事が世界中を震撼とさせました。

多くの人の命が失われ、築き上げた様々な人生が、一瞬にして消えて行きました。人は歴史の内に幾度となく、このような苦しみを繰り返しながら、遂に今に至るまで、なぜこのような事が起きるのか、その根本を考える事がありませんでした。

いつも、いつも喉もと過ぎて、また同じ生活の中に帰って行きました。どうして、こんなに人は心の鈍い短絡的なその場しのぎの生き物になったのでしょうか?人間は本当にこんな生き方をする為に生まれて来たのでしょうか?

もはやこの惨事を通してさえ、その根源に心を向ける事をしなければ、人はこの地上で最も愚かな生き物として、最後を迎える以外にありません。

なぜ大地が揺れるのか? なぜ海が人々を襲うのか、真剣に考えなければなりません。

私たちは、この地球がまだ何の意味もなく、偶然に存在して、そこに偶然に生き物がいるに過ぎないと本当に思っています。
そして何となく生きて、何となく何処かに消えて行くとて思っています。
そんな存在の人間がどうして美しい空に感動したり、遥かな永遠に思いを馳せたりするのでしょうか?
どんな時にも一人でいる事がさみしく、いつも誰かと一緒に暮らしたいと思うのでしょうか?
私たちはもっと自分の心を正しく見つめ直さなければなりません。

自分は一体どのような人生を歩みたいのか? 
どのような人間と共に暮らしたいのか? 
どうしてそう思うのか? 

もう一度心に問いただして見なければなりません。
それは自分の心の中に全ての問題の解決がある事を知るたった一つの道だからです。
 
人間は、本当に大切な事に目を向けず、上辺の事ばかりに翻弄されて来ました。時は流れ、もはや地球の悲鳴は誰にも聞こえる程の有様になりました。こんな所に来るまで、なぜ私たちは自分の心を省みなかったのでしょうか? 

なぜこんなに豊かに与えられても、与えられても、それを充分とする事が出来ず、足りなさばかりに心を至らせ、全ての恵みを食いあさり続けたのでしょうか?

振り返って悲しかった時代を思う時、今の豊かさにどうして感謝する事が出来なかったのでしょうか? 

「私の恵みはもう充分です」と満足する事が出来なかったのでしょうか?

天井知らずの人間の欲望が自然を破壊し、禁断のエネルギーさえ、欲望の為に必要とせざるを得ない社会を造り出してしまいました。この災いは誰のものでもなく、私たち一人一人の責任です。「足るを知る事」の無かった自分自身の責任です。

この責任は地球に住む全ての人間がその身に負わなければなりません。
なぜなら、これから地球が最後を迎える時まで、世界中で起り得る災いだからです。

私たちの幸せは誰かの不幸の上に成り立っているものである事をもう知らなければなりません。それが人間だけでなく、全ての被造物の苦しみの上に成り立っているものである事を深く認識しなければなりません。

私たちの思いも及ばぬ事
神様が造られたもの(即ち、人間が造ったもの以外)には全て生命があり心があると言う事

この事がスピリットを失った人間には全く思いも及ばぬ事である事が、全ての災いの根源です。
ローマ8:19「被造物は切なるうめきをもって神の子の到来を待っている」
大切な聖書の御言葉です。

生命の源なる神様が創造された全てのものは人間が造ったもののような無機質で冷たいものはありません。
一つ一つに全て心があり、ことばがあり、意志があります。

ずっと以前、ある大きな公園の門をくぐった時、遠くからギャーという大きないくつもの悲鳴が聞こえました。 急いで、その声のする方向に走って行った時、目の前におびただしい数の、バラの花がそのつぼみや花びらを酸性雨によって焼かれ、真っ黒にただれていました。

その声は人間の鳴き声よりもっと澄んだ清い深い、深い、痛みと悲しみの声でした。
その時、「神様は人間の犯す罪の為にどれ程の被造物の苦しみの声を聞いておられるのだろう、そして、人間のわがままと被造物の苦しみの姿をいつも同時に、見ておられるお方の心はどれ程の怒りを忍耐しておられるのだろうかと初めて思い知らされました。

地震の起きた本当の理由は、生きている地球が自分の心を何一つ顕わす事が出来ず、どこまで耐えても終わる事のない人間の横暴に、力尽きて崩れて行く一つの過程だと言う事です。

地球は多くの生命を生み出し、育み、実らせ、その喜びを神様にお返しする、生きた大地です。
これはどこにも境界線を引く事の出来ない、誰にも所有権を主張する事の出来ない創造者の御手にある生きた大地です。
この生きた心を持った地球に私たち人間は、どんな事をし続けて来たでしょうか? 毒を流し、汚物を埋め、地表を固め、理不尽に殺された多くの生命の墓場として、悲しみ、苦しみ、憎しみ、恨みの心を受け続けさせ、地球が本来受けるべき、喜びや、感動がどんどん奪い取られ、もはや耐えて、この罪の後始末をする意志を失いました。
 
私たちは聞こえなかったのではなく、聞こうとしなかったのです。
知らなかったのではなく、知ろうとしなかったのです。


静かに心を開いて祈れば、はっきりと聞こえた声、へりくだって自分の罪に向き合えば、明らかに悟れる姿でした。どんな時にも自分が一番で、その陰で苦しんでいる生命の事を思いやる事をしませんでした。

もはや神様以外にこのわがままを受け、地球を支えて下さる力を持つお方はありません。
どんなに今日まで、天が私たちを許し、その罪を悔い改め日を待ち続けていて下さったか、こんな時に至るまで、なぜ天を畏れる心を持たなかったのか、自分自身の傲慢と欲深さを見なければなりません。

どこに行けば、地球の中に穏やかな平和を見つけ出す事が出来る事でしょうか、どこまで高く上がれば、美しい、清らかな空に出会えるのでしょうか?

どろどろの罪に閉じ込められたこの世界、光を失い、どこにも希望のないこの世界、人が神に背いて、歩んで来た、哀れな末路です。

今私たちが出来る事、ただ神様にお詫びし続ける事、この事です。

・愛さなかった事
・傷つけた事
・自分の罪を認めなかった事
・今ある事を感謝しなかった事
・どんな事にも欲望を満たす事ばかりを求めた事
・生きる意味を知ろうとしなかった事
・人間の使命を何一つ自覚しなかった事
・神に成り代わって、多くの生命を踏みにじった事
・欲望の中に自分自身を汚し続けた事
・この世界がどこまでも自分を許容するものだというとんでもない自我を持ち続けた事
・罪の後始末を他者に押し付け、自分は何一つ痛みを負おうとしなかった事
・心の深いところに、天の声を聞きながら、尚それを捨てて、罪を犯し続けた事。
・どこにもやり場のない自分の不満を何の落ち度もない者にぶつけて、いため続けた事
・どうしようもない欲望を次々と心に宿らせ、多くの贅を貪った事
・悲しむ人の心になお、自分の自我をもって臨んだ事
・どんな時も、良心がうずいた筈の罪を分かっていながら重ね続けた事
・自分たちの欲望がかなえられる為なら、相手がどんなに痛んでもかまわないと言う鬼の心を持った事

私たちの生きた道はこれ程に罪にまみれた醜い日々でした。その結果、このかけがえのない地球という星は、ここまで蝕まれ、もはや、再生不能の時に至りました。
この地球の所有者である天は、この結末をどのようになさるのか、私たちは畏れを持って、その心を知らなければなりません。

心を尽して、神にお詫びしなければなりません。

尊いみ心を踏みにじり続けた罪を一つ一つお詫びしなければなりません。
如何にして、この生命が、神に愛される心に変えられるか、本気で取り組まなければなりません。
もはや、時がありません。のど元を過ぎるような余裕はありません。

多くの者が惑わす者となり、世の終わりを語って、人々の心の中に不安を生み出します。
しかし、どのような時にも、全ての解決が自分自身の中にだけある事を決して忘れてはなりません。

神様が私たちの罪によって遠くに追いやられている事をしっかり悟って下さい。
どんな時にも罪なき心の中には、神が住まわれ全ての事から守って下さる事をしっかり悟って下さい。
 
心を騒がせてはなりません!!

心の内に決して惑わされる事のない平安の泉が一刻も早く、みなさんの中に湧き出て来る事を心から祈ります。

ああ、私たちの心は何と冷たい機械のような無神経なものに成り果てたのでしょうか?
あれ程の悲しみ、痛み、恐怖の出来事が、すでに喉元を過ぎて、また、何事もなかったかのように、欲望の日常に返って行きます。

どこにも自分を探し出す事もないまま、また、今までの自分中心の心に返って行きます。
今、多くの途方に暮れた人々の痛みが、どれ程の自分自身の痛みとして心に感じている事でしょうか?
冷たく、苦しい春をどれ程自分の春としているでしょうか?

私たちは結局、我が身に起る時まで、どんな事にも真剣になる事が出来ない程、心の鈍感な生き物になってしまいました。

いつ我が身に降りかかる惨事なのか、誰も知らないまま、尚、自分は自分の物差しを握って離しません。

なぜ人は、みんなで幸せになりたいと願う心がないのでしょうか?
なぜ、自分のして欲しいと願う事を人にして差し上げる事が出来ないのでしょうか? 
見えない所にいる人は、同胞ではないのでしょうか?
遠くにいる人は痛んでも平気なのでしょうか?
どうして、もしかしたら私だったかも知れないと、人の痛みを思いやる事が出来ないのでしょうか?
私たちはこのようにして、自分の人生を終えて行くのでしょうか? 
本当にこんな生き方が自分の心から願っている行き方なのでしょうか?
世を去る時、生涯を振り返って、空しさを覚える事がないのでしょうか?
こんな愛のない生き物として果てる事が、本当の願いなのでしょうか?

こんな尊い数知れない命が犠牲となり、数知れない生活の糧が、失われ、測り知れない心の痛みを抱えて、尚、生きなければならない数知れない人々を目の当たりにしながら、また、何事もなかったかのように日々を過せる感覚をどのようにして造り出して来たのでしょうか?

人はこの地上の生き物の中で、唯一「愛」を持った神の心を顕わす存在として造られました。
即ち、どんな生き物にも無い、霊(スピリット)を持った存在です。

このスピリット(霊)から出て来る閃きこそが、その土台である「愛」に裏打ちされた、かけがえのない世界を作り出して行くのです。
神様が望まれたこの世界は、リーダーである人間が、スピリット(霊)だけで築き上げる清く、愛に満ちた、全ての生き物が幸せに暮らす世界でした。

人が愛を捨てて、自我を握ったその時から、全ての命は死の恐怖の中に、その生涯を歩まなければならなくなりました。 たとえ五体満足で衣食住に満たされていても、心は既に罪の津波に飲み込まれて、人として正しく生きる力を持ちません。 
 
人の人たる所以は「愛」と言う神と等しい心を持っていると言う事です。

私たちが日ごろ口にするような意味合いのことばではなく、神の愛(アガペー)とは自分を捨ててさえも他者を生かしたいと願う本当の愛です。
誰の心の中にも神様が与えて下さっているかけがえのない愛です。
 
このとてつもない大惨事を乗り越え、もう一度、新たな生活を取り戻す為に何よりも先にしなければならない事は、大切な地球を破壊し続けた欲望を一つ一つ捨てて、全ての生命と調和して生きて行くと言う心の柱を打ち建てる事です。

外側のものばかりを追い求めて、人の心が変わる事がなければ、もっと大惨事の中に入る以外にありません。
どんな時でも、私たちの心がその判断を愛の基盤の上に置くならば、人々が互いに、喜びも、悲しみも、分ち合う事の出来る、平和な世界が生まれます。

どんな理論よりも、どんな富よりも本当に力を持つものは愛の心です。
私たちの尊い命は、実は欲望の命ではなく、愛の命なのです。
自分の中に深く埋もれている真実な愛は、欲望と言う土台を一つ一つ取り除けば、全ての人の中に必ずあるのです。

その土砂を取り除く唯一の重機が神様の御手だと言う事です。

意志なる神様は人が自分の心の中に溜め込んだ土砂を心から憎まなければ、決して御手をお動かしになられる事がありません。私たちに自由意志を与えられた神様は、今まで人間の犯し続ける罪の全てをじっと見つめ続けて来られました。

多くの被造物の苦しみの叫びを聞き続けられながらです。

その間にもどうにかしてこの罪に歯止めをかけたいと、あらゆる事をされました。それが、全て裏切られ、踏み躙られ、もはや、人間自身が罪の中で音を上げる以外に手立てなしと心に決められました。

意志のないところにどんな恵みも実る事は無いと思い知らされたからです。
私たちが腹の底から悔い改める以外に、もはや神の御手が動く事はありません。そして、このまま御手が動かなければ、どこをどのように繕っても、地球のあちこちから破れが生じて来るばかりです。
 
今、心の中では本当は未来が危機的状態にある事を誰もが感じています。

それでも私たちはまだ欲望を捨てる事が出来ません。心の中は次の土砂が欲しいと大きく口を開けている状態です。 その心がどれ程恐ろしい感覚を持っているのかを知ろうともしません。

どうしてこんなにまで、人は次々と自分の中に罪を生み出して行くのでしょうか? 
どうして、いつまで経っても自分の心を直視出来ないのでしょうか? 
ほんの一瞬の快楽と引き換えに、捨て続ける真心がどれ程のかけがえの無い宝であるかを、なぜ気付かないのでしょうか?
どんな時にも、なぜ心に与えて下さった良心が咎めないのでしょうか?

心の中に神様が与えて下さった、人が人として正しく生きる為のアンテナである良心がここまで腐り果ててしまいました。
どうしたら、このアンテナをもう一度、取り戻せるのか、私たちは今真剣に考えなければなりません。
もし私たちが自分の心をもう一度、正しく立て上げたいと思うなら、意志持って、天に対して犯した罪の一つ一つをお詫びしなければなりません。

私たちは結局、自分の犯した罪の中で、人生を腐らせて行く愚かな生き方をしているに過ぎません。どうしたら、本気になって、土砂に向き合えるのか、もはや、生か、死かの瀬戸際です。
 
愚かにも、自分が本来どのような存在であるのか、考える事もなく、漫然と生きて、それを当然とする歴史の流れが、人間をここまで支配して来ました。もっと違った視点から自由に物事を捉える客観性がどんどん失われ、もはや、生まれる事も死ぬ事も、今の姿が定着し、それを疑問に思う事すら、おかしいと感じさせる程に、人々は固定観念に縛られる存在となりました。

なぜ不思議と思わないのでしょうか?
こんなに多くの人々が亡くなる事を、なぜ、不思議と思わないのでしょうか? 

こんなに悲しい出来事が起きても、平気で自分の事だけを思う自分の不真実さを。
どうしたら、もっと熱く同胞の事を我が事として、事実の行動に移せるのかを本気で考える事の出来ない心のつめたさを。
人がどれ程、遠く愛から離れてしまったか?
それは一つ一つの、その時の道の選択を欲望の方に軍配を上げ続けて来た結果です。本心を退け、自我に軍配を上げ続けた結果です。
 
―マタイ16:26「たとえ全世界を儲けても、永遠の命(真心)を失ったら、何になろうか?」―

有名な聖書のことばです。


事実の中にだけ本当の愛があります。そして、心の中に大きな力を持つ人となります。
加えて、どんな時にも揺るがない真実な生きる指針となります。
私たちがこの行き詰った世界に本当の力を持って臨む事が出来たら、滅亡に向かうしかない方向性が必ず変えられると確信します。

お一人、お一人の心にある本当の願いを深い罪の土砂の中から掘り起こして下さる事を心から祈ります。

以上