NO. 32増し加えられた信仰の必要③ | イエス・キリストの御名を賛美します

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唯一の救い主である、イエス・キリストの愛を知ってほしい。
聖書の奥義を知ってほしい。
そして、選択して欲しい。

こんにちは、兄弟姉妹の皆さん

昨日の続き、テーマは「信仰」の第3弾です。

昨日は、信仰が基礎になっていることが説明されていました。
信じてもいないお方を愛せるだろうか?
信仰も持たずに忍耐を働かせられるだろうか?
信仰がないとしたらだれが勇気を持てるだろうか?

今日は続きです。


記事の元は、以下のリンクを辿ってください。
>http://homepage2.nifty.com/grapes/SpurgeonS0032.htm


NO. 32増し加えられた信仰の必要③


1855年7月1日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於ニューパーク街会堂


「使徒たちは主に言った。『私たちの信仰を増してください。』」(ルカ17:5)

3.第三に、――あなたの信仰を気に留めなくてはならないのは、キリストがそれを高く評価しておられるからである。

新約聖書の中には、尊いと呼ばれているものが3つある。

その1つは、知っての通り、キリストの尊い血である[Iペテ1:19]。
もう1つは、尊い、すばらしい約束である[IIペテ1:4]。
そして、信仰は、三番目のものたる栄誉が与えられている。――「私たちと同じ尊い信仰を受けた方々へ」[IIペテ1:1]。

こういうわけで、信仰は神が尊ぶ3つのものの1つなのである。
これは、神が他のすべてにまさって評価される物事の1つにほかならない。

昨日、私は古い神学書を読んでいて非常に驚くべき思想に出会った。
その著者は、神が信仰にまとわせておられる栄誉について、こう云っているのである。

「キリストは、ご自分の頭から冠を外して、信仰の頭の上に置かれた」。

注意するがいい。
主が、いかに頻繁に、「あなたの信仰が、あなたを救ったのです」、と云われたことか[ルカ7:50; 18:42]。
とはいえ信仰が救うのではない。キリストがお救いになるのである。

「あなたの信仰があなたを癒したのです」[マタ9:22; マコ5:34]、と主は云われる。
とはいえ信仰が癒したのではない。キリストがお癒しになったのである。

だが、キリストはご自分から冠を外しても、信仰に冠をお与えになった。
主は、救いの王冠をご自分の頭から取って、それを信仰の額にかぶせ、そのようにして信仰を「王の王」とされた。そのとき信仰は、王の王[黙17:14]だけが戴くことのできる冠、「救いの冠」を戴いているからである。

あなたは「私たちは信仰によって義と認められる」[ガラ3:24]と書かれているのを知らないだろうか?
さて、ある意味でこれは事実ではない。

義認の実質は、転嫁されたイエス・キリストの義だからである。
私たちはキリストによって義と認められる。
※ペリカン注:もうお判りのことだと思いますが、義となられたのはイエス様であって、イエス様を信じる信仰が、天の御父にイエス様を通して義と認められているとのことです。


だが、キリストは信仰をご自分の王服で着飾らせ、それを真に光輝くものとしてくださる。
イエス・キリストは、常に信仰を栄誉ある座につかせておられる。

あの病気の娘を持ったあわれな女がやって来たとき、主は云われた。
「ああ、あなたの信仰はりっぱです」[マタ15:28]。

主は、「ああ、あなたの愛はりっぱです」、と云うこともおできになった。
りっぱな愛があればこそ彼女は群衆を押し分けて進み、娘のために懇願したからである。

あるいは、「あなたの忍耐はりっぱです」、と云うこともおできになった。
主が彼女を「犬」と呼んだときも、彼女は主にすがりつき、離れようとしなかったからである。
※ペリカン注:直接カナンの女を「犬」と言っているところはない、カナン人は異教徒であることから「犬に与えるのはよくない」と言われました。

あるいは、「あなたの勇気はりっぱです」、と云うこともおできになった。
彼女はこう云ったからである。
「ただ、小犬でも……パンくずはいただきます」。

あるいは、「あなたの知恵はりっぱです」、と云うこともおできになった。
彼女はかしこい女で、苦味の中から甘みを引き出すことができ、こう云っているからである。
「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも……パンくずはいただきます」[マタ15:27]。

しかし、主はこれらすべてを見過ごしにして、こう云われた。
「あなたの信仰はりっぱです」

よろしい。
キリストが信仰をこれほど評価しておられる以上、私たちはそれをこの上もなく尊重すべきではないだろうか?
キリストが最も価値あるものとみなしておられる宝石を、私たちが高く評価しすぎるなどということが可能だろうか?
主が信仰を美徳の額の最前面に据えておられる以上、また主がそれをキリスト者の冠の最上の宝石であるとみなしておられる以上、おゝ!それによって私たちは目覚めさせられ、自分が信仰を有しているかどうかを見てとらされるではないだろうか?

というのも、それを有していれば、私たちは富んでいるからである。――信仰と約束に富んでいるからである。
しかし、もし有していなければ、他に何を有していようと、私たちは貧しい。――現世で貧しく、来世でも貧しい。


(ペリカン雑感)
信仰は神(御言葉)が尊いと言われたなら、信仰を求めずにいられるでしょうか?
有していれば、私たちは富んでいるし、有していなければ、私たちは貧しい。(これはON or OFFですね)
前回、
小さな信仰の持ち主は、小さな愛の持ち主である。
大きな信仰の持ち主は、大きな愛情の持ち主である。
とありました。(これは、信仰の量のような気がします。)
どんなところでも、イエス様を大胆に証しすることが出来て、パウロのように「恥としない」ならば、どんな迫害・蔑み・嘲笑にあっても喜んでいられるでしょう。
しかし、学校や会社でクリスチャンであることを隠して、イエス様の証しも出来ないなら、どんなに小さな迫害であっても、傷つき悲しみに暮れるでしょう。(私もこちら側です。)
だからこそ、『私たちの信仰を増してください。』(ルカ17:5)なのではないでしょうか?