こんにちは、兄弟姉妹の皆さん
昨日の続き、テーマは「信仰」です。
昨日は、自分の信仰について格別な注意を払うべき理由について紹介しました。
「愛によってでもなく、勇気によってでも、忍耐によってでもなく、信仰によって救われる。」とありました。それは、エペソ2: 9「行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」にあるとおりだと思います。
また、信仰が無ければ生きられないと言っていました。
また、信仰が間違っていないかを試すべきだとも書いてありました。
今日は続きです。
記事の元は、以下のリンクを辿ってください。
http://homepage2.nifty.com/grapes/SpurgeonS0032.htm
NO. 32増し加えられた信仰の必要②
1855年7月1日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於ニューパーク街会堂
「使徒たちは主に言った。『私たちの信仰を増してください。』」(ルカ17:5)
2.自分の信仰を気遣わなくてはならないのは、あなたのすべての恵みがそれにかかっているからである。
信仰は、根元的な恵みである。
他のあらゆる美徳や恵みが、そこから生じている。
愛はどうか。
いかにして自分が信じてもいないお方を愛せるだろうか?
もし私が、神がおられること、神を求める者には報いてくださる方であることとを信じていないとしたら[ヘブ11:6]、一体いかにして私は神を愛せるだろうか?
忍耐はどうか。
いかにして信仰も持たずに忍耐を働かせられるだろうか?
信仰は、報酬が与えられるときを待ち望むからである。
信仰は、「すべてのことが働いて益となる」[ロマ8:28 <新改訳聖書欄外訳>]、と云う。
私たちの苦悩から、より大きな栄光が生ずると信ずる。
だからこそ耐え忍べるのである。
勇気はどうか。
信仰がないとしたらだれが勇気を持てるだろう?
あなたがいかなる美徳を取り上げても、それは信仰に依存していることがわかるであろう。
信仰はあらゆる恵みの真珠を通しておくべき銀の糸である。
それを断ち切れば、その糸を切ったのと同じである。
真珠は地面に散らばり、あなたを飾るため身につけられなくなってしまう。
信仰はあらゆる美徳の母である。
信仰はいけにえを焼き尽くす火である。
信仰は根を養う水である。
信仰は、あらゆる枝に活力を分け与える樹液である。
もしあなたに信仰がなければ、あなたの恵みはみな死なざるをえない。
そして、あなたの信仰が増し加わるにつれて、あなたのあらゆる美徳も増し加わるであろう。
すべてが同じ度合にではないにせよ、すべてがある程度は増し加わるであろう。
小さな信仰の持ち主は、小さな愛の持ち主である。
大きな信仰の持ち主は、大きな愛情の持ち主である。
神を信ずる大きな信仰を持っている人は、神のために死をも選べるが、神を信ずる信仰が小さな人は、その愛がひ弱なために火刑柱から尻込みするであろう。
あなたの信仰に気を遣うがいい。
というのも、あなたの美徳は信仰にかかっているからである。
そして、もしあなたが善であること、「愛すべきこと、評判の良いこと」*[ピリ4:8]、
自分にとって誉れとなり、神を喜ばせることを努めて身につけたければ、あなたの信仰をよく守るがいい。
あなたの信仰に、すべてが基づいているからである。
(ペリカン雑感)
愛も、忍耐も、勇気も、信仰あってこその賜物であることを知りました。
愛、忍耐、勇気で、信仰を勝ち取るのではなく、信仰こそがその全てを与えてくれるものなのですね。