NO. 32増し加えられた信仰の必要④ | イエス・キリストの御名を賛美します

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聖書の奥義を知ってほしい。
そして、選択して欲しい。

こんにちは、兄弟姉妹の皆さん

昨日の続き、テーマは「信仰」の第4弾です。

第3弾では、信仰はいかに神から尊ばれているかでした。

今日は続きです。


記事の元は、以下のリンクを辿ってください。
http://homepage2.nifty.com/grapes/SpurgeonS0032.htm


NO. 32増し加えられた信仰の必要④


1855年7月1日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於ニューパーク街会堂


「使徒たちは主に言った。『私たちの信仰を増してください。』」(ルカ17:5)


4.次に、キリスト者よ。
あなたの信仰によくよく気を遣うべきなのは、思い出してほしいが、信仰こそ、あなたが祝福を獲得できる唯一の道だからである。

もし私たちが神から祝福を授けてほしければ、信仰による以外、何物もそれを天から取ってくることはできない。祈りが神の御座から答えを引き下ろせるのは、それが信仰を持っている人の熱心な祈りである場合に限る。

信仰は、私の魂が天に一歩一歩上っていくためのはしごである。
もしそのはしごを壊したとしたら、いかにして私は私の神に近づけるだろうか?

信仰は、魂と天国の間の天使めいた使者である。
その天使が引っ込んでしまえば、私は祈りを上に送ることも、その答えを上から受けとることもできない。

信仰は、地上と天国を繋ぐ電信線(現時代で喩えるならネットワークかな)である。
その線の上を神の祝福は瞬時に走り、私たちが呼ぶ前から神は答え、私たちがまだ語っている間に神はお聞きになる。

しかし、もしその電信線がぷっつり切れたら、いかにして私たちは約束を受け取れるだろうか?

私が困難に陥っているとする。
私は信仰によって困難への助けを獲得できる。

私が敵に打ち叩かれているとする。
私の魂は、信仰によって、かの愛し隠家(いえ)に頼る。
詩篇18: 2「主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。」

しかし、信仰を取り去ってしまえば、私が神を呼んでも無駄である。
私の魂と天国の間には何の道もない。

信仰こそ、厳寒の真冬にも祈りの馬が旅することのできる道路である。
左様、身を切るような霜があればなおのことである!

しかし、その道路を遮断してしまえば、いかにして私たちは、私たちの偉大な王とやりとりできるだろうか?

信仰は私を神性と繋いでいる。
信仰は私に神格の衣をまとわせている。
信仰はエホバの全能性をして私に味方させている。
信仰は神の御力を私に与える。

というのも、それはその力を私のために確保するからである。
それは私に地獄の軍勢を向こうに回して一歩も引かせない
それによって私は、自分の敵を屈服させ、勝ち誇って歩むことができる

しかし信仰がなければ、いかにして私は主から何かを受け取れるだろうか?
疑っている者(海の大波のような者)は、神から何かをいただけると思ってはならない![ヤコ1:6-7]

おゝ、ならば、キリスト者たち。
あなたの信仰をよく見張るがいい。

というのも、信仰があれば、あなたは、いかに貧しくとも、あらゆるものをかちとれるが、信仰がなければ、何1つ獲得できないからである。

マイダス(Midas)王は、自分の手で触れる物をことごとく黄金に変える力があったという。
それと同じことが信仰についても云える。――それはあらゆるものを黄金に変える。

だが、信仰が損なわれれば、私たちは自分のすべてを失ったのである。
私たちは、みじめで、貧しい者となる。
なぜなら、私たちは御父とも、御子イエス・キリストとも、何の交わりも保てないからである。


(ペリカン雑感)
信仰こそ祝福と力を得る為の必須条件であることを知りました。
困難に打ち勝つ力も信仰あってこそだということを知りました。
信仰が無ければ如何に恐ろしい自体になることかをよくよく考えるべきかと思います。
しかし、「私には信仰があるのだろうか?」と疑いたくなるようなことを日々の生活で感じてしまう人が多いのではないでしょうか?

主イエスの御名を賛美します。