NO. 3154 神の忍耐について | イエス・キリストの御名を賛美します

イエス・キリストの御名を賛美します

唯一の救い主である、イエス・キリストの愛を知ってほしい。
聖書の奥義を知ってほしい。
そして、選択して欲しい。

ハレルヤ!主の御名を賛美します!

こんばんは、兄弟姉妹の皆さん

今日も、C.H.スポルジョン氏の説教集からご紹介します。
ご存知の方も多いと思います。
以下のHPから引用させていただきました。
http://homepage2.nifty.com/grapes/SpurgeonS3154.htm

紹介している説教は、全文ではありません。
是非、上のリンクから全文をお読みください。


メトロポリタン・タバナクル講壇

NO. 3154 神の忍耐について

1909年7月22日、木曜日発行の説教
説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1873年4月20日、主日夜

「それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか」。――ロマ2:4

神の側における愛を大きく示す1つのしるしは、神がへりくだって人間たちと論じ合ってくださることである。
彼らがご自分にそむいたとき、神は彼らに向かって、「わたしは、お前たちの罪ゆえに、お前たちを罰することにしよう」、と云い放ち、その脅かしを実行に移す日が来るまで、彼らのもとから立ち去ることもおできになったであろう。

しかし、そうする代わりに、神はひとりでも滅びることを望まず[IIペテ3:9]、ご自身の宣言に従い、決して悪者の死を喜ばれない。
かえって、悪者がご自分のもとに立ち返って、生きることをお喜びになる[エゼ33:11]。
それで神は、立ち止まって諭してくださる。

神があなたの益を欲し、あなたの幸せを願っていないはずがないと考えるがいい。
さもなければ、神がそのしもべにお命じになり、こうあなたに云わせたはずがない。
あなたは、「神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか」、と。


パウロの時代にも今の時代と同じく、一部の人々は、人類の非常な罪深さを見てとるとともに、
神が不敬虔な者をすぐには滅ぼさないことに気づいて、その事実からこう推測していた。

「われわれがどんな罪や犯罪を犯そうと、何の違いがあるというのか?明らかに神は眠り込んでいるか、こうした行為に目をつぶっているのだ。
あるいは、神など全くいないのかもしれない。
いずれにせよ、われわれは罪の中に生き、そこで大いに楽しもうではないか。
そうしても何の悪い結果も生じないだろうからだ。
上等な肉を食べ、甘い葡萄酒を飲み、心ゆくまで楽しんでも、誰ひとりわれわれの責任を問う者などいないだろう」。

それで彼らは、神が慈愛に富んでおられるという事実そのものから、自分たちがいくら罪におぼれようと、いくら反逆に反逆を重ねようとかまわないと推断した。
また、神の足が復讐を伴って来るのが遅いからといって、いざ神がやって来られるときにも、その御手は重くないだろうと想像し、こう云ったのである。

「飲めよ。食らえよ。どうせ、あすは死ぬのだから」[イザ22:13]。

こうした種類の罪人に対してこそ、パウロはこの問いを発したのである。
「神の……豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか」、と。


I.神の慈愛と忍耐と寛容とを尊ぼうではないか。

使徒によって示された描写は三重である。
「神の……豊かな①慈愛と②忍耐と③寛容」。

神の「慈愛」とは、神が私たちの過去の罪すべてを見過ごし、まだ、それらについて正義をもって私たちを取り扱ってはおられないあり方に言及しているのであろう。

神の「忍耐」とは、私たちの現在のもろもろの罪(この日この時のそむきの罪)に言及しているのであろう。

神の「寛容」とは、私たちの未来のもろもろの罪に言及しているのであろう。

あなたは、人に怒りを覚えたとき、どれだけ癇癪を抑えておけるだろうか?
一時間だろうか?
残念ながら、あなたがたの中の多くの人々はそのようなことはしようとせず、たちまち、自分に挑みかかるような不遜なことをした相手に食ってかかるのではないかと思う。

ならば、あなたは、神について何と云えば良いだろうか?
神は、この場にいるある者らのことを40年、50年、60年、70年、ことによると80年も我慢しておられるのである。

おゝ、神の驚くばかりのあわれみよ!
この神は、ひとりの罪人を12箇月の50倍さえ辛抱することがおできになる。
そして、なおも我慢することができ、憐れみ深く懇願する調子で、こう仰せになることがおできになるのである。

「『さあ、来たれ。いま来たれ。そして論じ合おう』、と主は仰せられる。
『たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。
たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる』」[イザ1:18参照]、と。


今のあなたに対する神の豊かな忍耐を軽んじてはならない。

あなたは人間相手に嘘をついたのではなく、神に嘘をついてきた。
自分の良心を通して神から語りかけられたときには、それをあやして眠らせてきた。
神の聖霊があなたと争っておられたときには、聖霊を消すことすら行なった。
だが、今この瞬間まで、神は――ことば1つ発さずに、あなたの咎ある魂を地獄送りにできる神は――そうすることを忍んでおられる。

「わたしはどうしてあなたを引き渡すことができようか」[ホセ11:8]、と叫んでおられる。

反逆者を面前に見ながら、彼に向かってこう仰せになる。
「わたしは、いかにしてあなたを罪に定めることができようか?
いかにしてあなたを地獄に投げ込めようか?
あなたに対する私の同情は動かされている。
わたしはあわれみで胸が熱くなっている」。

さて、神はこれまであなたを、一度ならずその鞭で打ってこられた。
あなたは病や貧困、そして他の多くの艱難に苦しんできた。
神の鞭は今あなたを打ちすえている。
だが、神は、その斧を取り上げることを急がれない。
悔悟しない者に対するその審きは厳格だが、神は非常に憐憫と同情に満ちており、できるものなら死の一撃を加えたくないと思っておられる。
「悔い改めよ」、と神は云われる。

「悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか」[エゼ33:11]。

そして、懸河の弁(けんがのべん)によって人々に叫び求めるのである。ご自分のもとに立ち返り、生きよ、と。

それから、まだ犯されていないもろもろの罪に関する神の寛容がある。
おゝ、罪人よ。
あなたは、将来罪を犯さないと約束することができない!
あなたは愚かにも、「私は犯しません」、と云うかもしれない。
だが、クシュ人がそのその皮膚を変え、豹がその斑点を変えるよりもずっと困難なこと、それは、悪に慣れたあなたが自力で善を行ない始めることである[エレ13:23]。

あなたの心の泉は汚れているため、汚染された水流がそこから流れ続けざるをえない。
あなたは、そのような種族の生まれであり、かつ、自分の絶えざる罪深さによって生来の堕落ぶりをいやが上にも増し加えている。

このため、あなたは恵みがあなたを変えて更新するまで、ずっと罪を犯し続けるのである。
いかにして神は、このことを知りながら、あなたの存在を叩き消してしまわれないのだろうか?
神は、もう一年あなたを生き続けさせ、あなたのかたくなな心がご自分の愛になおも反抗するのをお許しになろうというのだろうか?

もし滅びの御使いが、いかなることをあなたが行なうことになるか告げられたとしたら、彼は立ってその剣を抜くか、その手をその柄にかけて云うであろう。
「恐るべき《主権者》よ。私に命じてください。
あなたの御名を冒涜し、あなたの律法を破る者たちを地上から一掃することを。
そうすれば、その通りになります」。

しかし、神は云われる。
「剣を鞘に収め、もう少し待っていなさい!
彼らにはもう一度訴えかけ、もう一度招き、もう一度懇願してみよう」。
おゝ、これらが彼らにとって有益なものとなり、彼らが神に立ち返って生きるようになるとしたら、どんなに良いことか!

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「神の……豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか?」

まことに、私たちに対する神のあわれみは豊かさの宝庫に似ている。

私が自分自身のことを述べるのは、それがここにいる他の多くの人々と似通っていると知っているからである。
敬虔な家で揺りかごに入れられ、この上もなく優しい世話で養われ、幼少の頃から福音を教えられ、
両親というきわめて聖い模範を有し、考えうる限り、罪に走らないようにする最上の妨げに取り囲まれていながら、
そうした一切にもかかわらず、罪に罪を、反逆に反逆を重ねる。

跳躍しようとする軍馬の手綱を、乗り手が引いて止めようとするように、良心による抑制がかかる。
それでも、なおも罪を犯そうと決意し、その深みへ深みへと入り込もうと決心し、罪を抑制しようとする神に怒りを覚えるまでとさえなる。

その制御を振り切って先へ進もうとし、神から逃走して、以前にまして重い罪を犯す。
その後、神の御手によって病に倒され、恐怖と恐慌に襲われては、生き方を改める決意をするが、
再び健康へと引き上げられると、真剣な心の感銘を振り捨て、笑い声をあげては再び罪の愚かさに立ち戻る。

それから再び叱責を受け、震え上がり、雷で打たれたようになり、神の御前で畏怖させられる。
尊い《救い主》について聞かされる。
だが、このお方を押しのけ、また別の日にキリスト者になれば間に合うさ、とうそぶく。

これが、主権的な恵みに出会う前の私の悲しい物語であり、この場に出席している他の多くの方々の物語でもある。

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だが、その間ずっと、神は数々の摂理の祝福をあなたに供し続け、あなたが決して欠乏しないようにしてこられた。
神は、他の非常に多くの人々が耐え忍ばなくてはならなかった数々の危険や、試練や、苦難からあなたを守ってこられた。

神がこうした一切のことをあなたのために行なわれたというのに、あなたの思いの中には、神に対する優しい考えが何もなく、
神の大いなるあわれみについて感謝すべき何の記憶もないのだろうか?

おゝ、考えてみるがいい。
あなたがとうの昔にどこに陥って行きかねなかったかを!
人々は、あなたの死んだからだを見下ろし、こう云っていたかもしれないではないだろうか?

「土は土へ、灰は灰へ、ちりはちりへと還る」、と。

十字架の上で罪人たちのために死なれた、神のキリストのことを考えてみるがいい。
地に下って、罪人たちを相手に争い、訴えておられる、神の御霊のことを考えてみるがいい。
自分の信頼を御子イエス・キリストに置くすべての者に授けられる、御父の全能の愛のことを考えてみるがいい。

おゝ、確かにそこには豊かなあわれみがある。
豊かな慈愛、豊かな忍耐、豊かな寛容がある。
そして、人よ。あなたはそのすべてを軽んじているだろうか?

あなたは、こうは云わないだろうか?
「私の神よ。私をお赦しください。これほど長いこと、あなたをなおざりにしてきたこの私を」。
それとも、あなたはなおも神の慈愛と忍耐と寛容を軽んじ続けるだろうか?

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神の慈愛がいかに卓越したものであるかは、4つのことを考察するとき明らかに示される。

1.真正なご人格

いかなる者も、自分に劣る者から侮辱されることを好みはしない。
ならば、いかにして神が、ご自分の作られた被造物たちから侮辱されることを辛抱できるだろうか?
いかにして神は、人間のように全く取るに足らない、無価値な者によって反抗され、挑みかかられることを耐え忍べるだろうか?

だが、神はご自分の反逆的な被造物を粉砕して当然なのにそうはなさらないのである。

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2.神の全知

時として私たちが人々を我慢するのは、彼らが云ったりしたりしたことの多くを忘れてしまうからである。
だが、二十年前の悪口や、あなたに対する敵の長い生涯にわたる辛辣な言葉や、意地悪な行為のすべてがあなたの心の目の前にあるとしたらどうなるだろうか?
だが、神は私たちの一切の罪をご自分の前に置いており、私たちの最も隠された罪もご自分の御顔の光の中に置いておられるが、それでも私たちを打って滅ぼすことを辛抱しておられるのである。

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3.神はいかに強大なお方か

何者も、神が追跡するときに逃げおおせることはできない。
モーセはパロのもとから逃亡し、ミデヤンの地に隠れることはできた。
だが、神がひとたびご自分に反逆したことのある者全員を罰そうと決意されたとしたら、いかにして私たちは神の復讐から逃れて免れることができるだろうか?

その被造物のうち何者も神に対抗することはできない。
だがしかし、神には途方もない寛容さがあり、この長年月、私たちを我慢してくださった。

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4.神の慈愛がいかなる存在に向かって明らかに示されているか

それは人間なのである。
人間がいかなるものか考えてみるがいい。
果たして、このようにちっぽけで、取るに足らない被造物が、あえて神に宣戦布告し、「俺様はお前が行なうよう命じたことを行ないはしない」、と云えるものかを。

――神の許しと支えがなければ、一瞬も生きることができない人間、それが立ち上がって、こう云うのである。
自分は神のしもべになるつもりはない、神が任命された《救い主》を受け入れるつもりなどない、と!

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別の測地線はこれである。
神の慈愛がいかなるふるまいに対する答えであるか、言葉を換えると、罪がいかなるものか考察するがいい。

この場にいるいかなる人も、神の御前において罪が真にいかなるものかを一度でも見てとったことはない。
極小の罪の中にも、地獄の中にある悪にもまさる悪が詰まっている。

そして、いくつかの罪は、あまりにも放恣で、あまりにもはなはだしく、あまりにも勝手気ままであり、人々はあまりにもことさらにそれらを犯そうとする。
――いくつかの罪は、あまりにもしばしば繰り返され、懲らしめを受けても変わらない。
――いくつかの罪は、あまりにも人を汚染し、あまりにも不潔で、その中にある人は自分自身のみならず他の人々をも堕落させ、滅ぼしてしまう。
そして、いくつかの罪はあまりにも破廉恥である。
このため、まさに驚異となるのは、神がそれらを犯す人をなおも忍んでくださり、その正義の雷電を抑えておく一方で、あわれみという銀の王笏を差し出し、罪人のかしらにさえこう仰せになることである。

「主イエス・キリストを信じなさい。そうすれば、あなたも……救われます」[使16:31 <英欽定訳>]。

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それから、もし私たちがもう一本、別の測線を欲するとしたら、
それは神の慈愛がもたらす数々の恩恵について考察することのはずである。

私たちに共通する種々のあわれみ――日ごとの糧、身にまとう着物、労働のために必要な健康、危地からの救出、死からの守り、
安息日という制度、聖書という賜物、救いの福音、――これらは測り知れない恩恵である。

ならば、誰が計算できるだろうか?
神の豊かな慈愛と忍耐と寛容がいかほどのものかを。

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II.人々がどのようにして神の慈愛と忍耐と寛容を軽んじるか。

1.最初に、多くの人々は、自分が神から慈愛を受けているなどとは全く考えもしないことによってそうする。
彼らは、神が彼らに与えておられる一切のものを当然のことと受け取り、決してそれらについて考えない。

仮にあなたが、どこかの貧乏な人に対して非常に気前良くしてやっており、何年間も彼が欠乏しないようにしてやっていたとしよう。
その場合、もしも彼がそれを当然視し、決してあなたに何の感謝も示さず、むしろ、あなたがこれほど長い間してきた通りのことをずっとし続けるように期待するとしたら、時としてあなたは悲しみを覚えるに違いないと思う。

あなたは自分に向かって云うであろう。
「私は、彼を助けてやる義理など全くない。これは、完全に私の親切心から出た行為なのだ」。
あなたは、「もはや彼には何もやるまい」、と云いたくはないが、そう云いたい気持ちに強くかられる。

この場にいる多くの人々は、恩知らずだと思われたくはないだろうと私は知っているし、また、同胞の人々に対して恩知らずなことはしていない。
そのような人格をあなたが軽蔑することを私は知っている。
だが、あなたは、あなたの最高の《友》に対して恩知らずなのである。



2.ある人々が神の寛容を軽んじるのは、そこにこめられた神の意図に逆らうことによってである。

神が慈愛を賜る意図は、悪人たちを善人にすることにある。
悔悟しない罪人たちに対する神のあわれみの意図は、彼らを悔悟させることにある。

神は、非常に重い病気にかかったあなたの寝床のかたらわにやって来られる。
死の冷たい汗があなたの額ににじんでいるが、神はあなたの体内から熱病を引き出し、
再びあなたのいのちを伸ばしては、地上でのもう十年間をあなたに与えてくださる。

だが、それでも、あなたは神に対して云う。
「いくらこんなことをされても、私はあなたを少しも愛するようにはなりませんよ」。

それが正しいことだろうか?
神はあなたを優しく導いてこられた。
あなたを追い立てず、あなたへの愛ゆえに、あなたをご自分のもとに引き寄せてこられた。
では、神の寛容を軽んじて、他の方向へ進んではならない。



3.ある人々は、それよりさらに悪いことをする。

というのも、彼らは神の寛容と忍耐をねじ曲げて、不信仰のままでいる理由にするからである。
彼らは自分に向かって云う。
「われわれは、この世で面白おかしく過ごしてきた。キリスト教信仰のことなどもはや考えなくなってもな。
だから、われわれは自分の好きなようにしていて良いのだ。神はわれわれのことを怒らないのだ。その手を伸ばしてわれわれを打つようなことはしないのだ」。

しかし、不敬虔でありながら繁盛している人、自分の船には順風しか吹いて来ず、あらゆる季節には隣人たちよりも良質の収穫が得られ、
子沢山でいられる等々という人については、


――なぜ神がその人に対してそのようにふるまわれるか、あなたは知っているだろうか?

ひとりのキリスト者婦人について聞いたことがある。
彼女には非常によこしまな夫がいた。
彼は、すさまじい悪態をついては、あらゆる善良な事がらについて常に彼女に反対した。
だが、彼女は、男が持つことのできる中でも最も親切な妻だった。

ある夜、あるいは、むしろ早朝に、彼が飲み仲間と酒を飲んでいるとき、彼は彼らに云った。
自分には素晴らしい女房がいて、たとい彼らが全員自分と一緒に家に来ようと、それが夜中の二時であっても、
彼女が寝床に入っていた後であったとしても、彼女は起きてきて、嫌な顔1つせずに彼らのために夕食を作ってくれるだろうし、
彼のために、まるで彼らが国の貴族たちででもあるかのように彼らに給仕してくれるだろう、と。
彼らはその家に行き、夫は彼女を呼んだ。
彼女が床に入っていたからである。
彼女は服を着て階下に降りてくると、ありあわせのもので食事を支度して、彼らを心から歓待した。
彼らは彼女に、なぜこんなにひどい仕打ちをしている者たちにそれほど親切にしてくれるのかと尋ねたが、彼女は答えようとはしなかった。

別の日に、夫から似たような問いを受けたとき、彼女は彼に云った。
「あたしは、あんたのために一千回もお祈りしてきたし、どうしてもあんたを《救い主》のもとに導こうとして、
できることなら何でもしてきたけど、今じゃ、あんたが失われちまうんじゃないかって、心の中で恐ろしくこわくなってるのよ。
残念だけど、神様にそむいて罪を犯し続けてる限り、あんたが地獄に送られることになるだろうってね。
だから、あたしは決めたのよ。
あんたがこの世にいる間は最高に幸せにしてやろうって。
可哀想だけど、死んじまったら、あんたは絶対に幸せになれないんじゃないかと思ってね」。


そして、私の信ずるところ、それと同じ理由で神は、悪人たちを金持ちになさるのである。
「さあ」、と主は云われる。
「彼らにはできる限り楽しい思いをさせてやろう。
地上にいる間は、彼らにこうしたものを与えることにしよう。
やがて来たるべき時には、わたしは彼らに何の憐れみも示さず、わたしの容赦ない正義によって彼らは一切の楽しみから永遠に放逐されざるをえないからだ」。
いま私が述べた男に、少しでも真実な男らしさがあったとしたら、彼は妻に向かってこう云ったろうと思う。
「お前や。お前は俺のことをそんなふうに感じてたのかい?
それほど俺を愛して、そんなに長く俺のために祈り、どんな不都合も我慢してきたのは、俺に親切にしてくれるためだったのかい?
なら、とにかく俺は、もう二度とお前には意地悪しないよ。
そして、それがどういうもんか聞くようにするよ。
お前が云う、俺を安らかにしてくれるってものをな」。
正気の人間なら、そのように語るであろう。
そして、もしあなたが正気をしているとしたら、私は切に願う。
今、あなたの神があなたに仰せになっていることを心に留めてほしい。
これこそ、神が遠い昔に事を云い表わされたしかたであり、神はそれをあなたに対しても同じように云い表わされるかもしれない。

「天よ、聞け。地も耳を傾けよ。……子らはわたしが大きくし、育てた。しかし彼らはわたしに逆らった。
牛はその飼い主を、ろばは持ち主の飼葉おけを知っている。
それなのに、イスラエルは知らない。わたしの民は悟らない」[イザ1:2-3]。

あなたがたの中の誰が、あなたにとって何の役にも立たないような牛やろばを飼っておくだろうか?
あなたがたの中の誰が、あなたが近づくとさっと逃げ出しているばかりのような犬ころ一匹でも家の中にいさせようとするだろうか?
だが、神はあなたを辛抱してこられた。
ご自分の恩知らずな被造物たちを、この長年月の間である。
あなたは自分を養ってくれる手に、決して口づけしようとしないのだろうか?
あなたは、ろばよりも愚かなのだろうか?
牛そのものよりも獣じみているのだろうか?
おゝ、願わくは神が罪人たちを、ご自分に対するそのような不正を続けることから、また、自分自身に対するそのような残酷さから救い出してくださるように!

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III.さて最後に、《神の慈愛が私たちを導いている力を感じようではないか》。「神の慈愛があなたを悔い改めに導くこと」を。


これは、私たちが神の慈愛を軽んじないための十分な理由となるべきである。
すなわち、それを軽んじることは非常に不正なことである。

私は、古典の歴史書の中に、この、人間と神との場合に並行するような事例が何かないか調べてみた。
そして、それに似たものを1つ見いだした。

アレクサンドロスの時代、ひとりの兵士がいた。
彼は難破して、ある人から手厚く迎え入れられた。
彼はこの兵士を自分の家に連れて行き、食物と着物を与えた。
だが、その兵士は、アレクサンドロスのもとに戻ることができたとき、すぐさまこの一件について、
あることないこと捏造した報告を行ない、この偉大な司令官に向かって、自分をもてなしてくれた人物の家を与えてくれるように願い出た。
後にアレクサンドロスは、この卑劣漢が、自分を接待してくれた人の家を奪って自分のものにしようとした恩知らずな男であることを見いだして、
その額に焼き印を押すよう命令した。
そして、その恩知らずな客がどこにいこうとそれと知られるようにした。
だが、いかなる焼き金、いかなるえにしだの熱い炭火[詩120:4]が、神に創造され、神に養われ、あわれみの道に置かれ、恵みに招かれながら、
だがしかし、それでも忘恩を続けているような恩知らずな者に焼きごてを押すだけの熱さを有しているだろうか?


人間は、その同胞である人に対していかに恩知らずなふるまいをしようと、それは、人間が自分の神に対してふるまう恩知らずほどのものになることはめったにない。
自分の同胞である人々から一銭盗むことにさえ目もくれないだろう当の人々が、一生の間、何の良心の呵責もなしに神から盗み続ける。
自分の同輩の商人たちに対しては徹底的に公正な扱いをする人々が、自分を創造してくださった神に対しては不正を犯し続けようとする。
なぜこのように卑しいふるまいをするのだろうか?
おゝ!私は切に願う。
ぜひそのようなことを続けるのはよしてほしい。
――私は目に涙しながらあなたに訴えたい。もはやそうし続けないでほしい。
あなたは、神への大きな義理があるではないだろうか?
あなたは、神があなたを造られたことを知っている。
あなたの魂の奥底では、1つの声があなたに向かって云っている。
「神がお前を生かし続けておられるのだ」、と。
あなたは、その通りであると知っている。
ならば、いかにしてあなたは想像できるのだろうか?
万物の《創造主》にして《保持主》なるお方を忘れ去っても罰を受けずにすむなどと。
神の慈愛をないがしろにしながら生きることがいかに危険であるか、あなたに思い起こさせる聖句を1つ示させてほしい。

「悪者どもは地獄に投げ込まれる」(特に、次の言葉に注意するがいい)。
「神を忘れたあらゆる国々も」[詩9:17 <英欽定訳>]。

私がこの聖句の引用を始めたとき、あなたは自分に向かってこう云ったかもしれない。
「私は悪者ではない。私は何も極悪なことはしていない」。
だが、その節の残りをもう一度聞くがいい。

「神を忘れたあらゆる国々も」。

――悪態をついたり、冒涜したり、神に反逆する国々ではない。
むしろ、「神を忘れたあらゆる国々」なのである。
「それは、ほんの1つの聖句でしかない」、とあなたは云うであろう。
あゝ!だが、ここにもう1つあり、そのようなものはたくさんある。

私たちは「どうしてのがれることができましょう」。

――何を?

「私たちがこんなにすばらしい救いをないがしろにしたばあい」[ヘブ2:3]。

――それが、すべてである。
――それは、単にないがしろにしたかどうかの問題である。

神を軽んじて神をないがしろにすること、神を軽んじて神を忘れること、これこそ、人々を永遠の破滅に陥らせるだろう、嘆かわしい種類の軽んじ方なのである。

「主よ!罪人を返らせ給え!覚まさせ給え、その無感覚(まどろみ)を。
汝が忠言(さとし)をば否ませず、その致死(あし)き選択(みち)をばとく悔ゆらせよ!」

あなたがたの中のある人々にとって、この会衆に向かい合うこと、また、私が今しているように話をすることなど、子どもの遊びのように思われるかもしれない。
だが、それが私にとって子どもの遊びでないことは主がご存知である。
私は、あなたがた全員について自分が神に責任を問われると感じている。
あなたがたは、もうほんのしばらくで、私の《主人》の審きの座の前に立たなくてはならないであろう。
さて、その最後の恐ろしい日に私が召還されて、いかにあなたがたに語りかけるこの機会を用いたかについて報告することになったとしよう。
また、神をないがしろにすればあなたの永遠の破滅であると平易にあなたに告げたかどうかを告白しなくてはならなくなるとしよう。
また、私が冷たくて、無関心であったと――今のあなたと同様に冷たくて、無関心であったと――告白せざるをえなかったとしよう。
――そのとき、私の魂は、あなたの魂の血で真紅に染まるであろう。
しかし、そのようなことはありえない。
そのようにさせはしない。
というのも、私はあなたに切に訴えているからである。
生ける神にかけて、罪人たちを救うために死なれたキリストにかけて、死の確実さにかけて、天国の光輝にかけて、地獄の恐怖にかけて、私は切に願う。
神の慈愛と忍耐と寛容を考えてほしい。
涙と願いをもって神に立ち返るがいい。
そし、何にもまして、ここに宣言されている福音に立ち返るがいい。

「主イエス・キリストを信じなさい。そうすれば、あなたも……救われます」[使16:31 <英欽定訳>]。
あるいは、それをキリストご自身の完全なしかたで云い表わせば、
「信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます」[マコ16:16]。

願わくは、主があなたがた全員を、その御子イエス・キリストを信じる単純な信仰へと至らせ、
それから、バプテスマという件においてキリストへの従順に至らせてくださるように。
そして、主があなたをその恵みによって人生最後の時まで保ってくださり、二度と再び軽んじることなく、むしろ、永遠に称賛させ続けてくださるように。
神の慈愛と忍耐と寛容とを。その愛する御名ゆえに!

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神の忍耐について[了]