こんばんは、兄弟姉妹のみなさん。
今日、紹介するのは、1800年代の人ロバート・ガボット(Robert Govett)です。
ご紹介するまでもなく有名な方らしいのですが、わたしは最近知りました。
全文紹介したいのですが、2次利用の利用に制限があるので、一部を紹介します。
是非、知っておきたい原則です。
http://www.geocities.jp/ogcclib/msg31.html題名にもあるように以下の聖句が主題になります。
「欺かれてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人が蒔くものは何であれ、それを刈り取ることになります。(自分の)肉に蒔く者は肉から腐敗を刈り取り、霊に蒔く者は霊から永遠に続く命を刈り取ります」(ガラテヤ6:7、8)。畑に種を蒔いて、秋に刈り入れることは霊の世界でも成り立っていると説明しています。
誰もが、種を蒔く人であり、各々は自分が蒔いたように刈り取らなければならない。
大切なのは、誰が蒔くかではなく、何を蒔くかです。
なぜなら、良い種を蒔く人も、悪い種を蒔く人も、それぞれにふさわしい報いを受けるからです。
それゆえ、すべての人が答えるべき二つの重大な問いといして、以下点を注意すべきだとしています。
1.あなたはどのような種を蒔いているだろうか?
2.あなたはどのような土地に種を蒔いているだろうか?実に多くの人が悪を行うよう誘われるのは、その
報いの到来にあまりにも長い時間がかかるため、報いが訪れることは決してないと安心してしまうという言葉は、喉元過ぎれば熱さを忘れる人には忍耐することができません。
以下の聖句の警告をしっかりと、握り締めるべきです。
「あなたのかたくなな、悔い改めない心のゆえに、あなたは神の義なる裁きが現れる怒りの日のために神の怒りを、
自分の身に積んでいるのです。神は
すべての人にその行いにしたがって報われます。忍耐強く善を行い続け、栄光と誉れと不朽とを求める人には、永遠の命が与えられます。しかし、争い好きで真理に従わず不義に従う人には、憤りと怒りが与えられます。悪を行うすべての人には、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、艱難と苦悩が与えられ、善を行うすべての人には、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。なぜなら、
神は人を偏り見ることがないからです」(ローマ2:5-11)。
あわれみの時代が長引いているのは、いと高き方が打つことではなく惜しむことを願っておられるからでです。彼は親切にも人を(可能なものなら)悔い改めに導いておられるのです。
(まとめ)
もし私たちが
地の種を蒔くなら、私たちの刈り取りは災い。
もし私たちが
天の種を蒔くなら、私たちの作物は喜び(主の喜びである)永遠の栄光。
それゆえ、「あなたはどのような種を蒔いているだろうか?」という問いほど、私たちにとって身近で重要な問いはない。
次に、
どのような土地に蒔くのかです。
農業では、多くのことが土地にかかっている。
霊の世界では、2種類の畑があることを、聖霊は私たちに教えています。
1.肉(人の知識・情・意思)の土地に蒔く肉の土地に蒔いても、実を結びます。
その一時的な結果は「金」であり、「金」で買える快楽や所有物になります。
蒔いた人の魂の中に与えられる霊的結果は、世の快楽が大いに増し加わり、時間と肉をさらに求める欲が大いに増し加わります。
しかし、来るべき日にはどんな結果があるのでしょうか?
「自分の肉に蒔く者は、肉から腐敗を刈り取ります」
私たちはこれをどう理解するべきかについては、
本文をお読みください。
「もしあなたたちが肉にしたがって生きるなら、あなたたちは死ぬからです(死なんとしているからです)。しかしあなたたちが御霊を通して肉の行いを死に渡すなら、あなたたちは生きます」(ローマ8:13)。これはどのような死でしょうか?
大勢の聖徒が経験する今日の死ではなく、キリストが現れる時に受ける将来の死です。
この世の諺が実について「
早く実るものは早く腐る」と述べているように、肉から刈り取ることも同じだと説明しています。
その楽しみはすべて今だけであり――来るべき日におけるその実は腐敗です。
2.霊の土地に蒔くでは霊に蒔くとは何でしょうか?
「あなたたち(クリスチャン)が宴会を催すときは、貧しい人、障害者、足なえ、盲人を招きなさい。そうするならあなたたちは幸いです。なぜなら彼らはあなたたちにお返しをすることができないからです。あなたたちは
義人の復活の時、お返しを受けます」(ルカ14:13、14)
「あなたの敵を愛しなさい。敵に善を行い、
見返りを期待せず貸してあげなさい。そうするなら、あなたの報いは素晴らしく、あなたはいと高き方の子たちとなる」(ルカ6:35)。
「あなたが施しをする時は、あなたの右手がしていることを左手に知らせてはいけない。それは
あなたの施しが隠れているためです。そうするなら、隠れて見ておられるあなたの御父はあなたに公に報いて下さいます」(マタイ6:3、4)
「見よ、私はすぐに来る。私の報いは私と共にあり、
各々にその働きにしたがって与える」(黙示録22:12)。
イエスの出現の時、この良い土から生じる作物は「永続する命」です。
なぜなら、この幸いな種蒔きの直接的結果は、来るべき時代と第一の復活または死者からの復活に「ふさわしいと勘定される」ことです。
「彼らは永遠に支配する」。
この真理はあまりにも強力で心を探るため、拒否される大きな危険性があるとして、特に注意深く説明しています。言葉だけを自分の良いように解釈するのは危険です。必ず、
本文を読んでください。
真理に対する、ありがちな以下の回答を良く言葉にしているなら関心を示して欲しい。
「そんなことは正しくない。なぜなら、神の民の選びは永遠の救いへと至るからである」
「しかし、あなたは律法の原則を取り入れている。福音は恵みであり、完全に恵みである。真のクリスチャンとは神の賜物の上に立つ人のことであり、四方を特権で囲まれているのである。彼は神の御子の肢体であり、御父と共にある息子であり、罪の赦しと内住する霊を持っている。私たちの大祭司であるイエスは、私たちの多くの失敗にもかかわらず、高き所で、御父の御座の前で、大いなる告発者に対抗して、私たちを擁護して下さるのである」
「しかし、神が恵みを賜らなかったら、あわれな私たちはどうやって立つことができるでしょう?もし主が私に祈る力や、有害なものを差し控える恵み与えて下さらなかったら、どのように私はそれを行うことができるでしょう?」
すべての警告は選ばれていない者、この世の罪人にのみ向けられている、とあなたは思うかもしれない。あなたは神の愛する息子なので、それらの警告があなたに触れることはない、というわけだ。
これは昔ながらの欺きである――「身を投げ下ろしてみなさい。なぜなら、『彼はあなたのために御使いたちに命じられる』と書き記されているからです」
「しかし、良い働きに報いがあるだけでなく、悪い働きにも報いがあるなんて言いませんよね!」
問題は
「誰が蒔くか?」ではなく、「何を蒔くか?」です。
乞食が麦を蒔くなら、麦を報いとして受ける。
これはあなたを教えるための神の視覚教材です。
これがこの世で起きるのと同じように、来るべき日にも起きるでしょう。
何度も何度も、旧約と新約の両方でこの原則は確認されています。
そしてまた、
イエスは「義なる裁き主」として来臨して報いをお与えになる(2テモテ4:8)と、証しされています。
この原則は絶対です。来るべき「裁きの日」、この原則は信者と未信者、選ばれた者と選ばれていない者に等しく適用されます。
「彼らは神を欺いたのではなく、自分自身を欺いたのである。」そのことを来るべき日が証明するでしょう。
良い実を結ぶ木だけが、来るべき日の取り調べに耐えることがでしょう。
最後に、悪の種を蒔いて今日受ける結果の証しを原文のままに紹介します。
「『見よ、種を蒔く者が種蒔きに出かけた』と私の父は言いました。
父は地区の教会で聞いた説教の説明をする所だったのです。
しかし、まず私の非行時代についてあなたたちに短くお話しする方が、父が語った話の趣旨をよく理解できるでしょう。
私は私の兄弟たちや姉妹たちより年長だったのに、悪い見本になってしまいました。
私は家族の唯一の面汚しでした。
悪しき時に私は悪友によって道を外れ、その後、他の人たちを私自身の罪深い歩みの中に導いてしまいました。
自分の不謹慎さを考えると恐ろしかったです。
私が過ちの中にいる間、私の両親はずっと私を愛してくれました。
両親が私のことを嘆き悲しんでいる間、自分は両親を悲しませたまま墓に下らせるのではないかと思いました。
私の父はかつて言いました、『あわれな息子のフランクは、自分の地上の悲しみの中で最も重い』と。
しばらくの間、私は父の小屋を離れ、怠惰で自堕落な生活を送りました。
私の良心は私の邪悪さゆえに私を責めましたが、家に戻るなどということはまったくありえないことだったのです。
私の身に降りかかったある事故がなければ。
私の故郷の村では、私は頑固な不敬虔者の代名詞でした。
しかしその時でさえ、私は人々が考えていたほどには気楽ではなかったのです。
実際は聖書に書かれている通りです、『悪人には平安がない、と私の神は言われる』
ある安息日のことです。
私の悪友たちとぶらついていたら、私の父がたびたび立ち寄る小屋の小さな庭に戻っていました。
道の脇にある西洋なしの木には、食欲をそそる実がたわわに実っていました。
そこで私たちはくじを引いて、誰が木に登って西洋なしを取ってくるか決めることにしました。
くじは私にあたりました。
私が木を上り終える前に、私の悪友の一人が恐れからか悪ふざけからか、『小屋の主が来るぞ』と叫びました。
私は驚いて足を踏み外し、木から落ちて、ももの骨を折ってしまいました。
私の悪友たちは私を見捨てて、一目散に逃げて行きました。
それからしばらくして、私の叫びを聞いて誰かが私を助けに来てくれました。
しかしあろうことか、私はその小屋の中に運び込まれ、一階の奥まった部屋のベッドの上に寝かされてしまったのです。
その時でした。
この痛ましい苦境の中、迎えにやった医者の到着を待ちつつ、私が父の声を聞いたのは。父はその午後、教会の神聖な礼拝に出た後、その小屋に立ち寄ったのです。
私の事故のことは何も知らず、私がその小屋にいるとは思いもよりません。
心優しい小屋の主は、この悪い知らせを急いで知らせるのはしのびなくて、私が横たわっていた小さな部屋の扉を半分閉めてくれました。
私は体も心も苦しみの中にありましたが、聞かれるのが怖くて、ため息やうめき声をもらさないようにしました。
父は食卓の上の聖書を開きました。
その小屋の主とその妻や娘は敬虔な人たちでした。
父は私が前に述べた文章を読みました、『見よ、種を蒔く者が種蒔きに出かけた』。
それから父は説教を短く説明しました。
父は言いました、『特に、私たちの尊い牧者は、彼の友人である、ある兄弟の聖職者の話を私たちにしてくれました。その人は福音の種を蒔く時、克服するのがとても困難な問題に出会いました。彼の教区の人々は彼に対してとても冷たく、彼が自分の教会に入るのを許さなかったのです。彼が講壇に上るには、警官が彼のために道をあける必要がありました。このような状況では、種を蒔いたところでどんな成果を期待できるでしょう?
平穏のうちに説教することを許された時には、二十人から三十人の聴衆しかいませんでした。彼の教会は六百人から七百人収容できたのにです。それでも彼は、天の父が人を増し加えて下さることを期待しながら蒔き続けました。とうとう冷たい敵対者の一人が好奇心から礼拝に出席しました。
その時、神は御言葉を力強いものにすることをよしとされたので、あざけりに来た者が――祈り続けたのです。それだけではありませんでした。このあざける者はその晩休もうとした時、とても恐ろしくなって自分のベッドから起き上がり、一緒に祈るために隣人を呼び起こしたのです。
この聖職者は神の人であり、神が彼と共におられる、という知らせがその近隣を駆け巡りました。今や群衆が彼の話を聞きに集まりました。そして信徒の数が大いに増えたので、ついに三年の終わりには教会を拡張することが必要になりました。その場所に群がる群衆を収容するにはまったく不十分だったからです。このように神は、この種蒔く者と彼が蒔き散らした種を祝福されたのです』。
父は周囲の人々に語り続けました、『
すべての人が種を蒔く者なのです。私たちはみな、良い種か悪い種を蒔いているのであり、その種は時間の中でそして永遠において実を結ぶのです。神はあわれみ深く、私たちがこれまで生活の中で蒔いてきた悪い種を赦して下さいます!私たちはみな種を蒔く者なのです。私のあわれな息子フランクも、今どこにいるにせよ、種を蒔く者なのです』。
ここで父は一息つきました。父がさらに話を続けようとは、私にはまったく思いもよりませんでした。父は口ごもっていましたが、次のように話し続けたのです。
『そうです。私のあわれな放蕩息子も種を蒔く者であり、彼の蒔いた種から多くの悲しい作物が生じました。第一に、彼は安息日を犯すという種を蒔きました。すると、それは
実を結んで多くの安息日を犯す者たちを生み出したのです。あわれな若者よ!この過ちを犯すつもりはなかったのかもしれないが、すべては自分のしでかしたことなのだ。そして、彼によって迷わされた安息日を犯す者たちはみな、自分の罪の責任を彼に負わせる権利があるのだ』。
私はすでに十分惨めな気持ちになっていましたが、この言葉は私にとって短剣のようでした。私は苦しみのためベッドの上で身もだえしました。しかし父は、自分の与えている苦しみについては何も知らずに話し続けました。
『フランクが蒔いた次の種は飲酒であり、これもまた実を結んだ。彼は酔っぱらいになり、他の酔っぱらいどもを生み出した。この酔っぱらいどもは恥ずかしく不面目なことに、彼より深く不法の中に陥ってしまった。あわれな若者よ!この過ちを犯すつもりはなかったのかもしれないが、すべては自分のしでかしたことなのだ。そして、この酔っぱらいどもはみな、自分の罪の責任を彼に負わせる権利があるのだ』。
再び私は剣が私の胸を貫いたように感じました。しかし、父はまだ話を終えることなく、話し続けたのです――
『フランクが蒔いた次の種は罵りの種であった。恐ろしいことに彼は神の聖なる御名を虚しく用い、そして恐るべきことに
彼の仲間たちはそれを真似したのである。今日この日でさえ、神の家からさして遠くない場所で、この悪党どもが途方もない誓いを立てるのを私は耳にした。ああ、あわれなフランク!これほど多くの過ちを犯すつもりはなかったのかもしれないが、お前はそれをしでかしたのであり、この向こう見ずな涜神者は自分の罪の責任をお前に負わせる権利があるのだ』。
『フランクが蒔いた次の種は不信仰の種であった。彼は「神はいない」と言う愚か者どもに加わり、他の人々を導いて自分の見本に従わせたからである。彼らはフランクさえいなければ、今日私が聞いた説教を聞いていたかもしれない。あわれなフランクはこの過ちを犯すつもりはなかったのかもしれないが、すべては自分のしでかしたことなのだ。そして、彼の見本が生み出した不信心者どもは、自分たちのけたたましい罪をすべて彼に負わせる権利があるのだ』。
父が話している間、父もまた種を蒔く者だ、と私は感じました。
自分でも知らないうちに、父は私の頭の上に燃える炭火を蒔き、私の胸に毒矢を蒔いていたのです。
私の罰は私には負いきれないものでした。
私は大声でむせび泣き、声を上げて泣きました。
父はあわれな放蕩息子のベッドの傍らですぐに祈ってくれました。
しばらくしてから、あの苦しみと大いなる悲しみのベッドは、私が耐え忍ぶべき懲らしめであったと感じるようになりました。
それは聖なる御手により、私にとって平和な義の実を結ばせる手段とされたのです。
私は罪を犯し、悲しみました。
私は不法を蒔き、刑罰を刈り取りました。
私は決して、父が私のことを罪人として描写した時に耐え忍んだ痛みを忘れません。
私は決して、『私の息子は死んでいたが生き返り、失われていたが見つかった』と父が言うのを聞いた時に感じた喜びを思うのをやめません」。
どうか主がこれを読むかもしれない悪の種を蒔く者に恵みを賜り、その人が神の召しを重んじて悔い改めますように!
(完)
オリーブ園クリスチャン古典ライブラリーより
「種蒔きと刈り取り」ロバート・ガボット Robert Govett