イエス・キリストの御名を賛美します

イエス・キリストの御名を賛美します

唯一の救い主である、イエス・キリストの愛を知ってほしい。
聖書の奥義を知ってほしい。
そして、選択して欲しい。

Amebaでブログを始めよう!

今夜も、ジョン・バニヤン「天路歴程」から紹介しよう。

Mr. By-Ends(私心者)という者とその仲間、Mr. HOLD-THE-WORLD(現世執着氏), Mr. MONEY-LOVE(愛銭氏), and Mr. SAVE-ALL(物惜氏)が主人公のChrstianとその仲間、Hopeful(有望者)に問答を投げかけた時の話である。


Mr. By-Ends(私心者)
例えば、一人の人が、牧師でも商人でも他の者でも、この世のよい祝福を得る機会を目前に持っているとする。・・・
Mr. MONEY-LOVE(愛銭氏)
かりに牧師がりっぱな人でありながらほんの少ししか俸給を受けていないとする。そして遥かにゆたかな俸給を望んでいて、今やそれを手に入れる機会はあるが、もっと勉強し、もっと数多く熱心に説教し、また人々の気質が要求する以上は、多少自分の主義を変えなければ手に入らないとする。
・・・
(彼が召命を受けているなら)そうやったって構わない。その理由は次の通りだ。
1.一層大きな俸給が神慮によって目前に置かれた以上、それを望むのは正当だ。良心のために疑問などおこさないでね。
2.のみならず、そういう俸給を欲する心から彼は一層勉強し、一層熱心な説教家になり、こうして一層よい人間になる。・・それは神の御心だ。
3.自分の主義を多少曲げて、その気質に従うことについて言えば、これは次のことを証明する。
 (1)彼に克己心があること。
 (2)優しくて人を引き付ける態度があること。
 (1)従って、聖職に一層適していること。
4.結論は、少ない俸給を大きな俸給と取り替える牧師は、そうしたからと言って欲張りだと判断してはならない。いや寧ろ、それによって才能と勤勉とを増進した以上、彼は自分の召命を励み、授けられた善を成す機会を追求する者として考えるべきである。

この答えは大体極めて穏健で好都合で、誰もそれには反対できないと思われたので、この問いを主人公のChrstianとその仲間、Hopeful(有望者)に問いかけた。主人公のChrstianは、次のように答えた。

Chrstian
宗教については赤ん坊のように幼稚な者でも、こんな問題なら1万でも答えることができましょう。
もし、パンのためにキリストに従うことが良くないとすれば(実際そのとおりですがヨハネ第6章)この世をもうけて享楽するためにキリストと宗教をだしに使うことは、なおさら言語道断のことではありませんか。このような意見を持つ者は、異教徒や偽善者や悪魔や魔女のひかには見当たらないのです。

1.異教徒と言ったのは、ハモルとシケムがヤコブの娘と家畜とに気があって、割礼を受けるより他には、それに至る道はないと見たとき、彼らはその仲間に言ったものです。「もし、我々のうち男子が皆彼らのように割礼を受けるならば、彼らの家畜も財産もすべての獣も我々の物となるではないか」と。その娘と家畜とは彼らが手に入れようと欲した者であり、宗教はそれに近づくために利用した「隠れ馬」でした。
その話をすっかりお読みなさい。(創世記34:20-23)

2.偽善的なパリサイ人もこの宗教を持っていました。長い祈祷は彼らの見せかけで、やもめの家に入り込むことがその目的でした。神から来る「もっと厳しい裁き」こそ彼らの受ける罰です(ルカ20:46-47)。

3.悪魔ユダもこの宗教を持っていました。
彼は財布の為に信心深かったのですが、それはその中にある物を手に入れるためでした。しかし彼は滅び、見捨てられました。まさに滅びの子です。

4.魔法使いシモンもこの宗教を持っていました。
彼は聖霊を得ようとしましたが、それで金儲けをするためでした。ペテロの口から下された宣告は適切でした(使途8:19-22)。

5.私の念頭を去らないことは、この世の為に宗教を取り上げるような者は、この世の為に宗教を捨てるということです。確かにユダは信心深くなった時、この世を捨てました。が、それと同じく確かに彼はこの世のために宗教と主とを売ったのです。

それ故に、その問題に肯定の答えを与えること、また、そのような答えを拠り所あるものとして承認することは、異教的であり、偽善的で、また悪魔的です。そして君たちの報いはその行い次第です。



以上


あなたは(私は)どれ程、Mr. By-Ends(私心者),Mr. HOLD-THE-WORLD(現世執着氏), Mr. MONEY-LOVE(愛銭氏), Mr. SAVE-ALL(物惜氏)なのだろう。
自分に都合が良くよさそうに見えるものを見つけては、それを言い訳にしてこの世と妥協を続ける限り、異教的であり、偽善的で、悪魔的なのだ。

主イエス・キリストが憐れんでくださいますように!


ジョン・バニヤン(1628-1688)
イギリスに生まれたバプテストの方でした。
この「天路歴程」は、1678年にイギリスで執筆されました。

この天路歴程から抜粋して紹介しています。
前回、熱心に歩いていた人が、急に堕落して後戻りをする理由について紹介しました。
今夜は、そのような人がどのような行動を起こすかを紹介します。


①彼ら(後戻りする人)は、その考えをできるだけ神と、死と、来るべき裁きとの記憶から引き離し(考えないようにし)ます。

②それから次第に自分の務め、例えば、密室の祈りや、情欲を抑えることや、夜を徹して祈ることや、罪を悲しむことなどを捨てていきます。

③次に、元気で熱心なクリスチャンとの交わりを避けます。

④その後、公の務め、たとえば、説教を聞くことや、聖書を読むことや、信仰的な集会に出ることなどに冷ややかになります。

⑤それから信仰の篤い人々のいわば粗探しをやり始めます。しかも非道なやり方で。それは彼らの中に見つけた欠点のために宗教を見捨てる、ていのいい口実を得るためです。

⑥次に、肉欲的な不身持で淫奔な人々と関係して交際を始めます。

⑦それから密かに肉欲的なみだらな話をするようになり、真直ぐな人だと考えられている人にそのような点を発見すると喜びます。それを手本としていよいよ大胆に行うためです。

⑧こうした後、彼らは公然と小さな罪を犯すようになります。

⑨それから彼らは頑なになって本性を現します。こうして再び不幸の淵に乗り出すと、恩寵の奇蹟がそれをとめない限り、彼らは自分の裏切りによって永遠に滅び失せるのです。

どうか、主が憐れんでくださいますように!

ジョン・バニヤン(1628-1688)
イギリスに生まれたバプテストの方でした。
この「天路歴程」は、1678年にイギリスで執筆されました。

この天路歴程から抜粋して紹介します。
熱心に歩いていた人が、急に堕落して後戻りをする理由について書かれていました。

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①このような人々は、良心は目覚めたのですが、心は変わっていないのです。
だから罪を感じる力が衰えると、彼らを刺激して宗教的にさせていたものがとまってしまいます。
そのため自然と元の生活に戻るのです。
それはちょうど食べた物で胸がむかむかする犬は、そのむかつきのある間は、すっかり吐き出してしまいますが、それは自由な心でするのではなく、胃の腑が苦しいからなのです。
ところが胃の腑が楽になると、もともと吐いた物から欲が全く遠ざかっているのわけではないので、あと戻りしてすっかりなめてしまいます。そこで「犬は自分の吐いた物に帰る(IIペテロ2:22)」と書いてあるのは本当です。
こうして地獄の責め苦の念と恐怖だけで天国に熱心なものだから、地獄の念と劫罰(「ごうばつ」膨大な長い時間にわたり受ける罰。永劫にわたる罰・責め苦)の恐怖がさめて冷えると同様、天国と救いとに対する願望も、また冷えるのです。
そこで次のようなことが起こります。すなわち、彼らの罪悪感と恐怖が去ると、天国と幸福に対する願望が無くなって、再び元の生活に帰っていくのです。

②今ひとつの理由は、彼らは奴隷根性の恐れを持っていて、それが彼らを支配していると言う事です。
それはつまり人に対して持っている恐れのことです。「人を恐れると、罠に陥る(進言29:25)」です。
そこで、地獄の火焔が耳に響いている間は天国に熱心であるように見えますが、その恐怖が少なくなると、彼らは考え出します。すなわち、(何かわけの分からぬ物の為に)すべてを失ったり、あるいは少なくとも避けられぬ不必要な面倒に陥る危険を冒さないで、履行に立ち回るが良いと考えて、再び世俗の人々と調子を合わせるのです。

③宗教に伴う恥辱もまた躓きの石として彼らの道を阻みます。
彼らは高慢で不遜であり、彼らの目からすると、宗教は低級で軽蔑すべきものです。
だから、彼らが地獄と来たらんとする怒りとの観念を失ってしまうと、再び元の生活に戻るのです。

④罪を自覚することや恐ろしいことを考えることは彼らには苦痛なのです。
彼らは不幸な状態に陥らぬ前にそれを見ることを好みません。
もっとも、おそらく不幸を最初に見たら、義人が逃れて安全であるところへ彼らも逃れるかもしれません。
しかし、彼らは罪悪と恐怖を考えることを避ける為、ひとたび神の恐ろしいことや怒りについての覚醒がなくなると、彼らは喜んで心を頑なにします。

次回は、このような人がどのような行動を取るのかを紹介します。
お久しぶりです。
記事を書くのを飽きたとか、イエス様から離れたということではなく、ブログを書くために御言葉を研究し始めていることに気がつき、暫く離れました。

今日は神様の愛と奇しい御業に大泣きしてしまった証しの記事を紹介します。知っている方も多いと思います。

伝道小説 『慰め(なぐさめ)』

The grave of the Load Jesus be with you.


こんばんは、兄弟姉妹のみなさん

少し間が空いてしまいました。
今日は、ウオッチマン・ニーが、1925年から1927年にかけて執筆された「霊の人」から紹介します。
どうか主が私たちの霊の目を開いてくださいますよう。恵みと祝福を与えてくださいますようにお祈りします。
ちなみに文中の「肉」という部分を「自己」と読み替えていただいてもよろしいかと思います。




霊の人 第1巻 第2部 3章十字架と聖霊から
「十字架の救い」


ガラテヤ人への手紙第5章で使徒は、肉の多くの項目について語ったあと、続けました。

5:24 「しかし、キリスト・イエスのものである人たちは、肉をその情と欲と共に十字架につけてしまったのです」。
これが救いの道です。

信者が注意を払うことと、神が注意を払うこととは非常に異なります。
信者は、「肉の働き」、肉の働きのひとつひとつの項目に関心があります。


ガラテヤ人への手紙 5:19-21
5:19 肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、
5:20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、
5:21 ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。


彼らは個々の罪に注意を払っています。
すなわち、今日の怒り、明日のねたみ、次の日の争いなどです。
彼らの悲しむもの、打ち勝つことを望むものは、ある特定の罪です。
しかし、これらは同じ木から生み出される実です。

あなたは一つの実を取るかもしれません。
しかし、一つしかないわけではありません。
神が注意を払われるのは、「肉」(24節)であって、肉の働きではありません。

もし木が死んでいるなら、わたしたちはまだ実を結ぶことを恐れますか?

信者はいつも違反(実)を対処しようとして、肉(根)を対処することを忘れています
ですから一つの違反を対処するまでに、また別の違反を犯すことが避けられません。
私たちは罪の根を対処する必要があります。

キリストにある幼子は、まだ肉のものですから、更に深い十字架の意味を知るべきです。

神の働きは、信者の古い人をキリストと共に十字架につけることであり、キリストの者である人たちは「肉をその情と欲と共に十字架につけられてしまった」のです。
どのような肉であれ、肉の欲がどのように強くても、それらは共に十字架につけられています。
過去において、この十字架を通して罪人は再生され、彼らは主によって罪から贖われたことを知りました。
今また、肉に属する赤子のようなクリスチャン(たとえ再生されて何年経過していても)は、この十字架を通して肉から救われ、肉の支配から解放され、もはや肉によって歩まず、聖霊によって歩むことができるようになります。
こうしてまもなく彼は霊的な人になります。

このように人の堕落は十字架の働きとは対象的です。

十字架の働きによって与えられた救いは、まさに堕落した人のための治療です。
一つは病気、もう一つは治療であって、これは符号するものです。
一面、救い主は罪人のため十字架上で死に、罪人を罪から贖われたので、聖なる神は公に人を赦すことができます。
もう一面では、十字架の上で救い主は罪人と共に死なれたので、罪人はもはや肉によって支配されることはありません。
むしろ彼の霊は新しい権威を持ち、体は外面でしもべとなり、また魂は二つの間に存在します。
こうして霊と魂と体という元来の秩序が回復されます。

この節で死が述べられていることを、わたしたちがまず理解しなければ、救いを受けることができないでしょう。
どうか聖霊がわたしたちに啓示してくださいますように。

「しかし、キリスト・イエスのものである人たち」ちは、主イエスを信じるすべての者をさしています。

すべて主を信じた者、再生されたものは、主に属するのです。
この人の霊性がどうであれ、その働きがどうであれ、罪から解放されていてもいなくても、すべて問題ではありません。

ここでは、この人が命の中でキリストに結合されているかどうかです。
言い換えると、再生されたでしょうか?
主イエスを救い主と信じたでしょうか?
もし信じたなら、その人の現在の霊的状態がどうであれ、勝利であっても敗北であっても、この人は十字架上で「肉を十字架につけてしまった」のです。

それは倫理的であるか、あるいは霊的であるかではありません。
知識があるか、働きがあるかではありません。
ただキリストに属する者であるかどうかの事柄です。
もしキリストに属するなら、その人は十字架の上で「肉を十字架につけてしまった」のです。
十字架につけつつあるのではありません、またこれから十字架につけるのでもありません
そうではなく、彼はすでに十字架につけてしまったのです。

わたしたちは焦点をはっきりさせなければなりません。
この節は経験の事柄を語っているのではありません。
あなたの経験がどうであるかではなく、神の事実を述べているのです。
強くても弱くても、「キリスト・イエスのものである人たち」は、「肉をその情と欲と共に十字架につけてしまった」のです。
あなたはなお罪を犯している、というかもしれません。
しかし、あなたはすでに十字架につけてしまった、と神は言われるのです。
あなたは、自分の欲は強いといいます。けれども神は、あなたの肉はすでに十字架につけてしまったといわれます。

どうか今は、あなたの経験に注意しないでください。

まずあなたに対する神の語りかけに注意を払ってください。
もし神の言葉に耳を傾けず、神の言葉を信じないで、ただ毎日あなた自身の経験を見ているだけなら、あなたは決して肉が十字架につけられた経験を持つことはありません。

あなたの感情や経験を見ているだけなら、あなたは決して肉が十字架につけられた経験をもつことはありません。

あなたの感情や経験に注意を払ってはなりません。

神があなたの肉を十字架につけてしまったといわれるのですから、肉は本当に十字架につけられているのです。
わたしたちはまず神の言葉に耳を傾け、神の言葉を信じなければなりません。

そうすれば経験があるでしょう。

神にあなたに、「あなたの肉はすでに十字架につけてしまった」と言われました。
あなたは「アーメン!そうです、わたしの肉は十字架の上につけられています」と答える必要があります。

このようにすれば、あなたは自分の肉が本当に十字架につけられていることを見るでしょう。
コリントの信者は姦淫を犯し、ねたみ、争い、分裂、訴訟、そのほか多くの罪を犯しました。彼らは肉的でした。

けれども彼らは「キリストにある幼子」でしたから、やはりキリストのものでした。
このような信者でさえ、彼らの肉は本当にすでに十字架につけられているのでしょうか?
そうです、これらの肉的なコリントの信者でさえ、十字架につけられているのです。

どうしてでしょう。

わたしたちは認識しなければなりませんが、聖書は、わたしたちがわたしたちを十字架につけるようにとは言いません。
むしろ聖書は、わたしたちは十字架につけられた者である、と言っているのです。

なぜなら、わたしたちが自分自身で十字架につけるのでなく、わたしたちは主イエス・キリストと共に十字架につけられているからです(ガラテヤ2:20、ローマ6:6)。
わたしたちはキリストが十字架につけられたときに、キリストと共に十字架につけられているので、わたしたちの肉も共に十字架につけられているのです。

またわたしたちが十字架につけられたのは、自分自身で十字架につけたのではなく、主イエスが十字架につけられた時に、わたしたちを共に十字架につけてくださったのです。

ですから、神の目に、わたしたちの肉は「十字架につけられてしまった」のです。
この事は、神の目にはすでに行われたこと、達成されたことであり、すでに事実となっているのです。

こういうわけで、人々に経験があってもなくても、神の言葉は言います。
「キリスト・イエスのものである人たちは、肉を・・・十字架につけてしまった」。

もしわたしたちが肉を十字架につける経験を持ちたいなら、わたしたちは経験に注意を払う必要はありません。
もちろん、経験は悪くありません。
しかし経験にあまり地位を与えすぎてはなりません。
神の言葉を信じる必要があります。

「神は、わたしの肉はすでに十字架につけられていると言われました。わたしは本当に、わたしの肉が十字架につけられていることを信じます」。

「神は、わたしの肉はすでに十字架につけられていると言われました。この神の言葉が真実であることを、わたしは告白します」。

このようにすれば経験するでしょう。

わたしたちはまず神の事実に注意を払い、それから人の経験に注意を払うのです。
神の目に、このコリント人の肉は、十字架上で主イエスと共に十字架につけられてしまいました。
けれども彼らには経験がありませんでした。
それは彼らが神の「事実」を認識しなかったからです。

ですから、わたしたちが救いを受ける第1歩は、神の見方で肉を対処することです。

これから肉を十字架につける(未来)のではく、既に肉は十字架につけられている(過去)のです。
このことは、わたしたちが見ていることによらず、わたしたちが信じている神の言葉によって言うことができます。

もしわたしたちが「肉を十字架につけてしまった」というこの点にしっかり立つなら、わたしたちは経験的に肉を対処することに進むことができます。

わたしたちがすべての霊的成長に注意を払わず、この事実にしっかり立つのでなければ、どれほど肉が十字架につけられていると言い聞かせても、真の経験を持つ可能性はありません。

経験を持ちたい人は、まず自分の経験に注意を払うのではなく、ただ神の言葉を信じるべきです。
そうすれば経験することが出来ます。

以上


聖書を正確に読むならば、主イエスが十字架で達成されたことの意味を沢山見ることができるでしょう。
そして、現在が恐ろしく恵まれていることがわかるでしょう。
人が自己を誇ることのないように一方的に与えられた恵みの賜物。
それを受け取るための条件は・・・


信じること


そこには、計り知れない祝福が詰まっています。


震災被害にあわれた方々で未だに苦しまれている方に、主の恵みと祝福が大いに与えられますようにお祈りします。





こんばんは、兄弟姉妹のみなさん

ハレルヤ!主の御名を賛美します。

今日は、ある兄弟がウオッチマンニー全集からまとめられた「恵み」について紹介します。

肩の荷がスッと軽くなったような気がします。


「恵みを考察する」

 人の生まれつきの考えは、サタン的、律法的考えで、恵みが理解出来ません。この為に多くの間違った考えがサタンによって惑わされています。人は恵みについて正確に知る必要があります。

1.恵みに対する様々な疑問

・恵みとは人が当然得るべきものを与えるものなのか?
・恵みとは人の欠けた点を補うものなのか?
・恵みは人が得るに価しないなら与えないのか?
・人は恵みを受けるなら、負い目を感じる必要があるか?
・恵みとは人の罪をそのまま赦す事なのか?
・神は人が良い行いをしなければ救いを与えないのか?
・人は出来る限り、良い行いをして、残りが恵みなのか?
・恵みは人が全く良い行いがない時、救わない事が出来るか?
・神は愛、哀れみ、恵みによって、そのまま罪を許す事が出来るか?


2.恵みについて明確化させる

人は生まれつきの心に恵みが全くありません。ですから、神の恵みが全く分かりません。恵みはただ信仰によって得る以外に方法がありません。

ローマ4:4
働く者の場合に、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものと見なされます。5 何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めて下さる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。
 
恵みとは、人が当然得るものを与える事ではありません。人が得るべきでないものを得る事が恵みなのです。もし人が何らかの価値を持ち、これを行った、私はこうだから、得る理由があり、神の恵みを得たと言うなら、それは恵みの意義を打ち消したのです

私は断食をしたので、癒しを受けた、油注ぎを受けた、神の霊的体験をしたなどと言いますが、恵みを打ち壊す、無知の発言です。

私は40日の断食、20日の断食を何日も行ったから、霊的体験をしたと言うなら、神の恵みを無にしてしまっただけで、偽りに過ぎません。これは働きに対する報酬で、恵みではありません。この考えは肉、生まれつきの考え、そしてサタンの偽りです。恵みが恵みであるのは、功績の成分が全くないからです。私たちに全く価値も行いもなく、ただ神にだけ価値があるものが恵みです。恵みは人を全くの無価値、最もへりくだらせます。

エペソ2:8
あなた方は、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出た事ではなく、神からの賜物です。9 行ないによるのではありません。誰も誇る事のない為です
 
救われるに全く相応しくないのに救われるのが恵みなのです。何かの行いを付け加えるのは、自分を誇る為であり、その考えの発案者はサタンです。なぜなら、サタンは全て神の恵みによって宇宙一の知恵と美を与えられたのに、それを自分の誇りとして、高ぶり、堕落、反逆したからです。

何日断食したから…何を得たと言う考えはサタンが吹き込んだ自分を誇る考えに過ぎません。恵みを知らない、理解していないからです。霊的赤ちゃんの考えに過ぎません。さらに、行いによって何かを得たのなら、サタンのものかも知れません。大変危険極まりないものです。

ローマ3:24
ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。
 
ここにも価なしと書かれています。


<質問>この価なしとはどのような意味なのでしょうか?

この価なしと言う言葉が聖書の他の箇所ではどのように使われているのかを調べてみましょう。

ヨハネ15:25
これは、『彼らは理由なしに私を憎んだ。』と彼らの律法に書かれている言葉が成就するためです。
 
ここで使われている「理由なし」と同じ言葉が、「価なし」なのです。つまり、恵みとは価なし、理由なしに与える事です。理由をつけ、価を付け加えるなら、それは恵みではなくなります。報酬となります。


<恵みとは>

恵みとは、理由なしに与える事、価なしに与える事、何の働きもない者に与える事、価値のない者に与える事を意味している事が分かります。

ですから、神の恵みが人を義とするとは、神が理由なしに人を義とする事です。相応しくないのに義とされたのです。価がないのに義とされたのです。

私は約35年くらい前に、このニー兄の本を読み、「私は神の義」と発言し続けて来ました。しかし、日本中のクリスチャンたちから攻撃され、高ぶっている、傲慢だ、己を義としているなどと批判され続けて来ました。

しかし、これこそが本物の謙遜なのです。なぜなら、誇りが全くないからです。何しろ価値が全くなく価が全くなく理由も全くなく相応しくないのに、私はキリストに在る神の義とされたからです。つまり私だけが御言葉の真理に立ち、他の批判する人たちは肉の考えに立っているのです。無知のゆえに攻撃するのです。



3.恵みは、人を全員同じ位置に置いた

なぜ神は価なしに義とされ、価値なしに恵みを与え、理由も無いのに与え、相応しくない者に与えたのでしょうか?

ガラテヤ3:22
しかし聖書は、逆に、全ての人を罪の下に閉じ込めました。それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人々に与えられる為です

ローマ11:32
なぜなら、神は、全ての人を哀れもうとして、全ての人を不従順の内に閉じ込められたからです。33 ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深い事でしょう。その裁きは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたい事でしょう。34 なぜなら、誰が主の御心を知ったのですか。また、誰が主のご計画に預かったのですか。
 
神は全ての人を罪の下に閉じ込められました。神は全ての人を不従順の内に閉じ込められました。 つまり神は全世界の人々を同等の位置、罪人の位置に置かれました。それは誰一人として、行い、善行、何かの働きによって救われる事が出来なくしてしまったからなのです。

さらにその理由は、人に誇りを持たせない為である事が分かります。その誇りこそが、アダムが支配下に落ちた、サタンの汚れた性質に他ならないからなのです。「私が祈ったから癒された」は傲慢の極みで、サタンの考えです。私が…したから…になった、は私に価値がある、自我自賛なのです。

私がカウンセラーしたから、この人は心の傷が癒されたとはサタンの手下になったと言っているのです。私がこの教会を建てたも、自己の誇り、このような誇りこそ生まれつきのアダムの罪とサタンの支配下のもの、サタンの手下の考えです。

ですから、もし、人が恵みから逸脱し、何かの行いによって価値を持ち、神から何かを得ようとするなら、人は必ず誇りを持ち、サタンと同じく堕落した者となります。これがサタンの策略です

しかし、信仰生活が進み、王国の福音の中においては、行いの報酬として、王国が与えられる事になります。しかし、この王国の福音では、魂を憎む事が条件となっていて、人の誇りがなくなるようにされております。
このような理由によって、人は恵みによらなければ救われないのです。


4.恵みを本当に知れ

もう一度恵みを明確化させます。

神は全ての人を罪の下に閉じ込められました。神は全ての人を不従順の内に閉じ込められました。つまり神は全世界の人々を同等の位置、罪人の位置に置かれました。それは誰一人として、行い、善行、何かの働きによって救われる事が出来なくしてしまったからなのです
 神の恵みが人を義とするとは、神が理由なしに人を義とする事です。相応しくないのに義とされたのです。価がないのに義とされたのです。

エペソ2:8
あなた方は、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出た事ではなく、神からの賜物です。9 行ないによるのではありません。誰も誇る事のないためです。

ガラテヤ3:22
しかし聖書は、逆に、全ての人を罪の下に閉じ込めました。それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人々に与えられる為です。

ローマ3:27
それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行ないの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。28 人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。


5.恵みは人の欠けを補うものでない
 
人々の祈りを聞いていると、失敗をしたもの、自分の弱点についてのみ、神の哀れみを請い求め、恵みに頼ろうとしています。そして、自分が行えている点については恵みを認識しておりません。つまり人は良い行いを行い、その欠けた点についてだけ恵みを受けようとしているのです。

エペソ2:8
あなた方は、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出た事ではなく、神からの賜物です。9 行ないによるのではありません。誰も誇ることのないためです。

ローマ3:27
それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行ないの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。28 人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。

私たちを行いの道ではなく、信仰の道を歩ませるのは、行いによる誇り、つまりサタンの性質を取り除く為です。人が無意識にせよ、行いにもし頼るなら、人はサタンと共に誇りの中に堕落してしまいます。

生まれ変わりをしたクリスチャンには全く良い行い、善行が出来ません。それは大変素晴らしい事だと私は信じております。なぜなら、私は全く誇る事が出来ないからです。未信者の時には、善行が出来ていると錯覚し、自分の誇りを持っていました。しかし、クリスチャンになってからは、何の善行も出来なくなり、誇りも共に無くなってしまいました。ハレルヤ!

行いが無くありません。御霊の実、つまり聖霊様の導きにただ聞き従う時にだけ、聖霊様の実が現れて来ます。それは肉の実ではないので、自分の誇りとはなりません。私がやったとは決して言えません。聖霊様です。

人がもし、3割でも行いが出来るのなら、3割は誇ります。それがもし、1割の行いがあっても、1割は誇りです。神はいかなる誇りをも赦される事はありません。神は人に栄光を与えはしません。神は少しの栄光をも人には与えません。ですから、ただ人は恵みによって神のものを得る事が出来ます。


6.恵みの私たちの状態

ローマ4:4
働く者の場合に、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものと見なされます。5 何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めて下さる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです
 
恵みとは何の働きもない者が受けるものです。ですから、人が多く祈ったから何かを得る事はありません。祈りが少ないからと言って神の恵みが少ない事もありません。奉仕を多くしたからと言って、多くの恵みを受ける事もなく、奉仕が少ないからと言って、恵みが少なくもありません。

これ程学んでも、まだ恵みについて全く分からないと思います。恵みの性質が生まれつきの肉の人にはありません。私たちが恵みを知るのは、ただ御言葉への信仰によって知る事が出来るだけです。

恵みは相応しいかどうかに無関係です。人が何かを神から得るには相応しいかどうかなど一切ありません。相応しいかどうかは恵みとは無関係です。恵みとは相応しくない者に恵みを与えるものなのです。

ほとんど多くの人たちは絶対的に恵みを知ろうとせず、理解しようともしません。全力を尽くして行い、自分を相応しい者へと駆り立てます。これは恵みを全く知らないからです。人は全力を尽くし、足りない点だけを恵みを受けようとします。ですから恵みを受ける信仰となりません


7.富んでいる青年

マタイ19:16
すると、一人の人がイエスの許に来て言った。「先生。永遠の命を得る為には、どんな良い事をしたら良いのでしょうか。」17 イエスは彼に言われた。「なぜ、良い事について、私に尋ねるのですか。良い方は、一人だけです。もし、命に入りたいと思うなら、戒めを守りなさい。」18 彼は「どの戒めですか。」と言った。そこで、イエスは言われた。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証をしてはならない。19 父と母を敬え。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」20 この青年はイエスに言った。「そのような事はみな、守っております。

この青年は行いによる誇りを持ち、サタンの性質のままに見捨てられました。

何がまだ欠けているのでしょうか。」21 イエスは、彼に言われた。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積む事になります。その上で、私について来なさい。」22 所が、青年はこの言葉を聞くと、悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである。23 それから、イエスは弟子たちに言われた。「真に、あなた方に告げます。金持ちが天の御国に入るのは難しい事です。24 真に、あなた方にもう一度、告げます。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっと易しい。」25 弟子たちは、これを聞くと、たいへん驚いて言った。「それでは、誰が救われる事ができるのでしょう。」26 イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人には出来ない事です。しかし、神にはどんな事でも出来ます。」

この青年は行いの道によって、救いと永遠の命を得ようとしました。それは誰にも出来ません。出来ない事をこの青年は知りませんでした。この青年は行いの道を歩き、自分のプライドが高くなってしまいました。行いを誇っています。ですから、主はさらに高い要求を与え、出来ないチャンスを与えました。しかし、救い主が目の前にいても救いを得る事が出来ませんでした。

今日、日本の多くのクリスチャンが神の義を得てはいません。この青年と全く同じ考え、自分の行いに固守し続けています。行いによって義を得ようとしています

私は神の御前にへりくだりました。私は善が全くありません、善行は全く出来ません。ただイエス様の贖いのゆえに、私はキリストに在る神の義を信じます。私は神の義を告白し続けてきました。それは私の行いが無い道、恵みの道によって受け取りました。私の誇りは全くなくなりました。

多くの人たちは自分の行いを見て、私は罪人、罪深い者と言い続けます。それは恵みが全く分からない、この青年の道と同じです

この青年は行いが全く出来ない事に気づくべきでした。救い主、主イエス様を信じるべきでした。しかし、主イエス様を拒否し、自分の行いの誇りの道を歩み続けました。日本中のクリスチャンも同じ道を歩んでいます。

私たちは主イエス様が道であり、真理であり、命である事を知り、信じなければなりません。私は主イエス様に私の道となっていただきました。行いの道を捨ててしまい、主イエス様の道を私の道として、恵みに頼りました。それがキリストに在る神の義なのです。

人が恵みに頼るとは、プライドを全て捨て去る事です。恵みは誇りを持てなくしてしまいます。人はサタンと同じく、自分の誇りを持ちたいのです。ですから恵みの道が分かりません。行いの道にいる人には、盲目になり、恵みの道が見えません。この青年には恵みの道、主イエス様が道である事が見えませんでした。もし私たちが神の義である事が分からないなら、主イエス様が救い主とはなっておりません。恵みが分かっていません。自分の誇りを保ち続けております。この青年と同じ位置にいます。

サタンは神の恵みを阻止する事を願っており、人に偽りによって恵みから逸らそうとして攻撃してきます。


8.人の力

人が得るべきでないからこそ与えられるものが恵みです。人は自分に価値なく、行いも無くても、ただへりくだって得るのが恵みです。それは乞食の心になる事で、自分の価値を主張しなくなり、ただ受ける者となる事です

しかし、人に自分の力があると思うなら、恵みに頼ろうとはしません。今日、日本中のクリスチャンが恵みによるのでなく、自分の生まれつきの肉によって歩もうとするのは、肉の力があると思うからです

もし恵みによって歩むのなら、人は自分を頼りにならない罪人である事を認め、自分が価値なく、行いのない者と認め、ただ神の恵みだけに頼る者とならなければなりません。しかし、ほとんど全ての人は恵みを嫌がります。恵みは人を最もへりくだらせるからです。乞食の心のように人を無価値な、何の値打ちもない者にしてしまいます。つまり恵みは人を最も最悪の人にしてしまうのです。人がもし自分が神の御前で何も役に立たない者であると認めるなら、恵みに頼ろうとします。つまりへりくだる者にだけ恵みは増し加わるのです。


9.救われた後の恵み

人は救われる時には何の価値も行いもなく、全面的に恵みだけによって救いを受けます。しかし、救われた後には行いに変わってしまいます。その時点から神の恵みを受けられなくなってしまいます。サタンの偽りに騙されたのです。私たちは救われた時は神の恵みであり、神の恵みによって負債者になるのではありません。救ってあげたのだから、自分に頼り良い行いをしなさいと考えてはなりません。

人は救われた後には良い行いがあるべきです。しかし、その行いは、動機が主の愛によるものであり、良い行いの動力は聖霊様の力によるものです。決して自分の肉による行いではありません。

多くの人たちは間違えて、救われたのだから立派に振舞うべきだと思って、自分の肉による善行をしようとしています。この考えも肉の考えで、律法の考えです。

私たちは、神が私たちを救って下さった債務を返す為に良い行いをするのではありません。救われた事を守り続ける為に良い行いをするのでもありません。

私たちが良い行いをするのは、ただ神を愛する事であり、神を愛する為に仕え続けるのです。ここからサタンに惑わされてはなりません。
 

10.恵みは罪を赦さない

恵みとは人の罪を赦すものと考えてはなりません。神は寛大さのゆえに人の罪を赦しはしません。それは肉の考えです。

ローマ5:21
それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠の命を得させる為なのです。
 
神は人の罪をただ理由なしに赦す事はされません。価値のない者の罪を直接赦す事もしません。恵みとは神の度量が大きい事ではありません。恵みは神が罪に対していい加減になる事でもありません。

罪に対して死刑の刑罰を実行されました。これが神の義によって支配する事です。神は義であられるので、罪の刑罰の死刑を実行する事によって合法的に罪の刑罰を執行され、人を無罪とされました。その事によって人に義を与えられました。つまり、神は義によって支配され、恵みを受けさせるのです。

最後に、良い行いは聖霊様によって既に与えられた愛の行い、永遠の命、神の命、キリストの命の良い行いなのです。

人が間違えるのは、全て人の生まれつきの考え、肉によって神のものを考える事から生じます。牧師はけっこう偽りを平気で知らずに教えています。

人の生まれつきの考えを退け、御言葉の言う事を聖霊様に教えられるなら、それを受け入れる事によって真理を知る事が出来ます。聖霊様は真理の御霊であられ、全ての真理を教えられます。


(完)



こんばんは、兄弟姉妹のみなさん。


今日、紹介するのは、1800年代の人ロバート・ガボット(Robert Govett)です。
ご紹介するまでもなく有名な方らしいのですが、わたしは最近知りました。

全文紹介したいのですが、2次利用の利用に制限があるので、一部を紹介します。
是非、知っておきたい原則です。
http://www.geocities.jp/ogcclib/msg31.html


題名にもあるように以下の聖句が主題になります。

「欺かれてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人が蒔くものは何であれ、それを刈り取ることになります。(自分の)肉に蒔く者は肉から腐敗を刈り取り、霊に蒔く者は霊から永遠に続く命を刈り取ります」(ガラテヤ6:7、8)。

畑に種を蒔いて、秋に刈り入れることは霊の世界でも成り立っていると説明しています。
誰もが、種を蒔く人であり、各々は自分が蒔いたように刈り取らなければならない。

大切なのは、誰が蒔くかではなく、何を蒔くかです。
なぜなら、良い種を蒔く人も、悪い種を蒔く人も、それぞれにふさわしい報いを受けるからです。

それゆえ、すべての人が答えるべき二つの重大な問いといして、以下点を注意すべきだとしています。
1.あなたはどのような種を蒔いているだろうか?
2.あなたはどのような土地に種を蒔いているだろうか?



実に多くの人が悪を行うよう誘われるのは、その報いの到来にあまりにも長い時間がかかるため、報いが訪れることは決してないと安心してしまうという言葉は、喉元過ぎれば熱さを忘れる人には忍耐することができません。

以下の聖句の警告をしっかりと、握り締めるべきです。
「あなたのかたくなな、悔い改めない心のゆえに、あなたは神の義なる裁きが現れる怒りの日のために神の怒りを、自分の身に積んでいるのです。神はすべての人にその行いにしたがって報われます。忍耐強く善を行い続け、栄光と誉れと不朽とを求める人には、永遠の命が与えられます。しかし、争い好きで真理に従わず不義に従う人には、憤りと怒りが与えられます。悪を行うすべての人には、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、艱難と苦悩が与えられ、善を行うすべての人には、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。なぜなら、神は人を偏り見ることがないからです」(ローマ2:5-11)。


あわれみの時代が長引いているのは、いと高き方が打つことではなく惜しむことを願っておられるからでです。彼は親切にも人を(可能なものなら)悔い改めに導いておられるのです。

(まとめ)
もし私たちが地の種を蒔くなら、私たちの刈り取りは災い。
もし私たちが天の種を蒔くなら、私たちの作物は喜び(主の喜びである)永遠の栄光。

それゆえ、「あなたはどのような種を蒔いているだろうか?」という問いほど、私たちにとって身近で重要な問いはない。


次に、どのような土地に蒔くのかです。

農業では、多くのことが土地にかかっている。
霊の世界では、2種類の畑があることを、聖霊は私たちに教えています。

1.肉(人の知識・情・意思)の土地に蒔く

肉の土地に蒔いても、実を結びます。
その一時的な結果は「金」であり、「金」で買える快楽や所有物になります。

蒔いた人の魂の中に与えられる霊的結果は、世の快楽が大いに増し加わり、時間と肉をさらに求める欲が大いに増し加わります。

しかし、来るべき日にはどんな結果があるのでしょうか?

「自分の肉に蒔く者は、肉から腐敗を刈り取ります」

私たちはこれをどう理解するべきかについては、本文をお読みください。


「もしあなたたちが肉にしたがって生きるなら、あなたたちは死ぬからです(死なんとしているからです)。しかしあなたたちが御霊を通して肉の行いを死に渡すなら、あなたたちは生きます」(ローマ8:13)。

これはどのような死でしょうか?
大勢の聖徒が経験する今日の死ではなく、キリストが現れる時に受ける将来の死です。

この世の諺が実について「早く実るものは早く腐る」と述べているように、肉から刈り取ることも同じだと説明しています。
その楽しみはすべて今だけであり――来るべき日におけるその実は腐敗です。

2.霊の土地に蒔く

では霊に蒔くとは何でしょうか?

「あなたたち(クリスチャン)が宴会を催すときは、貧しい人、障害者、足なえ、盲人を招きなさい。そうするならあなたたちは幸いです。なぜなら彼らはあなたたちにお返しをすることができないからです。あなたたちは義人の復活の時、お返しを受けます」(ルカ14:13、14)

「あなたの敵を愛しなさい。敵に善を行い、見返りを期待せず貸してあげなさい。そうするなら、あなたの報いは素晴らしく、あなたはいと高き方の子たちとなる」(ルカ6:35)。

「あなたが施しをする時は、あなたの右手がしていることを左手に知らせてはいけない。それはあなたの施しが隠れているためです。そうするなら、隠れて見ておられるあなたの御父はあなたに公に報いて下さいます」(マタイ6:3、4)

「見よ、私はすぐに来る。私の報いは私と共にあり、各々にその働きにしたがって与える」(黙示録22:12)。

イエスの出現の時、この良い土から生じる作物は「永続する命」です。
なぜなら、この幸いな種蒔きの直接的結果は、来るべき時代と第一の復活または死者からの復活に「ふさわしいと勘定される」ことです。

「彼らは永遠に支配する」。
この真理はあまりにも強力で心を探るため、拒否される大きな危険性があるとして、特に注意深く説明しています。言葉だけを自分の良いように解釈するのは危険です。必ず、本文を読んでください。


真理に対する、ありがちな以下の回答を良く言葉にしているなら関心を示して欲しい。

「そんなことは正しくない。なぜなら、神の民の選びは永遠の救いへと至るからである」

「しかし、あなたは律法の原則を取り入れている。福音は恵みであり、完全に恵みである。真のクリスチャンとは神の賜物の上に立つ人のことであり、四方を特権で囲まれているのである。彼は神の御子の肢体であり、御父と共にある息子であり、罪の赦しと内住する霊を持っている。私たちの大祭司であるイエスは、私たちの多くの失敗にもかかわらず、高き所で、御父の御座の前で、大いなる告発者に対抗して、私たちを擁護して下さるのである」

「しかし、神が恵みを賜らなかったら、あわれな私たちはどうやって立つことができるでしょう?もし主が私に祈る力や、有害なものを差し控える恵み与えて下さらなかったら、どのように私はそれを行うことができるでしょう?」

すべての警告は選ばれていない者、この世の罪人にのみ向けられている、とあなたは思うかもしれない。あなたは神の愛する息子なので、それらの警告があなたに触れることはない、というわけだ。
これは昔ながらの欺きである――「身を投げ下ろしてみなさい。なぜなら、『彼はあなたのために御使いたちに命じられる』と書き記されているからです」

「しかし、良い働きに報いがあるだけでなく、悪い働きにも報いがあるなんて言いませんよね!」



問題は「誰が蒔くか?」ではなく、「何を蒔くか?」です

乞食が麦を蒔くなら、麦を報いとして受ける。
これはあなたを教えるための神の視覚教材です。
これがこの世で起きるのと同じように、来るべき日にも起きるでしょう。

何度も何度も、旧約と新約の両方でこの原則は確認されています。
そしてまた、イエスは「義なる裁き主」として来臨して報いをお与えになる(2テモテ4:8)と、証しされています。

この原則は絶対です。来るべき「裁きの日」、この原則は信者と未信者、選ばれた者と選ばれていない者に等しく適用されます。

「彼らは神を欺いたのではなく、自分自身を欺いたのである。」

そのことを来るべき日が証明するでしょう。
良い実を結ぶ木だけが、来るべき日の取り調べに耐えることがでしょう。


最後に、悪の種を蒔いて今日受ける結果の証しを原文のままに紹介します。

「『見よ、種を蒔く者が種蒔きに出かけた』と私の父は言いました。
父は地区の教会で聞いた説教の説明をする所だったのです。

しかし、まず私の非行時代についてあなたたちに短くお話しする方が、父が語った話の趣旨をよく理解できるでしょう。
私は私の兄弟たちや姉妹たちより年長だったのに、悪い見本になってしまいました。
私は家族の唯一の面汚しでした。
悪しき時に私は悪友によって道を外れ、その後、他の人たちを私自身の罪深い歩みの中に導いてしまいました。
自分の不謹慎さを考えると恐ろしかったです。
私が過ちの中にいる間、私の両親はずっと私を愛してくれました。
両親が私のことを嘆き悲しんでいる間、自分は両親を悲しませたまま墓に下らせるのではないかと思いました。
私の父はかつて言いました、『あわれな息子のフランクは、自分の地上の悲しみの中で最も重い』と。
しばらくの間、私は父の小屋を離れ、怠惰で自堕落な生活を送りました。
私の良心は私の邪悪さゆえに私を責めましたが、家に戻るなどということはまったくありえないことだったのです。
私の身に降りかかったある事故がなければ。

私の故郷の村では、私は頑固な不敬虔者の代名詞でした。
しかしその時でさえ、私は人々が考えていたほどには気楽ではなかったのです。
実際は聖書に書かれている通りです、『悪人には平安がない、と私の神は言われる』

ある安息日のことです。
私の悪友たちとぶらついていたら、私の父がたびたび立ち寄る小屋の小さな庭に戻っていました。
道の脇にある西洋なしの木には、食欲をそそる実がたわわに実っていました。
そこで私たちはくじを引いて、誰が木に登って西洋なしを取ってくるか決めることにしました。
くじは私にあたりました。

私が木を上り終える前に、私の悪友の一人が恐れからか悪ふざけからか、『小屋の主が来るぞ』と叫びました。
私は驚いて足を踏み外し、木から落ちて、ももの骨を折ってしまいました。
私の悪友たちは私を見捨てて、一目散に逃げて行きました。
それからしばらくして、私の叫びを聞いて誰かが私を助けに来てくれました。
しかしあろうことか、私はその小屋の中に運び込まれ、一階の奥まった部屋のベッドの上に寝かされてしまったのです。

その時でした。
この痛ましい苦境の中、迎えにやった医者の到着を待ちつつ、私が父の声を聞いたのは。父はその午後、教会の神聖な礼拝に出た後、その小屋に立ち寄ったのです。
私の事故のことは何も知らず、私がその小屋にいるとは思いもよりません。
心優しい小屋の主は、この悪い知らせを急いで知らせるのはしのびなくて、私が横たわっていた小さな部屋の扉を半分閉めてくれました。
私は体も心も苦しみの中にありましたが、聞かれるのが怖くて、ため息やうめき声をもらさないようにしました。

父は食卓の上の聖書を開きました。
その小屋の主とその妻や娘は敬虔な人たちでした。
父は私が前に述べた文章を読みました、『見よ、種を蒔く者が種蒔きに出かけた』。
それから父は説教を短く説明しました。
父は言いました、『特に、私たちの尊い牧者は、彼の友人である、ある兄弟の聖職者の話を私たちにしてくれました。その人は福音の種を蒔く時、克服するのがとても困難な問題に出会いました。彼の教区の人々は彼に対してとても冷たく、彼が自分の教会に入るのを許さなかったのです。彼が講壇に上るには、警官が彼のために道をあける必要がありました。このような状況では、種を蒔いたところでどんな成果を期待できるでしょう?
平穏のうちに説教することを許された時には、二十人から三十人の聴衆しかいませんでした。彼の教会は六百人から七百人収容できたのにです。それでも彼は、天の父が人を増し加えて下さることを期待しながら蒔き続けました。とうとう冷たい敵対者の一人が好奇心から礼拝に出席しました。

その時、神は御言葉を力強いものにすることをよしとされたので、あざけりに来た者が――祈り続けたのです。それだけではありませんでした。このあざける者はその晩休もうとした時、とても恐ろしくなって自分のベッドから起き上がり、一緒に祈るために隣人を呼び起こしたのです。

この聖職者は神の人であり、神が彼と共におられる、という知らせがその近隣を駆け巡りました。今や群衆が彼の話を聞きに集まりました。そして信徒の数が大いに増えたので、ついに三年の終わりには教会を拡張することが必要になりました。その場所に群がる群衆を収容するにはまったく不十分だったからです。このように神は、この種蒔く者と彼が蒔き散らした種を祝福されたのです』。
父は周囲の人々に語り続けました、『すべての人が種を蒔く者なのです。私たちはみな、良い種か悪い種を蒔いているのであり、その種は時間の中でそして永遠において実を結ぶのです。神はあわれみ深く、私たちがこれまで生活の中で蒔いてきた悪い種を赦して下さいます!私たちはみな種を蒔く者なのです。私のあわれな息子フランクも、今どこにいるにせよ、種を蒔く者なのです』。

ここで父は一息つきました。父がさらに話を続けようとは、私にはまったく思いもよりませんでした。父は口ごもっていましたが、次のように話し続けたのです。

『そうです。私のあわれな放蕩息子も種を蒔く者であり、彼の蒔いた種から多くの悲しい作物が生じました。第一に、彼は安息日を犯すという種を蒔きました。すると、それは実を結んで多くの安息日を犯す者たちを生み出したのです。あわれな若者よ!この過ちを犯すつもりはなかったのかもしれないが、すべては自分のしでかしたことなのだ。そして、彼によって迷わされた安息日を犯す者たちはみな、自分の罪の責任を彼に負わせる権利があるのだ』。

私はすでに十分惨めな気持ちになっていましたが、この言葉は私にとって短剣のようでした。私は苦しみのためベッドの上で身もだえしました。しかし父は、自分の与えている苦しみについては何も知らずに話し続けました。

『フランクが蒔いた次の種は飲酒であり、これもまた実を結んだ。彼は酔っぱらいになり、他の酔っぱらいどもを生み出した。この酔っぱらいどもは恥ずかしく不面目なことに、彼より深く不法の中に陥ってしまった。あわれな若者よ!この過ちを犯すつもりはなかったのかもしれないが、すべては自分のしでかしたことなのだ。そして、この酔っぱらいどもはみな、自分の罪の責任を彼に負わせる権利があるのだ』。

再び私は剣が私の胸を貫いたように感じました。しかし、父はまだ話を終えることなく、話し続けたのです――

『フランクが蒔いた次の種は罵りの種であった。恐ろしいことに彼は神の聖なる御名を虚しく用い、そして恐るべきことに彼の仲間たちはそれを真似したのである。今日この日でさえ、神の家からさして遠くない場所で、この悪党どもが途方もない誓いを立てるのを私は耳にした。ああ、あわれなフランク!これほど多くの過ちを犯すつもりはなかったのかもしれないが、お前はそれをしでかしたのであり、この向こう見ずな涜神者は自分の罪の責任をお前に負わせる権利があるのだ』。

『フランクが蒔いた次の種は不信仰の種であった。彼は「神はいない」と言う愚か者どもに加わり、他の人々を導いて自分の見本に従わせたからである。彼らはフランクさえいなければ、今日私が聞いた説教を聞いていたかもしれない。あわれなフランクはこの過ちを犯すつもりはなかったのかもしれないが、すべては自分のしでかしたことなのだ。そして、彼の見本が生み出した不信心者どもは、自分たちのけたたましい罪をすべて彼に負わせる権利があるのだ』。

父が話している間、父もまた種を蒔く者だ、と私は感じました。
自分でも知らないうちに、父は私の頭の上に燃える炭火を蒔き、私の胸に毒矢を蒔いていたのです。
私の罰は私には負いきれないものでした。
私は大声でむせび泣き、声を上げて泣きました。
父はあわれな放蕩息子のベッドの傍らですぐに祈ってくれました。

しばらくしてから、あの苦しみと大いなる悲しみのベッドは、私が耐え忍ぶべき懲らしめであったと感じるようになりました。
それは聖なる御手により、私にとって平和な義の実を結ばせる手段とされたのです。
私は罪を犯し、悲しみました。
私は不法を蒔き、刑罰を刈り取りました。

私は決して、父が私のことを罪人として描写した時に耐え忍んだ痛みを忘れません。
私は決して、『私の息子は死んでいたが生き返り、失われていたが見つかった』と父が言うのを聞いた時に感じた喜びを思うのをやめません」。

どうか主がこれを読むかもしれない悪の種を蒔く者に恵みを賜り、その人が神の召しを重んじて悔い改めますように!

(完)

オリーブ園クリスチャン古典ライブラリーより
「種蒔きと刈り取り」ロバート・ガボット Robert Govett

こんばんは、兄弟姉妹の皆様

東日本大震災は心を大切にするキリスト者にとって、決して忘れることが出来ない出来事です。
(少なくともわたしには・・・)
自ら被災なさって、その窮状を知ってほしいとブログをされている方からフォローを受けましたので、紹介します。
http://ameblo.jp/successboss/


今日の記事は、また信仰の姉妹からのメッセージです。


愛は神様からの贈り物


人の一番最初は神と共にありました。人はただ、偶然に生まれて何と無く何処かへ消えて行くような存在ではありません。この広大な全宇宙の中に何一つ偶然などは有り得ません。

全ての天体が、それらの全てを把握し運行しておられる全能者の巨大な意志の中にあります。遥かな銀河系も太陽も、そして、この地球の小さな野原に人知れずに咲く草花も、空も海も、雲も風も、全てのものは、全地全能の創造者の御手にあります。

聖書には――初めに神が天と地を創造した――で始まり――神が「光あれ」と仰せられた。すると光が出来た――とあります。
 
神様は無数の星々の中から、先ず地球を選び、生命を育むに相応しい全ての環境を整えて、数々の生き物を造られました。そして、全ての生き物の最高傑作品として、神の心を投影した人間を造りました。

私たち人間は、実は神の心を現す者として造られた、唯一の生き物なのです。
神の心、それは愛です。

全宇宙は、愛と言う大きな意志の中にあるのです。そして、その愛の意志が具体的に輝いて大きく広がって行く為に、人間を造られたのです。私たちが人を愛したい、また、愛されたいと願うのは、もともと、私たちが愛の存在として造られているからです。

みなさんがおとぎ話しのように聞いておられる一番最初の人間、アダムとエバは神様が食べてはならないと言われた、善悪の知識の木から取って食べた時。

 男は「あなたがくれた女が食べさせました」と
 女は「ヘビが私を惑わせました」と言い訳をしました。
 それが人間の罪の始まりです。
 その時から今日に至るまで、人間が繰り返して来た事は悪事とそれに対する言い訳でした。
 その結果、この世は悲しみ、苦しみの人で一杯になりました。
 どこにも光がなく、希望がなく、生きた証しを持たないまま、人生の終わりを迎えます。
  
 人類の歴史は、罪の歴史です。
 真実な清い神の御前に、誰一人、顔を上げる事の出来ない程、忌まわしい罪の歴史です。
 私たちは地球と言うかけがえのない星に、神に赦されて、住まわせてもらっている間借り人に過ぎません。

たとえ私たちがどんなにそれを否定しようと、全宇宙の家主は、創造主以外にありません。あたかも自分が神ででもあるかの如く、鼓舞して生きる者、虐げられた僕のように卑屈になって生きる者、誰も彼も創造者によって歴史の一瞬を行かされている一被造物に過ぎません。

さて、神に背いた人間は、罪を重ね、もはや取り返しのつかない程遠くに迷い出てしまいました。

神によって生かされている事すら知らず、あたかも自分に何か大きな力でもあるかのように錯覚して生き、好き勝手に旅立って生きます。

この地上の全ての苦しみは、人が自分は一体どこから来て、何の為に生きて、どこに行くかも知らないで、心の赴くままに、罪を犯した事の結果生じたものです。即ち、本当の愛を知らないまま、自我に生きた結果です。

生命の創造者、即ち、親なる神様は、この有様をどんな思いで見てこられたのでしょうか?

親が子を思う心、神が与えて下さった、生命を育てる為に一番必要な愛、人はその愛を一言の「ごめんなさい」と引き換えに捨ててしまったのです。

生命に背を向けた人間の歩みは、歴史の何処を開いても、神様が目を覆いたくなるような世界でした。
人がもう一度愛を取り戻す為に、あらゆる事を成された神様は、もはやこの事以外に成す術が無いと悟られて、大きな苦汁の決断をなさいました。

それは、御一人子を罰する事で、人間の罪を許し、もう一度、神の御許に引き戻すという、とてつもない愛の決断でした
 
イエス・キリストは、人間の犯し続ける全ての罪に対する神の怒りをその身に受けて、殺される為に天から下って来られました。

実にそのご生涯は、この世の苦しみの全てを知り尽くす程の道であり、その最後は人間の受ける最も残酷な極刑であり、もはや、人間の誰も「神なんかにこの苦しみが分るものか!」と決して言う事の出来ない辛酸をなめられました。

この世に殺される為に生まれた人が一人でもあるでしょうか?
身代わりとして罪を負う為に生まれた人があるでしょうか?

私たちの心に潜む重い罪が清められる為に、イエス・キリストは天に対して、「これは私の罪です、私を罰して下さい。」と父なる神の御前に人間をかばって、進み出たのです。

神の御子キリストの命を捨てた愛を通して、天の父は自分が何の為に生きているのか分らない人間の為に、もう一度、その足元を照らす救いの光を下さったのです。
 
人の中で誰一人、生涯罪を犯さずに生きる人はありません。
罪とは「的外れ」(ハマルティア)い言う意味です。

何の為に生まれたかも知らず、好き勝手に生きる人生は「今日」を造られ、全ての命を持ち運んでおられるお方に対する最も的外れな姿です。

人は愛がなければ、生きて行く事が出来ません。
どこかに自分を愛してくれるものはないかと迷います。
自分の心の中を深く見れは、分るように、全てが自分の満足の為に成す事ばかりであり、相手が傷つく事を心に留める事が出来ません。

私たちは神に立ち返らなければ、その生涯を的を外したまま、誰をも愛さずに、終えて行きます。
愛とは悲しみも、苦しみも、痛みも、その為に自分自身の事として捉え、命さえも惜しまない心です。

神様が下さった、本当の人間の心は、どこまでもこの愛を求めて成長して行く無限の心です。
こんな素晴らしい宝物を心深くに埋めたまま、私たちはもう一つの「自我」と言う心で生きているのです。

「私が悪かった」と言えず、「ありがとう」と言えず、それと引き換えに、多くの命を苦しみに落とす人生です。
 
誰のせいでもありません。物事の全ての解決の道は自分の心の中にあります

イエス・キリストは天の栄光の全てを捨てて、その全生涯を罪にまみれた人間に再び、清い生きた心を与える為に歩まれました。その「愛」が私たちの心の奥底にも手付かずのまま埋もれているのです。

どんなに立派に生きても、天に繋がらない人生は的外れです。
生まれる時も死ぬ時も、人は一人です。裸で生まれ、裸で旅立ちます。
ただ一つ持っていけるもの、それが心です。

人生の一つ一つの事柄を正しく解決しないまま、心を偽って来た事の積み重ねは、私たちの思いを暗く行き詰らせて行きます。
 
本当の自分を知らないまま、多くの人は人生を終わります。自分の心が肉体を離れた時、その大きな過ちに気付きます。もはや取り返す事の出来ない時に至ってです。素直になる事、それがどんなに人を成長させるかです。その事を神様がどんなに願っておられるか。

「正直者の頭に神が宿る」神様は混じり気のない素直な心の中に私たちの親として共にいて下さるのです。

神様が自分と共にいて下さるなど、思った事もない人生、偽りの世界は自分の力で何でもやり通せると思っている、大きな過ちの中にいる人生です。

私たちは自分の命を一秒たりとも長らえさせる力のない者です。
どんなに認めたくなくても神様の力なくして、今を生きる事はできません。

―誰でも幼子のようにならなければ神の国に入る事は出来ません―聖書

いつでも真っ直ぐに、神様に顔を上げ胸を張って生きる人生、それはこの世のどんな宝を持ってしても比べる事の出来ない躍動する人生です。
いかなる困難が来ても、それを越える事の出来る力、決して失望する事のない希望、神と共に歩む日々は、私たちの中に全く違った人生を造り出して行くのです。
こんな人生があろうなどとは夢にも思わなかった程に自我から解放された心は躍動します。
感動がいつもあり、心の内に沸き出る喜びがあります。この世の何物にも縛られない心の自由です。
イエス・キリストが私たちに下さった愛は、自分を捨ててでも人に生命を与える死にさえ打ち勝つ愛です。この愛が私たちの心の中にも与えられているのです。

―私の目には、あなたは高価で尊い、私はあなたを愛している―
 この御言葉こそ、聖書を貫く神の心です。

この世界に神が送り出して下さった生命、どれ一つとして同じものはありません。そして、どれ一つとして手を抜いて造られているものはありません。
その生命は輝いて、神の喜びとなる為に造られました。

人の心が素直であったなら、どんな愛の世界が生まれていたでしょうか?
生まれて来た時、どんな心を持っていたのでしょうか?
それこそが自分自身なのです。

今日まで積み重ねて来た自我を勇気を以って、一つ一つ取り除いて下さい。
自分の心の向き合う事は決心のいる事ですが、人生をUターンさせる為に不可欠です。

私が癌になった時、自分の中にもう一人の自分がいる事を知りました。
状態がとても悪く、もはや息をする力もない程衰弱しきっていた時、心の深いところから、「このままで死ぬのか、このままで死ねるのか。」と内部告発のような声が聞こえて来ました。自分なりにちゃんと生きて来たという思いと、これで良いのかという思いが揺れ始めました。

私は背中を押されるように、小さい頃からの汚れた出来事を、一つ一つ口に出して、「ごめんなさい」を言い続けました。それが二時間も続いた時、目の前に、私の犯した罪の十字架を背負って、イバラの冠をかぶられれ、額から血を流しながら処刑場に向かって歩かれる、イエス・キリストが現れられました。

その時、「イエス様は私の罪の為に死なれたんだ」という事が初めて分りました。その後も泣きながら、心に浮かぶ汚れを吐き出し続けました。

ある日、自分の心に不思議な事が起きました。まるでセミの抜け殻のような土け色をして、ぐちゃぐちゃと何か言っている汚い自分の姿の横に、きらきらと輝く光の中で喜んでいる自分がいるのです。

心の中が羽根のように軽くなっていました。
病んでいた癌も抜け殻のように落ちて行きました。

うそのない人生、それは素晴らしい世界です。いつも心に深い平安があって、子供のようにワクワクしながら明日を待ちます。この心の延長線上は、死さえも一つの通過点として、永遠に続くのです。
―私の目には、あなたは高価で尊い-
私たちは、一人一人神の子キリストの命と引き換えに生かされた、かけがえのない神様の宝物です。

ですから、誰一人、罪にまみれて一生を負える事があってはならないのです。全ての生命は、神から出て、神に帰ります。喜んで、天のお父様のところに、「ただ今!!」と替えれるうに、自分の自我と戦って下さる事を心から祈ります。

戦い終えたとき、一人雪の八甲田山で、「私は自由だ!!」と叫んだ心の声は天使の大きな歓声と共に天国に届きました。

内側から新しい生命の泉が湧き出ます。

野の花のように、空の鳥のように生かされるままに、今を喜び、今を感謝して、生きる生命が、みなさまの中に芽生えて来る事を!!

心から祈っています。


こんにちは、兄弟姉妹のみなさん


信仰の姉妹から送られてきたつづきです。


心の備えが出来ているか(つづき)  東日本大震災を受けて


私たちの心の中に宿っている大きな罪は、どんな深い愛も打ち壊してしまう程頑なで、根深いものです。

長い人生を歩む中で、いつも自分にとってどうかと言う事ばかりを考えて、その時、その時に選び取り続けた自己中心の思いが、心の中に岩のように積み重なって、まるで巨大な鉄の固まりのように頑として、どんな感動も、どんな愛情も、それを溶かす事は出来ません。

その心がどれ程その人の人生を台無しにしているかを気付く事がありません。

その心の中に大切なものを吸収する柔軟性が無いからです。

人間が年を重ねると言う事は、このように「我」が強くなると言う事ではなく、多くの言葉に深く耳を傾けて謙遜にそれを受け止め、味わいのあることばを持って、相手と向き合える大人になると言う事です。

自己主張ばかりが先行して、相手を受け入れる事の出来ない人間は、まるで取り付く島もないわがままな子供でしかありません。
 
人にことばがあります。

これは人が人たる為の大きな理由です。
そのことばが真実なものかどうかが、その人の人格の全てを顕わします。

語ることばに力があり、そのことばに対して、しっかりと責任を果そうと生きる人の人格は、日々深く成長して行きます。

これが人間本来の姿です。人がどんな時にも大きな度量で、相手をしっかり受け入れる事が出来たら、物事は大きな実りを見せます。そして、どんな時にも争う事なく、豊かな平和が生まれます。

誰も苦しむ者がいなく、誰も涙を流す者がいません。

この狭量で、味気ない無機質な自我が、人間の惨憺たる歴史を支配し、遂に地球の破壊と言う想像だにしなかった終幕を迎えるところまで来ました。

私たちの幸せを踏みにじる唯一の敵は、自分の心に頑強に巣くう(自我)です。

どんなに自分の義を主張しても、それは自分の欲望を叶える為の事でしかなく、相手と心から分りあえる事はありません。

自分の心のキャンバスがあらゆる欲望に満ち、損得を考え、その判断が、いつも自我の土台の上に立つものであれは、本当の幸せを得る事などありません。

自分を捨て、相手の場所に立つ事の出来る勇気は愛の中にしかありません。

人がもし自我を捨てて、愛の中に立つ事が出来たら、どんなに美しい人間の歴史が紡がれていた事でしょうか。
 
遠い昔、ある男が天に向かって祈りました。

「私の全てを以って、あなたに従いますから、どうぞこの世界に平和を与えて下さい」と。

その男は、その祈りの通り、どんな苦しみも、困難もいとわず、ただ本当の平和が訪れる為に生き続けました。いつしか彼の目は流した涙の為に見えなくなり、その足は愛し続けた人々の自我によって砕かれ、遂に帰らぬ人となりまた。

彼の生きた生涯は長い歴史のほんの一瞬に過ぎません。

けれど彼の心はその後、多くの世界中の心ある人々を突き動かし、その意志は今も深く天に覚えられ、生き続けています。

私たちの生涯が、このようにして、人々の心に感動を与える事の出来るものであったら、それこそ、生きた甲斐のある人生ではないでしょうか

何の生きた証しもなく、ただ欲望を満たす為だけに過した日々は人々の間からすぐに忘れられる人生です。
味気ない、無意味な存在として、その人生を終える程、この命は軽く考えられるようなものでしょうか?
世界にたった一つしかない自分の命はこんな事の為に果て行くものなのでしょうか? 

自我に生きる人生は、その中に、憎しみ、怨み、怒り、妬み、不安、恐れ、が入り混じり、いつも心がざわめきます。―罪の支払う報酬は死です―
 
死に向かって生きる日々に何の価値があるでしょうか?
私たちが本来向かうべき方向は、日々新たにされる生命の道です。
こんな小さな枠に填められた身動きのとれない不自由な考えに閉じ込められた人生ではなく、もっと人らしく内なる命の躍動する豊かな人生です。
 
どんな時にも正直に自分を偽る事がなく、深い腹の底から出て来る思いに従って生きる日々は真に力強く大きな心の柱を築く日々となります。

さて、私たちが今日まで、追い求めて来たものは、一体何でしょうか?
物質的な豊かさですか? 地位ですか? 名誉ですか? 自分の為に大きな城を築く事ですか? 

目をしっかり開いて、自分の生き様を見つめなおして下さい。

もしそれらを手に入れようとするなら、必ずそれらと引き換えに、貧しい人、虐げられた人、支配下に置かれる人、道具のように扱われる人が生まれる事を考えた事があるでしょうか?
どんなに大きな力を持っても、それは多くの命を踏みつけて、台にしたものでしかない事に気付いているでしょうか?
 
人は生きている時にしか生き方を変える事は出来ません。ことばを発し、行動に移し、事を成就して行くのは、生命を有する時にだけ与えられた恵みです。
どんな時も、その一瞬一瞬が、その人の心を変える事の出来る、かけがえのない恵みの時である事を心に留めて下さい。
 
どんな時も人々は、自由意志を持って、その歩みを決定し続けて行きます。
ですから、その罪の全ては自分自身の責任として神に問われるものです。
それにはどんな言い訳も付ける事が出来ません。

―心の清い人は幸いです。その人は神の子供と呼ばれます―

天の恵みは、心の清い者にこそ、大きく注がれ続けます。そして、その生き様は、深く神の心に覚えられ、人々にいつまでも光として、その道を照らす者とされます。

あの平和を祈ってその生涯を捧げた、イタリヤのアッシジの聖者フランシスは、今も世界中の人々の心に生き続けています。

 神よ、私を平和の道具としてお使い下さい。
 闇に光を
 悲しみのあるところに、喜びを
 慰められるよりは、慰める事を
 理解されるよりは、理解する事を
 私が求めますように       ―フランシスコ―


愛の心を一つ一つ蓄えて、自分の生きる力として下さる事を祈っています。
こんにちは、兄弟姉妹の皆さん

昨日の続き、テーマは「信仰」の第⑧弾です。

記事の元は、以下のリンクを辿ってください。
http://homepage2.nifty.com/grapes/SpurgeonS0032.htm


1855年7月1日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於ニューパーク街会堂


II.ここから、私たちが第二に考察させられるのは、《使徒たちの心から欲した望み》である。

「私たちの信仰を増してください」。

彼らは、「主よ。私たちの信仰を生かし続けてください。主よ。それを現在の状態に維持しておいてください」、とは云わなかった。
むしろ、「私たちの信仰を増してください」、と云った。
というのも、彼らは、キリスト者が少しでも生きたものであり続けるには、増し加えられることによるしかないと、よくよく承知していたからである。

ナポレオンはかつてこう云った。
「私は幾多の戦闘を戦わなくてはならない。そして、それらに勝たなくてはならない。征服によって私は今の私になっているのであり、征服によって私は保たれなくてはならない」、と。

そして、これはキリスト者にとっても同じである。
昨日の戦闘が今日の私を救うのではない。
私は前へ進み続けなくてはならない。

一本の輪は、動いている限りは立っているが、静止しようとした途端に倒れる。
キリスト者である人々は、向上することによって救われる。
絶えず前進することによってキリスト者は生きたものであり続ける。

もし私に止まることが可能だとしたら、私は自分のいのちがどうなるかわからない。
キリスト者は前へ進まなくてはならない。
矢は、進み続けている限り上へ昇っていくが、上昇する力が途絶えた途端に失墜する。

それで使徒たちは主に、「私たちの信仰を増してください」、と云ったのである。


第一に、その範囲において「私たちの信仰を増してください」。

それが受け取る範囲においてである。
通常、私たちがキリスト者生活を始めるとき、信仰はさほど多くのことをわかっているわけではない。
それは単に、ほんの僅かな初歩的教理を信じているだけである。

私の見るところ、多くの初信の回心者たちは、イエス・キリストが罪人のために死なれたと信ずる以上のことを大して自分のものとしてはいない。
こうした人々は、徐々に少し進歩して、選びを信ずるようになる。
だが、そこで受け入れるよりも、なおも先には何かがあり、何年かを経て初めてこうした人々は、福音の全体を信ずるようになるのである。

話を聞いている方々。

あなたがたの中のある人々、また、いま私の話を聞いてはいないおびただしい数の人々は、みじめで、ちっぽけで、狭苦しい魂である。
あなたは融通のきかない信条を習い覚えており、そこから決して外に出ようとしない。
どこかのだれかが、5つか6つの教理を書き上げて、「これが聖書の教えだ」、と云ったので、あなたがたはそれを信じている。

だがあなたは、自分の信仰を増し加えられる必要がある。
あなたは、聖書の中にまだたくさんあるものを信じていないからである。

私は、自分が信じていることにおいては、超カルヴァン主義に立ついかなる兄弟たちとも異なっていないと思う。だが私は、彼らが信じていないことにおいて、彼らと異なっている。
私が信じていることは、いささかも、彼らが信じていることより少なくない。
むしろ私は彼らよりも、やや多く信じているのである。

私たちは、成長するに従い信仰内容が増し加わるものだと思う。
私たちは単に、自分の船を東西南北に向けるに足るだけの枢要な教理をいくつか学ぶだけにとどまらず、北西や北東、そして東西南北の四点の間にあるどの方角についても何かしら学び始めるべきである。
多くの人々は、自分がそれまで普通聞いてきたことに少々反することを聞くと、たちまち「これは健全でない」、と云う。

しかし、だれがあなたを何が健全か健全でないかの裁判官にしたのか。

世の中には、自分をイスラエルのさばきつかさにまつりあげている、何人かの卑小な人々がいるもので、あらゆる人が自分の信ずる通りに信じなくてはならず、そうしないような者は明白に間違っていると考え、その人とはいかなるキリスト者的な交流も交わりも持とうとしない。

確かに私はこうした人々のために主に祈ってよいであろう。「彼らの信仰を増してください」、と!

彼らを助けて、もう少し多く信じさせてください。
彼らを助けて、世にはキリスト者のウェスレー派もいるのだ、健全な国教徒もいるのだ、特定バプテスト派が健全きわまりない種類の人々であるというだけでなく、神の選民は至る所にいるのだ、と信じさせてください、と。

確かに私は、偏狭頑迷なすべての人々が、もう少し広い心を持てるようにと祈るものである。
私は彼らの心をもう少し押し広げたい。

しかし、否。

彼らは ultima thule [世界の果て]に達してしまった。
彼らは、極楽島の最後に到達している。
そこを越えた所にはいかなる岸もないのだ。

船乗りが自分の帆を未知の海に張るのは危険なのだ。
「ここまで」、と敬虔なるクリスプは云う。
それゆえ、多くの人々は空想する。
「ここまでは来てもよい。しかし、これ以上はいけない」[ヨブ38:11]、と。
ギル博士は、ぎりぎりここまでしか宣言していない。

では、だれが恐れ多くも、それ以上のことを云おうとするのか。
あるいは、ことによると、カルヴァンが基準とされているかもしれない。
では、だれが、これっぽっちでもカルヴァンを越えるような考え方をするなどという大それたことをしてよいだろうか?

神はほむべきかな。
私たちはそれよりも多少は先に進んでいる。
そして、「私たちの信仰を増してください」、と云うことができる。

私たちは、こうした偉大な権威ある神学者たちに対して決して賞賛を惜しむものではないが、彼らの小さな鉄のかごの中に自分を閉じ込めておく気持ちにはならない。

むしろ私たちは云う。
「その扉をあけてください。私を飛ばせてください。――私が自由であることを、まだ感じさせてください。私の信仰を増して、もう少し信じられるように助けてください」。

私は、この数箇月の間に、自分の信仰が一、二の点について増し加わったと云えると思う。
私は長いこと、聖書の中に《千年期》というようなものを見いだすことができないでいた。
私はキリストの《再臨》を信じてはいたが、大して喜ばしく思うことができないでいた。

だが、次第に私の信仰はこの主題に対して開かれ出してきたため、今の私は、主イエス・キリストの来臨を待ち望み、かつ、それを早めようとすること[IIペテ3:12]に、幾分かは自分の食べ物や飲み物を見いだしている。
私の信ずるところ、私は、まだ聖書のイロハを学びだしたばかりにすぎず、絶えず主に、「私の信仰を増してください」、と叫ぶであろう。
私がより多くのことを知り、より多くのことを信じ、はるかに良くあなたのみことばを理解できるようにしてください。

範囲において、「私の信仰を増してください」、と。

次に、その強さにおいて「私の信仰を増してください」。
信仰は、その範囲においてと同じく、その力においても増し加えられる必要がある。

私たちは、ある人々が川に対して行なうように行動したくはない。
そうした人々が堤防を切り崩すと、川は牧草地一帯に広がり、浅くなってしまうが、私たちが望むのは、それが表面積を増大させると同時に、その深さも増し加わることである。

「私たちの信仰の強さを」増してください!

信仰は、最初は神のあわれみを開いた手のひらで受け取る。
信仰が増し加わるにつれて、それを指先でつまむが、さほどしっかり握りはしない。

だが、信仰が強く成長すると、あゝ!それを鉄の万力ででもあるかのように握りしめ、死もハデスも、強くなった信仰の手から約束をもぎ取ることはできない。

未熟なキリスト者は、最初はその信仰において堅固ではない。
ちょっと風が吹いただけで、すぐに震える。

だが、老練なキリスト者となったその人を揺るがせるには、古の北風神ボレアースが、その五十もの突風を巻き起こすしかないであろう。

私の愛する方々。

あなたは、自分の信仰がその強さにおいて増し加えられる必要があると感じていないだろうか?
あなたはウォッツとともにこう歌いたくはないだろうか?

「われは求めん、強き信仰を、さらば幕屋の内側(うち)をば眺め、
 主のみ誓いをよく信ぜん、そのみことばのゆめ違(たが)わずば」。

あなたのあわれで小さな信仰は、その前にほんの何尋も見ることができない。
回り中を暗黒の雲が取り巻いているからである。

だが強い信仰は、「晴朗」と呼ばれる山を登り、その頂上から天上の都を、また遥か彼方の国を見ることができる。

おゝ!願わくは神があなたの信仰を増し加えてくださり、あなたがしばしば天国を眺め渡せるようになるように。――モーセがピスガの頂で歌ったであろうように、こう甘やかに歌えるようになるように。

「おゝ!我れ忘れさせ、たましい奪う 彼方の景色ぞ我れは目にせり。
 緑の沃野に飾られし野も、喜ばしげに流れる川も」。

そこにあなたが登り、その壮麗さに目を浴させ、至福の川に魂を没入させ、忘我の極みに達し、やがて自分のものとなるはずの幸福の状態をうち眺めては心を奪われるように、私は、こう神に叫ぶことをあなたに勧めたい。
天国を悟る力において、また、他のあらゆるしかたにおける力において、「私の信仰を増してください」、と。


III.この点について詳しく語る時間はないが、しめくくりの前に私は、ごく手短に《使徒たちがその願いを向けているお方》について言及しなくてはならない。

使徒たちは主に云った。「私たちの信仰を増してください!」、と。

彼らが向かったのは、正しいお方であった。
彼らは自分に向かって、「私は自分で自分の信仰を増し加えよう」、とは云わなかったし、教役者に向かって、「慰めに満ちた説教を1つ語って、私たちの信仰を増してください」、とも叫ばなかった。また、「私はこれこれの本を読むことにしよう、そうすれば私の信仰は増し加わるだろう」、とも云わなかった。

否。彼らは主に向かって、「私たちの信仰を増してください」、と云った。

信仰の創始者[ヘブ12:2]だけが、信仰を増し加えることがおできになる。
私は、あなたの信仰を増上慢になるほどふくれあがらせることはできるが、それを成長させることはできないであろう。

信仰を養うのは、最初に信仰にいのちを与えるのと同じく、神の働きである。
そして、もしあなたがたの中のだれかが、生き生きと育つ信仰を持ちたいと願っているとしたら、今朝、あなたの重荷を携えて神の御座のもとに行き、こう叫ぶがいい。

「主よ。私たちの信仰を増してください!」、と。

もし自分の困難が増し加わっているように感じるとしたら、主のもとに行って、「私たちの信仰を増してください!」、と云うがいい。

もし自分の貯蓄が増加しつつあるなら、主のもとに行って、「私たちの信仰を増してください」、と云うがいい。

というのも、あなたは、より多くの富を持つようになるに従い、より多くの信仰を必要とするようになるからである。
もしあなたの財産が減りつつあるなら、主のもとに行って、「私たちの信仰を増してください」、と云い、あなたが片方の秤皿で失ったものを、もう片方の秤皿で得るようにするがいい。

あなたは今朝、病弱で、全身が痛んでいるだろうか?
あなたの《主人》のもとに行って、「私たちの信仰を増してください」、忍耐を失うことなく、よく耐え忍べるようにしてください、と云うがいい。

あなたは倦み疲れているだろうか?
行って、「私たちの信仰を増してください!」、と乞い願うがいい。

あなたの信仰は小さいだろうか?
それを神のもとに携えて行くがいい。そうすれば神は、それを大きな信仰にしてくださるであろう。
繊細な植物を育てるための、ありとあらゆる温室の中でも、幕の内側[ヘブ6:19]――神の臨在が住まう、神の幕屋――ほどのものはない。

私は、非常に大きな痛みの中で語ってきた。
だが、できるものなら私は、しめくくりとして、キリスト者であるあなたにこう尋ねたい。
あなたは、自分の状態にとって、この祈りが非常に必要であると思っているだろうか?
ひとりひとり自分に問いかけてみるがいい。

私はもっと信仰が必要だろうか?

主イエス・キリストにある私の兄弟姉妹たち。
心に思い定めるがいい。

あなたは、この尊い恵みをいくら有していても決して十分ではない。
あなたが天国までの旅費を全額払っていくとしたら、天国の門についた時のあなたは、びた一文余らせてはいないであろう。
もしあなたがその間の旅路で信仰を糧としていくとしたら、ひと壺のマナも残ってはいないであろう。

ならば、信仰が増し加えられるように祈るがいい。

あなたはこの教会が立ち行くことを望んでいるではないだろうか。
これは、あなたがたが信仰の人である程度に応じてのみ立つことができるのである。
私は、あなたがたが祈りの人となるよう勧めることもできる。
それは承知している。

だが、信仰こそ土台石であって、祈りはその次に来るのである

信仰を抜きにした祈りなど、中身のないまやかしものであろう。
神から何1つかちとれないであろう。
あなたは私たちが立つことを望んでいるだろうか?

あなたは、この世が私たちのことを何と云っているか知っているだろうか?――パーク街の借家人たちの宗教的熱狂が何と云われていることか。

それを保ち続けるには、あなたがたの信仰によるしかない。
あなたの教役者の両手を高く支えておくものは、あなたの信仰とあなたの祈りしかないではないだろうか?

信仰をかのアロンとするがいい。
祈りをかのフルとするがいい。

そうすれば、丘の下で軍隊が敵と戦っている間、信仰と祈りはモーセの両手を高く掲げていられる[出17:10-13]。
あなたがたは倒れずにいたいだろうか?
ならば信仰において強くならなくてはならない。

小さな信仰は倒れるが、強い信仰は立ち続ける。
あなたは勝利を得て、そうした者だけが期待できる、星をちりばめた輝かしい冠をかぶって天国で支配したいだろうか?

ならば、信仰を増し加えられるがいい。

また、あなたがたは神に大いなる誉れをささげ、勇敢に戦い、冠をかちとった後で[IIテモ4:7-8]天国に入りたいだろうか?

ならば、私は、「私の信徒たちの信仰を増してください」、と乞い求め、「私の信仰を増してください」、との祈りをささげるであろう。

しかし、愛する方々。

この場にいるあなたがたの中のある人々は、この嘆願を口にすることができず、口にしようとも思っていない。
あなたがそうしないとしたら、これが何になるだろうか?
あなたに何の信仰もないとしたら、存在してもいないものをいかにして増し加えることができるだろうか?

むしろ、あなたが真っ先に必要としているのは、素朴な信仰の胚芽を自分のものとすることである。

おゝ!話を聞いている方々。

私が驚きを禁じえないのは、信仰だけが与えることのできる慰めもなしに、あなたがたの中のある人々がいかに生きていけるかということである。
あなたがたの中には、極貧の人々がいる。
あなたは、信仰もなしに、いかにしてあなたの骨折り仕事や困難をしのいでいるのだろうか?

どこにあなたの慰めがあるのだろうか?

私は、あなたが飲んだくれようと、居酒屋で放蕩しようと、この世であなたが他に何の慰めもないとしたら、全く不思議には思わない。
私は、この教会の裏路地のいくつかに足を踏み入れ、そこに住む人々の貧しさを見たとき、こう思った。

「もしこの人々がキリスト教信仰を有していないとしたら、彼らにどんな慰めがあるのだろうか?彼らは、何にでも耽溺できる金持ちとは違う。彼らがこの世で生きがいにできるものがあるだろうか?」

私は、こうした人々にも何らかの幸福はあると思う。
それがいかなる種類のものかはわからない。
それは私にとって絶えざる疑問の種である。

そして、あなたがた、富める人たち。
信仰もなしにあなたは何をしようというのだろうか?
あなたは、やがて自分の財産すべてを後に残して行かなくてはならないことを知っている。
確かに、このことは死という考えをあなたにとって恐ろしいものとするであろう。
私は、あなたが何か幸福を有しているとしても、それすら理解できない。
私にわかっているのは、このことである。

「我れは捨てまじ、わが身の幸(さち)を。世の富ほまれをいかに受くとも。
 わが信仰の立ちしかぎりは、我れはねたまじ、罪の黄金(たから)を」。

しかし、私はあなたに問いたい。
信仰がないあなたは、来世でどうしようというのか。

覚えておくがいい。

あなたは今、未知の未来という広大な深淵の崖っぷちに立っている。
あなたの魂は、底知れぬ暗黒の奈落の縁で震えている。
あなたの脈が1つ打つたびに、あなたの魂は永遠に近づけられている。

信仰は魂に翼を与える。
だが翼のないあなたはどうしようというのか?
地上と天国の間は、狭い深淵によって隔てられている。
キリスト者はその翼を羽ばたかせ、その翼に運ばれて、天国へと飛んでいくが、翼のないあなたはどうするだろうか?
それは跳躍であろう。――破滅への跳躍であろう。
そしてあなたは永遠に沈みこみ、決して自由になれない。

たといキリスト者が天国への道中で沈むようなことがあっても、さほど深く沈みはしない。
自分の翼を羽ばたかせれば、再び浮き上がるからである。
しかし、そこにあなたはとどまるであろう。
全く底のないその穴の中を永劫に下降していくであろう。――浮かび上がろうともがくが、それはできない。
あなたには全然翼がないからである。

もう一度云う。

おゝ!不信者よ。

信仰のないあなたはどうしようというのか?
というのも、信仰は魂に目を与えるからである。
信仰は私たちに、見えないものを見る力を与えてくれる。
それは、「望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるもの」である[ヘブ11:1]。
キリスト者は、死ぬとき、その目を開いて死の国に入っていく。
そのことにより、御使いたちの大群が彼の視力に喝采するであろう。

だが、あなたは盲目の、目が見えない霊として死ななくてはならない。
この現世にあってすら盲人の運命は不幸であるが、かの永遠の盲目さは、いかに無限に嘆くべきであろう。

それは、パラダイスの壮麗さを見させず、いかにかすかな喜び、あるいは希望の光をも、永遠に遮断するのである。

そして、もう1つだけ云うが、信仰は魂の手である。
キリスト者は、死ぬとき、キリストの衣をつかみ、キリストはキリスト者を天国へ連れていってくださる。
輝く御使いがひとり降りてくる。――私はその御使いに抱きつき、彼は私をその翼に乗せて、ふわりと至福へと運び登る。

しかし、不信者が死ぬとき、御使いは無駄足を踏むであろう。
不信者には手がないからである。
おゝ、罪人よ。
かりにキリストがそこにいても、あなたはその衣に触れることすらできない。
あなたには、そうするための手が一本もないからである。

来世であなたは、手を持たずにどうしようというのか?
あなたは、手もなく目もないような奇形の魂を、神が天国に置くことをお許しになると思うだろうか?

否、そのようなことはありえない。

しかし、手のないあなたが、いかにして天国に入れるだろうか?
あなたは天国の門を開けないであろう。

あなたはどうしようというのか?
あなたは、神にあわれみを乞い求めるであろう。

だが、たといあわれみがあなたに差し出されたとしても、あなたはそれをつかむための手を持っていないのである。
私は、あなたがたの中のある人々が、キリスト教信仰を持たずに、いかにして幸せにしていられるのか理解できない。
私は、あなたが信仰もなしに死んだとしたら、どうするつもりなのかわからない。

家に帰って、考えてみるがいい。
もし自分がキリスト教信仰なしに死んだとしたら、どうなるかを。

《永遠者》の御顔の前でも図々しくそれで押し通すつもりなのか、それとも、おとなしくあきらめるつもりなのかを。

罪人よ!

信仰なくしてあなたが天国に入ることはできない。
だが、あなたはどう心を決めただろうか?
あなたは天国の門を引きちぎろうというのだろうか?
あなたは、智天使の騎兵大隊や、御使いたちの軍団を蹴散らして押し通り、力ずくで入れるほど、自分が全能だと考えているのだろうか?

さもなければ、あなたは何をしようともくろんでいるのか?
あなたは、おとなしく硫黄の寝床に横たわるつもりなのだろうか?
自ら進んで、あの底なしの硫黄の池で永劫に翻弄され、そこで永遠に塩からい涙を流そうというつもりなのだろうか?
あなたは自分の寝床を地獄に設けたいというのだろうか?

方々。あなたは、そのような永遠の運命に満足だというほど愚鈍なのだろうか?
あなたの理性はきれいに失せ果ててしまったのだろうか?
あなたの分別は、このように自らを打ち棄ててかまわないほど暗愚なのだろうか?

確かにあなたがたは何かをしようと決意したに違いない。
ならば、何をあなたがたはしようというのだろうか?

あなたは、「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません」[ヘブ11:6]と書かれているというのに、信仰なしで天国に入れるなどと夢見ているのだろうか?

また、神が、「信じない者は罪に定められます」[マコ16:16]と云っておられるというのに、その定めをくつがえせるとでも思っているのだろうか?

あなたはエホバの御座に上って、エホバご自身を否認しようというのだろうか?
エホバの命令を変更し、不信者を天国に認め入れようというのだろうか?

否。あなたにそのようなことはできない!

ならば、震えるがいい。不信者よ。震えるがいい。

というのも、そこであなたはただ、「さばきと……激しい火とを、恐れながら待つよりほかはない」[ヘブ10:27]からである。
ヨルダンの川がいっぱいに溢れるとき、あなたがたは何をしようというのだろうか?
信仰なしに、あなたの頭を水面から上げておくことはできない。
願わくは神が、まるで信仰を持っていない人々にそれを授けてくださるように。
そして、それ以外の人々については、彼らの信仰を増してくださるように!

増し加えられた信仰の必要[了]