十字架の救い | イエス・キリストの御名を賛美します

イエス・キリストの御名を賛美します

唯一の救い主である、イエス・キリストの愛を知ってほしい。
聖書の奥義を知ってほしい。
そして、選択して欲しい。

こんばんは、兄弟姉妹のみなさん

少し間が空いてしまいました。
今日は、ウオッチマン・ニーが、1925年から1927年にかけて執筆された「霊の人」から紹介します。
どうか主が私たちの霊の目を開いてくださいますよう。恵みと祝福を与えてくださいますようにお祈りします。
ちなみに文中の「肉」という部分を「自己」と読み替えていただいてもよろしいかと思います。




霊の人 第1巻 第2部 3章十字架と聖霊から
「十字架の救い」


ガラテヤ人への手紙第5章で使徒は、肉の多くの項目について語ったあと、続けました。

5:24 「しかし、キリスト・イエスのものである人たちは、肉をその情と欲と共に十字架につけてしまったのです」。
これが救いの道です。

信者が注意を払うことと、神が注意を払うこととは非常に異なります。
信者は、「肉の働き」、肉の働きのひとつひとつの項目に関心があります。


ガラテヤ人への手紙 5:19-21
5:19 肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、
5:20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、
5:21 ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。


彼らは個々の罪に注意を払っています。
すなわち、今日の怒り、明日のねたみ、次の日の争いなどです。
彼らの悲しむもの、打ち勝つことを望むものは、ある特定の罪です。
しかし、これらは同じ木から生み出される実です。

あなたは一つの実を取るかもしれません。
しかし、一つしかないわけではありません。
神が注意を払われるのは、「肉」(24節)であって、肉の働きではありません。

もし木が死んでいるなら、わたしたちはまだ実を結ぶことを恐れますか?

信者はいつも違反(実)を対処しようとして、肉(根)を対処することを忘れています
ですから一つの違反を対処するまでに、また別の違反を犯すことが避けられません。
私たちは罪の根を対処する必要があります。

キリストにある幼子は、まだ肉のものですから、更に深い十字架の意味を知るべきです。

神の働きは、信者の古い人をキリストと共に十字架につけることであり、キリストの者である人たちは「肉をその情と欲と共に十字架につけられてしまった」のです。
どのような肉であれ、肉の欲がどのように強くても、それらは共に十字架につけられています。
過去において、この十字架を通して罪人は再生され、彼らは主によって罪から贖われたことを知りました。
今また、肉に属する赤子のようなクリスチャン(たとえ再生されて何年経過していても)は、この十字架を通して肉から救われ、肉の支配から解放され、もはや肉によって歩まず、聖霊によって歩むことができるようになります。
こうしてまもなく彼は霊的な人になります。

このように人の堕落は十字架の働きとは対象的です。

十字架の働きによって与えられた救いは、まさに堕落した人のための治療です。
一つは病気、もう一つは治療であって、これは符号するものです。
一面、救い主は罪人のため十字架上で死に、罪人を罪から贖われたので、聖なる神は公に人を赦すことができます。
もう一面では、十字架の上で救い主は罪人と共に死なれたので、罪人はもはや肉によって支配されることはありません。
むしろ彼の霊は新しい権威を持ち、体は外面でしもべとなり、また魂は二つの間に存在します。
こうして霊と魂と体という元来の秩序が回復されます。

この節で死が述べられていることを、わたしたちがまず理解しなければ、救いを受けることができないでしょう。
どうか聖霊がわたしたちに啓示してくださいますように。

「しかし、キリスト・イエスのものである人たち」ちは、主イエスを信じるすべての者をさしています。

すべて主を信じた者、再生されたものは、主に属するのです。
この人の霊性がどうであれ、その働きがどうであれ、罪から解放されていてもいなくても、すべて問題ではありません。

ここでは、この人が命の中でキリストに結合されているかどうかです。
言い換えると、再生されたでしょうか?
主イエスを救い主と信じたでしょうか?
もし信じたなら、その人の現在の霊的状態がどうであれ、勝利であっても敗北であっても、この人は十字架上で「肉を十字架につけてしまった」のです。

それは倫理的であるか、あるいは霊的であるかではありません。
知識があるか、働きがあるかではありません。
ただキリストに属する者であるかどうかの事柄です。
もしキリストに属するなら、その人は十字架の上で「肉を十字架につけてしまった」のです。
十字架につけつつあるのではありません、またこれから十字架につけるのでもありません
そうではなく、彼はすでに十字架につけてしまったのです。

わたしたちは焦点をはっきりさせなければなりません。
この節は経験の事柄を語っているのではありません。
あなたの経験がどうであるかではなく、神の事実を述べているのです。
強くても弱くても、「キリスト・イエスのものである人たち」は、「肉をその情と欲と共に十字架につけてしまった」のです。
あなたはなお罪を犯している、というかもしれません。
しかし、あなたはすでに十字架につけてしまった、と神は言われるのです。
あなたは、自分の欲は強いといいます。けれども神は、あなたの肉はすでに十字架につけてしまったといわれます。

どうか今は、あなたの経験に注意しないでください。

まずあなたに対する神の語りかけに注意を払ってください。
もし神の言葉に耳を傾けず、神の言葉を信じないで、ただ毎日あなた自身の経験を見ているだけなら、あなたは決して肉が十字架につけられた経験を持つことはありません。

あなたの感情や経験を見ているだけなら、あなたは決して肉が十字架につけられた経験をもつことはありません。

あなたの感情や経験に注意を払ってはなりません。

神があなたの肉を十字架につけてしまったといわれるのですから、肉は本当に十字架につけられているのです。
わたしたちはまず神の言葉に耳を傾け、神の言葉を信じなければなりません。

そうすれば経験があるでしょう。

神にあなたに、「あなたの肉はすでに十字架につけてしまった」と言われました。
あなたは「アーメン!そうです、わたしの肉は十字架の上につけられています」と答える必要があります。

このようにすれば、あなたは自分の肉が本当に十字架につけられていることを見るでしょう。
コリントの信者は姦淫を犯し、ねたみ、争い、分裂、訴訟、そのほか多くの罪を犯しました。彼らは肉的でした。

けれども彼らは「キリストにある幼子」でしたから、やはりキリストのものでした。
このような信者でさえ、彼らの肉は本当にすでに十字架につけられているのでしょうか?
そうです、これらの肉的なコリントの信者でさえ、十字架につけられているのです。

どうしてでしょう。

わたしたちは認識しなければなりませんが、聖書は、わたしたちがわたしたちを十字架につけるようにとは言いません。
むしろ聖書は、わたしたちは十字架につけられた者である、と言っているのです。

なぜなら、わたしたちが自分自身で十字架につけるのでなく、わたしたちは主イエス・キリストと共に十字架につけられているからです(ガラテヤ2:20、ローマ6:6)。
わたしたちはキリストが十字架につけられたときに、キリストと共に十字架につけられているので、わたしたちの肉も共に十字架につけられているのです。

またわたしたちが十字架につけられたのは、自分自身で十字架につけたのではなく、主イエスが十字架につけられた時に、わたしたちを共に十字架につけてくださったのです。

ですから、神の目に、わたしたちの肉は「十字架につけられてしまった」のです。
この事は、神の目にはすでに行われたこと、達成されたことであり、すでに事実となっているのです。

こういうわけで、人々に経験があってもなくても、神の言葉は言います。
「キリスト・イエスのものである人たちは、肉を・・・十字架につけてしまった」。

もしわたしたちが肉を十字架につける経験を持ちたいなら、わたしたちは経験に注意を払う必要はありません。
もちろん、経験は悪くありません。
しかし経験にあまり地位を与えすぎてはなりません。
神の言葉を信じる必要があります。

「神は、わたしの肉はすでに十字架につけられていると言われました。わたしは本当に、わたしの肉が十字架につけられていることを信じます」。

「神は、わたしの肉はすでに十字架につけられていると言われました。この神の言葉が真実であることを、わたしは告白します」。

このようにすれば経験するでしょう。

わたしたちはまず神の事実に注意を払い、それから人の経験に注意を払うのです。
神の目に、このコリント人の肉は、十字架上で主イエスと共に十字架につけられてしまいました。
けれども彼らには経験がありませんでした。
それは彼らが神の「事実」を認識しなかったからです。

ですから、わたしたちが救いを受ける第1歩は、神の見方で肉を対処することです。

これから肉を十字架につける(未来)のではく、既に肉は十字架につけられている(過去)のです。
このことは、わたしたちが見ていることによらず、わたしたちが信じている神の言葉によって言うことができます。

もしわたしたちが「肉を十字架につけてしまった」というこの点にしっかり立つなら、わたしたちは経験的に肉を対処することに進むことができます。

わたしたちがすべての霊的成長に注意を払わず、この事実にしっかり立つのでなければ、どれほど肉が十字架につけられていると言い聞かせても、真の経験を持つ可能性はありません。

経験を持ちたい人は、まず自分の経験に注意を払うのではなく、ただ神の言葉を信じるべきです。
そうすれば経験することが出来ます。

以上


聖書を正確に読むならば、主イエスが十字架で達成されたことの意味を沢山見ることができるでしょう。
そして、現在が恐ろしく恵まれていることがわかるでしょう。
人が自己を誇ることのないように一方的に与えられた恵みの賜物。
それを受け取るための条件は・・・


信じること


そこには、計り知れない祝福が詰まっています。


震災被害にあわれた方々で未だに苦しまれている方に、主の恵みと祝福が大いに与えられますようにお祈りします。