愛は神様からの贈り物 | イエス・キリストの御名を賛美します

イエス・キリストの御名を賛美します

唯一の救い主である、イエス・キリストの愛を知ってほしい。
聖書の奥義を知ってほしい。
そして、選択して欲しい。

こんばんは、兄弟姉妹の皆様

東日本大震災は心を大切にするキリスト者にとって、決して忘れることが出来ない出来事です。
(少なくともわたしには・・・)
自ら被災なさって、その窮状を知ってほしいとブログをされている方からフォローを受けましたので、紹介します。
http://ameblo.jp/successboss/


今日の記事は、また信仰の姉妹からのメッセージです。


愛は神様からの贈り物


人の一番最初は神と共にありました。人はただ、偶然に生まれて何と無く何処かへ消えて行くような存在ではありません。この広大な全宇宙の中に何一つ偶然などは有り得ません。

全ての天体が、それらの全てを把握し運行しておられる全能者の巨大な意志の中にあります。遥かな銀河系も太陽も、そして、この地球の小さな野原に人知れずに咲く草花も、空も海も、雲も風も、全てのものは、全地全能の創造者の御手にあります。

聖書には――初めに神が天と地を創造した――で始まり――神が「光あれ」と仰せられた。すると光が出来た――とあります。
 
神様は無数の星々の中から、先ず地球を選び、生命を育むに相応しい全ての環境を整えて、数々の生き物を造られました。そして、全ての生き物の最高傑作品として、神の心を投影した人間を造りました。

私たち人間は、実は神の心を現す者として造られた、唯一の生き物なのです。
神の心、それは愛です。

全宇宙は、愛と言う大きな意志の中にあるのです。そして、その愛の意志が具体的に輝いて大きく広がって行く為に、人間を造られたのです。私たちが人を愛したい、また、愛されたいと願うのは、もともと、私たちが愛の存在として造られているからです。

みなさんがおとぎ話しのように聞いておられる一番最初の人間、アダムとエバは神様が食べてはならないと言われた、善悪の知識の木から取って食べた時。

 男は「あなたがくれた女が食べさせました」と
 女は「ヘビが私を惑わせました」と言い訳をしました。
 それが人間の罪の始まりです。
 その時から今日に至るまで、人間が繰り返して来た事は悪事とそれに対する言い訳でした。
 その結果、この世は悲しみ、苦しみの人で一杯になりました。
 どこにも光がなく、希望がなく、生きた証しを持たないまま、人生の終わりを迎えます。
  
 人類の歴史は、罪の歴史です。
 真実な清い神の御前に、誰一人、顔を上げる事の出来ない程、忌まわしい罪の歴史です。
 私たちは地球と言うかけがえのない星に、神に赦されて、住まわせてもらっている間借り人に過ぎません。

たとえ私たちがどんなにそれを否定しようと、全宇宙の家主は、創造主以外にありません。あたかも自分が神ででもあるかの如く、鼓舞して生きる者、虐げられた僕のように卑屈になって生きる者、誰も彼も創造者によって歴史の一瞬を行かされている一被造物に過ぎません。

さて、神に背いた人間は、罪を重ね、もはや取り返しのつかない程遠くに迷い出てしまいました。

神によって生かされている事すら知らず、あたかも自分に何か大きな力でもあるかのように錯覚して生き、好き勝手に旅立って生きます。

この地上の全ての苦しみは、人が自分は一体どこから来て、何の為に生きて、どこに行くかも知らないで、心の赴くままに、罪を犯した事の結果生じたものです。即ち、本当の愛を知らないまま、自我に生きた結果です。

生命の創造者、即ち、親なる神様は、この有様をどんな思いで見てこられたのでしょうか?

親が子を思う心、神が与えて下さった、生命を育てる為に一番必要な愛、人はその愛を一言の「ごめんなさい」と引き換えに捨ててしまったのです。

生命に背を向けた人間の歩みは、歴史の何処を開いても、神様が目を覆いたくなるような世界でした。
人がもう一度愛を取り戻す為に、あらゆる事を成された神様は、もはやこの事以外に成す術が無いと悟られて、大きな苦汁の決断をなさいました。

それは、御一人子を罰する事で、人間の罪を許し、もう一度、神の御許に引き戻すという、とてつもない愛の決断でした
 
イエス・キリストは、人間の犯し続ける全ての罪に対する神の怒りをその身に受けて、殺される為に天から下って来られました。

実にそのご生涯は、この世の苦しみの全てを知り尽くす程の道であり、その最後は人間の受ける最も残酷な極刑であり、もはや、人間の誰も「神なんかにこの苦しみが分るものか!」と決して言う事の出来ない辛酸をなめられました。

この世に殺される為に生まれた人が一人でもあるでしょうか?
身代わりとして罪を負う為に生まれた人があるでしょうか?

私たちの心に潜む重い罪が清められる為に、イエス・キリストは天に対して、「これは私の罪です、私を罰して下さい。」と父なる神の御前に人間をかばって、進み出たのです。

神の御子キリストの命を捨てた愛を通して、天の父は自分が何の為に生きているのか分らない人間の為に、もう一度、その足元を照らす救いの光を下さったのです。
 
人の中で誰一人、生涯罪を犯さずに生きる人はありません。
罪とは「的外れ」(ハマルティア)い言う意味です。

何の為に生まれたかも知らず、好き勝手に生きる人生は「今日」を造られ、全ての命を持ち運んでおられるお方に対する最も的外れな姿です。

人は愛がなければ、生きて行く事が出来ません。
どこかに自分を愛してくれるものはないかと迷います。
自分の心の中を深く見れは、分るように、全てが自分の満足の為に成す事ばかりであり、相手が傷つく事を心に留める事が出来ません。

私たちは神に立ち返らなければ、その生涯を的を外したまま、誰をも愛さずに、終えて行きます。
愛とは悲しみも、苦しみも、痛みも、その為に自分自身の事として捉え、命さえも惜しまない心です。

神様が下さった、本当の人間の心は、どこまでもこの愛を求めて成長して行く無限の心です。
こんな素晴らしい宝物を心深くに埋めたまま、私たちはもう一つの「自我」と言う心で生きているのです。

「私が悪かった」と言えず、「ありがとう」と言えず、それと引き換えに、多くの命を苦しみに落とす人生です。
 
誰のせいでもありません。物事の全ての解決の道は自分の心の中にあります

イエス・キリストは天の栄光の全てを捨てて、その全生涯を罪にまみれた人間に再び、清い生きた心を与える為に歩まれました。その「愛」が私たちの心の奥底にも手付かずのまま埋もれているのです。

どんなに立派に生きても、天に繋がらない人生は的外れです。
生まれる時も死ぬ時も、人は一人です。裸で生まれ、裸で旅立ちます。
ただ一つ持っていけるもの、それが心です。

人生の一つ一つの事柄を正しく解決しないまま、心を偽って来た事の積み重ねは、私たちの思いを暗く行き詰らせて行きます。
 
本当の自分を知らないまま、多くの人は人生を終わります。自分の心が肉体を離れた時、その大きな過ちに気付きます。もはや取り返す事の出来ない時に至ってです。素直になる事、それがどんなに人を成長させるかです。その事を神様がどんなに願っておられるか。

「正直者の頭に神が宿る」神様は混じり気のない素直な心の中に私たちの親として共にいて下さるのです。

神様が自分と共にいて下さるなど、思った事もない人生、偽りの世界は自分の力で何でもやり通せると思っている、大きな過ちの中にいる人生です。

私たちは自分の命を一秒たりとも長らえさせる力のない者です。
どんなに認めたくなくても神様の力なくして、今を生きる事はできません。

―誰でも幼子のようにならなければ神の国に入る事は出来ません―聖書

いつでも真っ直ぐに、神様に顔を上げ胸を張って生きる人生、それはこの世のどんな宝を持ってしても比べる事の出来ない躍動する人生です。
いかなる困難が来ても、それを越える事の出来る力、決して失望する事のない希望、神と共に歩む日々は、私たちの中に全く違った人生を造り出して行くのです。
こんな人生があろうなどとは夢にも思わなかった程に自我から解放された心は躍動します。
感動がいつもあり、心の内に沸き出る喜びがあります。この世の何物にも縛られない心の自由です。
イエス・キリストが私たちに下さった愛は、自分を捨ててでも人に生命を与える死にさえ打ち勝つ愛です。この愛が私たちの心の中にも与えられているのです。

―私の目には、あなたは高価で尊い、私はあなたを愛している―
 この御言葉こそ、聖書を貫く神の心です。

この世界に神が送り出して下さった生命、どれ一つとして同じものはありません。そして、どれ一つとして手を抜いて造られているものはありません。
その生命は輝いて、神の喜びとなる為に造られました。

人の心が素直であったなら、どんな愛の世界が生まれていたでしょうか?
生まれて来た時、どんな心を持っていたのでしょうか?
それこそが自分自身なのです。

今日まで積み重ねて来た自我を勇気を以って、一つ一つ取り除いて下さい。
自分の心の向き合う事は決心のいる事ですが、人生をUターンさせる為に不可欠です。

私が癌になった時、自分の中にもう一人の自分がいる事を知りました。
状態がとても悪く、もはや息をする力もない程衰弱しきっていた時、心の深いところから、「このままで死ぬのか、このままで死ねるのか。」と内部告発のような声が聞こえて来ました。自分なりにちゃんと生きて来たという思いと、これで良いのかという思いが揺れ始めました。

私は背中を押されるように、小さい頃からの汚れた出来事を、一つ一つ口に出して、「ごめんなさい」を言い続けました。それが二時間も続いた時、目の前に、私の犯した罪の十字架を背負って、イバラの冠をかぶられれ、額から血を流しながら処刑場に向かって歩かれる、イエス・キリストが現れられました。

その時、「イエス様は私の罪の為に死なれたんだ」という事が初めて分りました。その後も泣きながら、心に浮かぶ汚れを吐き出し続けました。

ある日、自分の心に不思議な事が起きました。まるでセミの抜け殻のような土け色をして、ぐちゃぐちゃと何か言っている汚い自分の姿の横に、きらきらと輝く光の中で喜んでいる自分がいるのです。

心の中が羽根のように軽くなっていました。
病んでいた癌も抜け殻のように落ちて行きました。

うそのない人生、それは素晴らしい世界です。いつも心に深い平安があって、子供のようにワクワクしながら明日を待ちます。この心の延長線上は、死さえも一つの通過点として、永遠に続くのです。
―私の目には、あなたは高価で尊い-
私たちは、一人一人神の子キリストの命と引き換えに生かされた、かけがえのない神様の宝物です。

ですから、誰一人、罪にまみれて一生を負える事があってはならないのです。全ての生命は、神から出て、神に帰ります。喜んで、天のお父様のところに、「ただ今!!」と替えれるうに、自分の自我と戦って下さる事を心から祈ります。

戦い終えたとき、一人雪の八甲田山で、「私は自由だ!!」と叫んだ心の声は天使の大きな歓声と共に天国に届きました。

内側から新しい生命の泉が湧き出ます。

野の花のように、空の鳥のように生かされるままに、今を喜び、今を感謝して、生きる生命が、みなさまの中に芽生えて来る事を!!

心から祈っています。