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ワンライフプロジェクトのブログ

平成18年(2006年)に 福岡県筑後市で 『ワンライフプロジェクト』 という活動を立ち上げました。
『たったひとつの命だから』この一行の言葉にあなたは何とつなげますか?
 

『お好み焼き屋のおばちゃん』

 

震災の前日、彼は近所のお好み焼屋さんに行きました。

地方出身で一人暮らしの彼にとってお好み焼屋のおばちゃんはお母さんの様な存在でした。

 

「彼女ができた」と話したところ、すごく喜んでくれたそうです。

 

でも翌朝、あの震災でおばちゃんは亡くなりました。

 

約束通り、彼は私を連れてガレキになってしまったお好み焼屋さんの前に行きました。

「おばちゃん、彼女連れて来たよ」と言う彼の言葉を聞いた時涙があふれてきました。

 

本当なら出会えた人だったのに…その時命のはかなさを強く感じました。

 

たったひとつの命だから人との出会いを大切にしたい。

 

今日、岐阜県各務原市の男性から お手紙が届きました音譜

 

息子さんが最重度の知的障がいを持っておられるそうです。

 

息子さんや、そのお仲間さんが、各務原で普通に暮らせるようにと、啓発活動をされているそうです。

文面から、感じ取れる親心・・・

あったかい方だな~おねがい

 

お手紙には、うちのメッセージを講演で使っていいですか?

許可をお願いします、という事が書かれていました。

 

そのメッセージはこちらです。

 

 

◆鳥栖のすみれさん

 

子供のイジメで命を絶つことを考えたという話を聞いて、友人を思い出しました。

 

友人の娘は、少し知能の発達が遅く、小学3年の時から養護学校に行きました。

最初は学校が変わっても、近所の友達が遊びに来ていました。

ところが、ある日、一番仲の良かった子が

「ゴメン、もう遊べないんだ、遊んじゃいけないってママに言われたから。一緒にいると馬鹿になるって」

と、本人に平然と言ったそうです。

 

友人も少し離れた所で聞いていて、一瞬耳を疑い、次の瞬間、娘の表情を見たそうです。

娘は、「じゃあ、またね」と言って、ニコニコして友達に手を振ったそうです。

ああ、言葉の意味が分からなかったんだな・・と、友人は思ったそうです。

もう遊べないのに、この子は友達を失った事すら理解できないんだと、悔しくて悲しくて泣いたそうです。

 

言われた言葉の残酷さにボロボロに傷つき、そして娘はこの先どこまで社会に対応できる力を養えるのかと、不安が恐怖になり、不眠症が始まったそうです。

 

何度一緒に死ぬ事を考えたかわからない・・と、私も後から聞かされました。

 

安定剤がないと日常生活が送れないまでになりました。

 

それから、半年が過ぎた頃、授業参観で子供たちが作文を披露したそうです。

 

娘はこう書いていたそうです。要点しか覚えていませんが。

「あっちゃんが、私を馬鹿だと言った。私はそれを聞いたママがかわいそうでした。私が馬鹿だから、ママが悲しみました。私のママは綺麗で優しい人です。ママを悲しませないで下さい。」・・

 

友人はこの日を境に強い母親になる事を決めました。

それまでのクヨクヨした自分に決別し、とにかく娘を宝物だと自慢して、行く所全てに同伴させました。

いろんな人と会わせました。

勉強も一緒に取り組みました。

 

 あれから12年。

 成人式を迎えいい人達に出会って、現在、娘はパン屋さんで働いています。

 

 友人は言います。

 この子は知能が遅れているんじゃない、怒りという感情を持ち合わせていないのと、人よりのん気なだけなんだと。

 娘の焼くパンは世界一おいしいんだ!と。

 

   人生、何がきっかけで、生きる勇気を与えられるか分かりません。

   そのことを教えてくれた、親友の親子にいつも感謝しています。

 

    私はこうつなぎます。

 

     たったひとつの命だから、命の入れ物のこの体、大事に使ってあげましょう

 

             鳥栖の すみれ

 

 

実は、うちのメンバーはみんな知っていますが、このメッセージを朗読することが出来ない私なのです。

 

書かれた方の想いを、十分に伝える自信がなくて躊躇してしまいます。

 

私には、闘病経験があります。

私自身、そして、息子の。

余命宣告も受けたことがあります。

なので、闘病に関するお手紙のメッセージは、こんなお気持ちだろうなと察して、朗読しています。

しかーーしパー 鳥栖のすみれさんのメッセージは、つかめないのです。

出来ないのですえーん

 

でも、ふさわしい方が存在されているんですね。ラブラブラブラブラブラブラブラブ

やっぱり、この国が好きです。

 

私たちは、役不足です。

躊躇している私を見て、神様が探してくださったのかもしれないな。

しっかり、このメッセージを伝えてくださるを。

神様~~ ありがとう~~~乙女のトキメキ乙女のトキメキ乙女のトキメキ

 

本当にありがたい事です。

 

明日、お返事のお葉書を送らせていただきます。

 

各務原市の大谷さん、よろしくお願いいたします。

わたしのお母さんが、入院をしました。

退院してきてから毎日家にいます。

入院する前は、学校から帰っても、だれもおうちにいなくて、さみしいなと思っていました。

でも、今は毎日いてくれます。
シフォンケーキやクッキーを焼いてまっていてくれます。

たくさん、お母さんと、話すこともできます。

学校が、早く終わらないかな
早くおうちに帰りたいなと思っていました。

でも、今は少しちがいます。

お母さんがおうちにいるのは、病気だからです。


お母さん
病気になる前は、なんでおうちにいてくれないのーって、おこってばかりでごめんなさい。

お母さんが、元気でいてくれるのが一番いいです。


半年、いっしょにいてくれたから、もういいよ。


神さま、私が、お母さんに文句言ったから、お母さんは病気になったのですか?

神さま、お母さんの体を元にもどしてください。

もう、文句言いません。
お手伝いもします。

だから、お薬を飲まなくていい体にもどしてください。

学校で
『たったひとつの命だから』のつづきの話を聞いて、お母さんが病気と戦っている気持ちを初めて知りました。

お母さんが、がんばっている事がわかりました。

私もがんばります。

家族も友達も、そして、みんなの命を大切にします。

だから、全部の病気の人も早くよくなってほしいです。

だから、みんなに心から笑っていてほしいです。

だから、だから、だから
いつも、やさしい気持ちでいたいです。
たったひとつの命だから



福岡県・小学5年生
私の名前は『光』です。

私の母は、生まれてすぐ目の病気になりました。
そして、ほとんど見る事が出来なくなりました。


私が生まれた時
『この子の目は大丈夫ですか?』と、
真っ先にお医者さんに、きいたそうです。

『大丈夫ですよ』と、答えが返ってきて泣いて喜んだそうです。

そして、私の名前は、光を感じることが出来る『光』になりました。



母が私によく話すことがあります。

『赤ちゃんにはね、選べないものが2つあるのよ。
ひとつは、誕生日。
あとひとつは、名前。


誕生日はね、この日に生まれたらすくすく育つんだよって、神様が決められるの。


あとひとつの名前、これは、お母さん達が赤ちゃんを見て、一生懸命考えるの。

赤ちゃんが、みんなに愛される事を願ってつけるのよ。

名前がつくと、赤ちゃんに、自分で生きるチカラが流れ始めるの。

生まれてすぐ、誕生日と名前をもらって

そして、赤ちゃんは、人ととして歩き始めるの』


『お母さんは、光が、世の中のものを、全部自分の目で見て、光を感じて生きてくれるだけで感謝してるのよ。』

『光が、あなたを守ってくれるようにつけたのよ』

そんな話をよく聞かせてくれます。

私は、『光』という名前が大好きです。



1日、何回、名前を呼ばれているのかなって考えて、数えた事があります。

親・先生・友達・近所のおじさん達、みんなが私を『ひかり』と、呼んでくれます。

その日は、一日120回も呼ばれました。

120回も、生きている事を感じる事が出来ました。



友達になる時は、一番に名前を教え合います。
光と呼ばれるから返事をします。

私は、私の名前を大切にして生きます。
名前を大切にすることと、命を大切にすることは、同じ事だと思います。


誕生日と名前は、神様と親からのプレゼント。

私の、たったひとつの命は、この2つのプレゼントから始まりました。

私は、お母さんが見る事が出来なかったものを、全部この目で見て、
光のある世界で生きます、
たったひとつの命だから。


福岡県・小学6年生、光

先月、60歳の誕生日を沢山の身内に囲まれて迎える事が出来ました。

私は、母と二人三脚の人生を送ってきました。

母は、私の為に全力で働いてくれました。

母は、私に、生きていく力があればそれで十分だといつも話していました。

私は、大手企業に就職して、結婚して3人の子を授かりました。

考えられないような幸せに包まれた日々でした。

しかし、一番下の子が3歳・私が33歳の時、母が旅立ちました。

それから2年後、35歳の時に夫がクモ膜下出血で倒れ還らぬ人になりました。

大切な人を立て続けに失った私には、悲しんでいるヒマはありませんでした。

男性並みに仕事をこなし、遠方への出張で家をあける日もありました。

子供達を預ける人もいなかったので、私と子供達の4人で、何とか生きていこう、と話をして、まだ、小学生だった息子達と、主人が遺してくれた家を守ってきました。

いつのまにか、私は女であることを忘れていました。

55歳を過ぎた頃に、子供達がみんな巣立ち、私はマイホームで一人暮らしが始まりました。
それは、とても気楽なものでした。
何時に帰ろうが、何を食べようが、休日に何をしようが、報告する事もなく、思い通りにやれるのです。

私は、自由を手に入れたんだ!
と思いました。

暫くは、のびのびとした私だったと思います。

母が言っていた『自分で生きていく力を身につけた女』に、なれている自分だと自分で満足もしていました。

ところが、ある日、家の階段を踏み外して骨折してしまいました。
大腿骨にボルトを入れる手術を受けました。
長男に、入院手続きをやってもらいました。
家族の存在の有難さを感じました。

退院すると、今度は肺炎で入院。
退院すると、次は軽い心筋梗塞が見つかり手術。

お母さん、無理しているんじゃないの?
お母さん、仕事辞めて家でゆっくりして。
お母さん、一緒に暮らそうよ。
お母さん、一緒に住むのがいやなら生活費は僕たちが何とかするから。

などなど、本当に有難い言葉をかけてくれました。

一人暮らしは自由だと感じていましたが、とても不自由なものだと思い直していたある日。

長年一緒に仕事をしてきた同僚から、プロポーズされました。

主人が亡くなって、自分の格好や体型を気にする事もなく、未亡人のまま終わると思っていた私に、何かの神様が降臨されたとしか思えない出来事でした。

交際もしていないのに、突然のプロポーズです。
慌てました。

何年も何年も忘れていた胸の高鳴りと、恥ずかしさと、私を女として見てくれていた感謝とで、パニックになりました。

年齢も年齢だし、この先の事は時間をかけて考えたいと話をしました。

主人とは、ほとんど旅行をした事がなかったのですが、彼は、休みの度に、遠出していろんな所へ連れて行ってくれます。

10代・20代の頃の青春が再びやってきました。

息子達にも、彼を紹介しました。

母さんの好きにしたらいい、僕たちは応援するからと言ってくれました。


お互いに、最初の結婚相手を失って
心寄り添える存在でいれたら
私にはそれで十分です。


そうやって迎えた60歳の誕生日でした。

私の家族・彼の家族
両方集まってくれて
総勢15人。
こんなに沢山の人にお祝いをしてもらえるなんて、本当に私は幸せ者だと思いました。



そして、長男が、話し始めました。

今まで、僕たちを育ててくれてありがとう。
これからは、僕たちのお母さんとしてではなく、
○○さんの奥さんとして生きてください。


がむしゃらに働いてきたお母さんの幸せを、天国の父さんも願っているから、と。

きちんと入籍をして、
一緒に暮らしてもらった方が僕たちも安心だし、僕たちに父さんが出来るのは大きな喜びだから、と。


60歳を過ぎて、また嫁ぐ日が来るなんて、思ってもみませんでした。


人生に手遅れはないですね。
私は、そう思います。

たったひとつの命です。
諦める事が一番やっちゃいけないことなんでしょうね。

私は、還暦を迎え、干支の二巡目をスタートさせました。
その年に、二度目の結婚です。

気恥ずかしさで、周りに話す事が出来ずにいますが、勇気をいただきたく、こちらにメッセージを送らせてもらいました。

人生に手遅れはないですね、
これが、私のたったひとつの命に繋ぐ言葉です。
僕は、小学6年生です。
入院していて、その病院で
たったひとつの命だから
の、本を読みました。

僕と同じように、病気と戦っている人の文章がいくつもあって、僕は心から共感しました。

僕の病気は、白血病という血液の病気です。
病気が分かった時から、お母さんがあんまり笑わなくなりました。
お父さんも言葉に力が感じられません。

最初は、すぐ退院出来ると聞いていました。
クラスのみんなにも、すぐ戻ってくると言っていました。

退院が何度も伸び、治療しても治療しても僕は元気にはなりませんでした。
反対に、だんだん起き上がる事が苦しくなってきました。

薬を体に入れても、飲んでも、僕の体が治らないのはどうしてだろう?
悪い病気なんだ!と、思い始めました。
先生に思い切ってきいてみました。
僕の病気は、何という名前なのか。
戦うのは僕だから。

僕は、小さいころから柔道をやっています。
僕が戦う相手は目の前にいる対戦相手だけです。
監督が
『いいか、余計な事は考えるな、目の前の相手と戦う事だけ考えろ!
そうでなきゃ勝てんぞ!』
と、いつも言ってくれました。

病気も同じだと思いました。

先生は、お父さん達と相談して、白血病だと教えてくれました。
治すまでに時間がかかるし、治す方法を見つけながら薬を選んでいるんだと聞きました。

治らないかもしれない病気なんだと分かりました。

僕は、小学6年生で良かったなと思います。
なぜなら、先生の話を聞いても、あんまり理解出来ないからです。

目の前の相手が、白血病という名前だと分かっただけでいい、僕はそう思います。

これから、僕はこの相手と戦っていきます。

監督に教えてもらった事を守ります。
余計な事は考えません。

注射を打たれても、薬を入れられても、僕は戦います。

僕を産んでくれたお母さんが泣かないために。

家に帰って、友達といっぱい遊んで、もっと柔道強くなって、大会に出たいから。

そして、たったひとつの命だから
戦える体があるから。


・・・


お母様からの言葉も添えられていました


昨日、息子の病院へ行くと
これを、ワンライフプロジェクトさんに送って欲しい
と、言われました。
iPadで打った息子の文章がありました。

おっとりとした性格で、人に自分の意見が言えない子だと思ったので、6才から柔道を習わせました。

だんだん活発な子になり、親として、息子の成長を喜んでいたある日、突然倒れ、そのまま入院。
そして、今は抗がん剤治療を受けているところです。

この文章を読んだ時、自分に言い聞かせ、こうやって発奮する方法を息子は身につけていたんだと知りました。

目の前の相手と戦う事
本人にしか出来ない事
私はそれを見守るしか出来ない事

複雑な思いがあります。

でも、親の私も同じです。
私も戦います!目の前の相手と。
息子と一緒に。


心に希望が湧きました。
ありがとうございます。

9月に伺う長野西高校の石坂先生より

メッセージが届きました。



何度もお会いした事があります。


私よりいくつかお兄さんの石坂先生。

しかし、とてもお若い!のです。

最初にお会いした時、なんて無邪気な先生なんだろう

と、思いました。

笑顔が少年のようで。



再会がとても楽しみです


『朗読会を通して伝えたいこと』

これがとても明確で

真っ直ぐな想いが強い先生。

私、いつも圧倒させられます。



そんな石坂先生のメッセージです





支えられて


 私は現在、通信制の高校に勤務しています。


 生徒たちは様々な背景や状況から、全日制でも定時制でもない通信制を選択して学んでいます。


ほとんど生徒は週一回日曜日に登校して授業を受けてあとの6日間は仕事をしながらレポートを作成して学校に郵送します。

生徒たちはとても真面目に取り組んで、単位修得・卒業を目指します。私はそんな彼らの手助けをしたいと思っています。


 

 そういう私は、30歳の時にスキーで激しく転倒し、病院に運び込まれました。


一命はとりとめたものの、脛髄損傷と診断され、腕も足もすべてが全く動かない身体となってしまいました。

頭を固定され、病室の天井を眺めるだけの一日が2カ月間続きました。

この時、自由に動く身体を失い、絶望のどん底で、希望の持てない”失望”を手に入れていました。

 

 しかし、少しずつ指先から動くようになり、8カ月後にはリハビリテーションセンターへ移り、機能回復訓練に励むようになりました。

「一命をとりとめたのには、何か理由があるはずだ。」

「きっと、こんな身体でもできることはある。」などなど・・・・


 後遺障害として首から下に麻痺が残るものの、通信教育で大学を卒業し直して、高校の社会科の教諭として(以前は保健体育)教壇に立てるようになりました

 

 教壇に復帰して25年が経過する中で、30代40代と比べると体力は低下して、以前出来ていたことが難しくなりました。


そんな私に対して、細かく気配りをしてくる学年主任のF先生・印刷に手間取っていると手伝ってくるM先生・レポートがボックスに山のようになると持ってきてくるT先生とW先生・添削し終わったレポートを運んでくるD先生、そして職員室でつまずいて転んでしまった時は直ぐに床を修繕してくれた事務長・教頭先生・校長先生また毎週登校すると職員室に私を訪ね、色々と気配りをしてくれる3年B組の君など多くの先生方や生徒そしていつも心配を掛けている家族に支えられて今の私があると思っています。

 

出来ないことを数え上げたらきりがありませんが、こんな私にも出来ることはあります。

生徒が興味わくような授業をし答えを導き出し易いレポートの作成、悩みがあったり挫折感・絶望感を感じている生徒に寄り添うことは出来る思っています。



 「たったひとつの命だから」

    「何かできることがあるはず」


上手く表現はできませんが、

きっとあるはずだと、思い続けていこうと思います。


 

(長野市・58歳・石坂茂)

 

私はいらない子。

私は、何のために生まれて来たのか
分からない。

友達はよく親とお出掛けをする。
家族で旅行にも行く。

私にはそんな思い出はひとつもない。

母は言う。
『どこにもついて来ない子』だと。

私は思う。
『私に、どこに行きたいか』
それを何故訊かないのかと。



母は言う。
『あなたは楽しみすら持てない子』だと。

私は思う。
『やりたいと言って、やらせてくれた事がひとつでもあったのか』と。


私は、友達と同じ中学校へ行きたかった。
小学4年だった私は、分からなかった。
受験というものが何を意味するのか。
友達と離れてしまうという事も、
落ちこぼれになってしまうという事も。


少し有名な学校の制服を着た私を連れて歩く事
これがやりたかった母。
私ではなく、その学校の制服が自慢だった母。


中学校に入った私は、みんなについて行くだけで精一杯。
そこに、自由はなかった。
惨めな私。

学校で勉強して
塾で勉強して
家でも勉強して
そうやって過ごした6年間。

友達もいない。
世の中の事も分からない。

私は人間。
人間ってこうやって、生きていくものなの?


私は、病気。
病名は『不用物』


こんな自分にサヨナラ出来るなんて
考えた事もなかった。


私は、今年の3月、大学受験に失敗した。
有名な大学に入らなければ
母に捨てられると思っての大学受験に。


予備校に入って3カ月が過ぎた。

突然、母が入院した。
母のいきすぎる行動を見かねた父が精神科に連れて行った。

世の中には、そんな病気があるのかと驚くような病名がつけられた。

私も予備軍だ。


7月6日、19歳になった。
お休みしよう。
もう、私を束縛するものは何もない。

父にきいた。
私、大学行かなくても生きていけるの?

父は答えた。
当たり前さ。
楽しく笑って生きていけばいいんだぞ。


変わらなきゃ私。
今変わらなきゃ。


母のせいにして、自分の心をいじめてきたのは、自分自身だ。

母は一生懸命だっただけだ。


私も怖かっただけだ。


私、ピアノを習う。
保育士の免許をとる。
なりたい職業は保育士さん、と、答えていた小さい頃の私の夢にチャレンジしてみる。

これからは、自分の心で決めていく。


お母さん、あなたの自慢の娘ではなくなります。

いい大学に通う娘にはなりません。

でも、自分の力で生きていける娘になりますから。


たったひとつの命だから
私はもう迷いません。
自分の道は、自分で決めて進みます。


更に思います。
19年の私の人生にありがとう。

谷底を味わった19年にありがとう。

父と母にありがとう。

この命にありがとう。



19歳のわたし


私は埼玉に住む17歳
大学受験を控えて、ひたすらに勉強に向かっている毎日です。

私は、勉強が嫌いじゃありません。
自分が生きていく上で役に立つと思っているからです。


でも、あまりにも味気ない毎日に、辟易しているところです。

新潟の高校3年生の男子が自殺をしたとニュースで知りました。

イジメが原因だそうです。

私は、不思議に思うのです。

勉強って何なのでしょう?

勉強やってる人間が、自殺をする。
勉強やってる人間が、人をいじめる。

勉強って、なんですか?

何を私たちは教わっているのですか?



国語・古典・数学・化学・物理・地理・歴史・倫理・英語‥
毎日毎日、沢山のことを頭に入れていく日々です。
これって、生きる為のものではないのでしょうか?

生きる為に学んでいて
何故、死を選ぶしかない状況が出来るのでしょう?

私は、17年も生きていますが
人はこうやって生きるものだよ!
と、教えてくれる人に出会っていません。


出会えていないと感じます。


ふと、図書館で
『たったひとつの命だから』
の、本を見つけました。


図書館で、涙と鼻水でハンカチがグチョグチョになりました。

私は、生きる人の力強さを感じました。

大切な人の『死』を経験した人
あるいは、生きる目的を見失った人
自分自身が、病気や人間関係に苦しんでいる人

とてつもなく大きな喪失感だったり、閉塞感だったりを経験されています。

でも、人間って、そこからが右と左に分かれるのかなと感じました。


それを受け止めて前向きになれる人と、塞ぎ込んで、そこから這い上がれない人と、二種類あるのかなと。


その時に、私が勉強している事が、どれくらい活かされるのか、大人になって分かるのでしょうか。

無駄ではないと思いますが、私の心は、果たして前向きになる選択が出来るのでしょうか?

ハッキリ言って
自信がありません。


強烈にイジメられたら、私も死にたくなると思います。
その時に助けてくれるほど、友達も持っていません。
先生に相談なんて出来ないと思います。


彼氏が死んでしまって、立ち直る事が出来るのか?

親が死んでしまって、帰る場所がなくなったら生きていく事が出来るのか?

17年も生きてきたのに、私って何も出来ない!

そう、何も出来ないのです。

焦りました。


東日本大震災で、私は親戚の家族の死を体験しました。
あの時に、とにかく生きる事!
何よりもまず命が一番だ!
と、私は思いました。

なのに、いざとなったら
私に生きる力があるのか、自信がありません。


たったひとつの命だからこそ
自分で自分をちゃんと見つめなきゃいけないんですよね。

自分を見る事なく、ただなんとなく、朝起きて学校行って塾に行って帰って寝る。
これを生きていると勘違いしている気がします。
これは、作業です。
私は、そう感じます。


心に刺激がなさ過ぎて
生きている実感がないのです。


もどかしいです。
今の毎日は、人間らしくないと感じつつも、変えられない自分がもどかしいです。


青い青い空を見ながら
自分の心も晴れ晴れしていなきゃ、生きる意味がないぞ〜〜
って、叫んでいます。

私は、どこかで生きてる事を実感出来る私になります。

せっかく与えてもらった命だから。
たったひとつの命だから。


埼玉県・17歳女子高生

おはようございます。
大雨の被害で沢山の命が奪われました。

ひとつひとつが尊い命なのに
予期せぬ形で無くなると
神様はどうやって人の寿命を決められているのかなって考えてしまいます。


入院して3ヶ月が経ちました。

3年に一度風邪をひくくらいで、あとは寝込んだ事もない私が、突然、白血病だと言われ、病院のベッドで過ごしています。

私の入院で、我が家の役割分担が大きく変わりました。
しかし、子供達が力を合わせて、乗り切ってくれています。
子供達は大きく成長しました。

末娘はまだ10歳。
一人では絶対にやらなかった宿題も、ちゃんとするようになりました。

中学の娘は、部活を辞めて家事を頑張っています。
元々料理が好きな子なので、目覚めたライオンのように張り切っています。
今の世の中は、ネットでレシピを検索出来ます。
前の日に、翌日の献立を立てるようで、お嫁にいったらこの経験が活かされるのかなと感じています。

高校生の長男と主人は、このチビママさんのいいなりのようです。
雑用は全部二人でこなしているようです。

風呂掃除ひとつした事のない長男が、毎日一番最後に風呂に入り、あがる時に洗って出てくるようです。


一番大変なのは、実家の両親です。
心配を醸し出してやってきます。

毎日、時間もたっぷりあるので、二人で私の付き添いをしてくれています。

病院にいるだけで、病人になっちゃうよ、帰っていいよって言うのに、毎日やってきます。
親にとって子供の私は、いつまでたってもカワイイ子供なんでしょうね。
これもまた、ありがたい事です。



私、沢山泣きました。

もっと生きたい!
もっとやりたい事がある!
せめて、子供達が成人するまでは!

そう叫びながら泣きました。


もう涙は枯れました。

泣いて、何かが落ちたのか
生きたい!生きたい!と思う気持ちに変化があります。

もし、43歳で人生が終わったならば
43年間にありがとうです。

主人・子供達・友達・仲間
いろんな人に出会わせてもらった事にありがとうです。

この頃、このありがとうが、よく出てくるのです。


私がいないと、我が家は大変だと思っていましたが、ここまで長期戦になると、チームワークが整い、それぞれに自立してくれて案外大丈夫なものです。

私は、何故か不安がありません。

もうダメだ、というドン底を味わったからでしょうか。

なるようにしかならない!
ここで慌ててどうするよ!

やりたかった事がやれた人生だったじゃない、私。

コンプレックスの塊で、結婚相手どころか彼氏も出来ないと思い込んでいたのに、大好きになった人と一緒になれました。


友達もいっぱいいます。

旦那様のおかげで、旅行も沢山させてもらいました。

ずっとやりたかったお花屋さんの仕事にも就けました。


ベッドの上で、不幸だ不幸だと思って泣いていたら、この負のスパイラルから抜け出せない事も知りました。


よ〜く考えてみたのです。
私のどこが不幸なのかと。
私、ものすごく幸せ者です。


今、人生折り返しなのかもしれません。
ここで、何かに気付けよ!って
神様に時間を与えてもらったような気がします。

後半、もっと自分の人生を生きたらいいんだよって、誰かが教えてくれているようです。


あとは、この病院にいる期限を自分で決めて、脱出あるのみです。

私の体です。
私の人生です。
たったひとつの命です。
命は弱いものではなく、限りなく広大なエネルギーです。

私は、次のステージを見つけます。

誰のためでもなく
私が私の人生を全うするために。


今の気持ち
『全部にありがとう』を大切にして
生き抜きます!
たったひとつの命だから・・・


三重県・がんばる43歳