ワンライフプロジェクトのブログ -3ページ目

ワンライフプロジェクトのブログ

平成18年(2006年)に 福岡県筑後市で 『ワンライフプロジェクト』 という活動を立ち上げました。
『たったひとつの命だから』この一行の言葉にあなたは何とつなげますか?
 

朝方、「優子」と呼ばれて南の窓に目をやると
笑ってる母の顔があった。

母が言った。
「あんたが、こっちの世界で場所とりしといてって言うから、あったかくて、広い所をとったよ」って。

「ああ、そんな事、言ったかもしれない」
と、夢の中で返事する。


17歳の時に、交通事故に遭い
私は、三途の川とやらを渡って
少しだけあっちの世界を見て
そして帰ってきた。

あの時、帰らなければ
私は、『孤独の霊界』に自ら進んでた。

だってね
あの頃の私は、本心を誰にも見せず
心がひとりぼっちだったので。

言えば良かったんだよね。
話せば楽になれていたんだよね。

でも
あの時見た『孤独の霊界』という真っ暗な世界が、本当に存在するのなら
そんな所へ行くなーーーっ!
と、周りの大切な人達に言うっきゃない。


しかし!
我が母上は、どうも
『場所取り』に成功したらしい。笑笑

あったかい所って事は
明るいって事。

待ってるって事は、一人じゃないって事。


おーーーっ!
よくやった!母上。


あとは、沢山の人達とあっちで集えるように
私もそこへ行けるように
笑って
笑って
生きがい持って生き抜く事やね。


高学歴はない
お金もない
立派な教養を身につけている訳でもない
なんなら、バツイチで結婚の失敗者
尊敬されるような生き方をしている訳でもない


ただ
私には誇りに思える事がある!


ステキな家族と友達と仲間に恵まれた事だーっ!!


今朝の母の笑顔が
私に勇気をくれた

俄然、そのまま真っ直ぐ生きろ!と


母にふたつお願いをした。
『90歳になっても、元気に過ごしているお父さんを、まだ連れていかんでね』

そして
『3人の息子達に、ステキな縁談を持ってきてくれ〜っ』と

ひ孫を抱いてもらいたい。


君という太陽を失って
気付けば5年という月日が流れていました。

君は太陽であり
時には静寂の中に静かに灯りを放つロウソクのようでもあったね。

その灯りが消えてしまったあの日から、僕はどうやって生きてきたのか思い出せない程だよ。

君は言っていた。
「もし、寝たきりになる日が来たら、延命だけはしないでね」と。
「君より僕は先に逝くから
そんな話をしても無駄だよ」と答えていた。

しかし、あれは君の予言だったのかな‥

突然の交通事故で、目を開ける事も、会話をする事も出来無くなった。

あの日の君の言葉がグルグルと何度も駆け巡る。

お医者さんと話し合った。

本当にもう君の笑顔は戻らないのか
声を聞かせてもくれないのか
手を握り返してくれる事もないのかと。

そして
静かに
君に繋がれていた装置が外されていった。

子供達が
お母さん、お母さんと呼びかけると
君のまつげにキラキラと小さな宝石が光って、ゆっくりと流れ落ちた。

勿体無くて、拭う事は出来なかったよ。

やっぱり聞こえていたんだね。
僕達の声は届いていたんだね。

穏やかな顔で
永い眠りにつく君を見ながら
経験した事のない感情が湧いて来た。

誰か時間を止めてくれ!
どうか、引き離さないでくれ!
天を見上げて
どのくらい祈っただろうか。


あれから子供達はそれぞれの道を歩み始めた。


僕や子供達を、しっかりと社会に送り出してくれたのは、間違いなく君だ。

ありがとう。
みんな幸せに過ごしているから。

ありったけのありがとうを
大きな声で君に届けたい。

ありがとう。
ありがとう。

春がきたら
僕はおじいちゃんになるよ。
君が繋いでくれた
たったひとつの命から
また、新しいたったひとつの命が誕生するよ。

かけがえのない命だから
君の分まで
新しい命に
祖父として愛を注ぐよ。


福岡県 60歳男性

今から15年前の1月

中学3年だった次男が
『お母さん、Hさんが学校に来てないんだ。
これから、受験があるとに』

『俺たちじゃ無理
 あとは頼んだ』
と、言ってきた。

そして、Hさんのメールアドレスを渡された。

次男が小学5年生で発病して以来
彼の同級生と私は仲良しさんになっていた。

あのしっかり者のHに何があったのか?

というか、それを
私なんぞに託していいのー??
と、ちょっとビビった。

とりあえず、連絡をとって
うちに遊びに来てもらって
お茶をして
特別な話は何もせず
笑って過ごした。

それから間もなくして
西尾えいかちゃんが
横浜から来てくれた。

神様が引き合わせた出会いだったと思う。

病気と戦っている女の子との出会い
やりとり

沢山の事を感じてくれたのだろう。

Hは、心療内科にかかってた。
薬も沢山飲んでた。
うちに、家出もしてきた。

私がおののくくらい
Hは、荒れていた。

でも、半年で彼女は生まれ変わった。

一緒にいる友達がいた
バカな大人達がいた
フラッと寄れる公民館みたいな何もない桑野さんちもあった。

あと、Hには、とびっきりの強運があったんだろうなぁ〜

Hは、とても素敵なレディーになりましたよ〜

中学生が、同級生を殺めてしまう悲しい事件がおきてしまったけれど‥

おきる前に

人と人が助け合う姿を見せたり
笑い合う場・楽になれる場所を作ったり

年齢関係なく
ごちゃごちゃ一緒にいれる空間を作ったら

ひとつくらい
悲しい事件を未然に防ぐ事
出来るんじゃないかな

そういう人間達を見て
神様にほほえんでもらいたい♡

『たったひとつの命だから』

向き合えそうで向き合えない言葉だなと思います。

 

65歳で発病した母は、

3年間、闘病生活を送りました。

 

ある日、病院のベッドで寝ていた母が

「最期は、家で迎えたい」

と、言いました。

 

「私は、ひとりぼっちのこの病室で、淋しい気持ちで死んでいくのは嫌だ」

「子供じみているけど、連れて帰ってもらえんやろか」

そう言いました。

 

ドクターと話し合って、

家での食後の薬をきちんと飲むこと

無理しないことを約束させて、

覚悟を決めて、三日後に連れて帰りました。

 

いろいろな管から解放された母は、家に帰るととても元気になりました。

好きな物を食べ

自由にテレビを見て

誰に遠慮することもなく、大笑いしていました。

 

「やっと、人間らしい生活に戻れた~」

「病院だと、大きいおならも気持ち良く出来んかったんよ」

「だいたい、一日中パジャマ姿というのが間違っていると思うわ

 女はおしゃれを楽しまなくっちゃ」

と、言っていました。

 

痛みが強い日は、部屋から出てこないので、すぐ分かります。

でも、痛いと言えば病院へ連れ戻されることが分かっているので

痛いとも言いません。

しんどい日があったと思います。

 

意地っ張りだけど、明るくて楽しい事が大好きな母らしい姿でした。

 

2020年のお正月を迎えることは厳しいと言われていましたが

孫たちと賑やかに過ごしてくれました。

 

それから10日くらい経ったころ、安心したのか、急におとなしくなりました。

 

私は、母の死が近いことを感じました。

親戚や友達に会いに来てもらいました。

 

母は、「みんなにいいお別れができたよ、ありがとね」

と言い、とてもすがすがしい顔をしていました。

 

数日後に呼吸困難になった母を救急車で運びました。

その日から、言葉を発することは出来なくなりました。

でも、こちらからの呼びかけには、かすかに頷いて応えてくれました。

 

「お母さん、ありがとう」

そう言うと、涙を流すのです。

 

お別れの日、

兄・妹と三人で母の手を握り

母を連れて帰って過ごした時間を振り返りました。

私が作ったご飯を食べ、大好きなテレビを見ながらお菓子を食べ、眠たい時に眠り

昔話を何度も繰り返し、

大切な人たちにも会えて、

生き生きとした母だったなと、私自身がどこかやり切った気持ちになりました。

 

母自身もまた『やり終えたよ』という表情をしていました。

 

呼吸も、心臓も、何もかも、ゆっくりフェードアウトしていき

子供たち・孫たち・姪や甥に囲まれて

天に召されて逝ってしまいました。

 

人間は、いつか必ず命の終わりの時を迎えます。

その日の迎え方を最後に教わった気がします。

 

   母の人生

   母の選択

   母の心

   母の命

 

全部を自分で決めて生きた人でした。

私は母をとても尊敬しています。

 

母の愛情で育った私たちは、本当に幸せだなと思います。

 

私たち兄妹が幼い頃に、父が亡くなって

とても苦労をして育ててくれたと思うのですが

母が大変な思いをしていた記憶がありません。

「周りの人に助けてもらったからね」と、笑っていました。

 

生き方も、そして、死に方も

サッパリしていた母でした。

私は、母の心の持ち方がとても好きでした。

 

「おきたことを、『苦しみ』と、とるか、

 あるいは『成長のためのお勉強』と、とるか

 それは、その人次第

 お母さんは、頭が悪いから全部勉強だと思って生きてきた」

 

この言葉が、母から教わった人生の教訓です。

 

人は、ひとつずつ命が与えられ

ひとつずつ育って

ひとつずつ帰っていく

それが、たったひとつの命ということでしょうか・・・

 

「たったひとつの命だから」

つなげる言葉を考える時間は

私にとって、母との思い出に浸る空間と、母に教わったことを確認する時間でした。

 

たったひとつの命だから

私は、私の思ったとおりに生きる

 

福岡県 40歳女性

 

 

 

 

 

 

 

山が紅く染まりました。 

今年も見事な秋深い景色を見る事が出来ました。

 人の命の長さは誰が決めるのでしょう。 

 周りから頼られ、慕われた主人は60歳で空の上に帰っていきました。 

 人を攻撃したり 

人を傷つけたり 

人を馬鹿にしたり 

人をさげすんだりするような行動は全くなかった人が、あっちに帰る時は一瞬でした。 



 朝、体操をして、元気に玄関から会社へ向かった主人 

『行ってきます』と言ったきりまだ、帰ってきません。 

長いお出掛けです。 

たぶん、7000日程です。



 主人が、『ただいま〜』と言って玄関の扉をいつ開けてもいいように、20年前と同じように主人の好きな花を飾っています。 



 夫婦というものは不思議なものです。あんなに喧嘩をしていたのに、喧嘩の原因を思い出す事が出来ません。


 生きていた時は、怒られないようにしなくちゃって思っていたのに、怒られた記憶もありません。


 『お前は、ブルーがよく似合う』と、言ってくれてブルーの洋服を選んでもらっていたのに、主人に似合う色が、私には分かりません。


 旅行に行く行き先は、私の希望の土地でした。


 亭主関白な主人でした。 

亭主関白だったと思います。 

 しかし、何故でしょうか‥思い出す主人は、ワンマンではなく、私の思いを聞き入れてくれた優しい男性です。 


 本当は心優しい人でした。

亡くなって、時間が経つ程、そう、思います。


 主人が、亡くなった時立ち上がる日はもうこないと思っていましたが、時と共に、悲しみが柔らいでいきます。


 紅葉が鮮やかなこの季節に主人は旅立ちました。そして、我が家に帰ってくるのもまた紅葉の時だと感じています。 



 どうですか? 

あなたはまだ帰ってきませんか? 

 そろそろ会いたいです。 

 ひとりぼっちに飽きてきました。



 私のお勤めは、完了でよろしいでしょうか? 



 4人の子供達、9人の孫達、3人のひ孫達 

あなたと私の命からこんなにも沢山の命が生まれましたよ。 

 なんとありがたい事でしょう。 


 あなたは、『きよジイ』と、呼ばれていますよ。私は『みっちゃん』です。


 沢山の家族と笑えている今 

あなたがいつ帰ってきてもいいようにちゃんとお別れの言葉は言っていますよ。



 お別れの言葉は「またね」 


 「またね」と微笑んで言えるうちにどうか私の元へ帰ってきてくださいな。


 2人で手を繋いで大きな虹を渡りたいものです。


 虹を渡って見える世界が楽しみです。


 私の命が七色の光に変わるなんてきっと素晴らしいでしょうね。


 たったひとつの命 

ラストは虹色の光になるそう思えてなりません。


 きっと、温かい光の世界から主人が帰ってきます。 


 よく頑張ったなたったひとつの命でそう言うはずです。



 愛いっぱいに包まれてこのたったひとつの命をもって主人とまた歩みたい、

みんなを見守れる空の上で



長野県

78歳女性


両親が離婚をしたのは、僕が3歳の時でした。

兄は父に引き取られたので、一人っ子として育ちました。


優しかった母の思い出はありません。

中学にあがると、家事は全部僕の担当でした。

母はスーパーで働いていたので、土曜も日曜も母は仕事で、母にかまってもらう事はありませんでした。


高校に上がって、戸籍謄本をとり、思い切って父の実家を訪ねて、15年ぶりに父と兄と会いました。


父は、一目で僕の事を分かってくれました。


僕は、母との生活に疲れきっていました。

何度も死ぬ事を考えていました。

母が僕に渡すお金はごくわずかでした。

幼い頃から一週間のうち、半分しか母は帰ってきませんでした。

帰って来ても夜遅く、母と会話する事もありませんでした。

母に対する感情は、憎しみが一番です。

母を好きにはなれません。

僕が味わった孤独感と惨めさは一生消える事はありません。


父は、そんな僕の話を、じっくり聞いてくれました。


「知らなかったとはいえ、すまなかった」と、頭を下げてくれました。

母と話をつけてくれたので、僕も父の家で暮らす事になりました。


父は、祖父が築いた会社を経営していて、いずれ兄がその後を継ぎます。僕はその補佐が出来れば懸命に働きたいと思います。

やっと人間らしく生きる事が出来そうです。


母には、ここまで育ててくれた事に感謝の気持ちはありません。産んでくれてありがとうとも思えません。


ただ、このまま楽しみ一つ見つけられず、

自分が生きる意味も分からず、

そして何より、

一番尊い家族への愛情を感じる事の出来ない毎日から抜け出したい。

今はそれだけです。


父と兄との生活で

人に対して

愛情が持てる自分になりたい

たった一つの命だから






たったひとつの命だから

彼のほんの少し後ろを
ついていきたい


いつも穏やかで
少しだけ笑みを浮かべて
私の話を聞いてくれる彼

困った事がおきたら
一緒に考えて
一緒に解決してくれる


同じ年なのに頼りになる彼


ほんの少し抜けたところがあって
トレーナーを後ろ前に着ていたりする

お出掛けして
車の渋滞を避けようとして
反対方向に走っていた事もある


パスタはお箸で食べる
スニーカーより下駄が好き
この国に生まれたからには
純和風に生きるんだ!
とか言いながら
食べ物で一番好きなのはチーズだ


ある日、喧嘩をした

とても些細な事だった

3日間、連絡を取り合わなかった

でも、無理
私には彼と離れるなんて無理

いて当たり前の存在
一緒にいるのが当たり前だと思ってた


この当たり前が
本当は凄く尊いことで、奇跡なのだ


可愛げのない私
謝るのが苦手でなかなか素直になれない


ごめんね、の一言で
彼の腕に飛び込める私になりたい


とびきり優しい人なので
ごめんがなくても私のワガママを許してくれる


彼は宇宙みたいな人
私はその宇宙を見上げて
今日は東に、明日は西に
自由にウロウロするだけ


私の夢は
彼が仕事に打ち込めるように
家庭を守ること

女も仕事をする時代
家事も半分こって友達は言うけれど
私は家事は私がやる
彼はおうちでは王様でいてもらいたい

それを男女差別なんて思わない


私は社会で生きれるタイプではないので
私の分まで
社会ではライオンでいてもらいたい


私は私
彼は彼

違っているからこそ365日一緒にいれるのだろうと思う

違っている事は悪くない

昨日、プロポーズをしてくれた

どんな時でも彼についていく
彼のたったひとつの命と
私のたったひとつの命が
足しても引いてもひとつであるような
そんな夫婦を目指します

二人でたったひとつの命だから


高校2年生になった頃から親友が笑わなくなった

 

ずっと一緒にいたけれど、高校が別々になったので、会って話すことが簡単には出来なくなってしまった

 

頑張り屋さんで

頼れる友達で

明るくて

頭もよくて

ずっとずっと友達でいれると思ってた

 

親友と同じ高校に通う友達から突然電話が鳴った

珍しい

電話ってことは、急用なんだろうな、何かな?

そんな気持ちで電話に出ると

『あやが、あやが、・・・』

と、言いながら泣いている

 

『あやが死んじゃったよ』

 

そう聞いて、そのあとは記憶にない

 

何があったの?

何で私は気付かなかったの?

私、何も聞いてない

 

咄嗟にあやにラインをする

『今、どこ?』 『会いたい』 『返信待ってる』

どんなにどんなに送っても返事が来ない

 

目の前がぐるぐる回る

部屋の天井も回る

泣き叫んでも、のたうち回っても、何日も待っても

返事は来なかった

 

コロナの渦中に亡くなったあやに

最期のお別れをすることもできませんでした

 

しばらくして、あやの家に挨拶に行き

あやの写真に手を合わせてきました

 

あやとのラインを読み返す

私とのラインの中のあやは元気なのに・・・

こんなことになるなら、もっと一緒にいればよかった

こんなことになるなら、こんなことになるなら

 

あやのクラスメイトの子の話だと

部活の先輩や友達から、言葉で傷つけられていたという

 

一人で悩んでいたのだろうと

 

明るくて、優しい人が自殺をしてしまうなんて悲しすぎる

 

あやの自殺の理由を探しても、私には分からない

 

あやの『たったひとつの命』は、17年で区切られました

 

あやを、自殺に追い込んだ人がいるなら、今すぐ心を入れ替えてください。

人の命を奪うような行動をとった人を、許せない人が沢山いることを知ってください。

 

「あやの分まで笑って、楽しく生きてね」

と、あやのお母さんに言われたので私は生きます。

生きます。

『自分の命も、人の命も、大切にできる人間になる』

そう決めました。

 

愛のない人の言葉・人の視線に負けない私になります、たったひとつの命だから

 

高校2年生 匿名希望

 

 

2006年に立ち上げて、早15年が過ぎ

16年目となったワンライフプロジェクトですが

このたび

『一般社団法人 ワンライフプロジェクト』
として、新しい歩みをすることになりました。

 

 

現在、4巻発刊している

『たったひとつの命だから』 シリーズの本ですが

第5巻を発刊する事になり、只今、編集を行っています。

 

このブログにも沢山のメッセージを寄せていただきました。

第5巻に掲載させていただきます。

編集の都合により、全てのメッセージを掲載できないことが、とても心苦しいのですが・・・

 

     

 

 

 

 

2006年に発足した際、

西尾えいかちゃんが書いた文字を

私は、駅や学校・お店・ファミレス・・・

いろんな所に貼らせてもらいたいと思いました。

 

毎日目にする場所に。

 

何気なく目にしている看板を

『死にたいな』と思った時に思い出してもらえたら

『あと少し、踏ん張ってみようかな』と

思い直してもらえるんじゃないかと・・

 

     

 

 

活動の原点に戻り、看板を飾る活動を本格的にやっていきます。

 

 

そのための、第一歩

地元筑後市の古民家をお借りして

第一回マルシェを行います。

 

     

 

友人・知人、沢山の人が協力してくださることになり

13(土)・14(日)の二日間、多くの方との出会いの場を持たせていただきます。

 

 

私たちスタッフに会いに来てください。

 

 

ワンライフプロジェクトは、

本・えいかちゃんの額縁・八女杉で作った安眠枕・ 八女杉で作った殺菌板・・

を販売します。

 

    

 

    

 

 

   

 

仲間も、素敵なものを取り組んでくれます~

  ☆だご汁、おでん、おにぎりコーナー

  ☆お野菜、お漬物

  ☆アクセサリー、髪飾り

  ☆粘土細工

  ☆シャンプー・トリートメント販売

  ☆もみほぐし

  ☆アクセスバーズ(脳の断捨離)

  ☆ハンドトリートメント

  ☆カラービューティーラボ

 

チラシには、掲載が間に合いませんでしたが

   ☆梅が枝餅の粉

   ☆八女茶

 


 

 

 

筑後から始まった小さな活動ですが

15年、応援してくださった多くの方々に

改めて感謝申し上げます。

 

 

13.14日、多くの皆さんにお会いできますように。