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第一章 2稿 2/4 030~054

☆030

キジは道にいたツジからの脱出者である名も知らぬ男、

キタのその言葉を疑わなかった。

なぜかはわからない。

しかしそれを不思議とキジは疑わなかった。

乞食がいるという屋敷の存在までキジは知らなかった。

しかしそこを訪れることを自然と欲していた。

なぜかはわからない。

男が最後に言った「お名前を」という声が耳に残っていた。

「あの人とはまたどこかで会うな、お互い生きていれば」

キジはそう予感した。

近づいてきたツジはその風に死臭を運んできた。

それはキジに戦地を思い出させた。

都市の外壁にかなりの人影が折り重なっているのが見える。

振り返れば僧と兵の一団は三つに別れはじめていた。

南門の隊の者たちは動かず、そこから東の隊、西と北の隊が

それぞれ左右に大きく迂回の道をとって動き出していた。

ツジは敵地ではない。

しかし都市の攻略にも似てキジは改めて呼吸を整えた。

キジはその息をひゅるるると死臭の風に乗せてみた。

壁際の道に出たキジは壁を沿って南門へと進んだ。

それはキタが歩いて来た道でもある。

死体を見ればそれは餓死によるもので病ではなかった。

残暑があと半月続いていれば疫病が発生しただろうと見た。

遠くから見た時には感じられなかった人の気配、

壁づたいにそれは強く感じられてきた。

門に近づくにつれて死体の様は残酷なものになっていく。

そこには暴行の跡が残されていた。

殴られた跡のない、血のない死体が少なくなっていった。

先の南門から誰かが立ってこちらを見ている。

その影は歩き近づくキジを認知して飛ぶように中へ消えた。

キジは南門に着いた

☆031

キタもキジの言うことを疑わずに待っていた。

そしてしばらくして左手から六、七頭の馬が来た。

三人の馬士がこれらを引いていた。

先に行った長い弓を持ったあの人と比べて

それら馬士たちは背が低く腹を出した下衆であった。

座り込んでいたキタを見つけて足を止めるとその一人が

「おめツジから来たんけ?ツジから来たんけ?」と

出っ腹を隠しもせずにキタへまくしたててきた。

黙っているキタに「ツジから来たんだろおめ、おめツジけ」

などと口早に言っている。

さらに別の一人が「おめくっせぇ~ど、な、おめくせど」と

キタの体に染み込んだ死臭に気付いて騒ぎ出した。

「かぁ~くっせぇ~どくっせ」 「あひゃひゃくっせ~どくせ」

そして無反応なキタを笑いからかいはじめた。

あまりにも無反応なキタに一人が啖呵を切り

「だったらこったらべったぁ!」

「ごいおまえっだらこったらごぉ!」

などと何かをわめいて顔を近づけてはキタの頭へと吠え続けた。

そうしているうちに先頭の馬がひとりでに先へと歩きはじめた。

馬士は慌ててその離していた手綱を拾いにキタから離れた。

そして振り返り何かをキタに叫びながらそのまま離れて行った。

馬は三、四頭づつに縦に繋がれてそれぞれ馬士が引いていた。

その最後尾の馬は黒く、他の馬よりもひとまわり大きかった。

その黒い馬だけは短く縛られた手綱を付けてはいたが

引かれてはおらず鞍も一頭だけ付けられていなかった。

そして馬士がその鞍を背負ってその横を歩いていた。

黒い馬は引かれず先の馬たちの後を付いて歩いて行った。

その馬の名はギンザという。

ギンザは野生馬だった。

人に育てられた馬よりも体が太く大きく、気性が激しい。

戦地では決して後ろへは引かず強く前へと出る馬だった。

この才馬を荒野に見つけて手なずけたのがキジであった。

ギンザはキジの馬であり、その背に他人を乗せなかった。

そしてキジ以外の者に引かれることを強く拒む馬だった。

ギンザを引いて歩くことはキジ以外の者には難しかった。

キジは大陸へこのギンザを連れて渡る準備を進めていた

☆032

馬を見やってキタは再度荷を担いだ。

あの背の高い弓の人はツジが夕方から騒ぎになると言った。

キタはその前にしておきたいと思っていたことがある。

そのために先へと急いだ。

もらった餅のおかげで腹が落ち着き少し力が湧いていた。

キタはその先に小さな水の流れのあることを知っていた。

小さな川であるが水の流れはさらに少なかった。

川といってもひとまたぎできるような流れである。

そこへ降り全裸となってキタは体を横にして洗った。

体を水につけるなどというのは何日ぶりだろうか。

そのまま髪もすべて水でぬぐった。

水はやせた体にとても冷たく感じられ

空気が冷たかったがしばらくそのままでおり

乾かした後にまた全身を横にして洗い直した。

そうやって三度、同じく全身を上にして下にして水で流した。

そしてツジから持ち及んだ荷の中から一枚、

男が着てもおかしくない柄を選んで着直し

それまでの物は小川に浸し、上げて乾かし置いた。

着慣れない布の感触、新しい帯は肌に擦れた。

それ以外の物はすべて陽と風に当てて、ツジの臭いを消し去った。

しばらくぶりの水浴びに疲れキタはそこで眠った。

陽は傾いているが夕刻までにはまだ早い。

静かなのはここでも同じである。

しばらくすると水の流れる音が聞こえてきた

☆033

一方、ツジのキジは南門をくぐっていた。

それを待ち受けていた明らかに外部からの男たちの視線、

前、左右の三方に散らばって相当な数がこちらを見ている。

武装したキジに驚き黙って見つめていた。

「悪さしによくもまぁこれだけな」とキジは独り言した。

ツジ住民と思われる者はほとんど倒れているか座っていた。

それらの視線はまったく力がなくうつろだった。

やはり聞いていたとおり相当に荒廃が進んだ後だな、と

見渡したキジはその左手に倒れている僧に近づいた。

それは先に説教をした若僧である。

その僧が一団の者であることをキジは知っていた。

僧たちが何やら先に若いのを二人行かせたと聞いた。

その意味をキジは訊かなかった。

その若僧の二人はツジの四つの門の様子を先に見て

後から来る兄弟子たちの一団に伝える役を託されていた。

しかし途中で要らぬ経を唱え説教した結果これとなった。

たしか二人で行ったはずだったが、と

キジは若僧の砂だらけの首筋に指を当てた。

僧はまだ生きていた、しかし大量の血を吹いている。

今夜あたりが山かと、死なずにすんだとしてもこの叩かれ様、

後からくる腫れに相当苦しむなと、キジは思った。

そして動かさずそのままにしておいた。

無表情でそれを見守っている男たちの騒ぎっぷりが思われる。

見返したキジは目を細め立ち上がり

「知らぬ存ぜぬ許さんぞ…」と囁いた。

そして門を背に歩きはじめると鎧の音が静けさに響いた。

その動きにあわせて犯罪者たちも行く。

しかしキジが進むほどにその数は減っていき

ツジ内奥にまで付いてくる者はいなかった

☆034

ツジの内部へ進むほどに人の気はなくなり

静まり返っていくのはキタが歩いた時と同じである。

これから起こされる騒乱を前に傾いた陽が道の凹凸と石々に影を付けていた。

その陽の映し出す荒廃の様と色は真昼とは違っていた。

乾いた空気、動けずにいる住民の視線を時々に感じながら

キジは略奪された家々の中を覗いてみたりした。

家屋の暗がりに残されたその略奪の様子に

人とはどこでも似たようなことをするものだ、とそして

火を付けて廻る者が現れていないだけまだいい、と

キジは思った。

しかし南門周辺にたむろするよそからの男たちが

この内部へと足を進めないだけあって確かに異様だった。

略奪の爪痕の続いていくそれは確かに気持ちは悪い。

キジは思った。

あの脱出した人はこの辺りを通ったのだろうな…

それであの表情とはかなり肝っ玉がすわった男だな、と。

そして微笑みを浮かべたが死を待つ視線がそれを見ていた。

気付いたキジはざっとその方を向き眉をひそめて思った。

笑っちゃまずいな、こんな所で…

☆035

進んだそこにこれのことだなと思わせる屋敷があった。

開かれたままの正門を見てキジが思ったのが

あの人はここへ入ったのか、ということだった。

傾いた陽に屋敷の正面は影となっていた。

開け放たれた屋敷の入り口、その奥は暗がりだった。

んんー、とキジは低くうなって頭を上げた。

その広い間口に不気味を感じる。

外の四隊がその配置に着いてしまう前に何とかしたい。

ここに屋敷があったようにここに乞食はいたのだろう。

まだ中にいるのか。

その乞食もこんな場所で一人いるとはずいぶんな奴だ、と

厳しい船旅に連れて行くにも不足はない。

屋敷に入る前にキジは来た道の南北を見通した。

馬はまだ来ないか、と

遠く人影がふらついて道を渡るのが見える。

静かな夕刻前、キジは屋敷へと入った

☆036

屋敷の敷居をまたごうとしてキジはやめた。

「おかしい」

彼の感覚は危険に対して驚くほど敏感に発達している。

すぐに後ずさりしてそのまま屋敷の入り口の右手、北側に伏せた。

屋根を見上げたが人影はなく左後ろの門も同じである。

そしてそのまま屋敷の北側の端まで壁を沿い移動しさらに西側へと歩伏した。

このとき彼は瞬時に屋敷内部の異常を見抜いた。

そして表通りと裏通りの中間、

敷地の正面と裏面の中間にあたる場所に止まった。

北側のその空間は屋敷の壁と屋敷を廻る北壁との間にあたる。

人の歩いた跡のない地面には美しい苔が張りつめていた。

しばらくの間、キジはその苔を指先で愛でていた。

そして屋敷内部に足音を確認し即、そのまま西側へと動いた。

聞こえたそれは乞食の歩みにしてはずいぶんと重い音がした。

屋敷の裏側、裏門の面に出たキジはこの建物の造り、

その東西よりも南北が、より奥行きの深い構造なのを知った。

そしてそのまま南へ下り伏し南側に庭のあることを確認した。

その途中に過ぎてきた裏戸が開いていた。

それはキタがこの屋敷から出てきた場所である。

キジは壁に登り解いた縄と弓で屋敷の屋根にみるみる登った。

そこに立ち上がり見れば四方にはツジの屋根が続いている。

四つの門も見えないがほぼその位置を確認することができた。

もうそろそろ着いてもよさそうな頃だ、北の門の連中も。

暗くなってから討ち入る気かあの僧たちは、とキジは思う。

屋根の上を再度、来た方向に東へと戻り進んだ。

そしてその途中に屋根の穴、中庭のある場所を見つけた。

あの湧き水のある中庭である

☆037

キジは屋根からその片眼だけを覗かせて中庭をうかがった。

室内からの足音が聞こえる。

すると眼下の北側の廊下から中庭へと男が降り出てきた。

そしてあの中庭の湧き水に伏せりその水を飲んでいる。

その時、そこに湧き水があることをキジは知った。

さらにその場所から男へ向けて弓を引き言った。

「動くな」

男は屋根の上で弓を構えるキジを驚いたように見上げた。

その男はこの屋敷の主のあの剛毛の従者であった。

もちろんキジはそれを知らないでいる。

膝をついたまま固まっている男にキジは問いただした。

「この家の者か」

見上げている剛毛の従者は無言でうなずいた。

陽を背負った屋根の上のキジがひときわ大きく見える。

キジは弓で狙ったままの体勢で中庭に飛び降りて来た。

鎧と武具の音が響く。

立ち上がったキジの体格の良さに従者はさらに驚いた。

キジはその男の様子と装いからこれを下男だと考えた。

「この家の名は」

キジが訊いた。

従者はしばらく間をおいて「カワナニ」と答えた。

その名にキジは聞き覚えがあった。

朝廷で毒盛りからの騒ぎを起こしキサラギを失脚した男、

その男がツジとは深い関係にありその親族がツジにいる、

その失脚の男の名がカワナニといった。

その名を聞いてキジはすぐに推定した。

屋敷がそのカワナニの親族のものだということを

☆038

動かないままでいるその男の様子にキジは弓を下ろし

その手の平を上にあげ立つようにと男に促した。

背後左右の室内に人の気配は感じられない、

男が一人でここへ来ていたのが読める。

剛毛の従者はキタが裏門から出た後にやって来ていた。

表の通りを歩いて来たためにキタとは入れ違っていた。

キジは無言の内に思い巡らせていた。

この男は何をしにこんな場所にまで一人来たのか、

そして男はその手に棒状の布の包みを握っていた。

それを見られたくないような表情でもある。

キジはその男の名などを訊く気はまったくなかった。

ただし男の持つその棒状の布の包みには気が向いていた。

その長さ形が刀剣を包んでいるように見えたためである。

そしてその通りだった。

「刀が使えるのか」と突然にキジは言い放った。

従者は一瞬キジを見開き、何も言わずにその目線を外した。

「見せてくれないか」

男は動かない。

キジがその手を男に伸ばすと男は片足を後ろへと引いた。

キジの目が鋭く輝き、一回その鼻息の音を男へと聞かせた。

剛毛の従者はその主に命じられ屋敷の様子を見に来ていた。

そして一番気になっていたのが十日前に犯した犯罪である。

それは従者の主も同じだった

☆039

「ここに何の用だ」と訊いたキジに男は黙っている。

ここでキジは男がかなり酔っていることに気付いた。

傾いた陽、異様に静かな中庭にあの水の流れる音がする。

キジは一歩進み、続いていっきに男の傍らへと立ち上がり

左手でその布の包みを強引にひねり奪った。

「うぐぁっ」

キジは男の上げた声に右手でその胸ぐらを掴んで弾いた。

飛ばされた男は東側の廊下前へと倒れ込んだ。

男の胸毛の感触がキジの拳に残る。

キジはその包みを解き中にやはりと刀を見つけた。

その造りは実戦用にしては軽く薄い。

しかし悪い品ではなく、むしろ良い物だった。

抜いて見ればその刃に血糊はない。

しかし以前付いた血糊の一部、

それが拭き取られぬままわずかに刃に残されていた。

その刀は今日は使われなかったが以前確かに使われた。

この血糊の状態から見て約十日前頃か、

この男が人を斬ったのは、と。

キジは倒れたままでいる従者を見据えた

☆040

キジは奪った刀を鞘に収め北側の廊下へと上がった。

そしてそのまま西、南と廻りながらそれぞれの内部を伺った。

腰をついたままの従者はそのキジの様子を目で追っている。

東の廊下を歩こうとしたキジに振り向き後ずさりする従者。

「中には誰もいないのか」

キジの問いに従者はうなずいた。

室内は荒らされている、いくつかの足跡も確認した、

しかしそれ以上に異様な気配が北側の内部から感じられる。

キジは従者に告げた。

「私が戻るまでここで待っているんだ、それまで刀は預かる」

従者はわずかに困惑の表情を見せた。

「居なくなっても構わん、ただしその時はこの刀は戻らんぞ。

私は朝廷から遣わされてここへ来たんだ、悪く思うな。

元はここにお前も住んでいたのだろう、なにも逃げることはない」

そう言って北側の廊下へと進み廊下で中庭を一周した。

キジは目付役ながらもツジの混乱に乗じた者たち全てを捕縛する気でいた。

そしてこの剛毛の男も何か犯罪を犯していると確信していた

☆041

北側の廊下からその室内へとキジは入った。

死臭がさらに強くなるのを察知しながらの薄暗い部屋。

北側へと仕切りをひとつ越え、さらにひとつ越え進む。

外側を廻って来たときには感じなかった重たさと異臭。

その奥に錠の外れたままの部屋を見たとき、

キジは異様の発端がここだと直感した。

そこに死体があることは見ずにもわかった。

しかしかすかに気配もしている。

その気配が何なのかキジにはわからず不思議だった。

振り返れば明るい中庭が、そこに従者が立ってこちらを見ている。

「くっくっくっくっくっ」

その立ち姿の間抜けっぷりにキジは吹き出すのを我慢した。

その替わりに大きく微笑んでその手を挙げて合図してみた。

ついでに中腰になりその両手を広げ上げて舌を出して見せた。

従者は何の反応もせず、キジのいる方向を見つめている。

さらにキジは鼻をつまんで両足を上げ下げして見せた。

従者はそのままで動かない。

そんな小さな動作では見えないのかとキジは思った。

室内は薄暗く中庭は明るい、そのせいもあるかと。

しかし見えてもいいものだと思い

今度は自分の尻を従者に突き出し何度も叩いて見せた。

従者は動かない。

つまらないなと、キジは思って錠部屋に肩を入れた

☆ 042

「牢か…」

金持ちなら誰もがやるその遊びの跡にキジは呟いた。

重い錠扉を両手で広げ開け中庭からの光にさらそうとした。

しかし午後の傾いた陽はその奥の間には届かない。

窓のない部屋はさらに暗く異臭は極みに漂っていた。

その死臭には血の臭いが含まれている。

そこにあるのが普通の死に方ではないことがわかった。

目が暗がりに慣れる前にキジはその部屋の全体を視野に入れた。

部屋の中に立派に組まれた牢だった。

太い柱は頑丈そうにどす黒い。

牢の天井は低かったが立って歩ける高さだった。

その間取りはここでなされた数々の下品の痕を醸し出している。

片膝をつくキジは嗅覚が鈍くなっていくのを感じていた。

目を細めながら見えたのは牢の中には四人が倒れている。

その死体は整然と並んでいた。

誰かが死体を動かした。

その不自然な様を見た途端、キジは嫌になった。

向かって左側から、全裸の女。

全身に刀傷を負っている。

その傷跡から見て奪ってきた刀の血糊はこれだと感じた。

その隣に衣服を着た女が二人、共に顔を潰されている。

その衣装からこの屋敷、もしくはどこかの女中かと考えた。

そして一番右に一人、女着でこちらに背を向けていた

☆043

うたた寝から目覚めたキタは残りの餅も食べ

荷を背負ってその先にある家に寄っている。

そこはツジから離れた一軒家、農家であった。

その家はツジの近隣でも最たる豪農の一軒である。

その表向きは飢饉の影響を被ったようであった。

家のまわりは荒れ放題となっていた。

しかしその内実は違う。

その家は毎日の食料には事欠かないでいた。

わざと人が寄らないようにと荒れた風を装っていた。

キタはそれを知っていた。

ツジに飢饉が見舞ってしばらく後、飢饉二ヶ月後の末頃、

童顔の女をツジに訪ね夜中偶然に、放浪癖のキタはこの家の近くを通った。

その家からは水炊きの匂いが漏れていた。

近づいて中を覗けばこの家の者たちが食べていた。

それからしばらく経った夜中、キタはまた覗いた。

飢饉の進行とは無関係に家族は盛んに食べていた。

そうしてツジが僧と兵に平定される日の直前の昼間にもキタはまた来た。

その家人はまるで無口で無反応だった。

しかしそのように装っているのをキタは知っていた。

その夜覗けば、皆また盛んに食べていた

☆044

農家の主人はキタにいろいろと尋ねた。

そのキタの持つ荷に態度を豹変させたのである。

ツジから来たのか、その荷の着物はどこから、と

死臭を消してこざっぱりしたキタに問い続けた。

しかしキタはその荷の着物は見せたが問いには答えない。

口のきけない振りをしたのである。

そしてある時は口を開け、ある時は口を結んで、

身振り手振りでこの品を食料と替えるように伝えた。

その着物欲しさに食料がないと主人は言えなかった。

食料の蓄えはある、しかし主人はそれも言えないでいた。

以前どこかで見たかこの口のきけぬ男、飢えているようでもない。

着衣も汚れておらずツジ外部から来た商人なのだろうか。

主人は広げられた着物のいくつかを手に入れたいと思った。

しかし食料のあることが外部に伝わっては困る。

金でどうだと訊いてみたが商人はうなずかない。

どうするか迷っているうちに後ろから主人の妻が出て来た。

その肥えた女を見たキタはこれ見よと隠しておいた反物を

一本広げて見せた。

それを見た夫婦は今手にしなければ手に入らないと思った。

そして女は貰うようにと盛んに主人をつつきはじめた。

そして主人は折れた。

ここに食料があるということを人に言わないならと言い

キタをさらに奥の土間へ入れた。

もともと口がきけないのだから喋るはずもないだろう

主人はそんなことも考えていた。

意地悪な男である

☆045

キジはその女着の背に気配を感じた。

生きている…

部屋の外から感じた気配はこれかと、

そしてその顔を見るためキジはその牢部屋へ完全に入った。

先のキタもここまでは進み入らなかった。

北に向かって寝かされているそれら四体、

キジはその牢の正面と平行に右へと横にゆっくり動いた。

薄い闇に異臭がさらに強まったのがわかる。

よどんだ空気、キジはさらに入る。

牢正面の中心を過ぎ、二人目の女中の足下を越えた。

そしてその奥の背に近寄っていった。

かすかに息の音がするのか。

黒く汚れた素足、そのアゴから見えそうな向こう側の横顔。

男か…

それは突然起き上がった。

「ぐっ」として一瞬キジの体が止まる。

上半身を起こしたそれを薄闇にキジは凝視した。

三体の死体を横に二人の間に沈黙があった。

「臭い」

そうキジが感じたとき女着が言った。

「おうまさん、ぱっかぱっか」

しばらくしてそれはそう言った。

キジはまだ凝視している。

「おうまさん、ぱっかぱっか」

女着のそれはキタを見送ったあの乞食だった。

「乞食」

キジは瞬間的に道端に座っていたキタの顔を思い出した。

そして、そうだよくわかったなと乞食に言いかけたとき

後ろの戸が閉まりきっていくときだった。

気がついたとき暗闇に錠の閉まる音がした

☆046

奥の土間に通されたキタの前に穀物と野菜が並ぶ。

あるところにはあるものだ、それはいつも変わらない。

取引の主導権は一切言葉を話さないキタが終始握った。

だからこそ口のきけない振りをしたのである。

主人はうつむきながらもその目はキタを監視していた。

その様子を少し離れた場所から肥えた妻が伺っている。

キタは数枚の着物と引き換えに食料を手に入れた。

そしてこれと見せた一本の反物は手渡さなかった。

それを見た主人がキタに詰め寄ったがキタは無視した。

そして反物が欲しければさらに食の量を増やすよう身振りした。

キタの勝手な主張に夫婦は険しい表情をして見つめ合った。

無駄口をきかずキタは食料をまとめそこを素早く立ち去った。

物々交換とはその場から出てしまった者が勝ちなのである。

残された夫婦は黙ったまま交換の着物と伴侶の顔を見合わせていた。

明らかにキタは一枚上手だった。

農家を出たキタは来た道を引き返す。

そしてその背で家の中からの視線をはっきりと感じていた。

キタは体を洗った小川に戻り水を蓄え腰を下ろして待った。

見上げた空に陽は傾きその静けさはすでに心地よくもある。

その放浪の男は自分が今度も生き残ったことを実感していた。

そしてまた眠りそうになった頃、走り寄る足音に体を起こした。

それは先の豪農の主人であり、その手には袋を抱えている。

主人はこの袋分だけ食料を増やしたからあの反物をくれと言う。

キタはしばらく考える振りをして主人をじらしたあとに従った。

こうしてキタは労せずにしてその荷をいい塩梅に増やした。

そしてキタは自分は明日ツジへ行くのだと身振りで嘘を伝えた。

主人はこの男がツジの現状を知らないことを知り黙っていた。

この男がツジでひどい目にあえばいいと思ったからである。

だから男にはツジの何も教えずにそのまま家へと帰って行った。

しかし渡した反物はキタの持つ物のうち最も品が悪い部類の一物だった。

今晩、夫婦は品の意外な悪さに気付くだろうとキタは思った。

さらにキタはツジ方向へと向かい屋根の見える小高い場所へ来た。

あの眉間に大きなホクロを持つ弓の人と会話した場所である。

これから起こるというツジの騒ぎを高みの見物しようと考えていた。

そしてさっそくそこでツジの屋敷から持ち合わせた釜で煮炊きをした。

キタは久々の食にたどりつき、その体に力がさらに戻るのを感じた。

明日の早朝、渡した物を返せとあの夫婦はこの道を探して来る。

返さない場合には殴るためにと棍棒をも持って来るだろう。

そうなる前に農家を越えこの道をさらに進む予定でキタはいた。

その前に見物だ。

そしてすべてがキタの予想した通りになった。

キタが早く道を抜けて行ったため主人はこれを見つけなかった

☆047

異臭の暗闇の中でキジは小さく舌を鳴らして思った。

─あの毛深い野郎は忙しい時に余計なことをしてくれた

しばらくすると暗闇に目が慣れてくる。

死体はそのまま、乞食も上半身を起こしたまま動かない。

それにしてもすごい臭いだ、とキジは思っていた。

あの道端にいた人もこの臭いを嗅いだのか、と。

そして牢を出て閉じられた戸に静かに寄った。

その堅さと重さは弓と剣で貫くことはできない。

戸と戸の透き間にわずかに外光が射し見えた。

錠をかけた相手が戸の外の近くにいる気配を感じる。

キジをその牢のある錠部屋に閉じ込めたのは剛毛の従者だった。

あの鎧の兵士を閉じ込めた自分を大したものだと感じていた。

そして閉めた戸のすぐそこで耳を澄まして中を伺っていた。

上から見れば一枚戸を境に従者とキジはほぼ並んでいる。

「ニャァァ~~~オ…」

キジは閉じ込めてくれたお礼に小さく猫の鳴き真似をした。

おやと外の従者はさらに耳をそばだてる。

キジはさらに何回か鳴いてやりしばらくそれをやめたあと、

まだ耳があると感じる場所へかかとを叩きつけて驚かせた。

キジはその荷からのロウソクに火を付けた。

動かない死体と乞食を改めてそれぞれに照らし見た。

乞食は口をもぐつかせているが明かりには無反応だった。

めくらか…そう思いしかしキジは黙っていた。

牢のいちばん奥は屋敷の北側の壁である。

キジは牢に入り死体の横を通ってその壁に触れた。

そしてクルミほどの大きさの火薬玉をいくつか取り出してほぐし

中の火薬を壁際の床に小高く盛った。

そしてその直上に火薬玉のいくつかを長針で刺し留めた。

キジは乞食の手を取り立たせて牢の外の戸際へと連れた。

手のロウソクを火薬へとそのまま放り壁を爆破した。

その爆音に外の従者は目を広げ何だか悪い予感がした。

壁にできた穴からキジと乞食は外へ出た

☆048

牢部屋の爆音に従者はキジが追ってくると慌てた。

表から出るか、裏から出るか、屋敷の中をふためいた。

そうしてどうすべきか迷った末、再度中庭に降り立ったが

キジが屋根の上からやって来たことを思い出し

玉砂利で足を滑らせながら途端に廊下へと飛び上がった。

奪われた刀などいらない、捕まる前に逃げなくてはと、

冷や汗で呼吸を切らしながらおたおたと裏へと向かった。

従者は今では一刻も早くこの屋敷の外に出たかった。

しかし裏戸は外側から何かで閉じられており開かない。

キジが先回りをして外からそれを既に閉めていた。

従者は来た部屋を引き返して今度は表へとまわった。

早く出たい、捕まる前に逃げなくてはと一層に焦った。

自分の足音だけがする屋敷の中、表の戸は開いていた。

屋敷の暗めの室内から表通りの明るい陽と道が見える。

あの兵士はいないだろうなと、従者はゆっくりと覗いた。

右にも左にも、誰もいない。

そして一歩二歩と、遂に屋敷の外へと踏み出たところで、

その肩に屋根の上から飛んできたキジの重い膝が落ちてきた。

低く鈍い音がして従者はそのまま前に突っ伏した。

従者はキジの姿を見て痛みと別に脂汗が大量に流れ出るのを感じた。

キジはその腰の裏から鉄の首輪を出し一瞬の間に従者の首に、

そして続けて鉄の手錠を取り出してそれを従者の手首に巻いた。

それは拷問のための道具のひとつであり

両手首を首のうしろで留めることができるように造られている。

キジは従者の両手首を強引に持ち上げその首の後ろに留めた。

そして従者から取り上げた刀を鞘から抜いて従者に持たせた。

そしてその鞘は毛と汗だらけの胸元へと突き立ててやった。

従者は怯え目を見開いて何度も何度も唾を飲み込んでいた。

刀を背中に振りかざしたままの格好になっている従者の姿に

キジは開けた口の両端を親指と人差し指でなぞり笑って言った。

「似合ってるぞ、逃げてみろ。今度はおまえの番だ」と

☆049

従者は付けられた首輪と手錠に激しく瞬きをしていた。

キジは従者に訊いた。

「屋敷の中の死体はその刀を使ったな?」

従者は答えずキジを見つめて唾を飲んだ。

「着たままの女たち二人もおまえが殺したか」

従者は両脇を開け首後ろに刀を提げて黙ったままである。

その様子を頭を傾けて見下していたキジは言った。

「答えれば首か手かどちらか鍵を渡してやってもいいんだ、

ここの家主は今どこにいる、カワナニは」

従者は鍵は欲しいがそれは言えないという様子だった。

「おまえは答えられないことばかりだな」

キジは苦笑しながら筒の水を口に含んだ。

従者は自分の置かれた状況が非常に悪いことに気を揉めた。

「死体を並べたのも、あれもおまえか」というキジの問いに

すかさず「いや、あれは私ではありませぬ!」と答えた。

それを聞いたキジは大笑いして言った。

「ならばあれ以外はおまえの仕業ということだな」

失敗したと遅れて気付いた従者のうつむく姿にキジは告げた。

「心配しなくていい。おまえがカワナニの所へ戻ることは

二度とないから。主人の顔色を伺うことも二度とないんだよ」

そう言ったキジの眼光に冷酷を察知して従者は恐れ固まった。

思い出してキジは自分が牢部屋に入る前、従者におどけたこと

それが見えたかどうかを訊いたが従者は固まって動かなかった。

「何だ、それも答えてくれんのかおまえは」

夕刻へと近づいていく空を見上げ南門の方角に目をやったキジ。

馬はまだか…どいつもこいつも…

四隊はすでにその各門へと着いているはずである。

いつ僧侶たちによるツジ粛清が開始されてもおかしくはない。

その時、静けさに遠くホラガイの音が聞こえた。

音の来た方角を聞き定めようとキジは上空を見上げる。

従者はギロリと目を剥いた

☆050

そのホラガイの音は南からのものだった。

平坦に吹くそれは準備の前にあることの知らせである。

それに続いて北、西とホラガイが鳴った。

それぞれ微妙に音階の違うそれらが重なり鳴り聞こえる。

キジは天空にその視線を当ててその音を聞いていた。

その様子を怯える従者が見つめ仰いでいる。

キジは今、ツジの中央部付近にいた。

そして東門の方角を見た。

東門からの応答がない。

キジは目を細めた。

しばらくその平坦なホラガイの鳴りが遠く聞こえていた。

東が鳴らない。

そして北から抑揚を付けたホラガイの音がした。

その音は北門が閉められたことを意味する。

キジは動かずその音を黙視した。

しばらくして西門からも同じ抑揚のホラガイが鳴った。

おかしい、東門がまったく応答しない。

キジはそれらの様子をじっとして耳に集中させた。

そして南から抑揚のホラガイが鳴った。

東門の閉じたことを確認せずに南門が閉じられた。

東で何かが起こった、キジは察知した。

僧侶たちの策がその予想通りには運んでいない。

キジは東門に向かって歩きはじめた、

首輪と腕輪をはめた男のことなどまったく忘れて。

そのままで置いていかれようとする従者は慌てた。

しかし東門へと走りはじめたキジにそれが届くはずもない。

キジは東門へと走った。

死を待つ者たちの視線がその武具の音に振り向く。

その死の静寂を切り裂いてキジが行く

☆051

南門ではすでに騒ぎが起こされていた。

この南門に最も多くの僧侶たち八十人が配置されている。

そしてそれに対応して兵たちの多くもここに十二人いた。

この南門の僧侶たちの中に男を抱き犯すこと、

それを習慣とする者たちが数多く含まれていた。

その代表格ともいえる変態がツジへと入る前に

その外廻りをキジに強く願ったあの体格の良い僧である。

彼は兄弟子の内でも年長であり皆これを批判できなかった。

彼とその一派がその習慣を続けても皆これを放っておいた。

そして男色の僧たちは以前からこの日を心待ちにしていた。

その睾丸が張って南門外で待っている間も興奮して震えた。

東門からの応答がないことはわかっている。

しかし待ちきれず南門を閉めるように独断しそれを強行した。

あの体格の良い僧侶も閉めろ!閉めろ!と命令の大声を上げた。

兵士は東門を指摘したが混乱で皆それをまったく聞かなかった。

兵士たちも最後は流れに抗いきれずに僧たちと一緒にツジへと入った。

そして南門は閉められた。

ツジにいた犯罪者たちはその僧と兵の入門の様子に騒然とした。

僧たちの多くのは詔の実現が関心事でツジを粛清するためだけにやって来ていた。

逃げる犯罪者たちを捕まえて素手で次々と打ち倒していった。

僧たちの腕力は非常に強く犯罪者たちは歯が立たなかった。

兵士たちは闘わずにその成り行きを後ろから見守っている。

その一方で男色の一派も捕まえた男たちを

次々と門近くの家屋へと連れ込んだ。

捕まった男たちは皆それら僧たちの怪力に驚いた。

身ぐるみをはがされ両脇を掴まれ次ぎの部屋へと運ばれる。

奥で待っていたのは全裸で勃起した腕組みの僧侶たちだった。

その先頭があの体格の良い僧であり彼は常に一番手であった

☆052

南門で乱僧たちの暴れる様子を見ていた兵士は

そこに血を吹いて倒れている説教の若僧を見つけ歩み寄った。

僧侶たちは失態の若僧にはまったく目を向けないで暴れていた。

もう一人、念仏の若僧の方は連れ込まれた部屋で丸裸にされた。

そしてその肛門からは激しく血を吹かせたままに気絶している。

しばらく後にそれを兵士が見つけ若僧二人は保護された。

新たに登場した怪僧たちの乱交ははじまったばかりである。

その体格の良い一番手は常に他の僧たちに先駆けて手を付けた。

彼は一発で相手の肛門を裂くことに関して絶対の自信があった。

その陰茎の太さを周りの変態たちにいつも自慢していた。

時折裂けない肛門に出くわすと逆上して裂けるまで掘り続けた。

連れ込まれた男は二人の僧に四つん這いで首を押さえられている。

身動きがまったくとれないままのその肛門に陰茎の先が触れた。

その四つん這いにされた男は常々、掘り専門であった。

しかしこの時は掘られる側へと力任せにまわされてしまった。

たまったものではない。

体格の良い僧はその我慢し続けていた陰茎で男を掘りまくった。

悲鳴をあげて男は謝り続けたがその様子に皆ますます喜んだ。

抑えられた頭から横目で見れば順番待ちの勃起の列ができている。

これだけの本数が待っていることに男は狂乱し続けた。

抑える方にもその力がますます入る。

その間にも外から男を連れた僧たちが次々と駆け込んでいた。

太い陰茎に男の肛門は裂け体格の良い僧も一番手に射精した。

陰茎を抜いた僧は血のしたたる肛門を皆に広げ見せて叫んだ。

「ほら見ろ!おい、ほら見ろ!」

そして歓喜の雄叫びとして犬の遠吠えを真似て見せるのである。

他の僧たちもそれに呼応して犬真似で遠吠えを繰り返した。

順番待ちをしていた二番手が倒れたままの男を揺すり起こす。

体格が良く極太い陰茎の僧は続けて叫んだ。

「満足!よし、次!」

そして横で羽交い締めにされて待つ二人目の男の腰に手を当てた

☆053

南門周辺にたむろしていた犯罪者たちは一人、また一人と

意識が飛ぶほど僧侶たちに暴行され綱につながれていった。

逃げた者はまだ入ったことのないツジ内部へと走った。

それらは皆、他の門でも僧が暴れていることを知らない。

そしてそれらの門からツジ外部へと出ようと考えていた。

そんな状況を見ていた兵士たちの一人が一軒に気がついた。

そこは僧侶たちが男色の乱交を行っているあの家であった。

殴り捕らえた男を抱えては次々と僧がそこへ入っていく。

そして出てこない、何匹か犬がいるのか、遠吠えが聞こえる。

出てきてもそれは僧だけでほとんど全裸に近い格好だった。

さらに捕らえる男を探して裏道へと入って消えた。

兵士は気になりその家屋の内部の様子を伺いに行った。

そしてしばらくして無表情な顔をしてそこから出て来た。

その兵士はその家を指さして他の兵士たちにこう言った。

「あそこの犬が鳴く一軒家で坊主たちが酒盛りをしているぞ」

それを聞いた何人かが、おれも、おれもと入って行った。

そしてそこにいたのは捕らえた男たちを代わる代わる抱き

執拗に掘り続けるあの糞坊主たちである。

僧侶たちは兵士たちを見ても気にせずにさらに掘りと吠えを続けた。

捕らわれた何人もの男たちが尻から血を吹いて倒れている。

それらの兵士たちはそこを出て嘘を言った先の兵士に言った。

「馬鹿野郎、悪いもの見せるんじゃねぇや、ヘドが出る」と。

そしてその場でお互いがお互いの腹を抱え叩いて大笑いした

☆054

僧呂たちはツジ外部から侵入していた男たちを激しく追った。

それは北門、西門でも同じである。

それを逃げた者たちは次第にツジ中央部へと集まってきていた。

キジが東門に着こうとしていたのはその頃だった。

遠くからその東の門が開いたままであるのが見える。

東門配置の僧侶たち四十人と兵士たち六人は門の下に集まっていた。

走り寄って来たキジの方を皆が見た。

キジは徐々にその歩る速さを落とし歩いて門へと寄って行った。

キジは自分を見る顔々の表情が困惑の様子であるのを見た。

門の両戸はその裾に土が高く盛られ固まって動かなかった。

それは確かに素手で除ける類のものではなかった。

「他の門は閉じられたぞ、聞こえただろ」

キジは兵と僧たちに言った。

「今まで何だ、この盛り土を見つめていたのか、おまえらは」

そして空き家から農具でも探してすぐに土をどかせと命じた。

僧侶たち何人かが先に行かせた若像二人が戻って来なかったために

こんなことになった、とぼやいている。

キジはここで先に行った若僧に託されていた役割を知った。

計画途中に予想外のことが起こることにキジは慣れている。

しかしこの東の隊の僧と兵はかなり強い反目の状態にあった。

そしてどちらも率先して盛り土を除こうとはしないでいた。

しかし今は早く門を閉じる必要がある、自分たち兵は目付に過ぎぬが。

─まずいな…そうキジは思った。

北、西、南の粛清を逃れた者たちが東門へ集中して来るかも、

奴等は飢饉を見物に訪れるような非情な者たちである、

その狡猾さは人並み以上であることは間違いない、

東門が開いていると察知されるのが先か、閉めるのが先か、

東門の手勢は南に比して薄いが、

逃げる者の多くがここへ集まってきたとしても絶対に一人も外へ出すなと、

キジはそこにいたすべての者に伝えた。

そして一人も殺さないようにと、

キジはその旨を兵士たちに伝えた。

そして進攻前に馬と馬士たちが来なかったことを確認した。

キジは皆に絶対に一人も逃がすなと再度強く命じた。

そして自分は馬を連れてここへ戻ると言い残し

東門から続くツジの外壁の内側に沿って南門へと走り下った


第一章 2稿 1/4 020~029

☆020

ツジ南門から下り北東へと迂回する道をキタは進んだ。

その先にキタの故郷がある。

それはツジから離れて遠い。

キタの放浪癖は彼に広く場所を教えた。

河川、海岸線、山の裾までの方角と距離、

そこまでの移動時間、そのための方法、

キタはそれらを体得していた。

太陽と星々でその方角と今が暦のいつであるのかを

ほぼ正確に割り出すことができた。

だいたいの都市、町、村の位置も頭に描くことができた。

キサラギが故郷よりさらに東に位置することも知っている。

天帝の住む都市、それはキサラギと呼ばれていた。

その帝都の宮中において毒を盛ったと疑われた女がいる。

その女はツジを築いたといわれる権力者の妻であった。

そしてこの男が妻への疑いにおいて天帝に対して異見した。

それが天帝を激しく怒らせることとなり騒ぎとなった。

権力者の男と毒を盛ったとされる女はキサラギを追われた。

そしてそれがツジに飛び火した。

追われた二人がツジにいるという噂が広がったのである。

キサラギをはじめとして諸都市の権力者たちは騒ぎを聞き

ツジとの交流を控えそれを部下たちにも命じた。

そして全ての商隊がその品をツジには入れなくなった。

そのためにツジは孤立し飢饉へと陥れさせられたのである。

このツジを築いたとされる権力者、その弟、

それが中庭に湧き水を持つあの屋敷の主であった

☆021

キサラギを追われた二人はツジにはいなかった。

その都落ちの道中、男は首をくくって自死をした。

毒を盛ったと疑われたその妻も夫に後を追うと約束した。

しかし迷いはじめて夫をぶらさげたまま逃げてしまった。

その女はそんなことをする女だった。

嘘だらけを言う人間であった。

そしてその女は過去に人を殺したことがあった。

疑われる以前、毒を盛って宮中の女を殺害していた。

そして今回も実際に毒を盛っていたのだった。

しかしそれは誰にも言わないでいた。



ツジの太守の失脚はその弟にも知らされた。

これがツジの飢饉のはじまりとなった。

屋敷の主である弟は飢饉が本格化する頃にツジを出た。

主は童顔の女を身寄りのない子を保護する名目で共に連れ出した。

そしてときどきその屋敷に戻っては例の戯けた悪さを従者と続けた。

その最近が十日前であった。

一緒に連れて来られたのが三人の女たちである。

主はそこで女たちと何をするかは告げないでいた。

そしてそこで何をしたのか、それは誰にも言わない

☆022

ツジを築いた男の都落ちの話はツジにも広がった。

その噂では男が天帝に毒を盛ったとされていた。

物資の届かないのがキサラギからの圧力であり

この飢饉は天災ではなく人災であることを

住民たちは知っていた。

だから若僧の説教には意味がなかった。

しかし考えてみればその太守の失脚こそが天罰であると

キタは思いもした。

この先に豪農がいてそこでの取引をキタは考えていた。

しかし弱った体に背の荷でもある。

その途中でキタは腰を休めた。

そこは小高い丘であり振り返るとツジの屋根が見える。

しばらくそこで空腹を満たすように朦朧としていた。

音がする。

見ればそれはツジへと足早に向かう僧の一団二百人だった。

その顔つきは皆、締まっており力にみなぎっていた。

その装いから南門にいた二人の僧と同門であるとわかる。

彼らは蹴られ犯された若僧たちの兄弟子たちであり

飢饉のツジへと乗り込んでいく途中であった。

一団はキタには関せずに眼下のツジへと下って行った。

キタはその背を見送っていた。

するとまた違う音が近づいてくる。

振り向けばそれは武装した三十人の兵たちだった。

皆、鎧をつけその腰に刀剣を下げていた。

その中でも他の者たちより頭一つ高い男がいた。

彼はその背にひときわ長い弓と矢をしょっていた。

その男がキタに目をやり立ち止まった。

他の兵が立ち去った後もその男はキタを見ていた。

どういうことなのかと、キタは男を見返した。

背が高く長い弓と矢。

そのような者をキタは今までに見たことがなかった

☆023

その長身の男は二、三歩キタの方へと寄って来た。

そうしてツジの方向を軽く指差しキタへ微笑んで言った。

「坊さんたちが行ったでしょう。」

キタはその男の包むような人なつこい笑顔に思わずうなずいた。

長身の男は「あの者たちは乱僧です。とにかく腕っぷしが強い。」と続けた。

うなずくキタは男の眉間に大きなホクロがあるのに気が付いた。

特徴のあるそれ、そしてその微笑み、その奥にある眼光は鋭かった。

「あなたはツジから来たのですか?」

男の問いにキタはその顔を見て再びうなずいた。

知らない男に答えるようなキタではなかった。

しかしこの長身の男にはなぜか嫌味を感じなかった。

男はツジの家々を見下ろしながらキタに訊いた。

「ツジの様子は相当にひどくなっていると聞いたのですが、

人々の様子はどうです、疫病などは流行っているのですか?」

キタは男を見ながら、首をゆっくり横に振った。

「そうですか。」と言い男はその荷から一つの袋をキタへと見せた。

そうしてキタへさらに近づいてその袋を手渡した。

「餅です。少しですがお食べください。」と男は言った。

キタは受け取ったまま深く頭を下げた。

その男はキタよりもひとまわりは若く見える。

胸板も厚く頑丈な体型をしていた。

その表情は静かに野心を秘めているように見えた。

そしてその立ち姿は先に行った僧と兵たちよりも端麗だった。

「しばらくはツジへは戻らないほうが良いでしょう。」と男は続けた。

「あの僧侶たちはツジの混乱を鎮静させるために

寺から遣わされた者たちです。

この夕方から夜にかけてツジの中を大暴れして歩く予定でいます。

ツジはおそらく、彼ら乱僧から逃げ回る大騒ぎになるでしょう。」

キタは男の姿とその先に見えるツジの景色を重ね見て聞いていた。

「それともう一つお尋ねしたいのですが、」と男はキタを振り返った

☆024

「この混乱前にツジで乞食をしている者は多かったですか?」

男の問いにキタは「なぜですか」と久しぶりに言葉を発した。

枯れたその弱々しい声色に男は改めてキタを見て続けた。

「あの乱僧たちはツジを静めた後にキサラギへ行くつもりです。

キサラギをご存じですか?」

キタはうなずいた。

キサラギはキタが故郷を捨てて最初に向かった都市でもあった。

それは今から何年も前のことでありキタもまだ幼かった。

そしてそこで経験させられたことをキタは忘れない。

男はキタがうなずいたのを見て「ほぅ」とさらに話を続けた。

「キサラギによりあの僧たちは大陸に渡る船に乗るのです。

大陸船に、私も彼らと一緒に乗ることになっています。」

キタも大陸の話は聞いていた。

キサラギの朝廷よりもより巨大な政府がそこにあるという。

大規模な繁栄と激しい抗争が繰り広げられていると言われた。

男はキタが知っているか知っていないかを関係なく続けた。

「残暑が去って秋が盛りとなる頃に私たちは海の上でしょう。

その船に乗せる乞食を探してもいるのです、私は。」と言った。

キタは聞いたことがあった。

大陸に渡るそれぞれの船は航海の安全にそのお守りとして必ず

乞食を一人同乗させて行くという取り決めがあることを。

「乞食…。」

キタはそう呟いて、あの屋敷にいた不思議な乞食を思い出した。

「船旅は厳しく死ぬ者もでる。乞食は体が弱いと少し困る、

それと病気持ちもいけない。船旅にも耐えられる健康な乞食、

ずいぶん身勝手な話ですが、そんな人がツジにはいませんでしたか?」

キタの頭には、あの乞食の歯の揃った笑い顔が浮かんでいた。

「あぁ…、それならあの屋敷に一人…」

☆025

「何ですか」

話しはじめたキタに男はさらに近づいた。

キタは男に伝えた。

「この先にツジの南の門がありますが、それを進むと左手に

大きな屋敷があります。そこに元気のいい乞食がいました。」

キタはおろしていた袋を指さして続けた。

「その屋敷から取ってきたんです、みんな。」

そして男に向けて、あはははと声をあげ笑って見せた。

ずいぶんと久しぶりに笑ったキタだった。

それを見て男も荷を背負う仕草をキタにして笑って見せた。

鎧と弓が揺れぶつかり響く音がした。

「そうか、そうか」と男はしばらく辺りを見回していた。

笑い終わって男は言った。

「ありがとう、ではこれにて先を急ぎます。」

そしてツジへ歩こうとした男にキタは急いで頼んだ。

「お名前を!」

男はキタに向いたが足は止めずに進みながら言った。

「お気を付けを!この後に馬が通ります!お気を付けを!」

そしてツジへと走りはじめて下って行った。

鎧と弓の揺れる音がキタの耳に残された。

キタは立ち上がり道からの死角を探しそこに荷を置いた。

そして再度、道端に座り男からもらった乾いた餅を割った。

そしてそれを口に入れ水を含んで長いあいだ舌に転がしていた。

それには砂糖が含ませてあるのがわかった。

そして最後のほうにかすかな米のざらつきを感じる。

キタは自分が生き残れると確信した。

男のくれた物が本当の餅であることをキタは見抜いていたようだった。

あの人の言ったことは本当だ。

キタはそう思い、後から来るというその馬を待った。

静かなのはここでも変わらない。

別に餅に毒が含ませてあったとしても今のキタは絶対に死なないご様子だ

☆026

ツジへと走り下った長身の男。

眉間に大きなホクロを、また大きな笑みと長い弓も持つ男。

その人の名はキジといった。

彼のそれまでがどのようなものであったのか、

それを知る者がいてもその者はそれを人には語らない。

キジは無言をもって人を制することのできる男だった。

そして神仏よりも戦闘を選んでいた。

キジもまた乱僧の一人だったのであるが剣を選んだ。

彼は野望ともいえるものを持っていたのかもしれない。

高僧は仏の道を説く。

しかし世はことごとく乱れている。

しかしだからこそ経を唱えろと説く。

そしてキジの考えは変革した。

これからは神仏でなく戦いに集う者たちが世を制する、

武闘こそが万事を太平に導く時代になるであろうと。

そしてその中でも剣を制する者、剣を知り抜いた者、

剣の力が世を治める時代が到来するだろうと予想した。

そしてその剣をさらに制するものが弓だと考えていた。

斬り合う前に勝負を決める。

それがキジの選んだ立ち位置だった。

彼は暗殺者だった。

そしてこれまでのキジは完全に無敵であり

その代償としては命を追われ死闘をはじめていた。

結果、朝廷が彼を大陸へと送り込む契約に望ませた。

彼に訊いてみるがいい、

「あなたは人を殺したことがありますか」と。

その包み込む大きな微笑みにそれを訊いたことさえ忘れる。

キジとはそんな人だった。

自らを決して人には話さない。

その意味ではキタとも似ていた。

キタにはそれがわかった。

だから彼のことを忘れないで生きていく。

政治とは悪がなければ成り立たない。

キジもキタもそれは薄々考えていた

☆027

キタのもとを走り去ったキジは南門のはるか手前、

そこに止まり集う僧侶たちと武装兵たちに追いついた。

そしてゆっくりとその一団に近づいて行った。

僧侶たちは円陣になりツジ鎮静の段取りを確認していた。

その外側で兵たちはゴロついている。

兵の一人が歩み寄って来たキジに気付き立ち上がった。

その様子に他の兵たちもキジの来たことに気が付いた。

そして僧の何人かがキジを振り向き確認していた。

そこにいた誰もがキジが何者であるのかを聞いている。

朝廷が大陸の巨帝へと送り出す第一級の傭兵。

それがキジだった。

僧侶たちの属する門にツジ鎮圧の詔はもたらされ

その勲功として大陸への道が約束されていた。

そしてどのようにツジを収めるかは自由とされていた。

飢饉の混乱収束という難儀に自らの手を煩わせたくない

朝廷は彼らの方法がどのようなものであるかを知っている。

そしてキジを隊長とした兵たちはその目付の役に当てられていた。

立ち上がった兵がキジの遅れに言った。

「どうしたのか」

「いや、急に怖くなってな」とキジは言い笑った。

そして兵の肩をすれ違いに叩いていきながら

「糞だよ、糞。腹が痛くって」と言った。

キジは「なんだ、お坊さんたちは何かの相談か」と訊いた。

「どうやら何か、口合わせしているらしい。ツジに入る前に」

「何の口合わせだ、いまさら」

そしてキジも腰を休めた

☆028

「疫病だったらどうする」

しばらくして一人の兵が誰にとも言わずに口にした。

できればそのような病の渦中に身を近づけたくはない。

それは誰もが同じ思いだった。

しかし誰も答えず陽に当たって時間が過ぎていった。

静かだった。

鳥が一羽も飛んでいないことにキジは気付いていた。

遠くに見えるツジの外壁、その鈍い色合いは威容に見えた。

さっき道端に座っていたツジの脱出者の言葉を思い出す。

それによればまだ疫病は発生していない。

もしこれがこれから夏になる時期であれば

ツジの飢饉はもっと深刻なものになっただろう。

しかし今、夏は終わり秋を迎えようとしていた。

秋雨で何人かが生き残る、

その中からさらに冬の寒さに耐えた者、

それが新しいツジの住民となる。

もし今、ツジ内部が疫病に犯されていたとしたら

街の家屋全てに火を放つ命令を下す気でキジはいた。

そうすればツジという都市は完全に崩壊する。

疫病は発生しない、キジはそう読んだ。

ツジは生き残るだろう、これは天災でなく人災だ、と

☆029

僧侶たちはツジへどう入るかを決定した。

一団はそれぞれ、東西南北の四隊に別れる。

北、東、西の各門に人員は薄く四十人ずつ、南門には厚く八十人を置く。

僧と兵たちはツジの内部構造のだいたいを、

街には寺社がなく占所という占いの場所が点在している、

またその南門周辺に最も人が多く存在しており

最も治安が乱れているということも情報として把握していた。

はじめに北門を閉じ、ついで東と西の門を閉じる。

最後に南門を閉じ外部と完全に遮断する。

それぞれの門の閉じたことは各隊のホラガイをその合図とし

三度目の合図が鳴ったときが全ての門が閉ざされた時である。

同時に各隊はツジの中央部に向かって粛清を開始するという。

一人の兵がその説明に尋ねた。

「疫が流行っていたらどうする」

僧はそれももちろん自分たちが始末すると、

しかしまずは内部の粛清が先だと言った。

そして北、東、西の三隊は比較的それを早く終わらせて進み

南門付近で再び四隊が合流することになるだろうと予想した。

そして僧たちは兵たちには各門の外番と

外壁を越えて逃げる者がないように四方を巡ることを要求した。

ようするに中にはいないでくれと言うのである。

僧侶たちの大筋を聞いたキジはすぐに動いた。

兵たちを僧侶たちと同様に四隊にわけ

人数の割も僧侶たちと同じに南を最も厚く十二人、ほかは六人ずつとした。

「我々は僧侶の目付だ。外部からの侵入者には何をしてもいいが絶対に殺すな。

どの辺りでどれだけ捕らえたかを明らかとする。

最後、捕らえた者たちをその近き門にそれぞれ繋ぎ集めろ」

そして兵たちは皆、キジに従った。

その迅速な様子を伺っていた僧侶の一人がキジの意図を知り

「それでは困ります!」などと大声を上げた。

「外側の番をしてもらわねば困ります!」

「断る」

キジはまったく動じなかった。

「我々は全員中に入る。門は閉めてかまわん。

外を見張りたければ自分たちでやってくれ」

「そんな、大丈夫です私たちは」

その体格の良い僧はなかなか引き下がらずにキジにすがった。

「キジ様、大丈夫ですキジ様、大丈夫です!」

さらに体格の良いキジは無言のままにその手を払った。

そしてその僧には目をやらず兵たちに向かって言った。

「後は僧についてそれぞれ行くように。仲良くするんだ」

そしてまだ動き出さない一団の傍らを抜けて一人、

ツジへ向かって進もうとした。

「どこへ?」と兵たちが問うと

「用事があってな、自分は先に行く。待つのは面倒だ」

そしてあの大きな笑みを浮かべ「それと後から馬がくる。

それまでに動かないでここにいたなら馬士に伝えてくれ。

南門の大通りをまっすぐ進んだ左手の屋敷の前にいるように」

そしてもう一度念を押し

「南門の大通りをまっすぐ進んだ左手の屋敷だ」と繰り返した。

そして軽く右手を挙げてそのまま一人で進んで行ってしまった。

皆誰もキジへの文句は口には出せず、その後ろ姿を見送った


第一章 2稿 1/4 001~019

☆001

正直、

もう、

死にたい

☆002

そう思う彼の頬に、風が吹く。

乾き、疲れたその心に、それはしみた。

帰ろう…

☆003

彼は、故郷を捨てて生きてきた。

それはいつしか放浪となった。

その経験と引き換えに、もうひとりの彼は疲弊していった。

自らの日々が、浪費と同じものになりかねないことも悟った。

その土地は飢饉だった。

昨日まで道端に座っていた親子が、今日は倒れていた。

しばらくすると子はおらず、誰かに連れ去られたのだろう。

往来は、日増しにすさんでいった。

彼も空腹から食べられる草木を探したが、それはすでに食べられていた。

動けなくなる前にと、彼はその都市を後にしようとしていた。

今度こそ本当に帰りたい…。

彼は、心底そう思うようになっていた

☆004

彼の名は、キタといった。

キタは、都市の大通りの東門をくぐって外へ出た。

街周辺がどうなっているかを確かめようと思った。

死にかけた街人たちが、彼を目で追う。

門の下と町を包む塀沿いに、幾十人もがへたり込んでいた。

その中に横倒しになった門兵が死んでいた。

誰かが殴り続けたらしく、吹いた血が顔に黒く固まっている。

それは門を通る人々から搾取し続けてきた報いだった。

キタがこの門に初めて入ったときも、この門兵は威張って言った。

「雀の一羽でも持ってこい」と。

大通りで売りに出したい農民からも、なんだかんだと取っていた。

「ざまみろ…」と、キタがつぶやく。

この辺りは鳥も家畜も虫もみな食われて、もはや人以外はいなかった

☆005

この都市の名は、ツジという。

東門を出たキタは、その塀づたいに南へとよろめいていった。

死体が塀に寄りかかって並んでいる。

キタはそこにもうすぐ疫病が発生するであろうことを見た。

崩れかけた塀に上半身を挟んだ全裸の男が死んでいる。

その尻に竹の竿が突き刺されていた。

しばらく歩くと人のわめく声がする。

それぞれ幼子をおぶった若い夫婦が、男たちに引きずり回されていた。

子らの頭は、ほぼ全裸にされたその父母の背に垂れ激しく揺れている。

すでにその子らに息はなかった。

キタとその夫婦の目があった。

その若い夫婦は男たちに罵倒され、盛んに殴られ蹴られて泣いていた。

独り身の自分を幸せだと思ったキタには、まだ感情が残されている。

その光景をしばらくのあいだ眺め、キタは再びよろめいていった。

塀に沿って下っていった。

飢饉の前のツジの南門付近は、身を売る男女の集う場所であった

☆006

あの若い夫婦を引きずり回していた男たち。

彼らは外部からやって来た連中であろうと、キタは思った。

ツジに住む者には、あれほどの体力はもはやない。

そして実際にそうであった。

夜になれば常に香の立ちこめていたかつての南門。

そこに近づいていくにつれ往来の人は多くなっていく。

ツジが飢饉にあることを聞きつけた外部の人間たちであった。

彼らは死にきれないでいるツジの住民たちを見に来ていた。

そして悪名ある南門へと集まっていたのだった。

彼らはそこで何か死に際の異行がされているのではと期待していた。

そのほとんどは食料を持参し睾丸を膨らませた血色のいい男だった。

キタが南門へ向かったのには理由がある。

四ヶ月前、キタがこのツジを訪れた頃、

それはツジが食料不足に陥ったその直後であったが、一人の女とあった。

女はまだ少女であり聞かされたその嘘話と偶然の歪みにはまりキタは金を貸した。

しかし女は遊女でありキタは自分が騙されたことを知った。

このひと月でキタはその女狐の行方を被災してまで突き止めようとした。

久々に訪れたその南門で、キタはその女を捕らえようと妄想していた。

そしてこの混乱に乗じ、その女を始末しようと考えていた

☆007

キタがそれまでに人を殺したことがあるかどうか、

それを尋ねてもキタはそれに答えるような男ではない。

実際に人を殺したことがある者は、それを人には言わないものだ。

では答えないキタは人を殺したことがあるのか。

それはわからない。

ただ、そのような問いをする者の顔をキタは見なかった。

キタにはそういうところがあった。

キタは人の顔を見ないで受け答えをするような男だった。



南門の周りに人々は集まっていた。

何かを見物している。

二人の僧侶が門柱に向かって、何か経を唱えていた。

それを横にキタは南門をくぐり再度ツジへと入った。

東門から南門までの道沿いよりも多くの人間がここにいる。

しかし普段ここで商売をしていた男女の姿は見あたらなかった。

建物の内部を覗いてみても人気はなく、いても外部の人間たち、

彼らは残された家財に良い物が残っていないか忙しく物色していた。

南門周辺に立つことを商いとする男女は賢くしたたかであり、

飢饉の本格的な到来とその混乱を先に察知してツジを脱出していた。

別の都市へと移っていた。

それを見たキタは貸した金が戻らないことを今さらに告げられた気がした。

あの童顔の女もツジにはもういないのだろう。

一軒の奥間で、ツジの若く細い男が、外部の男たちに抱かれていた

☆008

南門から続く大通りをキタはさらに進んだ。

ツジの中心部へ近づくにつれ再び静かになっていく。

しゃがみこんだり転がった人々。

晴れた午後。

乾いた空気。

時々、思い出したように風が流れていくのを感じる。

まとわりつく視線。

静けさに空腹も忘れる。

かなりの距離を歩き続けたそこに一軒の屋敷がある。

ツジでの最後、キタはそこに自分の目で確認したいものがあった。

一ヶ月前に閉じられていた門は開かれ屋敷の扉は開いている。

すでに略奪された後であった。

しかしその荒らし方はツジの住民によるものであり、

その爪痕は門近辺のそれに比べてまだおとなしい。

死を見物に訪れて来た外からの変態たち、

彼らには土地勘がなく、ツジ内部にまで踏み入ろうとはしなかった。

この屋敷の中庭にごく小さな湧き水があることをキタは知っていた。

それをキタへ告げたのは金を貸し逃げたあの童顔の女狐である。

この屋敷の主はこの女でずいぶんと楽しんだ一人であった。



四ヶ月前―

屋敷の壁の北のはずれ、その通りを隔てた向かいの茶屋にキタはいた。

もう少ししたら故郷へ帰ろうか…などと考えていた晴れた午後。

あてどなくたどり着いたこの街が飢饉のはじまりにあるとは気付かなかった。

その少女はひどく疲れた様子でしばらく屋敷の壁に寄り掛かっていた。

そしてうずくまってしまった。

それを見ていたキタが声をかけ少女を招いて茶屋で休ませた。

以前の自分であれば人、まして子供を気遣うようなことはしなかっただろう。

茶を飲み落ち着いてきた様子の少女は「この街の御方?」と訊いてきた。

「いや違う、偶然この街に寄った」

「旅の途中?」 「うん、まあ、そんなところだ」

話してみると少女は街の人々から裁縫や洗濯を請け負って生活していた。

新しい客を探してこの辺りの家々を巡っているところだった。

「それでお客さんは見つかったのかい」 「なかなか見つからないです」

少女は大人びた口調と身なりをしておりウグイス色の装いであった。

それは見ず知らずの人に会うための気配りなのだろう、とキタは思った。

両親は近隣の街で土木業を営む伯父の所へ出稼ぎに出ているという。

年に数回戻るその両親を待ちつつ少女は西門近くで一人暮らしていた。

両親のどちらかが次に戻ると言われていた日が過ぎて久しい。

前に親が置いていった金も底をつこうとしていた。

茶をすすり菓子をほおばる蒼白な少女をキタはふびんに思った。

自分に少女くらいの子供がいてもおかしくはない。

少女に年齢を訊いたが、「いくつに見えますか?」と逆に訊かれた。

そしてすかさず「年齢で自分のことを判断されたくないんです」と言われた。

子供と見くびられたくはないという少女の強い思いをキタは感じた。



キタは支払いを済ませたがそこを立ち去らずにいた。

少女が泣いていたからである。

最近、食料品の価格が高くなりだし少女は食事に事欠くようになっていた。

それで少女は土木業の伯父を頼りその街へ金を借りに行きたいと考えていた。

ただそこに行くまでの旅費と生活費が足りないという。

いくら足りないか、と聞いた金額をキタは持っていたがそれは結構な額だった。

叔父がいるというその街をキタは知っていたが行ったことはなかった。

大人が昼間だけ歩いてここからだいたい二日かかる。

いっそ伯父の所で親と一緒に暮らした方がいいんじゃないか、とキタは言った。

少女は、両親はその街からさらに現場へと出ているので会えない、と言った。

父母と一緒に働ければいいのだろうが少女に現場での肉体労働は無理だろう。

炊事の手伝いなどで大人にまじって働く子もたまにはいるが猥雑な飯場も過酷だ。

少女には無理だろう、と感じたキタは雇われ人夫として方々で働いたことがある。

業者の名をキタはいくつか知っていたがその伯父の名は聞いたことがなかった。

少女の伯父が営む土木業とはどのくらいの規模なのかと想像したりしていた。

そうする間も少女はすすり泣いておりキタは周囲の目が気になりはじめた。

母親だけでも戻ってきて二人で一緒にやったらどうか、とキタは訊いてみた。

伯父は夫婦二人で働かなければ両親を雇わないのだという。

なんで二人でなきゃダメなんだ、と問えば、わかりません、と少女は泣いた。

少女の両親はその伯父に何か弱みでも握られているのか、とキタは勘繰った。

その伯父さんは本当に金を貸してくれるのか、とキタはあらためて訊いた。

去年も借りた、という少女はその金額まではキタに教えなかった。

その金は返したのか、と訊くとうなずく。

少女は自分も飯場で働けないかと伯父に頼んだが空きは無いと断られたそうだ。

今度はいくら借りる気だ、とキタは訊いたが少女はそれにも答えなかった。

答えない少女にうんざりしたキタは再び立ち上がりそのまま店を出ようとした。

待ってください、と少女はキタに泣きすがり「お金を貸してください」と言った。

人の目が自分に集まったのをキタは感じて息が詰まりそのまま店を立ち去った。

しばらく歩いたキタが振り向くと少女が付いて来ていたので驚き歩を速めた。



キタは少女をやっと撒いて一軒の家の影で上がった息を整えようとしていた。

そこから通りを覗き少女がいないことを確かめて隠れていた家の前に現れた。

ひとつ大きく息をつき自分の今立つ路地の前後を見渡してその一方へ歩いた。

それにしても追いかけてくるとは、最後はほとんど走ってたから、俺はなあ。

少女の身の上を聞いたり、ああなのかこうなのか、と尋ねたことを反省した。

話すうちに金を貸してもらえると期待させたのだろう、悪いことをした。

そこが街のどこかは分からなかったが進むうちに北西部だと知った。

露天の食品が少女の言った通りかなりの高値で売られていた。

店の男に値の高い理由を訊くと「来月はもっと高くなるかもよ」と言う。

さらに訊くと、あんた余所からの人だろ?だったら関係ないよ、と笑われた。

買わなきゃ教えないか、うむでも確かに茶屋での請求も以前よりも高かった。

日が沈むまでにはまだ時間がありこの周辺を散策した。

へえ、こんな路があるのか、こんな家も、そこは初めての場所だった。

路地から路地へ渡り歩き一本の通りに出る、ああ、ここ前に来たことあるな。

出た通りを越えて向かいの家々の間に続く小路へと入って行く。

たまに誰かすれ違い両側の家々の軒々に洗濯や鉢植えや打水の跡、細い空。

小路を抜け出た所は大通りで西門が遠くに見える場所だった。

はあん、ここへ出るのか、西の空に雨雲が満ち広がっているのが見えた。

東へと進みツジ中央部へと出て南側左手に先の茶屋はあれかなと探し見た。

さらに大通りを北へと歩いて行く、日暮れ間際、今度は街の北東部をまわる。

今日はツジで一泊だ、この辺で安宿ないかあ、なければ前泊まった東の宿へだ。

北の街を迷い歩くうちに雨雲が上空を覆いはじめ急に夕闇に包まれていった。

薄暗い路地を折れまた折れしてさらに進んで行くうちに雨粒が顔に当たった。

ここは北門の前あたりか、通りに出てめしでも食べるかな、ん、行き止まり。

道の先は建物の黒い壁で途切れておりその壁には戸も窓もない。

左を見たが両側は窓も戸もない建物の壁と石の柵に囲まれて奥に誰かいる。

薄紫色の肌着でゆっくりとこちらを向いたそれは昼間の少女だった。

少女はこちらに気付き驚いて凝視していたが次第に無表情になり言った。

「つけてたんだ」

こちらを見続けていた少女が最後に冷笑して雨が激しく降りはじめた。

少女は奥からこの脇を通り過ぎてそのまま後ろの家へと入った。

やって来た路地の暗がりを見ていると左から「入ってください」と声がした。

雨に打たれ見れば開いた戸の内に灯りを持って少女が立っている。



閉めた戸に雨音は小さくなり薄暗い部屋の中は衣類とさらしが散乱していた。

それらは少女が客から請け負った物でそこで裁縫の仕事をするように見えた。

奥の部屋は向かって左は寝室らしく敷かれた布団の頭が見え右は炊事場か。

その右側から出てきた少女にあがるよう言われたが上がり段の端に腰かけた。

入り口の戸を右手に奥の部屋を左手に座し少女の出してきた盆は左後ろにある。

盆の茶をすすめられるが手をつけず膝の上の荷に腕を組んで背を丸めていた。

金が無いことに目をつぶれば少女は良い暮らしをしている。

人の家の慣れぬ匂いに包まれて雨に濡れた自分の体が小汚く感じられた。

淡紅色の上掛けを羽織った少女は奥の二部屋を仕切る柱を背に立っている。

「どこからつけてたんですか」 「いや、つけてはいない。偶然ここに来た」

「何で逃げたんですか」 「いや、逃げてない用があって先を急いでたんだ」

少女の上からの目線、雨音をしばらく聞いて目をそらしていたが逆に訊いた。

「西門の近くに住んでいるって言ってたよな」

「言ってません。北門です。この辺りは皆」

雨音は続き黙っていると少女は柱に背をつけたままの格好で尻をついた。

「お願いです。お金貸してください」

「昼間の茶屋の向かいに屋敷があったけれどあそこには誰が住んでいるんだ?」

「湧き水のある屋敷ですか?」

女は湧き水の存在をキタへ口を滑らせた。
 
「ワキミズ?」

普段ならあの屋敷は決して入れなかった場所でもある。

「あれはカワナニの屋敷です」

なぜ親と離れて暮らす娘が屋敷の中庭を知っているのか。

「湧き水があるのか」

「あるんですか?知りません」



昼間の疲れでそのまま居眠りをしてしまい何かの気配で薄目を開けた。

真横におしろいと紅で化粧した少女の顔があり一瞬息を吸い身を反らした。

「それじゃあ、こうしませんか。占いで決める。占いで」

香が焚かれているのか部屋の元の匂いがさらに強まって薄煙がよどんでいる。

「占いで私が外れた場合、お金は借りられない。

 あなたが外れた場合、お金を貸してくれる」

夜、外は涼しく小雨になっており灯りを持った少女に導かれ家を出た。

路地を越えた先はさっき少女が立っていた場所であり奥に屋根がある。

屋根の下に抱えるほどの大きさの石の碗があり屋根からの水が溜まった。

水は溢れると碗を支える石の台座を流れ落ちて足元の石畳に排水された。

水の碗には手に取れる石の玉が白黒それぞれ五十四ずつ混じり浸っている。

そこは占所(せんしょ)という占いの場所でそのような物をはじめて見た。

灯りを持つ白い少女は碗の向こう側へと移動し言われたままに向き合った。

少女に下の水面を見ないようにと言われ顔を上げたままの目で少女を見る。

「二人で一緒に引いてどちらかが外れるまで。二人とも外れたら最初から」

「お互いに待ったはなしです。途中でも終わりでも絶対に待ったはなし」

それぞれが下を見ずに片手を水に浸して石をひとつずつ選んで取り上げた。

「さあどうぞ、どっちですか?」 「んん、黒」「私も黒、じゃあこちらへ」

水面を外した灯りに開いた手はそれぞれ黒と黒。 「もいちど選んで下さい」

「今度はそっちが先に言ってくれ」 「それでは黒」「俺は黒」 「こちらへ」

水面を外した灯りに開いた手はそれぞれ黒と黒。 「もう一度です」

「私は白」「黒」開いた手は白と黒。 次「私は黒」「白」開いた手は黒と黒。

「外れましたね」 「ちょっと待ってくれ」 「待ったはなしです」

雨の止む頃に一枚の証文が完成された。

少女は金を借り三ヶ月後の今日同額を返す、返金場所は昼間の茶屋、

時刻は正午、これらは全て少女が書き記し署名し拇印した。

三ヶ月という期間は少女が定めたがまさか飢饉になるとは思わなかった。

少女の家の香のせいか頭が働かずうっすら痛いがどこかで嗅いだ覚えがある。

泊まっていいですよ、と言う少女と別れて証文を胸に東の宿へと向かった。



その一月後、どうしているか一度少女の家を訪ねたが戸は閉められていた。

今頃は伯父の住むという街を訪ねているのだろうか。

街中には犬や猫たちがいて占所の碗には水があった。

さらにその一月後、再度訪ねたが戸は閉められており少女とは会えなかった。

先月いた犬や猫たちは消えており占所の碗の水は枯れていた。

少女の家の前で過ごすうち近所の男が、ここの女は遊女らしい、と言ってきた。

このあと少女の伯父をその街に探したがそのような者は見当たらなかった。



金を貸してから三ヶ月後―

キタはツジが飢饉に陥ったことを知っていたが返金日時にはそこにいた。

返金場所とした茶屋は、先月は商いせずとも開いていたが今は閉まっている。

向かいの屋敷の門も閉ざされており、先月に立っていた門番はいない。

茶屋の前に立ち待つ、屋敷前に立ち待つ、陽は傾く、少女は現れなかった。

地熱にむせぶような夕暮れ、少女の家へ向かったがその戸は閉まっていた。

暗くなってゆく奥の占所を覗いてみると、皿のロウソクが水面に浮かんでいる。

その灯にわずかに照らされた水の中は、ひとつのほか全てが黒い石に見えた。

白に紅く化粧した少女の右顔が灯りに浮かんでいたあの夜の占いを思い返す―

そうしてキタは自分が騙されていたかもしれないことに気付き切なくなった。



キタが最初に少女に声をかけたとき少女は屋敷の主との情事を終えた直後だった。

使われたての彼女が疲れてうずくまってしまったのも仕方のないことだった

☆009

屋敷の一室の壁と床に大量の血しぶきがあった。

家主とその家族はすでにこの屋敷にはいない。

どこかへと避難した。

荒らしに入った者たちが何かで内輪もめでもしたのだろうか。

しかし肉片などはそこには全く残っていなかった。

屋敷は静かだった。

キタはしばらくその血痕の部屋にいた。

その血痕の流れを目で追った。

金を持ち逃げしたあの女の顔が浮かんでくる。



キタは少女が金を騙し取ったとすればそれは売られた喧嘩だと感じていた。

買う買わないを選ぼうにも既に払わされたのだから買ったということか。

遊女なら幾らか稼ぎはあっただろうに借金を吹っかけてきたかこの俺に。

返金を逸した日の翌日から女を探してツジの街を廻った。

女が街にいなければ追いようがなく今できるとすればそれしかなかった。

街は略奪が始まる直前の状況にあり南門に立つ男女の数は少なくもあった。

その門に立ちこめていた香の匂いがあの女の部屋のものと同じと気付いた。

欲ったかりなお調子者で嫌われ者の東門の門兵が一人でまだそこにいた。

「閉じちゃあ困る、閉じないようにしなきゃあ」 身勝手がよくわからん。

門兵はこの状況下でも門へ入ろうとする者たちから摂取しようとしていた。

勝手を言いながら門の外の平地から門の両戸の裾へと土を運び盛っていた。

街人の間には外部からの侵入者を避けるため閉門しようとする動きがあった。

かなりやつれた門兵だがよく動くのを住民の幾人かが無言のまま眺めている。

死者が出始める頃だったが道端に出てへたりこむ者はまだまばらだった。

持参した食料が尽きようとして一度街を出る前に改めて女の家へ向かった。

入り口の戸は閉まっていたが今回は裏へ回り裏口を破り中へ押し入った。

家の暗がりの中に物は一切なくなっていた。

金を貸した夜に自分が腰掛けていた場所に座り左の室内を見れば広く感じた。

そのまま左後ろ奥に首をひねり見ると天井の隙間から外光が降りてくる。

光の照らした床に占所の白い石の玉がひとつだけ転がって見えた。

裏口を外に出るとあの近所の男が前に立っており強い衝撃が首に当たった。



誰かに体を揺さぶられるようにして意識を取り戻した。

後ろ手に縛られており倒れていたが何かで打ち付けられた首の後ろが痛い。

縛られたまま上半身を起こし近所の男とほか数名に荷物の中身を訊かれた。

よそ者たちが民家への侵入を試みているらしいがおまえもそれが目的かと。

証文に話が及びあの家の女に金を貸している盗みではないと言い聞かれた。

綱は解かれ荷は返されて不意討ちにしたことを詫びられた。

ひと月前に女が男二人と家財を馬車で運び出したと近所の男が教えてくれた。

男二人のことを近所の男は知らなかったがそれは屋敷の門番と従者である。

ここの女は遊女らしい、と聞かされた数日後のことでわずかにすれ違った。



殴られた痛みと共に北門を仰ぎ見て街を出て西門へと迂回した。

歩いて行くと街の遠い外に立つ西側の何軒かの家に灯が点った。

緩やかな高台からは夕闇に浮かぶツジの街にも灯が点っていくのが見える。

飢饉とは思えない夏の宵に包まれてじっとりと取り憑かれ魔が差していく。

―あの童顔の女はまだこの街のどこかに潜んでいるように思えてならない。

キタは一度ツジを去ったが再び戻って来てしまいひと月で被災者と化した。



これが金持ちの暮らしか…。

そう思いながらキタは屋敷内をゆっくりとまわっていった。

ある部屋に飢饉前から乞食をやっていた男が居座っていた。

キタはその乞食に見覚えがある。

その乞食は目が悪いらしかった。

足音に振り向いたままの格好でキタを待っていた。

乞食は話しかけられるのを黙ったまま待っていた。

しかしキタは話しかけずにそのまま通り過ぎた。

乞食は動かず足音が離れていくのを聞いていた。



屋敷の中庭は四方を廊下に囲まれたほどよい広さだった。

陽がさしている。

キタはしばらくそこで腰掛けていた。

かすかに水音がする。

寄って見れば敷きつめられた玉砂利の一部分が濡れていた。

湧き水はそこから出ていた。

水は溢れ流れだす前に再び玉砂利の隙間にしみこんでいく。

流れとなって外へ出ないように砂利は敷きつめられていた。

キタはその湧き水を手ですくい飲んだ。

そしてそこへ口をつけ腹がふくれるまで飲み続けて顔を洗った。

再びあの女の顔が思い出される。

あの女もここから飲んだだろう。

その湧き水の玉砂利の上は屋敷の主と女との情事の場所であった。

キタはあの女はこの湧き水で股を洗っただろうと思った。

そしてその通りであった

☆010

屋敷の主はこの日当たりのよい中庭で、

湧き水で女に股を洗わせた。

そしてそれを見るのが好きだった。

家人を全て出掛けさせただ一人、従者は残した。

この従者は若くはないが、剛毛で体格が良く強かった。

この屋敷で働こうとする女中は皆この男に犯された。

そしてその様子を見るのが主の楽しみであった。

屋敷の主は腰の使えぬ年寄りである。



股を洗わせた後、女が小便をするまでそこに立たせておく。

しかし大便はさせなかった。

便が玉砂利に残り匂いを発するからである。

主はこの楽しみを家人に見つからないようにしていた。



女の放尿を見届けて、廊下に上がらせる。

そして丸裸にした女の首に綱を巻いた。

女に馬になってもらい自分が乗るのである。

主は言う。

「おうまさん、おうまさん」

それに応えて女がいう。

「ぱっかぱっか、ぱっかぱっか」

そうしてこの中庭の廊下を往復するのであった。

主は首に巻いた手綱を上下左右に振るのが大好きだった。

そうして女を奥の座敷へと引いていく。

その間に主も服を脱いで素っ裸になっていくのだった。

脱ぎ捨てられたその服を一枚一枚拾いながら付いていく、

それが従者の役割であった。



北側のその部屋は折檻の場所である。

牢が組まれていた。

この牢で従者は女中への暴力を繰り広げていた。

しかし今回は主の番である。

老人は女とこの牢に入り素の老体を女の腰に乗せた。

そして叫ぶのである。

「おうまさん、おうまさん」

女も応えた。

「ぱっかぱっか、ぱっかぱっか」

「おうまさん、おうまさん」

「ぱっかぱっか、ぱっかぱっか」

屋敷の主はこれが楽しくて仕方なかった。

女もその報酬の良さにこれはやめられなかった。

この程度をするだけで人よりいい暮らしができる。

この客を手放さないように気を配っていた。

これらの一部始終を従者は後について見ていた。

二人の視線の届かない角度で隠し持った酒をあおる。

従者の飲酒に主は気付いていたがそのままにさせておいた。

飲みながらくらいの方が見る側も楽しめるだろうと思っていた。

従者はこれで給金が貰えることにとても気分が良かった。

明日あの女で暴れてやろうなどと夢想した

☆011

この屋敷で何がされていたかなどキタは知らない。

中庭の静けさと乾いた光。

キタはその湧き水と玉砂利に小便をかけた。

その小便は真っ茶色だった。

さらにそこへ大便を垂れようとしたが便は出なかった。

それでしばらく肛門をその湧き水に浸していた。



中庭から廊下へとあがりキタは屋敷内を進んだ。

突き当たりの北の部屋、

その頑丈な戸とそこに外れ掛かった錠を見たとき、

キタは何か悪い気分がした。

そこに座敷牢があることをキタは知らない。

その戸は重かった。

窓のないその部屋の中にキタは牢を確認した。

牢の中に人が倒れている。

それは全裸にいくつもの刀傷を負って血だらけだった。

キタはさらに近づいてその目を見開いた。

その裸体はキタが金を貸したあの童顔の女であった

☆012

「これじゃ金は返ってこねぇな」

キタは言った。

そのさらに奥に二人の女が着たままで倒れている。

その顔は潰されていた。

それはこの屋敷に働く女たちである。

三人は飢饉の混乱に任せていいようにされてしまった。

その傷跡から計り見てまだ十日経ったぐらいか。

そう見た途端にキタは部屋にこもった悪臭に部屋の外へ出た。

そして吐いたのだがさっき飲んだ水以外何も出てこなかった。



三人の女は血痕の部屋でいいようにされた。

全裸の主が童顔の女と遊んでいる間に女中二人が撲殺された。

ここぞとばかり力を振るったのが剛毛の従者である。

不細工な女中二人は日頃から従者に犯されるのに慣れてしまっていた。

主はそれを見ても楽しめず女二人に払った給金も惜しく感じていた。

手綱に引かれてきた女にも暴行は繰り広げられた。

女は主にさらに高額な報酬をたかり二人の関係をばらすと脅していた。

最初は殴る蹴るだけであった。

途中、これを使えと主は従者に刀を渡した。

従者は以前から刀を一度使ってみたかった。

それで丸裸にした女に一方的に斬りつけてみた。

力だけでは刀は使えないものである。

下手を打つ従者の半端な傷が女をさらに痛めつけた。

それは死体の全身にアザとふくらみとなって残された。

斬れないことにいらついた従者はさらに斬りつけた。

そうして疲れた頃に徐々に刀が打てるようになっていった。

刀を使うに力はいらない。

抜いた腕のさばきに面白いように女は斬れた。

そうして女が動かなくなったあとも斬れ味を試していた。

刀を使えたことに従者は満足だった。

そうした後、主に刀を返した

☆013

キタは思った。

あの血痕は女狐がのたうちまわった跡だったのだと。

どんなにか苦しんだだろう。

致命に至らぬ刀傷ほど苦しむものはない。

その泣き叫ぶ声。

午後の陽を浴びながら、キタは女との喧嘩などもうどうでもよかった。

かつては自分も死にたかったことを思い出す。



ただこの最期と思われそうな風体でもまだ終わりではない、

キタは自らにそう思えた。



キタはその放浪に飢饉の都市を数回、経験していた。

そして本当の地獄、その周辺を知っていた。



ツジの飢饉はまだ若く柔らかい。

まだ誰も共食いしていないから。

それがキタの感想だった。



生きて帰りたい。

それで温かい気持ちが疲弊したもうひとりのキタに戻っていた。

父と母。

幼い兄弟たちの面影。

かつては嫌い避けた全て。

そこに放浪の最後、戻ろうと、

疲弊せずにいたもうひとりのキタも改めたのである

☆014

屋敷は荒らされてはいたが、いくつかは残されていた。

その中には散乱した着物があった。

飢饉は増して衣類などはほとんど見向かれなくなっていた。

何枚かは破かれたりしていたが、無傷の物もあった。

それらは日常の生活であれば悪くはない品物であった。

キタはその一枚を袋替わりにして、それらをまとめ入れた。

その中には略奪者たちに見つからなかった反物もあった。

それらを背に担げるように整えて中庭の廊下に置いた。

そしてキタは屋敷の台所に向かった。

食べ物は一切なかったが、鍋や釜や皿がうち捨てられている。

キタはそれらの中から釜、皿、箸などを選び小さくまとめた。

それらを袋に入れて再び中庭に降りた。

湧き水の水をまた腹一杯になるまで飲んだ。

そして数本の竹筒に湧き水を入れその内の一本を腰に付けた。

袋を整えてそれら一式がキタの新しい家財道具となった。

しばらく廊下に座り込んで静かな陽に当たっていた。

何か背後に視線を感じキタは振り向き屋敷の奥を見た。

暗がりの部屋の奥に目を凝らすと柱の影に人がいる。

それはさっき通り過ぎた乞食だった。

黙ったままこちらを見ている。

キタもそのままでいると乞食はこちらへ薄笑いをした。

目が見えている。

あの乞食が目の悪い風を装っていたことをキタは知った。

乞食となってなお生き残るためにそうしていたのかと、

キタは無言のままに推測した

☆015

乞食が見る中、帯の一本で荷を縛りキタは担いだ。

弱った体にそれは重かった。

しかしそれを手放す気など全くなかった。

そして再度、北の牢のある錠部屋へ向かった。

その部屋の開いたままの重い戸と戸の間、

そこに体の前半分を入れて見る。

覗けば、さっきの女たちは当然まだそこにいる。

裸の遊女と二人の女中。

暗がりにこもった死臭。

女たちは血痕の部屋で殺された後、

この牢に運ばれ捨てられたとキタは思い巡らせていた。

そしてそうだった。

屋敷の主は剛毛の従者に女たちを牢へ運ばせた。

そして従者に血痕の部屋は掃除させた。

従者が掃いたために血は余計にひろがった。

主はあとで少しでも言い訳できるようにと工夫していた。

そして牢の鍵もわざと閉めずにツジを出た。

閉めるより開けておいた方が人の仕業にできると思った。

この屋敷の主は良くも悪くも智恵の働く年寄りだった。



死体を見ていたキタは女中たちの腰帯が売り物になると感じていた。

しかし牢に入ってまでそれを手に入れる気はしなかった。

キタはすでに自分が女に持ち逃げされた金より多くの分を

その袋に詰めたと考えていたからでもある。

「もう、これで十分だ…」とキタは思った。

キタは自分よりも先にこの牢の様子を知り

あの腰帯はと考えたが牢に入らなかった者がいたと思った。

そしてそうだったらお互いの腰抜けっぷりが笑えると感じた。

その牢のある錠部屋は気が嫌になる部屋であった。

キタはその部屋から体を引いた。

部屋にこもった死臭とは別の異臭に右を見ると

すぐ肩越しにあの乞食が立っていた。

「がっ!」とキタは大声を出して身を横へ引いた。

その声に乞食も一瞬のけぞった

☆016

乞食は口をパクつかせていた。

そして唾を全身で飲み込んで口をもぐつかせていた。

それにしても臭い。

死臭も強烈だがこの乞食も相当な臭いの持ち主だった。

ツジには死臭が蔓延していた。

それはツジの死に損ないたちとキタの全身にも染みついていた。

それにも勝るこの嫌気な座敷牢の臭い、そしてこの乞食の臭い。

乞食を殴りつけてやろうとしたがその臭いに手が出ない。

キタは二、三歩と後ずさりして乞食を凝視した。

そして自分が背に負うこの袋は騙された自分の取り分なのだと

自分を騙したのはこの街の女で、奥の牢部屋で死んでいるからと

その臭いに説明しそうになった。

そしてその臭いの強烈さには言葉が出ず、ただ目を細めていた。

乞食もキタを見ていたがその視線はさまよっている。

そして歯をみせて笑った。

とっさにキタは寒気がした。

キタはこの乞食はただの乞食ではないと理解した。

歯が全て揃っているからである。

キタは乞食から目線をそらさずにそのまま後退した。

そのキタに乞食は言った。

「おうまさん、ぱっかぱっか」と。

キタはその乞食の言葉を理解できなかった。

当然である。

キタはこの屋敷の慣例を知らない。

そしてもう一度乞食は確かに言った。

「おうまさん、ぱっかぱっか」と。

その強烈な臭いの薄まった場所でキタは見ていた。

乞食は立ちつくしたまま口をもぐつかせている。

そしてこう言ったのである。

「どんぶらこ、どんぶらこ」

それをキタが理解できるはずもない。

キタは何も言わずに乞食をにらみつけた。

そして乞食はもう一度確かに言ったのである。

「どんぶらこ、どんぶらこ」と

☆017

キタはこの乞食はツジに憑いた生きた亡霊かとも思った。

血痕の部屋、座敷牢の部屋、そしてこの乞食。

キタは気味が悪くなった。

牢部屋の開いた戸の横で乞食はこちらを見て立っている。

乞食を振り返りつつキタはそのまま屋敷の西側、

南門からの通りと逆の屋敷の裏門から外へ出た。

その裏門は大通りから一本入った通りに面している。

裏道は人の気配はまったくしなかった。

裏門を振り返ってしばらくキタは眺めていた。

乞食は少女とは違い追っては来なかった。

「今じゃ、この屋敷の主はあの乞食か…」と

キタは思った。

乞食のあの強烈な臭い、歯をむいた笑い顔を思い返す。

そしてあの乞食は何者なのかと不思議だった。

袋を背負って屋敷から出てきた自分の姿を想像して

盗人と大して違わないとも思った。

童顔の女探しはこうして終わった。

陽は傾きかけていた。

今日中にツジを出るとキタは決めていた。

裏門の変わらない様子を見ていたが乞食は現れない。

その人気のなさに中庭の湧き水の流れる音が一瞬、

聞こえたような錯覚をした

☆018

その裏道を通ってキタは南門へと向かった。

裏道には死体はなく生きた人もいなかった。

倒れたりしている人間は皆、表の大通りでそれをしていた。

不思議なもので、その死に際に自らに人目が届くようにする。

ひとり密かに死んでいくような住民はこの南門周辺にはいない。

キタが最後に見た南の門とそのまわりはつくづく下品な場所だった。

門に近づくにつれてまた人の気配が感じられてくる。

キタは裏道から南門に続く大通りに出た。

門に人が集まっていたのは来たときと同じである。

行きに門柱へ向いていた二人の僧侶が柱を背に立っていた。

外部から飢饉見物に来た連中とツジの住民たちが僧侶を見ている。

近づいてみれば僧侶たちが人々に説教をしているところだった

☆019

二人の僧侶はまだ年若い。

若い僧の一人が説教し、もう一人はその隣り後ろに立っていた。

聞けばこの飢饉は天からのツジへの罰だと主張している。

そして今からでも念仏を唱えよと命令しているのだった。

前列でへたり込んで聞いていた連中が「食い物出せ」と両手を出し、

余裕のある外部の人間はその若僧の言うことに文句を言い、

それを聞いた他のよそ者たちが大笑いしていた。

野次の中、若僧はさらに怒鳴りあげて人々を訴えていった。

もう一人の若僧もそれにあわせて目を閉じ念仏を唱えはじめた。

誰かが投げた石が説教中の若僧の右目を直撃した。

そして説教は止まった。

もう一人の若僧は念仏を唱えていたが目は開けていた。

説教の若僧は右目を右手で覆い黙ったまま聴衆をにらんでいた。

しばらくするとその若僧の右手の平から血が流れ出てきた。

それを見た誰かが今度は漬物石のようなものを投げ入れた。

漬物石は今度は説教の若僧の右足の甲に落ちた。

その瞬間、説教の若僧はその場で無言のまま高く飛び上がった。

そして地に降りたが、こらえていられず足を抱くようにしてしゃがみこんだ。

右目から血が流れておりしゃがんだまま痛みをこらえていた。

もう一人は念仏をやめずその様子におびえていた。

外部の男が一人そこへ進み出てうずくまる若僧に足で砂をかけた。

回りながら何度もそうしていたが、最後に若僧の頭を蹴りつけた。

頭を蹴られた若僧はその男をにらんだ。

蹴りつけた男はそれに応えて再度若僧の頭を蹴りつけた。

そしてそれが止まらなくなり、若僧は頭を蹴りつけられ続けた。

小さな声になったが念仏は止まらない。

そのうち他の男たちも前に進み出て皆で若僧を蹴りつけはじめた。

若僧は大勢の男たちに蹴られ蹴りつけられ踏まれ続けて転がされ

「痛い」などと言っていた。

そうしている最中に他の五、六人の男たちが念仏の若僧に近づいた。

若僧は男たちにその両脇を抱えられて驚いたままに念仏を止めた。

男たちを見回す若僧は「こいつはいい」などと言われていた。

そうしてそのまま引きずられて一軒の家に連れ込まれていった。

それを追って外部の何人かが急いで走って入っていった。

そうしているうちに説教の若僧の方は動かなくなり

集まった者たちもそれぞれの午後にまた散らばっていった。

それらを見終わったキタは南門をくぐり改めてツジを出た。

死の願望を上まわる反省の帰郷の欲求。

それがキタを歩かせていく


第6章 2/2 290~更新中

☆290

 賊の一人がこちらへ乗り移ろうとしている。船縁から―。飛び降りる。即サルは右舷に回した。右舷へ傾いだ小型船。賊は目測を誤り小型船の縁にぶつかって船と船の間に飲まれた。落ちた水音、後方へと過ぎゆく。振り返れば賊の頭がゆらめき流れ遠ざかる。
 炎がさらに激しくなる。火の粉と熱煙が帆を焼きはじめた。船内からは右に左にときしみはずれる音が聞こえはじめる。
 サルはきり回して再び準大型船に左舷をぶつけた。衝突と共に船上に噴き出す火炎と白煙と火の粉。火を吹く小型船はそのあとも何度か準大型船にぶつかっていった。船内から骨の折れるような鈍い音が連続して聞こえる。
―ああこの船終わったな
 帆は焼けて速度は弱まる。小型船はしだいに止まっていった。準大型船は離れていった。消えてゆく。
 船は燃える。ぱらけるようにして。ぱらぱらと。ぱらぱらと。夏空に。

 進む息使い。息使い進む。進む息使い。息使い進む。
 モモが泳いでいる。顔だし平泳ぎ。背に刀。
 もう一人の男が続く。さっき小型船へ乗り移ろうとして落ちた賊。男も背に刀。
 顔だし平泳ぎの二人が進んでいく。遥か前方に燃えている炎を目指し泳いでいく。
 進む息使い。息使い進む。息使い進む。進む息使い。

 炎はやはり小型船だった。沈みそうになりながらもちこたえている。さらに泳いでそばにまで近づく。周辺に浮く木切れ。燃える木の音。船にあたる波の音。
「タロウさあん。あんまり近づき過ぎないほうがいいですぜええ」
「おお~いだれかああ~。いねえかあああ~」
「みんなおっ死んじまいやがったああ」

☆291

 船は崩れていった。音をたてて。水しぶき。火の粉が青空に舞い散った。
 モモと賊の二人は顔を水に浸した。水中を船がゆっくりと沈んでいく。
 船のあった向こう側にサルがいた。潜って沈む船を見ていた。
「平気だったか」
「ああ何とか」
「名前聞いてなかった」

 三人は浮かんでいた。浮遊する木片をつないだ上にいる。
「見殺しか」
「海賊ってそんなに薄情なのか」
「いや。こんなはずじゃねえ」
「仲間助けに来ないだろ」
「いや。先に廻ってんだ。んだ。落ちたの先だった奴らから探してんだ」
「ずいぶんと罵ってくれたよな」
「やめ。休戦ぞ」

「畜生。あのふんどし船頭。見捨てやがってからにい」
「あちぃい。水ぅう」
「天気良すぎのため雨は無理です」
「あちぃい。死ぬぅう」
「あんたら漂流はじめてかい」
「あたりまえだ。あんたは」
「おれなんかしょっちゅうだ」
「水ぅ雨ぇえ」

☆292

 漂流の空は続いている。どこまでも。どこまでも。どこまでも。
 ツジ・カワナニの南門へも続いている。

 桃をかたどった丸い紋章の刺青。イヌの左胸。イヌは寝ている。目を開けたまま。天を見つめている。
 裸のイヌは起き上がり掛けておいた着物に手を伸ばす。その細い背と足。こけた尻。女も起き上がった。
 着衣を整えるイヌの背に上掛け一枚の女は訊いた―こんどいつ逢える。
振り向いて袖をまさぐるイヌに女は言った―いいよそんなん。
イヌは銭を布団にばら投げて出ていった。
 昼下がりのカワナニの街。屋根が覆い昼も暗い路地の道。まだ人は少ない。イヌが歩いていく。ゆるやかな坂。ゆらりゆうらりと。
 店支度するおやじがイヌに気付いて喜び言った―よ二枚目。
「たまにゃうちにも来てくださいな。お代はいりやせん。頼みやしたよ」
イヌは通り過ぎる。かすかに口もと笑んだようにも見せた。
 日差しは午後に傾きはじめている。イヌは階上のいつもの場所にいた。見ていた。遠く馬車がいく。四頭立ての馬車。遠く―

 幼い日モモはイヌに見せた。家の部屋の奥にしまってあるいくつもの鎧兜と刀。驚くイヌをモモがほくそ笑む。
―じいちゃんがとっておいてくれたんだ。おれのために。むかしおれが生まれた頃に集めたんだって。ほらイヌ。これ持って。これイヌにあげるからな。
 モモは刀の発する威厳にもまったく動じず。少し怯えるイヌに手渡した。
―おれにはこれがある。ほら同じだ。ここに紋があって長さも太さも。一緒の刀だよ。
―モモ。ありがとう。おれうれしい。

☆293

 ツジ・カワナニの街は夜。続く屋根屋根の先に座り動かぬ男が影。近寄り見れば足元の置かれた刀の黒光り。その鞘の紋と柄のつくり―。その鞘の紋と柄のつくり―。
―ああ。おもいだした。あいつだ。ツジ南門の屋根にいた男。
振り向く影。細くつりあがった目。こけた頬。あごの細く長いひげ。イヌの顔。
―あの男だ。あの男の足元にあった刀。あの男がタロウと同じ刀を持っていた。
 おもいだされた刀が青空を舞っていく幻よ。刀は回転しながら空に浮く鞘に納まっていく。宙に立つ刀。鞘には桃を模した丸い紋章―。
 サルはおもいだした。起き上がって漂流の海。

 三人は海に立ち泳いでいた。サル、モモ、賊。漂流の経験がしょっちゅうあるという賊の意見に従うことになる。
 沈んだ小型船から出た大きな木片は周辺にまとわり浮かんでいた。それらをさらに集めつないでいった。中央には高さを作っていく。三人が雑魚寝しても波がかかりにくくできた破片の筏。
 賊が言うには夜に鮫が来るという。水につけたままの手や足を持っていかれるのだそうだ。誰も出血していないからまだ良いほうだと言った。
―夜まで漂流すんのかよ
―朝はかなり冷えるぜえ
―朝までいくのか
―おはようございますうう
 木っ端な木片も集めるだけ集めた。筏の上で日干しする。夜にそれで焚き火するのだそうだ。明るい昼間より暗い夜の方が見つかりやすいらしい。どこぞの船が自分たちを探してくれていればの話だが。
―夜の沖に出る船なんてないよ
―いやおれたち海賊は夜の沖にも船を出す
 筏の下の海を何か巨大な影が泳いでいる。モモが見つけた。
―何あれ
―ダイオウイカだ

☆294

ゆらりゆらりこ サルがゆく

ゆらりゆらりこ モモもゆく

ゆらりゆらりこ イヌつづく

ゆらりゆらりこ ゆらりゆうらりこ

どこへゆくどこへゆく


ゆらりゆらりこ 西へゆく

ゆらりゆらりこ 東へも

ゆらりゆらりこ 北南

ゆらりゆらりこ ゆらりゆうらりこ

どこへゆくどこへゆく


ゆらりゆらりこ 人あやめ

ゆらりゆらりこ 人たすけ

ゆらりゆらりこ いにしえの

ゆらりゆらりこ ゆらりゆうらりこ

どこへゆくどこへゆく

☆295
 水中の巨大な影は筏の斜め下にとどまっていた。サルは水面に顔をつけてみた。巨大なイカの目玉がこちらを見ている。―ブファ。サルは魂消た。
 すかさずモモと賊がのぞいてみる。イカの目は確かにこちらを見ているように見える。まばたきしたようだった。イカの全長は沈んだ小型船よりも大きい。
サル 「すごいでかいぞ」
賊 「おれもはじめてだ。ダイオウイカは。船を沈めたりするって話には聞いた」
 モモは水中をのぞいていた。イカは白く透明。左右のヒレをなびかせている。顔を上げてモモが言った。
「イカ君おれたちに何の用だろ。あれでぶつけられたら木っ端みじんだぜ」
「食べてほしいんじゃないの。漂流ご苦労様あってさ。うまいのかな刺身とか」とサル。
「どおだろ。あんまうまそうな面には見えない」
イカはゆっくりと筏の真下につけた。―「真下にきた」
浮上してくる。―「おいおいおいおい」
 イカは浮上してその頭部に三人と筏を乗せた。俯瞰すれば筏の左右両側に目玉がある。
賊 「あんま食べるとか言わない方がいいんじゃないのか。赤くなってるぞ。イカ」
モモ 「あホントだ。赤いわ」
サル 「なら焼いて食っちまおうぜえ。味付けはタロウ君よろしくうう」
イカはその触腕を筏の左右両側の水面上に突き出してきた。三人は驚きの声を上げた。さらにイカの手は両側からくねりながら近づいてきた。
モモサル 「うわうわうわうわわあああ」
賊は唾を飲み込むだけ。完全に固まっていた。
 イカの一方の手は筏を押さえてきた。その手を見る三人。背後からもう一方の手が伸びてモモに巻き付いた。
モモ 「うわわわちょっと待ってなにコレ痛いいたたたた吸盤」
サルが刀を抜いた。

☆296

 「やめろ!斬るな!」と賊が止めた。「チイッ」―構えたサルは止まった。顔をしかめているモモを見た。イカの手はモモを持ち上げる。
モモ 「わあああい高い高~い。高い高~いい痛いいたい吸盤がっ」
 持ち上げられたモモはそのまま海上へ連れていかれた。
サル 「どうすんだよおおい」
賊 「知るか。おれだってダイオウイカははじめてなんだ」
 モモの足は宙に浮いている。モモが叫んだ。
「イカ!イカ君!キュッきゅっ吸盤が痛い!聞いてくれ!君を食べると言ったのはおれじゃあない!向こうで見ている二人のうちのどっちかだ!イカ君!おれは今後イカは食べない!ホントにいい!イカ君!おれは今後二度とイカを食べないからにい!」
モモは巻きを解かれ海面へ落ちた。
サル 「ダイオウイカって言葉分かるのか」
賊 「知るか。おれだってダイオウイカははじめてなんだ」

 モモは少し離れた場所に潜り水面下の様子を眺め見た。
 太陽の光が水中に射している。それはおちていく。底へと。その斜めの光は白く透明な光線。海の青にゆらぐ。映える。水面すれすれに浮遊する巨大なイカの姿。その下半分は影。水中に射しおちる光線はイカの前後左右にも交差している。その海の奥ゆき。光と影の交錯。イカの胴部は太い。そこから長い足が伸びてさらに遠くにまで広がるようにしている。海の向こうにまで続くように。揺れている。

 モモは水面に顔を出した。筏にいた二人はそれぞれ大イカの左右の触腕に巻き上げられていた。懇願していた。潮風がその叫びを運んでくる。
―もう二度とイカは食べません―などと二人して叫んでいた。
 二人は巻きを解かれ海面へ落ちた。

☆297

 午後の海。続く漂流。
モモ 「いつまでいるつもりなんだろ」
サル 「どうよあんた」
賊 「知るか。おれだってダイオウイカははじめてなんだ」
 俯瞰すれば筏の真下にダイオウイカの巨大な全身が浮いている。陽に照らされたその肢体。頭部に筏を乗せるようにしてまったく離れないままでいた。
サル 「気味わりぃぜ。なんか不思議と喉の渇きもなくなっちったし。つうか聞いてるのかな。おれたちの会話を」
モモ 「ダイオウイカという言葉の分かる化け物がああ」
賊 「あんま化け物とか言わない方がいいぞ。ほら見ろ赤くなってく」
モモ 「あホントだ。赤いわ」
サル 「気の短いダイオウイカなのでしたああ」
モモ 「すぐに赤くなるのでしたああ」
しばらくして水面下から触腕が立ち上がった。それを見た三人は固まった。
サル 「聞いてるよ…」
モモ 「高い高い怖ぁい…。吸盤痛ぁい…。イカ君。私い。ごめんなさいねええ」
サル 「私もお。ごめんなさいねええ」
モモ 「あんたもお」
賊 「知るか。ダイオウイカははじめてなんだ。だから私もお。ごめんなさいねええ」

 三人は何やら指をさし背伸びをして見ていた。指さす先の波間に木箱が浮いていた。
 三人は誰が木箱を取りにいくかの勝負をした。せぇので自分の口をふさぐ。片目をふさぐ。片耳をふさぐ。じゃんけんのようなもの。
 二度目の勝負で賊が負けのけぞった。賊が泳いで木箱を取りにいった。

☆298

 木箱は両手に抱えられる大きさで。上部は蓋になっており開けられるように金具されていた。しっかりと防水されている。男の手によるものだと思える。
 開けてみれば黄白色の布に巻かれた桐箱。紫と赤の紐で十字に結ばれている。女の手によるものと感じられた。
 桐箱を開ければ六つの白い酒瓶と六つの杯が入っていた。杯はそれぞれ赤、白、黒、青、緑、黄の色がつけられていた。そこには手紙があった。
 三人は読んだ。こうある。

海の川よ
届けておくれ
私の小さな心はもうすぐに
張り裂けてしまいそうだから

海の川よ
届けておくれ
無力な私たちを救うよう
強き者だれかに頼んでおくれ

野山海に神々あれば
海の川へ
私の願い祈り託さん

海の川よ
届けておくれ
この杯とこの酒を自らへくべる者
強き者だれかたずね来るように

海の川は
強き者だれか私たちを救うように
これを届けん

 女の字。署名はない。その表装はすべてが品格あるものに感じられた。実際そうである。
 何も疑わずにその酒を飲んだ。それぞれに杯を取り。モモは赤、サルは青、賊は黒。
 この漂流と真下にいるダイオウイカに乾杯した。

☆299

 夕暮れ。水平線の積乱雲は燃えた。白く明るくわき立ちうごめく。
 海が揺れる。その風。黒くたちこめた沖の雲が低く動いていく。上には積乱雲が。さらに後ろには陽に照らされた明るい空が遠く。
 赤く傾く太陽。横を細く長く垂れた白い雲。流れていく。三人も見ていた。波に揺れて。酒を飲む。

 その夕陽をイヌも見ていた。いつもの屋根の上で。草原と林。遠く森の影。
 酒を飲む。思い出される―。
 集落のおとなたちに交じってイヌも上った。上流へと。釣り竿のような袋を持って。イヌは途中で姿を消した。隠れておとなたちを追っていく。伐り出しの場所へ。

 海洋へと沈む夕陽。鳥が横切る。

 上流の山々は小雨となり霧に包まれていった。おとなたちは伐り出しを終えて休んでいる。イヌは降りていった。流れる薄霧と一緒に。おとなたちはイヌを見た。

 野の林。森。飛んでいく鳥。夕陽にすべては影絵のように映り。イヌはそれを見つめる。
 サルとモモも見つめていた。その沈みゆく太陽。海の風に吹かれて。波が揺れる。

 イヌは斬りかかった。おとなたちを次々斬っていく。ナタや斧と戦った。逃げようとした者の背にも斬った。走りいく者を追いかけて殺した。馬乗りになり。河に濡れて。

 太陽がにじむ。泣いているように。赤く燃えて。燃えているのに沈んでいく。非情な。

 薄霧がすべてを包み込んだ。振り向いていたイヌは河べりを下っていく。何もかも忘れたようにして。あとに残された死体たち。
 イヌは集落に戻り長の家の戸を開けた。入っていく。しばらくして若い男女が走り出てくる。振り向いたその戸からイヌは出てきた。返り血に染まり出てきた。
 悲鳴と絶叫が山間と集落に木霊した。

 イヌは人殺しだ。それはサルもモモも同じ。

☆300

 夜。ダイオウイカは強烈に発色した。体全身。光ったのである。海中と海面を照らす。真下からの光に影となる筏。その上に焚き火が燃える。
 ダイオウイカの光にはたくさんの魚が寄ってきた。筏とダイオウイカの間の隙間に魚たちが回遊しはじめる。水面をのぞく三人。その顔を光が照らし上げる。
 三人は歯を上に向けた刀でモリのようにして魚を突いた。競い合う。
 モモの鞘の紋章をサルは再度横目に確認した。イヌの顔が頭に浮かぶ。
 突きあげた魚をさばく。刺身にして食べる。腹も落ち着く。酒はまだある。
 夜の海。次々に盛り上がり来ては去る波波。筏は上下に浮遊する。周辺はイカの光で明るい。焚き火の炎ゆらめく。筏にあたる波の音。不思議な夜の空間世界。
 沈んでいった小型船にダイオウイカが反応したのだろうと賊が言った。ダイオウイカが夜に光るなんて聞いたことがなかったとも言う。
サル―「海底にいたのを驚かせたのか。珍しいもの見れてよかったじゃないさ」
賊 ―「しい。気をつけろ。聞いてるぞ」
 モモは手紙を見つめていた。
モモ―「だれかが助けを求めてる」
サル―「助けてほしいのはこっちも同じいい」
 焚き火に昼間干した木っ端をくべる。
賊 ―「ダイオウイカに遭遇するなんざ二度とないことだ。しかも離れないでいる」
サル―「そのうえ光ってますうう」
賊 ―「こういった事象をどう見るかだ。桐箱の手紙といい。こいつはもう普通じゃない。これは吉事なのか、凶事なのか。タロウさん。あんたどお見るよ」
モモ―「何か繋がっているように思える」
モモは即答した。
夜の真っ黒な大洋。ひとつだけ輝く白い光。そのダイオウイカの頭部に筏は揺れる。

☆301

 陽が昇るのはまだ先。けれど夜の終わり。空の色が変わりはじめる頃。暗い朝の海に筏は揺れている。
 焚き火はくすぶっている。あぐらを組み頭を垂れて三人は深く眠っていた。ゆっくりと黒く盛り上がる波。筏の下をとおりすぎていく。
 モモがぶるっと身震いして起きた。薄目を開けて首をまわしてみる。遠くに船を見た。こちらへ近づいてくる。三人は大きくした炎で振った。助かった。

 やって来た船に乗っていたのは置き去りにしてくれた船頭たちだった。船は昨日にモモとサルが港から乗って離岸した船である。
 聞けば船頭たちは見捨てたのではない。ただ逃げただけだと言った。客を行き先へ届けるのが自分たちの商売。それを優先させたまでだと言う。
 船客は全員が無事に着いたそうだ。ひとりも欠けず。家族連中はモモに感謝しているらしい。船頭たちはモモを捜すようにと強く願い迫られた。
 船頭たちも客を目的地に届けたあとには捜索に出向くつもりだった。などと言っているが本当はどうかな。とにかく見つかる確率は三七で見つからないと踏んでいたそうだ。賭けにされていた。
 真夜中の終わる頃に船を出し港を発った。しばらく進むと遠洋の暗闇に白い光が見えた。それがモモたち三人だった。あっけなく見つかった。
 船頭たちは賊の奇抜な風体に一歩引いた。縄で縛るかと訊くから必要ないと言う。賊も捕らえられることを恐れて緊張しているようだった。
―遠洋の暗闇に白い光か。
 モモは船頭たちに何か見たかと訊いてみた。それは例えば馬鹿でっかいタコだったりイカだったりカメだったりするかもしれないけれど、みたいに。船頭たちは何も見ていないと言う。
―それじゃあ見たのはおれたち三人だけってことだ。不思議にも。
 空が白みはじめる。三人は桐箱から酒を取り出した。乾杯する。漂流の終わりに。

☆302

 体についた血も汗も潮と風に洗い流された。朝の浜。船頭たちに連れられてモモとサル、賊が歩いていく。先にはむしろにくるまれた死体が並べられていた。
 小型船から乗り込んできた海賊たちがいた。そのうち八人が船上で死んだことを知る。その死体。あとの七人は海へ飛び込んだ。行方は知れない。
 賊はむしろを開いて一人づつその顔を確認した。死体の名前らしきを呼んで泣いていた。賊はモモとサルをにらんで言った。
「あんたらが斬ったのか」
モモは無言。サルも黙っていた。無言の二人の横顔を船頭頭が見つめる。
サル―「船も一隻沈んだしいい。襲った相手が悪かったああ」
賊は浜を打ち叩いていた。
 モモもサルも自分の荷は船から無事に取り寄せた。保管されていた。その点では船頭たちは正直だった。モモとサルは刀を袋に包みそれぞれに荷を整えた。
 船頭たちの船は今日から三日間ここに停泊する。賊は死体を取りに船でここへ戻ると言う。三日間までは船頭たちが死体を見るがその先はどうなっても知らないこととなる。
 船頭たちは死体を見るための金を要求した。賊が引き取り時に支払うこととなる。
サル―「あいつら海賊相手に商売たあ抜け目ねえなあ。死体一人につき一日いくらなんでしよおお」
 ひとしきり話も済んで船頭たちは周辺へと散っていく。船頭頭がモモに言った。
「船の客はあんたに感謝してた。何人かまだこの町にいるかもしれない」
 賊はモモに言った。
賊―「奴らと話をつけたが。もうここは危ねえかな。おれは丘じゃ生きていけん」
モモ―「平気さ。捕まるならとっくに捕まってるはずだよ」
 漁師相手に早朝から開く店を見つけて入った。見慣れない三人だが店も客もなにも言わない。誰も賊のことを通報しないでいてくれた。いい町だ。静かだし。めしもうまい。
 宿を探すが午後からでないと入れないと言われる。浜辺に降りた。岸壁を背に海を見ている。

☆303

 晴れてるからまだよかった。これで雨なんかが降っていたら気分は最悪だったろう。人を危めた後だ。刀を伝ってきたその触感は一生忘れることのできない記憶。
賊―「あんたら斬り師じゃなけりゃ何で食ってんだ」
サル―「だからおれは薬売りよ」
賊―「タロウさんは団子売りかい」
モモ―「そう」
 モモは船から受け取り背にしょってきた商売道具一式の入った建具を叩いてみせた。賊は腑に落ちないようだった。

サル―「これからどおすんのさ」
賊―「おれは死んだ奴らを弔わなきゃなんねえ。連れて帰る。おれたちの住む場所に。詳しいことは言えないがおれたちには奪ったものを陸揚げする秘密の場所がある。この辺りにもいくつかあるんだ。海賊仲間で共通で使う場所が。そこで船を待つ。自分たちの船でなくても知り合いの船は必ず来る。漂流式で乗せてもらって。この町へ寄って亡骸を乗せる」
モモ―「奪ったものを陸揚げするって人もかい」
賊―「ああそう」
モモ―「海からどうやって陸にさばく。士に売り渡すのか」
賊―「方法はいろいろだ。おれたちの場合は仲買人に売り渡してる。その先は知らん。仲買人は士にも売り渡してるだろうな。士は何かといえば刀を使う。おれたちと同じで血の気も多い。海賊と士の商売には問題が起こりやすい。仲買人に卸す方が楽だね。金は取られるが」
サル―「近頃急に増えたような。海賊たちが」
賊―「金になるからな。人の売り買いは最高に割りがいい。海賊同士でも小競り合いしてる。おれたちも元は漁師だったんだ。でももう戻れないね。うま味を知った」

☆304

モモ―「あんたたちの住む場所ってどこ」
賊―「フッ。それは言えない。海の上のどこかだよ」
モモのさりげない問いを賊は微笑してはぐらかした。サルの大きな目がそれを聞いている。
モモ―「奪ったものは本土へ運んで四州(しそ・238参照)へは運ばないのか」
賊―「四州へ運んでいる連中もいるだろう。ただおれたちは本土だけへ運んでるまでのことよ。四州にも士はいるが市場の勢いは本土に劣る。そのぶん付く値はいまひとつらしい。四州の仲買人の数も本土ほどには多くない」
 賊は骨太な体格。着衣は黒ずくめ。首と腕に数珠らしきを幾重かにして巻いている。肩まで伸びてはねた髪。肌は浅黒い。垂れた目尻。太い鼻筋。大きな口。割れたあご。
賊―「今回の一件でおれたちは大損害だ。人も死んで船も失くした。仲間は今も漂流している。襲った相手に襲われるなんざ聞いたことないぜ。とんだ赤っ恥だ」

 賊は先を急いで行こうとした。モモとサルも見送りに立ち三人は岸壁を上がった。しばらく歩くと人影があり漁師とその女たちだった。獲れた大量のイカを次々と天日干しにしているところだった。
―これからはイカのうまい季節だあ。食べてってくれやあ―
漁師たちは三人に言った。
サル―「おれってもうイカは食えないのかな。ダイオウイカと約束しちゃったから」
 三人は桐箱の酒で別れに乾杯した。賊にはその黒い杯と酒瓶一本を持っていかせた。賊は去り際に言った。
―仲間殺してくれてありがと。これもなにかの縁なのか―
 モモとサルは浜辺を去り行く賊の後ろ姿を見つめていた。小さくなっていく。
サル―「あいつら海賊は内海に潜んでる。内海に無数にある島のどこかに。内海は潮が渦巻いて素人には難しい。入れても中で迷うって誰かに聞いたな」
 モモもサルも日焼けした。その向こうに天日干しの白いイカが揺れる。二人は賊の名を知らない。そのまま別れた。訊く気がしなかったし。別に知りたくもない。

☆305

海の川よ
届けておくれ
この杯とこの酒を自らへくべる者
強き者だれかたずね来るように

海の川は
強き者だれか私たちを救うように
これを届けん

 「あんな武器。どこで手に入れたんだ」
サルは訊いた。手紙を読み返していたモモに。桐箱に入っていた手紙。
モモ―「あんな武器って」
サル―「ほら枡みたいなやつさ。投げてドカーンと凄い音を立てるやつ。あと火を点けて船首をぶち壊してたろ。どかーんと。あれ何なの」
モモ―「ああ。爆弾ね」
サル―「バクダンネ」
 二人は宿の部屋にいる。窓から身を乗り出して横を見れば船頭とむしろの死体たちが見える距離。海沿いの宿。
モモ―「火薬っていうんだよ」
サル―「カヤク」
 この頃は弾薬を使用する者は国内にはほとんどいなかった。「爆弾」「爆発」という言葉もまだ知られていない時代である。
 すでにこの頃までにモモは大陸からの武器商人と関係を持っていた。キジがそうであったように(063参照)。
モモ―「大陸の連中はみんな馬に乗ってあんなのを爆発させながら戦うんだってさ」
サル―「バクハツ」
モモ―「ああ。どっかーんドカーンってさ」

☆306

 「お客さん。お客さんタロウさん。あんたにお客さんだよ」
宿の親父に呼ばれてみれば入口に老いも若きも男が五人待っている。襲われた船で見た顔。モモを見て深々と頭を下げた。
 モモがここに居ることを聞きつけてわざわざ訪ねてきたという。表に出れば女子供の老いも若きもがこれもまた深々とモモに頭を下げた。
 そのなかの老婆がふたりモモの足元に寄り土下座した。
モモ―「なんだよ。やめてくれよ。そんなことしないでくれ。さ。ほら」
 助けられた男たちは銭であろう小さな包みをモモに手渡そうとしてきた。モモは受け取ろうとはしなかった。男たちには包みを引っ込めさせた。
 訊けば男たちは女子供たちを連れてこれからこの町を発つという。その行き先はこの近隣にある都市のひとつだった。
モモ―「ああ。それがいい。海も山も近頃は賊が流行りだし。人気が少ない土地には必ず士がくる。大きめの街に入ったほうが安全だ。どうぞ気をつけて」
 土下座の老婆のひとりは息子に死なれて娘の嫁ぎ先へ身を寄せるのだという。きっと娘夫婦とその子供たちにはいじめられるだろう。だから本当は行きたくないとモモにひとしきり聞かせるのだった。
 もうひとりの土下座の老婆も似た境遇らしい。その年寄り女は自分の胸と股ぐらをつかんでモモに迫った。まだ使えるいいモノだから私をあんたが貰っておくれと笑い猛る。
 皆で大笑いした。後ろから見ていたサルと宿の親父も笑っていた。
モモ―「海賊共をしのげてよかった。船底で恐怖に耐え続けることができたあんたたちが賊に勝ったんだ。おれも礼を言いたい。おれを信じてくれてありがとう」

 モモとサルは宿の部屋でくつろいでいた。家族連中一行が町を発って行ったことを宿の親父に聞かされた。親父は興奮して言った。
―いやお兄さんがた。若いのが海賊をやっつけちまったって噂になってたの。あんたたちだったのかい。いやこりゃ。たいしたもんだ。その若さで。ねえ!―

☆307

 モモは浅い昼寝から目覚める。サルは窓辺で海を眺めていた。二人は刀と金以外の荷を宿へ預けて出かけた。むしろの死体が置かれている場所へ行ってみた。
 一人の船頭が見張っていた。歩み寄る二人に船頭は言った。
―この暑さに腐りはじめてる―
陽に照らされたむしろには相当な数のハエが群がり飛んでいた。
―あすあさってなんかは凄い臭いになるだろうな―

 夕方。二人は砂浜を歩いた。モモは歩きながら思った。
―海も山も賊だらけ。そのほかは士の連中か。
天日干しのイカが連なり揺れている前を横ぎっていく二人。
 夜。一軒の店で飲み食いしたが店主に「イカがうまいよ」とすすめられる。モモとサルは見合った。注文はしなかった。
モモ―「あんなくっだらねえ約束するんじゃなかったなあ」
サル―「あの状況じゃしょうがねえよ。高い高~い。吸盤痛い痛~いだもん。ああでも言って約束しなきゃ。今頃どうなっていたことか。私たちはもう。イカを食べられない体になってしまったのだああ」

 宿に戻っても親父に「イカがあるからどうか」とすすめられる。断ると「これからの時期はイカ漁が盛んなんで」と言った。
 部屋でモモは桐箱の手紙を見返していた。サルは何気なく桐箱の残り五本の酒瓶の一本を動かした。桐箱の底がのぞく。底に焼印らしきが押されているのを見つけた。
 酒瓶を取り出して確認した。焼印は円の中央でイカが左右の触腕をかかげる様を模している。何かの紋章らしい。ロウソクの炎を挟んで二人はお互いの顔を見た。
 窓の外。むしろの死体が置かれた場所では焚き火している。炎のまわりに数人の人影が立っているのが見えた。
 面前には夜の海が広がる。水平線上に散るいくつもの白い光。遠く漁り火が見えた。


第6章 1/2 269~289

☆269

 それでおれたち、バスに乗った。夕方ですごい、寒かった。
 そのバスに乗って10分もすれば駅に着く。10分くらいなら歩けばいいのにって、思うでしょ。でも、疲れてだめだった。
 駅前で降りて。
 そのときにはサルの野郎が消えていた。イヌと二人で降りて。
 高校生とか若い人がたくさんで、にぎやかで。
 腹がへってたから、何か食べたかった。
 でもファミレスとか、おれ入ったことないし。イヌもいやだって。
 コンビニで買うにも値段とか、わからないし。
 どうしようって。
 イヌと歩いてそのまま知らない国道の道に出て。
 クラクション鳴らされたりして、河、橋渡って。
 そのままふたりでかけてった。

☆270

 「私」は三人を呼びだした。三人とは、サル・由宇、イヌ・ハチ、モモ・タロウの三人である。「私」からの知らせに三人は戸惑ったはずだ。初対面のうえ、急な呼び出し方を「私」はあえてした。
 その頃は夏で暑い日が続いていた。待ち合わせの場所は街道をそれた細い道の先にある。そこは茶屋で年寄りの夫婦が営んでいる。汚い場所だ。
 まわりは田園。店の裏は水田。店の前には小道を挟んで松林の丘がある。遠くからだとその松林の丘が目印となった。
 老夫婦に訊けば、客は日に二人あるか、ないかだと言った。街道を外れた旅人が一休みでもするのか。畑をやりながらの店らしい。客商売を好きと言っていた。
 「私」は一度、この店を訪れたことがある。以前、道に迷い、ここで道を尋ねた。あのとき店には若い女の子がいた。今はいない。士はここにまで来ている―
 暗くほこり臭い店の中にはそれ以上いる気がしなかった。外で「私」は待っていた。緑の稲、松の林が夏風にゆれて音を立てる。
 遠く騎馬の影がこちらへ向かってくるのが見えた。三人である。馬は一列になり細いこの道を近付いてきた。
 静かな田園の中を、だんだんとヒズメの音が響いてくる。松林からそれを見ていた「私」、茶屋の夫婦も道端へ出て見つめていた。
 三騎は店の前で止まった。馬がいななく。先頭を走っていた男は即座に馬を降り店に入った。老夫婦はその勢いに驚くようにして店の外に立ったままでいる。
 馬から降りたその男はサルだった。背が高く痩せている。帽子のようなものを何かかぶっている。首に細い数珠を掛けている。左手首に幾重もの数珠を巻いている。左腰に刀が二本、背に一本を差していた。
 サルは店から出てくると道にいる騎乗のふたりに目線を送った。その大きな眼。
 二頭目を走っていたのがモモだった。モモは馬に前を向かせたまま後進させながら、松林で見ている「私」の横へとゆっくり下がってきた。

☆271

 男たちは午後の波間にゆれている。これより浜から離れるのは危ない沖にいた。午後になり波は高くうねりはじめている。沖へ連れていかれる。灰色の雲が頭上を覆っている。
 波の上下の揺れとともにいる彼ら二十人。海間から突きでたその頭の影。潮にあらがう自分たちの激しい息づかい。ともにいる者の名を確認し合い叫ぶ。
 男たちが揺られながら見る海岸。オロチたちが右手側の浜を走りぬけていくのが見えた。正面では朝廷の騎兵が次々に包囲の疾走をするのが見えた。砂丘にいくつも燃やしていた自分たちの炎のうち、いくつかが消えていく。
 太陽と鉄が朝廷軍に捕獲された二十日の北海沿岸。太陽と鉄の二十人は海へ逃れた。

 二十人は浜へたどり着いた。自分たちが駐屯していた場所よりも西の海岸。もうすぐ夜になる。火は焚かず。おのおのそれぞれ周辺に散らばって眠った。
 海に体力をとられて。冬なら皆沖へ流されて死んでいた。
 夜、二十人は起きた。自分たちの駐屯していた元の浜へ戻っていく。海岸沿いを隠れて。波の音だけ。

☆272

 二十人の太陽と鉄。昼間に朝廷に囲われた浜にいる。砂丘の騒ぎの傷跡は潮風に消されようとしていた。砂に固まった血の跡が吹かれている。
 二十人は浜をあさった。太陽と鉄の何人かが死体となって砂に吹かれていた。残されたままの武具、笛、太鼓。シュテンの棍棒も残されていた。虎一頭、熊三頭が死んでいた。虎と熊のそれぞれ一頭は連れ去られたらしい。
 沖合から見えるほど大きな自分たちの焚き火は、すべて消えていた。その残り木を集めて小さな火をいくつか焚く。男たちは無造作にそのまわりに集まった。周辺を見張っていた者も夜の砂丘に追手は潜んでおらずと火に寄ってくる。
 浜辺にうちあげられたワカメや藻を大量に集めた。生のままだったり、あぶったり焼いたりして食べた。火を見つめながら。足を抱える者、裸で横になる者、しゃがむが尻はつかぬ者、立ったままの者。昼間の喧騒と今の静寂。

 火を囲み、この先の話になった。
―オロチは噂に聞いただけのことはある。イバラキの剣はすさまじい。この目で見た
―イバラキはおれたちをカワナニとヒロシマの市で待つと言っていたが
―カワナニの市に入るのは難しい。十日、二十日は役者が賭場で采を振る。なおさら出入りは厳しくされる。おれたちに入れるわけがない
―イバラキはツジ・カワナニのことはよく知らないのだろう。奴は南土の人間だ。この砂丘周辺でもっとも近くにあるのがカワナニ南門と聞いて言っただけのことなのだろう
―ヒロシマの市には入れるだろう。あの市は大きいから
 朝が近い。まだ闇のなか二十人は死体になった同士たちをそれぞれに埋めた。各士を山盛りの砂の墓とした。浜風はこの砂の山墓も平らにしてしまう。それでもそうした。

 夜の終わる前、二十人が闇の砂丘を進んでいく。虎一頭、熊三頭はそれぞれに棒背負った。消えきれぬ焚き火に小便をかけてまわっていた男が用を足して集団へ走っていく。

☆273

 一行は山越えの道にかかっていた。一行とはとらわれた太陽と鉄の四十人。それを運ぶ朝廷兵の二十騎。小雨が降る明るい空。太陽と鉄のそれぞれは後ろ手に縛られつながれて一列に歩いていく。
 山が左手にあり右手は深くきりだっていた。その下には大きな河が流れている。水の音。河の向かい側にも新緑の山々が続いている。山奥。
 朝廷は五百を超える兵で自分たちを囲ってきた。―このおれたちを
その兵に連れられて歩いてきた。三日―
 朝廷の兵はじょじょに少なくなった。分岐した隊に虎と熊も連れられていった。
 このまま南に進んだ先には港がある。そこで船に乗せられて島に流される。金だか銀だかの鉱山に入れられて二度と戻れない。
 あと一日半か丸二日歩けば海岸線に出て港に着く―
このあたりの山々の地形には見覚えがあった。
 山道をさらに高く昇っていく。たちこめてくる霧。
 その先頭をシュテンが歩いていた。あぶらぎった全身から湯気があがっている。後ろから続いていくほかの連中はそれを見ていた。自分たちがこのまま終わるとは到底思えない。
 太陽と鉄はこの頃までには綱をすべて解いていたがとらわれの身を装っていた。カイとジンマがそれを指揮していた。
―護衛の兵は二十。素手で襲ってもいいが
シュテンがそれを許さなかった。ただひたすらに歩いていく。
―おれたちは悪くない。悪いのはこの時代
シュテンはずっとつぶやいていた。

☆274

 連行する朝廷兵たちは山奥の雨に疲れていた。太陽と鉄たちを罵倒し鞭打つことも忘れ。はやくこの役目を終えたい。馬に揺られ。
―港に着いたら酒飲んですぐさま女抱きにいく
―そのあと焼き鳥が食べたい
―一緒にいこう金貸してやる
 カイとジンマは対岸に気配を感じていた。音を消して数頭の馬が自分たちと並行して対岸を下っている。誰だ―
 間抜けた朝廷兵の間を盗んで対岸の馬影の存在は四十人に伝えられた。
 馬上の兵士たちは女性器について熱く語りあっている。対称に歩く太陽と鉄は対岸に緊迫している。
 一行は吊り橋を渡る場所へきた。先頭を朝廷兵が十騎。馬を降りて渡っていく。そのあとに太陽と鉄の四十人。朝廷兵の残り十騎は橋を渡っていく様を後列の山岸から見ている。
 先頭を行く十騎が橋を渡り対岸へ届いたころ。雨と薄霧を超えて叫び声が上がりはじめた。十人が何者かに次々に斬り倒されていく。斬りつけているのは五人、六人か。
 対岸に並行して移動していた者たちだとわかった。そのうちひとりは頭から足先までが深紅。ベニイである。連中はオロチ。橋の先頭のシュテンは固まって湯気を出していた。
 斬り終えたベニイが橋のたもとに寄ってくる。四十人全員は吊り橋の上。朝廷の後列の十人は対岸で呆然と見ていた。弓も撃たず。
 「おまえたちを助けろとイバラキに言われてここまできた」
降りの強くなってきた雨。ベニイとシュテンはにらみあっていた。橋の上の連中も前方のやりとりを見ようと背伸びもぐりあいしている。カイとジンマがベニイの元へくる。
 「よぉ。また会ったな」 
カイは激しくうなずいた。
「向こうの残りの連中も斬ってもいいんだぜ。どうする。よぉ」
カイはシュテンの顔色をうかがった。ジンマは肩をすくめて両手で口をおさえ笑っている。

☆275

 連行される太陽と鉄の四十人が橋の上で「押すな押すな」とやっている。皆、シュテンと対峙するベニイの様子を見たがった。
 朝廷兵は連行する者たちの綱がすでに外されているのをここで知った。が黙って様子を見ていた。「この連中とは関わりたくない。次に斬られるのは自分かも」と思ったために。
 シュテンがベニイに告げる。
―イバラキには謝っといてくれ。キサラギに奴の居場所を垂れ込んだのはおれだ。悪かった
―おれたちは話し合いができるような玉じゃねぇ。まず出直さねぇといけねぇんだ
―おまえらに助けてもらう筋合いはねぇ。ただ―
「今度またあえたら。おれはもっと正直な男になれると思う」
ベニイはシュテンの言葉をイバラキに伝えると言った。
 そのあとシュテンは橋から河へ飛び込んだ。雨の濁流が盛り上がるその中にシュテンは飲まれていった。
 残り四十人が奇声を上げる。吊り橋を揺らして橋は落ちんばかりに大きく反り返った。太陽と鉄が次々と飛び込んで行く。最後にカイとジンマたち、小人五人が飛び込んで行った。
 目の前で繰り広げられる気ちがい沙汰に朝廷兵は何もしないで見ていた。雨の降りは強まる。向かい側にいたオロチは消えていた。
 残り十騎は橋を渡り死体の収容を続ける中で口論となった。
―キサラギへ戻っても罰せられるだけだ
―戻らないでこのままどこかへ逃げるか
―それでは無法者と同じだ。士とかわらない
―おまえはひとり者だからそんなことが言える。おれにはキサラギに家族がいる
 十騎は二手に分裂した。一方はキサラギへ戻ることとした者たち。もう一方はキサラギへ戻らないこととした者たちである。
 キサラギへ戻らないとした者たちは下流へと向かった。身分を捨てた。家族も。
 キサラギへ戻るとした者たちは死体処理を終えて上流へと戻っていった。

☆276

モモは港にいる。
正午前。
晴れた日。
出航を待つ。
モモの荷物は出店をだすための小さな仕切り板。
その中に団子を焼くためのいくつかのもの。
それらすべては縦長の木建てにして背負う。
大きくもなく小さくもない荷。
モモはこの時、旅暮らしの商売人をしていた。
団子を売る。
地元の若い女の子連中が息も激しく寄ってきた。
船で出て行ってしまうモモに声をかけずにはいられなかったらしい。
モモは昨日までこの港の近くで店を立てていた。
この四、五日で結構、稼ぎはあった。
女子は言う。
―あんた昨日、桜宿の横に店立てておったろ、団子売っておったろ、私ら食べたよ
―あの、おいしい団子もっと食べたいし、船に乗らんでもう一日おればよかろうよ
―行ってしまうんなら次はいつ来るんだろうの、それまであんたへは手紙は書けるんかな
ちょっとした騒ぎである。
サルがそれを見ていた。
遠くから。
サルも早朝よりこの港で船を待っていた。
船がなかなか出ないので腹が立ちそうになっていた。
港周辺を再度見てまわっていた。
時間が早いので飲み屋も含め店は全部閉まったっきり。
結局、岸壁にひっくり返って日干し居眠りしてつまらなくしていた。
そこにモモが来たのである。
女たちは騒いでいる。
サルはそれを見ていた。
それにしても晴れていい天気だ。
カモメは空に。
波は高くない。
酔いざめの風に吹かれていた。

☆277

―ふ~ね~が~で~る~ぞ~~~
さっきからはじまっていた船頭たちの呼び声
港に乗船の客がいっせいに集まりだす
その船は大きくはない
中くらいのものにすこし幅をもたせたつくり
女子供をふくめて船客には家族が多い
訊けば士に村や町を追われた人々だった
住み慣れた土地を置いて逃げて行く
船上から泣いている者もいた
モモも乗船した
岸壁にいる追っかけの女たちに軽く手をふっている
サルもその船に乗りモモの横顔を見ていた
―ずいぶんと奇麗な顔をした男だな
と思った
―女が放っておくめぇな
乗船名簿を記す際にモモはタロウと名乗った
サルは何人かの後ろからそれを聞き逃さなかった
―タロウ、団子売り
カミノセキの市へ行く途中宿場で女将から聞いた名だ
船が出ていく

☆278

モモとサルが乗った船は中型船
かなり多めの客が乗せられていた
出港も遅らせ自分たちの商売を進める小賢い船頭たちの掛け声が響く

船がかなり進んでいた正午前
船酔いで体調を悪くする客が多くなる
女子供たちのほかにも男たちが横になるために船内へ下りて行った

夏の陽に照らされ沖の潮にも吹かれる船上の場所に客はまばら
強烈な日射しと海風

モモもサルも船上にいた
サルは左舷縁に座っているモモの様子を右舷縁から見ていた
サルが気になっていたのがモモの持っていた釣り竿のような包み
長い包みは横に倒した縦長のモモの荷に添えるようにして置かれている
包みとモモの手首はなにかヒモのようなもので結ばれていた
― ありゃ刀じゃねぇのか

モモは船べりに寄りかかり左側と前方の海を見たままでサルのいる方を見なかった
ただ右舷縁から自分の様子を見る男の存在には気付いている
モモはそれよりもさっき左舷水平線上に現れた小さな黒点を遠く見つめていた

しばらくして船頭たちの動きがあわただしくなった
左舷から二隻の船が近づいて来ているらしい
サルは右舷から座ったまま伸びをしてその船影を確認した
モモは左舷縁にもたれたままでその船影を見つめている

サルは自分の前を歩き過ぎようとする船頭のひとりに訊いた
― 何だいあの船
― 賊にめっかった

☆279

― 賊?
「なにあれ海賊船?」
「そうぞあんさん奴ら二隻で囲う気だ」
中型船に多めの旅人を乗せたこの船足は遅い
海賊船は迫っていた
船内にいた家族連中も船上へ出てきて様子を見ている
泣く者、茫然とするモノ、海を罵る者
モモは立ち上がった
釣り竿の袋だけを持ち年若い船頭に訊いた
「どうするんだい」
船頭はモモに振り向いてまた海を見て言った
「このままじゃ捕まるな」
「殺されるのか」
「取引してまとまらなけりゃ誰かが死ぬかもな」
「取引って何」
「荷を渡すかどうかよ」
「荷って人も含めてか」
「おうよ」
「おれ刀使うから。船長に会わせてくれ」
船頭はほかの船頭にそれを伝えた
モモが船頭たちと船内へと入って行く
サルがひっそりついて行った

☆280

船内を進むうち船頭の一人がモモに訊いた
―おにいさんずいぶんと若いのに斬り師稼業かい
―違うおれは団子売り刀を使えるだけなんとかしたいだけ
船尾に船長の部屋があった
船頭が扉を開けたがその煙にのけぞった
狭い室内をモモも見たが裸の女が二人倒れている
船長らしき豚男が裸で座っていたが薬に朦朧としていた
船頭が後ずさりしながら言った
―吸わないほうがいい
―キノコかすげぇな
―誰だおめぇ
後ろからのぞきこんでいたサルである
モモとはそのときはじめて目があった
船上でモモは船頭頭と話をつけた
賊の二隻は一隻は小型船
もう一隻は準大型船
小型船に斬りに乗り移るというのである
二隻に挟ませて小型船に船腹をつけて廻れ
小型船に火を放ち戻る
二隻を相手にすることはない
船頭たちはお互いを見まわした
「その話乗った」
振り向いた先にいたのはサルである
「捕まれば誰か死ぬそれよりもやるだけやったろうぜ」
船内から出てきた男たち女子供たちも聞いている
「おれも刀使うから」
サルが言い放ち賊の船は近づいた

☆281

モモはサルを見た
サルは自分の刀の包みを軽く上げてモモに見せた
船頭たちは集まり何やら話している
海賊船は近づく
船頭頭はモモに寄り言った
―賊の船に襲われるのはおれたちもはじめてじゃない
 ただあの船ははじめて見る
 おれたちとしては連中と取引して
 奴らの顔を見ておきたい
 今回荷を渡しても次でなんとかできるようになるから
モモは黙っていた
―お兄さんは見たところだいぶ若い
 無理をして刀を振り回さなくていい
海賊の小型船は左舷に並行して走るまでに近づいた
その後ろに準大型船が走る
「小さいので襲って大きいので収容するんだな」
声に向けばサルがいた
「おれ海で賊に襲われるのはじめてなんだ
 だから連中のやり方覚えるにはいい機会だよ」
黙って海上を見ているモモにサルは訊く
「これから何か起きるんだろか」
「話しかけないでくれ
 今頭に血がのぼってんだ」
賊の小型船はさらに迫る
「船頭の連中は女子供を引き渡す気だ
 おれはそれが許せん」
モモはブチ切れる寸前にいた
「フンドシ船頭どもが舐め腐りやがって畜生」
正午の海の沖の風と光
「あの二隻とも沈めてやる」

☆282

モモは家族連中に言った
―おれが斬りに出るから
 船底の部屋から絶対に出ないように
 まず小型船の連中をこっちにあげる
 それで斬る
 捕まれば生き別れ
 おれが戦うから
 信じて欲しい
モモの言葉を聞いて男女子供皆船底に潜った
船上には船頭たち十人
あとはモモとサルだけが残った
サルはモモのことばを聞いていた
―よく言うぜどれだけの腕なんだよ見たいもんだ
サルもまた自分の剣には相当の自信を持っていた
―あの団子屋さんタロウが斬られたらどうするよおれフッハッ
思わず笑ってしまった
―やってやるおれも最後までいくぜ
サルの視線をモモは気付き見た
サルが包みから抜いた刀をモモに掲げて見せる
モモも釣り竿のような長い包みから取り出したが刀であった
そこには何やら紋章がかたどられている
その刀はイヌの持つものと同じだった
イヌとはツジ・カワナニの南門賭場で采を振る二枚目
その男の胸元にも同じ紋章が刺青されていた
桃をかたどった印
賊の小型船は完全に横寄せてしていた
寄ってきたサルにモモは言った
「邪魔すんじゃねえよ」
サルは自分に対し暴言を吐く者が久しぶりで新鮮だった
掛けた綱から賊はこちらへとのぼりはじめている
サルもモモのあとを追い船内に隠れた

☆283

モモは船内への入り口の柱影から船上をうかがった
小型船からの海賊がこちらへとあがりはじめている
船頭たちは無抵抗で海賊たちの様子を船首側から見ていた
「よ~ん、ご~お、んん~~~こりゃまだくるな」
モモの背後から敵を数えるサルである
モモはサルをむずがるようにして船内奥へ移動した
背負っていた木建ての荷を解いて何やら素早くはじめた
炭のようなものを枡のようなものに詰めている
片手に乗るほどの枡をいくつか次々に仕込んでいった
サルは船外への入り口で船上とモモを見比べている
―おし賊連中はあがりきったみてえだ十五人いる
 それにしても団子屋さ~んは何してんだよおい行くぞおいおい
モモはその各枡に油のようなものを流し込み最後に蓋をした
それをいくつかの袋に分けて腰に結わい付けた
モモは木建ての荷を置いたままサルのいる所へ手を拭い戻った
サルはその気配に船上を見据えたまま「十五人だぜ」と言った
しばらくしても返事がない
サルが振り返ればモモは何か手づかみで食べている
「何食べてんだ」
「団子だよ戦う前の腹ごしらえさ」
団子はサルの大好物である
―あれがあの宿で不細工な女将に聞いた噂の団子なのか
「欲しいな」
モモはその残りをサルに手渡した

☆284

 渡された包みの中には笹にくるまれた団子がいくつか並んでいる。そのひとつを手にとって鼻先に近づけてみれば醤油の香り、それが軽くあぶられてこげが香ばしい。口に入れた、うまい!団子は冷えて固くもなっているのに、うまい!
 団子の中には焼き味噌のようなものが入っていたがそれがまた、うまい!その香ばしさが鼻にぬけて味わいは喉をとおっていく。
 サルは残りの団子を次々と食べ尽くしてひとり口に出して言った。
「うまい…」
 見ればモモが賊一人を斬っていた、二人、三人、次々と斬り襲っている。サルも出ながら背後から見たモモの剣はとにかく速かった。
 驚くほどの高速剣。誰かにも似て―
―イバラキ―

 叫び声と賊たちは剣を抜いたが次々と斬られ何人か海に飛び込んだ。落ちた水音、後方へと過ぎゆく。残りの賊たちは抜いたままの刀で船尾へと廻っていく。
 船首にたどり着いたモモは返り血を浴びている。驚き見る船頭たちに―よろしくと告げ賊の垂らした綱をたぐり寄せ船から飛び降りた。サルが船べりへ急ぎ見下ろせば真下の賊小型船へモモが着地、再び刀を抜いていく。
 サルは斬られうごめく賊を見つつ奥の船頭たちに―船腹を付けといてくれと叫びモモに続いた。
「斬り師だああ」
 賊は叫んだ。船内から何人かの賊が刀を抜いて出てくるが斬りにこない。モモは相手側へ走り斬り入った。賊たちは船上を逃げる。サルの前へ走り出た賊が斬られた、一人、二人。一人海へ飛び込む。落ちた水音、後方へと過ぎゆく。
 船はきしむ音をたてながら激しく上下に揺れた。進み行く上からは船頭たちが見ている。

☆285

 モモは船内へと降り入って見えなくなる。サルは船上の中間にいた。船首付近にいる賊二人をにらみつけている。サルが刀を上げ一歩踏み出してみせると賊二人はたじろいだ。刀は抜いたままたじろいでいた。サルをうかがっていた。斬りにこない。
ドン―ドオン―ドドン―
 鈍い音が船体内から連続して響いた。サルが船内へ入るといくつかの場所から火が立ちはじめている。ゆらめく炎が照らし出す暗く雑多な船内。煙、火薬らしき匂いがうずまく。
 どうやら船内に賊はひとりもいないらしい。目をひそめ見れば船先の奥の暗闇にモモらしきがいた。船壁に何か仕込んでいる。火をともす。壁に点けてモモが隠れた。
再びの爆音―
 船首近くの左舷が吹き飛んだ。白煙と塵。壁と床に点いた炎片。吹き飛んだ穴から外光が射す。
 船頭たちも船上から様子を見ていた。賊小型船の船首左舷部分が吹き飛んで白煙が後方へと流れゆく。船頭たちは事態を指差して右に左にと大声を上げていた。
 船底の部屋に集まり身を潜めている家族たちも―女子供、年寄りも皆その爆音を聞いた。こわばる不安げな顔顔をロウソクの灯りは照らしている。
 モモが炎の立ちはじめた間を抜けてサルの見るこちらへ戻ってきた。先に仕込んでいた枡らしき物もまだ手に持っている。ゆらめゆく炎を背にモモは言う。
「火が回ればこの船は沈む」
モモは振り返り枡を遠めの炎へと投げ入れた。
―左利きか
枡は炎の中へと転がっていきしばらくして爆発した。

☆286

 そのような武器と暴れ方をサルははじめて知った。圧倒されそうになりしばし燃える船内を見つめている。暗闇に燃え立つ炎と船先から射す陽の光。その視線の横をモモが通り過ぎた。端正な顔立ち、横顔。団子売りには見えない。モモは階上へ上がっていく。サルも続く。
 モモが右腰に下げる刀。その鞘に刻印された紋章と柄のつくり―どこかで見たような―サルは思い出そうとしていた。
―あの刀どこかで見たな

 船上に上がればこの船は白煙を吐き進む。右舷についていた船頭たちの船は離れつつある。左舷後方から準大型船が近づいていた。船上からこちらを見る賊の影影。
「なんだよ、あいつら離れる気なのか。なんだおいどうするよおお」
 サルの言葉は聞かずモモは船尾へ向かう。船尾には立ち舵を取り続けている男がいた。舵取りの男はモモが乗船してからの一部始終を見ていた。男の魂は消えていた。それでも仕事癖か舵は離さずに持ちこたえていた。
その男がこちらに歩いてくる―
 モモは船尾へ揺らめき寄り舵取る男と見合った。舵取り男は片手離さず舵をきり回しながら体はモモと遠くに置いている。男は怖れと困惑で額にしわを寄せ眉は八の字に。さらにおちょぼ口をしていた。
「なんつう顔してんの。どけ交代だ」
舵取りは無言で左右に首を振る。
「どけ。どけろ。どけったらどけ。どお~けえ~ろつ」

☆287

 舵はモモが取った。舵取り男はもういない。どてっ腹に一発喰らわして海に突き落としてやった。落ちた水音、後方へと過ぎゆく。
 船首の辺りで刀を抜いたままたじろいていた賊二人ももういない。サルが迫って二人とも海へ飛び下りさせた。落ちた水音、後方へと過ぎゆく。
 小型船は乗っ取られた。次第に燃え広がりつつもある。すごい煙になってきた。さらに沖の風が焚きつけてくる。燃える白煙も後方へと過ぎゆく。
 限界までに膨らんだ小型船と準大型船の帆と帆。満帆。炎天下沖の併走。
 準大型船が左舷後方に近づく。船上の海賊たちは小型船の二人に何やら盛んに身振り手振りで罵声を浴びせている。
 サルが舵を取るモモのところへやってきて訊いた。
「どおする」
「この船をあっちにぶつけるから」
「沈んじゃうわよ」
 モモはここぞと舵を左舷へおもいきり回した。連続回転。音を立て回り続ける舵。併せて左舷へと急転していく。立つ白波。船底が見えんばかりにさらに横倒れしていく。
 二人とも声を上げた~あ~あ~あ~~わあ~~~わああああ~~~
 急傾斜してゆく甲板。転げるサル。
サル「うわわわ落ちるうう」
モモ「つかまれええ」
 左舷へと大旋回していく小型船。準大型船に近づいていく。準大型船は衝突を回避すべくさらに左舷へ切り返した。旋回の二隻。小型船が準大型船の真横へと吸い込まれていくように見える。
 避ける準大型船。その右舷から煙を吐く小型船がさらに迫る。
 船上の賊たちは突っ込んできた小型船を凝視して止まっていた。目と口は開けたまま。
―ぶつかる

☆288

 ドンピシャリ―小型船は準大型船にほぼ垂直に突っ込んだ。衝突の鈍い音と激震。モモとサルは甲板のでっぱりにそれぞれしがみついていた。
 小型船の船首は完全に破壊された。大きく穴が開く。そこから船内に燃え立っていた炎が噴き出してくる。船上に火の粉が舞い散り、後方へと過ぎゆく。
 衝突は準大型船の右舷も破損させた。賊たちが船縁から破損個所を見下ろしている。
 小型船から流れ出る白煙と炎ゆらめく沖の波間に夏の空―。
 準大型船右舷に絡むように付いたまま小型船が走っていく。モモが舵を回していた。小型船左舷を準大型船右舷に喰らい付かせて並走する。上から賊たちが罵声を浴びせていた。見上げるモモ。
 船首の後方、甲板前部にも炎が上がり吹く。新たな煙と火の粉が船尾の舵取り場へ流れてくる。サルがそのモモのところへやってきて訊いた。
「沈むけどどおする」
「舵代わってくれ」
「どおするの」
「向こうに乗り移るから」
「こっち沈みますからねえ」
「向こうも沈めてやる」
「えええ沈めちゃうのおお」
 モモは煙と火の粉をくぐって前方へと進んでいった。舵取り場へ絶え間なく流れてくる煙と火の粉に涙目のサルは目を細める。しゃがんで舵を左舷にきり続けた。
 白煙と火の粉の向うにモモが帆柱を登っていくのが見える。

☆289

 帆柱を抱きしめるように足も絡めてモモが登る。準小型船の賊たちもそれを見てわめいていた。帆柱のてっぺんで帆げたをまたいで座る。準大型船を見下ろす高さ。賊たちはあいかわらず帆先のモモを罵倒している。弓矢を用意しているらしい。
 モモは腰の袋から残りの枡を取り出し火をつける。またいだままの姿勢で向いの甲板へ投げた。枡は向かいにうまく落ちた。転がる。誰も逃げない。賊の何人かは何かと寄って見て―枡爆発―!
 そばの何人かが甲板にうずくまるようにして動かない。動かないそこから血がにじみはじめる。ほかの賊たちがモモを見やった。
 モモはまた投げた。弓を引こうとする賊のそばに落ち転がる。弓引きは逃げ―枡爆発―!
弓引きは前のめりに倒れ動かない。
 賊の一人が弓引きの弓を奪ってこちらへ構えた。撃ってきた。当たらず。再度撃ってきた。かすらず。連射しはじめる。危っないや―。
 モモは立ち上がり左右の重心をとりながら帆げたを渡る渡る、渡り渡る渉る、渡り飛んだ。あっと届かない。伸ばした片足が船縁の柵にぶつかる。逆さまになりそのまま船と船の間に吸い込まれた。落ちた水音、後方へと過ぎゆく。
「あららあ落ちたかおいい」
振り向くサル、モモの頭が後方へとゆらめき流れ遠ざかる。
 ここで小型船にはサル一人となった。
 左舷上方から賊たちの冷やかしの笑い声が聞こえる。舵を取るサルと言い合った。
「こらてめえ!人の船に何てことすんだ畜生が!馬鹿野郎!アホ畜生!」
「おい賊!賊野郎!賊!こっち来いよ賊!来てみろ!賊おらあ!来いよこら!」
「船返せ馬鹿!返せよ馬鹿たれ!馬鹿畜生!船返せアホ!」
「こっち来い!斬ってやっから来いよ!賊!来いよおら賊!斬ってやっから来い!」

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261~268

☆261

 明けていく地平。松明の灯り。それが騎馬の大集団だと影でわかる。
 ハチは思い返していた。そういえば昨日の夕方。暮れる地平に松明がひとつ消えた。奴らこの周辺にすでにいた、潜伏して夜明かししていた、賭場の大騒ぎに乗じて。そのとおりだった。
 地平に並びうごめく数百の影。五百騎はいる。それぞれが持つ松明のゆらめき。逃げた三人がその中へ吸収されていくのが見えた。
 松明のゆらぎの中から一本の火矢があがる。ハチもそれを見上げていたが、それが自分を目指して落ちてくるので草坂にもんどりうって逃げ飛んだ。
 火炎と鈍い音とともに火矢はハチのすぐ近くに飛来した。振り向けば地面に突きささった矢。ハチはすぐによって矢を見、抜いた。
 矢は長く、さらに重い。ハチはそのような作りの矢をはじめて見た。この遠距離を飛ばすとすればこのような長く重い矢しか届かないのだろうが、これほどの矢を飛ばす弓を引く力を持つ者があの松明の中にいる。
 松明の明かりから、火矢がさらに連射されるのが見えた。どうやら松明の中にいる屈強な弓打ちは一人じゃないらしい。明けていく空を渡っていく火矢の数々。その美しきこと。そう見ていたうちにハチのまわりに次々と火矢が届きはじめようとした。
 ハチは南門へと逃げ走った。その夏草の坂を転げるようにして。
 地平の騎馬団はゆっくりとゆるやかに下りつつ南門へと来はじめていた。松明の列が一本、こちらへ先頭となって近づきはじめ、蹄の音が地鳴りしてくる。
 それらの不穏に敵襲を知らせる高笛が南門に鳴り響いた。鞘に収めた刀を握るフンドシのハチが大汗かいて南門に走り帰ってくる。南門前でハチは振り向いた。松明の騎馬団が近づいて来ている。
 ハチが南門へ入ると同時に南門は閉じられた。東西北へ閉門を命じるホラ貝の音がツジ内に響く。騎馬団はツジ南門の手前全面で二手に別れた。一方は西門へ、一方は東門へ向かっている。南門前面を東門へ向かう騎馬群が通過していく。その奇声と轟き。

☆262

 今夜の勝負は終い。賭場にいた客が次々と出て行く。周辺の店店へ、さらに南門大長屋から出てツジ内部へ。散っていく。
 どこぞの士が攻め込んで来たらしいという話で声高くしていた。それにしても眠い。
 「変な騒ぎに巻き込まれたくねぇ」 「これから斬り合いが見れるかもしれん」

 外を走る騎馬はどれも何やら多めの荷を積んでいた。それは旅団である。鎧も積んでいた。まとってはいなかった。長距離を移動してきたらしい。
 騎馬たちがツジの外塀を外周していく。松明の明かりがツジ外縁を囲んでいく。高台の道からそれが見えた。
 多くの松明は南門の前面に集結している。中央に騎馬団を指揮する者たちのいるのが分かる。空は明るくなっていった。
 南門が開いた。数人が出て来る。先頭を歩く老体はカワナニ本人。ほかに若頭、三次、二人の年寄りを連れて出た。騎馬がよけていく。
 二騎、カワナニたちの前に進み出て来る。門から進み出た五人を馬上で迎えた。
 「ワシがこの街の取締のカワナニじゃ。どんな用でワシの賭場を荒らしてくれよったんかの。聞かしてくれや。潰しに入って来た三人とも無事に帰したろうが」と吠えた。
 馬上の二人が降りた。若く屈強な二人だった。進み出てカワナニの前に片膝を折った。
 「私はエリフと申します。お許しください」

 朝日が射しはじめる。高台からはツジを取り囲んでいた松明が南門へと集まり移動していくのが見えた。
 朝―。
 カワナニとエリフは対峙していた。カワナニの連れ四人、エリフの連れ一人はその足元、地ベタに座っている。騎馬群はその周辺に集まっていた。南門の屋根にもカワナニ側の十数人が立ち見する影。

☆263

 聞けば、エリフたちは流民であった。キサラギを越えたさらに東の遠い地に彼らの小国があった。キサラギがこれを襲った。
 彼らは国を失った。東へ進みさらに北上しようとする者たちもいた。分裂しながら彼らは西へと移動して入ってきた一派だった。
 エリフたちは戦人だった。キサラギを越えてさらに西へと流れていく日々。過酷な移動のなか、小国の誇りは分散し崩壊していった。
 東から来た彼ら男たちは西側の発達した文化に魅了され続けた。何人かがさらに先へと進み入る。その最先端の何人かのうち、三人がカワナニの賭場を荒らした。
 エリフは三人の消息を追い部隊と共にこの地へ流れて来た。つい最近のことだ。

 賭場を潰しに入ったといわれた三人がエリフのもと、カワナニの前に並んだ。
「まちがいない、この三人です」と三次がカワナニに言ったとき、向かって右端に立つ男、それはハチが走って追った勝ち逃げの男であったが、その胸に矢が突き刺さった。
 鈍い音。カワナニたちが振り返り探せば南門屋根の上に弓を持ち立つハチがいた。その影はすぐに屋根の下に消えた。
 射られた男は倒れたが死ななかった。周囲の馬上の男たちはざわめいている。
 見ればエリフは右腕が手首の手前から無かった。カワナニがそれを知ったのを見て、エリフは手のない右腕を立てて見せた。
 エリフは笑っていた。

 騎馬団が南門を離れていく。松明は消えた。空に白い月。カワナニは自身ですべてを終わらせた。精算をつけた。
 騎馬団は帰る場所を失った男たち。その果てなき旅は続く。
 カワナニはいつもの場所に戻った。老いてなお闘っている。
 天空を巨大な鳥が旋回する。

☆264

 ハチはよく夢を見た。いつもの。幼い時の頃。
 ハチは遠い山の奥で生まれ育った。炭焼きの集落が集まる川沿いの村。
 ある時から新しい家族が近くに移り住んで来た。おじいさんとおばあさんと。男の子が一人。
 男の子は自分より一つか、二つか、歳が下で。モモっていう。
 毎日歳上の連中と遊んでいるのが嫌だった。使われるだけで。
 それでモモの家に行ってみた。おじいさんとおばあさんは優しく迎え入れてくれた。ご飯をごちそうになって。うまいものがあることを知った。
 それから毎日モモの家に遊びに行くようになった。楽しかった。
 モモにこのあたりの山や川の地形を教えてやった。
 モモのおばあさんが団子を焼いて食わせてくれる。
 こんなにうまいものがあるのかって思った。

 今日は朝から帰りは夕方までかかる上流の場所に行くからって。食うものを持ってでかけた。
 自分は半生の芋を三本持ってった。裸のまんま。モモはしっかりとした弁当を持ってきた。モモのおばあさんがこしらえてくれた。
 昼飯に食べようって。芋かじっていたら涙がでてきた。モモの弁当が立派だったから。モモが「これ食え」って弁当をくれた。
 「毎日、こんなうまいもん食ってるのか」って、訊いた。モモはそうだと言う。かわりに自分の芋を食って「まずい」と言った。
 モモはたき火して焼き芋を作ろうとした。火をおこして二人とも眠っていた。その間に火が広がった。山火事になった。
 その場所は伐り出しの場所だった。大人たちがやってきて俺たちを連れて殴る蹴るした。とくにモモがひどくやられて気を失った。
 俺は思ったね。こいつら全員皆殺しにしてやると。

☆265

 このとき帝都キサラギは崩壊しはじめていた。宮廷では毒盛りの騒ぎが頻繁に起こっていた。宮廷内とキサラギの都市全体には、近親相姦と同性愛が流行していた。
 キサラギは周辺の未知なる小国へも異様なほどに出兵を続けた。滅ぼされた国々、群衆から成る流民が各都市へ大挙しようとしていた。
 人狩りの士はこれらすべてから追い風を受けて巨大化していった。新しい価値観を生み出していく。
 歌を詠み、毬を蹴り、毒を盛り、貴族が何になろう―
 人を斬る、汗をかく、剣と共に、士族と我らなろう―

 このとき誰も知らないでいた。皇家は崩壊の寸前にあった。キサラギは完全に牛耳られようとしていた。
 このとき帝となるべき正統なる者は赤子であり、これを託された男がキジという。

 モモも、イヌも、サルも、全く無名だった頃―

☆266

 エリフ―
片腕の剣士。このあとイバラキと戦うことになる。

 サルがヒロシマの市で聞いた。
 捕獲された太陽と鉄。連行される途中、全員皆、河へ飛び込んだ。渓谷で。馬もろとも。
 いかれている。皆そう、噂していた。

 夢なのか―。夢のようだ、すべて。なにもなかったように流れていく。

 モモは十代の苦悩のなかにあった。
 ―俺の本当の父親と母親って誰なんだろう

 かわいそうにな。自分がそのそばにいたとしても、きっと、何も言えなかったとおもう。何も言ってやれなかった。

 太陽と鉄は生き残って大蛇と合併した。
 そこで新たに鬼と名乗った。鬼になった瞬間。

 当時、士として本土内で最強と謳われたのは西にいるナニワといわれた。オオサカがそれに次ぐ。
 鬼がそれらを襲いはじめた。

☆267

 「ハチのことをはじめて見たのは二年くらい前じゃの。海沿いに何とかいう町があっての。まぁ繁盛しとるらしかったが、そこに小さな賭場が開いとった。ハチはそこで賽の振り張りしとったそうだ」
 「三次の一番上の兄貴がまだ生きとった頃だ。ツジへ連れてきたんだよ三次のすぐ上の兄貴と一緒になって、ハチを。大金で買い取ってきたって、連れてきたよ」
 「確かにハチの野郎は、おれが今まで見た勝負師の中でも十の指に入る腕はしてる。左に曲げる、右にも曲げてくる。相手が途中で泡吹きたくなるような巧さだ。速さもあるがとにかく美しいと思ったな。ハチが戦う台をはじめて見たときに、そう思ったよ」
 「それは間違いじゃなかった」
 「あんな手技と勝負勘どこでおぼえたんだかは知らねぇが、おれは迎え入れたわけだ」
 「最初っからハチは誰ともしゃべらね。口きかん男での」
 「ありゃあ口がきけねぇんじゃあねぇ。口きかねぇでいるだけだ。てめえ勝手な野郎だ。しかも奴ぁ耳がいい、おそろしく耳がいい。それと足な。とにかく足が速い」
 「おれがいちばん驚いたのは、野郎が刀を持ち歩いていたってことだな。ハチが、あの若さで、このツジで無敵の勝負師でいられるのは刀のせいもあるはずだよ」
 「刀使う役者なんざ、聞いたことねぇがな。ハチがそれですよ」
 「野郎が左胸に入れてる刺青の紋章はの、野郎の持つ刀の鞘にも刻印されてるらしい」
 「ハチってゆう男の子はな。何かを待ってる、だからしゃべらずにいるんだ、息を殺して。誰か人を待ってるのかもしれねぇな。おれの読みだがよ。好きな人をよ」
 カワナニが酔い語っていた。

☆268

あなたの瞳に起こされた

今はまだ

まるで夢のよう

とても

あなたのまつ毛の感触が

今もまだ

指先に残されて癒えぬままに

時だけ過ぎて

まるで夢のよう

とても

あなたの瞳に犯された

今はまだ

まるで夢のよう

とても



鐘の鳴る 第5章 終

251~260

☆251

 十枚目、九枚目、八枚目。それぞれが力を持った賭け師。役者も司も、その力量を常に問われている。賭場側に。カワナニに。実力が全て。戦い続けるしかここにはない。
 六ノ壇に先に出させた三人にハチは何も言わない。連賭け、番、単騎と好きに打てばいい。三人はそれぞれが単騎で一人ずつの本台に上がった。
 それぞれ鼻っ柱の強さでは誰にも負けない。それが役者。命じられなければ単騎で打った。賽は振られた。
 途中、六ノ壇に人が溢れて五ノ壇へと流すようにされた。八枚目が五ノ壇に降りた。出入りは絶好調。まだ人は入って来る。熱気があがりはじめる。五ノ壇もすでに満員。司の指示で三下の何人かが脇台で打ちはじめている。
 ハチはあがりはじめた賭場の喧噪をいつもの屋根の上で聞いていた。新手の潰し屋といわれる例の三人は来ない。来ないのか。遠く平原の彼方に松明の消えるのが見えた。
 六ノ壇、五ノ壇に人が溢れたので四ノ壇が開かれた。七枚目が四ノ壇に降りた。「伝子(でんこ)」がそれをハチに伝えた。伝子とは賭場の戦況を方々へ伝える役を担う者でこの賭場には約百人いた。伝子の情報はカワナニにも逐一伝えられている。
 はやる七枚目が自分勝手に賭場に出た。ハチは好きにさせておいた。夜が過ぎていく。賭場の熱気はこれからが本番。時々に勝ち負けの歓声の轟きがあがりはじめるようになってきた。
 反対に市の飲み食い処はどこも閑散としている。店で働く男、女は一息ついて賭場からの歓声を聞いている。客は皆、賭場へ流れた。
 伝子がハチに伝えた。例の三人が来たと。今、市に入って賭場に向かって進んできている。ハチは立ちあがった。

☆252

 別の伝子が寄ってハチに伝えた。例の三人に間違いない。三人は細く曲がりくねった路地を明らかに賭場へ向けて進んでいる。
 役者たちは「裏間(うらま)」と呼ばれる細座敷に待機している。ここからは全ての壇の張り振りの様子がのぞけた。細く長く廻り続く隠し部屋である。ハチも裏間へと入った。
 門兵を越えて三人は賭場へと入って来たと次に伝えられた。どんな奴らなのか。怯えもせずにたいした玉だ。面拝みたいもんだ。今表に入ったと伝子がさらに裏間に伝えた。
 ハチが六ノ壇をのぞける裏間へと廻る。のぞき窓から下を見た、六ノ壇の入り口。沸く見世の背後に三人は立っていた。二人は年若い。一人は年長で長髪。
 ハチは目を細めた。三人が丸腰だったからである。刀を持たずに賭場へ入ってきた。奴ら死ぬ気で打ちにきた。それがわかった。
 三人は二手に別れた。若い二人で一組。長髪の男は一人で。六ノ壇の戦況を見ている。
 すでに本台へ上がっていた十枚目、九枚目。怒号の中で移動していく二人と一人の影を見た。司もそれはわかっている。長髪の一人はさらに五ノ壇へと入った。若い二人はそれぞれに別れて六ノ壇を巡りはじめる。
 本気で打ちにきている。死ぬ気だ、連中。勝ちにきてる。裏間に殺気が伝わった。
 ハチにすれば相手の張り振りの実際をこの目で確認したい。本土の振りじゃないと三次は言ったらしいがハチは疑問符を付けていた。三次は体力はある、でも馬鹿に近いと感じていた。
 裏間に待機する役者の何人かは長髪の男を追って五ノ壇を見廻せる場所へと移っていった。ハチは六ノ壇を見ている。若い二人はそれぞれに本台、脇台の様子を見廻っている。十、九、の各役者、各司たちはその影を意識した。息があがりそうになる。
 どこかの台に乗れ、乗らせろ。ひと勝負が済んで新たに握りの袋を差し出した本台の一人の司。食ってきた、三人のうちの若い男、そのうちの一人が袋に手を入れる。

☆253

酔いさめて

酔いさめざめて

さむざむと

さむざむと

さめざめと

さめざめと行く

ひとり道

ひとり道

ひとりの怖さ

知りにけり

知りにけり

さむざむと

さめざめと

さむざむと行く

ひとり道

ひとり道

ひとりの怖さ

知りにけり

散り行かん

さむざむと

さめざめと

☆254

 ハチは裏間から握りに入った司の気を読んでいる。いつもどおりで司は通した、本台に上げた、あの潰し屋の一人の若い片割れを。
 六ノ壇、その台で張り振りしていたのは九枚目で、わずか十日前に目の前の相手に破産に追い込まれた役者。でも今回は違う、前は相手は連賭け、台には三人が上がってきた。
 今回は一対一。―復讐― 九枚目の気が司に伝わってくる。熱い。
 ハチは裏間の覗き窓から戦況を見ていた。聞いていたのは前回、十日、二十日。三人は連賭けで台に上がったが張り振りしたのは若い二人のみ。年長で長髪の男は賽を振らなかった。一日に来た時にも、長髪の男は賽を振っていない。実質、戦ったのは二人の若い男。十、九、八枚目の三人、この二人に倒された。
 たいした玉だ― ハチは眼下の身元不明の年若い男に感じていた。
 自分と同じくらいの歳か― ハチは、このカワナニの役者のうちで最年少だった。そして最強だった。二枚目を張る。燃えてくる。
 「よぉ~っ」 ぱん 「よぉ~っ」 ぱん 「よぉ~っ」 ぱん 「よぉ~っ」 ぱん
司の掛け声にあわせて見世は手を打った。
 「よぉ~っ」 ぱんぱん 「よぉ~っ」 ぱんぱん 「よぉ~っ」 ぱんぱん 「よぉ~っ」 ぱんぱん
 じょじょに激しくなっていく。司の煽りどころ。
 「よぉ~っ」 ぱぱぱん 「よぉ~っ」 ぱぱぱん 「よぉ~っ」 ぱぱぱん 「よぉ~っ」 ぱぱぱん
 台のすべては司が握って手拍子を加えさせる。本台の周辺は騒ぎ。そのあいだも親である九枚目は賽を両手に盛ってうごかない。集中していた。受ける子の若造もそれは同じ。掛け声と手拍子の波を越えて今、ここにいる。真剣。
 相対した。勝負。親の九枚目。撫で振り落とす。

☆255

 ―燃える
 親である振り師は両手の平に賽を渡される。賽を「盛る」という。一つずつ、両手に、司から。盛られた賽をその両手に自由に遊ばせる振り師。
 振り師は賽を相手に見せる。両手左右にひとつずつの賽を。「見せ」という。
 次に「練り」に入る。両手をこねる、賽は左右の手のどちらかに振られる。
 「落とし蓋」。見せ練った賽を台へ置く。両手は蓋として台直上へ静止させる。
 二つの賽はそれぞれ左右に振られているのか、それとも片方の手にまとめられているのか。勝負となる。丁半、さらに一矢ありか、なしか。上か下か。

 男たちの歓声が天空へと昇っていく。賭場からの離れにカワナニはいた。怒号が聞こえてくる。
 伝子が走って告げに来た。逐一、賭場の戦況はカワナニへ伝えられている。座敷に広げられた各壇の見取り図。金額を表す駒と石玉がその都度動かされる。
 カワナニと三次、ほか側近の何人かがその見取り図を見つめた。夜の過ぎていく。それと同時に掛け金は上がっていく。
 賭場に薬を流すように指示された。立ちこめはじめる煙。さらに興奮していく。それでもまだ先は長い。伝子の次々の知らせにもハチの名はない。
―ハチはまだ賭場に降りていない

 ハチは裏間から、潰し屋であるという身元不明の若い男の練り振りを見ていた。確かに上手い。器用な手先の持ち主。ハチは局が進むうちに相手の賭け方も観察していった。
 対する九枚目と同等、もしくはそれ以上の力量の持ち主。腹も据わっている。勝つつもりで戦う姿が痛いほどだった。死ぬ気で張り振りしている。まさに外地からの人間―。
 司も台上から賭け振る若い男を伺っている。場を煽りながらも、その若い男を何とかして助けたい、生かして帰してやりたい、そう思うほどだった。汗が噴く。

☆256

 その夜、三十日。ツジ南門、カワナニの賭場。六ノ壇は燃え上がりつつあった。五ノ壇、四ノ壇も明けた。人が入りきれない。脇台で張り振る三下もかなりの人数出ていた。
 七枚目が勝手に打って出た。四ノ壇で戦っている。八枚目が潰し屋の三人目当てで六ノ壇へ戻って打ち始めている。
 薬の煙が場内をもうもうと流れていく。それは市全体へと渦を巻いた。
 酒も入る。カワナニの賭場では超一級の酒が飲める。それは嘘じゃない。カワナニは上級酒のみ、賭場へと入れた。
 盆に乗った酒瓶と杯が、場内に次々と廻されていく。金は次々に張られて飛んでいく。
 潰し屋と目された三人のうち、年長の長髪の男は五ノ壇、四ノ壇と廻り見るだけで握りにはこない。あと一人の若い男も六ノ壇を廻るだけで食いついてはこなかった。
 三人のうちの一人が、今、九枚目と叩き合いの真っ只中にいる。
 伝子たちは裏間で一人いるハチに全体の戦況を伝え続けていた。ハチはだいたいを見てとった。潰し屋といわれる三人は外地、よそからの者に間違いない。
 奴ら腕は悪くない。ただ自分の方が上。負ける気はまったくしない。
 長髪の男が六ノ壇へ戻り入った。裏間からその男を見続けていた役者連中がハチのそばへと戻ってくる。六ノ壇は燃えていた。
 ハチは残りの役者全員に六ノ壇へ降りろと命じ手をつついて見せる。残りの役者連中は六ノ壇へ次々に姿を現した。見世が歓声を上げる。役者の集合、普段はない話だ。
 その歓声はカワナニにも届いた。カワナニ、三次、ほか側近。皆その音を聞いている。
 役者はそれぞれが独自に特徴ある着衣をまとっていた。色、形。三枚目から六枚目までが一斉に六ノ壇へ降りた。はじめてのことでもある、そのようなことは。
 溢れる見世からは歓声と呼び声が掛かった。「六枚目」「五枚目」と次々に。カワナニもそれを聞いた。次にさらに大きな盛り上がりの大歓声が聞こえてきた。
 ハチである。ハチは素っ裸で、フンドシ一丁で六ノ壇へと入った。

☆257

 「二枚目」と叫ぶ呼び声が上がる。持ち金の都合で、普段、上位の壇へ入れない見世も二枚目を張る男だというハチの姿をはじめて見た。
 ふんどし姿のそれは背が高く、痩せている。左胸の内側に丸い紋章を刺青していた。それは桃をかたどった紋。
 ハチが人で溢れる蓋を進んでいく。進んでいくハチをよけて見世は次々と波のように引いた。肩を叩いて声をかけるような人相でない。ハチには若造だが人を引かせるような威厳があった。「二枚目」、「二枚目」と興奮する壇に掛け声は上がる。
 ハチは九枚目の背後、台その真後ろに立った。九枚目の頭越しに、対面で張り振る身元不明の若い男を見てくれる。瞬間、目と目が合う。
 ふんどし男が九枚目の後ろに立ったのを見て、潰し屋といわれたもう一人の若い男がその台へと急ぎ寄る。張り振る若い男の背後に立った。そこからハチをにらみ返す。
―いい玉だ
 双方、対面に立つ相手に同じく感じた。
 カワナニの役者三枚目から六枚目たちもふんどし男の両側へと寄ってきた。相手、年長の長髪の男も台対面に寄ってゆっくりと立つ。台を通し、にらみあう。
―いい筋だ
 玉と筋。男同士の戦い。
 この間も九枚目と相手方の若い男は戦い続けている。双方、壇内の熱気と自分の勝負運への興奮で、ゆであがりそうになってさらに打ち続けていた。
 台の両側に揃いはじめた勝負師たちの面子を感じ、仕切る司の息も上がる。熱気は毎度のことだが、今回は趣が違う戦い。潰すのか、潰されるのか―それがかかっている。
 よぉ~ぱんぱん よぉ~ぱんぱん ぱぱぱん ぱぱぱん
 渦巻きはじめている煙、酒のまわりはじめている見世。二人はいい勝負をしている。脇台の見世も皆大喜びをしていた。掛け金を投げ使いはじめてくる。
 ―ハチがフンドシ一丁で六ノ壇で戦う
伝子の知らせにカワナニ以下、離れの間で待機する連中は驚き喜んでいた。

☆258

 ハチは対面の年長、長髪の男とにらみあっていた。面長。こぎれいな服装。眼光は鋭い。ハチは三人の親玉がこの男だと踏んでいた。
 勝手に打ちはじめていた八、七枚目が騒ぎに入って来る。フンドシ男の目線の先に、潰しに入ってきたとされる三人を見てにらんでいた。
 九枚目の戦いは五分。勝負つかず。司はそれ以上、舞台のふたりには賽を振らせなかった。ゆであがった九枚目の降りたその台にハチは上がる。
 見世はどよめいて喜んだ。六ノ壇で二枚目の賽の振りを見ることができる。
 ここで三ノ壇、四ノ壇からの司たちが入り、六ノ壇を締めようとした。司が替えられる。新たなその司は二ノ壇の精鋭。脇台の司も上位の壇からの司たちが新たに立ち上がった。
 司の新たな握り。当然、長髪の男が食いついてくる。ハチは座ったまま相手方をにらんでいる。司はその男を台へ乗せた。さらに両脇の若い男ふたりも。相手は三人、連賭け。
 ハチの背後には三枚目からの役者全員が立ち並んでいた。ハチは誰にも声をかけない。一人、単騎で受けた。
 よぉーぱん よぉーぱん よぉーぱんぱん よぉーぱんぱん ぱぱぱん ぱぱぱん
 親ではじめたハチは子成りする。相手に振らせた。
 先に九枚目と戦っていた若い男は、戦いの熱風に吹かれ続けた後にある。新たにはじまった戦いの台座にあったが放心していた。台を降りた九枚目は蓋にへたり込んでいる。
 もう一人の若い男が振った。見せ練り撫でて蓋落とす。戦いのはじまり。
 振り張りは進む。ハチは裏間から先のもう一人の若い男の戦いっぷりを見ていた。今、相手の振る賽。最初の若い男と似た型を持っていると見た。
 三対一。向かって左、長髪の男はハチの様子を見つめている。局が変わる。ハチが親に。
 ここ一番、ハチは見せた。練る。賽を落として蓋を落とす。―それは美しい。
 囲み見る見世はため息をついた。賭場名門カワナニの二枚目の振り。その賽の振りは潰し屋と呼ばれる三人も、これまでに見たことがない手業。
 司もほかの役者たちも自慢したくなるほど美しい。それがハチの振り―。

☆259

 ―燃えるぜ魂
 連賭けの相手は勝負途中、若いその振り手の単騎に変わって張って出た。それでもハチは相手を撃破する。その若いひとりを今度は逆に破産させてやった。
 フンドシ一丁。穴尻と玉筋から出た本気汁が台を濡らす。相手を追い詰めてブッ倒してやった。
 大歓声がカワナニの間にも届く。ひろげられた勝敗図の上で大量に移動された玉石と木札。カワナニは見つめていた。
 六ノ壇にまかれた酒と薬は質も量も相当で吐く者が続出。それでもさらに行け行けと司は煽り続けた。怒号の轟きがツジ・カワナニの市の夜空にあがっていく。
 ハチの対面に座る三人のうち、年長の長髪の男がついに真ん中へ座った。ハチと激しくにらみ合う。さらにあがる歓声。
 両脇の若い二人は潰れて動けない状態。連掛け、番は組めない。その男とハチとの単騎どうしでの戦いとなった。
 男は座ったまま上着を脱いだ。痩せてサラシを巻いている。両腕の肩から肘にかけて敷きつめたように細かな呪文のような刺青がある。
 にらみあう。歓声と共に。大汗かいて上等。にらみあう。
 ハチは子成りする。相手の長髪の男に振らせるため。―一瞬静まった。
 その男の見せ練り蓋落とし。―見世の大爆笑。あまりのその下手さに。
 それは延々と続いていった。大爆笑は続く。
 あとはハチも放っておいた。いいように振らせ賭けて回収を続ける。
 ハチが考えていたのは別のことだった。
こいつらは間違いなく外地から流れてきた連中だ―
 南から来た連中じゃあない―
 ―キサラギの東、そのさらに東の土地から来てる、この三人は
 年長の長髪の男は最後までひとり振り続けていた。笑われるのを当然として。そこにハチは外地から乗り込んできた男の執念を感じる。
 ハチは、その男も破産に追い込んでやった。勝負が終わる頃には見世の誰も笑わなかった。長髪のその男は両腕を台に突っ伏して本気汁を流していた。

☆260

 離れの間に伝子が伝えた。ハチが二人目を倒したことを。カワナニは黙っていた。
 六ノ壇は燃えている。先に九枚目と戦い五分で終えた若いのがまだ台上にいる。ハチは次にその男と戦う腹だった。三人ともブチ倒す。絶対的な自信があった。殺す。
 しかし司はここで勝負を止める。それ以上の賽を振らせないように脇台の司からも圧がかかった。
 潰しかと騒がせた三人は帰って行った。生きてツジ・カワナニの門を出た。
 結果、九枚目と五分の戦いをした若い男の持ち金が三人の取り分となった。微々たる。この一夜でカワナニの財は増えた。見世がいつもよりも金を使ってくれたおかげで。
 倒れるといわれつづけていたのは昨日。すべて回復、それ以上になってかえってきた。だから打つのはやめられない。
 カワナニは賭場の名門。潰し屋が押し入ったが二枚目が引き受けて撃破した― 市全体へ事の結末は伝えられていった。そのまま朝へと向かう。

 ハチがいつも座っていた階上の場所。南門に続く屋根屋根の見える。辺りはまだ薄暗い。
 南門を出て歩いていく三人の姿が見えた。遠くに。カワナニの何人かがその遠ざかるのを確認していた。
 朝が近づく。その草原をフンドシ男が駆け上がっていった。去ろうとする三人を追う。手には刀を持っていた。
 三人は追っ手に気が付き逃げた。三方へ散る。フンドシの男はそのうちの一人を追った。九枚目と戦い五分で終えた男を追った。追うのはハチである。自分と勝負せずに賭場を出た男を斬り殺そうとした。
 一度斬りつける。男はそれでも走って逃げた。
 南門を見張る連中もその様子を見ている。
 明るくなっていく。地平の影が確認されるように。
 灯りが点る。それは地平に次々と広がり見えた。男はその様に追うのをやめる。いつもの地平に数百の松明の光。逃げる男はその方へ走っていった。


241~250

☆241

 夜になった。ハチは南門周辺の屋根を見下ろせるいつもの階上にひとり座っている。初夏の夜風。好きな肴を大きめの杯で。遠く夜の木立が影になって見える。涼しい。
 細く伸ばしたあご髭に触れる。首筋と両肩をさすり撫でた。己の闇を見つめながら―
 下周辺からは歓楽のざわめきが聞こえている。カワナニの市、このツジ南門は夜になって賑わいはじめていた。
 カワナニの賭場では、役者が張りの舞台に上がるのは、十日、二十日、三十日と決められている。役者目当てで十、二十、三十日に見世は群れた。それ以外の日にも賭場は明けるが五ノ壇、六ノ壇で打つのが慣例だった。
 それらの日には「枚」に数えられない、「目」がつけられない勝負師である「三下(さんした)」が代役を務める。「役に立つ」という。彼ら三下は「枚目(ばいもく)」の付く役者になることを狙う蒼き勝負師たちである。
 役者と役者、役者と三下、三下と三下。見世と張り合いながら勝負師どうしも激しく競り合っている。下手を打てば下位へ、上手なら上位へ異動された。
 九、十枚目は四ノ壇までしか上がることができず、六、七、八枚目は三ノ壇までしか上がることができない。三、四、五枚目は二ノ壇までしか上がることができない。一ノ壇での張り振りが許される役者は二枚目だけであり、二枚目はどの壇にも上がることができた。三下は五、六ノ壇にしか上がれない。これらを壇における「関(あずかり)」といった。
 二枚目は、三枚目以下の役者たちと三下たちの誰へも自分と番を組むこと、連賭けすることを命じることができる。「使名(しめい)」という。三枚目は四枚目以下のどの役者、どの三下へも使名できる。以下順に、枚目の少ない役者を下位の役者として使名できた。十枚目は三下なら誰にでも使名できた。
 使名は勝負のはじまる前にされこれを拒むことはできない。使名が上手く働くか否かは背後の人間関係も複雑に絡む。
 三枚目が三下を番に使名し二ノ壇へ上がらせた場合など、関は破られることとなる。「急ぎ(またぎ)」という。使名による場合にのみ急ぎされた。急ぎは勝負師どうしの駆け引きにも使われる。急ぎした勝負師を「燕(つばくろ)」といった。

☆242

 カワナニの市、その外輪に位置する小さな料亭。遊女が二人、小走りに入っていく。狭い中、二人は奥の個室へ。
 女二人は開けた襖の部屋を見て声を上げ喜んだ。
「由宇ちゃん」 「あはは、由宇ちゃん」
その小狭い座敷に由宇はいた。手ぬぐいをほっかむりにして座っている。
「いや、見つかるとまずいだろ。俺、出入り禁止にされてっからな」
女二人は大笑いしながら上がり込んだ。
 店の旦那が料理の盛られた大皿を持ってくる。
「由宇さん、頼みますから、店の中で争い事だけはやめてくださいね」
「わかってる、心配しなすんな。これ」
徳利を振って見せる。
「五本くらい持ってきて」
 由宇と名乗っていたサル、南門の混沌の内に、この夜入り込んでいた。女二人はこの街の遊女で由宇を好いている。不細工だが気立てはいい。自分の連発する冗談に、もんどり打って笑ってくれる二人。由宇も二人を好いていた。
 由宇はこの二人を人づてに、この料亭へと呼び出した。まだ若い店の旦那は由宇に一目置いている。出店の準備時に由宇から大金を貰い、そのままにもなっていた。由宇はその金には一言も触れてこない。由宇には頭が上がらない。
 由宇は女二人に、たらふく飲み食いさせてやった。最近のカワナニの市の様子も訊いてみる。女たちの話からもカワナニの賭場に新手の潰し屋が入ったのは確かだった。

☆243

 カワナニの賭場に役者が出るのは次の三十日。サルは、その三十日までにヒロシマの市に入っておくように夕猿の組員に言い放ったことを思い返す。南土で―。
 ハカタの市とハナビシのある港町―。
 三十日の賭場にその新手の潰し屋が現れるとは思えない。カワナニは臨戦の態で待ち受けるだろう。もはやその賭場は勝って帰れるような場所ではない。そいつらが三十日に賭場に入れば、負けて帰ることを許されるか、勝って殺されるか、どちらしかない。
―来るわけねぇやな、来れば殺される
サルはその新手の潰し屋が、近隣の別の賭場に現れるだろうと踏んでいた。
―そのうち身元は割れるだろうぜ
 サルは三十日までにヒロシマの市へ移動すると決める。カミノセキの市へは寄らずに。
 三十日の賭場に潜り込んで、カワナニの役者連中の面も拝みたかった。カワナニの役者たちが、その枚目を激しく立ち替わりしているということを聞いていた。サルはカワナニの二枚目をまだ見たことがなかった。噂には聞いたことがある。
―カワナニの二枚目は何も喋らない男
 ツジ南門の繁華、手ぬぐいをほっかむりにしたままサルは歩いて行く。両腕をさっきの女二人にすがられて。由宇は背が高く細かった。女二人は喜んで抱きついてくる。
「ちょっと由宇ちゃん、さすって」 「由宇ちゃん、手ぇ入れていいんだよ」
―うるせぇな
 前から来た男、避けるように立ち止まり後ろを振り向く由宇。
「大丈夫だって由宇ちゃん。もぉ誰も由宇ちゃんのこと追っかけちゃいないから」

☆244

 由宇は女郎屋の集まる一角にいる。女二人に袖を引かれて。細い道をさらに奥へ。石段を登る。裏の小道。人はいない。指し示された場所には老人が一人、腰掛けていた。由宇と女二人を見て笑っている。
 「お晩。よろしくね。この人、由宇ちゃん」
由宇はその座る老人に軽く会釈した。
「いくらか渡したほうがいいんじゃねぇかい」
「大丈夫だから。無駄遣いしないの。ほら、いって」
由宇は尻を触られながらその先へ進む。
 入った部屋のそこには階上へ上がる梯子がしつらえてある。
「ここから昇っていけば賭場へも入れるし」と女。
由宇は見上げていた。
「由宇ちゃん、このあと、どぉするの。またどっか行っちゃうの」
「ヒロシマの市にな、行く。誰にも言うなよ。内緒だぜ、ホントによ」
「少し寝たほうがいいんじゃない。店で待ってるから。ね」
「そうよ、由宇ちゃん。応瀬から来てすぐヒロシマの市なんて、ね」
「そうよ、体洗ってあげる。私たち、ね」
「そうよ、由宇ちゃん。待ってるから。ね。来てね」
 由宇は女二人にいくらかの金を握らせた。
「ありがとよ」
梯子を昇っていく。女二人は最後まで由宇の尻を触って喜んでいた。由宇も好きにさせておいた。

☆245

 由宇が梯子の先から顔を出す。ツジ南門の屋根が続いている。由宇は上がった。南門周辺を埋め尽くす屋根。
 屋根と屋根の隙間から階下の光と煙が漏れている。大小様々な形をした灯りと煙。屋根屋根の方々から無数に漏れて立ち昇っている。
 南門の家屋は長屋がさらに密集した大長屋、その大長屋がさらに密集した混沌が続く。高さに違いはあっても屋根屋根は、ひしめき合ってほとんどが繋がっている。階下の喧噪が立ちこめる南門の屋根の上を由宇は賭場の方角へ進んだ。
 こもれ灯のひとつを覗く。座敷で歌い飲んで騒ぐ男女たちがいる。別の隙間からは全裸で抱き合う男女たちの様子が見えた。その薄明かりに照らされて微笑む由宇。きしむような薄い屋根を避けながら静かに歩いた。
 屋根屋根の先、右手に南門の異様がそそり立つ。門を目印に足下がカワナニの市のどの辺りかはだいたいの見当がついた。さらに賭場へと屋根を渡る。
 由宇は立ち止まった。人影が見える。人影は賭場のある場所のちょうど上の屋根にいた。陣取るように座っている。由宇はといえば背に巾着、刀を包んだ袋を持っている。由宇はそのまま進んだ。何かあれば刀を使う気でいた。
 人影は動かない。さらに近づく。影は男。男の横目に自分の姿が意識されてもいい距離。男まであと二十歩というところで由宇は立ち止まった。相手には自分の足音が聞こえているはず。男はこちらを振り向かないで地平を見続けている。由宇はさらに近づいた。
 座る男の横顔。それはハチである。ハチは杯で飲んでいる。近づく人影に気付いてはいるが振り向かない。ハチはすべてを無視して今宵を見つめていた。

☆246

 「お晩です」を三回目に大声にして、サルはイヌを振り向かせた。サルの大きな目玉をイヌは見た。サルも見た。イヌの細くつりあがった目、こけた頬、あごの細く長い髭。
 サルとイヌ、二人はこの夜にはじめて出会った。
 サルの持つ刀の包みを見流してイヌは前に向き直った。そのまま二人、しばらく夜の中に何もせずにいた。
 このあと、サルはもう少し寄って見た。イヌは刀を足元に置いている。それが見えた。これほどの至近。斬りつければどうなるのか。それでもイヌは前を見たままで動かなかった。
 ゆっくりとサルはイヌの背面を通過していく。刀を袋から出していた。屋根がきしんで音を立てる。
 それでもイヌは振り向かない。そのまま前方の夜影を見据えて動かないでいた。
 そのままで静かだった。
 サルは相手の顔をはっきりと見た。イヌもそれは同じ。風が流れる。静かなとき。
 右手から寄ってきて背後を通り左手に抜けていった相手。イヌは左を振り向いたが誰もいなかった。サルは姿を消した。
 誰もいない夜。いつもの屋根の夜。イヌは飲み直す。
 自分たちが鬼と死闘することになるとは思いもしない夜。静かな夜。
 夏。どこかで夜の蝉たちが鳴きはじめていた。
 シュテンは朝廷と戦った。オロチはセキと戦った。イバラキはシュテンと出会った。
 イヌとサル、出会った。

☆247

 おれたち、どこへ行くんだろう。近頃は、よくそんなこと考えてる。答えは知らない。
 自分はガキの頃から体、でかかった。飯も人一倍食わないと、済まないわけさ。大食らいって、よく殴られた。いつも腹が減ってたのを、おぼえてる。
 里子かなんかで、家からは捨てられた。たぶん売られたんだろうね、今にして思えば。豪農がいて。そこに雇われたんだ。住み込みで。奴隷として。
 仕事は畑作業とかさ。開墾だよな。石転がして、畑作るために土地耕すみたいな。
 朝から夜まで、そんなことしていたな。仕事は楽じゃなかったけど、おれにしてみりゃ最高だった。飯はたらふく食えた。たらふく食って、力仕事して。その繰り返し。
 汚い飯でも腹いっぱい食えたのがよかった。今の自分の力は、そこで培われたんだとおもう。同じ棟には病気で死んでいくような大人もいたけど、自分は生き残れた。
 おれはよく働いた。子供だったし。外じゃ噂になってたらしい。それで別の場所に売られた。買い手が大陸との密売人で、そいつの用心棒になった。殺しはそこでおぼえた。  
 カイやら、ジンマやらにはその頃出会った。みんな孤独で、つまらない毎日過ごしていたな。だからお互い、近づいてこうなったのかもしれない。でっかいのと、ちっちゃいのと。笑えるだろ。おれたち。
 生き物なんてもんは明日にゃ死ぬかもしれない。おれの虎と熊もみんな、朝廷の奴らに殺されちゃった。大陸から仕入れて育てたのに、赤ん坊の頃から。泣いた。
 おれたち、太陽と鉄とかって呼ばれてたらしいけど関係ない話だね。おれたちはおれたちなんだ。それで今までやってきたし、それはこれからも変わらない。
 イバラキはいい奴だ。おれたちを助けてくれた。組む気でいる。鬼として。

☆248

この舟はきっと

届くだろう

あなたを乗せて

優しい場所へ

この舟はきっと

届くはずだよ

あなたを乗せて

柔らかな土地へ

忘れないで

これまでのこと

これからのこと

あなたの心を

思い出して

私のことも

あなたと歩いた

それだけでいい

この舟はきっと

届くだろう

あなたを乗せて

誰をも連れて

さようなら

☆ 249

 夢の中では、なにも変わらない。土地も、人も。薄暗い頃に目がさえて起きて走った。夏の薄霧。暗い森の道なのに怖くなかった。どうしてだろう。あの頃。
 細い道の森の奥にモモは住んでいた。キタさんとキビさんと。
 待ちきれなくてモモを呼ぶと目をこすりながら出てきたなぁ。ふたりで走って。カブトの木があった。そこに前の日、砂糖をすり込んでおく。朝、何匹もカブトやらクワやらコガネがいるんだ。うれしかった。あの頃。眠かったけど―

 三十日。昼過ぎからツジは人で賑わっている。特に市の中の飲み食い処はどこも繁盛していた。カワナニの賭場が傾いている、三十日で倒れるかもしれない。その噂にいつもより方々から見世が集まりはじめていた頃。
 午後、カワナニは役者十人を呼んで座らせている。いつものとおり十日、二十日、三十日と役者連中出陣前の集会。ただ今回は雰囲気が違っていた。誰もそれを言わなかったけれど、皆それには気づいている。黙ったまま。カワナニが部屋の連中に言った。
 「振り張りなぞは負けていい時もある。勝ち続けてると不思議と人は喜ばねぇもんだ」
「いつも言ってるが、おまえらは俺が揃えた。最強で最高の役者共なんだ」
「賑やかにやれれば一番いいやな。頭使って見世を喜ばせてやってくれ。行け」
 散会直後、カワナニはハチを引きとめて言った。
「頼んだぞ二枚目」

 近頃は暑い日が続くようになってきた。ハチはいつもの階上の場所で平原を見つめている。例の身元不明の三人が来れば今宵、誰か死ぬことになるかのか―

☆250

 陽が暮れていく。市に入っていた客は賭場周辺に集まりはじめている。賭場が明ける。十日、二十日の倍、見世が入りそうな賑わい。今回は入場料収入だけで、十日、二十日についた損害は消えるだろうとカワナニと三次は言っていた。
 カワナニの賭場が沈みかけているという噂は大きくなって広がっている。噂は放っておかれた。客寄せにはこれが一番いいことをカワナニも知っている。
 ハチは十枚目、九枚目、八枚目の三人を先に六ノ壇へ出させた。
 各台には「司(つかさ)」と呼ばれる張り振りの進行役が付いている。司は賭場側の人間。本台で役者と直に戦いたいと願う見世は、その本台の司が持つ袋に手を入れる。袋の中でいくら持参金があるのかを指で示す。「握り(にぎり)」という。
 最も高い値を握った者が本台に上がるわけではなかった。司の頭と腕がここで試される。握ってきた者の中から誰を役者と戦わせるのか。その決定の権限は司が握っていた。場の勢いを読み誰を台へ上げるかを即決していく。二人、番で上がらせる者たちもいれば、連賭け、三人で上がらせる者たちもある。単騎、一人で張りの舞台に上がる者もいた。
 見世と司は顔馴染みになることが多い。司は見世と賭場外で会うことを禁じられていた。
 カワナニの賭場には一ノ壇から六ノ壇までに本台は二十一台ある。司はそれと同数おり、それとは別に各脇台を仕切る司が八十二人いる。百三人の司が各台に上がる。司どうしも競り合う階級制にある。
 役者と司は話さず目を見ずとも疎通できるといわれる。賭場では役者に次いで司にも重きが置かれていた。
 十枚目、九枚目、八枚目にしばらく六ノ壇を廻らせる。例の三人は来ていない。


231~240

☆231

 カワナニの街にサルは憶えがある。ただし夕猿はこの市へ、薬を卸してはいない。先に別の組に入られ牛耳られていた。その別の組の組長の名は十山(トヤマ)といった。この十山の卸す薬の質が、最近落ちていると言われていた。十山は市の元締めであるカワナニ本人と金銭でも揉めたらしい。
 カワナニの市に割り込むなら今かも、と。サルは考えてもいた。十山とサル、それぞれが組員を率いて、カワナニの街で斬り合った過去がある。乱闘で市から火が出て、一部全焼した。以来、サルはカワナニの市に出入りを禁じられていた。何年か前の話だ。今回サルがカワナニの街、ツジ南門に入るのはその乱闘以来だった。
 カワナニの市は人身売買の件数は少ない。なんといっても賭場で大金が動いていた。その賭場が薬を必要としていた。そこへ品を卸せることになれば利益は少なくはない。十山の後釜を狙って、夕猿、そのほかの組も動きつつある状況だった。
 カワナニの市は混沌として危険な場所でもある。外部からの人間が捕らえられ、薬付けにされ数年後に出てきたという例があった。喧嘩、それに伴う殺傷事件は日常。
 賭場への道は堅く封鎖されている。朝廷の兵士たちでも賭場近くへは辿り着けないほど、込み入った造りであった。うまく賭場に入り込む自信がサルにはあった。だが背が高い。歩くと目立つ。
 裏から賭場へ、知り合いの女に入れてもらおうかな、などと考えていた。市には女郎屋も氾濫している。不細工な女ばかりであったが、カワナニでは、この女たちが小便を出すところを客に見せるのが流行っているらしかった。そんな話を少し前によそで聞いた。
 それにしても自分は、いつまでこの商売を続けるのか、なんで胸が騒ぐ―
カワナニの街でもサルは、由宇という偽名を用いている。馬は進んだ。

☆232

 夏の夕暮れ、サルは宿に入った。刀を包んだ布。しばらく剣に手入れをする。握り返して見た。お守りの刀もそこに。
 次の朝、出発して午前にツジに着く。快晴。冬ならば吹きさらしで寒い平地。夏草が揺れる。夏の風。緩やかな高台を降りていった。遠くの森森。
 ツジの外壁、内部からは何本かの煙が上がっている。静かだった。なんてきれいな空かな。その道を何年も前に、キジもキタも歩いた過去を知るはずもないサルである。
 サルは西門、北門と廻り、東門からツジへ入ろうとしていた。ゆっくりとツジ外縁を進んでいく。飢饉の時に荒れ果てていた都市の外壁。それは整え直されて今ある。北の空の地平いっぱいに、横に広がる積乱雲の起こっているのが見えた。
 まぶしい―
 この都市が飢饉に覆われた過去をサルは知らない。産まれたばかり、さらわれた自分を救うために、キジは東門から鬼畜たちを追った、あの日。
 胸が騒ぐ、なんでだ―
 サルは不思議に思った。それはきっと産まれた場所に戻って来たから。このツジで発狂寸前の女に自分が託された過去をサルは知らない。そこにキジがいて、お守りに刀を預けてくれた過去も知らずに生きてきた。
 以前ツジに来たときにも胸が騒いだ。斬り合いはしたくねぇが―
 サルは東門からツジに入る。サルが救われた日、キジはそこで乱僧たちに指揮をした。時は流れる。知るはずもない。
 サルは馬を預けた。南北の道、東西の道が交差するツジ中央に立つ。どの通りも賑わいはじめていた。南門の影が、立ち昇る煙と共に見える。

☆233 これまでのあらすじ

 キタという男がいた。放浪の末、飢饉にあるツジという都市にいる。治安の悪化するツジ鎮圧に、朝廷からは乱僧と目付の兵士が送り込まれた。兵士を束ねるのがキジという長身の男だった。キタとキジは、この飢饉の都市ツジで、はじめて出会い言葉を交わす。
 キジはツジ鎮圧と並行して、大陸へ渡る船に同乗させる乞食を探してもいた。ツジの名士カワナニの住んだ大屋敷に、乞食がいたことをキタはキジに伝える。さらにキジは赤子を救い、その子を知らぬ女に託してもいた。飢饉を生き延びた女は、その子をサルと呼んで育てることになる。
 ツジは乱僧と兵士に制圧され封鎖される。キジは乞食を連れ出した後にキサラギへ、キタも何年も帰らずにいた故郷へと向かった。

 キタの故郷である海辺の集落は消えている。士に連れ去られた後であった。武装集団化する者たち、士(し)が各地で台頭をはじめていた。士たちは人身売買の独自の市場を持っている。そこで膨大な金品が流通されていた。
 キタはこの海辺でキビという海女と出会う。キビは夫の暴力で不生女とされ、その夫と死に別れて親元へ出戻った女であった。料理が上手いキビに団子を作らせて、キタは街道沿いの市で売るようになる。大陸船の出る港へ向かうキジが、そこを通り偶然にキビの団子を食べた。キジに問われたキビは、その団子を「キビ団子」と呼ぶ。
 大陸から還ったキジは、バクセという偽名を用い再び朝廷に傭兵として雇われた。キタとキビは山へと移り住んでいた。その場所からさらに内奥に桃源郷と揶揄される小国がある。朝廷の配下に属することを拒んだ小国は朝廷との戦いで消滅、その妃は生まれたばかりの王子を籠に乗せ渓流へ逃がした。それをキビが拾い上げる。
 朝廷軍として戦うキジもそこにいた。キジとキタはその山あいで再会する。キタはキジに流れ着いた赤子を見せた。キジはそれが桃源郷の王子であることを認め、さらに王子の命を見逃す。キタとキビは翌日、その赤子を連れて密かに河を下り消息を絶った。

 士の勢力は増し続け、朝廷の脅威となっていった。士のうちには「貴族」に対抗して「士族」を名乗る意識が広まりはじめていた。さらに先鋭的に「朝廷を倒す」と考える者が現れてくる。

☆234

 ツジ南門。カワナニの市。その内奥に存在する賭場。
 それは六つの「壇(だん)」で仕切られていた。「一ノ壇(いちのだん)」。そこでの勝負は一度に最も多くの額が張られる前線であった。
 二ノ壇、三ノ壇。下がるほどに賭金、勝負の規模は小さくなる。各壇にはカワナニ側の賭け師がそれぞれに張り付いている。外部からやってきた賭け師は、この各壇を守るカワナニの賭け師たちと戦った。
 勝負は二つの「賽(さい)」により行われる。賽とは正六面体の象牙のようなもの。賽は二本の指に隠れるほどの大きさ、手の平に小さく乗った。
 賽は相対する二面が黒、次の相対する二面が赤、残りの相対する二面は白であった。さらに白地の二面、その一方の面には赤い丸が刻印されている。
 壇上の勝負は、振り師と賭け師に相対する。振り師は賽二つを両手それぞれに一つずつ、素手で握る。両手を練り合わせ、交錯させながら面前へと両手の蓋を落とす。左右どちらに賽があるのか。両手、左右にそれぞれ一つずつ賽が振られていると思えば「丁」。どちらか一方、二つの賽が片手に振られたと思えば「半」となる。賭け師はそれを答える。
 振り師が半に振った。賭け師が見抜いて半と張った。賭け師の勝ち、的を得た。
 しかしこの場合、張られた賭け金は動かない。次の勝負へと掛け金は積まれていく。「半」、「丁」を見抜いただけでは金は動かない。
 真に的を得るためには、さらに右、左、どちらの「半」であるかが問われた。賭け師から見て向かって右を「上(かみ)」、左を「下(しも)」という。「上半」か、「下半」か。
 的を得れば、積んだ掛け金、それと同額の木札が賭け師の側に動かされた。外部からの賭け師は現金で張る、受ける賭場の賭け師は木札で受けた。賭場側が敗れた場合、戦いの後、皆の見る前で精算となる。
 そのひとつに張った額の倍額精算となる掛け方があった。半上、半下、そのうえでさらに色目を当てるのである。白か、黒か、赤か。
 特にこの頃流行していたのが、赤丸の面か、否かの択一の勝負方法だった。采には白地に赤丸の一面があるが、この一面は「一矢(いっし)」と呼ばれた。半であるか、丁であるか、さらに上か、下か、そのうえで一矢であるか、ないかを張るのである。
 的を得た場合、掛け金と同額が賭け師へ渡される。

☆235

 「丁」とだけするのが最も簡略。この場合、左右どちらの采も一矢ではないことになる。「丁、一矢なし」。
 これで的を射た場合、張った額の一割が賭け師に支払われる。勝負としては小さい。中継ぎの手。このような勝負は、壇が上がるほどに無くなる。張り師にも誇りがある。
 「丁、一矢あり」。
 左右に振られたどちらかの賽が一矢であると賭けた場合である。これで的を射れば、張った額が賭け師に支払われる。さらに賽の上下を張り射れば張った額の倍が支払われる。小さくはない。「半」においても同じである。
 一振り、二振り。振り師はその三回の振りのうち、一度は必ず一矢を出す決まりであった。三回目までの振りのうち、一矢を一度も出さない場合、親と子の交代がなされる。
 振り師が「親」、賭け師が「子」と呼ばれる。最初、まず賭場側が親となって各勝負は始められた。それぞれの壇上に散っていくのである。
 賭場側の親は自ら子になることができた。子である相手の振り方、その腕を見極めるときに、この交代が使われた。賭場側の親は二つの賽を子の側へ投げる。「子成り(こなり)」という。
 賭場側も対する外部の側も子のときに自ら親になることはできない。一矢を出した勝負で的を得たとき、子が親となる権利を得る。子は親へ交代可能となる。すぐに親にならず子のままで張り続けることを「流し」、「回し」などという。親権を持つ子は親となろうとするときに三三七拍子を叩く。「鳴き」という。子が鳴くと親子は交代される。一矢を読めるか否かが勝負に繋がった。
 賭場では振り師、親が完全に有利である。手先に驚くほどの技術、さらに肝の座った男たちが賽を振った。カワナニには役者が揃っていた。カワナニの賭場は名門。外部からも名人が参入している。
 そのカワナニの賭場に潰し屋が入っているのだという。十枚目、九枚目、八枚目。カワナニの役者たちが次々に破産に追い込まれているなんて。
―信じられないぜ
サルはそう思っていた。

☆236

 「ハチを呼べ」
そう告げた老人。小さな体。命じられた男は部屋を出て行く。夏の闇が迫りつつある。夕暮れ。蝉が鳴いていた。
 ハチはいつもの夢で目が覚めた。幼少の頃。忘れられぬ。かなしい。
 立ち上がり細い体、高い背。いつものように階上へと上がった、細いくるぶし。鋭い目線の先に夕陽が沈んでいく。いつもの景色。細く伸ばした顎の髭。若さがたぎる。
 足元に広がる屋根屋根はカワナニの街。その屋根。ハチの背を呼ぶ男の声がした。
「二枚目。親方がお呼びです」
屋根に頭を出した男。黙ったままのハチの背を見ている。夕空。

 老人とハチは一室で向かい合った。
「ハチ。知っているだろうがな、八枚目が破られた―」
その小さな老体は、ゆっくりと続ける。
「相手は三人だ。十日、初めて顔を出したそうだ。十日に十枚目、二十日に九枚目と八枚目が倒された。十、九、八と、それぞれ三枚とも単騎、相手は連賭けと番できた」
 賭け師は一組、三人までが張り座につくことができた。三人一組で賭けることを「連賭け(れんがけ)」という。一人で賭けることを「単騎(たんき)」、二人組で賭けることを「番(つがい)」という。
 「三枚とも始まりから終いまで、単騎のみで張ったそうだ。無理してからに―」
組の場合、三人のうち誰でも賽を振ることができた。勝負は局で進む。局とは勝負の始まりから最初の親と子の交代で「半局(はんきょく)」、さらに交代で「局(きょく)」となる。一局、二局、三局、四、五、六と勝負の局が積み重なっていく。
 三人組で座についた場合、ある局を「単騎」で戦うならば誰が、「番」で戦うならば誰と誰が、「連賭け」はそのまま三人、それぞれの局ごとで振り張る形態を決める。その選定は局ごとに各側により選択される。一度決めた型は局が終わるまで崩せない。振り師、張り師とも局の途中に降りれば負け。各局面で戦う勝負師双方の振る力、張る力が晒される。

☆237

 老体は続ける。
「調べさせたが新手だ。連中の面はこの辺りじゃ誰も見たことがない。十日、二十日と、奴ら掛け金は確実に上げてきている。三十日の市に来た場合、連中の持ち金によっては、さらに上の壇に通すことになるかもしれん。三ノ壇か、二ノ壇か」
 賭場、その各壇が開かれることを、「明ける(あける)」という。賭場の明けると同時に、それぞれの壇に人々が入って行く。この賭場に集う人々を「見世(みせ)」という。
 どの壇に入るかは見世各人の持参金による。見世も高い持参金を持つ者は一ノ壇、低い額の者は六ノ壇と、自然に流れていくものだった。
 それぞれの壇に入るため各見世は、まずその壇に入場料金を支払う。一ノ壇への入場料金が最も高かった。
 通常どこの賭場も壇内は板間である。この板間部分を「蓋(がい)」という。各壇内には「本台(ほんだい)」という、ほぼ正方形に近い賭け台が据えられている。膝ほどの高さの張りの舞台であり、勝負師双方はここへ上がって戦った。
 カワナニの賭場、その一ノ壇には中央に本台が一つ据えられていた。さらにその両脇に本台とほぼ同じ形質の張り台が一台ずつ、計三台が据えられている。
 両脇の二つは「脇台(わきだい)」と呼ばれる。それぞれの脇台は、西側寄りの台を「上脇(かみわき)」、もう一方は「下脇(しもわき)」と呼ばれていた。
 カワナニの一ノ壇の場合、振り師と張り師は本台に乗る。その勝負の行方を見世が二つの脇台で賭けた。脇台での勝負に入らないで本台の戦いを見る見世もいる。勝負には入らないが脇台の勝負を見る見世もいる。これらの見世は蓋で立ち見した。
 カワナニの六ノ壇には、六つの本台が据えられていた。各本台に、それぞれ四つの脇台が添えられていた。全部で三十の張り台が置かれ各台はそれぞれの名で呼ばれた。五の壇以下でも、それぞれの壇数と同じ数の本台があり、各本台に四つの脇台が添えられている。全部で二十一の本台と八十二の脇台。百三の賭場としてカワナニは聞こえていた。

☆238

 賭場に入るにはまず大金が要った。入場料だけにしろ。六ノ壇に出入りする者も、賭場の外では大金持ち、見世は皆、金持ちであった。金が飛ぶ。右に左に。
 「ハチ―」
老体は続ける。
「今回は普通じゃねぇような気がしてる。おまえはどう感じているかと思ってな」
夏の陽が暮れていく。ハチは何も話さない。
 「三次(さんじ)にな、連中の張り振りを見極めさせてた」
三次とはカワナニの側近の一人である。
「あの振り方は本土の人間じゃねぇと言ってた―。本土でなけりゃ、南土か、四州(しそ)。どっちからか来た人間だ」
 四州とは、南土の東に位置する土地の呼び名である。本土とも、南土とも海で隔たれている場所であった。数人の強力な士が存在すると目されていた。
 「オロチの話は聞いたことがあろうが、おまえも」
ハチは黙っている。
「セキが殺されたらしい。兄貴のカミノが死んだそうだ。オロチが襲った」
ハチは表情ひとつ変えないで座っていた。その様を睨み見て頷く老人。
「いい面構えだ」
 ハチはカワナニの賭場で二枚目を張る勝負師だった。枚数が上がるほどに賭けは大きくなる。勝負師としての力は賭場では、この二枚目が最強であった。
 一枚目とは元締めのこと、この賭場を仕切るカワナニ本人のことをいう。実質、賽は振らない。ハチに語る老体がカワナニ本人だった。

☆239

 「連中が潰し屋だとしたら、奴ら普通じゃねぇ」
ハチは黙っている。このハチの本名がイヌといった。しかしそれは誰も知らない。
「連中は、士だ」
 夏よ―
「だとすれば、オロチかもしれん」
ひぐらしが鳴き飛んで消える。
 「うちの役者が三枚タテで倒された話は外に聞こえてる。とにかく桁が普通じゃねぇから。それに派手にやられちまったって話でな」
 「今度の三十日の賭場は相当な数の見世が集まるはずだ。それで回収のケツは十分に立ってる。三次にも言ってな。逆に良かったかもしれねぇな。金のことについて言えば。皆おもしろがってるらしいから、いい話だな」
 「ただな、俺の言うのは金だけの話じゃねぇんだ。悪い気がする、今回は」
 「俺の親父は、このツジの中央に屋敷を構えて住んでた。前にも言ったろうが、ハチよ。おまえさんの生まれるもっと前だ。屋敷跡が今もある。親父は表見は綺麗だが、性根はとことん悪い野郎だった」
 「飢饉になってな。親父もツジを出て。この市をここまでするのに俺は随分と骨を折った。賭場の勝負に関しちゃ、場数を踏んできた。お話にならねぇくらい、沢山の勝負師を見てきた」
風鈴が揺れる―
 「オロチの連中は危険すぎる。これは俺の勘だ。市にもオロチの荷は入れねぇように言ってきた。ただ人は別だ。オロチがうちの賭場に入ったのかもしれねぇ」

☆240

 夏の夕闇がおちてくる。南門の賑わい、その息遣いが空気となって流れはじめる頃。
 ハチは何も喋らない。自分の親方、雇い主であるカワナニの顔を一度も見なかった。目は伏せていた。いつものように。
 流れゆく殺気のごとき市のざわめき。それを見つめるようにして目をやり、部屋の外を眺めたり、はぐらかすように。
 毎度のこと。その態度にもカワナニは怒らない。叩いた手で呼んだ男に、ロウソクをともさせた。
 どこか遠くから子供の泣き叫ぶ声が聞こえている。折檻でもされているのか。
 炎揺れる、静かな間。
 「聞いた話だがの。太陽と鉄の連中が、朝廷兵と戦ったのは知っておろうが―」
「奴ら捕虜にした朝廷の連中を熊だか、虎だかに襲わせて商売しよっての―」
「さんざん儲けたあげくに捕まったそうだ。朝廷が兵を挙げた―」
「奴ら北海の岸に駐屯しとったそうだ。それをキサラギが聞きつけて包囲した。とんでもねぇ話だ―」
 「ただな、悪い話、聞いた。昨日だ。三次がヒロシマの市から戻ってな―」
「三次が聞いてきた話じゃ、太陽と鉄は連行される途中で逃げたそうだ。連行する朝廷の軍をオロチが襲ったらしい。オロチが襲って太陽と鉄を逃がした―」
 「三人がオロチだとしたら―。ハチよ。三十日に奴らが来なけりゃ、以後は奴らは出入り禁止にする。それで三十日に来た場合、おまえさんが戦ってくれ。どの壇で張り振りするか。七枚目から役者の割り振り。すべておまえさんに任せる。好きにしろ―」
 「ハチ。おまえが破られた場合、この賭場は終いだ―」
「その場で殺せ」