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141~150

☆141

 キジは家の外の積み木に腰掛けて大きく開いた両膝に両手で杖をついている。立ったままでいるキタとキビの老夫婦はずっとそれまでのキジの様子を見つめていた。キジは考えることをやめ大きな笑みで二人に言った。
「キビ団子、あまりにおいしかった」
そして金を鷲づかみに取り出し二人に差し出した。
「戦の最中、持ち合わせが少ない。これでご容赦ください」
 キジは立ち上がった。その長身。それに対してキビは首を横に振り言った。
「お金なぞいりません。旦那様、今日はこの子の祝い。旦那様、この子を、この子を」
キタの抱いた眠る桃っ子を何度も見返しキビは訴えた。
「この子を見逃してやってください、私たちが育てますから」
 それを聞いたキタは驚いて即座に踏み出し怒鳴った。
「だ、黙れ!何を言うか、おまえは!」
キジは二人へと近付いた。そしてキビが持ったままの皿にその金を置いて言った。その巨体に影となり見上げるキビ。キタも見上げた。
「嫗様よ。確かに海沿いの街道。その市でキビ団子を食べました。私も思い出した」
キジはキタを見た。
「昔、私たちはすでに一度会っている。不思議なことだ」
 見上げる二人は並んでうなずいた。見下ろしていたキジはその顔を上げてゆっくりと周囲の木々を見渡す。曲げた指、それで口をさすり二人を再度見下ろして眼を細めた。
「私の名はキジ。キジと申します。キサラギに、朝廷に雇われた傭兵です。今は偽名を使っている。バクセという名です。よろしいですか、これは絶対の秘密です」
見上げる二人は再度並んでうなずいた。
 この時、キジがその本当の名前を人に語ったのは何年ぶりのことであったか。偽名を使う以前には、その名を尋ねられても教えずに生きてきた自分でもあった。それがここで自分から名乗り出るとは、しかも実の名を。さらにその偽名までも教えてしまった。なぜだろうか、こんな山奥で。しかも一度しか会ったことのない人、さらにその二人は老いてもいる。何の得があろう。朝廷が追跡するこの桃源郷の王子が自分をそうさせたとでもいうのか。それともあのうまかったキビ団子のせいか。自分はこの三人に完全に心を開いてしまっているのだ。なぜだ。わからない、なぜかはわからない。
 そしてキジはつぶやいていた。
「不思議なり不思議なり、昔むかしの話なり…」
運命の意図はこの傭兵と老夫婦を再会させ、さらに一人の赤ん坊をその三人に出会わせた。

☆142

 この河辺、その一軒の民家付近においてキジは大乱闘を繰り広げようと考えてもいた。
相手は朝廷、キサラギの軍である。
 キジはキタに問うた。この家までの山の道筋を。
 それに応えてキタはキジを導いて歩いた。炭焼きの集落からこの家にまで続く小さな山の中の道。さらにここからさらに上流へと続く道の在りか。それらをキジに吐いた。
―なるほど
 キジは思った。この初老の男、キタという者が只者ではないこと、あの飢饉のツジを渡り歩いただけのことはある男であることを確認しながら聞いていた。
 先に下っていった騎兵たちが集落に着き、この細い山道の存在を知らされればこれを逆上って来るだろう、そうすれば辿り着いた先のこの家は必ず焼かれることになる。
 キジはキタとキビに確認した。そしてその手の中で眠る赤ん坊、桃っ子と呼ばれるその男児の存在、それがまだ自分を含めた三人以外、誰にも明かされていないことを知った。
―助けられる、逃しきれる
キジはその老夫婦の願い通りに、その子を生かすことができる、このまま逃がせる、そう確信した。
 その時は春であった。木々が色づきはじめて山は美しい。キジは河原に置いてきた馬を連れにその坂道を走り下り恐ろしいほどの速さで馬をこの家に登らせて帰った。そして三人に別れを告げたが最後にその眠る子に言い放った。
「今度会うときはどこぞ、それは共に戦うときぞ」
その大きな笑みをキタとキビは見た。
そしてキジはその山の道を下流へと馬を進めた。キタが教えた小道である。キジはその山の道を使って炭焼きの集落へと向かった。
 キジが乗るその馬はシャンではない。シャンはこの時、すでに死んでいなかった。シャンほどの勇馬はいない。それでキジはその骨を大陸船に預け乗せた。莫大な金を使い大陸にシャンの墓を掘らせた。そこは当時、荒野であった。今その場所は上海と呼ばれている。
 気付けば家の入り口にはキジの残した軍手が置かれていた。キタとキビは、それがあの長身の傭兵が忘れた物かと最初思った。しかしそれを拾ったとき、その中から銭が音を立てて次々と落ちてきた。二人はその大金に顔を見合わせキジの走り行った山道を見つめた。その間に桃の子が眠ってもいる。

☆143

 キジはそのまま山の中の道、キタが教えたその小道に馬を進ませた。道がさらに河から離れてその山道を登って行くのがわかった。
 河岸を下って行った先の兵士たちはその進路を渓谷に遮られて河の左手、山へ入りそこから河と平行に下る進路をとっていた。その渓谷は上流から切り出され流されてきた木々をつなぎ止めて置く場所でもある河下りの終着点の場所である。
 流された木々はそこから村落へと山中を運ばれて炭焼きにされていた。そしてキジより先に下った兵士たちはその山の道を見つけて炭焼きの集落へと辿り着いた。朝廷の包囲を突破して行方不明となっている桃源郷の王子。その行方を集落の住民たちに聞きただしはじめていた。
 山間の集落はその突然の騎馬兵たちの襲来に混乱した。

☆144

 集落へ入ったそれら騎兵は四騎である。彼らは自分たちが河上で確認した煙の出所がそこであることに納得していた。そしてその集落の長に問い尋ねた。「上流から赤ん坊を連れて来た者を見なかったか」と。
 その長は「それは知らない」と答えた。そして「ここの他にも集落はあるから、あの所からも煙は上がっておるだろうが」と隣の場所を指し示して言った。そして「あっちへ行って訊いてみれば良い」と兵士たちに告げた。
 兵士たちはその示された山から上がっている炭焼きの煙を確かに見た。しかしこれ以上、山を渡って捜索することには疲れて、その気が萎えていた。キジがその集落へ着いたのはその直後だった。四騎はその方を見た。キジの偽名であるバクセ、彼はその隊の長でもあった。

☆145

皆、バクセを見た。

その堂々たる様。

その人は人一倍、大きな体だった、

そしてその乗る馬も他の四騎とは違う。

ひとまわり大きい馬で激しいことが素人目にも分かる。

バクセの背の弓に山の光がきらめいて美しい。

☆146

新たな戦人が現れた、その人の異様。

外の世界を知らない炭焼きの集落、その村人。

最初の四騎が後から来たその巨人を見つめる様、

それを村人は察知し何がなされるのかと

見つめている。

☆147

四騎はバクセの元へと近づいた。

それらの顔に浮かぶのは

「もう、戻りたい」という意思表示の眼差しである。

バクセはその四騎を先に戻らせた。

川上へと、来たように遡って戻るように告げた。

そして四騎は戻って行った。

バクセが通ってこの集落へと出て来た道を伝って。

その道は獣道である、しかし馬は通れた。

その山の道を進むうちにひとりの兵が気付いた。

この山道を通らないで自分たちは集落へ着いた、

もっと険しい川岸を下っていた、ということを。

それら四騎はその時、その山道の存在に気が付いた。

そしてその四騎を行かせた後でバクセは気が付いた。

「まずいことをしてしまった」と。

四騎の進んで行った山の道、

すなわちそれは桃源郷の生き延びた王子のいる家、

あのキタ翁とキビ嫗の居所へと通じる道である。

☆148

行った四騎のその山道のそれをバクセは見ていた。

そして、この後に起こるべきことを想定していた。

事は簡単である。

その後を追ってその四人を殺そうと決めていた。

☆149

その馬上のバクセにその集落の長が言い寄った。

「何かあったんかいな、川上の国が燃えておると」

それにバクセは大きな微笑みで返して見せた。

「大丈夫、心配はご無用」

そして続けてこう言った。

「ここでもし先に行った兵隊が死んでいたら、いいか」

それで集落の、表に出ていた者、皆が黙った。

「よく聞け、その兵隊に犯されそうになったと言え」

さらに男も女も皆、外に出て聞いていた。

☆150

 「それは誰に言うんですかいな、旦那様」と訊いてきた長に、バクセは言った。
「誰にでもだ。この集落へ来て訊く者があったら、そいつには必ず言ってやれ。馬に乗った兵隊たちに犯されそうになったと。女も、子供も、年寄りもすべて。兵士に殺されそうになったと言ってやれ。さもなければ、この集落は焼き討ちにされるぞ、いいか翁よ、わかったな」
バクセは馬を翻らせ、集落へと来た森の小道へと再び入って行き、姿を消した。
 後にはその砂塵が残された。長をはじめ、集落の男女は、バクセの消え入った森を集まるようにして見つめていた。

 バクセは、その上流へと続く山間の道を急いだ。先に行った四騎を追う。両側を木々に覆われた道は続く。途中、切り出された材木をつなぐ渓谷を過ぎた。その辺りを過ぎた頃から道は細くなり、さらに草木に覆われている。その道はキタから教えられ、バクセが集落へと下った道である。
 バクセは一度、馬を降りた。そしてその草木の茂る細い道に、数頭の馬が通過していることを確かめた。それらの蹄の跡は上流へ向かっている、まったく新しい跡。先に下流へと向かったバクセの馬のものではない。
 さらに上流へと上る。四騎の背は見えない。

 キジ、その偽名は、バクセ。そのバクセを下流の集落へと見送ったキタ。胸騒ぎがした。
 キタは、バクセがその姿を消した山道をしばらく見ていた。キタは突然、キビに家の戸をすべて閉め、作った団子の皿を隠すように命じた。自分はその間に、出したままにしておいた鎧兜と刀を隠した、桃っ子を乗せた籠も。
 キビが、言われた通りにやりました、と文句を言い出したその時、蹄の音が近付きはじめ、馬のいななきが家の外に響いた。その音に、キビは驚いて目を見開き、両手を口にやってキタを見た。そこには鋭く輝くキタの眼光があった。
 キタは、すでに桃っ子を抱き上げていた。そして自分に言って聞かせてみた。
「ぱっかぱっか、ぱっかぱっか」
そしてそれを笑った。キタは思い出していたのである。
―ツジにいたあの乞食、確かにそお言っておった


131~140

☆131

 その兵士がこちらへ歩いて来るのがわかった。その砂利の音。それが近付いて来る。キタは固まったまま先に下って行った騎兵たちの小さな後ろ姿を見ているしかできなかった。
 兵士たちは確かに誰かを捜索している。キタの頭には家であやすキビの姿、あやされる桃っ子の様子が閃光のように思い出された。そしてその兵士はキタのすぐ側まで来て止まった。
 キタはその横に大きな兵士の存在を感じていた。そして「斬られる」と思ったが足が動かなかった。その兵士の体からは戦場の燃焼の炎と煙の匂いがした。渓流の日常とはまったく別物の、その異質にキタは体がすくんでいた。
 キタは自分の首をその右手、兵士の立っているその顔の方へゆっくりと振り返るために動かした。その時がちょうど、兵士もキタの顔へと、キタの前を見たままの視界に自分の顔を入らせようと、その顔を近付け寄せようとしていた時だった。
 振り向き途中のキタの顔の前に、その兵士の顔が突然に割って入ってきた、そのキタの視界に現れた兵士の面構え。「ぎょっ」としてキタは新たにそこで固まった。
 キタの面前にその顔を忍ばせ入れた兵士もキタの固まったのに合わせてその腰の折り途中でそのままに、その角度で自らを止まらせた。そしてお互いしばらくその顔を見合った。川面の水音が激しくしぶいた。
 「あなた、ツジにいてらした」
兵士のその突然の問い掛けにキタの体はすぐには反応しなかった。が、頭では昨夜から思い返していたあのツジにいた不思議な乞食、その乞食の歯の揃った微笑みが即座に浮かんだ。
 「は、は、はい、おりましたが、お、おりましたが」
「そうでしょう、そうでしょう」
「でも、で、でも昔のことです、だいぶ昔のことで、むかし…」
「そうでしょう、昔です、むかし」
 ふたりはそこで改めて立ち直して向き合った。渓流の響き、その静寂。そこでキタはその兵士の顔を凝視したまま目をさらに見開いていた。
 その大きな兵士、彼の眉間には大きなホクロがあった。そしてその兵士はその背に大きな弓をも背負っていた。

☆132

 キビは家でその団子を数枚の器へと盛り付けていた。この山の界隈でそのような調理と行き届いた整えを施すことのできる女はいない。炭焼きの集落の女たちは皆キビより劣っており粗雑だった。そして集落にはキビ団子の味を知りそれを待つ男が何人もいた。
 キビは時々に桃っ子を包んだその桃色の包みの様子を見に行った。そして「もうすぐできあがるからな~、お祝いだ~」などと声を掛けた、笑顔で足取りも軽く。
 桃っ子は眠り続けていたがたまに目を覚ました。そして周囲の様子を窺うような素振りを見せた。キビはそれを見つけるとすぐに飛んで行った。そしてその桃っ子の様子をさらなる笑顔で見届けながら「おぉ~見えた見えた、何が見えた~、ん?」などと話し掛けて止まなかった。
 子を産み育てたことのないキビにとってこれほど嬉しいと感じたことはなかった。キビの世話の焼き好きは一夜明けて今では桃っ子に注がれていた。
 キビが祝いの皿を用意し終えてからしばらくしてキタが河から帰ってきた。
「お帰り、おまえさん。いい匂いだろ、キビ団子つくったよ。あの子のお祝いにさ」
入り口に入ったキタにそう言い迎えたキビはキタの後ろの人影に驚き立ち止まった。
「だ、誰だいあんた」
 キタに促がされその後ろの人影は敷居をまたいで入ってきた。鎧姿の大きな兵士、その突然にキビは言葉がでない。
「失礼、驚かせて申し訳ない」と男は言った。その眉間のホクロと背の弓のそれぞれが大きいのをキビは見た。しかしその男との昔の出来事は思い出さないでいた。
 キタは男に部屋へ上がるようにすすめたが男は辞退した。そして「いい匂いだ」と鼻を嗅ぎつかせキビに向かって大きく微笑んだ。その人を包み込むような笑顔にキビも自然と笑顔を返していたがそこで思い出しはじめていた。
―この兵隊さんとはどこかで会ったかな

☆133

 そしてその後にキビはその巨体の兵士に染み込んだ戦場の異様、その異臭に「くさい」とこぼしてその顔をゆがめてしまった。ふらり後ずさりしたキビを見て兵士も驚き、自分の胸元を嗅ぎながら「失礼失礼」と入ってきた戸をキビを見たまま後ずさりして外へと出ていった。
 「こらっ!無礼な!」 そう叱って立ったキタはその手に桃っ子を包みごと抱いて土間へと降りていく。
「おまえさん!何するんだ!モモッ!」
「やかましい!黙っとけ、この海女が!」
そのキタの形相のあまりの激しさにキビは黙った。そして桃っ子を抱いたまま出て行こうとするキタへ言った。「おまえさん、やめとくれぇ~。どぉする気だい桃っ子ぉ~!」
 近付いてこようとするキビを無視してキタは兵士に続いてその戸の外へ出た。そして外の陽に照らされて待っていたその男に包んだままのその子を掲げて見せた。
「この子です」
 そのキタの言葉に鎧の男は顔を近付けた。屋内からキビがそれを見ている。

☆134

 キタはその兵士が桃っ子を抱けるようにその包みを預けようとした。しかし兵士はそれを拒んで言った。
「いや、私は触れない。触ればこの子が汚れる」
 その後、二言三言、キタと兵士は言葉を交わしていた。そしてキタはその薄暗い土間からこちらを立ち見していたキビに言った。桃っ子を乗せていた籠、さらにその中で桃っ子を包み守っていた竹細工で出来た深い箱、そして桃っ子に添えられていた短刀、鏡、桃の実の光る石、それらをここへ持って来るようにと。
 キビはそれを言われるままに三度往復して外にいるキタと兵士のもとへと運んだ。その届ける度にキビはその兵士の横顔を盗み見ていた。そしてすべてを届け終えてまたその土間から兵士の立ち姿を認めたときに遂に思い出した。
 昔むかし、自分が海沿いの集落に暮らしていた頃。その近くで週ごとに立つ市場があった。そこで自分は団子を売っていた。ある時その街道の道に武装の騎兵たちが現れて作った団子を買い尽くした。
 思い出した。その金の払い主、その人が今この家の外に立つあの長身の弓を持つ兵士だということを。

☆135

 キタは桃っ子が包まれていたそれら一式の様子をその兵士へ伝えた。そして添えられた短刀、鏡、桃を模した石の意味を兵士に尋ねた。そこで兵士は今何が起こっているのかをキタへ伝えた。
 それによれば山の民とその王国はキサラギの軍勢に滅ぼされた。それは昨日のことである。その山奥に建てられ栄華を放ち続けたその秘境の宮廷をキサラギの軍が焼き討ちにしている。そしてそれは今現在も行われているという。
 キタは物見の大木から監視して自分の付けていたその見当がほぼ正しいことと山の民の王国がキサラギに桃源郷と呼ばれて揶揄されていたということをこの時点で知った。
 桃源郷の王族とそこに関係する者すべては捕えられたという。しかしその王国の王子ひとりの行方が知れないでいた。その王子がキサラギの軍勢、その包囲を突破して今もなお行方不明になっている。この山々の連なる地域、その全域においてその見失われた王子の捜索が開始されているのだと兵士は明かした。
 兵士はキタがその住まいからキビに運ばせてきたそれらすべての品を確認した。兵士が特に注目していたのが短刀、鏡、光る石のそれぞれであった。そしてその桃色の布地に包まれて眠る赤ん坊が桃源郷の王族の者であり、行方不明とされた王子であると断言した。
 キタは「やはりそうだったか」と改めてその子の寝顔を黙視した。そして続けてその兵士の顔を見上げた。兵士は眠るその子を見ていた。沈黙が流れる。深いため息の後に兵士は言った。

☆136

 「大変な拾いものをしたものですな。キタさんでしたか、翁様よ」
キタは桃っ子を抱いたまま立ち尽くしていた。キタの目線は何も見ていないようにして宙に浮いている。
 ふたりは河辺で再会しお互いを確認していた。あの昔の日、お互いに飢饉のツジにいたことを。そしてずいぶんと時が流れたことを認め合って笑いながら河にいた。ふたりはこの再会をお互いに喜んだ。
 そしてキタはツジでそうであったようにその男には偽りを述べる気持ちがまったく湧かなかった。キタは実は自分の家がすぐこの近くにあることを男に告げた。そして河で拾ったものがある、それを見て欲しいと頼んだ。
 ふたりはそれぞれに生きる術に長けた用心深い男だった。それが不思議とお互いを疑わずにいた。ツジのときがそうであったように。運命の意図で深くつながれている。
 キタは名を名乗ったが男にはその名をあえて尋ねなかった。むしろ男を早く家に招いてもてなしたいと無性に思った。男も馬を置いてキタに言われるままにその後を付いて河岸から山へと登って行った。
 その男は今、キタの家の入り口で積み木に腰を下ろしている。子を抱き立つキタの足元に目をやりどうすべきかを考えていた。
 その男はキジである。

 キジは大陸から戻った後、キサラギより遥か東の森の地にその身を隠していた。そして帝の崩御を知った。その帝とはツジが飢饉へと追いやられた時のあの気まぐれといわれた帝である。新たな帝が立ち上がりそのしばらく後にキジはキサラギへと近付いた。
 キサラギの勢力図は一変していた。キジを助けたあの女衒は消えてキサラギにはいなかった。そして最も美しかった女たちのうちのふたりが二大勢力となって争っている。キジの名とその武勇を直接に知る者は宮廷にもほとんどいない。キジの命を狙っていた者たちも皆消えていた。
 キジは偽名を用いた。そしてキサラギとその周辺に身を置いた。いつしかキジは再び朝廷に傭兵として雇われていった。戦の旅は続く。
 そして桃源郷征伐の戦争にも召集された。キジはそこで戦いさらに王子捜索の一隊としてこの河を下っている途中であった。

☆137

 キジが気が付くと、キタの傍らにはこの家の女主が立ち添っていた。キビである。自分が敷居をまたいだときに臭いと騒いでくれたあの老女。キジはその女の名を知らない。そして自分が昔むかし、その女キビが作り売っていた団子を買い漁ったことも思い出さないでいた。
 その老女はキタの横でその手に何やら料理らしきを盛り付けた大皿を掲げていた。その老夫婦の眼差し。それが自分を信じ切っていることがキジにはよくわかる。そしてそれがキジを悩ませていた。
 傭兵はその仕事柄、命の勘定には素早い。もし子が早い段階で捕まれば二つの命が救われる。救われるそれはこの老夫婦のふたり。
 もし子を逃がせばその三つの命が失われるのが想像された。朝廷の放った軍勢は馬鹿な犬ではない。追跡の後にその子を見つけた者は順次この夫婦と家をこの山あいに焼くことを選ぶ、そして子の死体は証拠品と共に本営へと運ぶはずであると思われた。
 さらにキジにはキサラギに自分が何をしていたかが問われるであろうことも予想できた。隊の他の兵士を先にやりそこで何をしていたのかということである。だからこそこの時間のない時にキジは決断を迫られてもいた。この家の三人の者を逃がすのか殺すのかということに対して。
 人の命を勘定しながら憶測をするその緊張感。それ独特の興奮はキジの両手の指先にいつものしびれとなってはしっている。そしてキジの考えは定まっていた。
―朝廷の軍勢はすぐそこにまで来ている。しかし何とかしてこの三人、逃してみせる
 何も言わずに地を睨み続けるキジにキビは歩み寄った。

☆138

 その歩み寄る人の気配にキジはひとり続けていた憶測を解除した。
―なんといい匂いなんだろう、と。キジは思った。
正面を見れば、そこに立つキビの手にその団子は盛られていた。
 キビを見るキジにキタは言った。
「さ、旦那様。食べてみてくだされ」
眠る子をその手に抱いた老人。それに促がされている自分。
 見れば目の前に盛られた美味そうな団子の皿がある。それを持つ老女。こちらをしっかりと見据えたその表情は大したものだと、キジは思った。そして苦笑した。
―老いた女に見下されるまでに堕ちたのか俺は と。
―それならいくらでも食べてやる
 キジは汚れたままの素手でその皿の掴めるだけの団子をむしり取った。女ならたじろぐ、しかしその女キビはまったく動じなかった。一歩も退かずその表情も動かさないでそこにいた。
 キタはそのキビと兵士の行動を無言で見つめていた。

☆139

 その団子を口に入れた途端にキジは背筋が伸びた。そしてその眼が開かれた。
―うまい!
そして自分の側に立つキビの顔に微笑み返した。
 キビはさらに他の団子もあるとすすめる。キジは言われるがままに他の団子にも手を付けた。
―うまい!これはうまい!
 このような山奥でこれほどの味に出会うとは思いもしなかったキジは驚いてもいた。団子を頬張る自分を見て微笑むキタの様子に笑い返しながら、その微笑が止まらないほどうまくて仕方がない。
 そしてその腹が落ち着きだしていくのと同時に金の持ち合わせが足りないことに気がついた。それでキジはその食べるのを遅めた。さらに思い返してもいた。
―この団子、どこかで食べたことがある
 キジが突然に無表情になり一点を見つめているのを見てキビは不安げにキタを見た。それに応じてキタは作り置きの茶を用意しに家へ入った。
 「旦那様、もうひとつどうぞ。あの桃子がこの家に来たお祝いに作ったんです。まだ他にもたくさんありますから」
キビのすすめにキジは言った。「これは何と言うものですか」と。それに答えてキビは言った。「キビ団子です、旦那様」
―キビ団子
 キジは改めてキビの顔を見上げた。
―どこかで会っている
「旦那様、昔むかし、市場でこの団子をお買いくださった。覚えておりませんか。海沿いの街道の小さな市で。」
―海沿いの街道
「その時も旦那様は鎧姿で、他にも何人かの兵隊さんがおりました。私の団子を全~部お買いになって馬で行かれた」
 キジはそれを思い出した。そして「それはいつ頃のことですか」と訊いてみた。それは自分が大陸へ渡るために出航の南の港へと向かうその道中であった。
 それに対してキビは笑顔で答えた。
「昔むかしの話です」

☆140

 キタは茶を用意してそれをキジに飲ませた。キジにはその茶もすこぶるうまいものに感じられた。「おかわり」、「おかわり」、「おかわり」と、キジはそれを三度繰り返した。
 キジがその最後を飲み干そうとする頃にはキタもキビもその同じ茶を飲んで一休みしているようだった。静かに眠る子、それを見守る老夫婦の眼差し。その姿をキジは横目で見ていた。午後の光がこの山あいに注いでいる。山鳥が鳴いていた。
 河沿いとはいえ岸からこの家までの距離は相当に離れている。河岸からこれだけの距離があれば十分に逃げ切ることができるとキジは考えていた。この場所は軍隊に巻き込まれるような地理にない。それがキジの判断だった。
 自分以外の残りの騎兵、それらは河に添わせて動かせば良いと思われた。それら騎兵を河岸から、河の流れから離れないように動かせば良い。そうすればこの家は戦火から逃れ得る距離にあると憶測した。


121~130

☆121

 家の周囲の木立は切られて平地にならされている。家の裏手はさらに広げられており畑である。その畑の横に渓流へと下る小道が備わっていた。人ひとり通るほどの細い道で両側は木立である。
 その小道を下る途中に山の斜面を利用した畑がある。それらはすべてキタが若い頃より少しずつ整えてきたものである。その斜面の畑を越えるとまた両側は木立が続く。
 そのまましばらく下っていくと水の流れる音が聞こえてくる。木立は途切れ砂利の続く河岸へと抜ける。そこが渓流であった。
 その岸には数箇所の洗い場が組まれている。それもキタが作ったもので季節の水かさに合わせて使い分けていた。
 小雨は霧雨にかわっていた。そしてしばらくして雨はやんだ。空は雲に覆われていたが明るい。渓流の流れる音が山あいから立ち昇っていく。
 その水辺に接したひとつの洗い場に女の後ろ姿が、しゃがんで河に向かい何かをしていた。近付けば女は白髪であり脇には濡らした衣やらが軽く積まれていた。その年寄りの女、それはキビである。
 彼女はキタと離れずに共にこの山へと移住していた。そしてここでキタと共に老いた。この渓流の洗い場はキビが洗濯をする場所であった。
 そしてこの日、キビは河で洗濯をしていた。

☆122

 洗濯をしながらキビは思い返していた。昨日キタが河の網に掛かったと家へ運び入れた鎧や刀のことである。「あんな物騒な物を家に上げたりなんかしないでほしい」と。
 さらに何か掛かるかもしれないとキタはその後により大きくて強い網を仕掛け直していた。仕掛けたそれはキビのいる洗い場より少し下流の場所にある。
 キビは手を止めて下流に当たる左手を見やった。流れる川面からその網の先端が飛び出して白いしぶきをあげているのが見えていた。
―あの人も物好きな人だよ、私は気味が悪いや
 そして右手の上流を見てふたたび洗濯をしようと頭を下げた、が何やら目に留まり再度キビは顔を上げ右手を見つめた。首を長くしてその上流を見ていると確かに何かが流れてきている。
―何だろうね、あれ
 キビがそのまま見ていると次第に近付いてくるそれは何か箱のように見えた。渓流の流れに上下しながら揺られて流れている。
 すぐ近くまで来たところでそれは大きめの籠であった。キビの目の前をゆっくりと流れ過ぎていった。キビはその籠の行方を目で追って左手の下流をそのままに見ていた。そして籠は網に掛かった。
 キビは立ち上がりいちど背伸びをしてその様子を見ていた。流れに揺れて籠もしぶきをあげている。キビは洗い場から降りて砂利の河岸を籠を見に歩いていった。
 キビもキタ同様、その足取りはしっかりしており腰も曲がってはいない。砂利に足を取られそうになるとすかさずに両手を広げてその両肩を左右前後に重心を保ちながら歩いていく。

☆123

 網の場所まで来たキビはそこから掛かった籠を見て思った。
―あれは造りのしっかりしたいい籠だね、流してしまうには惜しいよ
籠は水をまったく吸っていないようだった。だからこそここまで流れ着いたのでもあろう。
―誰が流したんだろうかね、甲冑といいあの籠といい
 そしてキタが使ってその岸に置いておいた長い竿を手にキビは草履のまま河に入り腿まで浸した。元は海女である。水を怖がる女ではなかった。
 流れに揺れる籠を竿でたぐり寄せ手にとって浮かべたままに岸へと引いた。籠は流されているときに見えたよりも実際は大きくて頑丈な物だった。
 籠には蓋がかぶせられており数箇所を固く縛られて閉じられていた。キビは歯を使ってその結びをやっと解いたがその前歯の一本は抜けていた。歳とったのである、キビも。
 蓋を開けるとその中身は緑の布で包まれていた。その生地が上質な物であるのがすぐにわかった。布はほとんど濡れていなかった。籠の内面には防水の加工が施されていた。
―誰かがわざわざ流したのかねぇ
 キビはその緑の布をそっと引っ張りあげて横に擦らしながら退けた。中からはさらに濃い色をした緑の布が現れた。それで何かがさらに包まれている。美しい染めの一枚だった。
 緑の布の上にそのさらに濃い緑の布を解き開いてみるとそれは竹細工で組まれた箱だった。深く蓋されたそれは大きな骨壺のようにも見えた。手の込んだそれは上質でまったく美しかった。
 キビは目を細め傾げた首を回しながら上下左右にそれを眺めた。そして一瞬ぴたりと止まり、凝視してさっと頭を後ろへ下げた。
―やだよ、まさか人の首でも入っているんじゃないだろうね
 息を止めた。キタが家に上げた甲冑が目に浮かぶ。ガラッと鎧の動いた音がしたような気にさせられた。

☆124

 何かの理由で部分部分に分離したらしいその鎧の一片。それを手に取りキタは家で眺めている。それは流れる途中でばらけたのか、それとも実際の戦いで分解したものなのか。それはわからない。
 そのいくつかには刀傷らしい斬り跡が残されている物もあり一部の物には焼き焦げた跡が付いていた。昨日からの雨のせいで河の水かさは増しその流れも速くなっていた。それらが山の民の国ほどにもさかのぼった上流の奥地から流れてきたとしてもおかしくはなかった。
 ばらばらに引き上げたそれらの各部分を上半身、下半身とそれぞれに当てはめていけば、ほぼ一体の揃った鎧兜になるとキタは目で追った。
「おまえさん!」
 声に振り向けば表にキビが立っていた。
「なんじゃ、どこへ行っとった」
「おまえさん、ちょっと来ておくれ。河におかしな物が流れ着いたよ」
「おかしな物?なんじゃそれは」
「首かもしれないよ、だれかが首を流したのかも」
「首?なんじゃと~」
 キタはキビに先立って渓流への道を下っていく。キビもすぐ後から付いて行った。
「あれだよ、おまえさん」
河岸に出て指差された先は仕掛け直した網の岸でありそこにキビの上げた籠が見えた。
 ふたりは砂利の岸を両手を広げ重心を支え前後左右にと体を傾けながらその籠へと歩み寄った。それでキタは籠を覗いた。そのキタの腰の裏からキビは顔をのぞかせる。
 「これに首が入っとったんか。ん?おい」
尋ねるキタにキビは答えた、「まだ見とらん」と。
「なんじゃ、見てもおらんのにどうして首などと言うのか」
「いやだよ、おまえさん。首が入っていそうな気がしたんだよ、だって鎧やら刀やらも流れてきたじゃないかい。首が流れてきたっておかしくはないよ、さ、開けてごらん。私には怖くて開けられないから」
 「んん~」とキタは軽く唸り「河から自分で取ったのか」とキビに訊いた。「そうだよ」というキビに再度促がされキタはその竹で編まれた細工の箱をあらためて見た。
 そのまわりに敷かれている緑と濃緑の布といい、それら一式が上質な品であるのがひと目でわかった。

☆125

 キタにはそれらの丹誠な様にそこに首などが入っているなどとはとても思えなかった。それでその竹細工の蓋を両手で持ち上げてそこから外した。その中には桃色の布が柔らかく丸みをつけてさらにまた何かを包んで置かれていた。
 ふたりは顔を見合わせた。キビはその桃色の包みを開けてみるようにと、あごを動かして無言のうちにキタへ催促する。外した蓋を横に下ろしてキタはしばらく額を掻いていた。 
 そしてその桃色の包みに手を当て中のものが見えるようにとその布をゆっくりと擦らし退けた。キタはその手先に力のようなもの、生命の息吹のようなものを感じてその手を引っ込めた。
 それに対してキビが後ろから肩をさらに突付いてきた。それに促がされキタは再度桃色の布の内へ手を当て包みを開き退けた。その中身を見てふたりは口を開けたまま言葉が出てこず固まってしまった。
 そこに包まれていたのは白い産着を着た赤ん坊だった。頭髪が生え揃いはじめたばかりの生まれて間もない頃と見える赤ん坊である。その子は目を閉じたまま動かないでいた。
 「なんてこった、こいつぁ動かないのかい」
キタはそのあまりの唐突に我を忘れて半分呆れその指先を眼下の赤ん坊の、そのこめかみに当ててみた。
「あたたかい、まだ生きている」
キビはキタの言葉を聞きながらただひたすらにその子を見つめている。
 キタはその指をそのまま赤ん坊の口元へと下ろした。するとその子はむずがるようにその唇をわずかに震わせた。
「水だ、ばあさん水」
 そう言われたキビは首に巻いていた手ぬぐいをほどいて河に入り急いでその手ぬぐいに水を浸した。そして軽く絞った後にその手ぬぐいを持ってふたたび赤ん坊へと小走りに寄ってその子の口へそれを近づけてその雫を落としてやった。その雫に赤ん坊は口を何回かぱくつかせた。
 キビはその子を包む桃色のその布に手を入れてまさぐり赤ん坊の手を包みの外へと出るようにさせた。桃色の布から出た白い産着、その白い袖からのぞくその子の淡い小さな手。キビはその手に自分の指を握らせてみた。すると赤ん坊はそのキビの指をしっかりと強く握り返した。
 「凄い力だよ」
そう言ってキタを見たキビの表情は年寄りのそれではなかった。その一瞬キビの両眼に生気がみなぎったのをキタは確かに見た。

☆126

 キタは河の上流に目をやった。
―誰かがこの子を流したか
キビは子の入ったその竹の箱ごと抱き上げてその子の顔を見つめている。
「おまえさん、この子に何かやらないと、さ、早く家に戻るよ」
 キビは河に背を返してその砂利の岸を子を抱いたまま家へと歩き出した。キタはその後ろ姿を立ったまま見送っている。そしてふたたび上流を見て眼には見えないさらなる奥地を想像した。
 渓流の水音が山あいに響いている。それは立ちあがるように空へと昇り周囲の山々を遥かに望んだ。

 キタは草履を脱がずにその縁側に腰掛けている。室内で忙しく立ち動くキビの様子を見ていた。竹箱の外側を包んでいた緑の布が床に敷かれその上に子を包んだ桃色の包みが置かれている。子は泣かないでいた。
 キビは使わずにおいた白米を取り出し粥を作りその汁を子に吸わせた。キビのことだ、必ず上手くやるだろう。キタにはその子がどれほど衰弱していようとも死ぬとは思えなかった。キビの女魂が必ずあの子を生かしてしまうだろう。
 キタは困っていた。
―どうしろというのだ、あんな赤ん坊を
もう一度河へ行ってその子を流し直せばいいかななどと馬鹿なことを考えて苦笑した。
 敷かれた緑の布地とその上の桃色の包みの様子を見てキタは言った。
「桃みたいだな」
「え?何だいおまえさん、何だって?」
「桃みたいだよそれは、桃だ、桃っ子だ」
 この突然の出来事にキビは忙しくして夢中だった。しかしキタはその子が普通の赤ん坊でないことを察知していた。
 その子を包んだその端麗な様だけではない。その桃色の包みの中にはその子に添うようにいくつかの品が託されていた。それは短刀と鏡である。そしてそこには桃の実を模した光る玉も一緒にされていた。
 それらを見たキタはその子が山の民の王家に属する者であると直感していた。

☆127

 その桃をかたどった光る玉のような物をキタはそれまでに見たことがなかった。水晶なのか、ずいぶんと珍しい物だ、とキタは思った。一緒にされていた短刀と鏡も上質な物であった。そしてそれぞれには桃の実をかたどったらしい紋章が刻まれていた。
 炭焼きの山々に暮らす人々が山の民と呼ぶさらに奥地の人々、その王国は桃の産地であった。そしてその王家の紋章には桃がかたどられていた。ここへ攻め入る際に朝廷の軍勢はその山奥の秘境を桃源郷と呼びからかっていた。しかしそれらのことを炭焼きの人々はまったく知らなかった。
 キタもそれらのことを知らなかった。そしてその日の午後、渓流を河岸に沿って上って行った。子に関係するような若い女でもがこの辺りをうろついているのではないかと思った。そしてかなり上流まで上ったが結局人には出くわさなかった。
 炭焼きの人々は滅ぼされた山の民の泣き叫ぶ声が山伝いに聞こえてくるようだと怖がっていた。その人気のない上流の場所でキタも同じように感じた。そして足早に家へと引き返した。
 キタはその足で物見の大木、監視の木へ登った。高く昇る異様な黒い煙の柱は消えていた。それとは別に白い煙が数本立ち昇っていた。そしてその日の夕方からそれらの場所から明るい光が立ち上がり空を照らし続けた。夜にはその煙が空へ続々と舞い上がっていく様子が見える。
 それは山火事である。その日、朝廷の軍勢は桃源郷を焼き討ちにしていた。キタは夜もそれをその高い場所から見ていた。合戦の音、怒号のような轟きが伝わってくるように感じる。炎の明るさに対比する山々の影が浮かび上がるその夜の闇。

☆128

 「桃っ子はどうした」 家に入ったキタはキビに訊いた。
「寝てるよ。あの子は元気な男の子だ、すぐに良くなる」 応えるキビはすまし顔だった。
 食事の後を片付けるキビ。奥の部屋に拾われた子を包んだ桃色の包みが見える。
「どうしたものかの、しばらくはここへ置いてもいいが、親か誰かが捜しに来るかもしれん」
「山の民の子なんだろうね、あの子は。でも戦争で滅ぼされたのかい、おまえさん」
キタは今も燃え続けているらしい山奥の光を思い出してキビには黙っていた。
「知らん…、ワシにはわからん」
 キタは立ち上がり奥の部屋に入った。包みの傍にしゃがんで見ればその子は眠っている。動かない子の鼻先に指をかざすと寝息がした。そのキタの背に「桃っ子には明日、湯を沸かして体を拭いてあげようかね」とキビが言った。
 その夜、キビは子を乗せた籠を拾い上げるまでの様子をキタに話して聞かせた。
「おまえさん、それで見てるとな、河上から流れてきたんだよ。どんぶらこ、どんぶらこって」
そのキビの言葉にキタは止まった。
「何だって?今なんて言った」
「何がだい?だから河上から流れてきたんだよ、その桃っ子を入れた籠がさ」
「いや、それがだからどうやって流れてきたんだ。さっき言っただろ、何て言った」
「ん?どうやってって?だからおまえさん、河上からな、どんぶらこ、どんぶらこってさ」
「どんぶらこ?どんぶらこ」
 キタはその独特の言い回しに聞き覚えがあった。その響きに不思議な気持ちにさせられたのである。その感覚を体がいまだに記憶していた。それで思い返していた。どこかで聞いたことがある。どこだったか。「どんぶらこ」と口に小さく出してみた。それでも思い出せないままに床に就いた。
 キビは桃っ子に入れ込んで以前よりも活き活きとしているのが明らかだった。でもこの先、桃っ子をどうするか。キタは天上を見つめ考えながら目を閉じた。「どんぶらこ…」
 しばらくしてキタは目を開けた。思い出したのである。そして体を起こした。
「どんぶらこ、どんぶらこ」
何年も前のことである。まだキビと出会う前。ツジにいた乞食。その乞食が確かに言った。どんぶらこ、と。あの不思議な乞食。その立ち姿がキタの脳裏に鮮烈に思い出された。
「あの乞食だ…どんぶらこと言っていた」

☆129

 次の日、まだ夜の明けきらない頃にキタは再度物見の大木に登った。風はまだ冷たい。東の空が薄明るくなりかけている。山の民のものと思われる火の手はまだ上がっていた。
 渓流の流れはいつもより濁っているように思われた。滅ぼされた人々の念が流れにのってその山あいに木霊しているようでもあった。
 仕掛け直した網に燃え跡のある木々が掛かりはじめていた。野のものもあれば加工された柱の一部らしいものなどもある。キタはそれらを岸に上げた。並び乾かせば薪の替わりになる。
 キタは昨夜思い出したツジの乞食のことも考えた。あのツジから今日まで何年経ったであろうか。気が付けば山と河に囲まれたこのような場所に自分はいる。
―どんぶらこ、どんぶらこ、自分も桃っ子と同じだ
桃っ子と同じように自分も流れてきたのだとキタは感じていた。
 キタは網をすくううちにその中に手首と鞘がまぎれているのを見つけた。手首は水を吸って膨らみ青白く変容している。キタはそれに触れないように竿で弾き出し網を渡らせた。手首はさらに下流へと流れていった。
―やはり上流で戦があったのだ
キタはあらためて上流に目をやった。
―桃っ子に関係する誰かがやってくるかもしれない

 キビは朝から桃っ子の世話を焼くことに掛かりきりであった。そしてその日、キビは桃っ子が家にやって来たことを祝おうと考えていた。そして普段よりも手の込んだ料理を用意していた。ゴマ、小豆、きな粉、山菜などを使って調理を尽くしたキビ団子であった。昼を過ぎる頃、それらを作り終えてあとは盛り付けしようとしていた。
 キタは河にいた。そして上流から馬に乗った兵士たちがやって来たのに驚いていた。

☆130

 兵馬は五騎であった。河岸の砂利をゆっくりと下りて来る、周囲を見渡しながら。兵士たちはすでにその上流からキタを黙視していたらしかった。彼らのその歩速の鈍さが逃げても無駄だと言っている。
 キタも逃げずにそこにいた。走れば追われると理解していた。彼等兵士はまだ戦況の渦中にいる、その興奮の余韻で下手をすると斬られるかもしれないことだけをキタは怖れていた。
 兵士たちは近付いて来る。その砂利に進むひずめの音。キタは家に残していた桃っ子のことを思い出した。不安がちらつく。そして騎兵はキタの周囲を近く遠くと取り囲んだ。
 その馬も兵士も煙の匂いを漂わせていた。今も燃え続けているのであろうあの山奥の場所から来たことは濃厚だった。兵は馬を降りずに周囲を見回している。そのうちのひとりがキタに言った。
「ここの者か」
キタは無言でうなずく。
「どこに住んでいる」
キタの家はその岸辺の真横に位置する場所にあった。しかしキタは無言のまま下流の方角を指さした。さらに別の兵が訊いてきた。
「この河の流れはまだだいぶ先まで続いているのだろ」
キタはうなずいた。その兵は他の兵に言った。
「どうする、これ以上の先に下っているとは思えんがな、河でなく山に逃げたのではないか、我らが通り過ぎておるのかも」 「いや、もう少し下ろう。煙が上がっていたのはこの先だ。おい翁、この先に何か集落でもあるのであろう」
うなずくキタに兵士は言った。「言え、何がある」
「焼き場です、炭の焼き場が、炭焼きの集落がありますだ」
「おまえもそこの人間か」
キタはうつろにうなずいて見せた。
「山道はないか、この近くに」
「馬の通る道なら向こう岸にはあったような」
「向こう岸か、ならばこの岸辺を下って行くしかないか」
キタは頭を下げて目を伏せた。
「誰かこの辺りで見かけなかったか、男でも女でも、翁よ」
キタは首を横に振った。
 騎兵たちはその河岸をまた下りはじめた。しかしそのうちの一騎は動かずにそこにいた。キタはその馬上からの視線を感じながらも顔をそちらへは向けずに下流を見ていた。先に行った兵士が下りながらこちらを振り返っている。動かずの兵はそこから応えて言った、先に行け後から行く、と。
 キタはその視界の端にいる岸を動かない騎兵の影に体が硬直した。その気配と音。兵士は馬から降りたらしかった。渓流の音が響く。


112~120

☆112

 その年の冬をキタはその家で越すこととなった。

浜からの小高い山を越えた墓場を通ったところにある空家である。

その家の住人は皆、どこかへと連れ去られていた。

 その冬はキタにとって厳しいものではなかった。

蓄えもあった。そして食べ物にも事欠かない。

家の造りは頑丈で雨風、雪にもよく耐えた。

そしてその家にキビは毎日やって来た。

 市場の立つ日にはキタは団子を売りに出した。

寒い日などはあたたかなそれはさらによく売れた。

キビの工夫で煮立てた汁に団子を入れたりもした。

小海老や磯蟹を出汁にしたそれは良い味がしてすぐに売り切れた。

 午前中のその仕事を終えるとキビは自分の買い物に市を回った。

市場の一軒で昼食を済ませ午後はキタの家で過ごした。

夕食の準備や家屋の掃除、そして縫い物をしていた。

そして暗くなる前にはキタの夕食の準備を済ませて帰って行った。

 多めに作ったそれは同時に自分の実家の夕食でもあり大半は持ち帰った。

キタが昼寝から目覚めるとキビはすでに帰ったあとだったりした。

 冬の午後、キタは座ったまま疲れてうたた寝するキビを見た。

目を覚ましその縫い仕事を再びはじめたかという頃にまたうたた寝をする。

それを繰り返す様子をキタは黙って見ていた。

キタはその寝顔をかわいいと思ったが放っておいた。

 キタはキビの自由にさせていた。

嫁いだ先での出来事はどんなにか辛かったのだろう。

でもキタはそれにも触れないで放っておいた。

 キビは話し相手の女を家に連れて来ることもよくあった。

キタは放っておいて好きにさせていた。

暗くなって怖いというその女たちの帰り道を送りに出たりもした。

 キビもまたキタのそばにいるとなぜか心が落ち着いた。

嫁ぎ先から戻ったときはどれほど責められたか知れない。

 近隣の者はキビをよく知っていた。

そしてキビを通じてキタの存在を知った。

さらわれた集落で生まれ育った子であることを伝え聞いて

その人々もキタを放っておいた。

☆113

 冬を越え、春を迎え夏となる。

キタはその故郷の四季を見届けた。

そしてある日、刺繍していたキビに唐突に言った。

「この家を出る」と。

 キビは驚いて訊いた。

「おまえさん、家を出るって?そしたらどこへ行くのさ」

「山だ」

「山?」

「海はもう飽きた。おれは山へ行く」

 庭を見たままのキタの横顔を見てキビは考えていた。

「ふぅ~ん、山ねぇ、おまえさん、山は怖いよ?海のほうがいいよ」

「いや、おれは山へ行く」

キビは縫いかけの刺繍を見つめて「山ねぇ~」とささやいた。

 それはキタのふたたびの放浪癖だった。

そしてキタはその日以来、家にある荷をまとめだした。

それを見てキビはどうしたものかと考えていた。

 そして自分もキタに付いて行くことを決めた。

集落の実家から荷をまとめキタの家へと揃えていった。

そんなキビをキタは放っておいた。

 明日、この浜の地を離れるという日の午後、

キビは揃え終えた自分の荷を背負って実家へと戻って行った。

それにあわせてキタはキビの父親をその集落に訪ねた。

 キビの父親はすでに娘からキタと行くと決めたことを聞いていた。

キタは貯めた金のうちから相応の額をキビの父親に渡した。

それは少ない額ではなく、むしろ猟師が驚くような額だった。

 「娘さんがおれに付いて来ようがかまわないが、

おれは一緒に来てくれなどとはひとっことも言っとらん。

おれに付いて来てキビがどうなろうとおれは知らんぞ」

キタの言葉に父親はただ頭を下げているばかりだった。

 次の朝、キタは戸締りを済ませてその家を出た。

庭へまわり実らせて取らずにおいた野菜をいくつかもいだ。

荷は背にしょった少し大きめの袋ひとつである。

 歩き出して振り返り見れば生活していた家はそこにある。

―結局、あの家の持ち主は戻っては来なかった。

自分もあの家へは戻らないのだろう。

 海岸への途中の道の墓の木立の木々が揺れた。

 海へと抜けたキタは海岸の岩に腰掛けて取った野菜を食べた。

そこはキビの集落の浜へとつながっている。

しばらく見ているとその集落の浜に数人の人影が現れた。

そしてそのうちのひとりが集落を離れこちらへと歩きだした。

 海岸線のその人影は家族と別れてきたキビである。

キビはときどき振り返り集落の人影へと手を振った。

集落の人影も手を振り返しているのが見える。

 キビは先に待つキタの姿を見つけこちらへも手を振った。

キタはそれを見ていた。

荷を背負ったキビは小走りしてキタの待つところへとやって来た。

「おはよう、おまえさん。待たせたかい?」

 息を弾ませた笑顔のキビにキタは集落の浜を指差した。

キビは振り返り再び集落の影に手を振った。

手を振り終えてキビは言った。

「おまえさん、これ少し渡し過ぎだよ、ほら」

そうしていくらかの金をキタに突き出した。

 聞けば昨日キタがキビの父親に渡した金が多過ぎると、

父親から少し返してもらって持ってきたのだという。

ずいぶんとしっかりした女だな、とキタは改めて思った。

持ってきてしまったものだ、仕方がない。

キタはそれをキビに取らせたままにして歩き出した。

キビもその後に付いていった。

 海岸線をしばらく歩き、ふたりは立ち止まり振り返った。

緩やかな浜の曲線の先、キビの集落にその人影が小さく見える。

そこはまたキタの育った集落のあった場所でもあった。

ふたりの故郷でもある。

 キタとキビは黙ったまま潮風に吹かれてそれを見ていた。

そしてまた歩きはじめて再び振り返ることはなかった。

☆114

 そこは山々に包まれた土地である。

朝霧に包まれて山頂は見えない。

冷気が山肌をなめるように動いていくのが見える。

夜が明けようとしていた。

 あたりはまだ薄暗い。

山と山の間を縫うように渓流がある。

河は大きくその流れはゆるやかではない。

その山裾から河岸へとひとり男があたりをうかがい歩み出てきた。

武装し刀を抜いている。

 それに続いてもうひとり、やはり武装し刀の男がその河岸に姿を見せた。

ふたりはそれぞれに河の上下、そして山々の上下を見渡し、

出てきた方角へ刀を上げて合図した。

その合図に山裾から武装した男たちがさらに降り現れた。

 鎧で黒光りするその集団の真ん中には色美しい装いの女たちがいた。

数人の若い女たち。

それは侍女たちである。

そして白髪の女、それは乳母である。

 それら数人の女たちに囲まれてさらにひとりの女が立っていた。

その中央の紫と朱の装いの白い女、それはこの王国の王妃であった。

そしてその妃は懐に何かを抱いている。

そしてそれに手を添えて慈しんでいた。

 まわりの女たちはその様子を見守りながら妃の姿に祈りを捧げた。

さらにそのまわりを武装の集団が取り囲み周囲を見張っている。

かすかに揺れる鎧の音、霧が動いていく。

 朝直前の静けさ、渓流の流れる音が山々に響いている。

薄闇の中、妃は河岸へと歩み、ほかの女たちも一緒に進んだ。

兵士がふたり、後ろから歩み寄り籠らしきものを置いて下がった。

 妃は懐に抱いていた包みのようなものをその籠に託し置いた。

女たちはその籠に詰め寄るようにして覗き込みさらに祈り続けた。

白いひげの老兵が歩み寄り女たちへ急ぐようにと進言した。

 そして妃は自らの手でその籠をその岸へ押し流し放った。

女たちはその様子と流れだした籠を見てひざまずき泣いて拝んだ。

籠は岸辺からゆっくりと流れ出てその渓流に押し流されていった。

 女たちは立ったままの妃の足元に集まり抱き合ってそれを見送った。

兵士たちもその籠の流れていった先を見つめている。

 白いひげの老兵に促がされ女たちはそれぞれに立ち上がった。

その兵士は立ち尽くし放心の妃の前にひざまずき頭を垂れて進言した。

そして女たちは妃を中心に出て来た山の裾野へと護衛され戻っていった。

 河岸から山の中へとひとりずつ、ひとりずつと入り消えていく。

最後のひとりとなった兵士も周囲を窺いながら山の中へと消えた。

誰もいなくなったその山あいに再び渓流の流れる音だけが残された。

 その冷気の中、流された籠はすでに遠く見えない。

霧のこもる巨大な山々を照らしながら朝陽が昇りはじめた。

光が霧を晴らし消し去っていく。

☆115

 流された籠はその渓流を下る。さらに下り、下り。そして流された岸からは遠く離れていった。
 籠の流された場所は最も内陸に位置する奥深い場所である。それよりも海寄りの山々があった。とはいえその山も海からは遠い。そこに生活する人々のほとんどは海を知らず見たこともない。
 その場所は炭の生産地であり炭焼きのための窯がいくつも点在していた。窯からの煙が数本、山から空に立ち昇っている。そこで商いをする者たちの間で近頃よく話されることがあった。
 それは山の民に関するものだった。この山よりさらに内陸に進んだところにその王国は存在していた。最も深い山の国に住むその人々は山の民と呼ばれていた。しかし実際にその場所へ行ったことがある者はこの炭焼きの山にはいなかった。
 その最奥の山に位置する王国には独自の王族が存在した。そしてこの王がキサラギの朝廷の支配下に属することを拒んでいた。朝廷はこの山の国へ侵攻し戦争となった。
 炭焼きの山で語られたそれはキサラギの軍勢が山の民を征服したということだった。
 炭焼き場にあわせてそこにはいくつかの物見の大木が存在していた。それは山々の木々のうちでもより高く強固な木に登れるように足場を作った見張り場である。
 そこから内陸を見れば遥か遠くに黒い煙の柱が天上までに立ち昇っているのが見えた。その高い場所からその異様に高く昇っている黒煙を見た男たちは「あそこが山の民のいる場所だ、あんなに遠く」と驚いていた。
 それは戦火であり夜に吹く山風はその山の民の悲鳴を山伝いに運んでくるようで皆怖がっていた。

☆116

 炭焼きの山にはたくさんの窯があった。小さい窯、大きい窯。その中でも巨大な窯がいくつかり、そのそれぞれの巨大な窯には寄生するようにして、それぞれの集落が存在していた。それぞれの集落はそれぞれ村として機能していた。
 その山の近くに渓谷があり人々にとってそこは上流からの荷が届く場所であった。炭焼きの人々は自らの山々からは伐採をしない。もし伐採すれば自分たちの居住する空間、その周囲の環境が変わってしまうからである。
 炭とされる木材はそこからかなりの距離を上流へのぼった場所で切り出された。切り出された木々は渓流の流れにのせて渓谷の船着場まで届けられ、それを人々は炭にした。
 渓谷は見晴らしがよいぶん外部の人間の出入りが掴める。それにここは一望できる岸のせいでつなぎ並べた木材の所有に関する問題も生じなかった。
 炭焼きの人々は炭をさらに下流の場所へと運び金品と替えた。舟で水路を行くときもあれば馬で山道を行く者もあった。その下流には小さな街の市場があり炭は高く売れた。山奥でありながらも人々は生活に困らないでいた。
 その炭焼きの集落を度々訪れる男がいた。白髪であり髭もすでに白い。短くされたその髭は男に孫のいないことをあらわしている。その老人の足取りはしっかりとしており腰も曲がってはいなかった。
 その老人は若い頃、この炭焼きの集落のひとつ、そのはずれに住んでいた。妻とふたり、子供はいなかった。遠い海岸寄りの平野から来てこの山奥へと移り住んでいた。
 山に住む人々には最初ふたりは珍しい夫婦に見えた。そして時間の流れと共にその集落と山の生活に馴染んでいった。
 老人はその若い頃、上流で木々を切り出し、それを渓流に流して渓谷の船着場まで運ぶ役目を担うようになっていった。荷を届け再び上流へと山道を上っていく。木を切り出しそれに乗って渓谷まで渓流を下って行く。きこりの船頭だった。

☆117

 山の窯で炭を作ることと窯自体を所有することは、その山で生まれ育った者でなければ許されなかった。それで老人はその若き日にこの山で炭を作ることはしなかった。遠い上流で伐採を続け資源を集落へ届け続けた。
 そのうちに老人は集落の山を離れた。集落からさらに上流の場所に家を建てた。貯めた金を使って集落の男たちに建てさせた。そしてその離れの一軒家に妻とふたり、住み着いた。
 歳をとるにつれて木を切り出すことはやめた。渓流に乗ることは続けていたがそれもいつしかしなくなった。
 河下りをやめてからは森の小枝や芝を刈って炭焼きの集落へ届け売るようになった。それでときどきその老人は集落へと顔を出すのであった。
 
 その日、老人は炭焼きの山のうちのひとつの集落へとやって来た。拾い集めてちょうどよい長さに切り揃えた枝、干して乾かした芝、それらをそれぞれにいくつか均等にわけて結わき、その背に担いでいた。道の途中の何件かでそれをいくつか売りわけた。
 老人の荷をいつもまとめて買い上げる家がある。老人はその家を訪ねてその荷の残りのすべてをその家で金品と交換した。老人を出迎えたその家の主も年寄りであったが、ふたりは若い時の仕事仲間でもあった。
 老人はその家の主に背の荷のほかに包みを手渡した。家の主は笑顔でその袋を受け取ると大事そうに軽く頭上に持ち上げた。そして「いらん」という老人の懐に無理矢理に「いいから」とあらためて金をねじ入れるのであった。
 ふたりは軒先に座った。家の主は茶を用意し受け取った袋の中に手を入れた。それは笹に包まれて甘く味付けされた団子であった。家の主はそれをひとつ食べて言った。
 「いゃぁ~うまい、これが食いたかったんだ、ありがとうキタ」
 そしてしばらく話をしたがそこで出てくることといえばキサラギに滅ぼされたという山の民についての話であった。

☆118

 午後からは軽く雨になった。その山にある祠の鳥居をくぐりその境内で物売りを済ませた老人は雨を見つめていた。そしてキサラギが侵攻したというその山の国を想った。
 老人は考えていた。それらは噂に輪のかかった類の風説であると。しかし遥か遠くの森の地よりその異様な黒煙は確かに上がっていた。老人もそれを確認していた。
 老人がその妻と住まう一軒家はこの炭焼きの山々よりさらに上流の地、その内陸に位置する場所にあった。そして老人はそこに自らの物見の木、周囲を監視するための高台をその若き日より独自に備え持っていた。彼は常にそこから周囲を監視していた。
 その監視は今日までに続きその足腰はまだ弱ってはいない。日ごと老人は朝に夕に、その高い木に打ち付けた楔に足を掛けその大木の先端近くに登っていた。そしてそこよりさらに内陸部で異様なほど高い黒煙が上がるのをつい最近目撃していた。
 それは二日前である。
 それから推測してその内陸にあると言われる山の民の王国が二日前以前に壊滅するということはありえないことと考えられた。もし王国が陥落したとすればそれは黒煙の上がった二日前、もしくはそれ以降のことだと老人は考えていた。
 だとすれば山の民が滅ぼされたのは、昨夜か、一昨日のこととなる。
 雨は緑の山々をその背景に音もなく降り注いでいる。誰もいない山奥の境内。誰が建てたとも知れないその鳥居の佇まい。
 山の民に突然に降りかかり襲うような衝撃であったであろうその戦火をひとり憶測立てた老人は背筋がしびれるような寒気を感じて硬直した。
 ではなぜ炭焼きの人々が山の民はすでに滅ぼされてしまったと口々に言い合っているのか。それこそがまさに風説であることの証拠であると老人は確信していた。
 それは意図的に流された情報であった。その首謀者はキサラギの朝廷である。朝廷はこの時、天下泰平を実現し遂げるために躍起になっていた。しかしそれに反するように各地では問題が次々と勃発していたのである。
 そのうちのひとつが近隣の小国の独立運動である。また士の暴虐の動きも問題であった。

☆119

 キタは年寄りとなってこの山奥に暮らしていた。
 彼がこの炭焼きの山へ来るまでにどこで何をしていたか、それを知る者はここにはいない。そしてそれはキタの本望でもあった。
 さらに時が全てをさらっていった。キタの過去、時はそのすべてを消し流していた。それもキタの本望であった。
 しかし今、老いた彼の身に不穏のようなものが迫っていることをキタ本人が強く感じていた。わずか隣に栄えていた王国が滅ぼされたのである。あのキサラギに。
 キタの考えではそれは昨日、もしくは一昨日の出来事であった。つい今のことである。それにキタは怯えていた。
 さらに集落の人々は噂に振り回されて誰ひとりとして何が実際に起こっているのかを把握していないでいる。キサラギがかなり以前に山の民を平定したかのように人々は語りつないでいた。
 キタにはその現状がさらに恐ろしく感じられた。人とは何と踊らされるものなのかと。
 鳥居を出て集落を離れキタはその帰り道、知り合いに声を掛けられたが返事もままならずに歩いて出て行った。集落からさらに上流にある自分の家へと続く小道に出てさらに歩速を早めていた。
 両脇に茂る木々に小雨は遮られ雨音は一切しなかった。自らの足音のみを聞きながらキタはひたすらに歩いていた。息が上がる。それでも足を休める気がしなかった。
 山の民、その王国の消滅―。
 キタには確かにそれについての心当たりがあった。

☆120

 キタがその貯めた金で建てた一軒家、それは集落から離れている。近くはない距離であったが男が歩いて遠くない距離であった。
 日暮れまでには充分に二、三往復できる距離である。しかし夜には女子供は怖がる山の小道であった。その小雨の日の午後、まだ明るいうちにキタは自分の家へ帰った。
 開けたままにしてある戸を入り担いでいた荷を下ろす。その土間に腰掛けて静かな室内に振り向いて声を掛けた。
 「ばあさん、おばあさんや」
返事はない。キタはその草鞋を脱いで桶の水の雑巾でその足をぬぐった。
「おばあさん、帰ったぞ」
キタは部屋へ上がり見たが人の姿はなかった。
「ん~畑かの…」
 三つある部屋のそれぞれを見て歩いてキタは縁側に腰を下ろした。明るい空に小雨の降る様を眺めていた。
 思い出したようにキタは室内を振り向いた。その目線の先には刀が置かれていた。一本ではなく数本もの刀が。
 ある刀は鞘のないまま、ある刀は鞘に収められ飾りの綱の垂れ下がったまま。数本の刀はその部屋の隅でそれぞれに鈍い光を放っている。
 キタはさらにその横へと視線を動かした。そこには何体かの鎧のいくつかが無造作に置き積まれている。兜から何から数体分の甲冑がそれぞれ分散されていた。
 この家のすぐ近くを渓流が流れている。そこに仕掛けておいた網にそれら散り散りとなった武具が掛かりはじめていた。それは昨日からのことである。
 それら武具が上流の山の民の物だとキタは直感した。


101~111

☆101

キタはその女とそこで別れた。

キタはあの空家へと向かうためにそのまま海岸を歩く。

女はキタの背を見ていた、海の夕陽とかわるがわるに。

そうして自分の家へと入って行った。

キタは渡された包みに何が入っているのか気になった。

そしてこの夕陽を見ながら食べてしまおうと、

途中の浜に腰掛けて包みを開いた。

包みにはやはり何かの刺繍が施されていた。

―刺繍が好きなんだな、あの女は

中はまた団子だった。

ひとつひとつそれぞれが焼き海苔にくるまれている。

食べてみればその中には擦りつぶした梅の中に

さらに刻んだシソが添えられているらしかった。

―うまいな、また

冷えてはいてもその団子はうまかった。

―あれは料理の上手な女なんだ、きっと

キタは海に沈む夕陽を全身に浴び全部を食べた。

その夕陽に失われた自分の家族を重ね見ていた。

近頃は金も持ち腹をすかせることもなくなった。

家族にもっと何かできただろうにとも思った。

自分が以前とは違い優しくなれるような気もした。

それにしてもこの悲惨な現状はなんなんだろう、と。

そう思うとじっとしていられず体を揺すった。

「キビか・・・あの女の名・・・」

キタは呟いていた。

秋の海の風に

☆102

そしてキタは墓場の道を越えた所にある

あの空家に住むようになった。

誰もそれを責めたりはしない、

そんな場所だった。

日が昇り明るくなるとキビは走ってやって来た。

いつも必ずその日の朝の飯、そしてその日の夕の飯と

それを包んで置いていった。

おまえさん、おまえさんとキビは言う。

名前を教えたのだからその名で呼べば良いのにと

キタは思った。

次第にいろいろとわかってきた。

自分がここを捨てた頃、キビの家族が越してきた、

ここにキビの親の親族がいたために移住した。

そしてここからキビは嫁いだがその亭主が悪かった。

毎日殴られてその左目が見えなくなりそうだった。

その暴行に子供の産めない体になった。

亭主はある夜酒場で暴れて殺された。

それで独り身になりこの浜へ戻ってきた。

嫁ぐという売りに出した父親もその子に情はある。

ずいぶん苦労したのだなと、キビの父は思った。

それでその家に置いた。

その家がその浜のあの集落の一軒である。

キビは一度は嫁いだがその片眼を失うほどに

殴られて旦那は死んで再度帰ってきた女として

その集落と周辺に知られた海女であった

☆103

キタはその家の前の雑草を刈って小さな畑を耕した。

なるものであればなんでもいい、腹の足しにはなる。

海に出て漁をしてもよかった。

しかし舟が無い。

ある日、キタはキビに訊いた。

なんで自分の家のあった集落がさら地になったのかと。

廃屋のまま残されていてもいいはずだとキタは思った。

キビはそれに答えて言った。

キタの集落とキビの集落は争っていた、漁場のことで。

それで士の来ることをキビの集落は早くに知ったが

キタの集落には知らせなかった。

それでキタの集落だけが連れ去られていった。

キビの集落はキタの集落に残されたものを略奪し

その後それぞれの家に火を放ったのだという。

海につなぎ残された舟もキビの集落の物となった。

「いやだねぇ、人なんてもんはさ、ね、おまえさん」

キビは忙しく辺りを拭きながらキタに言う。

キタは黙ったまま造った庭を見つめていたが、

キビはいつの間にかこの家に居ついているのだった。

土間の続きの台所で忙しく蒸かし物を作っている、

午後になれば縁側に座って縫い事をし、

暗くなる前にひと通りを済ませて帰っていく。

漁で取れた魚もこの家でさばき干すようになっていた。

とにかくよく働く、そしてこの家に居ついていた。

キタは黙ってそんなキビを放っておいた。

―好きにすればいい、女が

ただ自分の服を洗濯され干された日には腹がたった。

丸裸で縁側で憮然としていたがキビはそれを気にしない。

昔入れた背中の刺青を見て「なんだい、これは」などと

茶化したように訊いてきたりする。

その脳天気には言い返す気も失せたキタだった。

秋風にくしゃみをこいてキビに馬鹿に笑われていた

☆104

キビはとにかく料理の上手な女だった。

見てみればそれは蒸かしたジャガイモだった。

食べてみればその中に焼き団子が仕込んである。

その香ばしい団子の中にさらにウズラの卵が入っていた。

―うまい、それにしてもよくこんな風に思いつくものだな

キタは感嘆しキビの用意する食事が毎日の楽しみだった。

―今日は何を持ってきてくれるのかな

ある日キタはキビにいくらかの金を渡した。

ただで食べ続けるわけにはいかないと、キビに説明して。

そうこうしているうちにキタはこの先を案じた。

―どうするかな、金もいつかは底をつく

その週は市の立つ週だった。

この近くの街道に漁家や農家がその収穫を並べ売る。

わざわざ遠方から飴や菓子を売りに来る者もいた。

薬屋も来てここで店をひろげた。

キタはその市へ出かけた。

子供の頃、こんな市場の記憶はない。

―ずいぶん人が集まるようになったんだな、この辺も

街道の両側は物売りの賑わいに人だかりがしている。

遠く、買い付けに来ていたらしいキビの姿が見えた。

キタはその姿を見ていたがキビは売り子にさかんに

値切っているらしく忙しく指を立てて交渉していた。

そうして目的の物を買い付け次の売り場へと足早に

人並みをくぐって行くその姿。

キタは自然と微笑んでいた

☆105

秋が深まりつつある。

ある時、キビが起こした炭で団子をいぶっていた。

醤油の香ばしい匂いが立ちこめる。

それを見にキタは台所へといった。

うちわを片手にキビが団子に醤油を塗っている。

その香りと手際の良さにキタはしばらく見ていた。

しばらくしてキビは焼き上がった団子をひとつ取り

これもまた自分で作った焼き海苔にくるんで

キタに手渡した、「おまえさん、さ、食べれ」と。

焼き上がった団子のその香り、食べればうますぎる。

「ん~」

キタは団子を口にして小さく唸った。

「どうだい、おまえさん、うまいかい」

キビは焼いた団子のそれぞれに海苔を巻いていく。

そのひとつを自分も頬ばって「うん、うまいね」と

確認するようにして言い切った。

キタは考えていた。

―この団子、売り物になる

そしてその日、キビに話をしてみた。

今度の市場にこの団子を売りに出そうと、 

あそこでこれを出せば十分な儲けになる、と。

キビは「恥ずかしいや」と嫌がった。

それなら作るだけ作ってくれ、と

焼いて売るのは自分でやるから、と。

キタはそう言ってキビに団子を用意させた。

そして焼き方の加減を教えてもらい

市の立つ日に備え炭から何まですべて用意した。

そして市の日にその団子を焼いて売りに出したが

これがすぐに売り尽くしてしまった。

次の市も、その次の市も、その次の市もである。

キタはそれで金の心配がなくなり冬支度ができた。

市の団子は評判となりキビもその仕込みに忙しく

海に潜っていたときよりも潤って喜んでいた。

秋が盛りとなった頃である。

ある人が食べた団子をキタに尋ねた。

これはなんという団子かと。

それに対してキタは黙って考えていたが

しばらくしてぶっきらぼうに答えた。

「キビ団子だ」

☆106

キビ団子とキタが呼んだそれはよく売れた。

後に似た店で団子を売りに出した者があったが

キビ団子にはかなわなかった。

薄く酒を混ぜそれにきな粉をまぶした水団子やらと

キビは次々と人の思いつかないものを調理して整えた。

そしてそのどれもがすこぶるうまかったのである。

市場での買い物に腹をすかせて歩くその買い手は皆、

キタが用意したキビ団子に正午前から群がった。

瞬く間にキタの売るその団子はその市のひとつとなり、

そこを訪れる者は皆キタとキビが夫婦だと思っていた。

その店の女が男に「おまえさん、おまえさん」と

夫を呼ぶように連呼していたためである。

キビはまるでキタの嫁のように見えて当然だった。

キタもそれをわかっていた。

「なんで亭主呼ばわりされているのか自分は」とも思う。

それでもキタはいつもそれを放っておいた。

そしてキビにはとにかく好きなようにやらせていた。

その前の亭主とのことを思いやったわけではない、

―何を人にどう思われようが構うことはない

キタはそう思っていたが団子は飛ぶように売れ続けた。

そしてキビはますます闊達に忙しく働くようになった。

そして何よりますます明るくなっていったのである。

そのキビの様にキタはその自らの命を救われていた

☆107

市で団子を売るようになった最初の頃である。

午前中に売り切れるほどにはまだ知られていない頃。

それまではキタがひとりで焼いて売りに出していたが、

その日の団子の加減は難しいから自分で焼くとキビは言い、

はじめてキタと一緒に市場に売りに立った。

キタにそれまで持たせた自分の団子が残らずに売れたことに

キビは気分を良くしていた。

団子はキビに焼き上げられ味付けされ並び出されていった。

その間キタはその市で厚めの上掛けが売られているのを見た。

―ああ、あれは冬にいいな

しかし持ち合わせではとても金額が足りなかった。

それでキタは家に金を取りに戻って平気かとキビに訊いた。

キビはすでに慣れた様子で団子を売り出しいる。

それでキタはキビに団子売りを任せて一度家へと戻った。

市場と家までは歩いて遠すぎずそこそこの距離である。

その道の途中、これから市へ行こうとする男と会った。

近所で顔見知りになった男で立ち話をしたぶん時間を喰った。

キタは家に戻り必要な金を揃えて、また市場へと向かった。

まだ昼飯時になる前の時間帯であった。

そうして考えていたよりも遅くにキタは市場へと戻ったが

キビは何やら持ち道具の後片付けをしている。

「どうした」と訊けば団子はすべて売れてしまったのだという。

満足そうな笑みを浮かべてキビはキタに説明した。

馬に乗って兵士らしい数人がこの街道を市場沿いにやって来た。

男たちは皆、武具を持っていたという。

午前中、彼らは団子を買ってそこで食べはじめた。

見慣れない男たちの風体とその馬にキビは半分驚いていた。

そして男たちは皆キビの団子を「うまい」と盛んに頬張っていた。

男のひとりが用意していた団子をすべて買い占めたのだという。

普段の売り上げの二倍はある額の金をキビは男に渡されていた。

キビに見せられたその金にキタも感心していた

☆108

その買い占めた男はキビに訊いた。

「この団子は何という団子ですか」

キビはそれになんとなく自然のままに答えていた。

「キビ団子です」

「キビ団子、ふ~ん聞かぬ名だな、うん。

うん、それにしてもうまい団子だ、キビ団子か。

キサラギにもこのようなものはないなぁ、うん。」

そうしてキビに向け大きく笑ってうなずいて見せた。

そのキビの話にキタは一瞬思い出していた。

キサラギのことを。

昔、家族と集落を捨ててキタが最初に向かった所、

それがキサラギだった。

キサラギに着いたキタはその一軒に入り注文をした。

はじめて訪れた帝都の活気にキタは意気揚々としていた。

しかし注文したものはいつになっても運ばれてこない。

自分より後に注文した者たちには運ばれているのに。

キタはどういうことかと店人に詰め寄ったが

店の者はキタをまったく取り扱わなかった。

そして田舎者はよそで食べるようにとキタに示した。

自分が田舎者として馬鹿にされていることを知り

キタは赤面して店を出た。

それはキサラギでの忘れられない出来事として

今もキタのうちに苦々しくも思い出されるのである。

キタがそんな過去の出来事をそこで思い返していたとは

キビは知るわけもない、続けてキタに語って聞かせた。

その買い占めた男はとても体が大きくて背が高かった。

そして大きな黒い馬に乗って南へとこの街道を行ったという。

キタはここで我に戻った。

「その人はこ~んな長い弓を持っていてな」とキビは言った。

それを聞いたキタは「その人はここに」と自分の眉間を指し、

そして「大きなホクロがあっただろう!」と訊いた。

キタはキビの話からすぐに直感した。

―その買い占めた男というのは、ツジのあの弓の人だ、

 キサラギから大陸へ渡るために南下して行ったのだ、と。

そしてその通りだった。

その馬の男たちはキサラギから南の港へと向かう途中、

この街道の市場を通過した、大陸へと渡るために。

キビから団子を買い占めた男、それはあのキジだった。

ツジ鎮圧の後、朝廷から渡航の刻印を受け南下していた。

キジはこの時、大陸に何が待つのかを思いもしない。

そしてキタはわずかなところでキジにすれ違ったのだった

☆109

キタは目当てだった厚めの上掛けを買った。

そして荷をまとめたキビと市場の一軒で食事をした。

そのふたりの姿は夫婦に見えた。

知り合いの女を見つけキビは声をかけた。

そして食事を忘れてその女と話し込んでいる。

キタはそれを横目に自分の食事を済ませ荷を持ち立った。

ふたり分の勘定を払い黙ったまま行こうとした。

「悪いね、おまえさん。わらすは市見ていくからさ。」

キタは振り向かずにそこを出た。

「おまえさん、後でおまえさんとこ寄っからね」

キタはキビの声に無反応のまま歩いて行った。

「なんだえキビ、あの男はほんとに愛想が無い人だねぇ」

キビにつかまった女はキタの後姿を見て言った。

「それにしてもあんたたち、できてんだろ?な?ほれ」

「そんなんじゃないよ、やだねぇ、あんた」

キタの背を見ていたキビは静かに笑って目を伏せる。

「いつも一緒でいいね、おキビさん。一緒になればいいが」

応えずに再び食事をはじめたキビに女も話しに戻った。

「それでさ、わらす、あの馬鹿女にね、言ってやったのさ」

どうやら女ふたりの話し合いは限りなく続く気配である。

女たちを置いてキタは秋の市、その街道をくぐって行った。

そうして考えていたのはあの弓の人のことだった。

―あの人はこれから大陸へと渡るのか

あのツジでの弓の人の姿がキタの閉じた目に浮かぶ。

目を開ければ市で賑わう人々、高い空、色づく木々。

普段キタは、あの飢饉の悲惨を思い起こすことはなかった。

目の前の故郷は家族を失ってもいまだそこに存在している。

美しいふるさと。

この日がキビの団子が昼前に売り切れた最初であった。

「キサラギにもないキビ団子か・・・」

キタはつぶやく。

弓の人がそのように言ったとキタはキビから聞かされた。

後にキタは客に問われてそれをキビ団子と答えた。

それはこの日の出来事による。

運命の意図。

それがキジにキビ団子と呼ばせた

☆110

庭に育てたいくつかの野菜が実っている。

キタはそれを手に取り見やった。

潮騒。

聞こえるはずはない、この家は海岸からは遠い。

途中の墓場の道、そこに立つ木立が風に揺れた。

キタはこれからの冬を想った。

寒く暗く長い海辺の冬。

少年の日。

吹雪く浜辺。

その横吹く風。

遠くが見えない。

次の日、雪は止んだ。

冬の空。

その垂れ込めた灰色。

揺らぐ沖の波。

鳥が流されていった。

キタは見上げた。

それに比べこの陽射しの柔らかなことを。

このあたたかな午後。

潮騒。

大陸へと進む船団。

時は流れる。

何もかもを置きざりにして。

そしてキタは浜へ出た。

ひとり、ゆっくりと。

どこまでも歩いていく。

どこまでも。

その遠い海岸線に小さなキタが見える。

沖からだったか、それは。

それでキタは立ち止まった。

音がしたように聞こえた、たった今。

鐘の音が聴こえたような。

その音は清く澄んでいた

☆111

鐘の鳴る

鐘の鳴る

海に山にその丘に

鐘の鳴る

鐘の鳴る

あなたの暮らすその場所に

あなたの眠るその場所に

鐘の鳴る

鐘の鳴る



鐘の鳴る

鐘の鳴る



鐘の鳴る 第2章 終

089~100

☆089

その宿場で僧と犯罪者たち、馬に乞食を乗せた噂の一団が通過し、

それを見送ったキタである。

彼もその一団の後を追うようにその街道を下っていった。

中庭に湧き水のあるあのツジの屋敷から持ってきた反物、

その残りの物はすべて金に換えていた。

持っていた釜や器もすべて食料と交換して今は無い。

道端で自炊などもうやらない。

背に袋ひとつ、都からの普通の旅人と化していた、今のキタ。

その容貌からは彼が飢饉の都市をさまよっていたなどとは

誰も想像できないほどの短期間での変身ぶりだった。

出来るだけ身を軽くして、懐は暖かく。

それが今のキタである。

途中、街道を外れ山道を進んだ。

これを越えると海がありその海岸沿いの道を行く。

そこはキタがその幼少を過ごした場所である。

キタはその地形のすべてに見覚えがあった。

潮の香、遂に自分は故郷へと帰ってきた。

彼は漁村に生まれ育った長男である。

そして親を恨み、その地を離れた。

それから流れた幾年月と放浪。

そのキタは歩きながらも夢想していた。

父、母は今はもう働くのをやめているかな、

代わりに弟たちのうちの誰かが海に出ている。

弟たちには子供ができていて暮らしが大変かもしれない、

妹たちはどこかへ嫁いでいないだろうな、

あとで嫁ぎ先へ会いに出かけてやってもいいだろう、などと。

陽に映える木々と山々を右手に、そして海を左手に、

キタはその何年ぶりもの帰郷にひとり高揚していた。

初秋の海の柔な光、その透明な空気、波の音。

自分の足音が楽しい

☆090

しかし彼の育った漁村、それはさら地になっていた。

何軒も汚いボロ小屋が寄り添うように暮らしていたはずだった。

奥は小高い山、そしてその木々がキタを見つめている。

―おまえは帰ってくるのが遅すぎた、と。

「嘘何で」

キタは身が凍った。

その緑に囲まれたこの浜に自分の家は確かにあった。

何家族もがここで暮らしていた、それぞれの家で。

それなのに今、そこには誰もいない何もなくなっている。

キタはその海を背にしばらく立ったままで放心していた。

秋にその色を変えていこうとする山の木々、そしてその空、

それらの美しすぎる様がこの現実のむごさをさらに浮き立たせた。

確かにここに自分の家があったはずである、しかし何も無い。

何で

☆091

立ち尽くすキタの後ろを午後の仕事へと向かう海女たちが通った。

女たちは見慣れないキタの背に会話をやめて通り過ぎていったが

その中のひとりがその列を離れて立ち止まりキタを見ていた。

そしてそのひとりの海女がキタのそばへと歩き寄って来て言った。

「おまえさん、何しとるのかえ」

キタはその背後の気配と言葉に振り向きもせずに逆に尋ねた。

「ここに何軒かも家があったろうがな、皆どこへ行ってしもうたが」

それにその海女は答えた、

「おまえさん、そいつはいつの話だえ、そんな前のこと誰も知らんがの」

「いやここにわらすの家があったんだすけ、お父もお母もおったんだがの

弟や妹たちもおったんだがな、誰もいなくなってすまっての」

「何だおまえさん、ここの生まれなのけ」

「だす」

「おまえさん、何も知らんのけ」

ここでキタは女に振り向いて言った、

「何がだす」

「もう何年か前だすけ、この場所は襲われてさ、みな連れてがれたのさ」

「連れてがれたて?誰にさ」

「士にさ、士がここへ来て皆連れて行ったんぞ、誰も戻らね、それからせ」

「士がと?」

その頃、新しい商売としては人身が売買されるようになっていた。

そのための巨大な市場が形成されはじめており莫大な金が動いた。

その利益を求める者たちは組織的に人をさらうようになっていた。

小さな村落、離れの家々などは必ず集中して人がさらわれていた。

最も高く売れるのが子供であり、そのうちさらに女子には高値が付いた。

それら人さらいの者同志の間でも激しい攻防があり、そのうちの一部、

それらがまず武装するようになり人さらいを組織的に進めた。

彼らはさらに騎馬の軍団を形成し各地の村落を襲うようになっていく。

その彼らが自らのことを士と名乗っていた。

これが後に武士と呼ばれさらに侍のはじまりとなっていく。

この士の横暴は朝廷にも伝わり問題視されはじめていた。

その海女が言うにはキタの故郷であるその海辺の村落、

そこを士が襲い皆さらわれていったというのであった

☆092

キタはそのさら地の隅に腰掛けて黙っていた。

自分が取り返しのつかない過ちを犯してしまったことに気付いて。

―生き別れたか・・・

家族とは二度と会わない、それは以前の自分が望んだことであった。

―それが今日、叶ったわけだ・・・

自分がそこにいたとしても家族を救うことはできなかったか、

母親ひとりくらいは助けることができたのではないか、

皆どこに連れられていったのだろう、

売り物にされてしまうとは・・・。

「おまえさん、この辺りでは見ね顔だ」

気が付けばキタに事を教えたあの海女がすぐそばに立っていた。

キタは答える力が入らなかった、それで女を無視していた。

女は首を傾げてキタの表情を真顔で覗いている。

秋の海に陽は傾き、その輝きが浜を照らしだした。

その暮れ行く波音を聞きながらキタはそのまま座り込んでいる。

いつのまにか女はいなくなっていた。

だいぶ前に入れた腕の小さな刺青のひとつに涙が落ちた。

背後の小高い山の木々が風に揺れてひどく大きな音がした

☆093

「おまえさん、」

その声にキタが見ればさっきの海女が着替えて立っていた。

「これ食べなね」

そうして女は小さな包みをキタの懐に手渡してやった。

感触で何がしかの食べ物らしいものが入っているのがわかる。

「野宿かえ?」

女の質問にキタは黙っていた。

この陽気の中、海辺での一夜などキタには慣れたものだった。

「この先に海女が使う小屋があるから使えばいいさ、

そこならすぐに火も起こせるでね。それと向こう側にさ、

士に襲われて空き家になったままの家があるんだよ、

ま、中がどんなになってるかは知らんけどね、

わらすには怖くってそばには寄れなんだ、夜なんか怖くって。」

海辺の夕暮れの輝き、それが最大になり沖の波は高く荒れた。

その見覚えのある風景はキタに幼少の頃を思い出させていた。

黙ったままその日暮れを見つめているとキタは自分の体から

ますます力が抜けていくのを感じる、その無念さ。

横向けば女が来た道を戻っていく後姿が小さく見えた。

薄暗いその中でキタはそのまま夜を迎えた。

夜の海、波の影が夜空に交錯する。

その先に見えるいくつかの星。

倒れ見た澄み渡る秋の夜空がひとつの終わりを実感させる

☆094

「おまえさん、おまえさん、」

その声でキタは目を覚ましたが辺りはまだ薄暗い。

それは昨日の海女だった。

「これ食べれね、朝の飯だす」

寝ていた腹に急に渡されたのは蒸された包みで熱くてたまらない、

「あちち」とすかさず目が覚めたキタは上半身を起き上がらせた。

「あはははは、ここで寝とったんかい、おまえさん、」

キタが急に目覚めた様子にその女は笑って言いキタのそばを廻った。

「おまえさん、こんな所で野宿かえ?あはははは、あはははは」

笑う女に目覚めたばかりのキタは「何なんだ」といきなり目がさえた。

そのキタに女は言った。

「昨日の包みを返してくれんかの、もう食べたんだろが」

―昨日の包み?

目覚めたばかりのキタにはそれが何を言うのかわからなかった。

昨日、女にもらったその食べ物の包みをキタは開けないで眠った。

女は真顔になってキタをにらみつけた、そして言った。

「何で食べんのがわれ」

☆095

一夜明けたその朝キタは女の言っていた山向こうの家へ向かった。

士に襲われて今はその家人がいないという空き家である。

周辺の地形はすべて子供の頃の記憶と一致した。

その途中に墓場がある。

誰が埋め建てたのかはわからない墓石群が今も朽ちてそこにあった。

道の両脇は小高い木々に囲まれており女子供には

確かに通りづらいと思えるその道。

夜となればなおのこと、でもそれが人嫌いなキタには心地良い。

子供の頃は自分もこの道は怖くて通れなかった。

そこを抜けた先に女の言った空き家はあった。

キタにはそれに見覚えがない。

キタはその家が自分が家族を捨てた後に建てられたものだと思った。

家は離れに小屋を持った頑丈な造りをしている。

人の気配はまったくしない。

家の前は畑だったらしい痕跡が残っているが雑草で荒れていた。

誰がわざわざこんな所にこんな立派に建てたのかとキタは感じた。

小屋を開けて覗いてみると農機具などがそのままにされている。

―ここの人は漁はしなかったんだろうかな、

それらはすぐにでも誰かが取りに来そうな様子で残されていた。

家屋のほうも汚れてはいたが荒らされてはいない。

部屋数は少ないがそこで確かに生活が営まれていた気配がある。

その一室にその家族の膳がそのままで残されていた。

それを見つめていたキタは涙が出た。

この家屋を家人の帰りを待ちながら整えて管理しながら

ここで冬越えしようかと思った。

帰って来るわけはないと知りながらもそう思った

☆096

その朝もだいぶ時間が経ちキタはその腹を減らしてきていた。

それであの海女にもらったふたつの包み、

そのうちの昨日に受け取ったものを取り出した。

これがあの女が返せと言った包みかとキタは手に取る。

濃紺のそれは良い生地でそこに数色の花々が刺繍されていた。

ああ、あの女がこれを縫い付けたのかなとキタは思った。

それで大切にしている一枚なのだな、と。

包みの中には笹に包まれた団子がいくつか並んで入っている。

そのひとつを手にとって鼻先に近づけてみれば団子はかすかに

醤油の香り、それが軽くあぶられてそのこげが香ばしい。

口に入れた、うまい!

昨日の団子は冷えているのに固くなってもいるのに、うまい!

団子の中には焼き味噌のようなものが入っていたがそれがまた。

うまい!

その香ばしさが鼻にぬけて味わいは喉を通っていく。

キタは残りの団子を次々と食べ尽くしてひとり口に出して言った。

「うまい・・・」

☆097

キタは来た道を海岸へと戻りその周辺を散策した。

あの女の家も含まれるのだろう集落も見た。

以前そこには今ほどの数の家はなかった。

あの女も自分がここを出た後にここへ来たのだろう。

時の流れを感じる。

海岸線に続く風景は昔のままだった。

キタはその海岸線を歩いていった。

懐かしい風景、その潮風に吹かれながら。

午後になりキタは今朝、女からもらった包みをほどいた。

包みは緑色で赤い花のような模様が刺繍されていた。

また団子だった。

今度はその表面に白いゴマがまぶしてある。

ひとつ手に取り食べてみると、これがまたうまい。

今朝もらったそれはまだ柔らかかった。

団子の中には甘く煮た小豆が入っている。

キタは海を眺めながらその団子のうまさに心地良かった。

かなしみを忘れる。

「あ~あ」と。

舌も腹も満足させてそこに横になった。

両腕を組んで頭の後ろにまわして見れば秋空の光がまぶしい。

その空をトンボが渡っていくのを目を細めて見ているうちに

眠くなり、いつしかイビキをかいて寝ていた

☆098

「おまえさん、おまえさん」

その声に目を覚ますともう夕方だった。

あっと思いキタは体を起こすとあの女が立っていた。

「こんな所でなに寝てるんだい?」

女の問いにキタはしばらくぼーっとしていた。

「今日はさ、もっと向こうで漁してたんだ。

帰りの舟で沖から誰かがあそこで寝てるなってさ、

おまえさんかなと思って来てみたら、

やっぱりおまえさんだったね。」

キタはしばらく暮れ行く海を見ている。

キタは女に濃紺と緑のあの二枚の包みの布を返した。

受け取った女は

「どうだったい?口にあっかたかい?」と言う。

女のその問いにキタは平調に言った。

「うん、うまかった、いくらだ」

そのキタに女はあきれて言った。

「やだよ、金なんか」

そうしてふたりは海岸を歩いて来た道を戻って行く

☆099

夕暮れていく海を右手にキタは歩いた。

女もそれに少し遅れてその左を歩いていく。

黙っているキタに女は訊いた。

「おまえさん、なんて名だい?」

「ん?オレか?」

しばらくの沈黙に波音が響く。

「キタ」

「ん?何だえ?き?」

「キタだ、キタ」

「キタ、キタか、おまえさんキタか。キタ」

女はそのあと何も言わなかった。

キタは何で自分の名前を教えてしまったかと自問した。

それはあの団子のせいだ。

あの団子があんまりうまかったのでつい口を割ってしまった。

波音が響く。

キタは女にその名を訊こうと左後ろを見たが女はいなかった。

―ん?

振り返るとだいぶ後ろの方で女が波打ち際で何やらしている。

キタはその様子を見ていた。

流れ着いた何かを拾い集め選り分けているらしい。

しばらくして女は両手に何かをつかんで小走りでやってきた。

キタは女が走り寄って来るその様子をそのまま見ていた。

女は肩で息をしながらキタに言った。

「おまえさん、この海藻だよ、これを煮るとうまいんだ、

ちょうど打ち寄せられてた、これ料理してあとで

おまえさんにも食べさせてあげっからな」

キタは何も言わない、そしてまた歩きはじめた。

女もそのあとを海藻を両手に歩いていく。

会話はなくとも波音は続く。

秋の海の夕暮れ、どこまでも続いていく海岸線。

ふたりの後ろ姿もその中に小さく照らされている

☆100

ふたりはそのまま海岸を歩いていった。

キタはその浜砂を踏む足音が懐かしかった。

小さかった頃、この浜を駆け巡った。

時は流れて今自分はひとりこの浜を歩いている。

あの頃の仲間は今どうしているのか、

この近くにいるのだろう、でも会ってどうなるという。

迫る夕暮れに言葉は出ない、いらない。

その右頬に暮れ行く潮の光が眩しいほどに響いている。

もう自分はあの頃には戻れないのだ、と。

キタは実感していた、そして、なんという愚か者の自分かと。

キタの後ろで女は拾い持った海藻を落とさないようにと、

そしてキタの足並みに遅れないようにと、

時々沖の波間を見つめてその輝きに見とれながらも

キタの早足な、その後ろ姿に小走りについて行っていた。

女はキタが午前中に見たあの集落の一軒にやはり住んでいた。

別れ際、女はキタに「待っていろ」と言う。

女は駆け足でその集落の一軒へと入りそして出てきた。

走ってきた女はキタに新しい包みを渡した。

「今夜それ食べれな」

キタは黙ったまま受け取った、その新しい包みを。

「おまえさん、どこで寝るんだい?」と言う女に

キタは自分があの墓場の道の先の一軒家で寝ることを、

そしてそこで今年越冬するかもしれないことを伝えた。

女はそれを聞いて何か喜んでいるように見えた。

ここでキタは自分がまた口を滑らせたことを悔いたが

それならばと、女にその名を訊いてみた。

女は応えてキタに言った。

その女の名をキビという


081~088

☆081

その北の地で嘆かれたのが食料の確保である。

そこには様々な生き物が確かにいた。

しかし部隊の一人以外、それを捕らえることができなかった。

今やこの部隊の馬の足は鈍って信用できないものへと変わっている。

ならばと、自らが馬を降り斬りに行ったが走り寄っては逃げられる。

しまいには遠くから近づいてきた巨大な白い熊に

馬もろともに襲われてその鼻に斬りつけたりしてしのいでいた。

平原でも砂漠でも経験したことのない空間と生き物たちの世界。

この氷雪の上では彼らはまったくの腰抜けでしかなかった。

ここでキジがその弓を使って遠方の獣たちすべてを射って出た。

それが部隊のすべての者を守り皆に食料をもたらした。

部隊崩壊の終局、ここでその先頭をキジとシャンが担うことになった。

キジが仕込んだ弾薬の弓、それが見たこともない巨大な魚、

その北鯨の腹を連続で爆破したときにこの部隊の残党は大歓声を上げた。

俺たちは死なない、そして絶対に生きて帰ると抱き合った。

その白い息と光。

そんなものはキジにはどうでもよかった。

何をいまさらと。

虫けらが

☆082

部隊はその北路での途中、遂に南東へと下る路を選択した。

部隊のほとんどの者は帝国のさらに南から来ていた者だった。

都に近づき過ぎる前に南へと抜ける路を進む、

それが彼らの選択だった。

しかしキジはそこよりさらに東から来ていた。

それは自分ひとりでもある。

共に南下するか、さらにこのまま東へとこの北路を進むか。

ここでキジは部隊と決別した。

シャンと共にさらに北の路を東へと進んだ。

たったひとり。

しかしキジには勝算があった。

星座が変わり始めている。

それはキサラギで仰ぎ見た形へと近づいてきていた。

自分が明らかに祖国へと寄って来ている。

このまま東へと、あとは海を越える、それだけが問題と考えた。

この時すでにキジは半分自分の命をあきらめていた。

しかしだからこそこの最期に試そうとも考えていた。

キサラギよりさらにはるか東に森林と湖に伏された東の国があり

そこに東奴(あずまど)と呼ばれる森人たちが生活しているといわれた。

そしてそこからさらに北へ、森と沼の地を越えさらに海を渡り、

そこに最北の民が神を奉って生活する楽園があるという伝承である。

キジは自分が祖国から見てその最北の場所にいると考えていた。

このままの北緯で海へ出れば必ず何かの手がかりがある、

あとはそこから考えれば良い、キジはそう思っていた。

大陸の最果てを横断し死にそうになりここまで来た。

行ける所まで進んで何が悪いかと神仏の前に開き直ったのである。

キジの目指した最北の楽園、それはエゾと伝え呼ばれていた

☆083

冬は終わろうとしている。

その最も過酷な環境のときに部隊は北路を進んでいた。

追手の部隊は標的がそのような路を選ぶとは考えていなかった。

それでキジたちは捕まらずにいた。

南下の路を選んだ者たちがその後どうなったかはわからない。

しかしさらに厳しい追跡が彼らを待ち受けていたのは確かであり

それは極寒を進む厳しさ以上に激しいものであっただろう。

東へと進み続けたキジはシャンを止める。

誰もいないのはそこでも同じ。

薄霧に姿を現したそれは南北に続く海峡だった。

キジは自分が祖国における最北の場所に立っていると確信していた。

星座はキサラギのそれとほぼ近い。

大陸の果てに戻って来た、そうすると目前の対岸、あれがエゾか。

キジは海岸線を下り最も対岸と近いと思われる場所を見つけた。

そこには荒組みされた小屋があった。

そこからの対岸はかなり近く泳げば半日で渡れる距離でもある

☆084

水は冷たい。

冬に救われてここまで来たが今度はその冬が行く手をふさいだ。

春夏になれば水は温む。

しかしそれまで待っていれば追手に追いつかれるだろう。

小屋が組まれていることはここに人の出入りがあることを意味した。

この小屋が対岸の者による物なのか、大陸の者による物なのか、

もし大陸の者が自分の姿を見たらその者はすぐそれを通告するだろう。

対岸の者なら舟で渡ってくるはず、しかしそれがいつかは知れない。

小屋の中には積まれた木板と粗綱、それ以外は何もなく風はしのげた。

火を焚いた形跡がないことから冬場は使用されない物であるらしい。

寒さが弱まればこの場所へは人が近づいて来るということでもある。

キジはシャンを小屋へ入れた。

外の霧は次第に濃くなり対岸は見えなくなって小屋周辺をも包んだ。

キジはシャンの手綱と鞍を解いた。

そして火をおこし一晩そこで眠った。

これだけの霧、しかも小屋の中であれば光は外へ漏れず安全だった。

寒くともキジとシャンにとっては久々の安息となった。

翌朝は快晴であった。

積まれ置かれていた木板は細長く背丈ほどで一枚一枚はかなり厚い。

キジはそれら数枚を重ね結わき、それを四つ、五つ作り

鞍の内と側面にそれぞれ頑丈に縛り付けた。

それは海に浮かんだ。

キジは食料のほとんどをシャンの口へ入れてやり言った。

「おまえなら誰にでもかわいがってもらえる」

そして厳冬の海に自分を浸した。

キジはその大陸の岸辺でシャンを野生馬へと返した。

自分は鞍の舟につかまり泳ぎ対岸を目指したのである

☆085

身を切る冷たさは予想以上だった。

雪原を越えて疲れた身体からその水温はさらに体力を奪った。

鞍の舟が頼りだった。

もしそれなしで泳ぎ出たならすでに力尽きていただろう。

そうするうちにも陽はのぼり続けていく。

そして自分の進みの悪さに冷えきりながらもイラついた。

対岸はまだ遠い、このままでは流されてしまう。

午後になれば潮の流れは変わる。

波が高くなる前に何とか対岸近くへと近づきたい。

そうして厳冬の潮水に足を動かしたがうまくいかない。

息が上がり波に揺られる、海水の冷たさに全身が麻痺してきた。

そのうちに後方から、ぶるるぶるると何か生き物の気配がした。

さすがのキジも海の生き物たちには抗し難く感じていた。

見たこともない大きさ速さの水中生物と刀弓で戦うことは難しい。

背後に近づくその生き物の気配にキジは焦った。

鞍に腰掛けて弓を構えたかったがその両腕にうまく力が入らない。

鞍につけた刀のうち短いものを抜いてその柄を口にくわえて進んだ。

顔を潜らせて眼下を見たがその水中に巨きな魚影は見えなかった。

ならば海上からかと振り向きたいが体が冷えきってそこまで動かない。

潮に見上げた空は昨夜の霧が嘘のように晴れ渡った青空だった。

その美しさと冷気とが恨めしい。

背後の生き物が自分に着々と近づいて来ているのだけはわかった。

そのぶるるぶるるという音が相手の呼吸音だとやっとわかったとき

その生き物はすでにキジのぴたり背後へと乗りつけていた。

動かす足先に相手が触れたキジはこれが最期かと振り向き

刀で斬りかかったがそこにいたのは何とシャンだった。

シャンがキジの後を追って泳いでいたのである

☆086

そうしてキジは今、雪山の頂にいる。

東の国、その森には巨大な山があると以前噂に聞いていた。

そしてその山をキジは見つけた。

夏でもその山頂から山腹には雪がある。

その夏の雪を握って口に当てた。

大陸のあの激しい雪原が思い出される。

キジは生き残った。

あの南北に続く海峡を渡った、追って来たシャンの力を借りて。

対岸は南北に長い島であった。

その南にはさらに大きな地が存在していた。

島と大地には上部、中部、南部と三つの部族が別れて暮らしていた。

部族間に対立はなくその三つの部族は武器を持たない民であった。

言葉も装いもすべてがキサラギや大陸のものとは違う。

そしてキジはここが伝説の地エゾであることを悟った。

キジは客人として各部族に丁重に扱われその導きで南下した。

彼らとの平和な日常の中でキジは癒されていく。

キジは大陸からとキサラギからの侵略に備えるようにと

三人の族長たちに伝えたが彼らは戦うこと自体を拒否した。

大地の最南端は海でありキジとシャンは彼らの巨船で送られた。

海を渡り船から降りたキジは確信した、

遂に自分がキサラギにつながる地へ辿り着いたということを。

別れ際、もう二度と会うことのないことを予感して

彼らはキジのために泣くのだった。

キジはシャンと南下を続けた。

そこは延々と続く巨大な森の沼地である。

海岸線を進んだ。

星座は完全にキサラギと一致している。

果てしなく森は続いたがある日森の先に雪を頂く山が見えた。

そしてその山を遠く見る場所に人々が暮らしていた。

言葉は通じず装いも違うが彼らが東奴と呼ばれる森の民であり

そこがキサラギで言う東の国であることをキジは理解した。

森に突き出たその巨大な山を彼らはフジと呼び崇拝している

☆087

東奴はフジに近づくことを恐れていた。

フジに近づき、ましてや登ることは彼らにとっての禁忌である。

フジは確かに巨きな山であるとキジは感じた。

この国にこのような山があったのか、とも。

しかしそれ以上の山々をキジは大陸で経験していた。

その山々はヒマラヤと呼ばれていた。

その山脈の内奥を西へと渡った、あの外人部隊の一員として。

キジはフジへと登った、シャンと共に。

森の中では空が見えない、方角を見失うと命取りになると感じた。

しかし不慣れな森、そしてフジの急な勾配をシャンは恐れない。

それはキジも同じだった。

この国から海を越えて大陸へと渡ったはじめての馬がギンザであれば

エゾからこの地まで、さらにフジを登頂した最初の馬はシャンである。

雲のない晴れた日、半日で山頂へ到達した。

山頂の雪と風、眼下の北と東には森が続き南には海が広がっている。

西にも森は続いているが北と東のそれとは違う気持ちがした。

夜、その西の遥か遠くにかすかに灯りのゆらめきを見た。

キサラギ。

幻か、その光よ。

そのフジの山頂にキジはシャンといる。

その頂で昇りゆく朝陽を見つめてキジは思った。

大陸の死を怖れない戦士たちは自分にとっての地の果てだった。

あの戦士たちから見れば大海に果つるこの国が地の果てか、と。

そしてキジはフジの裾野にしばらくその身を置いた。

そして何度となくフジ山頂へと登った。

その冷気の中、この国で最も高い場所で無となる禅を組む。

禅はキジが大陸で教えられたもののうちのひとつであり、

まだ勃興したばかりであったひとつの新しい方法であった。

フジ山頂で禅を組む。

ある時はエゾに向かい、ある時は海へ向かい。

鞍も手綱も解かれたシャンはキジを追いかけていつも傍にいたが

キジが禅を組んでいるときにはそれを察するのか常に離れており

足を取られて火口に落ちそうになったりしていた。

大海へと堕ちて行くその黄金の壮麗。

あの日、大陸へと出港した日から何年もが過ぎ去った。

まさかこのような定めになるとは・・・

あの日、思いもしなかった。

闇が山頂を覆いその天空の風が強さを増す。

西にともる幻のゆらめき。

キサラギよ。

キジにはどこかで誰かが鐘を鳴らしたように聴こえた。

その音は清く澄んでいる

☆088

鐘の鳴る

鐘の鳴る

海に山にその丘に

鐘の鳴る

鐘の鳴る

あなたの暮らすその場所に

あなたの眠るその場所に

鐘の鳴る

鐘の鳴る



鐘の鳴る

鐘の鳴る



鐘の鳴る 第1章 終

071~080

☆071

キジは高官との朝食の席に呼ばれ目を開けた。

今は体調が悪いと嘘を言いこれを辞退した。

口に物を入れないようにするためである。

キジは毒を盛られることを密かに案じていた。

その後、高官たちと謁見しツジでの事態を報告した。

刀で討つことを許されていないのにそれをしたこと、

その許しを請い予定通りの大陸への渡航を願い求めた。

朝廷からの目付の兵がツジで丸腰の人間を斬り殺した、

そのような世評が立てばそれは朝廷の愚行として

天帝の権威にも影響は触れる。

帝のその気まぐれからどのような判断がなされるのか、

それをキジは最も恐れていた。

カワナニの都落ちの件もその気まぐれからである。

謁見は正午に及び、再度の待機を命じられた。

キジはその後に運ばれた昼食には口をつけた。

高官たちからの良い感触を受け取っていたからである。

─私には毒は盛られない、これで問題なく進める・・・

キジはそう感じ取った。

そしてツジからキジに追従した殺傷の兵士二人がその頃、

キサラギへ入ったことを知らされた

☆072

四人の女たちはその日、何か起きるかと待っていた。

それぞれがその知らせを受けたのはその日の夕方であった。

午後にキジが宮廷を出たこと、そして行方が判らなくなり

すでにその時にはキサラギを去っていたということ。

女の内のひとりはそれを聞いて、あの人らしいやと呆れ、

もうひとりはため息をつき、もうひとりは憮然としていた。

残りひとりは以前キジと馬に乗った日を思い出していた。

それはギンザという名の大きな黒い馬だった。

その上でキジの組んだ片足あぐらに座りキサラギを出た日。

馬に乗ることなど生まれてはじめてだった。

物心ついてからキサラギを出たのもそれがはじめて。

幼い頃の記憶にある野や川、そして土の匂い。

忘れかけていた自然の様子に久しぶりに触れたあの日だった。

丘陵に登り見せてもらった遙か遠くに広がる山々の陰影。

男は自分がその山々を越えたさらに向こう側へも行ったと言う。

黄昏にその山影へと射す雲間からの陽の光のきらめきを見て

女は自分もあの山の向こうくらい遠い場所から

ここへ売られて来たのかな、などと思っていた。

自分の記憶にかすかに残る生き別れた家族の面影に

今頃はどうしているのかと、そしてふっと今に戻った。

その男はもうこのキサラギにはいない。



女は自分がここを出ては生きてゆけぬことを思い出し

夜の働きのためにその夕方、少し眠った。

緊張は溶けた。

悲しくはない

☆073

ツジへ朝廷からの兵団が送られた。

そして都市を封鎖していた兵たちの役目は解かれた。

混乱の都市ツジはこうして完全に制圧された。

一方、乱僧たちは捕縛の男共を引いて自らの寺へ戻った。

死にそうになっていた者もひとり残さず連れて南下した。

掘られて歩けない者も皆、背負って連れて行った。 

誰も死なさずにキジに命じられた通りに行動したのである。

そして僧たちと捕まった犯罪者たちの行進の様は噂になった。

それは先に南下を続けていたキタの耳にも入ってきた。

ある宿場で今やまったく小綺麗になった商人面のキタがいる。

行進がそこを通過すると聞いて皆がその見物に待っていた。

半日ほど待っていると噂の一団がその宿場を通過した。

力に満ちた怪僧たち、その先頭にはあの巨根僧もいる。

捕らえられた男たちは衰弱して死線をさまよっていた。

しかしその行進は鞭打つように強行されていたらしい。

見物人たちはその珍しさに行列を見て喜んでいた。

そしてそれを見ていたキタは驚いた。

行進の男たちが皆歩きなのにひとりだけ馬に乗っている。

その馬は行進の最後尾近くを歩いて行ったが乗っていたのが

めくらを真似た歯の生え揃ったあの乞食だったからである。

キタはさらに驚いた。

しかもその馬を引いているのがあの湧き水の屋敷の

そこに務めていたあの毛深い悪評の下人ではないか。

キタはその従者のあまりの悪さをツジで噂に知っていた。

それがなんであの乞食を馬に乗せて引いているというのか。

しかもその下人は両手に手錠をはめられていた。

一体何があったというのか、あの屋敷で。

乞食は僧たちに担がれた神の使いのようにさえ見え滑稽だった。

そしてキタは包み込むように大きく微笑むあの弓の人、

眉間に大きなホクロを持つあの長身の鎧の人を思い出していた。

僧侶たちは捕縛の男たちを寺に引き置いた。

剛毛の従者はキジとの約束通り寺まで乞食を馬に乗せて引き

それと引き換えにキジに言い渡されていた僧に手錠を外された。

しかしキジが言ったように男がカワナニの所へ戻ることはなかった。

捕縛の男たちは朝廷によりさらに南へと連行されて行った。

そしてその地で死ぬまで労働に服させられた

☆074

姿を消したキジ。

彼の元にその知らせが届けられたのはあの女衒からだった。

その知らせとは帝がツジ鎮圧を功と認めると発したことだった。

朝廷はキジをそのままに認めたのであった。

女衒はキジの居場所を知っていた。

キジは女衒にそれを教えて身をくらましていた。

女衒はそれを誰にも言わなかった、あの四人の女たちにも。

キジはある宿場からの外れにある酒屋の倉に隠れていた。

ギンザはその途中の馬屋に預けて。

どうやらキサラギからの追っ手のないということを知り

安心して朝から酒を飲むような毎日だった。

普通なら蒸しかえるようなその閉め切った倉、

外を歩けばその風体にすぐに自分は気付かれる。

しかし秋を迎え倉が涼しく居やすい場所となったのに救われた。

一日、その倉にこもって飲んで食べてひっくり返っていた。

深夜溜まった大小便を表に放ちながら見上げた月の空美しいことよ。

この倉の持ち主はそのキサラギの女衒を知っていた。

男の妻は嫁ぐ前に遊女でありこれを手助けしたのが女衒であった。

その倉の持ち主の男は都に詳しく酒売りの身分でキジを知っていた。

キジが伝説的な戦人であり、方々で殺し合いをはじめていること、

それを女衒から時々に教えられていたからである。

キサラギの遊場の酒の手配、それにもこの女衒は深く関わっていた。

倉の持ち主はいつもこの女衒の顔色をうかがって生きてきた。

女衒は飲み食いするものすべてを密かに倉のキジへと届けさせた。

倉の持ち主は高額な報酬を受け取っていたのである、その女衒から。

女衒は賢い女であり預かっていた金をキジのために使い返していた。

キジを生かすことのできる女は自分しかいない、

そう思っていたか、いなかったのか。

とにかく力を持った女だった、その女衒は。

キジが信頼したとしても当然な器の持ち主だったのである

☆075

その男たちはふんどしの丸裸でたむろしている。

それはツジへと馬を引いた下衆なあの三人の馬士であった。

途中の宿場で買った焼き芋をほおばりながら南下して行った。

自分たちには何の意味も無い、職を失った、ツジの一件以来。

それで持ち金のいくらかを使いながら秋の街道を歩いて来た。

そんなある日、顔に刺青を彫ったりして遊んでいたときに

一頭の馬と乗り手が道を通って行った。

黒く大きな馬、そこに乗った大きな弓の人。

それを三人は追いかけた、死にもの狂いで。


南下のその途中に大きな河がありそこでは漁が行われていた。

秋に海から帰る魚を獲っていたが人手が足りず困る村人に

俺もやるとそのふんどしの三人は河へと飛び込んでいった。

河を上る魚の水しぶき、それに漁をする人々の働きの姿。

丸裸の三人はひっくり返ったり飛び上がったり散々にぶちまけた。

その河っぺり、それを見て笑う横になって草笛を試す男がひとり。

その後ろには大きな黒い馬が草をはんでいる。

迫るその日の夕暮れは秋そのもので美しくすがすがしかった。

澄んだ空気、冷たさの秋風、河の風よ。



キジは朝廷からの刻印を持ってその船出の都市へと南下した。

大陸へ渡ることを正式に認められたのである。

その南の港都市をキジは知っていた。キジ、彼は、

そこからさらに南下した島で大陸からと密輸商取引を行っていた。

ツジの捕縛の罪人たちはそこよりさらに南下の島に送らたという、

その連中の失態に大笑いが止まらないキジであった

☆076

キジはその出港にいる。

ツジでの乱僧たちがいる、そこには男色の僧も数多くいた。

キジを見て遠くからも頭を下げて挨拶したりしていた。

彼らは遂にこの日を迎えたと感激してひとりでに勃起していた。

キジにはどうでもいいことだった、僧侶たちのことはもう。

そしてあの乞食も連れられて来ている。

お守りにはぴったりだと誰もが感じて喋りまくっていた。

潮のにおい。

三人の馬士は皆途中で辞めてよそへ行っていた。

それほどに危険な渡航でもある。

そしてキジは笑い半分その持ち馬を連れて大陸へと試みた。

馬がそのようにしてこの海を渡ることははじめてである。

航海は一ヶ月を過ぎて終わったが多くの渡航人が死んだ。

途中ギンザは船に綱でつながれ海に引かれ漂うことを覚えた。

食べられるよりはそれがいいとキジが海へと放ったのである。

鼻の息を止める、口だけで息をすることをギンザは激しく知った。

雨に降られ続けたことが幸いし人の頭には血が上らなかった。

誰もが駄目だと憂いていた秋雨の海、それで生き残れた。

そしてその船団の内、二隻のみが大陸へと漂い着いた。

乞食は生き残りキジとギンザも遂にその巨大な地へと降り着いた。

あれほど苦労して連れた乞食も、その頃にはどうでもよかった。

顔なじみの僧、兵もここではまだいくらかはいた。

それもここでは意味はない。

そしてキジはその大陸を支配する巨帝の城門へと入って行った。

疲れたキジは今の自分にまったく華がないことに思いが及ばなかった。

彼に託されたのが帝国進軍のための斥候としての役目であった。

最前線を行く秘密裏の部隊の一員、そこでキジは進攻を開始したが

その進行のあまりの激しさに砕けそうになった。

ギンザはすでに走れない馬になっていた。

だから途中その大陸の野に放し自由へと返してやった、泣けてくる。

それで選んだのがシャンという名のさらなる名馬であった。

キジはこのシャンと大陸の内へと進攻した

☆077

キジの部隊、そこに属する兵士たちは皆国外からの人たちだった。

身体が大きく太く、その連れた馬も見たことのない巨馬で荒い。

矢で散々に射られても一頭のまま人に襲いかかっていく馬だった。

そして人の言葉を理解する。

完全な戦闘馬であった。

キジとギンザはこの中では細く小さく見えた。

肌の色も自国の言葉もその持つ武具も各人がまったく違う。

そうした中でこの傭兵部隊は独自の言葉を操っていた。

自国語を越えて独自に造り上げた隠語を使って生活していた。

さらに話さず手振りで会話ができる手話集団でもあった。

そのために離れて戦っていても意思疎通ができる。

この最強の外人部隊にキジは朦朧としていた

☆078

帝都からの指令は本隊の西への進攻のための進路確認だった。

半月ごとにその進捗を報告するために部隊のうちの何人か、

それが部隊を離れ東の都へと戻って行く。

その報告の任務に就いた者はもう一度この部隊へ戻ると

西へ進行する部隊の者たちへ言い残して戻って行った。

しかしその誰もが二度とその最前線の部隊へとは戻らなかった。

それほどまでに過酷な部隊だったのである。

東への路、その途中で都を外れて逃げる者、

都に到達し報告はしたが再度部隊へと帰ることを拒む者、

そしてそれらの者は逆賊として捕らえられ幽閉された。

誰よりも強靭な戦士だったのに。

罪人として扱われたとしてもその方がいい、

あの部隊に戻るよりはこの都でつながれていた方がいい、

そのように思わせるほどに過酷な進攻を続ける部隊だった。

一度その戦列を離れた者は二度とそこには戻って来ない。

キジがそのアゴをあげたとしてもそれは普通だったのである

☆079

その傭兵たちの部隊は飛ぶように走っていく。

空を越え、いくつもの山脈を越え、平原と砂漠、

西へと。

遂に行き着いたのがイスラム圏だった。

その戦士たちと戦ってキジは違和感を覚えた。

傭兵は誰よりも死を恐れる。

だから死なない。

しかし彼らは違った。

死を恐れない。

それで斬って倒れた者がしばらくすると起き上がる。

そして再度立ち向かってきたりする。

それは部隊の多くの者が感じていた。

まったく違う人種。

この時、部隊は完全に地の果てに到達していた。

文化が違う

☆080

ここで部隊は二つに決裂した。

ひとつはそのまま西へ前進するという者たち、

そしてもうひとつはこれ以上の前進をやめるという者たち。

前進するという者たちは少なかったがそのまま進んで行き壊滅した。

前進をやめた者たち、これらもその内でふたつの主張に分裂した。

一方は南の回路を選んで東へ戻るという者たち、

もう一方は北の回路を選んで戻るべきという者たちである。

南の回路を選んだ者が多かったが彼らはすべて捕縛され殺された。

すでにその頃、帝都は彼らを巨帝に背いた反逆者集団として扱い、

新しい傭兵団を編成し次々と西へ投入し続けていたのである。

その新手に命じられた任務のひとつが反逆者の捕縛殺傷であった。

北の回路を進んだ者たちは東へ向かいながらそこでさらに分裂した。

このままの北緯で東へ向かうという者たち、

さらに北上の回路へと移動すべきだとする者たちのふたつに。

これ以上の北上は危険だった。

そこは彼らには未知の極寒の土地だったからである。

しかしだからこそ追手は来ないと北路を選ぶ者たちは主張した。

そして四、五人の者を残して部隊の生き残りは北上の路を選んだ。

夜のない平原、雪と氷の土地へと踏み入り追手を逃れて東へと進む。

キジとシャンもそこにいた

061~070

☆061

「日暮れまでにまた来る、もう少しここで待っていてくれ」

キジはそう言って渡したあめ玉を乞食の手から取り

その口へと押し入れてやった。

「どうだ、美味いだろ」

キジは乞食に歯が揃っているのを知って頼もしく思った。

この歯なら何を食べても平気だろう、大陸への厳しい船旅、

それを越え大陸へ渡った後その知らぬ地でも生きていける、

キジはそう思った。

─凄い臭いだ・・・とも思っていたが。



「おうまはん、はっかぱっか」

乞食はあめ玉をほおばった口でそう言った。

「そうだ、馬で行くんだ、このあと好きなだけ乗らせてやる」

キジはそう答え続けて乞食は言った。

「どんぶらほ、ほんぶらこ」

それにキジは答えた。

「あ?それは知らんな」と。



「それじゃ頼むぞ、待っていてくれ」

そしてキジは子を抱いたまま屋敷の前に戻り中へと入った。

キジはあの中庭へと向かった。

屋敷内に人の気配はない。

薄暗さが増したその室内をキジは渡って中庭へと降り立った。

北側のあの牢部屋を見たが奥は暗がりでよく見えなかった。

この距離ではあの下人にも自分の姿は見えなかったかな、

キジはそんなことを思い首と腕に輪を掛けた男を思い出していた。

そしてあんな所で死体と一緒に横になっているとはと、

置いてきたその乞食の非常識さに少し呆れた。

─女着をまとったのはあの乞食自身なのだろう・・・

しかしあの死体を北向きに並べたのは誰なのかな、

ずいぶんな物好きがいたものだ・・・

キジは湧き水に寄り口をゆすいだ

☆062

一度乞食に渡していたあめ玉の袋からひとつを取り

布に包み刀の柄で細かく砕いた。

手に水を浸し子の唇を濡らしてみた。

その唇がかすかに動いた。

キジは手からの水を指先で子にさらに飲ませた。

─助かるかな、乳替わりだ・・・

キジは細かく砕いたあめの粒を水と一緒に飲ませた。

子は口を動かして反応しキジはまたそれを注いだ。

そして荒らされた部屋から一枚の着物を拾った。

もし女ならここで死んでしまった方が幸せか、

大の男でさえ生きていくのは辛いこの世だ、と

その子の汚れた服を取り替えたが男の子であった。

さらに他の何枚かをたたみそれで子をくるんだ。

子は目を閉じたまま眠ったように動かない。

─死ぬのか・・・

目を細めその子の顔を覗いた。

中庭の静けさに湧き水の流れる音がしている。

仰ぎ見た夕刻の空には遠く騒乱のざわめきがした

☆063

その粛清は時刻の経過と共に確実に進んでいった。

僧たちは強く犯罪者たちを次々に打ち倒していく。

そして南門と同じく、東、西、それぞれの門に

男たちを繋いだ綱の列ができていた。

逃げた者たちはキジの読みの通りツジの北西、

そこで自分たちが三方から囲まれていると悟った。

馬で外と内を廻る兵士たちはツジ外部へ逃げた者、

それが一人もいないのを確認して東門へと戻った。

そして外側の者はそのままツジの外側を廻り見張り、

内側の者も同じに内側を廻り見張った。

この時、飢饉のツジを見物に来ていた非情な者たちは

一人残らずツジ内部に包まれていた。

北側の兵と僧たちにキジからの指令が伝わった頃

北の隊は南下を続けて東門近くにまで進んでいた。

捕えた男たちを綱に繋ぎながら。

ツジの鎮圧はその終局にあった。

その間暮れ行く空に何度か火矢が上がった。

その矢は高い音をたて上がり途中爆発する、

そしてさらに上がって行き再度爆発する、

そしてさらにもう一度上がり爆発して散るというもので

キジからの合図であった。

そのような火薬を仕込んだ矢を放つ者はキジしかいない。

キジはツジからさらに遥かに南下した土地、

そしてそこからさらに船で移動するひとつの島、

そこで大陸からの武器商人と関係を持っていた。

大陸の武器を仕入れ、それを崩して調べ

さらに自らが改良し直すということをしていた。

その矢はキジが独自に作り上げた武具だった。

矢はツジ中央部から放たれており

彼がそこにいることを周辺の兵士たちは知った。

さらに兵たちは捕えた者たちをそれぞれの門へと

集めるように乱僧たちへ促した。

キジは事前にそうすることを兵士たちに告げていた。

そしてそれぞれの門に繋がれた男たちが集められていった

☆064

ツジに刻々と夕暮れが近づく。

暗くなっていく屋敷の奥間。

中庭に立つキジは子を抱いて立ち尽くした。

指笛で表に待たせておいたギンザを呼んだ。

ギンザは頭を上下に振りながら室内を渡って来た。

キジは馬を中庭に降り立たせその湧き水を飲ませた。

静けさが再びツジを覆いはじめている。

それは騒乱の終わりでもある。

ツジの北西へと逃げ散った者たちは僧と兵に捕縛され

その一人も逃げ出させずに繋がれた。

繋がれた者たちは各門へと集められ兵の何人かが

打ち上げられた火矢をたよりにツジの中央へと来た。

そして子を抱いてギンザと立つキジと合流した。

キジは遠くを見ていた。

他の兵士たちがそちらを見れば先に立つ男がいる。

男は何やら両腕を上げてたたずんでいる様だった。

それはキジに輪を掛けられたあの従者である。

一軒の家に隠れていたが外の静けさに出てきた。

そして自分の主の屋敷の前に立つキジと馬を見た。

そのまま逃げても輪は取れない。

しかし近づいて行くわけにもいかず

その遠くの場所からキジの長身を見つめていた。

僧侶たちは迫る日暮れの空を背に再び動き始めた。

死んだ者たちを各場所に山として集め積んでいった。

生きているのか死んでいるのか判らない者もすべて。

討伐に疲れた兵士たちは黙ってその様子を見ている。

そして僧たちはその山に火を放ちながら廻っていった

☆065

夕闇。

ツジの各所から死体を焼く煙が上がっていた。

馬でその外周を内から廻っていた兵士たちも

キジの火矢を見て中央部へと集まって来た。

外部を廻った者たちも東門を開けさせて

キジの元へと合流した。

キジは捕縛した者たちを僧侶たちへまとめ預け

僧侶たちと共にその寺へと引き返させること、

兵士たちは均等にわかれそれぞれの門を守ること、

ツジを完全に封鎖の状態に置くことを指令した。

そして自分は刀を使った兵二人とキサラギへ行き

朝廷に鎮圧の報告と殺傷の許しを求めることを告げた。

刀を使った兵士二人はそのとき東門にいた。

その二人を馬に乗らせて南門で自分を待たせるために

馬二頭を東門へやらせ乗っていた者たちにはそのまま

刀の二人と交代して東門の守りに就くように命じた。

キジは子を他の兵に抱かせ再度屋敷の北へと入った。

暗がりの中、その苔の場所に乞食は座っていた。

強烈なその臭いにキジは待たせたことを詫び

乞食の手を取り立たせ表へと歩き連れ出た。

乞食がキジと共に屋敷から出てきたその様子と

その乞食の臭いに兵士たちは驚いていた。

そして騎乗兵一人をそこから降ろさせ

替わりにその乞食を馬へと乗せた。

キジは表から屋敷に入り散乱した着物数枚を

たたみ持って再度出てきた。

そして兵士たちに朝廷からの軍が来るまで

ツジを完全に封鎖しておけと言い放ち

再び子を抱いて三人と二頭で南門へと下っていった。

その際にキジはこの屋敷の主の名がカワナニであり

その中庭には湧き水のあることを兵士たちに教えた。

それで兵士たちは中へと入って行ったが暗がりの異臭と

その異様に座敷牢を発見しその惨状にさらに驚いていた

☆066

南門へと向かう道でも僧たちは死体を集め動く。

炎と屍、それが夕暮れの空に舞い上がっていく。

道端の先々に上がるそれらいくつかの炎の光と煙。

それらは薄暗くなりゆく大通りを照らす灯りに見えた。

子を抱き乞食と馬で行き過ぎようとするキジを見て

あの剛毛の従者は小走りで近づいていった。

その表情は哀願していた、首輪と腕輪を解いてくれと。

従者は両手首を首の裏につけられたまま、

まだ刀を握っている。

キジは一瞬考え従者を顧みるように声をかけた。

「おいカワナニの。その刀をこの子にくれてやる気はないか、

男の子だ、刀のひとつも持たせてやりたい。

もし譲ってもらえるなら首輪だけでも解いてやるんだがな」

従者はうなずき、刀と引き換えにその首輪をはずされた。

しかし両手にはまだ錠がある。

キジは乞食を乗せていたもう一頭の馬を見て言った。

「この馬を引いてくれないか、あの坊さんたちの寺までだ。

このめくらの男が馬から落ちないようにしてやってくれ。

寺まで着いたらその腕の錠を解いてやるようにしてやる。

馬を引くなど簡単だろ、ん?どうだ?」

そして従者はそれに従った。

そして刀はその腕の中の子と共にされた。

「この刀は良い物だ、この子が死ななければ・・・」

キジはゆっくりと南門へと下って行く。

薄暗い道、炎の光を感じながら。

腕輪をつけたまま手綱を引いて従者も歩いて行った。

そしてキジは炎に照らされながら歩いてくる女と出会う。

女は逆毛を立てておりほぼ全裸で生傷を負っていた。

そしてその背中には死んで硬直した子を背負っていた。

呆然と炎の横を通り過ぎて歩くその女、

その女は昼間、キタが南門へ入る前に眺めていた

男たちに罵られ暴行されていた夫婦の女であった。

そしてその夫とは別れ別れとなっていた。

門が閉じられる前にツジの内部へとさまよい入り

今、発狂寸前にあった。

キジは馬上から女が横を通り過ぎていくのを見ていた。

もちろんキジがその女を見たのははじめてである。

しかしその様子から女の状態を一瞬で見抜いた。

キジは馬を女の横に着け死んでいる背の子の頭を鷲づかみに

素早くその背から抜き取り屍の炎の中へと放り投げた。

女はしばらくして背に子がいないことに気が付いた。

そして動転していたがキジの差し出した男の子に安堵した。

女は気が違いはじめており物事を理解できなくなっていた。

それを利用してキジは助けた子の命を女に託したのだった。

さらにカワナニの屋敷から持ち出してきた着物すべて、

それと持っていた食料のほとんどと水、

そして従者から奪った刀をその子の守りとするように言い

何度も深々と頭を下げ続けているその女へと手渡した。

夜になる前にどこか眠る場所を探すように勧めた。

その一連の様子を炎の周りにいた僧侶たちが見守っていた。

キジはその女と子の元を去り際、それらの僧侶たちに

あの親子は放っておくようにと、自分が火へ投げ入れた

子のために経を唱えてやってくれと頼み、さらに南下した

☆067

刀を託された女、そしてその子、

これは生き残った。

後にその子は成長し老いたキジと再会することになる。

しかしこの時、それはまだ誰も知らない。

女はその子をサルと呼んで育てた。

サル

神のみぞ知る。

今この時、確かなのはひとつ。

キジは無敵だった。



南下の門にキジは降り立った。

そこにはすでに東門からの殺傷の二人も待っていた。

馬を引いて。

その兵を四方の門に張らせたこと、

自らはこの二人とキサラギへのぼること、

この乞食を連れ帰り寺で待機するようにと僧へ告げた。

僧侶は罪人を引き寺においてこれを食べさせる余裕がない

それを主張したがキジは引かなかった。

罪人たちは殺さずに寺に置けと、

必ず朝廷からの褒美が後にもたらされるはず、

それを待てと告げた。

陽は暮れた。

闇がこの騒乱の都市に降り立ちはじめた。

夜の風、キジはギンザを馳せた。

刀を使った二人を連れてキサラギへとのぼる。

兵士たちは各門を封鎖した。

僧侶たちは自らの大陸への派遣の全て

それを今やキジが握っていることを理解した。

全て死体を焼き尽くし明けて寺へ戻ることを決定した。

特に男色の僧たちがキジを強く支持し譲らなかった。

彼らはどんなことでも大陸へと渡りたかった。

そして異国の男たちを抱くこと、その知らぬ国の男、

それと乱交することを強く願っていたからである

☆068

暮れてゆくツジから上がる何本もの煙。

高台のキタはそれを眺めていた。

それは風となって匂いを運んできた。

肉の焼けたいい匂い。

死体を焼いているのだと理解した。

騒乱の終わり。

以前の自分であれば再度それを見に下って行った。

しかしそれをしないで思いとどまった。

故郷へ帰るのだ。

そしてその高台で真夜中まで眠った後に南下した。

キジは二人の兵士と共に馬上にある。

北東のキサラギに一刻も早く着きたかった。

一度、馬に水を飲ませるために止まった。

しかしそれ以外は走り続けた。

二人の兵士もキジの後に続いていたが

そのうち徐々に遅れはじめた。

その進行に改めてキジとギンザが並はずれており

自分たちとは別格の存在であることを悟らされた。

その差は大きくなりついには見えなくなった。

キジとギンザはさらに速度を増した。

真夜中の闇。

月よ、雲よ。

それら全てが止まって見えるほどに

☆ 069

その日暮れから夜を越えてキジは走り続け

日の出前、驚異的な早さでキサラギへ到達した。

そしてここでひとりの女と密会した。

その初老の女とは宮廷へ出入りする女衒である。

この女衒はキジに心服していた。

そしてキジはこの帝都において最もこの女を信用していた。

その財産のほとんどをこの女に預けていたのである。

キジは金勘定をまったくしない男でありそれが弱点だった。

この女衒はキサラギの中でも最も美しい女たち、

これらは遊女であったがその四人に知らせた。

キジがキサラギへ入ったことを。

そして宮廷へ入ったキジにもしものことがあったとして

その逃げ道を設けることをそれぞれが準備した。

時の天帝は気まぐれであり人の命を軽んじる者だった。

一度宮廷へ入れば二度と出て来ることはできないかもと

キジは気を揉みその女衒に託したのである。

四人の女はそれぞれ皆賢く力を持っていた。

帝と夜を伏したと告白するような者であったのである。

そしてキジを好いていた。

もし自分の所にキジが逃げ込んで転がってきたら

どんなにかいいだろう、そう思うと目が冴えて

じっとしていられなかった、明け方だというのに。

そして何があってもキジを生かしてみせると肝に銘じ

その日一日、誰にも会わずに待っていた。

彼女たちにしてみれば何と長い一日であったことか

☆070

キジはその軍装を解かぬまま宮廷の門に立ち謁見を求めた。

門兵たちはキジを知っておりそのままに通した。

しばらくして出てきた高官はキジの様子に目が覚めた。

甲冑のキジは汗と汚れにまみれ臭く匂った。

ツジ鎮静の第一報を持ってきたキジ、その忠誠の心意気。

キジはそれを見せるためにわざと鎧のままで来た。

すこしでも自分に分のあるように企んだのである。

高官はツジで何があったかを早く聞きたかった。

しかしまだ明け方である。

体を清めて宮内で待機するようにとキジは命じられた。

通された一室でキジは朝の沐浴をした。

ここで武具を手放した。

そして礼装に着替えたが数本の針は内股に隠し持った。

ここで幽閉されることがないように。

しばらくするとキジのいた部屋に差し入れがされた。

酒と肴のほかに書状が付けられている。

そこには 光 月 雪 風 と書かれていた。

それはキジを待つ四人の遊女を表していた。

それぞれが待機していることをキジは読みとった。

キジはそれら女たちの各居場所を知っている。

何かあったとき・・・キジは思いを巡らせた。

その差し入れはキジの信頼する女衒からの物である。

そしてその差し入れを運んで来た者、

それは宮廷内で働く数人の男と女であったが

これらはこの女衒にすでに買収されていた。

キジは差し入れを口にした。

毒はないと信じていたからである。

そして眠る


.

☆051

南門ではすでに騒ぎが起こされていた。

この南門に最も多くの僧侶たちが配置されている。

そしてそれに対応して兵たちの多くもここにいた。

この南門の僧侶たちの中に男を抱き犯すこと、

それを習慣とする者たちが数多く含まれていた。

その代表格ともいえる変態がツジへと入る前に

その外廻りをキジに強く願ったあの体格の良い僧である。

彼は兄弟子の内でも年長であり皆これを批判できなかった。

彼とその一派がその習慣を続けても皆これを放っておいた。

そして男色の僧たちは以前からこの日を心待ちにしていた。

その睾丸が張って南門外で待っている間も興奮して震えた。

東門からの応答がないことはわかっている。

しかし待ちきれず南門を閉めるように独断しそれを強行した。

あの体格の良い僧侶も閉めろ!閉めろ!と命令の大声を上げた。

兵士は東門を指摘したが混乱で皆それをまったく聞かなかった。

兵士たちも結局は放っておき僧たちと一緒にツジへと入った。

そして南門は閉められた。

ツジにいた犯罪者たちはその僧と兵の入門の様子に騒然とした。

僧たちの多くは本気でツジを粛清するためにやって来ていた。

逃げる犯罪者たちを捕まえて素手で次々と打ち倒していった。

僧たちの腕力は非常に強く犯罪者たちは歯が立たなかった。

兵士たちは闘わずにその成り行きを後ろから見守っている。

その一方で男色の一派も捕まえた男たちを

次々と門近くの家屋へと連れ込んだ。

捕まった男たちは皆それら僧たちの怪力に驚いた。

身ぐるみをはがされ両脇を掴まれ次ぎの部屋へと運ばれる。

奥で待っていたのは全裸で勃起した腕組みの僧侶たちだった。

その先頭があの体格の良い僧であり彼は常に一番手であった

☆052

南門で乱僧たちの暴れる様子を見ていた兵士は

そこに血を吹いて倒れている説教の若僧を見つけ歩み寄った。

僧侶たちは失態の若僧にはまったく目を向けないで暴れていた。

もう一人、念仏の若僧の方は連れ込まれた部屋で丸裸にされた。

そしてその肛門からは激しく血を吹かせたままに気絶している。

しばらく後にそれを兵士が見つけ若僧二人は保護された。

新たに登場した怪僧たちの乱交ははじまったばかりである。

その体格の良い一番手は常に他の僧たちに先駆けて手を付けた。

彼は一発で相手の肛門を裂くことに関して絶対の自信があった。

その陰茎の太さを周りの変態たちにいつも自慢していた。

時折裂けない肛門に出くわすと逆上して裂けるまで掘り続けた。

連れ込まれた男は二人の僧に四つん這いで首を押さえられている。

身動きがまったくとれないままのその肛門に陰茎の先が触れた。

その四つん這いにされた男は常々、掘り専門であった。

しかしこの時は掘られる側へと力任せにまわされてしまった。

たまったものではない。

体格の良い僧はその我慢し続けていた陰茎で男を掘りまくった。

悲鳴をあげて男は謝り続けたがその様子に皆ますます喜んだ。

抑えられた頭から横目で見れば順番待ちの勃起の列ができている。

これだけの本数が待っていることに男は狂乱し続けた。

抑える方にもその力がますます入る。

その間にも外から男を連れた僧たちが次々と駆け込んでいた。

太い陰茎に男の肛門は裂け体格の良い僧も一番手に射精した。

陰茎を抜いた僧は血のしたたる肛門を皆に広げ見せて叫んだ。

「ほら見ろ!おい、ほら見ろ!」

そして歓喜の雄叫びとして犬の遠吠えを真似て見せるのである。

他の僧たちもそれに呼応して犬真似で遠吠えを繰り返した。

順番待ちをしていた二番手が倒れたままの男を揺すり起こす。

体格が良く極太い陰茎の僧は続けて叫んだ。

「満足!よし、次!」

そして横で羽交い締めにされて待つ二人目の男の腰に手を当てた

☆053

南門周辺にたむろしていた犯罪者たちは一人、また一人と

意識が飛ぶほど僧侶たちに暴行され綱につながれていった。

逃げた者はまだ入ったことのないツジ内部へと走った。

それらは皆、他の門でも僧が暴れていることを知らない。

そしてそれらの門からツジ外部へと出ようと考えていた。

そんな状況を見ていた兵士たちの一人が一軒に気がついた。

そこは僧侶たちが男色の乱交を行っているあの家であった。

殴り捕らえた男を抱えては次々と僧がそこへ入っていく。

そして出てこない。

出てきてもそれは僧だけでほとんど全裸に近い格好だった。

さらに捕らえる男を探して裏道へと入って消えた。

兵士は気になりその家屋の内部の様子を伺いに行った。

そしてしばらくして無表情な顔をしてそこから出て来た。

その兵士はその家を指さして他の兵士たちにこう言った。

「あそこの一軒家で坊主たちが酒盛りをしているぞ」

それを聞いた何人かが、おれも、おれもと入って行った。

そしてそこにいたのは捕らえた男たちを代わる代わる抱き

執拗に掘り続けるあの糞坊主たちである。

僧侶たちは兵士たちを見ても気にせずにさらに掘りを続けた。

捕らわれた何人もの男たちが尻から血を吹いて倒れている。

それらの兵士たちはそこを出て嘘を言った先の兵士に言った。

「馬鹿野郎、悪いもの見せるんじゃねぇや、ヘドが出る」と。

そしてその場でお互いがお互いの腹を抱え叩いて大笑いした

☆054

僧呂たちはツジ外部から侵入していた男たちを激しく追った。

それは北門、西門でも同じである。

それを逃げた者たちは次第にツジ中央部へと集まってきていた。

キジが東門に着こうとしていたのはその頃だった。

遠くからその東の門が開いたままであるのが見える。

東門配置の僧侶たちと兵士たちが門の下に集まっている。

走り寄って来たキジの方を皆が見た。

キジは徐々にその歩速を落とし歩いて門へと寄って行った。

キジは自分を見る顔々の表情が困惑の様子であるのを見た。

門の両戸はその裾に土が高く盛られ固まって動かなかった。

それは確かに素手で除ける類のものではなかった。

「他の門は閉じられたぞ、聞こえただろ」

キジは兵と僧たちに言った。

「今まで何だ、この盛り土を見つめていたのか、おまえらは」

そして空き家から農具でも探してすぐに土をどかせと命じた。

僧侶たちは先に行かせた若像二人が戻って来なかったために

こんなことになった、とぼやいている。

キジはここで先に行った若僧に託されていた役割を知った。

計画途中に予想外のことが起こることにキジは慣れている。

しかしこの東の隊の僧と兵はかなり強い反目の状態にあった。

そしてどちらも率先して盛り土を除こうとはしないでいた。

しかし今は早く門を閉じる必要がある。

─まずいな・・・そうキジは思った。

北、西、南の粛清を逃れた者たちが東門へ集中して来るかも、

奴等は飢饉を見物に訪れるような非情な者たちである、

その狡猾さは人並み以上であることは間違いない、

東門が開いていると察知されるのが先か、閉めるのが先か、

キジはその旨を兵士たちに伝えた。

東門の手勢は薄い、

逃げる者すべてが集まったとき絶対に一人も外へ出すなと、

そして一人も殺さないようにと、

キジはそこにいたすべての者に伝えた。

そして進攻前に馬と馬士たちが来なかったことを確認した。

キジは皆に絶対に一人も逃がすなと再度強く命じた。

そして自分は馬を連れてここへ戻ると言い残し

東門から続くツジの外壁に沿って南門へと走り下った

☆055

キジが南下していくと案の定、

南門から逃げ延びて北上する犯罪者たちとすれ違った。

鎧姿のキジを見て散らしたように小道へと逃げて行く。

それらを放ってキジは走り続けて南門へと急いだ。

キジは途中すれ違う僧侶たちに東門へ行くように告げた。

東門が開いたままで逃げられるかもしれない、援護しろと。

それを聞いた僧侶たちは連中を追い東門へと全力で走った。

見えてきた南門はその戸が確かに閉められている。

南門周辺の様子はその粛清が一段落つきはじめた頃だった。

追うべき相手もその周辺にはほとんどいなくなり、

繋がれた男たちが地面に座り込んだり倒れ込んだりしている。

男たちは皆、僧侶たちに散々に痛めつけられて無言だった。

キジは手を持て余す僧侶たちに東門を援護するように命じた。

疲れ知らずの乱僧たちは通りを勢いよく次々と北上して行く。

キジは南門に配置させた兵士たちと合流した。

そこは南門の真ん前である。

キジは東の合図がないのになぜ南門を閉めたのかと激しく訊いた。

兵士たちは僧たちの待ちきれない混乱ぶりの様子を伝えた。

そしてあれを見れば自分たちの主張の正しいことがわかると思い

あの乱交の家屋へとキジを静かに連れて行った。

家でも乱交が一段落つきほとんどの僧は全裸で体を休めていた。

そしてあの体格の良い僧はその快楽がさらにもっと続くようにと

神仏の力を借りると称し目を閉じ念仏を唱えながらまだ掘っていた。

その顔面にキジは膝蹴りを食らわせた。

その後ろに静かに侵入した兵士たち、血を吹き鼻が折れたと騒ぐ

体格の良い僧を尻目にキジは全裸でいる部屋の僧侶たちに告げた。

「お楽しみはこれからだぞ、東門へ行くんだ、逃げた連中がいる」

そして僧たちを無理矢理に立たせて全裸のまま外へと投げた。

キジは他の兵士たちを促してそこにいた僧すべてを表へ出した。

「何をやってもいい、その替わり絶対に逃がすな、そして殺すな」

キジは僧たちを走らせて言った。

「東門には逃げ足の早い若い男がたくさんいるぞ、急いで行け!」

全裸の僧たちはその言葉に想像して再度勃起して走り出していた。

鼻から血を吹いた体格の良い僧もふらふらと通りへと出て来て

「私も、私もですキジ様!私も行きます!」と言う。

そして先に走りだした連中を追って全裸のまま走り飛んで行った。

その極太い陰茎があらためて勃起しているのが見えた。

走って行く全裸の坊主たちの背を見送りキジは兵士に言った。

何人かを南門へ残し隊をふたつにわけ一方は西門へ一方は東門へ、

ツジの外壁から人を遠ざけるようにして廻って進めと、

そして西門へ進む隊は西門配置の隊と合流して東門へ進むようにと、

東門へ集まる者たちを挟み撃ちにすると指揮した

☆056

南門から動かない年長の僧侶たちが何人かいた。

彼らはこの粛清の具体的な方法を決めた者たちである。

自分たちの予想とは違うその展開に腹を立てていた。

南門粛清は予想以上に早く結論し逃げた輩も少なくない。

東の予想外に加え、北と西の隊もまったく見えなかった。

キジはその僧たちを横目に二隊を西東へと送り出した。

そして残った兵士たちと一緒に門を開けようとした。

それを見た年長の僧侶は走り寄ってそれを止めた。

自分たちの馬がここへ来ることをキジは僧に説明したが

異なる形で兵士を動かすキジにさえ彼らは不満だった。

僧たちはその内心が嫉妬に満たされ怒りだす寸前にあった。

そしてキジの言うことには断固として反対の主張をした。

キジは手を焼きそれならば、と南門の屋根へと登った。

その敏速さに僧たちはただ眺めているしかできなかった。

キジはそこから自分がツジへとやってきた方角を望んだ。

そしてそこにこちらへと向かってくる馬と人の影を見た。

それは来る途中に道端のキタをからかった馬士たちである。

その馬の一頭がキジの愛馬である黒い馬ギンザであった。

─やっと来たな・・・

キジは親指大ほどの笛を取り出しその馬影へ向けて吹いた。

それは野に遊ばせたギンザをキジが呼ぶための笛であり

遠くにまで届く高い音がする。

何回か吹かれたその笛の音にギンザは反応した。

そして馬士を置いてその群から走り出た。

門の屋根からのキジにも黒い馬が走り出たのが見えた。

そして高笛を何度か鳴らしてギンザを南門へと向かわせた。

ギンザはキジのいる方向を理解しそこへ向けて走った。

そのギンザの後を他の馬たちも追って猛然と走り出していた。

キジは再度笛を鳴らした。

みるみるギンザと他の馬たちが南門へと近づいていた。

「よし、ギンザ!ギンザ!ここだ、ここへ寄れ!」

キジはギンザに大きく手を振って叫んだ。

その様子を門の内側から僧侶と兵士が見上げている。

馬たちに置いてきぼりをくわされた三人の馬士、

彼らも馬を追って走っていたが届くはずもない。

彼らの丈の短い上着からでた腹、ふんどし姿の短足、

口々に「おこられっぞ、おこられっぞ」と叫んでいた。

一番最後を走るのがギンザの鞍を背負った馬士であった。

汚い尻が前にふたつ、さらにその先を走る馬たちが見える。

さらにその先に人影を乗せた南門の影が見えた。

三人も汗だくになって走って行く。

「やっとツジだんがおこられっぞいや」

暮れゆく午後の陽に砂埃がゆらゆらと浮かび上がった

☆057

キジはギンザが近づくのにあわせて

門の屋根からツジ外壁の屋根へとそのまま辿っていった。

ギンザは南門へと着き、そこに並ぶ死体の臭いも恐れなかった。

キジは速度を落としながら来たギンザを呼び、

ギンザはキジの立つ外壁へと寄ってきた。

そしてキジはそこからギンザの背へと飛び移った。

キジの大きな体を受け止めてもギンザはよろめかない。

そして何度かいなないた。

キジは結ばれた手綱を解きそのままツジの外周を東へ走らせて

さらに曲がり北上して東門へと向かった。

振り向けばギンザを追った他の馬たちも無人のまま走ってくる。

そのまま走り進むと先の東門に人影が交錯しているのが見えた。

キジはツジの外側から東門に着いたが門はまだ開いたままであり

逃げた者たちが集まりはじめて門周辺は騒然としていた。

そして集まった者たちと僧、兵が門の前で対峙していた。

「出せ」「出さぬ」と門の前で激しく衝突した直後であった。

兵のうち何人かが刀を抜いて構えている。

さらに門を抜け出て走り去ろうとする人影が遠く三人見えた。

北、西、南の門で捕らえられなかった者たちは

逃げながらその途中でお互いの情報を交換しあっていた。

そしてあのホラガイが閉門の合図であり東門ではそれがなかった、

東門はまだ開いており捕縛がはじまっていないと口伝えされた。

残党たちは次第にその数を東門に集結していく途中だった。

キジは門をくぐり出ようと集まった者たちをギンザで後退させた。

そして他の兵に後から付いてきた馬たちに乗らせ同様にさせた。

門はまだ何人かの僧が盛り土をどかしている最中である。

そしてその傍らに刀傷を負った男が二、三人倒れていた。

キジはそれを見て馬を降り死体と確認し兵たちに向かって怒鳴った。

「誰が討てと言ったか!愚か者め、どいつの仕業だ!」

刀を抜いて構えていた者のうち、二人がそれだと白状した。

「馬鹿め・・・やっかいなことになるぞ・・・」

そう言い放ったキジの意味を斬った兵士は理解できないでいた。

そうしているうち犯罪者の奥の方から何やら叫び声が上がった。

キジは再びギンザに乗りその方を見ると全裸の僧たちが見える。

勃起して走って来るその様は見たことがないほど殺気立っていた。

そして全裸の僧たちは逃げた者たちに再度後ろから襲いかかった。

それが南門からの援護と知った東門の僧たちが続いて前から襲った。

そして激しい混乱となった。

全裸の僧たちは今度は捕まえた男をその場で強引に掘りはじめた。

その道の上での異様な光景が東門の混乱にさらに拍車をかけた。

なんだこの坊主たちは、とそこから左右に逃げようとした者たちが

南門から東門へと進んで来た兵士の隊とまず衝突した。

そして犯罪者たちの群は北へと、さらに中心部へと散り動いて行く。

その混乱の中、キジは一人も外へ出すなと命じて歩兵を二人連れ

ツジの外へと逃げていった三人の影を馬で追った

☆058

門から逃げた三人の影は追うギンザの蹄の音に振り返った。

そして三人は東門から北へと向かう外壁沿いの道を外れ

草が絶え乾ききった荒野へと繰り出た。

そして三人はさらに二人と一人に別れて逃げて行った。

キジもその北上の道を外れて荒野へとギンザを進めた。

そしてまず左手に逃げた二人を急追し峰打ちにして転ばせた。

後から駆けてきた歩兵にこれを捕らえろと馬上から合図を示し

さらに右手へと逃げた一人を追う際にあれもと指さして示した。

歩兵の一人は倒れた二人へと走りもう一人は右へと走った。

追えばその右手へ逃げた一人は何かを抱きかかえて走っていた。

近づけばそれは赤ん坊だった。

─子を抱いて逃げる男親か、

そう思いながらもキジは追いの手を緩めずに男へと迫った。

逃げるその男はまさに追ってくる馬の音にその赤ん坊を捨てた。

─親ではない、

キジはそのまま男へと迫り再度馬上からこれを峰打ちに倒した。

そして投げ捨てられた子を拾いに戻りこれを懐に抱き上げた。

歩兵の一人は二人に縄を掛け、もう一人は走り寄って来ていた。

キジの抱いた子は乳飲み子であり歯が生えはじめた頃であった。

子は衰弱しており子供特有の生命力だけで生き長らえていた。

キジは一人で逃げていた男が捕縛されたのを見てそれに訊いた。

「どこでさらった」

男は答えずにそっぽを向いた。

「良い値が付くのだろうな、どのくらいだ、これくらいか?」

問いに男は顔を向けたがキジはその指を示してはいなかった。

人をさらうその男は馬上のキジを激しく睨んで深く目を伏せた。

左へと逃げた男二人を繋いで近づいて来る歩兵を見て

足下のもう一人の歩兵に自分は先にツジへ戻るとキジは告げた。

そしてその赤ん坊を片腕に抱いたまま東門へと戻って行った。

後から行く兵士二人は捕まえた男を時々に殴りながら後へついた

☆059

子を抱き進みながらキジは自分が人助けに来たのではない

そしてとんでもないコブが自分に付いてしまったと思った。

しかしキジは再度東門へと子を連れて戻って来た。

門の盛り土はかなり除かれそれを閉めることができるのは

あと少しであることが見てとれる。

あとから歩兵二人が捕縛者三人を連れて戻って来ることを、

それを入れた後一刻も早く門を閉めるようにとキジは命じた。

東門内での騒乱はその最中だったが明らかに僧が強かった。

全裸の僧たちは次々とその路上で男たちを犯している。

男色のない僧たちは捕らえた者たちを盛んに暴行していた。

それらの光景が東門の先々に点々と続いていた。

綱に繋がれた男たちの列が少しずつできはじめていた。

馬に乗った兵士たちが煽るようにそれらを廻っている。

キジは子を抱いたままその騎乗兵たちを集めて告げた。

西と北の隊はまだ来ない、一人が行って西と北の隊に

扇状に横に広くなって東門へ向かうようにさせろ、と。

そして何をしても良いが決して殺さないようにと付け加えた。

そうしてそれを告げるために一騎が西門へと駆けた。

さらに馬に乗った残りの者のその半分はツジの内の外周を

他の半分はツジの外の外周をそれぞれ逆向きに廻るようにさせ

絶対に一人も外へ逃がさず捕縛しろと命じそれぞれを行かせた。

キジは赤子を抱いて戦況を読む自分の姿を少し滑稽に思った。

さらに南門から北上して東門へ来ていた兵士たちにはそこから

横拡がりで北西へ進ませ再度逃げた連中を捕獲しろと言った。

南下する北門の隊、東門へと向かう合流の隊の三方から囲えと、

そう命じ兵士たちはその通りに進んで行った。

犯罪者たちの残党の多くはキジの読み通りツジの北西にいた。

変化し続ける戦況にキジは的確に判断し指揮をしていた。

そしてキジはキンザと赤子とそのまま東門を中へと進んだ。

行きながらすれ違う僧侶たちには東門を守るようにと伝えた。

そうして再度あの屋敷へと馬を西に飛ばした

☆060

ギンザを連れていた馬士たちがその馬たちの後を追い

東門に着いた時、歩兵の二人が捕縛の男たちを引き連れて

ちょうど東門へと戻った時だった。

一段落ついた東門を見た馬士たちはその惨状に唖然としていた。

そして繋がれた男たちに自分たちもその気になり唾を吐いたり

裸の僧の陰茎や掘られて血を吹く尻やらを眺めたりしていた。

それら全裸の僧の中にひとり、人一倍太い陰茎の男がおり

道に大の字になって「満足じゃ満足じゃ~」と繰り返していた。

その男の見上げる空は静かに晴れた日暮れの空で美しい。

そのしばらく後に盛り土は除かれ東門は閉じられた。

そして東門からのホラガイの音がツジ全体に響いた。

キジは中央部へと進みながら会う兵と僧に北上するよう告げた。

南と東の門は堅い、残党は北に、ツジの上半分にいると伝えた。

そしてキジは進んで再びあのカワナニの屋敷へと戻って来た。

表に残したあの剛毛の従者はどこかへ行って今はいない。

ギンザを表に残しキジは赤子を抱いたまま屋敷の北へと廻った。

陽はさらに傾き先に来た時よりも薄暗い。

苔の美しいその北側の半ばにあの乞食がひとり座っていた。

キジは歩み寄り乞食にしゃがんで言った。

「おぉ、よく待っていてくれたな」

乞食は無表情なままでキジを見ずに口をもごつかせている。

「悪いがな、そのあめ玉、この子にもらうぞ」

そして乞食が手に持っていた袋を取り

その中からあめ玉をひとつ取り出した。

そしてそれを乞食に差し出し「これで我慢してくれ、

あとの袋はこの子にやらんと」

牢部屋を脱出したキジは乞食にあめ玉の袋を持たせた。

そしてこの屋敷の北側で迎えに来るまで待つように頼んでいた。

騒乱のはじまる市街よりもここが安全で確実と考えたのである。

あとは乞食がそれを聞いてくれるかどうかだった。

乞食がキジの言うことを理解していたかどうかはわからない。

しかし乞食はそこを動かずにそのままでいたのだった