121~130 | BED

121~130

☆121

 家の周囲の木立は切られて平地にならされている。家の裏手はさらに広げられており畑である。その畑の横に渓流へと下る小道が備わっていた。人ひとり通るほどの細い道で両側は木立である。
 その小道を下る途中に山の斜面を利用した畑がある。それらはすべてキタが若い頃より少しずつ整えてきたものである。その斜面の畑を越えるとまた両側は木立が続く。
 そのまましばらく下っていくと水の流れる音が聞こえてくる。木立は途切れ砂利の続く河岸へと抜ける。そこが渓流であった。
 その岸には数箇所の洗い場が組まれている。それもキタが作ったもので季節の水かさに合わせて使い分けていた。
 小雨は霧雨にかわっていた。そしてしばらくして雨はやんだ。空は雲に覆われていたが明るい。渓流の流れる音が山あいから立ち昇っていく。
 その水辺に接したひとつの洗い場に女の後ろ姿が、しゃがんで河に向かい何かをしていた。近付けば女は白髪であり脇には濡らした衣やらが軽く積まれていた。その年寄りの女、それはキビである。
 彼女はキタと離れずに共にこの山へと移住していた。そしてここでキタと共に老いた。この渓流の洗い場はキビが洗濯をする場所であった。
 そしてこの日、キビは河で洗濯をしていた。

☆122

 洗濯をしながらキビは思い返していた。昨日キタが河の網に掛かったと家へ運び入れた鎧や刀のことである。「あんな物騒な物を家に上げたりなんかしないでほしい」と。
 さらに何か掛かるかもしれないとキタはその後により大きくて強い網を仕掛け直していた。仕掛けたそれはキビのいる洗い場より少し下流の場所にある。
 キビは手を止めて下流に当たる左手を見やった。流れる川面からその網の先端が飛び出して白いしぶきをあげているのが見えていた。
―あの人も物好きな人だよ、私は気味が悪いや
 そして右手の上流を見てふたたび洗濯をしようと頭を下げた、が何やら目に留まり再度キビは顔を上げ右手を見つめた。首を長くしてその上流を見ていると確かに何かが流れてきている。
―何だろうね、あれ
 キビがそのまま見ていると次第に近付いてくるそれは何か箱のように見えた。渓流の流れに上下しながら揺られて流れている。
 すぐ近くまで来たところでそれは大きめの籠であった。キビの目の前をゆっくりと流れ過ぎていった。キビはその籠の行方を目で追って左手の下流をそのままに見ていた。そして籠は網に掛かった。
 キビは立ち上がりいちど背伸びをしてその様子を見ていた。流れに揺れて籠もしぶきをあげている。キビは洗い場から降りて砂利の河岸を籠を見に歩いていった。
 キビもキタ同様、その足取りはしっかりしており腰も曲がってはいない。砂利に足を取られそうになるとすかさずに両手を広げてその両肩を左右前後に重心を保ちながら歩いていく。

☆123

 網の場所まで来たキビはそこから掛かった籠を見て思った。
―あれは造りのしっかりしたいい籠だね、流してしまうには惜しいよ
籠は水をまったく吸っていないようだった。だからこそここまで流れ着いたのでもあろう。
―誰が流したんだろうかね、甲冑といいあの籠といい
 そしてキタが使ってその岸に置いておいた長い竿を手にキビは草履のまま河に入り腿まで浸した。元は海女である。水を怖がる女ではなかった。
 流れに揺れる籠を竿でたぐり寄せ手にとって浮かべたままに岸へと引いた。籠は流されているときに見えたよりも実際は大きくて頑丈な物だった。
 籠には蓋がかぶせられており数箇所を固く縛られて閉じられていた。キビは歯を使ってその結びをやっと解いたがその前歯の一本は抜けていた。歳とったのである、キビも。
 蓋を開けるとその中身は緑の布で包まれていた。その生地が上質な物であるのがすぐにわかった。布はほとんど濡れていなかった。籠の内面には防水の加工が施されていた。
―誰かがわざわざ流したのかねぇ
 キビはその緑の布をそっと引っ張りあげて横に擦らしながら退けた。中からはさらに濃い色をした緑の布が現れた。それで何かがさらに包まれている。美しい染めの一枚だった。
 緑の布の上にそのさらに濃い緑の布を解き開いてみるとそれは竹細工で組まれた箱だった。深く蓋されたそれは大きな骨壺のようにも見えた。手の込んだそれは上質でまったく美しかった。
 キビは目を細め傾げた首を回しながら上下左右にそれを眺めた。そして一瞬ぴたりと止まり、凝視してさっと頭を後ろへ下げた。
―やだよ、まさか人の首でも入っているんじゃないだろうね
 息を止めた。キタが家に上げた甲冑が目に浮かぶ。ガラッと鎧の動いた音がしたような気にさせられた。

☆124

 何かの理由で部分部分に分離したらしいその鎧の一片。それを手に取りキタは家で眺めている。それは流れる途中でばらけたのか、それとも実際の戦いで分解したものなのか。それはわからない。
 そのいくつかには刀傷らしい斬り跡が残されている物もあり一部の物には焼き焦げた跡が付いていた。昨日からの雨のせいで河の水かさは増しその流れも速くなっていた。それらが山の民の国ほどにもさかのぼった上流の奥地から流れてきたとしてもおかしくはなかった。
 ばらばらに引き上げたそれらの各部分を上半身、下半身とそれぞれに当てはめていけば、ほぼ一体の揃った鎧兜になるとキタは目で追った。
「おまえさん!」
 声に振り向けば表にキビが立っていた。
「なんじゃ、どこへ行っとった」
「おまえさん、ちょっと来ておくれ。河におかしな物が流れ着いたよ」
「おかしな物?なんじゃそれは」
「首かもしれないよ、だれかが首を流したのかも」
「首?なんじゃと~」
 キタはキビに先立って渓流への道を下っていく。キビもすぐ後から付いて行った。
「あれだよ、おまえさん」
河岸に出て指差された先は仕掛け直した網の岸でありそこにキビの上げた籠が見えた。
 ふたりは砂利の岸を両手を広げ重心を支え前後左右にと体を傾けながらその籠へと歩み寄った。それでキタは籠を覗いた。そのキタの腰の裏からキビは顔をのぞかせる。
 「これに首が入っとったんか。ん?おい」
尋ねるキタにキビは答えた、「まだ見とらん」と。
「なんじゃ、見てもおらんのにどうして首などと言うのか」
「いやだよ、おまえさん。首が入っていそうな気がしたんだよ、だって鎧やら刀やらも流れてきたじゃないかい。首が流れてきたっておかしくはないよ、さ、開けてごらん。私には怖くて開けられないから」
 「んん~」とキタは軽く唸り「河から自分で取ったのか」とキビに訊いた。「そうだよ」というキビに再度促がされキタはその竹で編まれた細工の箱をあらためて見た。
 そのまわりに敷かれている緑と濃緑の布といい、それら一式が上質な品であるのがひと目でわかった。

☆125

 キタにはそれらの丹誠な様にそこに首などが入っているなどとはとても思えなかった。それでその竹細工の蓋を両手で持ち上げてそこから外した。その中には桃色の布が柔らかく丸みをつけてさらにまた何かを包んで置かれていた。
 ふたりは顔を見合わせた。キビはその桃色の包みを開けてみるようにと、あごを動かして無言のうちにキタへ催促する。外した蓋を横に下ろしてキタはしばらく額を掻いていた。 
 そしてその桃色の包みに手を当て中のものが見えるようにとその布をゆっくりと擦らし退けた。キタはその手先に力のようなもの、生命の息吹のようなものを感じてその手を引っ込めた。
 それに対してキビが後ろから肩をさらに突付いてきた。それに促がされキタは再度桃色の布の内へ手を当て包みを開き退けた。その中身を見てふたりは口を開けたまま言葉が出てこず固まってしまった。
 そこに包まれていたのは白い産着を着た赤ん坊だった。頭髪が生え揃いはじめたばかりの生まれて間もない頃と見える赤ん坊である。その子は目を閉じたまま動かないでいた。
 「なんてこった、こいつぁ動かないのかい」
キタはそのあまりの唐突に我を忘れて半分呆れその指先を眼下の赤ん坊の、そのこめかみに当ててみた。
「あたたかい、まだ生きている」
キビはキタの言葉を聞きながらただひたすらにその子を見つめている。
 キタはその指をそのまま赤ん坊の口元へと下ろした。するとその子はむずがるようにその唇をわずかに震わせた。
「水だ、ばあさん水」
 そう言われたキビは首に巻いていた手ぬぐいをほどいて河に入り急いでその手ぬぐいに水を浸した。そして軽く絞った後にその手ぬぐいを持ってふたたび赤ん坊へと小走りに寄ってその子の口へそれを近づけてその雫を落としてやった。その雫に赤ん坊は口を何回かぱくつかせた。
 キビはその子を包む桃色のその布に手を入れてまさぐり赤ん坊の手を包みの外へと出るようにさせた。桃色の布から出た白い産着、その白い袖からのぞくその子の淡い小さな手。キビはその手に自分の指を握らせてみた。すると赤ん坊はそのキビの指をしっかりと強く握り返した。
 「凄い力だよ」
そう言ってキタを見たキビの表情は年寄りのそれではなかった。その一瞬キビの両眼に生気がみなぎったのをキタは確かに見た。

☆126

 キタは河の上流に目をやった。
―誰かがこの子を流したか
キビは子の入ったその竹の箱ごと抱き上げてその子の顔を見つめている。
「おまえさん、この子に何かやらないと、さ、早く家に戻るよ」
 キビは河に背を返してその砂利の岸を子を抱いたまま家へと歩き出した。キタはその後ろ姿を立ったまま見送っている。そしてふたたび上流を見て眼には見えないさらなる奥地を想像した。
 渓流の水音が山あいに響いている。それは立ちあがるように空へと昇り周囲の山々を遥かに望んだ。

 キタは草履を脱がずにその縁側に腰掛けている。室内で忙しく立ち動くキビの様子を見ていた。竹箱の外側を包んでいた緑の布が床に敷かれその上に子を包んだ桃色の包みが置かれている。子は泣かないでいた。
 キビは使わずにおいた白米を取り出し粥を作りその汁を子に吸わせた。キビのことだ、必ず上手くやるだろう。キタにはその子がどれほど衰弱していようとも死ぬとは思えなかった。キビの女魂が必ずあの子を生かしてしまうだろう。
 キタは困っていた。
―どうしろというのだ、あんな赤ん坊を
もう一度河へ行ってその子を流し直せばいいかななどと馬鹿なことを考えて苦笑した。
 敷かれた緑の布地とその上の桃色の包みの様子を見てキタは言った。
「桃みたいだな」
「え?何だいおまえさん、何だって?」
「桃みたいだよそれは、桃だ、桃っ子だ」
 この突然の出来事にキビは忙しくして夢中だった。しかしキタはその子が普通の赤ん坊でないことを察知していた。
 その子を包んだその端麗な様だけではない。その桃色の包みの中にはその子に添うようにいくつかの品が託されていた。それは短刀と鏡である。そしてそこには桃の実を模した光る玉も一緒にされていた。
 それらを見たキタはその子が山の民の王家に属する者であると直感していた。

☆127

 その桃をかたどった光る玉のような物をキタはそれまでに見たことがなかった。水晶なのか、ずいぶんと珍しい物だ、とキタは思った。一緒にされていた短刀と鏡も上質な物であった。そしてそれぞれには桃の実をかたどったらしい紋章が刻まれていた。
 炭焼きの山々に暮らす人々が山の民と呼ぶさらに奥地の人々、その王国は桃の産地であった。そしてその王家の紋章には桃がかたどられていた。ここへ攻め入る際に朝廷の軍勢はその山奥の秘境を桃源郷と呼びからかっていた。しかしそれらのことを炭焼きの人々はまったく知らなかった。
 キタもそれらのことを知らなかった。そしてその日の午後、渓流を河岸に沿って上って行った。子に関係するような若い女でもがこの辺りをうろついているのではないかと思った。そしてかなり上流まで上ったが結局人には出くわさなかった。
 炭焼きの人々は滅ぼされた山の民の泣き叫ぶ声が山伝いに聞こえてくるようだと怖がっていた。その人気のない上流の場所でキタも同じように感じた。そして足早に家へと引き返した。
 キタはその足で物見の大木、監視の木へ登った。高く昇る異様な黒い煙の柱は消えていた。それとは別に白い煙が数本立ち昇っていた。そしてその日の夕方からそれらの場所から明るい光が立ち上がり空を照らし続けた。夜にはその煙が空へ続々と舞い上がっていく様子が見える。
 それは山火事である。その日、朝廷の軍勢は桃源郷を焼き討ちにしていた。キタは夜もそれをその高い場所から見ていた。合戦の音、怒号のような轟きが伝わってくるように感じる。炎の明るさに対比する山々の影が浮かび上がるその夜の闇。

☆128

 「桃っ子はどうした」 家に入ったキタはキビに訊いた。
「寝てるよ。あの子は元気な男の子だ、すぐに良くなる」 応えるキビはすまし顔だった。
 食事の後を片付けるキビ。奥の部屋に拾われた子を包んだ桃色の包みが見える。
「どうしたものかの、しばらくはここへ置いてもいいが、親か誰かが捜しに来るかもしれん」
「山の民の子なんだろうね、あの子は。でも戦争で滅ぼされたのかい、おまえさん」
キタは今も燃え続けているらしい山奥の光を思い出してキビには黙っていた。
「知らん…、ワシにはわからん」
 キタは立ち上がり奥の部屋に入った。包みの傍にしゃがんで見ればその子は眠っている。動かない子の鼻先に指をかざすと寝息がした。そのキタの背に「桃っ子には明日、湯を沸かして体を拭いてあげようかね」とキビが言った。
 その夜、キビは子を乗せた籠を拾い上げるまでの様子をキタに話して聞かせた。
「おまえさん、それで見てるとな、河上から流れてきたんだよ。どんぶらこ、どんぶらこって」
そのキビの言葉にキタは止まった。
「何だって?今なんて言った」
「何がだい?だから河上から流れてきたんだよ、その桃っ子を入れた籠がさ」
「いや、それがだからどうやって流れてきたんだ。さっき言っただろ、何て言った」
「ん?どうやってって?だからおまえさん、河上からな、どんぶらこ、どんぶらこってさ」
「どんぶらこ?どんぶらこ」
 キタはその独特の言い回しに聞き覚えがあった。その響きに不思議な気持ちにさせられたのである。その感覚を体がいまだに記憶していた。それで思い返していた。どこかで聞いたことがある。どこだったか。「どんぶらこ」と口に小さく出してみた。それでも思い出せないままに床に就いた。
 キビは桃っ子に入れ込んで以前よりも活き活きとしているのが明らかだった。でもこの先、桃っ子をどうするか。キタは天上を見つめ考えながら目を閉じた。「どんぶらこ…」
 しばらくしてキタは目を開けた。思い出したのである。そして体を起こした。
「どんぶらこ、どんぶらこ」
何年も前のことである。まだキビと出会う前。ツジにいた乞食。その乞食が確かに言った。どんぶらこ、と。あの不思議な乞食。その立ち姿がキタの脳裏に鮮烈に思い出された。
「あの乞食だ…どんぶらこと言っていた」

☆129

 次の日、まだ夜の明けきらない頃にキタは再度物見の大木に登った。風はまだ冷たい。東の空が薄明るくなりかけている。山の民のものと思われる火の手はまだ上がっていた。
 渓流の流れはいつもより濁っているように思われた。滅ぼされた人々の念が流れにのってその山あいに木霊しているようでもあった。
 仕掛け直した網に燃え跡のある木々が掛かりはじめていた。野のものもあれば加工された柱の一部らしいものなどもある。キタはそれらを岸に上げた。並び乾かせば薪の替わりになる。
 キタは昨夜思い出したツジの乞食のことも考えた。あのツジから今日まで何年経ったであろうか。気が付けば山と河に囲まれたこのような場所に自分はいる。
―どんぶらこ、どんぶらこ、自分も桃っ子と同じだ
桃っ子と同じように自分も流れてきたのだとキタは感じていた。
 キタは網をすくううちにその中に手首と鞘がまぎれているのを見つけた。手首は水を吸って膨らみ青白く変容している。キタはそれに触れないように竿で弾き出し網を渡らせた。手首はさらに下流へと流れていった。
―やはり上流で戦があったのだ
キタはあらためて上流に目をやった。
―桃っ子に関係する誰かがやってくるかもしれない

 キビは朝から桃っ子の世話を焼くことに掛かりきりであった。そしてその日、キビは桃っ子が家にやって来たことを祝おうと考えていた。そして普段よりも手の込んだ料理を用意していた。ゴマ、小豆、きな粉、山菜などを使って調理を尽くしたキビ団子であった。昼を過ぎる頃、それらを作り終えてあとは盛り付けしようとしていた。
 キタは河にいた。そして上流から馬に乗った兵士たちがやって来たのに驚いていた。

☆130

 兵馬は五騎であった。河岸の砂利をゆっくりと下りて来る、周囲を見渡しながら。兵士たちはすでにその上流からキタを黙視していたらしかった。彼らのその歩速の鈍さが逃げても無駄だと言っている。
 キタも逃げずにそこにいた。走れば追われると理解していた。彼等兵士はまだ戦況の渦中にいる、その興奮の余韻で下手をすると斬られるかもしれないことだけをキタは怖れていた。
 兵士たちは近付いて来る。その砂利に進むひずめの音。キタは家に残していた桃っ子のことを思い出した。不安がちらつく。そして騎兵はキタの周囲を近く遠くと取り囲んだ。
 その馬も兵士も煙の匂いを漂わせていた。今も燃え続けているのであろうあの山奥の場所から来たことは濃厚だった。兵は馬を降りずに周囲を見回している。そのうちのひとりがキタに言った。
「ここの者か」
キタは無言でうなずく。
「どこに住んでいる」
キタの家はその岸辺の真横に位置する場所にあった。しかしキタは無言のまま下流の方角を指さした。さらに別の兵が訊いてきた。
「この河の流れはまだだいぶ先まで続いているのだろ」
キタはうなずいた。その兵は他の兵に言った。
「どうする、これ以上の先に下っているとは思えんがな、河でなく山に逃げたのではないか、我らが通り過ぎておるのかも」 「いや、もう少し下ろう。煙が上がっていたのはこの先だ。おい翁、この先に何か集落でもあるのであろう」
うなずくキタに兵士は言った。「言え、何がある」
「焼き場です、炭の焼き場が、炭焼きの集落がありますだ」
「おまえもそこの人間か」
キタはうつろにうなずいて見せた。
「山道はないか、この近くに」
「馬の通る道なら向こう岸にはあったような」
「向こう岸か、ならばこの岸辺を下って行くしかないか」
キタは頭を下げて目を伏せた。
「誰かこの辺りで見かけなかったか、男でも女でも、翁よ」
キタは首を横に振った。
 騎兵たちはその河岸をまた下りはじめた。しかしそのうちの一騎は動かずにそこにいた。キタはその馬上からの視線を感じながらも顔をそちらへは向けずに下流を見ていた。先に行った兵士が下りながらこちらを振り返っている。動かずの兵はそこから応えて言った、先に行け後から行く、と。
 キタはその視界の端にいる岸を動かない騎兵の影に体が硬直した。その気配と音。兵士は馬から降りたらしかった。渓流の音が響く。