BED -6ページ目

221~230

☆221

 由宇は店を去り際、店主の親父に言われた。
「お客さん、あんまりだ。ほかの客が皆、逃げてしまった。港町だから。よそから人が来るのは、かまわねぇですがね。そぉ、まずいまずいと言われちゃ。気をつけたほうがいいですよ。お客さん、まだ若いんだ。あんまりだと、ここの地元の連中だって、気は相当に荒いんで。怪我するようなことになりかねねぇ。気をつけたほうがいい」
 由宇は店主を見返した。店の親父の眼つきは、しっかりしている。金を多くして渡してやった。でも謝らなかった。腹が立っていたから。夕猿は夜の港町へ散った。
 港と湾を囲んで、緩やかな傾斜の山や丘が続く。海と傾斜の間に店店が連なり、南土の者、本土の者、入り交じって賑やかでもある。表の通りから一本道を入れば、辺りは真暗く、山影が夜空に見える。静かに、その斜面にいくつかの灯りが点っている。暗がりの中で、由宇はその斜面の灯りを見つめていた。
―あんな所にも、人は住んでいるんだな
 港町の一角には、女郎屋の集まる区画がある。そこはハナビシと呼ばれていた。区画に入って行く道の入り口。番をする男が立っている。ハナビシへ入る道道の入り口には必ず番の男たちが見張っていた。ハナビシでの出入りは厳しく見張られている。
 由宇はひとり、ハナビシへと入って行った。番の男とは、面識はあったが話したことも、お互い目を合わせたこともない。ハナビシの一軒に由宇を知る遊女がいた。ハナビシで最も高い値の女であり美しかった。ハナビシの中は表の通りに比べれば静かで夜でも明るい通り。猫が戯れていた。
 その女の店の暖簾をくぐると番頭が頭を上げた。番頭は由宇を知っている。番頭は由宇が予約を入れに来たのだと思い帳簿を開いていた。
―おばんです。いつ来なすったんですか、こちらには
―今日の夕方に着いたです
 由宇は女に会えないかと訊いたが、今は無理だと断られた。由宇は自分が明日、朝一の船で本土へ戻ること、何か美味い物でも食べなよ、と女に伝えて欲しいと番頭に頼んだ。女への金を番頭に託し、それとは別に番頭に駄賃の金を握らせて店を出た。どこかの店から男女たちの大笑いの声が聞こえる。夜空に山影がはっきりと見えた。港の風に少し吹かれた思いでいる由宇だった。

☆222

 ハナビシ。夏を迎えようとする山々。夜の闇の中、その山々の呼気が町までの傾斜を伝わって降りてくる。由宇が訪ねた女は、客の眠る男を横にして目を開けていた。天井から窓の外へと目線を流したが外はまだ夜。さっきから遠くどこかで誰かの喧嘩、罵倒の叫び声が聞こえている。身を起こしたその床で、女は思い出して考えていた。
 ―そろそろ、あの人がやって来てもいい頃だよ。あの人は、台風の前に一度かならず来ると言っていた。来月になれば、台風で船は出にくくなくなる。今は海の静かな頃。あの人が来るのは、もうあと二、三日のうちだよ、そう思いたい。あの人の来るのは、もうすぐだよ。明日にだって、あの人は必ず来るはず。
 ハナビシで最も美しい遊女であるこの女は、由宇のすべてを好いていた。由宇に逢いたくて待ち続けていた。南土の最北の港町、この一角でひとり。

 女が起きれば朝で格子は明るかった。廊下を歩きながら寄った玄関先で番頭がたたずんでいる。振り向いた番頭、その表情は滲んでいたが、不思議がる女に金を手渡してきた。何だと聞けば昨晩、由宇がここを訪れて、金だけ置いて帰ったという。続けて番頭から教えられた。由宇の乗った朝一番の本土への船、今頃、出て間際だと。
 女は寝覚めのまま、一瞬のうちに外へ出た。そして素足のまま、髪を振り乱して港への斜面を走った。何度か転びながら、泣きながら港へと走っていった。由宇の名を叫びながら、坂道を下っていく。高台のハナビシからは沖の海が見える。晴れた朝。

 船はすでに港を離れていた。その船上に由宇もいる。由宇は離れていく港の家並み、その後ろの緩やかな緑の山並みを眺めていた。波は高く船を揺らす、上下に。まだ眠い由宇だが、彼は南土の土地、その人の気質をつかみづらくも感じていた。南土―
 オロチのことは、以前に聞いたことがある。その話によればオロチは南土の最果て、最も南の地で生まれたと言われていた。オロチが南土の各地に出没しはじめた頃である。由宇は南土の最北で迷っている自分と照らし合わせていた。南土のさらに最南の土地―
 どんな場所なのか。目がくらむ。暑くなりそうな気配がした。空も人も―

☆223

 由宇を乗せ船は本土へと着いた。午正過ぎだった。船主は、潮に乗れて早く着いたと言うが、どうだろね。
 港からセキの市は近い。兄のカミノセキの市があり、そこから離れて弟のシモノセキの市が立っていた。近いといっても朝から歩いて、その日暮れに着くという距離である。
 午後の港。港の住人にセキ兄弟の塩梅を訊いた。変わりはないと答えられる。カミノセキが討たれたことを港の誰も知らない。由宇はここで自分がハカタに、はめられたかと勘ぐった。南土との交易の窓口であるこの港、本土最南に位置する場所はいつもどおりだったから。
 それでも由宇はカミノセキの市へ向かうことに決めた。せっかく戻って来たのだから、と。これが嘘ならハカタの手の内をひとつ覚えることになる、とも思っていた。
 由宇は港で馬を買おうとしたが手に入らなかった。それなら誰かに乗せてもらえないかと訊いたが、うまくいかない。二穴は本来、自分も気が進まなかったから良かったといえば良かった。男の二人乗りは吐き気がする。結局、歩いてカミノセキの市へ向かった。

 港から離れれば、人影はまばら。夏の嵐を待つ稲の波波の続く。午後、暑いくらいだった。田んぼ道。空は青い。
 あと、どのくらい歩けばカミノセキの市に届くか、すべての地形は由宇の頭に入っていた。途中、道をはずれてあそこへ行こうか、そんなことを考えながら歩いて行く。
 由宇は本土に戻り安心していた。どうにでもできる。セキの市へ卸した薬物の代金回収など、どうでもよかった。もう、この頃には。
―好きにしろ、馬鹿どもめが

 由宇の容姿といえば、その背は高い。色白で目玉が大きく、顎と首に肉はなく、細くしなやか。ときどき立ち止まって鼻糞を取り出したりしていた。指は細く、腕は長い。背に巾着を背負っていた。手垢まみれの。そこに金や契約の書が入っているのである。
 手には釣り竿を包んだような布物を持っていた。それは刀であり由宇は凄腕である。

☆224

 刀。
 この時代、それに力があるということに、まだ誰も気付いていない。それなのに、若い男たちの中の一部の者は、刀を持ち歩きはじめていた。
 剣と共に生きる。まったく新しい観念が生まれはじめていた。その最先端が若き日のキジである。
 キジ。彼はあまりに早く産まれていた。あと二百年、遅く産まれていたなら。この国はもっと違う歴史を踏んでいただろう。

 由宇。彼は進んでいくが、時折、その母を思い出したりもする。由宇は母と二人だけの暮らしぶりだった。思い返すも貧しかった。
 由宇の母は、今、思えば、気が違っていたのだろう。陽気になって歌い踊り続ける日が続いた。と、思うと、何も言わず、ふさぎ込んで寝たままの母の背を由宇は、今でもよく覚えている。
 由宇の母、彼女は今で言う、躁鬱の典型であった。このあと彼女は飲酒を繰り返すようになる。ある時から、片足を引きずって歩いていたが倒れた。そのまま意識は戻らなかった。今で言う脳溢血である。
 由宇は孤児となった。十才の時である。それでも良かった。もう、二度と母親に怒鳴られたり、頭を叩かれたりはしなくなる。やっと自由になれたと思った。
 よく母親から聞かされた。自分の産まれた時分の話。父親が死んだとき、立派な体格の兵士が母親を助けた。その兵士は朝廷の偉いお方だったという。
 その兵士が産まれて間もない自分のために、刀を預けてくれた。お守りとして。その刀を由宇は小さな時から、見つめて育った。母親は夫に死なれて、女手一つで俺を育ててくれた。頭に来たことも数知れない。でも、お袋はお袋だ。由宇は、後に母の墓を建てた。
 この由宇の本当の名がサルという。生き延びるために、いくつかの偽名を使ってかいくぐってきた。夕猿の組長となって、今を歩く。お守りの刀もいつもある。
 彼を救った「朝廷の偉いお方」というのは、ツジ鎮静に走った若き日のキジである。サルは、母親を実の母と信じていた。それが飢饉のツジであったことも、生涯知らない。

☆225

 サルは歩く。田園の街道。遠く杉の林から早くも蝉の鳴いている。この風に吹かれていると、子供の時分を思い出して仕方ない。今夜の遅くにカミノセキの市へ入っても良かった。日暮れ前、途中の宿場に泊まることにする。
 宿の庭にある井戸の水で体を拭いた。女将がそれを見ていた。股ぐらを拭って新しいフンドシを締め直す。フンドシ一丁、庭への軒先に座って暮れゆく空を見上げていた。ほかにも一人、あとから降りてきた、サルと比べて随分と醜い男が。女将はどこかへ消えていた。
 来た際、通り過ぎた飯屋へ行こうと、サルは夕暮れ、表に出た。見れば通りに、客で賑わう茶屋がある。それはサルが宿に着いたときには立っていない賑わいだった。飯屋で主に尋ねてみれば、茶屋の前に立つ団子屋だという。ここ最近、昼間から夕方くらいに来ては立つようになっている出店だとのこと。繁盛していた。
 飯屋の帰り、夜、サルは茶屋に行ったが閉まっており団子屋もいなかった。宿の女将に訊いてみた。出店は美味い団子屋で、男一人、店を切り盛りしているという。
―タロウっていう名だって、茶屋の亭主が言ってましたよ
女将の言うことが本当なら、出店の男はタロウと名乗っている。
 団子はサルの好物だった。女将は、あの出店へは明日行ってみたらどうか、と言うが。明日はカミノセキの市へ急がなければならない。
 翌朝、宿場の起きる前にサルは出かけた。茶屋が開いているはずもなく出店の団子屋も来てはいない。今度この宿場へ来たとき、あの団子屋があればいいけれど、と。サルはその茶屋のたたずまいを後にした。

☆226

 カミノセキの市がある都市の名は応瀬(おうせ)という。応瀬には朝廷からの使者がいたが無力であった。カミノセキは事実上、この都市と地域を支配していた。この地帯から朝廷との交信を断とうとしていた士である。本土最南、最も南土に近い土地に君臨していた。
 応瀬へサルは入る。正午前。街の人々は普段通りに暮らしている。日頃、市へ通じる道は、夕方から完全に封鎖される掟であった。セキの一門に市への出入りは厳しく取り締まられていたが、今の時刻はそれよりも遙かに早い。門兵はおらず。サルは振り向きつつ、市へ通じる一角へとさらに入った。
 市の内部はいくつかの区画にわかれている。馬車停、検分所、留置所、競り場。買い手、売り手の待機所、換金所、遊技場、さらに賭場への道。
―誰もいない
 確かに何かが起こっている、とサルは察知する。セキの集会所がある場所へと進んだ。
 集会所へと向かう道で男とすれ違う。男は血を流していた。さらに進むと人影がしてくる。皆、朝を迎えて疲れ切っている。それはいつものこと、昨夜もここで乱交があったのだろうが、何かが違う。荒廃の臭いがした。
 何人かは、うめくようにして倒れていたが寝ている者もいる。死血の跡もかなりあった。気味が悪い。でも進まないと。銭のために。
 集会所内には何人かが円座でいるのが見えた。その周辺にも人はいて飲んでいる、ふらつき行く者。サルはその円座へと近づいた。

☆227

 円座のうちの一人が歩いてくるサルに気が付く。それに続いてほかの者たちもサルの来る方を見やった。円座の士たちはカミノセキに組していた参謀たちである。そのうちの何人かはサルとの面識があった。円座の周辺には酒瓶が転がり、食い散らかした皿が割れている。サルは集会所前に立ったままでいると円座から名前を呼ばれた。
「おい由宇、こっち来いよ、おい」
 声をかけたのはサルと面識のあるうちのひとり。この士はサルの端麗な容姿を気に入っていた。サルはこの市でも偽名を用い由宇と呼ばれている。由宇は近づいた。
 円座の士たち、その中で面識のある士へは目で、面識のない士へは頭を下げた。面識のなかった士たちは由宇を睨んでいる。血を布巻でふさいでいる士がいた。昨晩、この場所で結構な乱闘騒ぎがあったな、と由宇は直感する。
「どうしたよ、おまえこの前、南土に行くとか言ってただろうが」
 由宇は自分が南土から急ぎ戻って来たことを告げた。
「こいつはよ、薬の卸しをやってる夕猿の組長で由宇。かなりいい品を流してくれてた」
男は由宇を円座に紹介し由宇は一礼した。円座の士たちの聞く中で二人は会話する。
「あの俺、南土で悪い噂を聞いたんです。それで心配して戻って来たんですけど。シモノセキさんが揉めてどうしたとかいう話、それってほんとなんですか」
「シモノが揉めた?どんな話だそりゃ」
「いや、シモノさんが、南土の連中と戦って、どぉたらみたいな」
「由宇、おまえ何言ってんだ、俺にはよくわからねえが。誰に聞いたんだ、そんな話」
「南土の、ナガサキさんです」
 サルは情報を聞き出すために嘘をつく。

☆228

 由宇と話した士は由宇を連れて、市の外へ出た。正午前、応瀬の内は賑わいつつある。士は由宇に伝えた。自分たち、カミノの部隊は解散することになるだろう、と。
 どうしてと問う由宇に、その士は言った。
「カミノは殺された、奴はもうこの世におらん」
 瞬間、由宇はハカタからの情報が本当だと知る。由宇は若頭にあわせてくれと言った。カミノの右腕だった男である。拉致されたらしく行方がわからないと言われた。この若頭が残りの者を束ねようとした。それがうまくいかず話し合いとなったがまとまらず、斬り合い、殺し合いになった。そのなごりが集会所での騒ぎとなったらしい。
 由宇は、まだカミノに集金が残っていることを伝えた。その士によれば、市へ卸しているほかの連中も精算に訪れはじめているという。もはや応じることができるような状況ではないと言われた。おまえだから言うとくがと、由宇は念を押されて聞いた。あと二、三週。それでカミノの市は崩壊するだろうと由宇は告げられる。
 カミノを斬ったのは、オロチかと。由宇は訊いた。オロチに襲われてこうなった、と。士は由宇に言った。カミノからもシモノからも追撃の連中が放たれている、それでも相手を捕まえられずにいるのだという。それほどにオロチの連中は早い逃げ足を持っている。
―もう、金は戻らない
由宇は現状を把握した。さらに恐ろしい話を聞く。
 小さな都市であったがカワナニという街がある。この都市の賭場に潰し屋が入っているらしいというのであった。

☆229

 カワナニの街―
それはツジの南門のことを言う。賭場の名門。強者が集うと人の言う。
 そのカワナニに潰し屋が入っている。その士は、由宇にそう言った。
 潰し屋は、まず十枚目と戦ったのがはじまりだった。十枚目は破産。その勢いで、九枚目、八枚目と破り続けているという。方々に噂が飛び火しはじめていた。カワナニの十枚目が破られた、さらにこの先、潰しが続いている最中らしいというのである。
 その士は言った。おまえは顔が広い。北はキサラギの東、南は南土と。それほどの各地で、しかもそれぞれ相当な連中を相手に駆けずり廻っているのは、由宇よ、おまえくらいだ、と。自分はこの本土最南の土地しか知らないと、その士は白状した。
 その潰し屋が誰なのか、知らせて欲しい。おまえなら、見分けがつくかもしれん。もしその情報を持ってしたら、それができたなら、崩壊後のカミノの陣を、自分が立て直せるかもしれない。そのときには、おまえを士として迎え入れる。その士は、由宇にそう言った。
 それほどに、カワナニの賭場に入った潰し屋が何者なのかが、問われていたのである。どこの誰なのか。誰にもつかめないまま、賭場の名門は飲み込まれようとしていた。
 由宇はその士に訊いた。オロチには落とし前をつけられるのか、と。その士は、微妙だと言った。自分はカミノが斬られるその場を目撃したと、その士は言った。斬り手は今までに見たことがないほどに鋭く、速かったという。誰も何もできぬまま、カミノは殺された。
 その斬り手がイバラキ本人であるということは、カミノセキの陣に届けられていた。しかし誰もそれを表沙汰、口にはしなかった。カミノの部隊は、怯えながらも残りの力で乗り越える道を模索していた。

☆230

 由宇は全体を把握した。本心は言わずにいた。士にしてやるなぞと言われるいわれがない、士になぞなりたくはない、おまえはアホか、と。
 いくつかのやりとりを経て、その士からいくらかの金を受け取った。大金ではない。それでも人一人にすれば悪くはない額。もっと引き出そうと思ったが無理だった。
 午後過ぎ、由宇はカワナニの市へ飛んだ。馬をもらって。まぁいい値で買った。ほとんどタダで。
 それ行け、夏の空。青く深く、白い雲も色めきだって立ち上がる。


217~220

☆217

 山々は霧に包まれている。早朝。夏。男児は走って行った。山あいの細い道。息を切らせ止まらないで走った。木立の先に開けた場所があり道はそこへ続いている。道の先には一軒家があった。戸が閉められ人気はない。男児はその家の前から裏側へとまわった。家の裏側には畑があり、育てられた畑の作物はそのままに残されていた。
 霧が動いていく。霧は次第に薄くなっていった。男児は立ち尽くしている。遠くから渓流の音が聞こえた。男児はうつむきかけながら、重く歩いて再び家の表にまわって来た。閉じられた家の戸。その住人はいなくなっていた。
 男児の目からこぼれるように涙が落ちた。肩を震わせながら声をたてずに泣いた。声を出さないようにするほどに激しく震え、肩と息が乱れた。そのまま息を激しく震わせて、音をたてずに泣いている。涙と息がつぎつぎに出てきて止まらない。そのままずっと息を震わせて、泣いていたのは俺だ。
 目が覚めた。夢の中で昔の自分が泣いていた。その泣き様に寝ている自分も同じに息が荒くなり苦しくなり、目が覚めた。幼少の思い出。あの日の朝のこと。
 男と言うにはまだ若く細い。青年は体を起こし、今見た夢の続きを追うようにしている。立ち上がったが背が高く、痩せていた。その部屋から階上へとひとり上がっていく。屋上からは遠く周縁の外観が一望できた。足下周辺は屋根屋根が無造作に延々と続く。それが途切れた先は草原と林、遠く森の影が見える。地平線に太陽が燃えている。それは夕陽だった。青年はその陽を見つめている。照らされて。薄く生えた口と頬の髭。あご髭を薄く細く伸ばしていた。眼光鋭く、そのまま暮れていくのを見つめていた。

 同じ太陽を船上から見つめる青年がいた。夕陽は水平線へと沈んでいく。沖の風。港に着いたことを知らせる大声が響いた。潮の香に吹かれながら、揺られて。船旅の終わり、その安堵と共に陽が沈んでいく。騒がしくなる船上で、その青年は見つめていた。大きな目玉。その立ち姿。背が高く、手足が細く長い。
 この二人とも、ひどく痩せていたが、その首まわりは涼しく、共に麗しかった。

☆218

 船は港に着いた。目玉の大きな男。船を降り連れの男たちに指示を出す。高い背。闇がせまり、港も夜に暮れた。
 ここは南土である。船の出先は本土であり、その青年は船に自分の荷を積んでいた。船が航海を終えて港に入ったことは、その周辺に飛ぶように伝わった。人々は出てくる。
 その青年、背が高く目玉のはっきりとした両手足をゆらりとさせた男は、由宇(ゆう)と名乗っていた。
 本当の名は別にあった。そうであること、そしてその正確な名、それを誰も知らない。彼の容姿を知る南土の男たちは、由宇のことをユウコと呼んでいた。
 ユウコはその夜、早速とある人物と接見する。相手の名はハカタという。彼は南土屈指と謳われた九人の士のうちの一人であり、自らの市を催すほど、その地場に大きな力を持つ者であった。
 ユウコはハカタの市へ本土からの薬を卸していた。薬の売人である。集団組織を仕切っていた。彼らは「夕猿」(ゆうざる)と呼ばれている。本土のうちの一つであった。
 船は物資を積んで、無事に目的地に着いた。その船旅。南方特有の気まぐれな天候、近頃流行り始めたらしい海賊稼業の連中、それらとのご対面をユウコは心配していた。
 でももう、それも終わり。今回もすべてうまくいった。一度、船着き場の小さな店に入り一人祝杯らしきものを飲み干す。あとは詰め、その最終のやり取りだけが俺の肩に残る。判は絶対に突かせる、引く気はない。
 ハカタの指定した、そのロウソクの料亭にユウコは入る。ユウコはその店周辺に、手下の男たち数人を張らせてもいた。事前にその店の女将に金を握らせておいたが、どうなんだろう。
 南土は自分たちの知らない土地、最後、殺し合いになったら俺にもわからない。
 指定の部屋に行き着く前に、ハカタの手下に身体を探られる。黙ってそのままにさせておいた。
 「よく来た」
そう言うハカタに、ユウコは手土産を手渡す。それは団子でありユウコの好物でもあった。
 酒を酌み交わし、しばらくして場が和みはじめたころ、ハカタは言った。

☆219

 「オロチって知ってるか」
 ハカタは、ユウコより、ひとまわり以上年が上であるように見える。その両脇に手下を左右三人ずつ座らせていた。こちらは一人。七対一。男八人、その座敷にいた。ロウソクの火の揺れるのがわかる広さ。
「はい、名前ぐらいは。以前どこかで聞いたことが」
「数はそれほどでもないがな、どいつも腕が立つ奴ららしい。南土でも相当に揉めた。それでな。罠を仕掛けて待っとった。おまえも知ってるだろ、ナガサキがな」
 ナガサキとは南土九士の一人である。ユウコはナガサキとも面識があった。ナガサキの市へも薬物を卸していたから。
 「オロチの連中は、一時期姿を消した。いなくなっちまいやがった。そしたらな、本土に渡ってたそうだ。馬ごとだ。それで本土のセキって知ってるか」
「はい、ええ知ってます」
 ユウコはセキの市にも自分の荷を流していた。兄、弟、その両方を知っている。
「殺されたそうだ。オロチの連中が襲ったらしい」
 思わずユウコは眼を見張った。その大きな目玉。
「いつ」
飛び出しそうになっている目玉を見て、その反応にハカタは嬉しく喜んでいた。
「俺が聞いたのは一昨日だ。殺られたのは今週はじめくらいなんだろ。知らなかったか」
 この南土に渡航する直前に、ユウコはセキの市を訪ねていた。しかし主は不在、会うことはできないと、セキの若頭に断られていた。
 荷をセキの市へ卸し、そのままユウコは南土へと南下した。それが、セキがオロチとの戦闘に備え緊迫していた直下であったことを、ユウコは今さらに知った。
 「二人ともですか」
「兄貴のほうらしい」
ユウコはハカタには言わないでおいた。ついさっき、自分の品をセキの市へ卸したことを。集金はおろか、手付けの金さえも受け取っていなかった。
 ユウコはセキの本土へ、すぐに戻り採算を取りたい一心だった。それを言葉にできるはずもない。夕猿のユウコ。その若く細い横顔をハカタとほかの連中は睨んでいた。

☆220

 仲通り。店が並ぶ。その一軒にユウコは入った。どこにでもあるような飲み屋である。店内には夕猿の数人が待っていた。ユウコはその卓の一席に腰を下ろす。数人は立ち上がり、ユウコに一礼した。
 席に着いたユウコは黙っている。数人はそのまま立っていた。来客に店の女が注文を取りに来た。ユウコはその女に「うるせぇ、馬鹿野郎」と言い、「酒」と注文した。女は店主の元へ足早に帰ってそれを告げた。店主がユウコと立ったままの数人を伺う。店の女は怯えてそれ以後、近寄ってこなかった。注文した酒は店主が持って来た。
 ユウコは数人を立たせたまま酒を飲んだ。先に数人が注文した肴を見て「何だよ、これ。魚か」と数人に訊いた。食べてみたが、口に合わず、そのまま地面に吹き出して、それに唾を吐いた。気が付けば先にいた店の客は、皆いなくなっていた。怖くて逃げた。酒を飲みながらユウコはその卓で一人、頭を抱えていた。立たされたままの数人は、そのユウコの様子から察して固まっていた。
 「おまえらよ、座りな。今回の船旅はかなりの強行だった。みんな、よくやってくれた。ありがとよ。今さっきハカタと会ってきた。相手もなかなか強気でな。こっちの思い通りには進ませてくれなかった。でも、いい。俺は明日の船で本土へ戻る。セキの市で悶着があったらしい。もしかしたら、せっかく卸してきた荷も破算になるかもしれねぇ。とにかく俺が行ってこの目で直接、確かめる。おまえらはハカタに卸した荷の行方を、しっかりと見届けてくれ。予定じゃ、明日の昼過ぎまでには、ハカタの市に入るはずだ。それで市配人の認め印をしっかりと受け取るようにしてくれ。ハカタの野郎が、荷が着いてねぇなんて、とぼけたことぬかさないようにな。認め印さえもらったら、あとは好きにしな。」
 ユウコは常備して歩いている巾着から取り出した。それは中穴にヒモを通されて竹輪のようになった銭の束である。その一本の端の結び目を解こうとしたが、固く結ばれて解けなかった。それでユウコは仕方なくその一本をそのまま、卓上に投げ全部くれてやった。
 「これが駄賃だ。楽しみな。三十日。三十日までにヒロシマの市に入ってろ。それまでにいなければ、俺は俺で動く」


211~216

☆211

 イバラキは部隊から離れて砂丘へと登った。後方を見れば並走していた太陽と鉄の数騎が戻って行くのが見える。海岸線を走り抜けた大蛇、部隊はすでに朝廷の包囲網をくぐり抜け、その背後に抜け出ていた。
 朝廷軍は太陽と鉄を完全に包囲していた。そこからの争いの叫び声を潮風が運んでくる。朝廷の包囲に太陽と鉄は最後まで抵抗した。その怒号。
 午後の潮風は冷たく感じられた。海の波も激しくなっていたのだろう。太陽と鉄の灯した炎の列、そのいくつかが消えかかっている。それらをイバラキは見つめていた。ベニイがイバラキの元へ登って来た。ベニイにイバラキは言った。
―この距離だ、追っては来れないだろう、もう少しこのままでいさせてくれ
遠く見つめるイバラキの横顔、ベニイもその炎の列に目をやった。ひとつ、また一つと。
 イバラキは捨てられた子であった。ある有名な大寺の門に捨てられた。親の名は知れない。この寺の最長老の僧がイバラキを迎え入れ食を恵んだ。成長するイバラキは仏門を通して梵語の読み書きと書を会得した。
 物心のついたイバラキをある夜、最長老の僧が呼んだ。最長老の僧はイバラキを自分の布団へ招いた。イバラキは言われるままにしていたが犯された。以後もそれは続けられた。
 イバラキは成長し美しい少年となった。寺には女僧も多くいた。ある日、上位の女僧に言われるまま、その部屋に進んで行くと待ち受けていた何人かの女僧に引き倒された。女たちは少年を犯し、それは以後も続けられた。
 イバラキが逞しくなりはじめた頃、帝への奉献物がキサラギへ運ばれて通過していく途中、この寺で経を唱えるとして一昼夜、とどまることになった。その奉献物は刀であり、その名をハヤテといった。
 深夜、誰もいない神殿を通ってイバラキはハヤテの置かれる部屋へ入った。イバラキはハヤテを手にとり、各部屋で眠る僧たちを殺した。
 ひとつ、また一つと炎は消えていく。太陽と鉄は捕獲された。朝廷軍に囲まれて南東へと引かれていった。大蛇も姿を消している。もう誰もこの砂丘にはいない。

☆212

 「九尾さま、お迎えの方がお見えになられました」
朝、宿の主人の呼びかけに、コンは部屋を出た。玄関に待つ男二人。先にコンを訪ねて来た男二人とはまた別の男たち。
「ご主人、カワナニの屋敷跡は左手でよいか」
「出た通りを左手にしばらく行きますと、ございます。すぐわかります」
 コンは宿を出てカワナニの屋敷跡へ向かう。男二人も続いた。雷雨が去った空は青い。あの雨は梅雨。もう夏か。
 ―シュテンは捕獲され、イバラキは逃した
男二人はコンへ伝えた。二人は天網である。コンは無表情に進んでいく。
 コンのいた宿は大通りに面しており、その両側には店や民家が建ち並ぶ。コンの歩く道は南北を貫く路。途中、東西を貫く大通りを渡る。この街は南北と東西、それぞれを貫く二本の大通りを中心に区画されている。コンの宿は街の北寄りの場所にあった。
 南北を貫く大通りの右側に空き地が現れる。広い。所々に、かつてここにあったのであろう建築物の土台らしきものが残っている。
 コンは空き地の中央付近に進んだ。玉砂利の敷き詰められたその一角。静かに湧き水が溢れ出ている。コンはその湧き水の、次々と音も無く盛り上がってくる様子を見ていた。
―ここがカワナニの屋敷跡か
 カワナニの屋敷は何者かにより放火され全焼した。その跡地に建てようと考える者がいないほど、その炎は激しかった。ある意味、呪われた場所とも見なされていた。
 コンはその空き地を出て、大通りをさらに南へと進んだ。通りの遥か先にそびえるように重く横たわる門の影が見える。その門の遥か前から、こちら側に、密集した人家、長屋、それぞれをつなぐ屋根、屋根、周辺には門へ通じる入り口である狭い小路がいくつかにわかれて待っている。南北の大通り、その南端はそれら密集地に閉ざされて終わる。門の影はその遥か先にあり、混沌の口先がコンの前に寝そべって口を開けていた。
 どこから街へ入って来たのか、とコンは訊いた。男たちは、北門からだと答えた。

☆213

 「あの先に見えるのが南門だ。あの南門からこの街の外へ出る。南門は迷路そのものでな、一度迷ったら二度と出ては来れぬと聞く。周辺の地元連中も出入りはしない場所だ。危険らしいが、せっかく寄った場所だ。この中で何かあろうが、楽しかろ」
 コンは一人、先へと歩いて行った。男二人も続いた。密集地の入り口、そのひとつにコンは入って行く。男二人も続いた。
 この都市の名をツジという。ツジは飢饉を越えて、再生した。かつてキジが踏み入った都市、ツジ。ツジは生き残った。
 ツジの南門は、さらにふくれあがり巣窟となっていた。門周辺に人々は集い、さらに周辺地域までもを囲っていった。屋根をつなげ、道をさらに枝わかれにして、密集の迷宮となっていった南門。外部の者が入っていける場所でないほどに化けて、今そこにある。入れば二度と出て来ることはできないとまでに言われる。それほどまでに、ツジ南門は強靱な変容を遂げていた。
 コンは、キジの足跡を追い、このツジへ身を寄せていた。コンは調べをつけていた。キジが乗ったらしい大陸船、その乗員の渡航、多くはツジ静定の功による。ツジ平定。キジという名の男が確かにこの都市に入っている。そのわずかな記録がキサラギに残っていた。
 記録によれば朝廷はツジを鎮圧しようとした。ある仏門の一派がその任にあてられたが、目付の兵士を朝廷は派遣している。その頭角がキジという名で残されていた。
-あのバクセが、このツジという都市に来ていた、キジという名で
 コンは進む。混沌の南門を。夜であれば襲われていたであろう小路をくぐるようにして進む。夏の朝、涼し。南門の住人はその朝、誰もその姿を見なかった。コンは住民の眠る中を進んだ。
 この南門の元締めがカワナニといった。カワナニは士である。その力は強くなかった。カワナニがどこから来たのかは知れない。ツジを建設した者が昔、キサラギにおり、その子か孫かと言われた。焼失した屋敷の子孫であることは間違いないとされていた。
 そのカワナニという者が市を仕切っていたが人身売買には小さく、薬は一般に扱う市であった。このカワナニの市の最も強かったのが賭博であり、強者が集っていた。

☆214

 コンは南門を抜けてツジの外へ出た。そこは高台でありツジの屋根屋根が見てとれる。その場所は何年も前に、キタが見下ろした場所であった。
 その昔、飢饉のツジは崩壊寸前にあった。コンの立つその目の前の道。その道を若き日のキジは走り下っていった。それは昔。誰が知ろうが。
 当時にキジが予想したとおりツジは復興した。さらに今、その南門にカワナニの市が立ち混沌としている。あの南門の中に、人身売買の市と賭場があると言われていたが、コンも近寄ることができないほどに、その周辺は荒れて危険な区画となっていた。
 朝だからこそ通り抜けることができた。ツジ南門。
 キサラギに戻りコンは出兵した。ツジの宿へ自分を訪ねて来た四人、天網の構成員である若い男たちも連れて。あの渓谷の集落、炭焼きの山へ。遙かなる-
 バクセの足跡を追ってコンはその辺境に再び踏み入った。かつて自分がキサラギの一兵士として進軍した山あいの場所。
 夏、汗がたぎる。
 そうしてこの集落の若い長に脅迫をはじめていた。
「話してくれ。ここで起きた殺しのことを」

 若い長の話によれば、以前、集落から離れて暮らす初老夫婦があった。その男は流れ者で余所から来てこの山あいに住み着いたという。老夫婦は不思議な存在だった。ある時、用ができたと、この集落を離れて消えた。何年か後に戻って来たが、その時には子供を連れていた。四、五才の男の子で、老夫婦はそれに何も言わない。集落の者はその子が、老夫婦の孫だろうと放っておいた。その子の名はモモという。そのモモが遊び途中に山火事を起こした。集落の人間はモモを捕らえてせっかんした。その虐待の激しさにモモを育てる初老の男が激怒して集落へ乗り込んできた。そのあと老夫婦はモモを連れ、再び消え戻らなかった。モモと常に側にいる男子がいた。集落の子で老夫婦の家へ、たびたび泊まるほどに仲が良く、この子がモモを慕うあまり成長した後に、モモを傷つけた集落の大人たちを恨みを込めて虐殺した。その男は消えた。名をイヌという。

☆215

 コンはツジに入る前から不思議に思っていた。ある馬車が走っている。ツジでもすれちがった。
 四頭立てでゆっくりと。それで不思議に思っていた。あの馬車が何なのか、どこへいくのか。
 あの馬車はイバラキが乗った馬車だよ。片眼の御者が引くあの馬車だ。散切りのあの子も隠れて乗っている。
 売られていくんだ。何もかもを乗せて。馬車は行くよ。
 それがカワナニの南門へ行く馬車だとしても、もぉいいんだよ。好きにすればいい。

☆216

あなたの瞳に起こされた

今はまだ

まるで夢のよう

とても

あなたのまつ毛の感触が

今もまだ

指先に

残されて

癒えぬままに

時だけ過ぎて

まるで夢のよう

とても

あなたの瞳に犯された

今はまだ

まるで夢のよう

とても



鐘の鳴る 第四章 終

201~210

☆201

 海岸線の先。垂れ込めた灰空。灯る炎の列。太陽と鉄があそこにいる。それが見えた。ベニイはその海沿いから、さらに砂丘に駆け登った。見えた、中央に。
 朝廷の進行する部隊。あれで二百騎か。それは朝廷の西の隊。朝廷西隊は南北縦軸に拡がって、ゆっくりと東へ進んでいる。部隊前後の厚みが無い。真横からは、その二百騎も薄く見えた。砂だけに、その進行に音も無い。気味が悪いぜ。
 先に行かせた二人。ヤチと春亜。二人も救うとベニイは決めている。砂丘を後に、再び海岸へ降り下ったベニイの先、そこには大蛇全員が待っていた。群れて。
 砂丘から下って来たベニイを見つめていた。馬も人も。誰も何も喋らない。ベニイはその馬上で酒瓶を飲んだ。飲み干し、遠方に灯る炎の列、遥かそれを指差し、腹を抱えて笑っていた。誰も何も言わなかった。波の音だけ。ベニイの気違い、その狂気と共に。
 それにしても馬鹿じゃねえのか、海って奴はさ、何度も何度も波寄せやがって。
 ベニイを先頭に大蛇が行く。速く這いうねり。
 
 シュテンとイバラキは睨み合っていた。永遠に。その間も、砂塵が舞うのとあわせて、イバラキは少しずつシュテンとの間合いを詰めていた。
 イバラキの後ろ横にいたカイには、それがわかる。対面に立つイバラキ、その巨体の横にいるもうひとりの小人、ジンマにもそれがわかった。カイとジンマ、ジンマとカイが眼で語り合う。
 ―決闘になるのか
 ―なる

兵に砂塵の踊り潮の添い 
つわものにさじんのおどりしおのそい

 コン。彼の宿に轟いた雷は東へと移っていった。遠くで鳴っている。
 あのくらいの速さで動いていければいいのに、人は皆。あの遠く先にも、人はきっと生きている。それぞれの人生だよ、誰かを愛したり、誰かに裏切られたりしながらもの。

☆202

 ベニイの大蛇はさらに進む。前方に見える炎の列。さらに近づく。
 遠い水平線。灰色の空と白く波立つ海が見えた。それらを振り切るように走り続けて行く。ただひたすらに。
 シュテンほどの大男をイバラキは初めて見た。頭からつま先まで、脂が染み込んでいる。荒れ立った髪。短い髭が顔面を覆っていた。その真ん中の眼の光。
―綺麗な瞳
イバラキはそう感じた。
 着衣は擦り切れ、両腕は肩からはだけている。太い腕に無数の刀傷。
―刀を腕で払うためにできた
イバラキはそう読んでいたが、その通りだった。
 シュテンは真剣を怖れない。刀を体で受け止めてきた。刀が止まった隙に相手を叩き討つ。そのような戦い方をする者がいることをイバラキは予想していなかったが考えは済んでいた。
 残った刀傷の痛みにシュテンの肌は青白かった。後に青鬼と呼ばれる由縁である。
 赤っ面イバラキ。刀を一度に四本も持ってきた鉢巻きで殺気立つ男。シュテンは眼を細める。カイの様子からイバラキが普通の人間でないことが知れた。
 カイが動かされた。それがシュテンにとっては大きな意味をもつ。カイは太陽と鉄の参謀だった。カイはシュテンが認めた数少ない男の一人だった。
―闘えばどちらかが死ぬ、俺がイバラキを倒すか、イバラキが俺を倒すか
―俺がイバラキを倒せば、奴が何の用でここへ来たかは永久に知れない
―イバラキが俺を倒しても、他の奴らが襲うだろう
―どちらにせよイバラキはここからは出られない
―ここから出るつもりで下げてきた四本の刀か
 その通りだった。イバラキは帰還を予定している。
―何の用だ野郎

☆203

 イバラキとシュテンは睨み合いを続けていた。そのまま真空の状態へと入っていく。全ての音が消える。一瞬に周囲が闇に包まれる。砂が舞う。その砂粒のひとつひとつが見える。止まっている。
 この殺界にシュテンとイバラキのほかは誰もいない。しかしカイとジンマは入り込んでいた。ジンマとカイはそれぞれシュテンとイバラキの側に立っている。そして完全に止まっていた。
 今は見合いから決闘に入った瞬間にある。どちらかが死ぬ。
 本当は「俺に何の用なのか」とシュテンはイバラキに訊きたかった。どちらかが死ねば、それは知り得なかったこととして閉ざされてしまうから。
 同時にシュテンは「会いたいと言ってきたのはイバラキ、その野暮用を先に伝えるのが礼儀だろう」などと訳の分からない開き直りをしてもいた。
 イバラキの居場所をキサラギに垂れこむような卑劣を犯しておきながら、この場に及んで礼儀などという常識を掲げてぬかしていやがる。
 さらに「絶対に自分の口からは何の用かを訊かない」などと勝手に決め込んでもいた。
シュテンは若さが過ぎた。子供だった。
 イバラキも子供だった。若過ぎていた。伝えたいことがある。シュテンに。それなのに言葉にできない。言ってしまえば済むことなのに。若さの負けん気ゆえに言えないでいた。
 とにかく腹が立った。垂れこみやがって。もう少しで死にそうだった。それほどに天網は強かった。それも聞かせてやりたかった。大蛇の連中だけでなく太陽と鉄の連中にも。
 でもそれが言えない。その自分の気持ちを素直に言えない。畜生。でもいい。もういいさ。もう仕方ないんだろ。ほれ見ろよ。結局決闘になっちゃった。
 カイのような野郎がいるとわかっていたら、もっとほかの手もあったんだろうな。それでも打てるだけの手は打ってここまで来た。ここで終わる理由なんてどこにもないぜ。
 乗り込んだイバラキも迎え撃ったシュテンも若過ぎる。青春の只中にあった。生き残るために苦悩し無法に生きた。彼ら士は新しい時代の扉をこじ開けようとしていた。

☆204

 砂丘上の太陽と鉄、捕虜たちは眼下を凝視している。遂に決闘がはじまった。
 シュテンとイバラキそれぞれの横に立っていたジンマとカイ。眼で会話した。
―これ以上近づくとイバラキが斬りに出る
―おまえが先に逃げたらいい
ふたりの小人は寸前の間合いまで耐えていた。
 イバラキの右肩が下がりかけようとした。イバラキが右腰の一本を抜こうと左拳を動かした瞬間。同時にシュテンに飛び込もうと体重を移動した。その殺気から逃げようと小人たちがいっせいに横に飛び散ろうとした。シュテンは見つめていた。
 暗黒の殺界は止まっている。斬りにくるイバラキが指を動かそうとした瞬間、イバラキの左側、自分の右側の闇の中から、ひとりの男が普通の速度で歩き出てきた。
 男は斬り合うにはまだ遠い距離に立つシュテンとイバラキの間を普通の速度で通り過ぎていった。すべてが止まっている。シュテンは見開いたままの眼の端で男を追った。
 過ぎざまに男は振り向いて闘いの様子を眺めるようにし、そのまま後ずさりして消えていった。自分の左側、イバラキの右側にある闇の中へ。
 あとに男の匂いが残された。それは強烈な異臭だった。その匂いを嗅いだ瞬間に殺界の暗黒が消え去った。立ち会いに戻ったままのシュテンとイバラキは呆然と見合っていた。
 潮の風が男の異臭を運び去った。シュテンとイバラキは男が砂に残したその足跡をその両側から黙視した。今、海風がその足跡をも消し去ろうとしている。
 「見たか」とシュテンは訊いた。「見た」とイバラキが答える。さらに訊けばカイとジンマには見えていなかった。シュテンもイバラキもあの男が誰かを知らなかった。
 異臭の男は確かにツジの乞食だった。飢饉のツジで発見された乞食。乞食は当時とほとんど変わらない様相だった。盲目を装い歯の揃ったツジの乞食がなぜここへ―
 ここは海沿いの砂丘。灰色の空に警笛が高く鳴り響く。誰かが敵襲を叫び上げた。イバラキはシュテンから離れて砂丘に駆け上がった。カイとジンマが追い走って行く。
 遠く三方から攻め上がってくる部隊の影が見えた。イバラキの吐き捨てた独り言から、それらが朝廷軍であり包囲がはじまっていることを小人たちは知らされた。

☆205

 ベニイに放たれたヤチと春亜。砂丘の頂上に這いつくばっていた。そこから下の様子、赤鬼と青鬼との見合いを窺っていた。
 イバラキは見合いをやめて、シュテンから逃げるように、こっちの砂丘を走り上がってきやがった、手を付き付き。この砂丘の頂でイバラキは南を、そして左右、東西とを見比べていやがる。
 そのイバラキの様子に背後を見れば、遠く相当数の騎兵がこちらへ向かって来ているのが見えた。ヤチと春亜の二人は体を起こし、そのまま三方の軍勢の様子を眺めていた。
 横一列に三方から近づいてくる騎馬団。無音。まだかなり遠い距離にある。砂の地。
「お客さん」
声に振り返れば小人二人が立っていた。遠方横のイバラキがこちらを見ている。
 ヤチと春亜が言った。
「なんだよ。てめぇよあ」
「おまえ俺たちゃ大蛇だよ。イバラキが見てるだろ、な、ほら見なよ、ほらあっちだよ」
 それを聞いたカイは、こちらを見ているイバラキの元へ走り戻って行った。ジンマは残った。そして砂丘に肘と手をつき、ダレたままの二人を見て、嬉しそうにしていた。
「ここで見てたのかい、シュテンとイバラキとの、あん?お二人さんが」
大蛇の二人はジンマに言った。
「あぁ。見てたぜ」
「何かがあったんかいな。おかしな感じだったぜ。太陽と鉄さんよ、もっとしっかりしろい」
 ジンマがこたえて
「なんか見えたらしいんだよ、斬り合う前に。俺たちには見えなかったんだ。お宅らなんか見えたんかいな」
「何見えるってんでぇ、女でも見えたんか」
「何も見えるわけねぇだろ、こんな遠くっちゃ。砂喰ってろってなもんだぞな、おい」
「おいさ、お客さん早く逃げねえと島流しだど。ありゃ朝廷の軍勢だってよ、ひッひひ」

☆206

 ヤチと春亜はイバラキの元へ歩んだ。イバラキは二人を見ず、遠方からの軍勢を見つめている。カイとジンマも黙っていた。「馬で来たのか」とイバラキは訊いたが、歩きだとわかって天頂を見上げた。
 「ありゃ五百騎はいる。奴ら準備万端だ、三方から来てるんだ。俺たちの居場所が前っからつかまれてるってな話だぞ」
イバラキはカイを見下ろしたが、カイは眼を背けなかった。ジンマを見たがこの馬鹿が、このご時世に両手で口を押さえて笑っていやがる。呆れたもんだ。続けてイバラキはヤチと春亜の二人に言った。
「とんだ貧乏クジひいたな、お二人さんよ。もう、逃げ切れねぇぞ」
言われた二人も迫り来る軍勢を渋々と見ていた。
「酒あるかい」 「あります」
 出されたヒョウタン筒をイバラキは飲み下した。ため息ひとつ、向こう側のシュテンの軍へと歩いていった。カイとジンマ、ヤチと春亜も後に続く。
 登ってくるイバラキにシュテンは振り向いて黙った。周りには太陽と鉄が群れている。イバラキは遠方を指差して言った。
「あれも、おめぇが垂れ込んだのかい」
何も言わないシュテンにイバラキが言う。
「この馬鹿野郎が、余計なことばかりしやがって。えめえら」
 そうしているうちに捕虜の中から野次が聞こえた。シュテンとイバラキを名指しで呼んでいる。さらにハヤテを見せてくれと、声高に聞こえた。
 シュテンはイバラキの表情を見ていた。寂しげに笑っていた。そして捕虜五十人のもとへ歩み、刀一本で十三人づつ斬り、最後のハヤテで残り十人を峰打ちにして生かした。
 驚く速さであり舞いに近い。
 生き残りの十人はそのイバラキの姿を、シュテンとの闘いのすべてを語り尽くそうとするだろう。伝説はそこからしか生まれない。イバラキはそれを知っている。だから最後の何人かは必ず生きたまま残してやっていた。イバラキとはそういう男だ。

☆207

 名刀ハヤテはイバラキの左腰に下げられている。複数の剣を次々と繰り出し斬り進む姿、そのような者を太陽と鉄の誰も今までに見たことがなかった。
 カイとジンマ、ほかに太陽と鉄にいた残りの小人三人、五人の小人がイバラキに近づいた。朝廷軍は迫る。イバラキは伝えた。
 「俺の聞いた話じゃな、おめえらの軍は五十人て話だったんだ。だから最悪、おまえら全員、叩きのめす気合いでな、それで四本、刀、持って来たんだよ。一本で十人、うまく斬れても十二、三、四だ。カイよ、そうだろ」
カイはうなずいた。
 イバラキは使って投げ置いた長刀一本、手刀二本を持ってきてくれと頼んだ。小人三人が各々拾ってきた刀を、一本ずつ受け取り砂地に刺した。
 「おまえらの替わりに、朝廷の連中を斬っちまったがな。見てくれよ、どれもいい刀なんだ。血糊を拭いてやってくれや。カイよ、三本ともおまえにくれてやるよ」
刺した三本の刀、その刃筋。イバラキはしゃがみ込み、いとおしいように見つめている。
 すると斬られた朝廷捕虜の四十人が、うごめきながら次々に上体を起こしはじめた。ひとり、ひとりと意識を取り戻して、痛みにうめきはじめている。倒されていった連中が再び起き上がりはじめたのをシュテンも見つめていた。
 イバラキは朝廷捕虜を確かに斬った。しかしそのどれもを致命傷とならぬように深みには達せさせなかった、わざと。そしてハヤテにだけには、そのような斬り方をさせたくないと感じ、刃を使わなかった。さらにイバラキは言った、誰にともなく。
 「あいつらは口だけ達者な大馬鹿野郎だ。競りに出しても買い手は付かねえだろう、あれじゃ。馬鹿どもが、兵士気取りが。折檻してやったまでよ。これで二度と無駄口きくような真似はしねえだろう。奴ら死に体よ。好きなだけ苦しめばいい」
 斬られた者は、後に一人も死ななかった。しかし受けた傷のために、以前のようには動かない体とされた。そして何でそうなったのかを誰にも言わなかった。
 斬られた、捕虜として、恥の極み。以後、生きながらに苦しみ続けた。
 生かしておいたほうが、殺すことになることがある。イバラキはそれを知っている。

☆208

 朝廷の軍勢は近づいていた。太陽と鉄は次にどうすべきかを求めている。しかし参謀の小人たちはイバラキにくっ付いて離れない。シュテンもたった今見た幻影の答えを求めて違う方を見ていた。
 誰もが焦っていた。それでもどうでも良かった。イバラキだけは先を読んでいる。「泳げる奴は海へ逃げろ」 イバラキはカイとジンマに告げた。三人の小人がそれを全軍に伝える。イバラキは言った。
 「構うな、てめえのことだけ考えていけ。次の月の十日と二十日にカワナニの市で会おう。そこまで待てなければ三十日のヒロシマの市だ、わかったか。来月から十二回、一年経っても会えない場合はご破算だ。それぞれ別々に生きていこうぜ」
 何人かが海へ行くと前に出た。イバラキは「行け、早く」とせきたてる。海へ出れば生き残れる、そうイバラキは呼びかけた。カイとジンマ、他の小人たちもせきたてる。他にも何人かが前へ出た。そして部隊はそいつらを自由に行かせた。
 海へ泳ぎ逃げた太陽と鉄は二十人だった。皆、持ち馬を捨てた。しかしこの者たちは後に、全員生き残った。残りは四十人いた。イバラキはシュテンに「海へ行け」と言った。しかしシュテンは笑って動かない。「俺は泳げねえんだ」
 「あとは海岸線しかないな」
イバラキはカイたちに訊く。朝廷軍はさらに迫っている。
「この海岸線だ、走り切れるか、おまえたち。逃げるとすれば、ここしかないぞ」
カイとジンマは残りの連中に騎乗を命じ、その行き先が東か西かで口論となりつつあった。
 イバラキは見ていた。遠く。西海岸線から五十騎が近づいて来る。その先頭の兵は紅かった。
「ベニイさんが来てくれた」 「助かったな、こりゃ」 ヤチと春亜が口をきいた。
 カイとジンマ、ほかの小人はイバラキを見ていた。イバラキは何も言わなかった。その浜を大蛇の部隊は登ってきた。イバラキは朝廷軍と大蛇の軍、その進みを見比べている。

☆209

 大蛇はその浜を登り切る。太陽と鉄の残っていた四十騎と面と向かった。太陽と鉄は騒然とする。
 あまりの急にカイも驚いていた。ただ一瞬で見抜いてもいた。
―本物だ
カイの息遣いは一瞬に部隊全体に伝わる。太陽と鉄、誰もが大蛇への抵抗を放棄した。
 イバラキに斬られ意識を取り戻しつつあった馬鹿どもがその一部始終を見ている。峰打ちにされた馬鹿どもも意識を取り戻し起きつつあった。
 大蛇、太陽と鉄。二つの部隊は対峙する。騎乗の大蛇が勝っていた。朝廷に死体を送りつけるほどの威勢であった太陽と鉄は今、崩壊の寸前にある。
 太陽と鉄を釘付けにしたのが、大蛇の先頭を仕切るベニイの姿だった。赤く長い髪。真紅の鉢巻き。赤い男は細く鋭かった。そのような者を誰も今までに見たことがなかった。
 イバラキはその馬上の赤い男の下へ走り寄り、何やら言葉を交わしている。砂地からのイバラキの言葉、馬上のベニイは腰を折ってその声を聞いている。ベニイとイバラキ。二人は迫り来る朝廷の三方を交互に見ては会話していた。
 カイはその二人の様子を見ていた。音は聞こえない。ただ二人の男、その流麗さに惚れ惚れていた。イバラキとベニイ、その二人の並び姿ったら凄いんだ、惚れた。
 見とれているカイの横顔にジンマが言った。
「あいつら色っぽいだな」
 ここにほかの小人三人も加わって五人で踊りはじめた。その声を聞けばこう歌っている。
~男が男に惚れちゃった ソレ男が男に惚れちゃった ソレ男が男に惚れちゃった
 小人五人は砂丘の頂で、五人勝手に踊り始めていた。その踊り掛け声に合わせて、笛太鼓、木槌が勝手に加わっていった。追手はそこまで迫っているのに。
~男が男に惚れちゃった ソレ男が男に惚れちゃった
 太陽と鉄に踊りの輪が広がっていった。太陽と鉄は最後の輪を楽しみ出していた。
 狂気の沙汰でもある。大蛇も太陽と鉄の気違い様を見て笑い、馬上から手拍子を打って楽しんでいた。

☆210

 三方から低く地鳴りが聞こえかけていた。イバラキは踊るカイを止め、大蛇の部隊が来た西海岸線の順路を引き返すことに決めたと伝える。来た道は知った道、知らぬ東の海岸線を行くよりも確か。ベニイは充分に逃げ切れるとイバラキに伝えていた。イバラキは太陽と鉄も共に来るようにとカイに伝える。
 シュテンの巨体を乗せて走り切れる馬はいない、そうカイは言った。イバラキは、熊を積んでいる檻にシュテンを乗せ四頭立てで行く、と言う。カイとジンマ、ほかの小人三人もそれなら行ける、と感じた。カイはシュテンの元へ走り寄った。踊りの笛太鼓が自然に止んでいく。
 海風に舞う砂。カイがシュテンに話している影。ジンマとほかの小人の走っていく影。潮風に吹かれ、イバラキ、馬上のベニイ、ほかの誰もが見つめている。
 シュテンは、この場所で朝廷軍と戦う、逃げたい奴は逃げていい、と言った。自分がイバラキと戦う直前に見た不思議な爺は、きっとこの土地の霊体で、それが自分を守ってくれる。そうシュテンは言ったと、カイはそれをイバラキの元へ持ち帰った。
 イバラキは遠くシュテンの影を見て、俺たちは行く、来たい奴は付いて来い、と太陽と鉄に吠えた。迫り来る三方からの軍勢。轟きはじめた蹄の音。
 馬に乗ったイバラキは、それを見るカイとジンマを見返す。しばらく見合っていた。カイもジンマも動かなかった。カイはイバラキに、そっと手を振った。あわせるようにジンマもほかの小人も手を振った。太陽と鉄のほかの連中も、最後、大蛇の部隊に手を振った。誰かの吹く笛の音が静かに聞こえる。
 イバラキは部隊へ合流し、ベニイ以下、五十騎、砂浜を下りて海岸線を西へと駆け抜けた。大蛇の士気は頭の帰還で満ちていた。右手には荒海、その灰色の空。
 海岸線を駆け出した大蛇、その左手の砂丘側高台を何騎かの追手が並走していた。それは太陽と鉄の何人かであり奇声を上げ、眼下を行く大蛇の部隊としばらく走っていた。
 大蛇もその連中を見た。速度を緩めず海岸線をひたすら行く。しばらくすると並走の連中は止まり、大蛇に手を振って引き戻って行った。振り帰り見れば、太陽と鉄が朝廷軍に抵抗しはじめているところだった。


191~200

☆191

 二十日、正午前。約束の砂丘は雲が垂れ込めている。灰色の空。風は強い。少し寒くもあった、海沿いの場所。潮の香、吹きすさぶ。
 そんな風の中、歩きながらイバラキは思っていた。これほどに見張らしが良い場所ならば、途中で逃げ返すことは無理だと。
 馬で来ても捕まっただろう。そこは彼が予想していたよりも広く平らに続く砂地だった。視界が開け過ぎている場所。
 さらに悪いことに足が砂にとられる。斬り返す時、それは自分にとって不利だった。立ち廻るのにも踏み込みで足が沈む。
 多勢を相手に斬り合うとすれば、しばらくして必ず捕まることになるだろうと予想できた。ここは土の上でない。それだけ体力の消耗は激しくなるはずだと。
 この場所で矢と綱を飛ばされたら逃げ切れないか―
 イバラキは不利にある自分の状況を顧みていた。さらに、この場所を指定してきた相手の狡猾さを生々しく感じとっていた。
 自分は確かに腹を立てていたのかもしれない。天網に襲われた一件で。自分の居場所を朝廷へ通告したのは、太陽と鉄に違いないと感じてもいた。卑怯なことをしやがって野郎が―だからそれを問い正す、太陽と鉄に会わずにはいられなかった、頭に血が上った―
 それだけ気が急いてもいたのだろう。ある意味、自分は奴らの招きにはめられた―と、イバラキはここで気付いたが来てしまっていた。約束の砂丘、逃げられぬ場所に。
 人を卑怯と言える柄か、この俺がさ。いいさ、来ちまったんだ―
イバラキは歩き続ける、止まらない。
 俺の力なら―
前方に灯る海沿いは炎の列。炎周辺に相手部隊のたむろが見えかけていた。相手全員がそこに揃っていることをイバラキは知る。約七十騎と捕虜五十人の影。待ち受けていた。
 畏れて何になる。自分がシュテンに伝えることは最初から決めていた。それだけさ、そいつは今も変わらない。そいつを伝える、それだけだ―
 残しておいた酒をここで飲み干した、イバラキが行く。鉢巻く長髪、四本の刀と共に。

☆192

 太陽と鉄の一団。遠方から近付いて来た人影を見つめている。すべての音を止めて黙ったまま。シュテンもその影を認め眼を細めた。
 炎が激しく揺らめく。その気炎が太陽と鉄の佇まいを陽炎のようにくねらせて見せた。強い浜風。砂が舞う。風と炎と砂の音。灰色の空。
 ひとり来た男。男は太陽と鉄の駐屯する砂丘、その対面の砂丘上に立ち止まった。両者の間を低く平らな砂地が隔てている。太陽と鉄から人が二人、転げるように進み出てその砂地を走り行った。二人は小人の男たちだった。
 小人たちは時々に立ち止まり、自軍を振り返り見ながらその男へと進んで行った。小人二人は男が立つ砂丘を登っていき、頂に立っている男を呼んだ。
 「おまえさん、誰だい」
「イバラキだ。シュテンに会いに来た」
そのイバラキは胸元から書状を取り出し、二人へ差し出した。最初、小人二人は驚くように顔を見合わせた。二人とも短刀を腰に差している。
―猛者だな
イバラキは直感した。
 二人のうち一人が、警戒しながらイバラキの元へ登り、それを受け取って滑りながら後ずさりした。イバラキは小人二人の間合いの取り方に感じた。
―相当に戦い慣れしている
渡し際、見切った小人の手。その手のつくりは強い者の手だった。鍛えあげた拳。
 小人が広げた書状をもう一人へ見せている。それはシュテンがイバラキへ送った返事に間違いない品物だった。一人はそれを持って、踊るように転げ落ちながら部隊へ走り戻って行った。
 残った一人はイバラキを見て笑っている。イバラキは動かない。その小人を視界にも入れず、ただ遠くを見ていた。
 「あんたさんが、イバラキさんですかい」
イバラキは動かない。小人はイバラキの周りを廻りはじめていた。

☆193

 「一人で来なすったんですかい」
その小人がイバラキの握る殺界へ入らないようにしているのが、イバラキにはわかった。
「あんたさんと大蛇の噂は聞いてますよ。南土から来なすってね、イバラキさんはかなり強いらしいって。セキ兄弟もイバラキさんの手に掛かったんですよね、そぉ聞こえてますよ」
動かないイバラキ。小人はその反応に続けた。
 「どれがハヤテなんだろうな、その刀のうちの。怖くてこれ以上は近づけませんね、イバラキさん。何の用なんですか。シュテンだってね、強いんですぜ」
 書状を持っていった小人が、部隊が駐屯する向かい側の砂丘を登っていくのが見える。
「おまえじゃ話にならん。シュテンを出せ」
小人はイバラキを見上げている。イバラキはその小人を視界へ入れないでいた。
 「いやこりゃ凄いや。イバラキさん。あっしはシュテンとずっと一緒してきたんです。でもねイバラキさん、惚れた。大したもんだ。イバラキさん。あんさんには惚れた」
ここでイバラキはその小人を自分の前横下に見つめた。
 「あっしはクワイってんで。みんなカイって呼んできますがね」
砂丘の頂上にいるイバラキはカイを見下ろした。カイはイバラキを見上げている。二人は睨み合った。その面に嘘はない。
 「イバラキさん。あんたここで死ぬには惜しい」
イバラキは黙っていた。
「あっしが生かしてみせますぜ。シュテンに話をつけて」
 風が吹く。向かいの砂丘では、小人が持ち帰った書状を見るため、数人の影が集まっているのが見えた。その対面の様子をイバラキは見つめている。さらにひとつの大きな人影の立ち上がるのが見えた。
 カイは自軍の様子、それを見続けるイバラキを見比べながら言った。
「あれがシュテンで」
 イバラキは言った。
「燃えるぜ魂」

☆194

何があったって人は誰かを悪く言う。

そうだよ、自分を守るために。

自分のことばかりさ。

人は皆。

でも俺は違うぜ。

最初から人を憎んで生きてきた。

そう

最初から。

俺は言い訳で自分を助けていくような奴等とは違う。

最初から死んでいくんだよ、

人に理解されたときが人の死で

何が悪いのさ

イバラキ伝

☆195 これまでのあらすじ(五)

 河へ流された王子。桃源郷より遥か下流の炭焼きの地へ流れていった。流れる籠をキビが拾う。籠の中には赤ん坊が包まれていた。キタもその子を見た。子の装いは、まるで流れ着いた桃のようであった。キタとキビは、拾った赤ん坊を家へ連れ帰る。
 バクセという偽名を使って生きていたキジ。王子の流された渓流の岸を下っている。キタとキジ、ふたりはその渓流の岸で偶然に再会する。ツジで出会ってから数年ぶり―
 キタはキジを家へ招き、河から拾った赤子をキジに見せた。キジはその子が桃源郷の王子であることを認め、その事実をふたりに告げる。キジはその子を捕えなかった。キタとの再会、なぜか不思議と見逃した。キジは部下を引き連れて朝廷軍へと戻って行く。
 キジとの再会、キタは不思議と決めていた。この子を育てると。キタとキビは、住み慣れた家を残し姿を消す。キジも桃源郷討伐と王子捜索の後、その消息を絶つ。
 滅ぼされた桃源郷王家、唯一の生き残り、王子の消息は失われる。

 貴族のみが支配した社会、そこから新しい時代が生まれようとしていた。国は変貌をはじめている。武力を掲げる者たちが出現しはじめていた。出生に関わらず支配する力を持つ者たち。各地方で武力をもって支配する者たちが台頭をはじめた時代。
 彼らは自ら士(し)と名乗り、武装化と集団化を進めていった。わずか数年の間に各地に人身売買の市場が生成されていく。朝廷の権力が及ばない場所、無法地帯の人造。誘拐と拉致が最も盛んな時代に突入し、人身売買市場には莫大な金が流通していた。
 反貴族、反朝廷の意識を持つ者たちの登場。彼らは遂に朝廷の脅威となりはじめる。

 時が過ぎて。コンという男がいた。彼はキジに率いられ、桃源郷討伐に参戦した経歴を持つ。キジの下、桃源郷王子を捜索した部隊のうちの一人であった。
 コンはこの時、天網(てんもう)の主要なひとりとなっていた。天網とは反朝廷勢力を抹殺するために組織された部隊。朝廷により運営された暗殺部隊である。
 コンは反朝廷勢力と戦っていた。コンは、バクセという偽名を用いた伝説の武人、キジの消息も追っていた。さらにキジが見逃した桃源郷王子の消息をも追っている。

☆196

 遠雷は近付き、今コンの宿の真上にある。雷雨。
 コンと先に話した男、ほかにひとり新手がいた。部屋にはコンのほか、天網がふたり。
 あとから来た男の情報では、朝廷がキサラギから挙兵した。行く先は二十日正午の砂丘。目的はシュテンとイバラキの捕獲。数は六百騎。
 雷が落ちた。

 シュテンは砂丘を降りていく。イバラキの書状を持ってきた小人が、シュテンに付いて降りていく。向こう側の砂丘上では、イバラキとカイが見ている。
 慣れぬ海風。炎が舞い立つ。
 太陽と鉄のほかの連中が話し合った。
「見ろ。カイの野郎、イバラキに付いてやがる、畜生」
「カイはよ、強いと見た野郎にはすぐに惚れ込んじまう」
「それならイバラキは強いんだ、どうするんだ、シュテンは」
「シュテンはよ、馬鹿なんだ」
爆笑が起こり、その音にシュテンは振り向いた。
「馬鹿がこっち向いたぞ」と、太陽と鉄はシュテンに手を振る。
 向こう側の騒がしい様子。見ていたイバラキは、横下のカイに眼で問うた。
「えへへへ、いつもこんなんだ、俺たちゃへへ」
「なら気に入った」
「え?」
「気に入ったぜ」
 イバラキは鉢巻きを整え直した。砂丘を降り際、イバラキは言った。
「見届けな」

☆197

 ベニイに遣わされた大蛇のふたり。砂に寝そべり遠く偵察していた。イバラキが砂丘を降りて見えなくなる。
「イバラキが行ったな」
「おう。あの下で斬り合うのか、どうする。俺たちも行くか」
ふたりは身を潜め近付いていった。
 砂丘を降りたイバラキ。前から歩いて来るシュテンと小人。カイは自分の後ろにいる。
 砂丘と砂丘のつなぎ目。最も低い場所。イバラキとシュテンは、近付き続けていく。太陽と鉄、捕虜たちは、上から見下ろしている。
 イバラキはさらにシュテンに近付こうとした。
「おっと」と、手の平をイバラキに見せ、シュテンは止まる。イバラキも止まった。まだお互いが遠い距離。どちらの殺界にも入らない場所。お互いは見合う。
 ―こいつがイバラキ
シュテンは思った―なんて細い野郎だ
 イバラキは思った。
―シュテン、肉が厚い。ハヤテ一本では貫けない。最初にほかの刀で斬り付ける。何本使うことになるか。弱らせ最後の一撃でハヤテを使う。勝てる。長引けば捕まる。最速でいくしかない。あとは追っ手からどこまで逃げきれるか
 カイはイバラキの背に妖気を読み取った。「やめろ」とシュテンに平手を切って見せる。シュテンは立ち止まっている。
 「なんだカイ!てめぇ裏切りやがったか」
シュテンの横の小人が叫ぶ。風が吹く。舞い上がる砂。太陽と鉄、捕虜たちは凝視している。カイがシュテンの前へ出ようと進んだ時。
 「この野郎う!シュテンがてめええ!」
イバラキは吠えた。
「俺の居場所、漏らしやがったな畜生が」

☆198

 シュテンは無言でいた。イバラキが前へ動く。
「待て!」
シュテンはイバラキを止めた。
 「誰か、おまえんとこに行ったんか」
「おうよ、襲われた。てめえのせいだ」
「どんな奴だ」
「とぼけるなよ。ありゃ朝廷の天網だ。シノビだ」
 イバラキは懐から一枚の鋼を取り出し見せた。それはヒトデのようだった。シュテンもカイも、もうひとりの小人も、イバラキの見せたそれを見つめる。
 「見ろ」
イバラキはそれを投げつけた。鋼は転がっていた白木に飛んで行き、音を立てて突き刺さる。カイが走り寄り、白木に投げ刺さったヒトデを検分した。
 見たこともない飛び道具。
「その刃先には毒が塗られていた。奴等の武器だ」
 それは手裏剣であったが、当時、誰も見たことがなかった。
「皆、黒装束だった。天井から降りて来やがった」
 風が舞う。シュテンが、「シノビは何人で来た」かと訊いた。イバラキが応える。
「三人だ。三人とも斬ってやったがな、そのうち一人は女だった」
 朝廷の運営した暗殺部隊を天網という。天網とは、忍者の集団であった。忍者とは忍術を使う者をいう。
 忍術とは、先に大陸で起こっていた剣術と対立するため、朝廷が秘密裏に開発した戦闘法のひとつである。
 朝廷は他にも戦闘態形を開発していた。そのひとつに妖術がある。妖術とは亡霊の力を使って闘う方法であり、危険であった。
 帝都キサラギ、そこには妖術を使う者もいた。

☆199

 朝廷軍六百騎は、二十日の砂丘外環に待機していた。目的は、イバラキとシュテンの捕獲である。
 昼夜、燃え続ける炎の列がある。遠洋の猟師が通報していた。炎は士の一隊らしい、砂丘に駐屯しているらしかった。
 探れば炎の主は、太陽と鉄に間違いなかった。太陽と鉄は動かないでいる。何かを待っている。シュテンの居場所はキサラギへ伝わった。
 シュテンがキサラギへ送った捕虜、後に失踪した男によれば、イバラキとシュテンが二十日に会う、場所は知れない。
 ならばイバラキは、シュテンのいる砂丘へ向かっているはず。イバラキが二十日、シュテンと会うために砂丘へ北上していると読めた。
 朝廷軍は二十日の砂丘へ向けて、キサラギから挙兵した。十六日である。出撃の情報は、宿にいるコンにも伝えられた。十八日である。
 二十日。太陽と鉄は、イバラキを待ち受けている。東西に広がる砂丘、その西寄り、さらにその海岸沿いの北の場所、砂丘西部最北に部隊は駐屯していた。
 太陽と鉄が灯し続けた炎は、イバラキへの信号だったのか。代償としてシュテンの居場所はキサラギに漏れた。
―それでもいい、俺たちゃ男だ、かかってこいや、キサラギよ
―イバラキを倒しても、流浪は続く
―貯まった金を山分けにして、解散してもいい
―でも誰も、シュテンから離れないで行くと思うぜ
―俺もそう思う、シュテンと一緒にここまで来たんぞ、最後まで行く
―俺も行く、死んでもかまわん
―俺もだ、金なぞいらんが、シュテンには付いて行く
 朝廷の六百騎は各二百騎ごと、三隊に分かれた。それぞれ西、南、東、すでに太陽と鉄を包囲していた。早朝から各隊が横に拡がる形状で、緩やかに海岸線へ詰め登って行った。

☆200

 ベニイは、砂丘の外環に立っている。場所は砂丘の最西端、その最北端である。朝廷西隊の待機場所より北の場所。最西の北の海岸に大蛇は陣取っていた。
 大蛇、五十騎。部隊としては小さい。それでも見つからぬようにしてもいる。何人かは我を忘れ、海辺に降りて遊んでもいた。心は虚ろだった。
 誰もが強者、でも知らぬ土地。頭のイバラキは行方が知れない。北側の海、その大きさに圧倒されてもいた。泳ぎを知らない者も多い。
 獲った魚に大声を上げても、嬉しくはなかった。焼いて食べようが好きにすればいい。
 イバラキの不在から、部隊は自己を見失いつつあった。それほどにイバラキは大きな存在、指標だったのである。
 ベニイは海先を見つめている。イバラキと似た長髪。赤毛。吹き付けた知らぬ風が。
―這い上がってきたのさ、南土からさ、やっとしてよ
―イバラキと会わなかったら、もっと早くに死んでいただろう
それがベニイの想いだった。
 ベニイは赤毛であった。赤毛ゆえ差別された、見知らぬ人々から。親族からも罵られた。幼少時代よ。
 イバラキは無法だった。常識は無い。表面に意味がないことを悟っていた。だからベニイの非常の内に才を認めることができ、さらに重きも置いていた。
 ベニイは戦時、赤い鉢巻きをする。ベニイの赤毛はイバラキの赤面と馴染んで、赤鬼と成っていく途中にあった。
 放っていた一騎が戻って来た。進軍する朝廷軍を見たという。その数、二百騎。
 本土で最初に交戦したセキ軍が二百騎だった。今度の朝廷軍も二百。この士気では負ける、とベニイは読む。他の大蛇も同じだった。部隊は戦闘を回避する。
 朝廷軍の向かう先にはイバラキがいるんだろう。前に太陽と鉄、後ろから朝廷軍とさ。イバラキは挟まれたんだ。ただ一人で。
 ベニイは馬を東に走らせた。海岸線。イバラキの救出に向かった。部隊には何も言わなかった。ベニイは離隊したのである。イバラキよ、今行く、待ってろ、と。
 部隊はここで解散となったが、残りの者全てベニイに続いた。海岸を疾走していく。


181~190

☆181

 灰色の雲が大きく動いていく。雨がまた一滴、顔にあたった。御者は話す。
「オロチの奴等がセキの兄貴を殺したんだよ。まさかな、カミノセキの軍がやられちまうとはな、たまげた。半年前には誰も予想しないこった、な、あんさん、知ってるけ?つい最近のことでっせ、オロチが本土へやって来たっちゅうてな、この辺りじゃあ騒ぎになった。そしたらカミノセキがやられちまうとは」
イバラキは黙っている。
 「オロチの連中は、セキの縄張りで商売はじめとるらしいがな、セキの市にも、カワナニの市にもな、オロチの品物がまったく出てこんで、みんな不思議がってる。南土の市にまで運んでるんじゃぁないかって話もあるが。なぁわざわざそこまでするかねぇ」
御者は続ける。
 「わっしの考えじぁあな、オロチはオロチを名乗らないで、市に出荷しとるんじゃ、そうすれば誰にも気付かれないで売りさばける。第一な、オロチだとわかってみぃ。セキもカワナニも出入り禁止にするじゃろ、オロチを。んで市には入れんようにするはずじゃろ」
馬車は進む。
 「だからな、オロチの連中は新参者の売り手じゃろ、個人でな、オロチ名乗らずに出荷しとるんでねぇか、な?あんさんみたいにさ、独りもんの士になってだ、売りに出しとるんじゃないかい?え?あんさん。近頃の市じゃあな、セキでもカワナニでもない、聞いたことない士の競りがかなり増えてんだ、あんさんみたいな。そいつらみんなオロチの品なんじゃないけ?へへっ、へへへ、どうだいあんさん、えへへへ」
 なかなか鋭い御者の読み、イバラキは無反応だった。御者は得意げに笑っている。潰れた左眼が横のイバラキを窺うように、くりくりと小刻みに動いた。
 御者はイバラキの反応を楽しんでいる。その狡猾さ、余計なことを言う髭面、この小男が。腹立たしい。殴りつけてやりたくなる。そうして潰された左眼なのだろう。御者の口元はまだゆるんでいた。
 雨の降り出しそうで降らずにいる午後。ゆっくりとして生あたたかい風。イバラキは懐から酒瓶を出し口にし、御者にすすめた。御者は断ったがイバラキは無理矢理、御者の腹にねじ込んで酒瓶ごとくれてやった。
 かすかに遠雷の音がする。

☆182

 本土南部で最大の市がセキだった。周辺には他の市も存在した。カワナニの市もそのひとつである。
 市の立つ日は決められている。市には大金を持つ人々が集まり、人身売買は大いに賑わった。市では金が動く。市の立つ日、その金目当てに、飯屋、酒屋、宿屋、手配屋、数限りない人々が寄生して集った。すべて鬼畜である。
 それら鬼畜が市の内部で成す各々の商売、その売上げの数割が、その市を開く士に吸い上げられた。その収益は朝廷が脅威と見なすほどの莫大な額である。
 オロチはこの市の現場へは直接に現れなかった。さらった人間を競りへ出す出品の手続き、売れた代金の集金、すべて外部の人間を雇い使っていた。
 オロチはまだ本土で存在を認められていない士だった。本土の市は敵の領域である。競りの様子を見に入った敵の市で、市の元締めである地元の士に捕まるような危険を回避していた。
 カミノセキが討たれその軍が分裂し、セキの市の出荷量は減っていた。セキの市は縮小をはじめている。かわりにセキの市以外からの出荷が増えはじめていた。セキの市周辺に点在していた他の市での取引が盛んになりつつあった。
 セキの市周辺に市を持っていた小規模の士たちは、この機会に自らの市場を拡大しようとした。集められるだけの品を集めるため、自らの取り分を少なく設定してでも商品を集めはじめた。
 一方のセキの市も、衰退を避け周辺の小市場に対抗するために動いていた。品を集めるため、荷の出所には構わずに出品に応じた。
 オロチは追い風にあった。オロチはセキの市にも、セキの市を猛追しようとする周辺の市にも、好条件で出品しはじめていた。どの市も、オロチの品に遭遇しても目をつぶりはじめている。集められるものはいくらでも集めはじめていた。オロチの品であろうと、金になれば黙って市場へ流しはじめていた。
 この状態をしばらく持続させた後、オロチは本土南部という新天地で、公然と商売をはじめるようになっていくのである。あとは時間が過ぎるのを待てばいいだけだった。
 これらは以前にも、オロチの一派が南土でも起こしていたやり方だった。侵略の手順を彼らは熟知していた。

☆183

 一枚の地図。地図上に朱筆で記された何かの軌跡。軌跡を指でなぞる指。指は朱(あか)い軌跡をたどって地図上を右往左往と蛇行する。
 指をのぼればコンの横顔へと続いていた。コンの横顔の向こう、訪ねてきた天網の男、その横顔も地図を見に前へ出た。コンは男に伝える。
「誰が付けたか、大蛇(オロチ)とはな、よく言ったものだ」
 雨の降る。
「これは南土だ、この朱が大蛇の連中が動いていった軌跡」
遠雷が聞こえた。地図上にくねり残されたその様、姿形はまさに蛇である。地図は大蛇が南土を動いていった形跡を記したもの。 
 背を伸ばしコンは低く言う。
「イバラキを逃したとすれば奴は今頃、約束の日取りを目指して北上しているか」
その通りイバラキは独り、約束の場所へと北上を続けていた。
 馬車は行っちまった。別れ際、イバラキは馬車を降り後ろの小窓から中を覗いた。散切りの細い子が、上物の女の子の胸に手を入れ、接吻を教えている最中だった。イバラキのさらった男兄弟二人は眠らされている。あきらかに薬、散切りが飲ませた。
 薬市場にはイバラキも注目していた。主流は大麻、芥子、茸である。ただ薬は育てるのに手間暇がかかる、人はかからない、それがイバラキの考えだった。イバラキはいつか自分の市を持ったとき、薬の市場も取り込む寸段でいた。
 散切りの細い子、取り込み中のあの子がくれた二枚の木札を改め見て、イバラキはそれを懐へしまう。馬車と別れ歩き続けた。雨雲も置き去りに。
 本土には大規模な士が複数いる反面、誰も抜きん出ていない。小規模な士も点在している。鬼畜無数の士が、地元で実力を持ちはじめた頃でもあった。
 「天下取り」という概念が明白化していない時代でもある。問題は先鋭的な士が反朝廷の意識を掲げはじめていたことにあり、イバラキもそこにいた。
 イバラキはこの時、朝廷を転覆させるという全く新しい考えに到達しようとしていた。そのために北上を指揮した。しかしその新しい概念を話せる相手がいない。その概念こそは今の「革命」だった。当時、イバラキ本人でさえもうまく言葉に説明できないでいる。
 朝廷は反朝廷の感情を、秩序に混乱をもたらす動機、獣と同じ卑しむべき心、野のものとして「野心」と呼びはじめ警戒を強めていた。
 後に朝廷内においては「武士」と「野心」というふたつの言葉はつながっていくものとなる。

☆184

 セキと戦う以前、本土に上陸した大蛇は、本土の士たちの状況を調べた。南土で聞いた噂と、実際の現状は異なっていたが、大蛇は本土勢力の現況に通じていった。
 大蛇はセキとの戦いに勝った。大蛇はさらに本土市場に食い込むことを目指している。同時にその先にあるのが帝都キサラギであることを実感していた。
―朝廷を倒す
イバラキは確信していったが誰にも言えないでいた。
 本土の士のうちにイバラキが注目した一隊があった。拠点を持たずに移動を続けているらしい。彼らは「太陽と鉄」と呼ばれていた。
 太陽と鉄は、もともとは別々の部隊だった。「太陽」と「鉄」という二つの部隊であった。これが合併しひとつになったと言われる。太陽と鉄は、騎馬兵三十、歩兵三十、総勢六十の軍団だった。自らの市を持たない小規模な士のひとつとして、本土で活動している。
 この太陽と鉄が、他の士への暴力事件を頻繁に起こす集団として知られた。大規模な士たちは、太陽と鉄を問題視した。
 太陽と鉄は、大規模な市を運営する幾人もの士から、その市への出入りを完全に禁止されていた。それらの本土の士は、太陽と鉄を士とは呼ばず、最悪な蛮人とも呼んでいた。太陽と鉄は、本土を流浪しはじめていた。
 太陽と鉄の頭がシュテンという。シュテンは大男で怪力を持つ。刀を使わず鉄の棍棒で相手を叩き殺していた。
 シュテンは二頭の虎を飼っていた。さらに部隊は四頭のヒグマを飼っていた。二頭の虎はシュテンの持つ鉄の手綱でつながれている。四頭のヒグマは一頭ずつ檻に入れ、部隊は各檻を牛車で連れ引いていた。
 ある時、太陽と鉄は両側を山に挟まれた細い街道を進んでいた。前から来たのがやはり移動していた騎馬兵百、歩兵二百、総勢三百の朝廷の軍勢だった。山道で鉢合わせしたのである。
 「どけ」、「どかぬ」といった激しい口論から衝突して、死者の出る大乱闘になった。

☆185

 太陽と鉄の先頭を行くのは楽隊であった。笛、太鼓、木槌と歌、それにあわせて踊る者。その後ろから歩兵たちが数本の旗を点々と立てて進む。水田地帯を行く。遠くから見ると豊作を願う祭りの一行のように見えた。
 部隊には、女装して化粧をした男たち、騎兵に同乗する男娼たち、小人たちがいた。猫を抱いて行く者もある。十数匹の犬も放し飼いにされ一緒に進んだ。
 小人たちは道化でもある。部隊の前後を走り回って忙しい。その都度、人を馬鹿にしたような笑い声、怒鳴り声などが絶えない。
 自分の虎を檻に入れシュテンもあとから付いて行く。夕暮れ、松明が揺れる。横から見た部隊の影、シュテンの巨体が飛び出て見える。虎と熊の咆哮がした。
 太陽と鉄が朝廷軍と対峙したとき、シュテンは部隊最後尾からさらに遅れた場所を何人かと歩いていた。道の先で騒ぎ声が上がっていた。しばらくして小人が走って来た。シュテンは先頭で朝廷軍と斬り合いが始まったことを告げられた。
 シュテンは前を行く部隊に走り寄った。両側を山に遮られた細い道。背伸びして見れば最前線では煙と怒号が立ち昇っている。両軍の騎馬がいなないているのが見えた。
 シュテンは部隊後方に止められていた熊の檻を全開した。四頭の熊たちが放たれた。叫び声が上がり続け混乱した場の空気、熊たちは興奮し前方へ走り出した。熊の首輪につながる鎖を持つ者たちが引きずられ、さらに奇声を発した。
 部隊後方にいた者たちが熊に襲われそうになっていた。
「逃げろ!熊が来たぞ!」 「うひゃっ!」 「後ろから熊が来た!」 「逃げろ逃げろ!」
 後ろから走りこんで来る四頭の熊。細い道、両側の山に遮られ前がつかえていたシュテンの部隊。後ろにいた者たちが熊から逃げるために前へ押し寄せる。シュテン側の最前線へ次々に人が集まった。
 「何やってんだこの野郎!押すなや!」 「馬鹿逃げろ!熊が来た喰われちまうぞ!」
もはや朝廷の軍などどうでもよかった。シュテンの軍は戦いの真最中、押すな押すなの大騒ぎになる。
 部隊の連中は後ろから来る熊と前の朝廷軍を避け、両側の山へと二つに別れ登った。馬に乗る者も馬を引いて山裾を登った。

☆186

 両側の山裾へと逃げ入った士たち。開けた道先から朝廷軍に向かい、熊数頭が走って来ていた。熊たちが騎馬に襲いかかる。馬たちは巻き込まれるように次々に倒されていった。その様子に他の馬たちが怯える。朝廷の馬は前へ出ようとしなくなった。
 朝廷の前線は熊の襲来に混乱、撤退をはじめる。さらにシュテンと虎も前線へ到達、一人と六頭で猛然と追撃をはじめた。馬も人もシュテンの鉄棒に打たれて引き続けた。
 熊、虎と共に戦う棍棒の大男。それは朝廷軍の誰もが初めて見るもの、異様だった。
 両裾へ逃げた士たちは、山影から朝廷軍を矢で射りはじめていた。朝廷の前線は次々と倒れ崩壊を始める。シュテン一人によるあまりに型破りな様、その命知らずの戦い振りと怪力。朝廷兵は仰天していた。
 山へ昇り入っていた小人とほかの士たち、そのまま山中を朝廷軍後部へと向かった。山下の細い道、朝廷の三百もの部隊は縦に長く続いている。軍後部の兵士たちは、前線で戦闘が勃発していることを全く知らない状態にあった。
 朝廷軍最後部へ廻った士たちは、数本の大木を眼下の道に切り倒した。朝廷軍の退路を断ったのである。さらに士は朝廷軍の中間、部隊の真ん中に当たる道部分にも大木を倒した。朝廷軍を前後に二分したのである。
 士は朝廷軍の最後部と中間部に大木を倒し続けた。そしてそこに火を放った。二分された朝廷軍は、それぞれの前後を火に包まれる。
 士はさらに山裾両側の全体にも火を放っていった。火の出ていないのは最前線のシュテンのいる場所だけとなった。最後、その先頭にも木を倒し火を放った。
 シュテンと六頭はここで一息ついた。朝廷軍は四方を火攻めにされ、大混乱に陥っていた。炎の向こう側。
 シュテンは黙って、その燃え盛る様を見つめていた。小人数人がシュテンと火攻めの様子を見比べつつ、盛んに周囲へ指令を出している。
 熊を檻へ連れ戻すために、こちら側の周辺も大騒ぎになっていた。虎も腰を付けて、盛んに水を飲んで止まらない。両軍の怒号が、炎と共に舞い上がっていく。
 火を越えて逃げてきた朝廷兵と馬は、士に次々と捕まった。捕虜となった朝廷兵は百人、捕えた馬は七十頭。朝廷軍は完敗する。その後、両側の山火は一昼夜燃え続けた。
 これまでにも朝廷の軍と士の軍が対峙することはあった。逃げるのは士である。追うのが朝廷軍であった。戦うことはなかった。
 朝廷軍を破った士の戦いは、この時のシュテンが初めてだった。この戦いの情報は、瞬く間に本土全域に広がった。太陽と鉄の名は轟く。
 本土の大規模な士たちはシュテンの戦いに驚嘆した。イバラキもこれを聞いた。カミノセキを討った直後である。

☆187

 太陽と鉄は朝廷軍捕虜から、衣服、鎧、武具のすべてを奪い潤った。全員が馬を持つ部隊に発展する。
 捕虜同士に殺し合いをさせた。見世物にして金を集める。大規模な士が市を立てた横の場所で素手で殺し合いをさせた。
 市に来た者は目的の競りよりも、捕虜の殺し合いの方を楽しんだ。生き残った捕虜は虎か熊に襲わせる。それも見せた。
 見世物には千人が集まる。横で行われる市を置き去りにする人気だった。シュテンに大金が集まる。
 市を開く士は憤慨した。でも手を下せない。相手が太陽と鉄だったからである。
 太陽と鉄は、見世物で死んだ捕虜をキサラギに送り届けた。死体には手紙を持たせる。手紙には、横で市を開いていた士の名が記されている。この朝廷兵を殺したのは市場を開いたその地元の士であるという旨が記されていた。
 たまったものではない。市を開いた大規模な士は、濡れ衣を着せられる。朝廷はその土地へ挙兵しその士を追った。手紙に名を挙げられた士と市は散逸する。以後その土地で市が開かれることはなかった。
 太陽と鉄はさらに、その土地の士へ和解金を要求した。払わない場合は、その土地で見世物を開き続ける。
 たまったものではない。捕虜の死体は、濡れ衣の手紙と共にキサラギへ送られる。どの士も、以前は格下であったシュテンの要求に応じるようになっていた。
 移動した新たな土地でも見世物は繁盛して止まらなかった。その横で市を持つ士は、濡れ衣を着せられた。死体は次々とキサラギへ直送された。太陽と鉄に金は集まり続ける。
 この地へ来ないでと、他所の士たちからの嘆願がシュテンへ届いた。シュテンはその送り主たちへ、和解金を要求した。莫大な金額。払わなければ乗り込んで見世物を開く。
 捕虜は半分に減っても五十人いた。シュテンの名が、キサラギでも通用するものとなっていった頃。朝廷は元凶がシュテンにあり、その命を狙って動こうとしていた。
 一通の手紙がシュテンに届けられる。大蛇のイバラキからであった。

☆188

 イバラキの手紙。シュテンと会いたいと書かれていた。大蛇の噂。シュテンも聞いていた。ハヤテという高速の剣。大蛇の頭イバラキ。カミノセキも討たれた。
 手紙にはイバラキの居場所が記されていた。南の宿場町。宿の名前。イバラキはその宿でシュテンからの返事を待っている。
 シュテンはイバラキへ返事を送った。約束の場所と日時を伝えた。海沿いの砂丘。二十日の正午に待つ。
 シュテンは朝廷捕虜のうち、最も位の高かった男を呼んだ。男にイバラキの居場所を教えた。情報をキサラギへ持ち帰らせた。
 イバラキの居場所。情報は天網のコンへ十日に伝わった。イバラキがいるという宿。信憑性は高い。
 コンはその宿へ三人の刺客を送った。刺客は十三日にイバラキを襲った。
 コンは宿にいた。雨の降る。九尾という偽名で泊まっていた。待っていた暗殺報告。天網が返り討ちに遭ったと聞かされた。十六日であった。
 情報を持たされてキサラギへ戻った男は失踪した。男は言った。シュテンとイバラキが会う。二十日正午。場所は知らない。
 イバラキは北上していた。二十日正午の砂丘へ向かう。途中で捕えた男の子兄弟。馬車へ乗せて旅立たせた。
 兄弟の両親は探し続けた。夜になっても戻らぬ我が子。誰も二人の行方を知らない。茶屋の売り子だけが知っていた。兄弟は痩せた男について行った。
 生気のない男だった。亡霊のごとき。男が士だと売り子は気付いた。黙っていたが怖さが募る。売り子は失神して寝込んでいた。
 イバラキの宿を襲った三人。皆黒装束。顔を隠していた。一人は天井から降りて来た。見たことのない武器を使う。奪った武器をイバラキは見つめた。
―あれが天網
 朝廷の殺人部隊の噂。イバラキも聞いていた。天網はシノビとも呼ばれる。

☆189

 身分を隠し泊まった宿。天網に襲われた。自分の居場所。漏れたとすればシュテンへ送った手紙からか。
 殺し合いの騒ぎ。宿の主人が泡を吹く。黒装束の死体。部屋の客は闇へ消えた。
 翌日。町外れ。ほかの大蛇が数人。約束通りに待っていた。イバラキが来た。そして伝えた。二十日正午。海沿いの砂丘。シュテンと会う。
 イバラキは一人。行っちまった。
 ベニイという男がいる。イバラキの側近。イバラキより先に大蛇にいたという。二人は共に南土を駆け上がって来た。イバラキをよく知る男。イバラキに次ぐ男。
 イバラキ。一度口にしたら必ずやる男。止まらない男。誰にも止められない。ベニイはそれを知っている。だから行かせた。そのままに。
 ベニイに伝えられたイバラキの行方。ベニイは手下の二人を行かせた。二十日正午。約束の砂丘へ。
 イバラキとシュテン。決闘になるのか―
 ベニイは大蛇を率いた。部隊を進める。砂丘の外環。大蛇全員が待機した。約束の砂丘で何が起こる。先に行かせた二人。見届けろと。その報告をここで待つ。
 太陽と鉄。相手は何人で来る。わからない。もしイバラキが倒されたなら―
 即座に攻め上がる。相手をその場で討つ。それしかない―
 イバラキが倒されたら―その現実に部隊は揺らぐだろう。結束は弱まる。時間の経過とともに部隊の士気は落ちていく。それを止めるには速攻しかない―
 ベニイはこの時。イバラキが討たれた場合。即座に攻め込む寸段でいた。
今さら南土へ戻って何になろう―
 士をやめることは許されない。誰にも。士となったからには止まることはできないのだ。士とは抜け出ることの許されぬ道。逃げることは許されない。士をやめることができるのは死だけ。死んだ時。士が終わる。
 戻る気はない。東へ進むしか道はない―

☆190

 太陽と鉄。彼らはあまりに無骨な連中だった。死を知らず、また怖れてもいない。
 片腕の無い者、足をひきずり歩く者。皆、戦いの傷を負っている。包帯の血が止まらないまま笑って飲んでいた。そんな奴等だった。足が無いままに犬に吠えられている男がいた。
 皆、陽気だった。常に音が鳴っていた。太鼓、笛、即興の歌声。それを聞いて野次を飛ばす。小人が盛んに次の出し物に気を配って走り回っていた。笑い声と吠え声。
 昼、夜と火を焚いていた。それが対岸からも見える。遠い海からもそれは見えた。
 太陽と鉄。彼らはいつも震えていた。寒すぎる全て。だから火を消すことができなかった。
 ベニイに遣わされた大蛇の二人もその火を見た。遠く。砂丘の果てに燃えていた。
 南土にはなかった。これ程に広い砂地。海風が強い。昼も夜もその火は燃えていた。幾つもに連なって。 
 大蛇の二人は、その砂に伏せて見張っていた。何で、まぁ、こんな場所に。イバラキも一人で来るってか、よくまぁ、やったもんだ、と。
 小便を垂れに行った一人が急いで戻って来た。イバラキが来た、と。
 イバラキは来た。一人で。後ろに結んでいた髪を一度解いた。長い黒髪。海風に揺れる。頭を垂れて手で鋤いた。
 長い手布を鉢巻にした、その黒髪。頭頂から垂らして背と風に揺らせた。最も長い剣をその背に、ほかの三本は右腰と左に、それぞれ二本と一本づつ、腰に結わえた。
 死に時。それでも構わない。
 見張りの二人も、砂に寝そべってそれを見ていた。イバラキは一人して歩いて来た。見たこともない砂の場所。海の風。知らぬ相手。
 それなのにイバラキは一人で来た。約束の場所に、たった一人で戦いに。何も出てこなかったけれど、ただ涙だけが溢れてきた。


171~180

☆171

 イバラキは目を覚ました。真上に太陽が照る。眩しい。真昼だった。深く息を吐きながら横に首を倒す。上から、下から、人の足が次々と移動しているのが見えた。足音が地面を伝わって聞こえてくるようだった。イバラキは街道の真ん中で、仰向けになって眠っていた。昼になるまで、地面で寝ていた。
 イバラキは寝たまま、腹と腕の刀がそのままであることを確認した。しばらく大の字でいた。自分を上から覗きこんで行く人々。太陽がその上にあって、人々の顔を影にした。皆、道端で眠る男の様子には怖がって、見るが黙って過ぎて行く。
 イバラキの異様を道端から見ている男子がいた。四、五歳か、その子がイバラキに近付いて言った。
―おいちゃんの顔、真っ赤だ
イバラキは体を起こした。自分の首筋から顔面を手で撫でた。顔の皮膚が張って仕方がないのは、酒のせいだ。自分の顔面が燃えているみたいなのも、酒のせい。
「赤いのはよ、鬼灯(ホオズキ)みたいだろ、な?鬼灯だ、わかるかい鬼灯」
イバラキは子供にはいつも、まずそう言って近付いた。
 鬼の灯―

☆172

 イバラキはその子を連れて、街道を少し歩いた。茶屋へ入って茶を頼む。子供には甘い菓子を、好きなだけ食わせてやる。売り子に訊けば、ここはイバラキの向かう目的地の途中にある宿場。酔いながらも予定通りに進んだことを、イバラキは確認していた。
 この近くに、日に一度、昼直ぐに通る馬車停があると聞いていた、士が専用で使う馬車。人はそれを知らなかったが、イバラキは知っている。
―もう馬車には間に合わねぇな
 訊けば子供は、この宿場に住んでいた。明日の昼前に、もう一度この茶屋へおいでとイバラキは言った。他に兄弟がいたら連れてきな、と。また好きなだけ菓子を食わせてやるからと言って、子供を帰した。
 イバラキは、街道から外れた山裾の道へと入る。人のいない細い道。士の馬車停へと続く道。イバラキは小走りに進む、カラスが鳴いた、陽は午後に傾く。誰もいないその道の先に、停車場の印が置いてあった。馬車停の印とは、真ん中で二つに割られ並び立たされた、誰かの立派な墓碑である。
―ここか
 イバラキは、道に新しい轍を認めた。印の墓石に、懐から出した木札を置いた。木の上でそれを見たカラスが、誰かに鳴き語るような声を出す。陽は傾く、風もない午後、誰もいない山裾の小道。イバラキは、来た道を戻って行った。

☆173

 次の日、その茶屋で、昨日も来た痩せた男は待っていた。次いで昨日の男の子が、弟を連れてやって来た。痩せた男は売り子に、菓子を詰めた袋をふたつ用意させ買った。兄弟のそれぞれに菓子袋を手渡し、着いて来るようにと言い店を出たようだった、子供たちも着いて行ったらしい。
 袋を買った男には生気がなかった。誰も彼に気付かなかった。男は知らぬ間に立ち、店を出て行った。亡霊のようなその背に、子供のふたりが着いて行った。売り子だけが、それを見ていた。ちょうど昼前、幻のような出来事。店の外の陽気に溶けるように消えた。
 男はときどき、後ろを振り返って子供たちを手招く。兄弟は、菓子の甘さに夢中になりながら、寄り添いながら走って男を追いかけた、離れないよう前方だけを注意しながら。
 街道を外れた道先で男は、遅れがちな兄弟たちに新しい菓子袋を示し、手を振って見せた。新しい袋を足元に置き、さらに先へと進んで行く、振り向いて手招くのが見える。
 兄弟たちは、置かれたままになっている目先の菓子袋を目指し、街道を外れ小道へと進んで行った。兄弟のふたりとも、両手に菓子を抱え嬉しかった。これだけの菓子を手にしたことはない、気が付くと周りは知らぬ道、先を行く男の背を追うしかなくなった。

☆174

 ここまで来れば、あとは容易。男児たちは、知らぬ山裾の道を不安がって、イバラキから離れようとしなかった。馬車停に着くと、昨日置いた札はそのままにされていた。馬車は、まだだった。イバラキは墓石に浅く腰をかけ、周辺を見やった。子供たちはイバラキを見ている。イバラキは言った。
―少し待ちな、もうすぐ馬車が来るから。乗せてやる
墓石の横に子供たちは座った。
 札は馬車停で、引き渡す物があることを、御者に知らせる役を持つ。墓石に札が乗せられてあれば、そこに人がいなくても、御者はそこに馬車を止めて待った。御者の砂時計が一往復する間に、誰も来なければ馬車は発進する。砂の落ちている間に札の持ち主が来れば、引渡しとなる。
 馬車を待たせる札は、士しか持っていない。御者の持つ砂時計は、日に何回、ひっくり返されたかが、記録されるように細工のついた物だった。砂時計の細工は、御者には解けないようにされている。どの馬車停で、どれだけ待ったか、御者が自分の働きを運転後に、雇い主へ証明するために必要な物だった。
 後に、札も砂時計も偽物が出回りはじめるが、今はその頃よりも前の話である。馬車や札の存在は誰も知らず、朝廷にも把握されてはいなかった。
 日増しに暑くなっていく頃だった。子供たちは互いの菓子を見せ合いながら、何やら飽きずに話をしていた。途中、喉が渇いたという子に水を与えたりしながら、墓石を背もたれにイバラキも待っている。
 正午、馬車はやって来た。4頭立ての馬車。その音に子供たちは、体を乗り出して道の先を見た。山裾の小道をゆっくりと馬車は近付いて、墓石の馬車停前に停車した。

☆175

 雨の宿屋、その一つの部屋で、コンは情報を届けに来た天網の男と話をしている。話題のオロチは、南土の最も南の部分から生まれ来たと、コンも以前に聞いていた。
 オロチの一派は南の地より海を越え、この本土にやって来た。オロチが生まれた場所を含む南の土地は、南土(なんど)と呼ばれる。南土の北に巨大な港がある。大陸船は、この港から出航した。かつてキジが、ギンザという名の名馬と共に乗船したのも、この港からだとコンは考えている。雨の隙間、揺れる波面、遥かなる―
 南土にも、朝廷が問題視しはじめる士が存在していた。九つの党派である。彼らが南土における人身売買市場を形成していた。このうちの誰もが、オロチの北上を止めることができなかった。
 当時、士はそれぞれの領分から、決して外へは出ない者たちだった。外界は士にとっても危険な領域と考えられていた。この常識を打ち破ったのがオロチだった。オロチは他の領域へ戦いをもって侵入し続け、激しく移動を繰り広げた。一時、南土の市場をオロチが掌握しそうに見える勢いだった。
 オロチは、南土を駆け上がり通り過ぎていった。台風のごときに海を渡り、本土へ上陸したのだという。この頃より、オロチがキサラギを目指していると噂がたった。本土にいた士たちは、新たな参入者の噂を聞いた。
 本土にも強力な士たちが、いくつかの党派に分かれて存在していた。彼らは南土の士たちよりも力を持った者たちであった。本土で最も南の地を仕切っていた士が、セキといった。このセキがオロチを迎え撃った。
 朝廷は本土の士に対して、実際に討伐の軍隊を送り出す動きを見せはじめていた。士の存在が本格化しはじめた頃である。士が自らを、「士族」と呼称しはじめる前夜であった。
 士が自らを呼ぶために用いた「士族」という言葉は、朝廷の「貴族」に対しての呼び型である。士たちは、反朝廷、反貴族の意識を持っていた。彼らは朝廷からすれば、反逆の者たちである。士たちは、反逆の表明として自ら「士族」と名乗るようになっていった。
 この士族という名乗りを、朝廷とその貴族たちも聞いた。それに対し、朝廷は侮蔑の意味を込め、彼ら士族を名乗る者たちを「武士」と呼んだのである。

☆176

 昼。これから暑くなるのか。それでも空行きは、怪しく思わせる雲の動き。風よ。雨になるのか。乾いた空気を運んできやがる。
 御者は片目の小男だった。骨太で髭をたくわえている。イバラキと目が合った。何も言わず、口元を笑わせてみるイバラキ。その風体を、御者は馬車から黙視している。車から細い子供が降りて、兄弟ふたりを乗せてやった。細い子は、散切りだった。
 散切りの細い子は、イバラキをまったく見なかった。表情なく機敏に動く働き者。その細い眼は、長い前髪で隠すようだった。細い子はイバラキに、二枚の木札を渡す。
 札にはそれぞれ、番号が刻まれている。手渡した荷の番号である。馬車に乗せられた兄弟は、市場で競りに掛けられる。付いた値の何割かが、人さらいをした士の稼ぎとなる。競りの後、士は市場で集金をする。持っている札と引き換えに、金が支払われた。
 この土地周辺では、士の取り分は六割だった。残り四割は市場を開催する元締め、その土地に君臨する士の取り分となる。この受け渡しで、イバラキはオロチを名乗らない。何者でもない新手の売り手と、御者に思わせた。新参者と聞いて市場は、さらに値引いて五割を要求してくるだろう。それでもいいとイバラキは思っていた。
 この時、オロチは本土の士たちと戦闘状態にあった。オロチを名乗れば、市場からは締め出される、売れるものも売れない。イバラキは身分を隠し、ひとり目的の場所へと北上していた。その途中の商売であった。
 稼ぎのことは、いつもイバラキの頭にあった。忘れたことはない。イバラキは、金の力も充分に知っていた。
 イバラキは車に寄って、小窓から中を眺めた。御者に手渡した兄弟は、イバラキを見て手を振った。その奥に大人になりかけた頃であろう少女が座っている。覗いたイバラキの顔を凝視していた。少女にイバラキは、微笑みを返して見せた。
―ありゃ上物だ、いい値が付く
 イバラキの横に立っている、細い子に訊いてみた。
「これだけかい?」
 細い子は、上物の少女の奥の仕切りにまだいる、と指で示した、イバラキを見ずに。その狭い仕切りには、猿ぐつわの若い男がひとり、押し縛られて泣いていた。

☆177

 御者は背後で、受け渡しが行われている様子を聞いていた。振り向きもせず、前方を眺めていた。誰もいない静かな山裾の道。その上を雲が動いていく。カラスたちの舞う空。
 御者はイバラキが、普通の士ではないと感じ取っていた。そしてその通りだった。気が付けば隣にイバラキが座っている。御者が驚く間もなくイバラキは続ける。
「途中まで乗せてくれ」
イバラキは振り向いた、急に。細い子が馬車の屋根窓から顔を出し、こちらを窺っていた。細い子の目とイバラキの目が合う。取った。細い子は急いで目を伏せたが、その視線をイバラキに奪われた。遅かった。
「ひゃひゃひゃ、あははは、ほれ、出してくれ」
 イバラキの声に、御者は馬車を進ませた。細い子は恨めしそうに、イバラキの背を見、頭を馬車へ引っ込めた。馬車は進んで行く、割られた墓標の駅を後にして。

 静かに雨の降る。天網のふたりは、宿で情報の交換を続けた。格子越し。訪問者はコンに向かって何かを話している。コンは窓際に近い場所で、外を見ながら聞いている。宿の対面から、それらが見えた。
 本土に上陸した際のオロチは、総勢で五十騎だった。オロチを迎え撃ったセキは、二人の兄弟から成る。兄のカミノセキが百騎、弟のシモノセキが百騎、二人の連合は、総勢二百騎の軍団だった。
 オロチは四倍のセキの軍に、正面から激突し散り散りとなった。オロチの無謀な戦い型に、セキは驚いていた。オロチの荒々しさと命知らず、キサラギを目指すと噂されるだけのことはある、と感心もした。
 その夜の戦勝祝いの酒宴場に、闇から突然に数騎が乱入した。そのうち一人が馬を降り、驚く速さで上座へ上ったかという瞬間、カミノセキに数回斬りつけた。刺客は、セキの誰もが追跡できない速さで馬に乗り消え去った。カミノセキは絶命する。
 次の朝、セキの陣へ書状が届けられた。あまりの達筆、さらに誰もそれが読めなかった。後にそれは梵語であると分かる。カミノセキを送った僧侶がこれを読み解いた。
 内容は、カミノセキを確かに斬ったという広告と、再度戦いを挑むという宣告であった。署名が記され、刻印が押されている。イバラキ本人からであった。

☆178

 重要なのはセキ兄弟を酒宴の席に座らせることであった。二人の居場所さえ分かれば、あとは自分ひとりで斬りに行く、そうイバラキは言っていた。
 酒宴の場を設けさせるには、相手に勝たせてやればいい、そうイバラキは言った。戦いに勝ったと思えば、奴等は必ず宴を開く、そこで撃つ。イバラキの考えに、すべてのオロチは従った。
 見知らぬ土地である本土、長引く実戦を仕掛けて疲弊するより、正面から当たって砕ける様を演じた、わずか半日で済む。オロチに負傷者はあったが、死者はわずかだった。
 死んだ者は、さらって連れてきた男たちに変装させ刀を与えて突撃させた、名もなき人々である。イバラキは「勝てば自由にしてやる」と、彼らに約束してもいた。必死で戦うはずであり、今回も実際そうなった。
 イバラキは、手勢を減らすことは避けたく、それを回避することにも成功した。今までに何度か使った手でもある。
 カミノセキの隣に座していた弟のシモノセキを、撃たずにおいたのにも意味がある。もしセキ兄弟の二人共を一撃に倒していたなら、本土の士は予想外の激動を感じ、連合を組んでオロチを包囲しただろう。それを避けたイバラキの計略でもあった。
 カミノセキの軍勢は頭を奪われ、急速に士気を失った。次の者が頭に名乗りを上げたが、求心力はなかった。百騎は何隊かに分裂をはじめる。彼らはすでに無力な残党だった。
 無力な残党たちは、弟シモノセキからの召集にも、弟ごときに、と憤って応じようとはしなかった。兄カミノセキの軍は、自然に消滅していった。
 残された弟シモノセキは、オロチを追いたくても追えずにいた。オロチが散り散りになって逃げ消えたからである。その行方はつかめないままだった。弟シモノセキは何もできず、自らの領域に帰還した。
 ところが噂が広がった。兄の後ろ盾を失った弟、シモノセキはオロチを追わず逃げ帰った腰抜け、と。市場にもそれは反映されていく。力ある士であったセキの影響力は、本土最南で急速に失われた。噂を流したのはオロチであった。
 すべてはイバラキの思惑通りだった。イバラキはシモノセキを泳がせたのである。
 さらにオロチは、セキとの戦いの前に示し合わせていた。戦いで分散した後、決められた期日までに、決められた場所に集合するということを。
 深夜、その場所に各地からのオロチたちが再び集結した。巨きな杉の木が目印である。騎兵の影が夜空に影となってうごめく。オロチがセキの領域に横臥した瞬間であった。

☆179

 この時間帯は誰もが影で休んでいる。馬車だけが進んで行った。
「あっちぃなおい、人っ子ひとりいやしねぇ」
イバラキは胸元を掻きながら御者を見たが、反応はない。
「これからもっと暑くなるんだ、そうだろ、大変だ、馬もこりゃ」
 士の荷を拾う馬車は多かった。それでも人知れずに運転されていた。春は日の出直前、夏は真昼、秋は日没直後、冬は深夜。人が外出するのを嫌がる時に、馬車は動いていた。
 イバラキの見たのは御者の拳だった。手綱を握っている。その指の何本か、ある指は第一関節から、ある指は第二関節から、またある指は無かった。
 仕事振りをとがめられたのであろう、馬車を遅れさせたか、または雇い主に減らず口をたたいたか。責任をとって詰めた指指である。御者の拳は肉厚だが尖ってもいた。人を素手で殺したことがある手、とイバラキは読んだ。
「あの子は親方さんの子供かい?」
 イバラキの言うあの子とは細い子のことである。御者は応えない。イバラキは続ける。
「よく働く、いい子だな、あの髪は親方が切るんかい?」
「子供は俺の子じゃねぇ」
「買ったのか」
「んだ」
 馬車は進んで行く。細い子は女だった。イバラキは、上手に仕込んだな、とその御者をほめてやった。てめぇの夜のお供もさせてんだろが、安い買い物だ、あと何年かしたら次の買い手へ高く売り廻せる、死なせないよう時々に旨い物を食わせろ、などと次々に細かく説明してもやる。
 御者は前を見たまま黙っているが、耳を立てているのがよく分かる。イバラキは、御者の馬鹿っぷりに笑いをおさえながら馬車に揺られていた。すべては駄賃、乗り賃の替わり、他にも女子供の乗り廻しをいくつか話して聞かせた。
 ―ひと雨来そうだな
雲行きを見上げるイバラキ。耳元にゆるく風が吹く、生あたたかい。御者が言った。
「一人っきりじゃ、士は食っていけないさな」
今度はイバラキが黙って聞いている。
「もう、昔とは違うわな、士も金、金、言うてな。頭のいい連中がみぃ~んな一人占めしよるんだ」
イバラキが放っておくと、一滴、一滴と雨が落ちていた。

☆180

 「昔の士はみんな、せいぜい多くても五、六人で商売しとったが。さらった女と恋仲になったりしてな、売りに出すまでの間にな。それで人さらいはもぅやめてな、ふたりして金持ちの家に住み込みに入ったりしてな。いくらでもやりようがあったんだがな、士になってもな。まだ余裕っちゅうもんがあったんだがな。そんな話はいくらでもあったんだ」
 イバラキは黙っている。
「今はもぅなんもかんも変わってしまってな」
目の先で揺れ動き続ける四頭の馬のたてがみ。湿る風、かすかに雨の匂いがする。
 観察していれば御者の手綱は巧かった。長くこの商売をしているのだろう。道はいつしか山裾を抜けて平原を進む。
 御者の肩越しに昨日一泊した街道の家並みが小さく見えた。イバラキのさらった兄と弟が住んでいた場所。ふたりの兄弟があの場所へ戻ることは二度とない。いいんだろそれで。
 何もかも過ぎ去って、きっと忘れてしまうはずだよ人は。その代わりに苦しみや絶望、もっとたくさんのどうでもいいくだらないことを覚えていくんだ。人はそれでいいんだろ。
 イバラキは後ろを振り向いたが、細い子が顔を出す屋根窓は閉まっていた。その間も御者は話し続けていた。
 「いつからかな、気が付いたらな、士はみぃ~んな、何十人にもなって商売するようになっとった。どいつもこいつも、どっかしら誰っかの下に付いてな。それで商売しよるんじゃ。だからな、あんたさんは知らねぇかもしれんが、もぉこれからは一人、二人では士は務まらんよ。どいつもこいつも集団で動くような商売になっちまった。文句のひとつでも言ってみな。とたんに何十人も士がやって来てな、とんでもない目に遭わされる。市場にだって出入りできなくされるしな、そしたら飯の食い上げだ。まったく嫌な世の中になったもんだ、もぉ終わりっだ。こんなん世の中は」
 「この馬車は、カワナニの市なんだよな」
「そや。でもなあんさん。カワナニはちっこいで。この辺りでいちばんでかい市はな、セキの市やった。ただな、この辺りも最近はかなり変わってきてる。なんもかぁんもが凄い早さで変わってきてる。セキの市も変わってきてるで。教えてやろか?セキ兄弟の兄貴が殺されたんよ、オロチって知ってるけ?南土からやって来た連中でな。気味が悪い。」


161~170

☆161

 コンは馬を引いて、一軒家へと登る道を探したが見つからなかった。この辺りだったと思われた場所から、一人繁みに分け入った。途中、その斜面には畑があったはずであったが、見つからない。コンは、さらに登ったが、繁みは深くなり、迷いそうな予感がした。
 見上げれば、高い木々。見廻せば、ツタの絡まる緑が延々と続く。鳥が鳴いていた。
―この茂り方、人が近くにいるとは思えない
 記憶を辿り、コンは改め見たが、一軒家への道は、完全に草木に失われたと感じた。コンは、渓流へと斜面を戻った。
 コンは、再び馬に乗り、渓流を下る。その先、岸は渓谷に途絶える。上流からの木材が、つなぎ止められる場所は、今も同じだった。コンは、左手の山へと登る小道を通り、山道へと入った。道を下る、炭焼きの集落へ。
 河向こうの山からも、何本かの煙が上がっているのが見えた。あの捜索の日と同じように。

☆162

 馬上のコンは、振り向かない。渓流から入る山道、その左手方向には、一軒家へ続く道があったはずであった。人ひとり通るほどの細い山の道。それとは反対の右手へと進んだコンは、嫌な気がしていた。あったはずの一軒家への道、左手へ進む道は、木々の繁みに全く失われていた。山道の左手への場所、そこは、その先に民家があったとは思えないほどの茂みになっていた。
 先に渓流から入って探した、畑を通るはずだった道。そしてこの山の中の道。共に一軒家への道は、塞がれていると感じた。その仕業は、この山々の草木たちによる。
―神隠し
そんな言葉が、コンの頭をよぎった。
 コンはそのまま下り、集落のある広場へ出た。先に行かせた騎兵たちが、集落からの男たち数人と対して、問答をしている。広場を遠巻きに、集落の人々がその様子を見守っていた。
 聞けば、先頭に立つ若い男が、この集落の長であるという。その男は、あの捜索の日、コンたちに対して進み出て語った男ではなかった。コンは、それを尋ねた。するとそれは前の長であり、何年も前に死んだと言われた。
 コンは、時の流れを感じた。自分が以前、バクセの隊の一員として、この集落へ乗り入った時、この新しい長は、子供だったのだろうか―。
 周囲を見渡せば、確かに。あの捜索の日と同じ煙が、向こうの山からも昇っている。あの捜索の日のことを、覚えている村人はいるだろうか。コンは若い長にそれを尋ねたが、彼は知らない、覚えていないと言った。

☆163

 コンは、騎兵に寄って立つ若い長と集落の男たちに言った。
「何年か前、この集落で殺しがあっただろう」
その言葉に村の男たちは一瞬、息を飲みかけたが口を開かない。コンは、若い長に詰め寄って言った。
「おまえの前の長は、それで殺された」
集落の男たちの威勢は途端に萎えた。次いで彼らの目線は重く浮遊する。その様子を見て、見当を付けて吹っ掛け言ったことが、ほぼ正しいことを、コンは知った。コンの細い眼が、さらに細まり輝く。
 乾いた広場の砂煙の揺らぎ。誰もが止まっている。馬の蹄、コンの鎧の音だけがする。コンは、長の面前に、さらに寄って見せた。
「あんちゃん、これ見な分かるかい?朝廷からの指令書だよ、読めるか?おいあんちゃん、あんちゃんや」
 ほかの男たちは息を止めていた。コンはさらに詰める。
「俺たちは、ここで何が起きたかを捜索しに来たんだよ、隠しても無駄だ、全部話してもらおうな。何があったか。キサラギへ嘘は許さんぞ」
 集落の男たちは、固まったまま動かない。その相手の態度を確認して、コンは他の騎兵たちに目で合図した。他の騎兵たちが、集落の男たちへ、改めて歩み寄り囲う。付け足してコンが言った。
「全部話さなければ、どうなる?」
男たちの出していた汗のうちの一滴が、ゆっくりと地面に落ちる。
 脅迫の最初を終えたコンは、この山の木々の茂り方を、別に警戒の眼差しで見渡した。

☆164

 コンとその配下の兵たちは、集落の長である若い男の案内で、彼の家へ向かった。兵と馬を外に残し、コンは家の土間に入った。鎧と刀を着けたまま、上がり框へ座る。
 「茶を入れるため湯を沸かす」という男を制し、「馬にやる水と、何か餌となるものでもないものか」と、コンは要求した。共にやって来て土間に入っていた他の男たちが、馬に与えるために出て行った。立ったまま無言の若い長は、暗い部屋の中から、コンの横顔を凝視している。集落の男は、若い長の他に二人、土間に立ち尽くしていた。
 薄暗い屋内に射す光。暗い部分と明るい部分。コンは、その影と光の反射に目を細めるようにして、誰をも見ずに言った。
「話してくれ。ここで起きた殺しのことを」

☆165 これまでのあらすじ(一)

 キタという男がいた。キタは漁村で生まれ育ち、親と弟妹たちを捨てた。帝都キサラギへ向かった。後に各地を流転する。世間を知らぬ少年は、誰よりもしたたかな大人になっていった。
 キタは飢饉の都市ツジにいた。女に騙されて金を貸した。金を取り返し故郷へ帰ると決めていた。女が立っていた南門は荒廃しており、女の姿はない。外部から鬼畜たちが集い、ツジを混乱させていた。キタはツジ内部へと入っていく。
 ツジ中央の大屋敷、カワナニという名の権力者が住んでいた。その兄がツジを造った男でありキサラギにいた。その男の妻が宮中で毒を盛り、帝の怒りに触れた。夫婦は都を追われ、夫は自死し妻は消えた。朝廷はツジを孤立させ、飢饉に陥らせた。
 キタはカワナニの屋敷に入る。屋敷の座敷牢で金を貸した女が死んでいた。盲目を装う不思議な乞食にも出会う。キタは屋敷の備品から身支度を整え、ツジを脱出した。
 キタは僧と兵士の一団とすれ違う。兵の一人がキジという男だった。キタとキジは、お互いの名も知らず会話を交わした。そしてそれがお互いの胸に残った。
 キジは以前、朝廷の組織する暗殺部隊、天網と闘っていた。キジの怪力に朝廷は驚き、傭兵として迎え入れ和解とされた。
 僧たちはツジの異常事態を鎮静させるため、朝廷からの命を受けた乱僧だった。兵たちは僧たちの目付けである。その主格が傭兵キジだった。ツジは乱僧と兵士たちにより制圧され、封鎖される。キタはツジから故郷へと向かった。

☆166 これまでのあらすじ(二)

 キジは混乱のツジで赤ん坊を拾ってもいた。発狂寸前だった見知らぬ女にその子を託した。この女はのちに、その子をサルと名付けて育てるのだった。
 キタは故郷の漁村へ戻った。キタの集落は無くなっている。人身売買を行う者たちに連れ去られた後だった。各地で人さらいが横行していた。人さらいたちは武装するようになり、騎馬を連ね軍団化していた。朝廷はこれらを問題視していた。彼らは士(し)と名乗り呼ばれていた。
 キタは故郷の浜辺でひとりの女と出会う。キビといった。キビは嫁ぎ先で夫に死なれ、父のいるこの浜、元あったキタの集落、その隣の集落に出戻った女だった。夫の暴力で不生女にされた海女である。キタは浜の近くの空家に住み付き、世話好きのキビはその家へ通うようになった。夫婦のように見える二人だった。
 キビは料理の上手な女だった。キタはそれに目をつけた。キビの作った団子を街道沿いの市で売ると売り切れた。二人は市場で団子を売るようになる。
 ある日、キビひとりで団子を売っていると、通りがかりの騎兵がそれを買い上げた。キジであった。キジは大陸へ渡る船に乗るため、その港へ南下して行く途中だった。
 キジは朝廷が大陸の巨帝へと送り出す戦士として渡航に臨む。大陸船にはツジの乱僧たち、カワナニの大屋敷にいた不思議な乞食も乗船していた。キジは大陸へ渡る。大陸の帝国、その斥候としてさらに西へ向かった。その外人部隊の一員となっていた。
 西の果てで部隊は分裂、崩壊していく中、キジは祖国への帰還を目指し大陸の東の果てに戻った。海を越え伝説の土地エゾに渡り着く。エゾの島々を南下、さらにキサラギが東奴と呼んだ土人の森、フジと呼ばれる巨山を崇拝する彼らの森に身を隠した。
 崩御を知りキジはキサラギへ接近する。時の流れがすべてを変えていた。キジはバクセという偽名を用い、再び傭兵として朝廷へ召し入れられた。

☆167 これまでのあらすじ(三)

 キタは故郷の浜でしばらく過ごして去って行った。キビはキタの後に着いて行った。
 キタは山奥に移り住んだ。場所は1本の渓流を中心に、右岸左岸に炭を作るための窯が点在している。それぞれの窯に寄生して、いくつかの集落が形成されていた。集落のひとつにキタとキビは住みついた。
 集落の男たちは伐採のため、さらに山の奥へと入る。奥地で木を倒し、渓流に乗せて集落まで下る。木は集落で炭にされ、さらに下った場所で売られた。
 それまでの生活で、キタは集落の人々よりも莫大な金を持っていた。金の力で集落の男たちの中へ割り入った。キタは金を払って仕事を教わった。さらに誰よりも、手際よく仕事をするようになっていった。
 集落の女たちは粗雑だった。キビの料理の旨さに集落の誰もが驚いていた。キタもキビもその経験値は只者ではない。ふたりは集落の人々に認められ、土地に馴染んでいった。
 キタは貯めた金で、集落よりさらに山奥に家を建てた。そこでふたりは齢を重ねた。キタは樵の船頭を引退し、山で集めた芝や小枝、キビの作った団子などを集落に売り届けていた。キビは団子を作ったり、河で洗濯をしたりしていた。

☆168 これまでのあらすじ(四)

 炭焼きの集落よりさらに内奥に、独自の文化と風習を持つ王朝が栄えていた。山の民と呼ばれる人々が暮らしていた。桃の産地であり桃源郷と呼ばれた。この王国が朝廷の配下に属することを拒絶していた。朝廷は桃源郷討伐のため挙兵する。
 桃源郷の女王は自らの王朝が崩壊する直前に、その独り児を逃していた。生まれて間もない我が子を籠に乗せ、河へ流したのである。その後、桃源郷の王家と民、そのほかのすべては朝廷軍により焼き討たれた。
 河へ流されたのは王子であり、ひとり難を逃れていた。行方不明となった王子を追い、朝廷軍は捜索を開始する。キジがそこにいた。バクセという伝説の武人として知られる存在であった彼は、朝廷軍の一人であった。自らの隊を率い桃源郷の王子を追う。

☆169

 コンは雨の空を見つめていた。窓の格子越し。広い通りに面した宿の薄暗い一室。人通りは少ない。時々、通りの雨を避けて小走りに走っていく人々。名も知らぬ。
 武具を解いたその姿は、朝廷の手先だとは思えない。誰にも気付かれずに、そこにいた。その雨は梅雨のものであったのか、あるいは秋雨のものであったのか。知らねぇ。ただ静かに降っている。
 宿の玄関に何やら人の入る音がした。主人と話している音が聞こえた。足音が近付いて、コンの部屋の前で止まった。
「九尾さま、お客さまですが」
その声を放っておくと、襖が小さく開いて宿の老主人が座っている。
「九尾さま、お客さまです」と再び言う声に、コンは通すようにと伝えた。コンは偽名を使っている。
 男がひとり、コンの部屋に入った。身軽な旅姿だった。コンは黙って往来を見つめている。その格子越し。無視されるようにして、旅姿の男は雨に濡れ冷えた足先、そのまま立っていた。
 訪れた男は天網の一人である。コンに情報を伝えにやって来た。情報は士に関するものであった。
 士の中でも巨きな勢力がいくつか存在した。彼らは集団で武装化し、組織的に誘拐と人身売買を行う力を持っていた。そのひとつにオロチと名乗り呼ばれる一団があった。遥か南方の地より破竹の勢いで北上していた。彼らがキサラギを目指していると、水面下で噂された。
 朝廷はオロチへ天網を送りこんだ。オロチの頭を暗殺するために。情報は、天網がオロチの頭に、返り討ちにあったということであった。朝廷の暗殺部隊である天網が敗れたのである。コンは目を細めたが無言だった。
 雨は静かに降り注いでいる。通りをまた一人、走り横切っていくのが見えた。
 コンがそれまでにつかんでいた情報によれば、オロチの頭の男はイバラキという。イバラキの持つ剣が、ハヤテという名の名刀であった。イバラキはこのハヤテをもって、相手が一度振り下ろす間、二度斬ると言われる。高速の剣であった。

☆170

 イバラキは酒を飲む。飲んで、飲んで、酒を飲む。イバラキは何も食べない。酒が飯だから。イバラキは痩せていた。ひどく痩せていた。頬はこけて腕も足も、筋と皮だけである。浮き出た血管が、骸骨のような若者であった。イバラキの左目尻の下と、右唇の上にはホクロがある。痩せこけた表情に、ふたつのホクロが妙に目立って色気があった。
 イバラキは飲む。朝も昼も、夜も。飲んで飲んで、気は狂う。だから飲む。さらに飲んで、飲んで、飲む。やがて狂気と死を通り越す所にまで届くようになる。ここまで着けたからには、残りの時間も飲むしかない。飲んで飲んで、飲むのだ。
 イバラキは生卵だけは食べた。卵の先端を砕いて小さな穴を開ける。酒の合間に口をつけ、白身と黄身を吸った。吸い終わった卵は、殻を縦に割り皿の替わりにする。割った殻に塩を盛らせた。塩で飲み続けていく。だから生卵と塩は口にした。
 当時、腰に刀を下げて歩く者は、まだいなかった。イバラキも同じである。この日は、長い剣を1本、普通の長さの剣を3本、短刀を2本、隠し持っていた。短刀は2本ともサラシに入れて腹にある。他の刀は長い布に巻き、その布を紐で結び、自分の腕に括りつけて持ち歩いていた。
 人から見れば釣リ竿か、家財道具の何かを包んでいるようにでも見えただろう。ひとり旅の途中、この酒場にいた。
 店の主人と他の客たちが、イバラキの異常な飲み方に驚きはじめ、遠巻きにイバラキの様子を窺うようになっていた。そんな時、イバラキは下から斜めに見返して言ったものである。
「なんだ?俺の酒に文句か、皆さん」
 昼であろうと夜であろうと、誰もが固まった。イバラキは異様だ。イバラキは冷笑する、いつも。最後は杯を小さく掲げて見せた。飲み干し、勘定を済ませて出て行った。


156~160

☆156

あなた、

あなた、

あなたが、このキサラギに入った。

女たちは皆、噂している。

あなたは痩せて、背が高いと。

手足が細く、長く、

揺れるようにゆっくり、歩くと。

連れの男たち皆、見たことのないような男たち。

そんな、あなたの噂を聞きました。

あなた、

あなたの、

あなたの噂を聞いています。

あなたの、切れ長の目元は、いつも涼しげ、

それに惑わされ、

また嘘をつかれた、と、

ある女が自慢していた。

あなたとのこと。

あなたとの悦びを。

自慢していると聞かされた。

あなた、

あなた、

あなたは、綺麗な指先をしているという。

あなたの指、長い大きな手。

その手で、あなたは、

あなたは、鬼たちと抗争をはじめている。

各地で鬼を討ちはじめている、それが都に。

噂となって流れてくる。

あなた、

あなた、

そのあなたは、一人の女に夢中になって。

あの女、伝説の。

カツラ。

あなたはカツラを追い、今もいるのだと聞きました。

カツラを追いかけて、あなたは、あなたは、今も。

あなた。

あなたに、一度、お会いできたなら。

私は、私は。

無法の剣士、麗人よ。

モモ。

会いたし。

☆157

 男の名は、コンという。周囲の山々を、懐かしく見廻した。あれから何年の歳月が過ぎたか。
 コンは、知っていた。近くに炭焼きの集落があることを。それは、今いる自分の場所から、さらに南へ下ったところにある。山間の集落の場所から上がる炭焼きの煙、それが木立の合間から見えるはずだと、手下の騎兵に言い、それら数騎を南方へと、山間をさらに走り行かせた。
 今コンは、山奥の大木に囲まれた茂みの只中に、馬といた。歩を進める。このような内陸の場所に人が生活していようとは。
 茂みは途切れ、コンの前に、突然の平地が開けた。
 コンの細い眼が見廻す。鋭い眼。細く整えた髭をさすり、コンは低く唸り呟いた。
「おぉ…桃源郷…」
 日に照らされた山間の広場、広大なその敷地。そこには過ぎた日の栄華を伝える、いくつかの瓦礫が残されていた。焦げた大地、森の中に突然に現れた廃墟の影。コンは見つめた。
 俗世に知られることなく築かれた、その王国の栄華を想う、コンの横顔。
 そこは朝廷が進軍し、滅ぼした、あの山の民の宮殿跡である。キサラギに桃源郷と揶揄され、キサラギの配下に属することを拒み、キサラギに滅ぼされた最山奥の王国。その極めて美しかった建立の数々。それは焼き尽くされて、もはや無い。
 桃源郷の王家、それに従うすべての民が殺された。ただひとりを残して。
 ただひとり、桃源郷の王家、その王子ひとりを残して。

☆158

 あの日。
 それがコンの悔いとなった。
 キサラギは、朝廷に服従しない桃源郷へ、討伐の兵を挙げた。雇われの兵としてコンも、その討伐軍の中にいた。与えられた場所、隊列のうち、最も激しくなるであろう戦線、その最前線の位置に指名され、コンは燃えた。
 続けて驚いた。自分の属する隊、その隊の隊長が当時伝説の武人と謳われていた、あのバクセだったからである。バクセは傭兵でありながら、出陣の前、それまでの段階で、完全にキサラギの最前線部隊、その主要戦士の肝を掌握していた。水面下で激しい金のやりとりがあったと聞く。
 そしてコンは、バクセを怖れていた。 

 あの日。
 これまでに体験したことのない爆音と共に、桃源郷の宮殿は燃え続けていた。飛び散る火の粉、そのあまりの激しさに、大山火事になると、それは攻め手のキサラギ軍が躊躇するほどの炎であった。
 1本の川伝いに、南下したバクセの隊の一人として、コンもいた。夜の明ける前に、桃源郷王子の消息が不明となっていることが、司令から前線へ伝えられていた。王子追跡のための各隊が編成され、燃え盛る宮殿から、次々と四方へと散り放たれていた時である。
 バクセの隊は、宮殿近くを流れる渓流、それに沿って南下し捜索を開始することを選んだ。ひとつの王国と王家の滅びていく瞬間、それを振り返った時、木々の影が眩しいほどに揺れている。なんという荘厳。
 追跡する者たちの中にさえ、そのあまりの激しさに涙を流す者が続出した。その夜、コンはバクセに諭された。「泣くことはない。人の史、その積み重なりを知るときぞ。そのあまりの激しさぞ、今宵」と。
 轟音、閃光に照らされて踊るように揺れる木々、炎が山に、さらに強風を呼んで火の粉の竜巻が天にも上った。

 あの日、今思い返せば、バクセは気付いていたのだろう。この山奥で、朝廷の多勢に包囲されたとき。逃げることができるのは、河か洞窟を通り抜けるしかないということを。それで彼は、自隊に渓流を下る捜索を指揮した。
 その途までは、捕える騎であったバクセ。なぜ、見逃すようなことをしたのか。

 時は流れた。あの夜、下った渓流。そこを今、コンは再び下っていく。

☆159

 コン。彼は、バクセと共に、その渓流を下った兵士のうちの一騎であった。あの日。バクセを置いて、四騎は下流の集落へと先に向かった。あの翁とバクセを残して。
―それが間違いだった
コンは、後に気付いた。
 思い返せば、あの空白の時間。それが後に、コンを後悔させた。自分の家がそこにあるにも、そうだと言わなかった初老の男。そして自分たちを先に行かせたバクセ。このふたりの間に何かが語られた。
―あの翁、何者かであったはず
コンは以後、ふたりの関係を疑ることとなる。
 コンは考えていた。追跡の標的である桃源郷の王子は、あのすぐそばにいた、と。 
 このコンという男、彼こそあの日、最後までキタを疑って、何とかしようとバクセに意見した騎兵であった。最後にその渓流を去った騎兵である。彼は疑念を抱いていた。しかし朝廷の軍は、桃源郷を討伐したものとして、キサラギへと凱旋したのである。若きコンもそこにいた。終戦という一方的な熱狂と共に。
 誰もが忘れていた、その頃には。帝からの褒美のことで頭が一杯だったのである。いや、気付かぬふりをしていたのかもしれない。桃源郷王家の唯一の王子、その王子の消息は掴めないままであるにも関わらず、討伐軍は都に還って、握りつぶすようにして封印された最重要課題だったのである。それにも関わらず、誰もその捜索失敗のことには触れないで、先へ先へと事を進めていく。
 人は真実誠によるよりも目先の金によく動く、と。バクセが言ったという。
 朝廷の設けた慰労の酒宴にバクセはいなかった。そして二度と、彼が表舞台にその長身の巨体を現すことはなかった。その宴席で、コンは自分がバクセを見失う器の戦士であることを知った。
 しかしコンは、バクセを追った。その背後に見え隠れする桃源郷の王子。その消息を追跡することを、朝廷中枢部へと進言し続けた、執拗に、病的に。その長き月日。そして遂にその意見は認められたのである。
 コンは追い続けていた。あの日から、この日まで。バクセという男の実体を、さらに桃源郷の王子の行方を。
 コン。彼は執拗な男として、朝廷に信頼されるようになっていった。反キサラギの動きを徹底的に打尽した。相手を追い詰める。追い詰め、追い詰める。彼の家族は皆、彼のそばを離れて消えていった。彼は文字を書かない。読まれることを嫌ったからである。そして彼は、決して笑わない男だった。

☆160

 渓流の左岸をコンは下る。あの捜索の日と同じように。
 コンは再び辿り着いた。あの捜索の日、ひとり翁が立っていた岸へ。
 馬を降り手綱を引く。振り返れば、そこはあの捜索の日、自分以外の騎兵たちが、逆上って帰還していった木立が続いていた。その河音。
 コンは再び下流へと眼を返し、渓流左手の山々を見上げた。その繁みの先に、あの一軒家があったのである。
 バクセが、見つけた団子を各騎兵たちの口へ押し込みながら廻ったあの場所。あの一軒家。その一軒家から馬を引いて降りて、この河岸へと出たのである。あの捜索の日―。
 コンは思っていた。上流の桃源郷跡から、先に行かせた手下の騎兵たちのことを。彼らも、あの捜索の日の自分と同じように、脇道の存在には気付かないで下って行ったのだろう、と。この河岸―、若き日の自分―。それらを想い、鋭い眼光を、さらに細めるコン。
 あの捜索の日から時間が経った今、コンは、ある一隊を統括する者となっていた。

 人知れぬキサラギの秘密部隊が暗躍していた。彼らは戦争には赴かない。その秘密部隊とは、日常において反朝廷の動きを察知し、その者と物を挙げ根絶するという使命を託された部隊である。その使命を託したのは、帝の名による朝廷であった。桃源郷討伐後のさらに後に、コンは、この部隊の一隊の長となっていった。
 この秘密部隊は天網(てんもう)と呼ばれる。天網は朝廷直轄の殺人部隊であり、その存在と活動は今も知られていない。この天網と単身で殺し合いを始めたのが、朝廷に傭兵として雇われる以前の、ツジ鎮圧に出兵する以前の、若き日のキジである。
 その当時、無敵とされたキジ、また伝説の武人と謳われたバクセ。この両人が同一人物であるということを、コンは独自に掴んでいたが、誰にも言わないでいた。


151~155

☆151

 バクセの先を行った兵士たちは、小道を抜けた場所に、その一軒家を見つけた。馬がいななく。家の戸は閉められていた。しかしそれが廃屋ではないことは、ひと目でわかった。
 そこは行きには通らなかった道である。その道の存在を知って、兵士たちの萎えていた気概は憤っていた。「こんな道があったとは」などと、口々に吐き出しながら馬を降りる。
 「誰かいるか」と玄関の戸に怒鳴ったが、応答はない。開けようとした戸は、すべて内側から閉じられていた。
 裏手に廻った兵士が、そこに造られた畑を見つけた。そこになった実を見ればわかる。手入れの行き届いた野菜畑。ここで誰かが暮らしている。兵士のひとりが言った。
「どうする、家の中を見てみるか、どうやら家人は留守のようだが」
 さらに別の兵士が言った。
「行きの河沿いに、年寄りの爺がおったが。あの男、こちらの岸に道はないなどと、嘘を言いおったな」
「確かに」
「腹が立つ。」
 そうして兵士のひとりが、玄関の戸を蹴破って押し入った。土足で室内へ上がり込み、内側から閉じられた戸を次々に蹴破って、外へと投げ出しはじめた。それに続いて二人が馬を降り、家へと上がった。一人の兵士は馬上のままで外にいた。
 そこへバクセは到着した。兵士たちが、その家を荒らしはじめている様を見て、彼は呼吸を整えた。その眼の奥に、キタとキビと赤ん坊の顔が浮かんでいた。もし赤ん坊を見られたら、即座に四人を殺すと決めていた。それがキサラギに背くことであるとしても。

☆152

 家に人はいなかった。兵士たちはその中を廻った。壊せるものがあればすべて壊しながら。そして表に出たとき、そこに隊長であるバクセが立っていた。
 「何かあったか」
そお言ってバクセは三人を見つめた。兵士たちは、桃源郷の王子探索の疲労から、何かに当たりたい気分だった。隊長には、「酒でもあれば」と言いたかったが、黙っていた。朝廷の軍に所属していることが、彼らにある一定の節度を保たさせていた。
 彼らはバクセを怖れていた。自分たちの実戦経験が、バクセのそれに遥かに及ばないことは無言の内に理解できた。バクセの実戦慣れした様は際立っていた。刀を持つ者、その誰もが、それを言われなくとも理解できるほど、バクセは極まって見えた。
 バクセについては、その頃の戦人たちの間において、いくつかの噂があった。これには誰もが一目置いて黙っていた。例えばそのなかのひとつ、それが崩御した先の天帝から、当時の大陸の巨帝暗殺を命じられて渡航したという話である。しかし、それら噂を尋ねられてもバクセは一蹴した。
 兵士のうちのひとりは、この家の持ち主が、行きに河岸で会った初老の男のものではないかと考えていた。その老人は自分たちに嘘を言ったのだ。それをバクセに伝えようと、続けてこの家を焼こうと言いかけようとした。
 バクセが、家の中を物色して外へ出てきたところだった。家の中から団子の皿を持って出てきた彼は、大きく微笑みながら、兵士ひとりひとりの口にその団子を押し食わせて言った。
「そろそろ戻ろう、あまりに時間を使い過ぎた。これで手ぶらとなれば、そしりになりかねん。うん、これはうまい団子だな、おいまだあるぞ、食っていけ」
そして皿にあった団子をすべて兵士に食わせて廻った。その間、バクセは兵士たちの様子を見ていた。空腹を落ち着かせてやれば、人の態度は変わるものだ。そしてそうなった。キビ団子は、ここで威力を発揮した。バクセは笑いたかったが、知らぬ振りをした。
 焼き討ちを望んでいた兵士も、その考えを口にする間もなかった。すぐにバクセは馬をひいて、家の裏へと消えた。兵士たちも後に続いた。歩きながら裏手の畑を通り、河へと続く道を、まるで訪ね歩くようにして下った。
 そこはバクセにすれば、たったさっき、自分が上がってきた道でもある。しかし知らぬ振りを続けて進んだ。そして河原へと出た。兵士のひとりは、その両岸の景観を見て、やはりあの翁の嘘を知った。しかしその時には、バクセと他の兵三騎は、河岸を上流へと上り、その背が、木立のうねりに消えかかるほどに、距離がついていた。
 「んん~、あのくそジジイが」
そお言ってその兵士も、馬を上流へと急追させた。
 誰もいなくなった。後には、戸を破られ、土足で踏み倒された無人の家が残された。

☆153

 キタは、キビと赤子を連れて、裏戸から外へと出、畑を抜けて山に上がっていた。表にやって来た騎馬たちと入れ替わるようにして。森の中へキビと赤子を残し、自分は引き返して、山の斜面の高みから、家の様子を窺っていた。その場所から眼下に、バクセを先頭にし、馬をひいて河原への道へと下って行く、兵士たちの姿が見えた。
 キタは身を伏せながら、その後を追った。河原を覗くと、最後の一騎が上流へと、駆け上がっていくところだった。馬の走り抜けた音、渓流の音が静かに流れる。

 キタは、キビと赤子を連れて家へと戻った。外された戸を元に戻し、荒らされた室内を片付けた。そうしている間、キビは赤子に夢中になっており、その子を抱いてゆすりながら、室内や外を渡り歩いていた。
「良かったね~、良かったね~、おぉ~、こわかった、こわかった~」
盛んに赤子へと語りかけては、「せっかくのお祝いが、台無しだねぇ~、でも助かって良かった、良かった。良かったねぇ~、おまえさ~ん」などと、キタにも言っていた。
 キタは放っておいた。キビの臆さないその様、それにキタは救われてきた。そして今日まで生きてこれた。キタは、言わずとも、いつもそう思っていた。
 その日、山の陽は暮れた。囲炉裏の火を、いじりながらキタは考えていた。これからどうすべきかを。キビは、赤子に添い寝している。薪が燃えて、弾ける音をたてた。 
 あのキジという人は、また行ってしまった。お別れのご挨拶も交わさぬままに。まるで風のように。

☆154

 春の朝、その空気。まだ肌には冷たい。山々は薄霧に覆われていた。キタとキビが、暮らした一軒家が見える。戸はすべて閉じられていた。
 そこから下流へと下ったところにある炭焼きの集落。その一軒に住む男は、キタと共に木こりの船頭として働いていた男である。キタが持ってくる団子を、常々楽しみにしていたあの男である。深夜、その男の家にキタが訪ねて来た。キタは、その男に言った。
 「何年か経ったら戻る。それまで自分の家を見ておいてくれ」
そして男に大金を渡して帰って行った。
次の日、男がキタの家を訪ねてみると、そこは既に空家だった。キタとキビは、姿を消したのである。家と畑がそこに残された。
 キタは、キジと再会したその日の夜に決めた。キビが抱いて眠る赤子、その子を育てるということを。そしてその子がいつの日か、失われた王国、キサラギにより滅ぼされた遥か内陸の桃源郷に、戻って行くということを想い描いていた。
 この眠る子を生かすためには、集落の他の者たちに、この子を見られる前に、この土地から去ることが求められる。老夫婦が、突然に抱いた赤ん坊は、朝廷の探す王子であると疑われる、その前にこの地を去る。キタはキビにそれを告げた。
 バクセの去った次の日、ふたりは荷をまとめた。その荷の中には、その子と一緒に流されてきた短刀、鏡、桃を模した光る石が含まれる。そしてその夜、集落の男に金を渡した。そして次の早朝、薄暗い頃に集落を通り抜け、下流へと向かった。持ち舟で。三人は河を下った。誰もそれを知らないうちに。
 その頃まだ、桃源郷は燃え続けていた。三人はそこから遠ざかって行った。明るくなっていく渓流、その両岸の緑、春の訪れ。キタはその舟を操りながら、自分がまだ死ねないことを実感していた。
「どんぶらこぉ~、どんぶらこぉ~、ぱっかぱっかぁ~、ぱっかぱっかぁ~」
キタが叫ぶ。それに応えてキビも、訳分からずとも一緒に声を上げた。
「どんぶらこぉ~、どんぶらこぉ~、ぱっかぱっかぁ~、ぱっかぱっかぁ~」
理由などありはしない。不安などありはしない。この時より、キタとキビのふたりは、若き頃のように生気に満たされていった。
 笑顔のキビを、胸に抱かれた赤子が見つめている。その瞳に、キビは何かしら語り続けていた。三人を乗せた舟は河を下って行く。
「モモ~!モモ~!見えるかぁ~、綺麗な春の山だよぉ~」
キビはその子に見せてやった。その両岸の美しさを。後ろには満面の笑みで、キタが舵を取っている。山々の上の方から、鐘の音が聞こえたように感じ、キビは空を見上げた。
 その鐘の音は、清く澄んでいる。

☆155

鐘の鳴る

鐘の鳴る

海に山にその丘に

鐘の鳴る

鐘の鳴る

あなたの暮らすその場所に

あなたの眠るその場所に

鐘の鳴る

鐘の鳴る



鐘の鳴る

鐘の鳴る



鐘の鳴る 第3章 終