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第四章 2稿 3/3 196~216

 ▲189
 棍棒を持ってシュテンが砂丘を下りて行く。イバラキの書状を持ってきた小人が、シュテンに付いて下りて行く。向こう側の砂丘上では、イバラキとカイが見ている。
 慣れぬ海風。炎が舞い立つ。
 太陽と鉄のほかの連中が話し合った。
「見ろ。カイの野郎、イバラキに付いてやがる、畜生」
「カイはよ、強いと見た野郎にはすぐに惚れ込んじまう」
「それならイバラキは強いんだ、どうするんだ、シュテンは」
「シュテンはよ、馬鹿なんだ」
爆笑が起こり、その音にシュテンは振り向いた。
「馬鹿がこっち向いたぞ」と、太陽と鉄はシュテンに手を振る。
 向こう側の騒がしい様子。見ていたイバラキは、横下のカイに眼で問うた。
「えへへへ、いつもこんなんだ、俺たちゃへへ」
「なら気に入った」
「え?」
「気に入ったぜ」
 イバラキは鉢巻を整え直した。砂丘を下り際、イバラキは言った。
「見届けな」 ☆196

 /砂に寝そべり遠くから偵察していたオロチのふたり。イバラキが砂丘を下りて行き、その姿が見えなくなる。
「イバラキが行ったな」
「おう。あの下で見合うのか、どうする。俺たちも行くか」
ふたりは身を潜め砂丘の死角をさらに進み、砂丘下が覗ける場所へ近づいて行った。
 砂丘を下りて行くイバラキ。前から歩いて来るシュテンと小人。カイはイバラキの後ろにいる。
 砂丘と砂丘のつなぎ目。最も低い場所。イバラキとシュテンは、近づき続けていく。太陽と鉄、捕虜たちは、上から見下ろしている。☆197
―ひとりで来るとは大した野郎だ。何の用だ。殺されに来たか。
―もし戦いとなってイバラキを倒しても、流浪は続く。
―貯まった金を山分けにして、解散してもいい。
―でも誰も、シュテンから離れないで行くと思うぜ。
―シュテンが倒されたらどうする。イバラキは相当な腕利きって話だ。
―そのときはシュテンの最期を見届けるまでだ。
―俺もそう、シュテンと一緒にここまで来たんぞ、最期を見届けてやる。
―仇を討ちにイバラキと戦うまでよ。
―俺も行く、死んでもかまわん。
―俺もだ、金なぞいらん、シュテンに付いて来たんぞ。★199
 イバラキは立ち止ったシュテンにさらに近付こうとした。
「おっと」と、手の平をイバラキに見せ、シュテンは-イバラキを止めた。まだお互いが遠い距離。/お互いは見合った。
 ―こいつがイバラキ。
シュテンは思った―なんて細い野郎だ。☆197
 シュテンほどの大男をイバラキははじめて見た。頭からつま先まで、脂が乗っている。荒れ立った髪。短い髭が顔面を覆っていた。その真ん中の眼の光。
―力強い瞳。
イバラキはそう感じた。
 着衣は擦り切れ、両腕は肩からはだけている。太い腕に無数の刀傷。
―刀を腕で払うためにできた。
イバラキはそう読んでいたが、その通りだった。
 シュテンは真剣を怖れない。刀を腕で払いのけてきた。相手を鉄の棍棒で叩き討つ。そのような戦い方をする者がいることをイバラキは想定していなかったが考えは済んでいた。★202
 イバラキは思った。
―シュテン、肉が厚い。もし戦うことになったら、ハヤテ一本では貫けないか。最初にほかの刀で斬り付ける。/弱らせ最後の一撃でハヤテを使う。あの棍棒に打たれさえしなければ勝てる。あとは追手を何人斬ることになるか。最速でいくしかない。長引けば捕まる。どこまで斬れば逃げ切れるかだ。☆197
 残った刀傷の痛みか、シュテンの肌は青白かった。後に青鬼と呼ばれる由縁である。今それを知るべくもない。
 赤面イバラキ。刀を一度に四本も持ってきた鉢巻で殺気立つ男。★202
 カイはイバラキの背に妖気を読み取った。やめろ、とシュテンに平手を切って見せる。立ち止まったままでいるシュテン。シュテンの横の小人ジンマが叫んだ。
「なんだカイ!てめぇ裏切りやがったか」☆197
 シュテンは眼を細める。カイの様子からイバラキが普通の士ではないことが知れた。
 カイが動かされた。それがシュテンにとっては大きな意味をもつ。カイは太陽と鉄の道化であり参謀だった。カイはシュテンが認めた数少ない男の一人だった。
―戦えばどちらかが死ぬ、俺がイバラキを倒すか、イバラキが俺を倒すか
/
―イバラキが俺を倒しても、他の奴らが襲うだろう。
―どちらにせよイバラキはここからは出られない。
―ここから出るつもりで下げてきた四本の刀か。
 その通りだった。イバラキは帰還を予定している。
―何の用だ野郎。★202

 風が吹く。舞い上がる砂。/カイがシュテンの前へ出ようと進んだ時。
 「この野郎う!シュテンがてめええ!」
イバラキは吠えた。
「俺の居場所、漏らしやがったな畜生が」 ☆197

 シュテンは無言でいた。イバラキが前へ動く。
「待て!」
シュテンはイバラキを止めた。
「誰か、おまえんとこに行ったんか」
「おうよ、やはりてめえのせいだな、俺は襲われた」
「どんな奴にだ」
「とぼけるなよ。ありゃ朝廷の天網だ。シノビだ」
 イバラキは懐から天網から奪ってきた武器、一枚の鋼を取り出し見せた。それはヒトデのような形をしていた。シュテンもカイも、もうひとりの小人も、イバラキの見せたそれを見つめる。初めて見る物だった。
「見ろ」
イバラキはそれを投げつけた。鋼は転がっていた白木に飛んで行き、音を立てて突き刺さる。カイが走り寄り、白木に刺さったヒトデを触らず目で検分した。
 見たこともない飛び道具。
「その刃先には毒が塗られていた。奴らの武器だ」
それは手裏剣であったが、当時、そのような物を誰も見たことがなかった。
「皆、黒装束だった。ひとりは天井から降りて来やがった」
 風が舞う。「シノビは何人で来た?」と、シュテンは図々しくも訊いてきた。イバラキが応える。
「三人だ。三人とも斬ってやったがな、そのうち一人は女だった。俺はもう少しで死にそうだった。それほど天網は強かった」
 /天網とは、忍者の暗殺集団であった。忍者とは忍術を使う者をいう。忍術とは、先に大陸で起こっていた剣術に対抗すべく、朝廷が秘密裏に開発した戦闘法のひとつであった。
 朝廷は他にも戦闘態形を開発していた。そのひとつに妖術がある。妖術とは亡霊の力を使って闘う方法であり、これを知る者の間では極めて危険な戦闘法と言われていた。
 帝都キサラギ、そこには妖術を使う者もいた。 ☆198

 ベニイは、砂丘のへりに立っている。場所は-朝廷西隊の待機場所より砂丘を隔てた北の場所。太陽と鉄よりさらに西側の海岸にオロチは陣取っていた。この先の海岸沿いに駐屯する太陽と鉄の部隊が百人程度いることを確認していた。
 オロチ、五十騎。部隊としては決して大きくはない。それでも見つからぬようにしてもいる。何人かは我を忘れ、海辺に降りて遊んでいた。虚ろに。獲った魚に大声を上げても、感情は湧かなかった。焼いて食べようが好きにすればいい。
 誰もが強者、でも知らぬ土地、しかも本土の。北側の海、その大きさに圧倒されてもいた。泳ぎを知らない者もいる。頭のイバラキはここ十何日行方が知れないまま。正午を迎えようとする今、予定通りに進んで来たのだろうか。
 イバラキの不在から、部隊は士気を下げつつあった。それほどにイバラキは大きな存在、指標だったのである。
 ベニイは戦時、黒い鉢巻をする。今それをすべきか迷っていた。ベニイの赤毛はイバラキの赤面と馴染んで、後に赤鬼と呼ばれる由縁ともなった。今それを知るべくもない。
 放っていた一騎が戻って来た。進軍する朝廷軍を見つけ偵察してきたという。その数、二百騎。東へ進んでいるという。太陽と鉄を捕まえに来たか。イバラキもいると知ってこの時刻に来たか。オロチにとって予想外の敵の出現。本土で最初に交戦したセキ軍が二百騎だった。今度の朝廷軍も二百。
 切迫する状況下にベニイは判断を迫られた。イバラキを救出するため砂丘に入れば三つ巴。この士気では戦えない、とベニイは読む。他のオロチも同感だった。ベニイは戦闘を回避し現状を維持することを部隊に命じた。
 ベニイは海の先を見つめている。イバラキと似た長髪。赤毛。吹き付けた知らぬ風が。
―這い上がってきたのさ、南土からさ、やっとしてよ。
 朝廷軍の向かう先にはイバラキがいるんだろう。前に太陽と鉄、後ろから朝廷軍とさ。イバラキは挟まれたんだ。ただひとりで。
 ベニイは赤毛であった。赤毛ゆえ差別された、見知らぬ人々から。親族からも罵られた。幼少時代よ。
 イバラキは無法だった。常識は無い。表面に意味がないことを悟っていた。だからベニイの非常の内に才を認めることができ、さらに重きも置いていた。
―イバラキと会わなかったら、もっと早くに死んでいただろう。
それがベニイの想いだった。
 ベニイは馬を東に走らせた。海岸線。イバラキの救出に向かった。部隊には何も言わなかった。ベニイは離隊したのである。イバラキよ、今行く、待ってろ、と。
 部隊はここで戦闘回避となっていたが、残りの者全てベニイに続いた。海岸を疾走していく。 ☆200

 海岸線の先。垂れ込めた灰色の空。灯る炎の列。太陽と鉄があそこにいる。それが見えた。ベニイはその海沿いから、さらに砂丘へと駆け登った。見えた、中央に。
 朝廷の進行する部隊。あれで二百騎か。それは朝廷の西の隊。朝廷西隊は南北縦軸に拡がって、ゆっくりと東へ進んでいる。部隊前後の厚みが無い。真横からは、その二百騎も薄く見えた。砂だけに、その進行に音も無い。/
 先に行かせたふたり。ヤチと春亜。ふたりも救うとベニイは決めている。砂丘を後に、再び海岸へ走り下ったベニイの先、そこにオロチ全員が待っていた。群れて。
 オロチたちは砂丘から下って来たベニイを見つめていた。/誰も何も喋らない。ベニイはその馬上で酒筒から飲んだ。飲み干し、遠方に灯る炎の列、遥かなそれを指差し、腹を抱えて笑っていた。/波の音だけ。ベニイの気違い、その狂気と共に。
 「それにしても馬鹿じゃねえのか、海って奴はさ、何度も何度も波寄せやがって」
そう言い捨てた黒い鉢巻のベニイを先頭に砂丘の朝廷軍を追い越した海岸線をオロチが行く。速く這いうねり。☆201
 さらに進む。前方に見える炎の列。さらに近づく。
 遠い水平線。灰色の空と白く波立つ海が見えた。それらを振り切るように走り続けて行く。ただひたすらに。★202 
▲197 ☆202

 コン。彼の宿に轟いた雷は東へと移っていった。遠くで鳴っている。雨後の大気が言った。
「あのくらいの速さで動いていければいいのに、人は皆。あの遠く先にも、人はきっと生きている。それぞれの人生だよ、誰かを愛したり、誰かに裏切られたりしながらもの」

 「何の用だ」と、シュテンがイバラキに訊いた。
 本土に来てから太陽と鉄に注目していた、太陽と鉄が朝廷軍を破ったと聞いて自分の見る目が正しかった、見世物を使った島荒らしには誰もが度肝を抜かれた、とイバラキ。
 そのイバラキの話しの中で自分たちが評価される言葉が出るたびごとに、ジンマは奇声を発する。
 「俺たちと組まないか」とイバラキ。「組む?なぜに」とシュテン。「俺たちが組めば最強の部隊に成り得る」とイバラキ。
「最強の部隊?なんだそりゃ。笑わせるな」
「いや、俺は本気だ。最強の部隊を造り上げる。おまえたちと俺たちが組むのがそのはじまりだ」
ジンマはその都度、奇声を発する。
「最強の部隊を造ってどうする」とシュテン。
「キサラギへ行く」とイバラキ。
「キサラギ?」
「そうだ、キサラギだ。キサラギへ攻め上がる」
ジンマのその都度の奇声。無言のシュテン。
 イバラキは遂にここでそれを口にし形とする。
「朝廷を倒す。朝廷を転覆させる」
最高の奇声。 
「馬鹿言うな。朝廷を倒す?どうやって」
「キサラギにいる帝の一族と貴族どもをせん滅する」
無言のシュテン。
「貴族どもを根絶やしにする」
ジンマのその都度の奇声。
「貴族に代わって俺たちがこの世を支配する。俺たち士族が、朝廷の言う武士が。武士がこの世を支配する」
最高の奇声。
「士族の頂点、武士の頂点に立つのが俺だ。俺たちだ。そのために俺は最強の部隊を造り上げる。最強の部隊を造りあげる必要がある」
ジンマの奇声。無言のシュテン。
「一緒になろう。俺たちオロチと太陽と鉄が一緒になればそれができる」
奇声。無言のシュテン。
「朝廷を倒して俺たち士族が新しい世を創るんだ」
奇声。無言のシュテン。潮風が吹き付ける。炎が舞い立つ。砂丘の上から成り行きを見つめる顔、顔、顔。
「ごめんだ。おまえひとりでやってくれ」とシュテン。
「キサラギへ行って貴族を皆殺しにするだと?まっぴらだ。貴族の顔など見たくない。ヘドが出る。オロチで勝手にやってくれ」
「合併しよう」とイバラキ。「いやだ」とシュテン。
「どうしてだ。このままでは済まないだろ。朝廷はおまえの命を狙っている。俺も天網に襲われた。朝廷に命を狙われる身だ。このままでいたら俺たちは朝廷の餌食になるだけだ。逃げ続けるのか?そうなる前に手を組んで朝廷と戦おう。朝廷を倒すんだ。俺たちが生き残るにはそれしかない」とイバラキ。奇声。
「俺が生き残るには朝廷を倒すしかない。そのためには俺は最強の部隊を造り上げるしかない。最強の部隊となってキサラギへ攻め上がる。帝の一族と貴族をせん滅する。キサラギを征服する。俺が生き残るにはそれしかない道はない。その道の果てにあるのは帝と貴族に代わり俺とほかの士が、士族が、武士が動かす世だ。そのはじまりがオロチと太陽と鉄の合併だ」
 ジンマは奇声を発するのを忘れてシュテンとイバラキを交互に見る。しばらく後に「よせや」とシュテン。
「合併なぞ面倒なことは結構だ。俺たちはもうそれは済ませた。蓄えはたんまりある。ほかの士とやれ」
「だめか」とイバラキ。「だめだ」とシュテン。
「キサラギを征服して士族が支配する世を創るんだ。それができるのは俺たちしかいない。シュテンよ。一緒に行くんだ。オロチと太陽と鉄で共に行くんだ。キサラギへ」
「行かねえ」
イバラキは深く息を吐きカイを見つめた。
「カイよ、見届けたか」とイバラキ。カイは真顔でうなずく。さみしげでもあった。
「じゃあな、帰らせてもらうぜ。あばよ」とイバラキ。「待てい」とシュテン。
 ハヤテを見せてくれ、刀を四本とも置いていけ、ハヤテだけでいいから置いていけ、とシュテンは言い、その都度イバラキは断った。
「生きて帰れると思ってるのか」とシュテン。「思ってる」とイバラキ。
「やるのか」とシュテン。「やってもいいぜ」とイバラキ。
「シュテン!待ってくれ!滅ぼし合うのはやめろ!」とカイ。無言のシュテン。イバラキが言う。
「やる前に謝ってもらおうか。俺の居場所を朝廷に漏らしたことを。謝ってくれや。詫び入れろ。謝れや」

 シュテンとイバラキは睨み合っていた。/その間も、砂塵が舞うのとあわせるようにして、イバラキは少しずつシュテンとの間合いを詰めていた。
 イバラキの横に付いていくカイ、近づくシュテン、その巨体の横にいるジンマも傍から離れずにいる。カイとジンマ、ジンマとカイが眼で語り合う。
 ―決闘になるのか。
 ―なる。
/ ☆201

/
―これ以上近づくとイバラキが斬りに出る
―おまえが先に逃げたらいい
ふたりの小人は戦いの第一撃が討たれようとする寸前まで耐えていた。
 イバラキの右肩が下がりかけようとした。イバラキが右腰の一本を抜こうと左拳を動かした瞬間。同時にシュテンに飛び込もうと体重を移動した。その殺気から逃れようと小人たちがいっせいに横に飛び散ろうとした。★204
 /そのまま真空の状態、決闘の空間へと入った。全ての音が消える。一瞬にして周囲が闇に包まれる。舞っていた砂。その砂粒のひとつひとつが見える。止まっている。
 この決闘の空間にシュテンとイバラキのほかに-カイとジンマが入り込んでいた。ジンマとカイはそれぞれシュテンとイバラキの側に立っている。横へ飛ぼうとしたまま完全に止まっている。
 今は見合いから決闘に入った瞬間にある。どちらかが死ぬ。
/
 俺の賭けは外れたってことか。畜生。でもいい。もういいさ。もう仕方ないんだろ。ほれ見ろよ。結局決闘になっちゃった。カイのような野郎がいるとわかっていたら、もっとほかの手もあったんだろうな。それでも打てるだけの手は打ってここまで来た。ここで終わる理由なんてどこにもないぜ、とイバラキ。
 乗り込んだイバラキも迎え撃ったシュテンも若かった。青春の只中にあった。生き残るために苦悩し無法に生きることを選んだ。彼ら士の生き様が新しい時代の扉をこじ開けようとしていた。 ☆203

▲203
 決闘の暗黒の空間は止まっている。シュテンは見つめていた。左拳を動かし斬りにくるイバラキが体重を移動した瞬間、イバラキの左側、自分の右側の闇の中から、ひとりの男が普通の速度で歩き出てきた。
 男は相対するシュテンとイバラキの間を普通の速度で通り過ぎて行った。すべてが止まっている中で。
 シュテンは見開いたままの眼の端で男を追った。通り過ぎざまに男は振り向いて戦いの様子を眺めるようにし、そのまま後ずさりして消えていった。自分の左側、イバラキの右側の闇の中へ。
 あとには男の臭いが残された。それは強烈な異臭だった。その臭いを嗅いだ瞬間に決闘の間合の暗黒が消え去った。カイとジンマが横に吹っ飛んだ。立ち会いに戻ったシュテンとイバラキ。呆然と見合った。
 潮の風が男の異臭を運び去った。シュテンとイバラキは男が砂に残した足跡をその両側から黙視した。今、風はその足跡をも消し去ろうとしている。
 「見たか」と、シュテンは訊いた。「見た」と、イバラキが答える。さらに訊けばカイとジンマには見えていなかった。シュテンもイバラキもあの男が誰かを知らなかった。
 異臭の男は確かにツジの乞食だった。飢饉のツジで発見された乞食。乞食は当時とまったく変わらない様相だった。盲目を装い歯の揃ったツジの乞食がなぜ今ここへ―。
 /灰色の空に警笛が高く鳴り響く。誰かが敵襲を叫び上げた。/☆204イバラキは見合いをやめて、シュテンから逃げるように離れ、砂丘を駆け上がった。手を付き付き。★205カイとジンマが追い走って行く。☆204砂丘の頂でイバラキは南を、左右、東西とを見比べた。☆204
 遠く三方からこちらへ向かっているらしい部隊の影が見えた。イバラキの吐き捨てたひとり言から、それらが朝廷軍であり包囲がはじまっていることを小人たちは知らされた。 ☆204

 /
 ▲204
 イバラキの様子に背後を見れば、遠く相当数の騎兵らしき影がこちらへ向かって来ているらしいのが見えた。ヤチと春亜のふたりは体を起こし、三方の軍勢の様子を眺めていた。
 横一列になって三方からゆっくりと近づいて来ている騎馬団。無音。まだかなり遠い距離にある。砂の地。
「お客さん」
声に振り返れば小人ふたりが立っていた。遠方横のイバラキがこちらを見ている。
 ヤチと春亜が言った。
「なんだよ。てめぇよあ」
「おまえ俺たちゃオロチだよ。イバラキが見てるだろ、な、ほら見なよ、ほらあっちだよ」
 それを聞いたカイは、こちらを見ているイバラキの元へ走り戻って行った。ジンマは残った。砂丘に片肘をつき、だれたままのふたりを見て嬉しそうにしていた。
「ここで見てたのかい、シュテンとイバラキとの、あん?お二人さんが」
オロチのふたりはジンマに言った。
「あぁ。見てたぜ」
「何かがあったんかいな。おかしな感じだったぜ。太陽と鉄さんよ、もっとしっかりしろい」
 ジンマが応えて
「なんか見えたらしいんだよ、シュテンとイバラキがぶつかり合おうとした前に。俺たちには見えなかったんだ。お宅らなんか見えたんかいな」
「何見えるってんでぇ、女でも見えたんか」
「何も見えるわけねぇだろ、こんな遠くっちゃ。砂喰ってろってなもんだぞな、おい」
「おいさ、お客さん早く逃げねぇと島流しだど。ありゃ朝廷の軍勢だってよ、ひッひひ」 ☆205

 ヤチと春亜はイバラキのもとへ歩んだ。イバラキはふたりを見ず、遠方からの軍勢を見つめている。カイとジンマも黙っていた。「馬は?」と、イバラキは訊いたが、ふたりが目立たぬよう歩きで来たとわかって、てっぺんを見上げて言った。
「ありゃ五百騎はいる。奴ら準備万端だ、三方から来てる。あれは捕獲だ。太陽と鉄を捕まえに来たんだろ。とんでもねぇところに出くわしたな」
「誰かが通報でもしたんでしょうね」とヤチ。「イバラキさんとシュテンが会うってこと知ってたんすかね?この日時に来るってことは」と春亜。
「だとしたら俺の行動が前っからつかまれてるってな話だぞ」
イバラキはカイを見下ろしたが、カイは眼を背けなかった。ジンマを見たがこの馬鹿が、このご時世に両手で口を押さえて笑っていやがる。呆れたもんだ。続けてイバラキはヤチと春亜のふたりに言った。
「ベニイに命じられたって、とんだ貧乏クジ引いたな、お二人さんよ/」
言われた二人も迫り来る軍勢を渋々と見ていた。
「酒あるかい」 「あります」
 出されたヒョウタン筒をイバラキは飲み下し思った。
―勝負を幻に邪魔されたということか。それにしてもあの臭い男、何者なんだ。
ため息ひとつ、向こう側の砂丘上に戻って行ったシュテンの方へと歩いて行った。カイとジンマ、ヤチと春亜も後に続く。
 上がって来たイバラキにシュテンは黙ったままでいた。まわりには太陽と鉄が群れてイバラキたちを凝視している。ヤチと春亜は盛んに睨み返している。イバラキは遠方を指差して言った。
「あれも、おめえが垂れ込んだのかい」
何も言わないシュテンにイバラキが言う。
「この馬鹿野郎が、人の居場所を垂れ込むような卑怯をするから、バチが当たったんだよ。畜生。余計なことばかりしやがって。えめえら」
 そうしているうちに捕虜の中から野次が聞こえた。シュテンとイバラキを名指しで呼んでいる。さらにハヤテを見せてくれ、と声高に聞こえた。
 シュテンはイバラキの表情を見ていた。さみしげに笑っていた。「あの連中で見世物をやってたのか」とイバラキ。「ああ」とシュテン。「斬っていいか。頭に来た」とイバラキ。「ああ」とシュテンン。
 イバラキは捕虜五十人のもとへ歩み、刀一本で十三人ずつ斬り、最後のハヤテで残り十人を峰打ちにして倒した。
 驚く速さであり舞うようであった。
 ▲207 ☆206

 名刀ハヤテはイバラキの左腰に再び納められた。複数の剣を次々と繰り出し舞うようにして斬り進む姿、そのような者を太陽と鉄の誰も見たことがなかった。
 カイとジンマ、太陽と鉄にいたほかの小人三人、五人の小人がイバラキに近づいた。/イバラキは言った。
 「俺の聞いた話じゃな、おまえらの軍は五十人て話だったんだ。だから最悪、おまえら全員、叩きのめす気合いでな、それで四本、刀、持って来たんだよ。一本で十人、うまく斬れても十二、三、四だ。カイよ、そうだろ」
カイはうなずいた。
「おまえら斬る代わりにおまえらの捕虜を斬ることになるとはな。刀ってやつはまったく不思議なもんだぜ」
 イバラキは使って投げ置いた長刀一本、手刀二本を持ってきてくれと小人たちに頼んだ。小人三人が各々拾ってきた刀を、受け取り砂地に並べた。
 「/見てくれよ、どれもいい刀なんだ。砂と血糊を拭いてやってくれや。カイよ、三本ともおまえにくれてやる」
並べた三本の刀-の刃を-イバラキはしゃがみ込み、いとおしそうに見つめている。
そうするうちに峰打ちにされた朝廷捕虜の十人が、意識を取り戻し起き上がりはじめた。彼らは斬られたほかの四十人が、うごめきながら-痛みに呻いているのを見た。それらをシュテンも見ていた。
 イバラキは朝廷捕虜を確かに斬った。しかしそのどれをも致命傷となる深みには達せさせなかった、わざと。さらにハヤテにだけは、そのような斬り方をしたくないと感じ、刃を使わなかった。イバラキは言った、誰にともなく。
 「あいつらは口だけ達者な大馬鹿野郎だ。競りに出しても買い手は付かねえだろう、あれじゃ。馬鹿どもが、兵士気取りが。懲らしめてやったまでよ。これで二度と無駄口きくような真似はしねえだろう。奴ら死に体よ。好きなだけ苦しめばいい」
 斬られた者は、後に一人も死ななかった。しかし受けた傷のために、以前のようには動かない体とされた。何でそうなったのかを誰にも言わなかった。
 斬られた、捕虜として、恥の極み。以後、生きながらに苦しみ続けた。
 生かしておいたほうが、殺すことになることがある。イバラキはそれを知っている。☆207
 峰打ちで無傷の十人のうち何人かはそのイバラキの姿を、シュテンとの逸話を語るだろう。伝説はそこからしか生まれない。イバラキはそれを知っている。だから戦いで最後の何人かは必ず生きたまま残してやった。朝廷軍が迫る今、明日をも知れない身でありながらもそうする。いやらしくもイバラキとはそういう男だ。★206 ☆207

 朝廷の軍勢は近づいていた。太陽と鉄は次にどうすべきかを求めている。しかし参謀の小人たちはイバラキにくっ付いたまま離れないで部隊を顧みないでいた。シュテンもさっき見た幻影の答えをひとり求めて朝廷軍の来るのとはまったく違う方向の海を見ていた。
 太陽と鉄の誰もが焦りはじめていた。/混乱しはじめる中でイバラキは仕切った。イバラキはカイとジンマに告げた。「泳げる奴は海へ逃げろ」 ほかの小人三人がそれを全軍に伝えていった。
 何人かが海へ行くと前に出た。海へ出れば生き残れる、そうイバラキは呼びかけた。他にも何人かが前へ出た。イバラキはシュテンに「海へ行け」と言った。しかしシュテンは笑って言った。 「俺は泳げねえ」
シュテンはひとり歩いて行き部隊とは離れて砂丘に腰を下ろした。イバラキは言った。
 「構うな、てめえのことだけ考えていけ。いいか。今月の三十日にヒロシマの市で落ち合うようにしろ。/わかったか。もし今月会えなければ来月から十二回、三十日にヒロシマの市に顔を出せ。必ず会えるはずだ。最悪一年経っても会えない場合はご破算だ。それぞれ別々に生きていけ」
 イバラキは「行け、早く」とせきたてる。カイとジンマ、他の小人たちもせきたてる。部隊はそいつらを自由に行かせた。海へ泳ぎ逃げて行った太陽と鉄は二十人だった。皆、持ち馬を捨てた。/残りは四十人いた。
 「あとは海岸線しかないな」
イバラキはカイたちに訊く。/
「この海岸線だ、走り切れるか、おまえたち。逃げるとすれば、ここしかないぞ」
 カイとジンマにそれを告げられた残りの連中は、その行き先が東か西かで口論となりつつあった。
 イバラキは見ていた。遠く。北西海岸線を五十騎が近づいて来る。その先頭の兵は赤かった。
「ベニイさんだ」 「来てくれた」 黙りこくっていたヤチと春亜が口をきいた。
 あまりの急なことにカイとジンマ、ほかの小人は驚いた様子でイバラキを見ていた。イバラキは何も言わず-朝廷軍とオロチの軍、それぞれの進みを見比べている。海岸をオロチの部隊は猛烈な勢いで上ってきた。 ☆208

 オロチは海岸を走りきりこちらに向かって砂丘へと上がって来る。オロチ、太陽と鉄。二つの部隊は面と向かった。イバラキに斬られた馬鹿どもと峰打ちにされた馬鹿どもがその一部始終を見ている。すでに騎乗の体制を整えたオロチが勝っていた。太陽と鉄は騒然とする。カイも驚いていたが-一瞬で見抜いてもいた。
―本物だ。
カイの息遣いは一瞬に部隊全体に伝わる。太陽と鉄はオロチとの交戦を放棄せざるを得なかった。朝廷に死体を送りつけるほどの威勢であった太陽と鉄は今、崩壊するかもしれない局面にある。
 太陽と鉄を釘付けにしたのが、オロチの先頭を仕切るベニイの姿だった。赤く長い髪。黒の鉢巻。赤い男は細く鋭かった。そのような者を誰も今までに見たことがなかった。
 イバラキはその馬上の赤い男のもとへ走り寄り、何やら言葉を交わしている。砂地からのイバラキの言葉、馬上のベニイは腰を折りその声を聞いている。ベニイとイバラキ。二人は迫り来る朝廷の三方を交互に見ては会話していた。
 カイはふたりの様子を見ていた。声は聞こえない。ただふたりの男、その流麗さに惚れ惚れとしていた。イバラキとベニイ、ふたりの並び姿ったら凄いんだ、惚れた。
 見とれているカイの横顔にジンマが言った。
「あいつら色っぽいだな」
 ここにほかの小人三人も加わって五人で踊りはじめた。その声を聞けばこう歌っている。
~男が男に惚れちゃった ソレ男が男に惚れちゃった ソレ男が男に惚れちゃった
 小人五人は砂丘の頂で、五人それぞれが自分勝手に踊りはじめていた。踊りの掛け声に合わせて、笛太鼓、木槌が勝手に加わっていった。
~男が男に惚れちゃった ソレ男が男に惚れちゃった
 太陽と鉄に踊りの輪が広がっていった。犬たちが吠え喜び跳び回っている。追手はそこまで迫っている。太陽と鉄は最後となるかもしれないこの輪を楽しみ出していた。
 狂気の沙汰でもある。オロチも太陽と鉄の気違い様を見て笑い、馬上から手拍子を打って楽しんでいた。 ☆209

 三方から徐々に近づく朝廷軍の影を見ていると低く地鳴りが聞こえてくるようだった。イバラキは踊るカイを止め、オロチの部隊が来た西海岸線の順路を引き返すことに決めたと伝える。来た道は知った道、知らぬ東の海岸線を行くよりも確か。イバラキは太陽と鉄も共に来るようにとカイに伝える。踊りの笛太鼓が自然に止んでいく。
 /ベニイは充分に逃げ切れるとイバラキに伝えていた。カイとジンマ、ほかの小人三人もそれなら行ける、と感じた。シュテンのもとへカイは走って行った。
 海風に舞う砂。カイがシュテンに話している影。ジンマとほかの小人の走っていく影。潮風に吹かれ、イバラキ、馬上のベニイ、ほかの誰もがそれを見つめている。
 シュテンは、この場所で朝廷軍と戦う、逃げたい奴は逃げていい、と言った。自分がイバラキと戦う直前に見た不思議な男は、きっとこの土地の霊体で、自分を守ってくれる、などと訳のわからないことをシュテンは言った、とカイはそれをイバラキのもとへ持ち帰った。
 イバラキはシュテンの影を見ていた。俺たちは行く、来たい奴は付いて来い、と太陽と鉄に吠えた。迫り来る三方からの軍勢。/
 馬に乗ったイバラキは、それを見るカイとジンマを見返す。しばらく見合っていた。カイもジンマも動かなかった。カイはイバラキに、そっと手を振った。あわせるようにジンマもほかの小人も手を振った。太陽と鉄のほかの連中も、この瞬間、オロチの部隊に手を振った。太陽と鉄の残り四十人はシュテンから離れずにいることを選んた。誰かの吹く笛の音が静かに聞こえる。
 イバラキは部隊へ合流し、ベニイ以下、五十騎、砂浜に下り-海岸線を西へと駆け出した。オロチの士気は頭の帰還で満ちていた。右手には荒海、その灰色の空。
 左手の砂丘側高台を何騎かの追手が並走していた。それは太陽と鉄の何人かであり奇声を上げ、海岸を行くオロチの部隊としばらく走っていた。何頭か犬もついて走っている。
 オロチもその連中を見た。速度を緩めず海岸線をひたすら行く。しばらくすると並走の連中は止まり、オロチに手を振って引き返して行った。☆210
イバラキは部隊から離れて砂丘へと上がった。★211
振り返り見れば、太陽と鉄が朝廷軍に吸い込まれようとするところだった。 ☆210

 ▲210
 並走していた太陽と鉄の数騎が戻って行くのが見える。海岸線を走り抜けたオロチ、部隊はすでに朝廷の包囲網をくぐり抜け、その背後に抜け出ていた。
 朝廷軍は太陽と鉄を完全に包囲していた。そこからの争いの叫び声を潮風が運んでくる。朝廷の包囲に太陽と鉄は最後まで抵抗していた。その怒号。
 午後の潮風は冷たく感じられた。海の波も激しくなっていたのだろう。太陽と鉄の灯した炎の列、そのいくつかが消えかかっている。それらをイバラキは見つめていた。ベニイがイバラキのもとへ上がって来た。ベニイにイバラキは言った。
―この距離だ、追っては来ないだろう、少しこのままでいさせてくれ。
遠く見つめるイバラキの横顔、ベニイもその炎の列に目をやった。ひとつ、また一つと。

 イバラキは捨てられた子であった。南土のある有名な大寺の門に捨てられた。親の名は知れない。この寺の最長老の僧がイバラキを迎え入れ食を恵んだ。成長するイバラキは仏門を通して梵語の読み書きと書を会得した。
 物心のついたイバラキをある夜、最長老の僧が呼んだ。最長老の僧はイバラキを自分の布団へ招いた。イバラキは言われるままにしていたが犯された。以後もそれは続けられた。
 イバラキは成長し美しい少年となった。寺には女僧も多くいた。ある日、上位の女僧に言われるまま、その部屋に進んで行くと待ち受けていた何人かの女僧に引き倒された。女たちは少年を犯し、それは以後も続けられた。
 イバラキが逞しくなりはじめた頃、帝への奉献物がキサラギへ運ばれて通過していく途中、この寺で奉献物に経を唱えるとして一昼夜、とどまることになった。奉献物は刀であり、その名をハヤテといった。
 深夜、誰もいない神殿を通ってイバラキはハヤテの置かれる部屋へ入った。イバラキはハヤテを手にとり、各部屋で眠る僧たちを殺した。

 ひとつ、また一つと炎は消えていく。太陽と鉄は捕獲された。朝廷軍に囲まれて南東へと引かれていった。オロチも姿を消している。もう誰もこの砂丘にはいない。 ☆211

 「九尾さま、お迎えの方がお見えになられました」
朝、宿の主人の呼びかけに、コンは部屋を出た。玄関に待つ男ふたり。先にコンを訪ねて来た男ふたりとはまた別の男たち。
「ご主人、カワナニの屋敷跡は左手でよいか」
「出た通りを左手にしばらく行きますと、ございます。すぐわかります」
 コンは宿を出てカワナニの屋敷跡へ向かう。男ふたりも続いた。雷雨が去った空は青い。あの雨は梅雨。もう夏か。
 ―シュテンは捕獲され、イバラキは逃した。
男ふたりはコンへ伝えた。ふたりは天網である。コンは無表情に進んでいく。
 コンのいた宿は大通りに面しており、両側には店や民家が建ち並ぶ。コンの歩く道は南北を貫く道。途中、東西を貫く大通りを渡る。この街は南北と東西、それぞれを貫く二本の大通りを中心に区画されている。コンの宿は街の北寄りの場所にあった。
 南北を貫く大通りの右側に空き地が現れる。広い。所々に、かつてここにあったのであろう建築物の土台らしきものが残っている。
 コンは空き地の中央付近に進んだ。玉砂利の敷き詰められたその一角。静かに湧き水が溢れ出ている。コンはその湧き水の、次々と音も無く盛り上がってくる様子を見ていた。
―ここがカワナニの屋敷跡か。
 カワナニの屋敷は何者かにより放火され全焼した。跡地に建てようと考える者がいないほど、その炎は激しかった。呪われた場所とも見なされていた。
 コンは空き地を出て、大通りをさらに南へと進んだ。通りの遥か先にそびえるように重く横たわる門の影が見える。その門の遥か前から、こちら側に、密集した人家、長屋、それぞれをつなぐ屋根、屋根が続く。南北の大通り、その南端はそれら密集地に閉ざされて終わる。その周辺には門へ通じる入り口であるいくつかの狭い小路が待っている。門の影はその遥か先にある。混沌の口先がコンの前に寝そべって口を開けていた。
 どこから街へ入って来たのか、とコンは訊いた。男たちは、北門から、と答えた。 ☆212

 「あの先に見えるのが南門だ。あの南門からこの街の外へ出る。南門へ行くまでのこの密集地の中は迷路のようだと聞く。/はじめての者には危険でもあるらしいが、せっかく寄った場所だ。この中で何かあろうが、楽しかろ」
 コンはひとり、先へと歩いて行った。男ふたりも続いた。密集地への入り口の小路、そのひとつにコンは入って行く。男ふたりも続いた。
 この都市の名をツジという。ツジは飢饉を越えて、再生した。かつてキジが踏み入った都市、ツジ。ツジは生き残った。
 ツジの南門は、さらにふくれあがり巣窟ともなっていた。門周辺に人々は集い、さらに周辺地域までもを囲っていった。屋根をつなげ、道をさらに枝わかれにして、密集の迷宮となっていった南門。化けて、今そこにある。/ツジ南門は強靱な変容を遂げていた。
 コンは、キジの足跡を追い、このツジへ身を寄せていた。コンは調べをつけていた。キジが乗ったらしい大陸船、その乗員の渡航、多くはツジ鎮圧の功による。ツジ鎮圧。キジという名の男が確かにこの都市に入っている。そのわずかな記録がキサラギに残っていた。
 記録によれば朝廷はツジを鎮圧しようとして-ある仏門の一派がその任に当てられた。同時に目付の兵士の一隊を朝廷は派遣している。その隊の隊長がキジという名で残されていた。
―あのバクセが、このツジという都市に来ていた、キジという名で。
 コンは進む。混沌の南門密集地を。暗い夜であれば迷っていたかもしれない小路をくぐるようにして進む。夏の朝、涼し。南門の住人はその朝、誰も三人の姿を見なかった。コンは住民の眠る中を進んだ。
 ▲229 ☆213

 コンは密集地を抜けて南門に着きツジの外へと出た。しばらく歩いてたどり着いたそこは高台でありツジの屋根屋根が見てとれる。その場所は何年も前に、キタが見下ろした場所であった。
 その昔、飢饉のツジは崩壊寸前にあった。コンの立つその目の前の道。その道を若き日のキジは走り下って行った。それは昔。誰が知ろうが。
 当時にキジが予想したとおりツジは復興した。さらに今、その南門にカワナニの市が立ち混沌としている。あの南門の密集地の中に、人身売買の市と賭場がある。/ツジ南門。
 キサラギに戻りコンは出兵した。ツジの宿へ自分を訪ねて来た四人、天網の構成員である若い男たちも連れて。あの渓谷の集落、炭焼きの山へ。遙かなる―。
 桃源郷王子の足跡を追ってコンはその辺境に再び踏み入っていた。かつて自分がキサラギの一兵士として進軍した山あいの場所。
 夏、汗がたぎる。
 そうしてこの集落の若い長に問いただしていた。
「話してくれ。ここで起きた殺しのことを」

 若い長の話によれば、以前、集落から離れた一軒家に暮らす初老夫婦があった。ふたりは流れ者でよそから来てこの山あいに住み着いた。/キビ団子なるものを作って集落に売り届けたりしていた。
 ある時ふたりは家を残して消えた。何年か後に戻って来たが、その時には四、五才の男の孫を連れていた。/その子の名はモモという。
 そのモモが遊び途中に山火事を起こした。集落の人間はモモを捕らえて体罰を与えた。その体罰の激しさにモモを育てる初老の男が激怒して集落へ乗り込んで来た。そのあと初老夫婦はモモを連れ、再び消えて戻らなかった。
 山火事が起きたときモモと一緒にいた男子がいた。集落の子で初老夫婦の家へ、たびたび泊まるほどにモモと仲が良かった。この子が成長した後に、モモを体罰した集落の大人たちを虐殺した。男は消えた。名をイヌという。 ☆214

 コンはツジに入る前から不思議に思っていた。ある馬車が走っている。
 四頭立てでゆっくりと。それで不思議に思っていた。あの馬車が何なのか、どこへ行くのか。ツジでもすれちがった。
 その馬車はイバラキが乗った馬車だよ。片眼の御者が引くあの馬車だ。散切りのあの子も隠れて乗っている。
 売られていくんだ。何もかもを乗せて。馬車は行くよ。
 それがカワナニの南門へ行く馬車だとしても、もぉいいんだよ。好きにすればいい。 ☆215

あなたの瞳に起こされた

今はまだ

まるで夢のよう

とても

あなたのまつ毛の感触が

今もまだ

指先に

残されて

癒えぬままに

時だけ過ぎて

まるで夢のよう

とても

あなたの瞳に犯された

今はまだ

まるで夢のよう

とても ☆216

鐘の鳴る 第四章 終

400字詰め原稿用紙185枚

第四章 2稿 2/3 185~195

▲184
 太陽と鉄が朝廷軍と対峙したとき、シュテンは部隊最後尾からさらに遅れた場所を何人かと歩いていた。道の先で騒ぎ声が上がっていた。しばらくして小人が走って来た。シュテンは先頭で朝廷軍と斬り合いが始まったことを告げられた。
 シュテンは前を行く部隊に走り寄った。両側を山に遮られた細い道。背伸びして見れば最前線では煙と怒号が立ち昇っている。両軍の騎馬がいなないているのが見えた。
 シュテンは部隊後方に止められていた熊の檻を全開した。四頭の熊たちが放たれた。上がり続ける叫び声、混乱した場の空気、熊たちは興奮し前方へと走り出す。熊の首輪につながる鎖を持つ者たちが引きずられ、さらに奇声を発した。
 部隊後方にいた者たちが熊に襲われそうになっていた。
「逃げろ!熊が来たぞ!」 「うひゃっ!」 「後ろから熊が来た!」 「逃げろ逃げろ!」
 後ろから走りこんで来る四頭の熊。細い道、両側を山に遮られ前がつかえていたシュテンの部隊。後ろにいた者たちが熊から逃げるために前へ押し寄せた。シュテン側の最前線へ次々に人が集まった。
 「何やってんだこの野郎!押すなや!」 「馬鹿逃げろ!熊が来た襲われちまうぞ!」
もはや朝廷の軍などどうでもよいかのごとく-シュテンの軍は戦いの真最中、押すな押すなの大騒ぎになる。
 太陽と鉄の部隊は後ろから来る熊と前の朝廷軍を避け、両側の山へと左右二つに別れ登った。馬に乗る者も馬を引いて山裾を登った。 ☆185

 両側の山裾へと逃げ入った士たち。どけた道の後方から朝廷軍に向かい、熊数頭が走って来ていた。興奮した熊たちが朝廷の騎馬に襲いかかる。馬たちは巻き込まれるように次々に倒されていった。その様子に他の馬たちが怯える。朝廷の馬は前へ出ようとしなくなった。
 朝廷の前線は熊の襲来に混乱、後退をはじめる。さらにシュテンと虎も前線へ到達、一人と六頭で猛然と追撃をはじめた。馬も人もシュテンの鉄棒に打たれて引き続けた。
 熊、虎と共に戦う棍棒の大男。それは朝廷軍の誰もが初めて見るもの、異様だった。
 両裾へ逃げた士たちは、山影から朝廷軍を矢で射りはじめていた。朝廷の前線は次々と倒れ崩壊を始める。シュテン一人によるあまりに型破りな様、その命知らずの戦い振りと怪力。朝廷兵は仰天していた。
 山へ昇り入っていた小人とほかの士たち、そのまま山中を朝廷軍後部へと向かった。山下の細い道、朝廷の三百もの部隊は縦に長く続いている。軍後部の兵士たちは、前線で戦闘が勃発していることを全く知らない状態にあった。
 朝廷軍最後部へ廻った士たちは、数本の大木を眼下の道に切り倒した。朝廷軍の退路を断ったのである。さらに士は朝廷軍の中間、部隊の真ん中に当たる道部分にも大木を倒した。朝廷軍を前後に二分したのである。
 士は朝廷軍の最後部と中間部に大木を倒し続け-てそこに火を放った。二分されて前にいた朝廷軍はその後方を、後ろにいた朝廷軍はその前後を炎に包まれる。
 士はさらに山裾両側にも火を放って、朝廷軍の左右両側も火で囲っていった。火の出ていないのは朝廷軍前方のシュテンのいる場所だけとなり、-そこにも木を倒し火を放った。
 シュテンと六頭はここで一息ついた。朝廷軍は四方を火攻めにされ、大混乱に陥っていた。炎の向こう側。
 シュテンはその燃え盛る様を見つめていた。小人数人がシュテンと火攻めの様子を見つつ、盛んに周囲へ指令を出している。
 熊を檻へ連れ戻すために、炎のこちら側周辺も大騒ぎになっていた。シュテンにつながれている虎も腰を地面に付けて、盛んに水を飲むのが止まらない。両軍の怒号が、炎と共に上空へ舞い上がっていく。
 火を越えて逃げてきた朝廷兵と馬は、士に次々と捕まった。捕虜となった朝廷兵は百五十人、捕えた馬は七十頭。朝廷軍は完敗する。その後、両側の山火は一昼夜燃え続けた。
 これまでにも朝廷の軍と士の軍が対峙することはあった。逃げるのは士である。追うのが朝廷軍であった。戦うことはなかった。
 朝廷軍を破った士の戦いは、この時のシュテンがはじめてだった。この戦いの情報は、瞬く間に本土全域に広がった。太陽と鉄の名は轟く。
 本土の大規模な島を持つ士たちはシュテンの戦いに驚嘆した。イバラキもこれを聞いた。カミノセキを討った直後である。イバラキは太陽と鉄に対する自分の予感が正しかったことを知る。このあと彼は太陽と鉄の行動に魅了されていった。 ☆186

 太陽と鉄は朝廷軍捕虜から、衣服、鎧、武具のすべてを奪い潤った。全員が馬を持つ部隊に発展する。
 捕虜同士に殺し合いをさせた。見世物にして金を集める。大規模な市が立つ横の場所で捕虜に武具を与え殺し合いをさせた。
 市に来た者は目的の競りよりも、捕虜の殺し合いの方を楽しんだ。生き残った捕虜は虎か熊に襲わせる。それも見せた。
 見世物には千人が集まる。横で行われる市を置き去りにする人気だった。今までにはない類の島荒らしでシュテンに大金が集まる。
 市を開く士は憤慨し太陽と鉄の陣に乗り込んだ。シュテンには島士の話しを聞く気など毛頭ない。話し合いは噛み合うはずもなく物別れとなった。
 通常ならば島士はここで相手に対して挙兵する。でも手を下せないでいた。相手が各地で問題を起こしている非常に厄介な一団であったこともある。しかし最もは、彼らが朝廷軍を破ったあの太陽と鉄だったからである。
 太陽と鉄は、見世物で死んだ捕虜たちをキサラギに送り届けた。死体には書状を添える。書状の送り主には、横で市を開いていた士の名が記されている。この朝廷兵を殺したのは市場を開いたその島の士であるという名乗りが記されていた。
 たまったものではない。市を開いていた士は、濡れ衣を着せられる。朝廷はその土地へ挙兵しその士を追った。書状に名を挙げられた士と市は散逸する。以後その島ではしばらくの間、市が開かれなかった。
 太陽と鉄はさらに、めぼしい島の島士へ多額の和解金を要求した。払わない場合は、その島の市の横で見世物を開き続ける。
 たまったものではない。捕虜の死体は、濡れ衣の書状と共にキサラギへ送られる。朝廷軍がやって来るまでに太陽と鉄は次の場所へと移動した。見世物が次はどの市の横で行われるのか、まったく予想がつかなかった。
 移動した新たな土地でも見世物は繁盛して止まらなかった。和解金を払わなければその横で市を持つ士は、濡れ衣を着せられた。死体はまとめてキサラギへ直送された。どの士も以前は格下であったシュテンの要求に応じるようになっていた。
 殺し合いを拒む捕虜は虎か熊に襲わせ見せた。客の中から武具を使って捕虜を襲ってみたい者を選び、その者の好きにさせても見せた。
 /太陽と鉄に金は集まり続ける。
 捕虜は半分以上に減っても五十人いた。シュテンの名が、さらに方々の島々でも通用するものとなっていった頃。朝廷は元凶がシュテンであることを突き止め、その命を狙って動こうとしていると噂が流れた。
 そんな頃、一通の書状がシュテンに届けられる。オロチのイバラキからであった。 ☆187

 イバラキの書状。シュテンと会いたいと書かれていた。オロチの噂。シュテンも聞いていた。南土から上陸して来た渡士軍団。オロチの頭イバラキ。ハヤテという高速の剣。カミノセキも討たれた。
 書状にはイバラキの居場所が記されていた。南の宿場町。宿の名前。イバラキはその宿でシュテンからの返事を待っている。それは自分の居場所を口外しないとシュテンを信じるというイバラキからの表明でもあった。イバラキの捨て身の行動だった。
 シュテンはイバラキへ返事を送った。約束の場所と日時を伝えた。海沿いの砂丘。二十日の正午に待つ。
 シュテンは朝廷捕虜のうち最も位の高かった男を呼んだ。男にイバラキの居場所を教えた。情報をキサラギへ持ち帰らせた。オロチのイバラキの居場所となれば十分な価値がある。
 シュテンは自分に向いたと噂に聞いた朝廷の怒りの矛先を、情報を密告することで少しでもやわらげたい魂胆だった。シュテンは今更ながら朝廷に媚を売った。それはイバラキの表明を踏みにじったことを意味する。あとは朝廷がどう動くか、それは分からない。
 太陽と鉄は海沿いの砂丘へと移動していった。イバラキが約束の日時に来るかどうかで賭けをしながら。

 イバラキの居場所。情報は天網のコンへ十日に伝わった。イバラキがいるという宿。
 さらにシュテンは、イバラキへの返事は十三日の夜遅くに届ける、と伝えてきた。十三日の夜遅くに返事を受け取ったイバラキは、その夜も同じ宿にとどまることになるだろう、と。信憑性は高い。
 コンはその宿へ三人の刺客を送った。刺客は十三日にイバラキを襲った。
 コンは宿にいた。雨が降る。九尾という偽名で泊まっていた。待っていた暗殺報告。天網が返り討ちにあったと聞かされた。十六日であった。
 情報を持たされてキサラギへ戻った男は失踪した。男は盗み聞いたと言った。シュテンとイバラキが会う。二十日正午。場所は知らない。
/
 ▲183
 宿のイバラキを襲った三人。皆黒装束。それを剥げば三体に共通の刺青。それをイバラキは読んだ。
―天網。
/見たことのない武器を使う。奪った武器をイバラキは見つめた。
 朝廷の暗殺部隊の噂。イバラキも聞いていた。天網はシノビとも呼ばれる。 ☆188

 身分を隠し泊まった宿。天網に襲われた。自分の居場所。漏れたとすればシュテンへ送った書状からか。
 殺し合いの騒ぎ。宿の主人が泡を吹く。黒装束の死体。その部屋に連泊していた客は闇へ消えた。
 翌日。町外れ。その日もまた、その場所にオロチが数人現れた。イバラキが宿へ入る前に交わした約束通りに、待っていた。イバラキが来た。そして伝えた。二十日正午。海沿いの砂丘。シュテンと会う。
 イバラキは一人。行っちまった。言葉少なだった。疲れているようにも見えた。
 ベニイという男がいる。イバラキの側近。イバラキより先にオロチにいたという。二人は共に南土を駆け上がって来た。イバラキをよく知る男。イバラキに次ぐ男。
 イバラキ。一度口にしたら必ずやる男。止まらない男。誰にも止められない。ベニイはそれを知っている。だから行かせた。そのままに。
 ベニイに伝えられたイバラキの行方。ベニイは手下の二人を行かせた。二十日正午。約束の砂丘へ。
 イバラキはシュテンに何を語ろうとしているのか―。
 イバラキは重大な時局には一人で臨む性向があることをベニイは知っていた。今回イバラキは何本もの刀を用意して出て行った。
 決闘でもする気か―。
 ベニイはオロチを率いた。部隊を進める。砂丘北西側のへり。オロチ全員が待機した。約束の砂丘で何が起こる。先に行かせた二人。見届けろと。その報告をここで待つ。
 太陽と鉄。相手は何人で来る。わからない。/―。
 もしイバラキが倒されでもしたら―その現実に部隊は揺らぐだろう。結束は弱まる。時間の経過とともに部隊の士気は落ちていく。それを止めるには速攻しかない―。
即座に攻め上がる。相手をその場で討つ。それしかない―。
 /
今さら南土へ戻って何になろう―。
 士をやめることは許されない。誰にも。士となったからには止まることはできないのだ。士とは抜け出ることの許されぬ道。逃げることは許されない。士をやめることができるのは死だけ。死んだ時。士が終わる。
 戻る気はない。先へ進むしか道はない―。☆189 

 遠雷は近付き、今コンの宿の真上にある。雷雨。
 コンと先に話した男、ほかにひとり新手がいた。部屋にはコンのほか、天網がふたり。
 あとから来た男の情報では、朝廷がキサラギから挙兵した。総勢六百騎。行く先は二十日正午の砂丘。目的は太陽と鉄の捕獲。シュテンの朝廷への密告は裏目に出た。
 雷が落ちた。★196 ☆189

 朝廷軍六百騎は、二十日の砂丘南西側のへりに待機していた。/
 /沖合の猟師が通報していた。士の一隊らしい、砂丘に駐屯しているらし、と。
 探れば炎の主は、太陽と鉄に間違いなかった。太陽と鉄は動かないでいる。/シュテンの居場所はキサラギへ伝わった。
 シュテンがキサラギへ送った捕虜、後に失踪した男によれば、イバラキとシュテンが二十日正午に会う、場所は知れない。
 十三日の襲撃をかわしたイバラキの所在は不明だった。ならばイバラキは、シュテンのいる砂丘へ向かっているはず。イバラキが二十日正午、シュテンと会うために砂丘へ北上していると読めた。
 朝廷軍は二十日の砂丘へ向けて、キサラギから挙兵した。十六日である。太陽と鉄とは別の一派オロチに遭遇する確率が高い。出撃の情報は、宿にいるコンにも伝えられた。十八日である。
 二十日。/南北に湾曲して東西に広がる砂丘、その北西側、砂丘最北の海岸沿いに太陽と鉄は駐屯していた。
 /
▲197
 朝廷の六百騎は各二百騎ごと、三隊に別れた。南西の隊を中心に西寄りの隊、南寄りの隊、それぞれが砂丘のへりでその湾曲に沿って広がった。すでに太陽と鉄に対し緩やかな包囲網を敷いていた。正午過ぎに向けて各隊が横に拡がる陣形で、ゆっくりと海岸線へ詰め登って行った。 ☆199

 二十日、正午前。約束の砂丘は雲が垂れ込めた-灰色の空。風は強く-少し寒くもあった-海沿いの場所に-潮の香が吹きすさぶ。
 風の中、歩きながらイバラキは思っていた。相手は何人で来ているか、これほどに見晴らしが良い場所ならば、相対したその途中で逃げ返すことは到底無理だ、と。
 そこは彼が予想していたよりも広く続く砂地だった。視界が開け過ぎている場所。
 さらに悪いことに砂が柔らかく思っていたよりも足がとられる。それは戦いとなったとき刀を用いる彼にとって不利だった。立ち廻るのにも斬り返す時、踏み込みでいちいち足が沈む。/それだけ体力の消耗は激しくなるはず。
 もし多勢を相手に斬り合うこととなれば、戦いが長引くほど必ず捕まることになるだろうと予想できた。
 矢と綱を飛ばされたら逃げ切れないか―。

 イバラキは不利にある自分の状況を顧みていた。相手は海を背にしているだろう。そこは砂丘の深端部。そこへ行くまでに体力を消耗し、引き返すにしても砂地が続くことになる。砂丘に隠れていることはできる。しかし一度姿を見られたら追手から逃げ切るのは難しいだろう。
馬で来ていれば振り切れただろうか―。
 偶然が重なったとは思えない地の不利。この場所を指定してきた相手の狡猾さをイバラキは生々しく感じとっていた。
 自分は確かに腹を立てていた。天網に襲われた一件で。自分の居場所を朝廷へ通告したのは、太陽と鉄に違いないと感じてもいた。
 太陽と鉄に対する期待は、逆手に取られ踏みにじられた。それは文字通りの捨て身となった。苦々しい―。シュテンによりなされたであろう密告。襲われて戦いを終えた夜のように、イバラキの内には腹立たしさが再び込み上げていた。
 卑劣なことをしやがって野郎が―それも問い正す、当初の目的を越えて以前よりさらに太陽と鉄に会わずにはいられなかった、頭に血が上る。
 それだけシュテンと会うことに気が急いてもいたのだろう。ある意味、太陽と鉄に強烈な可能性を感じている自分はいずれは奴らの招きにはめられたのかもしれない。こうなるのも時間の問題だったか―と、イバラキはここで自嘲したが来てしまっていた。約束の砂丘に。
 人を卑劣と言える柄か、この俺がさ。いいさ、来ちまったんだ。遅かれ早かれこうなった。いつものようにこれは自分にとって避けて通れぬ道、逃げられぬ場所―。
イバラキは歩き続ける、止まらない。
 俺の力なら、逃げられぬ場所だろうと逃げ切ってみせる、これまでもそうしてきた―。
前方に灯る海沿いには炎の列。炎周辺に相手部隊のたむろするのが見えかけていた。相手全員がそこに揃っていることをイバラキは知る。六十騎と捕虜五十人の影。待ち受けていた。
 全部隊でお出迎えか。ここで恐れても何にもなりはしない。自分がシュテンに伝えることは最初から決めていた。そいつは今も変わらない。そいつを伝える―。
 残しておいた酒をここで飲み干した、イバラキが行く。四本の刀と共に。 ☆191

 ▲184
 太陽と鉄は海沿いの砂丘に移動してから、昼、夜と火を焚いていた。それが湾曲に廻りくねった対岸からも見える。遠い海からもそれは見えた。
 太陽と鉄。彼らは海風に震えていた。見世物の喧騒からは考えられぬ砂丘の静寂。流れる笛の音に孤独と絶望を感じずにはいられない。寒すぎるすべて。/
 ベニイに遣わされたオロチのふたりもその火を見た。遠く。砂丘の海岸線に燃えていた。
 南土にはなかった。これ程に広い砂地。海風が強い。昼も夜もその火は燃えていた。幾つにも連なって。幻のように。 
 オロチのふたりは、隠れながらさらに炎に近付き、その砂に伏せて見張っていた。何で、まぁ、こんな場所に。イバラキもひとりで来るってか、よくまぁ、やったもんだ、と。
 小便を垂れに行ったひとりが急いで戻って来た。イバラキが来た、と。
 イバラキは来た。ひとりで。後ろに結んでいた髪を一度解いた。長い黒髪。海風に揺れる。頭を垂れて手で鋤いた。
 長い手布を鉢巻にした、その黒髪。頭頂から垂らして背と風に揺らせた。最も長い剣をその背に、ほかの三本は右と左に、それぞれ二本と一本ずつ、腰に結わえた。
 /
 オロチの見張りのふたりも、それを見ていた。イバラキはひとりで歩いて来た。見たこともない砂の場所。海の風。知らぬ相手。
 イバラキはひとりで来た。約束の場所に、たったひとりで。/ ☆190

 太陽と鉄の一団。遠方から近付いて来た人影を見つめている。すべての音を止めて黙ったまま。シュテンもその影を認め眼を細めた。
 炎が激しく揺らめく。その気炎が太陽と鉄の佇まいを陽炎のようにくねらせて見せた。強い浜風。砂が舞う。風と炎と砂の音。灰色の空。
 ひとり来た男。男は太陽と鉄の駐屯する砂丘、その対面の砂丘上に立ち止まった。両者の間を低く平らな砂地が隔てている。太陽と鉄からふたり、転げるように進み下り出てその砂地を走り渡った。ふたりは小人の男たちだった。
 小人たちは時々に立ち止まり、自軍を振り返り見ながら、ひとり来た男の下へと上り進んだ。小人のひとりが砂丘の頂に立っているその男を呼んだ。
 「おまえさん、誰だい」
「イバラキだ。シュテンに会いに来た」
イバラキは胸元から書状を取り出し、ふたりへ差し出した。最初、小人たちは驚くように顔を見合わせた。ふたりとも短刀を腰に差している。
―猛者だな
イバラキは直感した。
 小人のひとりが、警戒しながらイバラキの元へ登り、それを受け取って砂に滑りながら後ずさりした。イバラキは小人のその間合いの取り方に感じた。
―相当に戦い慣れしている
渡し際、見切った小人の手。その手のつくりは強い者の手だった。鍛えあげた拳。
 小人が広げた書状をもうひとりへ見せている。それはシュテンがイバラキへ送った返事に間違いない物だった。ひとりはそれを持って、踊るように転げ落ちながら部隊へ走り戻って行った。
 残ったひとりはイバラキを見て笑っている。イバラキは動かない。小人を視界に入れず向かい側の砂丘を見て、太陽と鉄が捕虜を連れているのを確認した。
 「あんたさんが、イバラキさんですかい」
イバラキは動かない。小人はイバラキのまわりをひと廻りした。 ☆192

 「ひとりで来なすったんですかい。驚きだ」
小人がイバラキの握る殺傷の間合へ入らないようにしているのが、イバラキにはわかった。
「あんたさんとオロチの噂は聞いてますよ。南土から来なすったってね、イバラキさんはかなり強いらしいって。セキ兄弟もイバラキさんの手に掛かったんですよね、そう聞こえてますよ」
動かないイバラキ。小人はその反応に続けた。
 「どれがハヤテなんだろうな、その刀のうちの。怖くてこれ以上は近づけませんね、イバラキさん。何の用なんですか。シュテンだってね、強いんですぜ」
 書状を持っていった小人が、部隊が駐屯する向かい側の砂丘を登っていくのが見える。
「おまえじゃ話にならん。シュテンを出せ」
小人はイバラキを見上げている。イバラキはその小人を視界へ入れないままでいた。
 「いやこりゃ凄いや。イバラキさん。あっしはシュテンとずっと一緒してきたんです。でもねイバラキさん、惚れた。大したもんだ。イバラキさん。あんたさんには惚れた」
ここでイバラキはその小人を自分の斜め横に見下ろした。
 「あっしはクワイってんで。みんなカイって呼んできますがね」
砂丘の頂上にいるイバラキ、-カイはイバラキを見上げている。二人は睨み合った。その面に嘘はない。
 「イバラキさん。あんたここで死ぬには惜しい」
イバラキは黙っていた。
「あっしが生かしてみせますぜ。シュテンに話をつけて」
 風が吹く。向かい側の砂丘の頂上では、小人が持ち帰った書状を見るため、数人の影が集まっているのが見えた。その対面の様子をイバラキは見つめている。さらにひとつの大きな人影の立ち上がるのが見えた。
 カイは自軍の様子、それを見続けるイバラキを交互に見ながら言った。
「あれがシュテンで」
 イバラキは言った。
「燃えるぜ魂」 ☆193

何があったって人は誰かを悪く言う。

そうだよ、自分を守るために。

自分のことばかりさ。

人は皆。

でも俺は違うぜ。

最初から人を憎んで生きてきた。

そう

最初から。

俺は言い訳で自分を助けていくような奴等とは違う。

最初から死んでいくんだよ、

人に理解されたときが人の死で

何が悪いのさ

イバラキ伝 ☆194

 これまでのあらすじ(五)

 河へ流された王子。桃源郷より遥か下流の炭焼きの地へ流れていった。流れる籠をキビが拾う。籠の中には赤ん坊が包まれていた。キタもその子を見た。子の装いは、まるで流れ着いた桃のようであった。キタとキビは、拾った赤ん坊を家へ連れ帰る。
 バクセという偽名を使って生きていたキジ。王子の流された渓流の岸を下っている。キタとキジ、ふたりはその渓流の岸で偶然に再会する。ツジで出会ってから数年ぶり―
 キタはキジを家へ招き、河から拾った赤子をキジに見せた。キジはその子が桃源郷の王子であることを認め、その事実をふたりに告げる。キジはその子を捕えなかった。キタとの再会、なぜか不思議と見逃した。キジは部下を引き連れて朝廷軍本営へと戻って行く。
 キジとの再会、キタは不思議と決めていた。この子を育てると。キタとキビは、住み慣れた家を残し姿を消す。/
 滅ぼされた桃源郷王家、唯一の生き残り、王子の消息は失われる。

 貴族のみが支配した社会、そこから新しい時代が生まれようとしていた。国は変貌をはじめている。武力を掲げる者たちが出現しはじめていた。出生に関わらず支配する力を持つ者たち。各地方で武力をもって支配する者たちが台頭をはじめた時代。
 彼らは自ら士(し)と名乗り、武装化と集団化を進めていった。わずか数年の間に各地に人身売買の市場が生成されていく。朝廷の権力が及ばない場所、地帯の急造。誘拐と拉致が最も盛んな時代に突入し、人身売買市場には莫大な金が流通していた。
 反貴族、反朝廷の意識を持つ者たちの登場。彼らは遂に朝廷の脅威となりはじめる。

 時が過ぎて。コンという男がいた。彼はバクセに率いられ、桃源郷討伐に参戦した経歴を持つ。バクセの下、桃源郷王子を捜索した部隊のうちのひとりであった。
 コンはこの時、天網(てんもう)の主要なひとりとなっていた。天網とは反朝廷勢力を抹殺するために組織された部隊。朝廷により運営された暗殺部隊である。
 コンは反朝廷勢力と戦っていた。コンは、バクセという偽名を用いた伝説の武人、キジの消息も追っていた。さらにバクセが見逃した桃源郷王子の消息をも追っている。 ☆195

第四章 2稿 2/3 175~184

 雨の宿屋、その一つの部屋で、コンは情報を届けに来た天網の男と話をしている。話題のオロチは、南土の最も南の部分から生まれ来たと、コンも以前に聞いていた。
 オロチの一派は南の地より海を越え、この本土にやって来た。オロチが生まれた場所を含む南の土地は、南土(なんど)と呼ばれる。南土の北西部に巨大な港がある。大陸船は、この港から出航した。かつてキジが、ギンザという名の馬と共に乗船したのも、この港からだとコンは考えている。雨の隙間、揺れる波面、遥かなる―
 南土にも、朝廷が問題視しはじめる士が存在していた。九つの党派である。彼らが南土における人身売買市場の主要部分を形成していた。このうちの誰もが、オロチの移動を止めることができなかった。

 人身売買市場が成立していくまでの過程がある。前期、士はそれぞれの領分である島から、決して外へは出ない者たちだった。自らの島の外に出て活動することは士にとって危険な非常識と捉えられていた。それぞれの島は元締めを頂点とした士の階級組織を形成した。士は必ずいずれかの島組織に属する者だった。
 市を開いても自らの島組織に属する士の品だけを取り扱かった。彼らは島士(しまし)と呼ばれた。島と島の市は分断されていた。
 中期、この旧来の士たちの常識に倣わない考えを持つ士が各地で次々に現れはじめた。特定の島組織に属そうとしない士たちである。彼らは自らの市場を運営するほどの力は持たなかった。そのために島組織に属さぬまま品を市場へ出荷しようと画策した。島士を買収し出荷するなど、その行為は従来では禁じられた島荒らしであった。
 島荒らしに関わった者は島士に追われ、捕まれば糾弾され処罰された。これに対し島組織に属さない士は凶暴化、暴徒化していった。島組織に属さない彼らは荒士(あれし)と呼ばれた。
 島士、荒士のどちらもが損害を被る殺傷事件が頻繁に発生した。手を焼いた島士は荒士の出荷に応じ手打ちとなった。ただし島士は荒士の出荷に、出荷量を限定し天引きを課すなど一定の条件を付した。
 島組織に属さず出荷する士は渡士(わたし)と呼ばれた。かつて荒士だった者が渡士となっていった。渡士の出荷は渡り(わたり)と呼ばれた。渡士は単独で行動する者から複数で行動する者など、その規模と態様は様々だった。
 市場で取り扱う渡りの数は増えていった。自らの島でさばけなかった品を他の島へ出荷する島士もいた。その出荷は島渡り(しまわたり)と呼ばれた。
 この時期、士はさらに増え続けた。新たに渡士を名乗り渡りすることは渡士成り(わたしなり)と呼ばれた。島組織に入り島士となることは島士成り(しましなり)と呼ばれた。島士成りした者は、その島組織から抜け出ることは許されなかった。
 複数の渡士が集結して新たな市場の運営をはじめることもあった。その市を構えた土地周辺は彼らの島となり、彼らは島士として渡士の渡りにも応じた。島と島が合併することもあった。島から新たな島が分離することもあった。島の奪い合いから島士同市が武力衝突することもあった。士の増加と活動は市場全体を活性化し成長させていった。
 後期、様々な規模の島組織がそれぞれに強固となりそれぞれの島を支配した。島々で行われる活動全体は人と金の大きな流れを生む産業となった。

 渡りする士の中でも最も派手な噂となっていたのが、南土のオロチだった。オロチは他の士の島へ侵入し渡りし続け、激しく移動を繰り広げていた。時には戦いをもってまでそうした。南土のある士の島においては、その市場を一時、オロチが席巻しそうに見えるほど勢い付いたこともあった。
 オロチは、南土を駆け上がり通り過ぎていった。台風のごときに海を渡り、本土へ上陸したのだという。オロチのそれまでの一連の行動は南土では「オロチの渡り」と呼ばれ噂になっていた。この頃より、オロチがキサラギを目指していると噂がさらに大きな噂を呼んだ。
 本土にいた士たちは、南土から新たな渡士の一団が上陸して来たことを聞いた。本土にも強力な島士たちが、いくつもの党派に分かれて存在していた。彼らのうち幾人かは南土の島士たちよりも大規模な市を取り仕切る力を持った者たちであった。
 本土で最も南の地の広範囲を島として仕切っていた島士が、セキといった。このセキが本土において真っ先にオロチに接触することとなった。噂に聞こえるオロチは南土からの渡士としては過去最大規模と予想された。☆175

 本土には比較的大規模な商売をおこなう士が複数いる反面、そのうちまだ誰も抜きん出ていはない。小規模な士も点在している。鬼畜無数の士が、それぞれの島で実力を持ちはじめた頃でもあった。
 「天下取り」という概念が明白化していない時代でもある。朝廷が問題視したのは先鋭的な士が反朝廷の意識を掲げはじめていたことにあり、イバラキもそこにいた。★183
 以前より朝廷は複数の士に対して、討伐の軍隊を送り出す動きを見せはじめていた。それは士の存在が強靭化しはじめた市場成立初期のおわり頃である。各地を統治すべき朝廷の管轄は、その頃すでに形骸化していた。士が自らを、「士族」と呼称しはじめる前夜であった。
 士が自らを呼ぶために用いた「士族」という言葉は、朝廷の「貴族」に対しての呼び型である。士たちは、反朝廷、反貴族の意識を明確に持ちはじめていた。彼らは朝廷からすれば、反逆の者たちである。士たちは、反逆の表明としても自らを「士族」と声高に名乗るようになっていった。
 この士族の名乗りを、朝廷とその貴族たちも聞いた。それに対し、朝廷は侮蔑の意味を込め、彼ら士族を名乗る者たちを武骨な士、「武士」と呼んだのである。☆175
 朝廷は反朝廷の感情を、秩序に混乱をもたらす動機、獣と同じ卑しむべき心、野のものとして「野心」と呼びはじめ警戒を強めていた。
 後に朝廷内においては「武士」と「野心」というふたつの言葉はつながっていくものとなる。★183 ☆175

 昼。暑くなるか。怪しい雲行き。風。雨になるか。乾いた空気に運ばれる―。
 御者は片目の小柄な男だった。骨太で髭をたくわえている。イバラキと目が合った。何も言わず、口元を笑わせてみるイバラキ。その風体を、御者は馬車から黙視している。車から細い子供が降りてきて、馬車を珍しがる兄弟ふたりを乗せてやった。細い子は、散切りだった。
 散切りの細い子は、イバラキの顔をまったく見なかった。表情なく機敏に動く働き者。その細い眼、長い前髪で隠すようだった。細い子はイバラキに、二枚の木札を渡す。

 札にはそれぞれ、番号が刻まれている。手渡した荷の番号である。馬車に乗せられた兄弟は、この一帯を島とする島士が開く市場で競りに掛けられる。付いた値の何割かが、人さらいをした士の稼ぎとなる。競りの後、士は市場の換金所で集金をする。持っている札と引き換えに、金が支払われた。
 この土地周辺では、渡士の取り分は五割だった。残り五割は市を催す元締め、土地の島士の取り分となる。この受け渡しで、イバラキはオロチを名乗らない。
 はじめて見る顔のイバラキを、何者でもない渡士、渡りにやって来た新手の売り手と、御者は思った。新手の渡士と聞いて市場側は、さらに値引いてこちらに四割を要求してくるかもしれない。それでもいいとイバラキは思っていた。
 南土でのオロチの一連の渡りは本土の島士たちの耳にも入っていた。オロチは本土の士たちとさらなる戦闘状態に突入する気でいるのではないかと危惧されてもいた。
 オロチを名乗れば、どの島の市場からも締め出される、売れるものも売れない。イバラキは身分を隠し、ひとり目的の場所へと移動していた。その途中の商売であった。
 稼ぎのことは、いつもイバラキの頭にあった。忘れたことはない。イバラキは、金の力も充分に知っていた。

 イバラキは車に寄って、小窓から中を眺めた。御者に受け渡した兄弟は、菓子を盛んに食べていた。小窓に見えたイバラキの顔を見て笑顔で手を振った。その奥に大人になりかけた頃であろう少女が座っている。覗いたイバラキの顔を凝視していた。少女にイバラキは、微笑みを返して見せた。
―ありゃ上物だ、いい値が付く
 イバラキの横に立っている、細い子に訊いてみた。
「これだけかい?」
 細い子は、上物の少女の奥の仕切りにまだいる、と指で示した、イバラキの顔は見ずに。その狭い仕切りには、猿ぐつわの若い男がひとり、押し縛られて泣いていた。 ☆176

 御者は背後で、受け渡しが行われている様子を聞いていた。振り向きもせず、前方を眺めていた。誰もいない静かな山裾の道。その上を雲が動いていく。カラスたちの舞う空。
 御者はイバラキに、普通の士ではない妖しい気配を感じた。/気が付けば隣にイバラキが座っている。御者が驚く間もなくイバラキは言った。
「途中まで乗せてくれ」
イバラキは振り向いた、急に。細い子が馬車の屋根窓から顔を出し、こちらを窺っていた。細い子の目とイバラキの目が合う。取った。細い子は急いで目を伏せたが、その視線をイバラキに奪われた。遅かった。
「ひゃひゃひゃ、あははは、ほれ、出してくれ」
 イバラキの声に、御者は馬車を進ませた。細い子は恨めしそうに、イバラキの背を見、頭を馬車へ引っ込めた。馬車は進んで行く、割られた墓標の駅を後にして。

 静かに雨が降る。天網のふたりは、宿で情報の交換を続けた。格子越し。訪問者はコンに向かって何かを話している。コンは窓際に近い場所で、外を見ながら聞いている。宿の対面から、それらが見えた。

 本土に上陸したオロチは、総勢五十騎の渡士軍団だった。ほかに捕虜の男たち二十人を歩かせ連れていた。☆177 
本土に上陸したオロチは、本土の士たちの状況を知るため彼らの情報を集め調べた。南土で聞いていた噂と、実際の現状は異なっていたが、時間の経過と共にオロチは本土勢力の現況に通じていった。★184
 本土の士で初めてオロチと接触することとなったセキは、二人の兄弟から成る。兄のカミノセキが騎兵百人、歩兵五十人を擁し、弟のシモノセキが騎兵百人、歩兵三十人を擁した。二人の連合は、騎兵二百人、歩兵八十人、総勢二百八十人の島士軍団だった。

 本土に上陸したというオロチが最初どうやって現れるのか。本土の士たちは注目していた。
 はじめオロチの使いがカミノセキの島に現れた。使いの男はカミノセキの島士に書状を渡して消えた。書状はオロチからカミノセキへ宛てたものだった。交渉の日時と場所が指定されていた。カミノセキは一笑に付し交渉にも現れなかった。
 再度、オロチの使いが書状を渡した。書状はオロチが渡しをする際の取り分は、セキ三割とするオロチからの要求であった。カミノセキはオロチの出荷に応じないことを市場に公告した。その後、カミノセキの島士が何者かに連続して斬り殺された。島荒らしである。
 直後、オロチの使いが書状を渡した。書状には島荒らしがオロチによるものであり、オロチからカミノセキへの開戦の宣告とオロチの駐屯地が明かされていた。セキ兄弟の連合軍は進軍しオロチの一団と相対した。
 オロチは自軍より五倍のセキの軍に、真正面から激突し散り散りとなった。オロチの無謀な戦い型に、セキは驚いていた。オロチの荒々しさと命知らずは確かかも知れないが、キサラギを目指すと噂されるほどのものとは似ても似つかない、と呆れ笑い飛ばしもした。
 その夜の戦勝祝いの酒宴場に、闇から突然に数騎が乱入した。そのうち一人が馬を降り、驚く速さで上座へ上ったかという瞬間、カミノセキに数回斬りつけた。刺客は、セキの誰もが追跡できない速さで馬に乗り消え去った。カミノセキは絶命する。
 次の朝、セキの陣へ書状が届けられた。あまりの達筆、さらに誰もそれが読めなかった。後にそれは梵語であると分かる。カミノセキを送った僧侶がこれを読み解いた。
 内容は、カミノセキを確かに斬ったという宣言と、再度戦いを挑むならば受けて立つ、弟も兄と同じになるだろうという通告であった。署名が記され、刻印が押されている。本土初陣での勝利に高揚したのであろうイバラキ本人からであった。 ☆177

 重要なのはセキ兄弟を酒宴の席に座らせること。二人の居場所さえ分かれば、あとは自分ひとりで斬りに行く、そうイバラキは言っていた。
 酒宴の場を設けさせるには、相手に勝たせてやればいい、そうイバラキは言った。戦いに勝ったと思えば、奴らは必ず宴を開く、そこで討つ。イバラキの考えに、すべてのオロチは従った。
 見知らぬ土地である本土、長引く実戦を仕掛けて疲弊するより、正面から当たって砕ける様を演じた、わずか半日で済む。オロチに負傷者はあったが、死者はなかった。
 死んだ者は、さらって連れてきた男たちに変装させ刀を与えて突撃させた、名もなき人々である。イバラキは「勝てば自由にしてやる」と、彼らに約束してもいた。必死で戦うはずであり、今回も実際そうなった。
 イバラキは、手勢を減らすことは避けたく、それを回避することにも成功した。今までに何度か使った手でもある。
 カミノセキの隣に座していた弟のシモノセキを、撃たずにおいたのにも意味がある。もしセキ兄弟の二人共を一撃に倒していたなら、本土の士は予想外の激動を感じ、連合を組んでオロチを包囲しただろう。それを避けたイバラキの計略でもあった。
 カミノセキの軍勢は頭を奪われ、急速に士気を失った。次の者が頭に名乗りを上げたが、求心力はなかった。騎兵百人と歩兵五十人は何隊かに分裂をはじめる。彼らはすでに無力な残党だった。
 無力な残党たちは、弟シモノセキからの召集にも、弟ごときに、と憤って応じようとはしなかった。兄カミノセキの軍は、自然に消滅していった。
 残された弟シモノセキは、オロチを追いたくても追えずにいた。オロチが散り散りになって逃げ消えたからである。その行方はつかめないままだった。弟シモノセキは何もできず、自らの島に帰還した。
 ところが噂が広がった。兄の後ろ盾を失った弟、シモノセキはオロチを追わず逃げ帰った腰抜け、と。市場にもそれは反映されていく。力ある士であったセキの影響力は、本土最南で急速に失われた。/
 すべてはイバラキの思惑通りだった。イバラキはシモノセキを泳がせたのである。
 さらにオロチは、セキとの戦いの前に示し合わせていた。戦いで分散した後、決められた期日までに、決められた場所に集合するということを。
 深夜、その場所に各地からのオロチたちが再び集結した。巨きな杉の木が目印である。騎兵の影が夜空に影となってうごめく。オロチがセキの領域に横臥した瞬間であった。 ☆178

 本土南部においてセキの市の周辺には他の市も存在した。/市の立つ日は重複しないように、それぞれ周辺の市どうしにより取り決めがなされていた。
 市には大金を持つ人々が集まり、人身売買は大いに賑わった。市では金が動く。市の立つ日、その金を目当てに、外部からも飯屋、酒屋、宿屋、手配屋、数限りない人々が寄生して集ってきた。/
 彼らが市へ入る際に支払った入場料は、その市を開く士に吸い上げられた。本土南部周辺の市で上がる収益全体を朝廷はまだ脅威と見なしていなかったが、実際には莫大な額になりつつあった。
 オロチはまだ本土でその存在が怪しまれていた士だった。本土の士に認められていないオロチにとって本土のどの市も完全に敵の領域といってよい。競りの様子を見に入った敵の市で、市の元締め、その島の島士に捕まるような危険を回避していた。
 オロチはこれらの市の現場へはまだこの段階では、直接には現れなかった。さらった人間を競りへ出す出品のための馬車との手続き、売れた代金の集金など、すべて外部の人間を雇い使っていた。
 カミノセキが討たれその軍が分裂し、セキの市の出荷量は減っていた。セキの市は縮小をはじめている。かわりにセキの市以外からの出荷が増えはじめていた。セキの市周辺に点在していた他の市での取引が盛んになりつつあった。
 セキの市周辺に市を持っていた小規模の士たちは、この機会に自らの市場を拡大しようとした。集められるだけの品を集めるため、自らの取り分を通常より少なく設定してでも商品を集めはじめた。
 一方のセキの市も、衰退を避け周辺の小市場に対抗するために動いていた。品を集めるため、荷の出所には構わずに出品に応じた。
 オロチは追い風にあった。オロチはセキの市にも、セキの市を猛追しようとする周辺の市にも、好条件で出品しはじめるようになっていく。どの市も、オロチの物ではないかと疑われる品に遭遇しても目をつぶりはじめていた。集められるものはいくらでも集めはじめていた。オロチの品であろうとなかろうと、金になれば黙ってそのまま市場へと流しはじめていた。
 この状態をしばらく持続させた後、オロチは本土南部という新天地で名乗りを上げ、公然と商売をはじめるようになっていく。あとは時間が過ぎるのを待てばいいだけだった。
 これらは以前にも、オロチの一派が南土でも起こしていたやり方だった。侵略の手順を彼らは熟知していた。 ☆182

 この時間帯は誰もが影で休んでいる。馬車だけが進んで行った。
「あっちぃなおい、人っ子ひとりいやしねぇ」
イバラキは胸元を掻きながら御者を見たが、反応はない。
「これからもっと暑くなるんだ、そうだろ、大変だ、馬もこりゃ」
 /
 イバラキの見たのは御者の拳だった。手綱を握ってはいるが、-ある指は第一関節から、ある指は第二関節から、またある指は無かった。
 仕事振りをとがめられたのであろう、馬車を遅れさせたか、または雇い主の島士に減らず口をたたいたか。責任をとって詰めた指指であるのだろう。御者の拳は肉厚だが尖ってもいた。人を素手で殺したことがある手、とイバラキは読んだ。
「あの子は親方さんの子供かい?」
 イバラキの言うあの子とは細い子のことである。御者は応えない。イバラキは続ける。
「よく働く、いい子だな、あの髪は親方が切るんかい?」
「子供は俺の子じゃねぇ」
「買ったのか」
「んだ」
「いくらだ」
「高かった。教えん」
 馬車は進んで行く。細い子は女だった。イバラキは、上手に仕込んだな、と御者をほめてやった。てめぇの夜のお供もさせてんだろ、安い買い物だ、あと何年かしたらお年頃だ、次の買い手へ高く売り廻せる、時々に旨い物を食わせろ、などと次々に細かく説明してもやる。
 御者は前を見たまま黙っているが、耳を立てているのがよく分かる。イバラキは、御者の馬鹿っぷりに笑いをおさえながら馬車に揺られていた。すべては駄賃、乗り賃の替わり、他にも女子供の使い廻し方をいくつか話して聞かせた。
 ―ひと雨来そうだな
雲行きを見上げるイバラキ。耳元にゆるく風が吹く、生あたたかい。御者が言った。
「一人っきりじゃ、士は食っていけないさな」
今度はイバラキが黙って聞いている。
「もう、昔とは違うわな、士も金、金、言うてな。頭のいい連中がみぃ~んな一人占めしよるんだ」
イバラキが見上げると、一滴、一滴と雨が落ちてきた。 ☆179

 「昔の士はみんな、せいぜい多くても五、六人くらいしかさらわなかった、ひとりの島士で。自分の島だけで商売しとったが。さらった女と恋仲になったりしてな、競りに出すまでの間にな。それで人さらいはもぅやめてな、ふたりして島から出て、どこか遠くの金持ちの家に住み込みに入ったりしてな。いくらでもやりようがあったんだがな、士になってもな。まだ余裕っちゅうもんがあったんだがな。そんな話はいくらでもあったんだ」
 イバラキは黙っている。
「あんさんみたいな渡士が増えてから、今はもぅなんもかんも変わってしまってな」
目の先で揺れ動き続ける四頭の馬のたてがみ。湿る風、かすかに雨の匂いがする。
 観察していれば御者の手綱は巧かった。長くこの商売をしているのだろう。道はいつしか山裾を抜けて平原を進む。
 御者の肩越しに昨日一泊した街道の宿場とそれに連なる家並みが小さく見えた。イバラキのさらった兄と弟が住んでいた場所。ふたりの兄弟があの場所へ戻ることは二度とないのか。
「いいんだろそれで。何もかも変って過ぎ去って、きっと忘れてしまうはずなんだよ人は。その代わりに苦しみや絶望、もっとたくさんのどうでもいいくだらないことを覚えていくんだ。人はそれでいいんだろ」
 そう言ってイバラキは後ろを振り向いたが、細い子が顔を出す屋根窓は閉まっていた。寡黙だった御者は一転して話し続けていた。
 「いつからかな、気が付いたらな、士はみぃ~んな、何十人にもなって商売するようになっとった。どいつもこいつも、どっかしら誰っかの下に付いたりしてな。それで商売しよるんじゃ。だからな、あんたさんは納得しねぇかもしれんが、もぉこれからは一人、二人では渡士は務まらんよ。島士も渡士も、どいつもこいつも集団で動くような商売になっちまった。文句のひとつでも言ってみな。とたんに何十人も士がやって来てな、とんでもない目に遭わされる。そいつらが島士だったらな、市場にだって出入りできなくされるしな、そしたら飯の食い上げだ。まったく嫌な世の中になったもんだ、もぉ終わりっだ。こんなん世の中は」
 「この馬車、カワナニの市だよな」
「そや。あんさん、どちらから来なすったかは知らねぇがな。人の売り買いじゃ、カワナニはちっこいで。この辺りでいちばんでかい市はな、セキの市やった。ただな、この辺りも最近はかなり変わってきてる。なんもかぁんもが凄い早さで変わってきてる。セキの市も変わってきてるで。教えてやろか?セキってのは兄弟で商売しよった島士での。その兄貴の方が殺されたんよ、オロチに。知ってるけ?オロチの渡り。南土からやって来た連中でな。たちが悪い。」 ☆180

 灰色の雲が大きく動いていく。雨がまた一滴、顔にあたった。イバラキの無口に御者は得意になってさらに話し続ける。
「オロチの奴等がセキの兄貴を殺したんだよ。オロチとセキが戦になってな、カミノセキが殺された。まさかな、カミノセキの軍がやられちまうとはな、おったまげた。一年前には誰も予想しないこった、な、あんさん、知ってるけ?つい最近のことでっせ、オロチが本土へやって来たっちゅうてな、この辺りじゃあちょっとした騒ぎになった。そしたらカミノセキがやられちまうとは」
イバラキは黙っている。
 「オロチの連中は、セキの島で商売はじめとるらしいがな、セキの市にも、カワナニの市にもな、オロチの品物がまったく出てこん。南土の市にまで運んでるんじゃぁないかって話もあるが。なぁわざわざそこまでするかねぇ」
御者は続ける。
 「たちが悪いわな、だいいちな、セキもカワナニも出入り禁止にしとる、オロチを。んで市には入れんようにしとる、オロチの品は。それでもオロチはオロチを名乗らないで、市に出荷しとるらしい」
馬車は進む。
 「オロチの連中はセキと戦したときに面が割れてるから、出入り禁止にしなくても市には近付かんだろ。だからな、な?あんさんみたいにさ、独りもんの渡士にでも頼んでだ、売りに出したり集金させたりしとるんじゃないかい?え? 昔な、あんさん。まだ渡りが認められてなかった頃、荒士っていう連中がいてな。そいつらがそれと似た手口を使って島を荒らしとったことがある。近頃の市じゃあな、あんさん。セキでもカワナニでもそうだが、今まで見たことない独りもんの渡士の渡りがかなり増えてんだ。あんさんみたいな。ひょっとしてあんさんのもオロチの品なんじゃないけ?へへっ、へへへ、オロチに頼まれたとか、どうだいあんさん、えへへへ」
 イバラキは無反応だった。御者は得意げに笑っている。潰れた左眼が横のイバラキを窺うように、くりくりと小刻みに動いた。
 御者はイバラキの反応を楽しんでいる。その狡猾さ、余計なことを言う髭面、この小男が。/殴りつけてやりたくなる。そうして潰された左眼なのだろう。御者の口元はまだゆるんでいた。
 雨の降り出しそうで降らずにいる午後。ゆっくりとして生あたたかい風。イバラキは背負った小さめの荷から酒瓶を出し口にし、御者にすすめた。御者は断ったがイバラキは無理矢理、御者の腹にねじ込んで酒瓶ごとくれてやった。
 遠雷のかすかな音がする。 ☆181

 一枚の地図。地図上に朱筆で記された何かの軌跡。軌跡をなぞる指。指は朱い軌跡をたどって地図上を右往左往と蛇行する。
 指をのぼればコンの横顔へと続いていた。コンの横顔の向こう、訪ねてきた天網の男、その横顔も地図を見に前へ出た。コンは男に言った。
「誰が付けたか、オロチとはな、よく言ったものだ」
 雨が降る。
「これは南土だ、この朱がオロチの連中が動いていった軌跡」
遠雷が聞こえた。地図上にくねり残されたその様、姿形はまさに蛇である。地図はオロチが南土を動いていった形跡を記したもの。 
 背を伸ばしコンは低く言う。
「イバラキを逃したとすれば奴は今頃、約束の日取りを目指して北上しているか」
/

 馬車は行っちまった。別れ際、イバラキは馬車を降り後ろの小窓から中を覗いた。散切りの細い子が、上物の女の子の胸に手を入れ、接吻を教えている最中だった。イバラキのさらった男兄弟二人は眠らされている。あきらかに薬、散切りが飲ませた。
 薬市場にはイバラキも注目していた。主流は大麻、芥子、茸である。ただ薬は土地を確保しなければならない、育てるのにも手間暇が相当にかかる、人はそこまではかからない、それがイバラキの考えだった。イバラキは、薬の市場をも取り込むならばいつか自分の島を持たねばならないか、などと考えてはいた。
 散切りの細い子、取り込み中のあの子がくれた二枚の木札を改め見て、イバラキはそれを懐へしまう。馬車と別れ歩き続けた。雨雲も置き去りに。☆183
 イバラキは北上していた。/途中で捕えた男の子兄弟。馬車へ乗せて旅立たせた。
 兄弟の両親は探し続けた。夜になっても戻らぬ我が子。誰も二人の行方を知らない。茶屋の売り子の娘だけが知っていた。兄弟は痩せた男について行った。
 /男が士だと売り子の娘は気付いた。黙っていたが怖さが募る。売り子の娘は失神して寝込んでしまった。★188
▲184 
▲175 ☆183

 ▲177
 オロチはセキとの戦いに勝った。オロチはさらに本土市場に食い込むことを目指している。同時にその先にあるのが帝都キサラギであることを実感していた。☆184
 イバラキはこの時、朝廷を転覆させる、という全く新しい考えに到達しようとしていた。そのために北上を指揮した。しかしその新しい概念を話せる相手がいない。その概念こそは今の「革命」だった。当時、イバラキ本人でさえもうまく言葉に説明できないでいる。★183
―朝廷を倒す
イバラキは確信していったが誰にも言えないでいた。

 本土の士のうちにイバラキが注目した一隊があった。/彼らは「太陽と鉄」と呼ばれていた。
 太陽と鉄は、もともとは別々の部隊だった。「太陽」と「鉄」という二つの部隊であった。これが合併しひとつになったと言われる。太陽と鉄は、騎兵三十人、歩兵三十人、総勢六十人の軍団だった。自らの市と島を持たずに渡りしながら移動を続ける渡士集団のひとつとして、本土で活動している。
 この太陽と鉄が、他の士への暴力事件を頻繁に起こす集団として知られた。大規模な士たちは、太陽と鉄を問題視した。
 太陽と鉄は、大規模な市を運営する士の幾人もから、その市への出入りを完全に禁止されていた。それらの本土の士は、太陽と鉄を士とは呼ばず、最悪な蛮人と呼んで蔑視していた。太陽と鉄は、本土を流浪しはじめていた
 しかしイバラキは太陽と鉄が化けるかもしれないと直感した。イバラキは自らの「野心」を叶えるためには彼らほどの無法な力が必要だと感じはじめていた。イバラキは自ら最強の戦闘部隊を造る考えでいた。
 ―
 太陽と鉄の頭の名がシュテンという。シュテンは大男で怪力を持つ。刀を使わず鉄の棍棒で相手を叩き殺していた。
 シュテンは二頭の虎を飼っていた。さらに部隊は四頭のヒグマを飼っていた。二頭の虎は檻の外にいるときには、シュテンの持つ鉄の手綱でつながれている。四頭のヒグマは一頭ずつ檻に入れ、部隊は各檻を牛車で連れ引いていた。☆184
 太陽と鉄の先頭を行くのは楽隊であった。笛、太鼓、木槌と歌、それにあわせて踊る者。その後ろから歩兵たちが数本の旗を点々と立てて進む。水田地帯を行く。遠くから見ると豊作を願う祭りの一行のようにも見えた。
 部隊には、女装して化粧をした男たち、騎兵に同乗する男娼たち、小人たちもいた。猫を抱いて行く者もある。十数匹の犬も放し飼いにされ一緒に進んだ。
 小人たちは道化でもある。部隊の前後を走り回って忙しい。その都度、人を馬鹿にしたような笑い声、茶化した怒鳴り声などが絶えない。
 自分の虎を檻に入れシュテンもあとから付いて行く。夕暮れ、松明が揺れる。横から見た部隊の影、シュテンの巨体が飛び出て見える。虎と熊の咆哮―。★185
 太陽と鉄。彼らはあまりに武骨な連中だった。/
 片腕の無い者、足をひきずり歩く者。皆、戦いの傷を負っている。包帯の血が止まらないまま笑って飲んでいた。/片足が無いままに犬に吠えられている男がいた。
 皆、陽気だった。常に音が鳴っていた。/それを聞いて野次が飛ぶ。小人が盛んに次の出し物に気を配って走り回っていた/★190

 ある時、太陽と鉄は両側を山に挟まれた細い街道を進んでいた。前から来たのがやはり移動していた騎兵百人、歩兵二百人、総勢三百人の朝廷の軍勢だった。山道で鉢合わせしたのである。
 「どけ」、「どかぬ」といった激しい口論から衝突して、死者の出る大乱闘になった。 ☆184

第四章 2稿 1/3 156~174

あなた、

あなた、

あなたが、このキサラギに入った。

女たちは皆、噂している。

あなたは痩せて、背が高いと。

手足が細く、長く、

揺れるようにゆっくり、歩くと。

連れの男たち皆、見たことのないような男たち。

そんな、あなたの噂を聞きました。

あなた、

あなたの、

あなたの噂を聞いています。

あなたの、切れ長の目元は、いつも涼しげ、

それに惑わされ、

また嘘をつかれた、と、

ある女が自慢していた。

あなたとのこと。

あなたとの悦びを。

自慢していると聞かされた。

あなた、

あなた、

あなたは、綺麗な指先をしているという。

あなたの指、長い大きな手。

その手で、あなたは、

あなたは、鬼たちと抗争をはじめている。

各地で鬼を討ちはじめている、それが都に。

噂となって流れてくる。

あなた、

あなた、

そのあなたは、一人の女に夢中になって。

あの女、伝説の。

カツラ。

あなたはカツラを追い、今もいるのだと聞きました。

カツラを追いかけて、あなたは、あなたは、今も。

あなた。

あなたに、一度、お会いできたなら。

私は、私は。

無法の剣士、麗人よ。

モモ。

会いたし。 ☆156

 男の名は、コンという。周囲の山々を、懐かしく見廻した。あれから何年の歳月が過ぎたか。
 コンは、知っていた。近くに炭焼きの集落があることを。それは、今いる自分の場所から、さらに河流を下ったところにある。山間の集落の場所から上がる炭焼きの煙、それが木立の合間から見えるはずだと、手下の騎兵に言い、それら数騎を下流へと、山間をさらに走り行かせた。
 今コンは、山奥の大木に囲まれた茂みの只中に、馬といた。歩を進める。このような内陸の場所にも人々が生活していた。
 茂みは途切れ、コンの前に、突然の平地が開けた。
 コンの細い眼が見廻す。鋭い眼。細く整えた髭をさすり、コンは低く唸り呟いた。
「おぉ…桃源郷…」
 日に照らされた山間の広場、広大なその敷地。そこには過ぎた日の栄華を伝える、いくつかの瓦礫が残されていた。焦げた大地、森の中に突然に現れた廃墟の影。コンは見つめた。
 俗世に知られることなく築かれた、その王国の栄華を想う、コンの横顔。
 そこは朝廷が進軍し、滅ぼした、あの山の民の宮殿と城下街の跡である。キサラギに桃源郷と揶揄され、キサラギの配下に属することを拒み、キサラギに滅ぼされた最山奥の王国。その極めて美しかった建立の数々。それは焼き尽くされて、もはや無い。
 桃源郷の王家、それに従うすべての民が殺された。そうでない者たちは捕縛され、連れ去られた。ただひとりを残して。
 ただひとり、桃源郷の王家、その王子ひとりを残して。 ☆157

 あの日。
 それがコンの悔いとなった。
 キサラギは、桃源郷へ、討伐の兵を挙げた。雇われの兵としてコンも、討伐軍の中にいた。与えられた場所、隊列のうち、最も激しくなるであろう戦線、その最前線の位置に指名され、コンは燃えた。
 続けて驚いた。自分の属する隊、その隊の隊長が当時伝説的に、異端、大陸帰り、などと形容され怖れられていた、あのバクセだったからである。後で知ったことだが、バクセは傭兵でありながら、出陣の前までの段階で、キサラギの最前線部隊、その主要戦士の肝を完全に掌握していた。水面下で激しい金のやりとりがあったと聞く。
 コンは、バクセを怖れていた。 

 あの日。
 これまでに体験したことのない爆音と共に、桃源郷の宮殿は燃え続けていた。飛び散る火の粉、そのあまりの激しさに、大山火事になると、それは攻め手のキサラギ軍が躊躇するほどの炎であった。
 一本の河伝いに、下った、バクセの隊の一人として、コンもいた。夜の明ける前に、桃源郷王子の消息が不明となっていることが、司令から前線へ伝えられていた。王子追跡のための各隊が編成され、燃え盛る宮殿から、次々と四方へと散り放たれていた時である。
 バクセの隊は、宮殿近くを流れる渓流、それに沿って下り捜索を開始することを選んだ。ひとつの王国と王家の滅びていく瞬間、それを振り返った時、木々の影が眩しいほどに揺れている。なんという荘厳。
 追跡する者たちの中にさえ、そのあまりの激しさに涙を流す者が続出した。その夜、コンはバクセに諭された。「泣くことはない。人の史、その積み重なりを知るときぞ。そのあまりの激しさぞ、今宵」と。
 轟音、閃光に照らされて踊るように揺れる木々、炎が山に、さらに強風を呼んで火の粉の竜巻が天にも昇った。

 あの日、今思い返せば、バクセは気付いていたのだろう。この山奥で、朝廷の多勢に包囲されたとき。逃げることができるのは、河か洞窟を通り抜けるしかないということを。それで彼は、自隊に渓流を下る捜索を指揮した。
 その途までは、捕える騎であったバクセ。なぜ、見逃すようなことをしたのか。

 時は流れた。あの夜、下った渓流。そこを今、コンは再び下っていく。 ☆158

 コン。彼は、バクセと共に、その渓流を下った兵士のうちの一騎であった。あの日。バクセを置いて、配下の四騎は下流の集落へと先に向かった。あの翁とバクセを残して。
―それが間違いだった
コンは、後に気付いた。
 思い返せば、あの空白の時間。それが後に、コンを身悶えさせ続けた。自分の家がそこにあるのに、そう言わなかった初老の男。そして自分たちを先に行かせたバクセ。このふたりの間に何かが語られた。
―あの翁、何者かであったはず
コンはあの日より以後、ふたりの関係を疑うこととなった。
 コンは考えていた。追跡の標的である桃源郷の王子は、あのすぐそばにいた、と。 
 このコンという男、彼こそあの日、最後までキタを疑って、焼き討ちをバクセに意見しようとしていた騎兵であった。キビ団子を口にせず投げ捨て、最後に渓流を去った騎兵である。彼は本営へ戻っても疑念を抱き続けていた。しかし朝廷の軍は、桃源郷を討伐したものとして、キサラギへと凱旋したのである。若きコンもそこにいた。終戦という一方的な熱狂と共に。
 誰もが忘れていた、その頃には。帝からの褒美のことで頭が一杯だったのである。いや、気付かぬふりをしていたのかもしれない。桃源郷王家の唯一の王子、その王子の消息は掴めないままであるにも関わらず、討伐軍は都に還って、握りつぶすようにして封印された最重要課題だったのである。それにも関わらず、誰もその捜索失敗のことには触れないで、先へ先へと事を進めていく。
 人は真実誠によるよりも目先の金によく動く、と。バクセが言ったと噂に聞いた。
 朝廷の設けた慰労の酒宴にバクセはいなかった。/そのバクセの孤高なる異端な様に宴席で、コンは自らの戦果を見失った。己という戦士は割れた器のごときであることを知った。
 しかしコンは、バクセを追った。その背後に見え隠れする桃源郷の王子。その消息を追跡することを、朝廷中枢部へと進言し続けた、執拗に、病的に。その長き月日。そして遂にその意見は認められたのである。
 コンは追い続けていた。あの日から、この日まで。バクセという男の実体を、さらに桃源郷の王子の行方を。
 コン。彼は執拗な男として、朝廷に信頼されるようになっていった。反キサラギの動きを徹底的に打尽した。相手を追い詰める。追い詰め、追い詰める。彼の家族は皆、彼のそばを離れていった。/彼は、決して笑わない男だった。 ☆159

 渓流の左岸をコンは下る。あの捜索の日と同じように。
 コンは再び辿り着いた。あの捜索の日、ひとり翁が立っていた岸へ。
 馬を降り手綱を引く。振り返れば、そこはあの捜索の日、自分以外の騎兵たちが、逆上って帰還していった木立が続いていた。その河音も。
 コンは再び下流へと眼を返し、渓流左手の山々を見上げた。その繁みの先に、あの一軒家があったのである。
 バクセが、見つけた団子を各騎兵たちの口へ押し込みながら廻ったあの場所。あの一軒家。その一軒家から馬を引いて降りて、この河岸へと出たのである。あの捜索の日―。
 コンは思っていた。上流の桃源郷跡から、先に行かせた手下の騎兵たちのことを。彼らも、あの捜索の日の自分と同じように、脇道の存在には気付かないで下って行ったのだろう、と。この河岸―、若き日の自分―。それらを想い、鋭い眼光を、さらに細めるコン。
 あの捜索の日から時間が経った今、コンは、ある一隊を統括する者となっていた。

 人知れぬキサラギの秘密部隊が暗躍していた。彼らは戦争には赴かない。その秘密部隊とは、日常において反朝廷の動きを察知し、その者と物を挙げ根絶するという使命を託された部隊である。その使命を託したのは、帝の名による朝廷であった。桃源郷討伐後のさらに後に、コンは、この部隊の一隊の長となっていった。
 この秘密部隊は天網(てんもう)と呼ばれる。天網は朝廷直轄の殺人部隊であり、その存在と活動は今も知られていない。この天網と単身で殺し合いを始めたのが、ツジ鎮圧に出兵する以前の、朝廷に傭兵として雇われる以前の、さらに若き日のキジである。
 無敵と形容されたキジ、伝説の武人と謳われたバクセ。この両人が同一人物であるということを、コンは独自に掴んでいたが、誰にも言わないでいた。 ☆160

 コンは馬を引いて、一軒家へと登る道を探したが見つからなかった。この辺りだったと思われた場所から、一人繁みに分け入った。途中、その斜面には畑があったはずであったが、見つからない。コンは、さらに登ったが、繁みは深くなり、迷いそうな予感がした。
 見上げれば、高い木々。見廻せば、ツタの絡まる緑が延々と続く。/
―この茂り方、人が近くにいるとは思えない
 記憶を辿り、コンは改め見たが、一軒家への道は、完全に草木に失われたと感じた。コンは、渓流へと斜面を戻った。
 コンは、再び馬に乗り、渓流を下る。その先、岸は渓谷に途絶える。上流からの木材と舟が、つなぎ止められる場所は、今も同じだった。コンは、左手の山へと登る小道を通り、山道へと入った。道を下る、炭焼きの集落へ。
 河向こうの山からも、何本かの煙が上がっているのが見えた。あの捜索の日と同じように。 ☆161

 馬上のコンは、振り向かない。渓流から入る山道、その左手方向には、一軒家へ続く道があったはずであった。人ひとり通るほどの細い山の道。それとは反対の右手へと進んだコンは、嫌な気がしていた。あったはずの一軒家への道、左手へ進む道は、木々の繁みに全く失われていた。山道の左手への場所、そこは、その先に民家があったとは思えないほどの茂みになっていた。
 先に渓流から入って探した、畑を通るはずだった道。そしてこの山の中の道。共に一軒家への道は、塞がれていると感じた。その仕業は、この山々の草木たちによる。
―神隠し
そんな言葉が、コンの頭をよぎった。
 コンはそのまま下り、集落のある広場へ出た。先に行かせた騎兵たちが、集落からの男たち数人と対して、問答をしている。広場を遠巻きに、集落の人々がその様子を見守っていた。
 訊けば、先頭に立つ若い男が、この集落の長であるという。その男は、あの捜索の日、コンたちに対して進み出て語った年老いた男ではなかった。コンは、それを尋ねた。するとそれはおそらく先々代の長であり、何年も前に死んだと言われた。
 コンは、時の流れを感じた。自分が以前、バクセの隊の一員として、この集落へ乗り入った時、この今の長は、子供だったのだろう―。
 周囲を見渡せば、確かに。あの捜索の日と同じ煙が、隣からも向こうの山からも昇っている。あの捜索の日のことを、覚えている村人はいるだろうか。コンは長にそれを尋ねたが、彼は自分は知らない、覚えてもいないと言った。 ☆162

 コンは、若い長と彼に付き添う数人の男たちに言った。
「昔、この集落で殺しがあっただろう」
その言葉に村の男たちは一瞬、息を呑んだが口を開かないようにしていた。コンは、若い長に詰め寄って言った。
「先代の長は、それで殺された」
集落の男たち萎縮した。彼らの目線は重く浮遊した。その様子を見て、見当を付けて吹っ掛け言ったことが、ほぼ正しいことを、コンは知った。コンの細い眼が、さらに細まり輝く。
 乾いた広場に砂煙が揺らぎ-誰もが止まってしまっているようだった。コンの鎧の音だけがする。コンは、長の面前に、さらに寄って見せた。
「お兄さん、これ見な分かるか?朝廷からの指令書だ、読めるか?村長さんよ」
 ほかの男たちは息を殺していた。コンはさらに詰める。
「俺たちは、ここで何が起きたかを捜索しに来たんだよ、隠しても無駄だ、全部話してもらおうな。何があったか。キサラギへ嘘は許さんぞ」
 集落の男たちは、黙ったまま動かない。その相手の動静を見極めて、コンは他の騎兵たちに目で合図した。他の騎兵たちが、集落の男たちへ、改めて歩み寄り囲う。付け足してコンが言った。
「全部話さなければ、どうなる?」
男たちの出していた汗のうちの一滴が、ゆっくりと地面に落ちる。
 脅迫の最初を終えたコンは、この山の木々の茂り方を、さらなる警戒の眼差しで見渡した。 ☆163

 コンとその配下の兵たちは、長の案内で、彼の家へ向かった。兵と馬を外に残し、コンは家の土間に入った。鎧と刀を着けたまま、上がり框へ座る。
 「茶を入れるため湯を沸かす」という男を制し、「馬にやる水と、何か餌となるものでもないものか」と、コンは要求した。共にやって来て土間に入っていた他の男たちが、馬に与えるために出て行った。立ったまま無言の若い長は、暗い部屋の中から、コンの横顔を凝視している。集落の男は、若い長の他に二人、土間に立ち尽くしていた。
 薄暗い屋内に射す光。暗い部分と明るい部分。コンは、その影と光の反射に目を細めて、誰をも見ずに言った。
「話してくれ。ここで起きた殺しのことを」 ☆164

 これまでのあらすじ(一)

 キタという男がいた。キタは漁村で生まれ育ち、親と弟妹たちを捨てた。帝都キサラギへ向かった。後に各地を流転する。世間を知らぬ少年は、誰よりもしたたかな大人になっていった。
 キタは飢饉の都市ツジにいた。妙な女に翻弄されて金を貸した。金を取り返し故郷へ帰ると決めていた。女が立っていたらしい南門は荒廃しており、女の姿はない。外部から鬼畜たちが集い、ツジを混乱させていた。キタはツジ内部へと入っていく。
 ツジ中央の大屋敷、カワナニという名の権力者が住んでいた。その兄がツジを造った男でありキサラギにいた。男の妻が宮中で毒を盛り、帝の怒りに触れた。夫婦は都を追われ、夫は自死し妻は消えた。朝廷はツジを孤立させ、飢饉に陥らせた。
 キタはカワナニの屋敷に入る。屋敷の座敷牢で金を貸した女が死んでいた。盲目を装う不思議な乞食にも出会う。キタは屋敷の備品から身支度を整え、ツジを脱出した。
 キタは僧と兵士の一団とすれ違う。兵の一人がキジという男だった。キタとキジは、お互いの名も知らず会話を交わした。それはお互いの胸に残った。
 キジは以前、朝廷の組織する暗殺部隊、天網と闘っていた。キジの怪力に朝廷は驚き、傭兵として迎え入れ和解とされた。
 僧たちはツジの異常事態を鎮静させるため、朝廷からの命を受けた乱僧だった。兵たちは僧たちの目付けである。その主格が傭兵キジであり彼は部隊長だった。ツジは乱僧と兵士たちにより制圧され、封鎖される。キタはツジから故郷へと向かった。 ☆165

 これまでのあらすじ(二)

 キジは混乱のツジで赤ん坊を拾ってもいた。発狂寸前だった見知らぬ女にその子を託した。この女はのちに、その子をサルと名付けて育てるのだった。
 キタは故郷の漁村へ戻った。キタの集落は無くなっている。人身売買を行う者たちに連れ去られた後だった。各地で人さらいが横行していた。人さらいたちは武装するようになり、騎馬を連ね軍団化していた。朝廷はこれらを問題視していた。彼らは士(し)と名乗り呼ばれていた。
 キタは故郷の浜辺でひとりの女と出会う。キビといった。キビは嫁ぎ先で夫に死なれ、父のいるこの浜、元あったキタの集落の隣の集落に出戻った女だった。夫の暴力で不生女にされた海女である。キタは浜の近くの空家に住み付き、世話好きのキビはその家へ通うようになった。夫婦のように見える二人だった。
 キビは料理の上手な女だった。キタはそれに目をつけた。キビの作った団子を街道沿いの市で売ると売り切れた。二人は市場で団子を売るようになる。
 キビがはじめて店に立った日のことであったが、キビがひとりで団子を売っていると、通りがかりの騎兵がそれを買い上げた。キジであった。キジは大陸へ渡る船に乗るため、その港へ南下して行く途中だった。キジに団子の名称を問われて、キビは「キビ団子」と答えた。その日は「キビ団子」誕生の日となった。
 キジは朝廷が大陸の巨帝へと送り出す戦士として渡航に臨む。大陸船にはツジの乱僧たち、カワナニの大屋敷にいた不思議な乞食も乗船していた。キジは大陸へ渡る。大陸の帝国、その斥候としてさらに西へ向かった。その外人部隊の一員となって。
 西の果てで部隊は分裂、崩壊していく中、キジは祖国への帰還を目指し大陸の東の果てに戻った。海を越え伝説の土地エゾに渡り着く。エゾの島々を南下、さらにキサラギが東奴と呼んだ土人の森、フジと呼ばれる巨山を崇拝する彼らの森に身を隠した。
 帝の崩御を知りキジはキサラギへ接近する。時の流れに人や物は様々に変わっていた。キジはバクセという偽名を用い、再び傭兵として朝廷へ召し入れられた。 ☆166

 これまでのあらすじ(三)

 キタは故郷の浜で一年を過ごしてその地を去った。キビはキタの後に着いて行った。
 キタは山奥に移り住んだ。その場所は1本の渓流を中心に、右岸左岸に炭を作るための窯が点在している。それぞれの窯に寄生して、いくつかの集落が形成されていた。集落のひとつにキタとキビは住みついた。
 集落の男たちは伐採のため、さらに山の奥へと入る。奥地で木を倒し、渓流に乗せて集落まで下る。木は集落で炭にされ、さらに下った場所で売られた。
 それまでの生活で、キタは集落の人々よりも多くの金を持っていた。金の力で集落の男たちの中へ割り入った。キタは金を払って仕事を教わった。さらに誰よりも、手際よく仕事をするようになっていった。
 集落の女たちは粗雑だった。キビの料理の旨さに集落の誰もが驚いていた。キタもキビもその経験値は只者ではない。ふたりは集落の人々に認められ、土地に馴染んでいった。
 キタは貯めた金で、集落よりさらに山奥に家を建てた。そこでふたりは過ごした。キタは樵の船頭を引退し、山で集めた芝や小枝、キビの作った団子などを集落に売り届けていた。キビは団子を作ったり、河で洗濯をしたりしていた。 ☆167

 これまでのあらすじ(四)

 炭焼きの集落よりさらに内奥に、独自の文化と風習を持つ王朝が栄えていた。山の民と呼ばれる人々が暮らしていた。桃の産地であり桃源郷と呼ばれた。この小国が朝廷の配下に属することを拒絶していた。朝廷は桃源郷討伐のため挙兵する。
 桃源郷の女王は自らの王朝が崩壊する直前に、その独り児を逃していた。生まれて間もない我が子を籠に乗せ、河へ流したのである。その後、桃源郷の王家と民は捕らえられ、そのほかのすべては朝廷軍により焼き討たれた。
 河へ流されたのは王子であり、ひとり難を逃れていた。行方不明となった王子を追い、朝廷軍は捜索を開始する。キジがそこにいた。バクセという伝説の武人として知られる存在であった彼は、朝廷軍の一人であった。自らの隊を率い桃源郷の王子を追う。 ☆168

 コンは雨の空を見つめていた。窓の格子越し。広い通りに面した宿の薄暗い一室。人通りは少ない。時々、通りの雨を避けて小走りにいく人々。名も知らぬ。
 武具を解いたその姿は、朝廷の手先だとは思えない。誰にも気付かれずに、そこにいた。その雨は梅雨のものであったのか、あるいは秋雨のものであったのか。/ただ静かに降っている。
 宿の玄関に何やら人の入る音がした。この宿の主人と話している音が聞こえた。足音が近付いて、コンの部屋の前で止まった。
「九尾さま、お客さまですが」
そのままでいると、襖が小さく開いて宿の主人が座っている。
「九尾さま、お客さまです」と再び言う主人に、コンは通すようにと伝えた。コンは偽名を使っている。
 男がひとり、コンの部屋に入った。身軽な旅姿だった。コンは黙って往来を見つめている。格子越し。無視されるようにして、旅姿の男は雨に濡れ冷えた足先、そのまま立っていた。
 訪れた男は天網の一人である。コンに情報を伝えにやって来た。情報は士に関するものであった。

 /オロチと名乗り呼ばれる士の一団があった。遥か南方の地より破竹の勢いで北上しており、士の間でも危険視されるようになっていた。その勢いに彼らはキサラギを目指している、とさえ噂された。
 朝廷はオロチへ天網を送りこんだ。オロチの頭を暗殺するために。情報は、天網がオロチの頭に、返り討ちにあったということであった。朝廷の暗殺部隊である天網が敗れたのである。コンは目を細めたが無言だった。
 雨は静かに降り注いでいる。通りをまた一人、走り横切っていくのが見えた。
 コンがそれまでにつかんでいた情報によれば、オロチの頭の男の名はイバラキという。イバラキの持つ剣が、ハヤテという名の名刀であった。イバラキはこのハヤテをもって、相手が一度振り下ろす間、二度斬ると言われる。高速の剣であった。 ☆169

 イバラキは酒を飲む。飲んで、飲んで、酒を飲む。イバラキは何も食べない。酒が飯だから。この頃のイバラキは痩せていた。ひどく痩せているように見えた。頬はこけて腕も足も、筋と皮だけではないかと思わせるほどである。浮き出た血管が生々しい、真顔はまるで骸骨のような若者であった。イバラキの左目尻の下と、右唇の上にはホクロがある。痩せこけた表情に、ふたつのホクロが妙に目立って色気があった。
 イバラキは飲む。朝も昼も、夜も。飲んで飲んで、気は狂う。だから飲む。さらに飲んで、飲んで、飲む。やがて狂気と死を通り越す所にまで届くようになる。ここまで着けたからには、残りの時間も飲むしかない。飲んで飲んで、飲むのだ。
 イバラキは生卵だけは食べた。卵の先端を砕いて小さな穴を開ける。酒の合間に口をつけ、白身と黄身を吸った。吸い終わった卵は、殻を縦に割り皿の替わりにする。割った殻に塩を盛らせた。塩で飲み続けていく。だから生卵と塩は口にした。
 この頃は常時、腰に刀を下げて歩く者は、一部の貴族と戦時下の兵士以外まだいなかった。イバラキも同じである。この日は、長い剣を1本、普通の長さの剣を3本、短刀を2本、隠し持っていた。短刀は2本ともサラシに入れて腹にある。他の刀は長い布に巻き、その布を紐で結び、自分の腕に括りつけて持ち歩いていた。
 人から見れば釣リ竿か、家財道具の何かを包んでいるようにでも見えただろう。ひとり旅の途中、この酒場にいた。
 店の主人と他の客たちが、イバラキの異常な飲み方に驚きはじめ、遠巻きにイバラキの様子を窺うようになっていた。そんな時、イバラキは下から斜めに見返して言ったものである。
「なんだ?俺の酒に文句か、皆さん」
 イバラキは異常だ。イバラキは冷笑する。最後に杯を小さく掲げて見せた。飲み干し、銭を叩き置いて出て行った。 ☆170

 イバラキは目を覚ました。真上に太陽が照る。眩しい。真昼だった。深く息を吐きながら横に首を倒す。上から、下から、人の足が次々と移動しているのが見えた。足音が地面を伝わって聞こえてくるようだった。イバラキは街道の真ん中で、仰向けになって眠っていた。昼になるまで、地面で寝ていた。
 イバラキは寝たまま、腹と腕の刀がそのままであることを確認した。しばらく大の字でいた。自分を上から覗きこんで行く人々。太陽がその上にあって、人々の顔を影にした。皆、道端で眠る男の様子には怖がって、見はするが黙って過ぎて行く。
 イバラキの失態を道端から見ている男子がいた。四、五歳か、その子がイバラキに近付いて言った。
―おいちゃんの顔、真っ赤だ
イバラキは体を起こした。自分の首筋から顔面を手で撫でた。顔の皮膚が張って仕方がないのは、酒のせいだ。自分の顔面が燃えているみたいなのも、酒のせい。
「赤いのはよ、鬼灯(ホオズキ)みたいだろ、な?鬼灯だ、わかるかい鬼灯」
イバラキは子供に、まずそう言って近付いた。
 鬼の灯― ☆171

 イバラキはその子を連れて、街道を少し歩いた。茶屋へ入って茶を頼む。子供には甘い菓子を、好きなだけ食わせてやる。売り子の娘に訊けば、ここはイバラキの向かう目的地の途中にある宿場。酔い潰れながらも予定通りに進んだことを、イバラキは確認していた。
 この近くに、日に一度、正午直ぐに通る馬車停があると聞いていた、士が専用で使う馬車。人はそれを知らなかったが、イバラキは知っている。
―もう馬車には間に合わねぇな
 訊けば子供は、この宿場に連なる家々の一軒に住んでいた。明日の昼前に、もう一度この茶屋へおいでとイバラキは言った。他に兄弟がいたら連れてきな、と。また好きなだけ菓子を食わせてやるからと言って、子供を帰した。
 イバラキは、街道から外れた山裾に続く道へと入る。人のいない細い道。士の馬車停へと続く道。イバラキは小走りに進む/。誰もいないその道の先に、停車場の印が置いてあった。馬車停の印とは、整然と並べ積まれた、誰か幾人もの立派な墓碑の塊である。
―ここか
 イバラキは、道に新しい轍を認めた。腰ほどの高さに組み上げられた印の墓石の台に、懐から出した鉄札を置いた。木の上でそれを見たカラスが、誰かに鳴き語るような声を出す。/風もない午後、誰もいない山裾の小道。イバラキは、来た道を戻って行った。 ☆172

 次の日、その茶屋で、昨日も来た痩せた男は待っていた。次いで昨日の男の子が、弟を連れてやって来た。痩せた男は売り子の娘に、菓子を詰めた袋を三つ用意させ買った。兄弟のそれぞれに菓子袋を一つずつ手渡し、着いて来るようにと言い店を出たようだった、子供たちも着いて行ったらしい。
 袋を買った男は生気を消していた。誰も彼に気付かなかった。/売り子の娘だけが、それを見ていた。昼前の出来事。店の外の陽気に溶けるように三人は消えた。
 男はときどき、後ろを振り返って子供たちを手招く。兄弟は、菓子の甘さに夢中になりながら、寄り添いながら走って男を追いかけた、離れないよう前方だけを注意しながら。
 街道を外れた道先で男は、遅れがちな兄弟たちに新しい菓子袋を示し、手を振って見せた。新しい袋を足元に置き、さらに先へと進んで行く、振り向いて手招くのが見える。
 兄弟たちは、置かれたままになっている目先の菓子袋を目指し、街道を外れ小道へと進んで行った。兄弟のふたりとも、両手で菓子袋をしっかりと持って喜び、とにかく嬉しかった。これだけたくさんの菓子を一度にもらったことはない、気が付くと周りは知らぬ道、先を行く男の背を追うしかなくなった。 ☆173

 ここまで来れば、あとは容易。男児たちは、知らぬ山裾の道を不安がって、イバラキから離れようとしなかった。馬車停に着くと、昨日置いた札はそのままにされていた。馬車は、まだだった。イバラキは墓石の台に浅く腰をかけ、周辺を見やった。子供たちはイバラキを見ている。イバラキは言った。
―少し待ちな、もうすぐ馬車が来るから。乗せてやる
墓石台の横に子供たちは座った。

 札は馬車停で、引き渡す物があることを、御者に知らせる役を持つ。墓石台に札が乗せられてあれば、そこに人がいなくても、御者はそこに馬車を止めて待った。御者の砂時計が一往復する間に、誰も来なければ馬車は発進する。砂の落ちている間に札の持ち主が来れば、引渡しとなる。これらはどこの士にあってもほぼ共通した慣例だった。巡回の馬車を使わず直接に市場へ荷を持ち込む士もいた。
 馬車を待たせる札は、士しか持っていない。御者の持つ砂時計は、日に何回、ひっくり返されたかが、記録されるように細工のついた物だった。砂時計の細工は、御者には解けないようにされている。どの馬車停で、どれだけ待ったか、御者が自分の働きを運転後に、雇い主へ証明するために必要な物だった。
 後に、札も砂時計も偽物が出回りはじめるが、今はその頃よりも前の話である。一度割られ新たに組み上げられた墓石台の意味、馬車や札の存在はまだ世間に広くは知られず、朝廷にも完全には把握されていなかった。

 日増しに暑くなっていく頃だった。子供たちは互いの菓子を見せ合いながら、何やら飽きずに話をしていた。途中、喉が渇いたという子に水を与えたりしながら、墓石台を背もたれにイバラキも待っている。
 正午、馬車はやって来た。四頭立ての馬車。その音に子供たちは、体を乗り出して道の先を見た。山裾の小道をゆっくりと馬車は近付いて、墓石の馬車停前に停車した。 ☆174

第三章 2稿 2/2 135~155

 キタは桃っ子が包まれていた様子を兵士へ伝えた。添えられていた短刀、鏡、桃を模した石の意味を兵士に尋ねた。そこで兵士は今何が起こっているかをキタへ伝えた。
 それによればここよりさらに上流に位置する場所にあった王国がキサラギの軍勢に滅ぼされた。昨日のことである。山奥に建てられ栄華を放ち続けた秘境の宮廷をキサラギの軍が焼き討ちにしている。それは今現在も行われているという。
 キタは物見の大木から監視して自分の付けていた見当がほぼ正しいことと山の民の王国がキサラギの兵士たちに桃源郷と揶揄されていたということをこの時点で知った。
 桃源郷の王族に関係する者のほとんどが捕えられたという。しかしその王国の生まれてまもない王子が行方不明となっていた。王国周辺の山々において見失われた王子の捜索が開始されたと兵士は明かした。
 兵士はキタがキビに運ばせた品を確認した。兵士が特に注目したのが短刀、鏡、光る石のそれぞれであった。桃色の布地に包まれ眠る赤ん坊が桃源郷の王族の者であり、行方不明とされた王子であると断言した。
 キタは「やはりそうだったか」と改めて子の寝顔を黙視し、兵士の顔を見上げた。兵士は眠る子を見ていた。沈黙。ため息の後に兵士は言った。 ☆135

 「大変な拾いものをしたものですな。キタさんでしたか、翁様よ」
キタは桃っ子を抱いたまま立ち尽くし、その目線は宙に浮いている。
 ふたりは河辺でお互いを確認した。あの日、お互いに飢饉のツジにいたことを。いくばくかの時が流れたことを認め合って笑いながら河にいた。ふたりはこの再会を喜んだ。
 キタはツジでそうであったようにその男には偽りを述べる気持ちがまったく湧かなかった。キタは実は自分の家がこのすぐ近くにあることを男に告げ、河で拾ったものがあるから見て欲しいと頼んだ。
 ふたりはそれぞれに生きる術に長けた用心深い男だった。それが不思議とお互いを疑わずにいた。ツジでのときがそうであったように。運命の意図で深くつながれている。
 キタは名を名乗ったが男にはその名をあえて尋ねなかった。むしろ男を早く家に招いてもてなしたいと無性に思った。男も馬をつなぎ置いてキタに言われるままにその後を付いて河岸から山へと登って行った。
 その男は今、キタの家の入り口横に積まれた材木に腰を下ろしている。子を抱き立つキタの足元に目をやりどうすべきかを考えていた。
 男はキジである。

 キジは大陸から戻った後、身を隠していた。/帝の崩御を知る。ツジを飢饉へと追いやった気まぐれといわれたあの帝である。新たな帝が即位しキジはキサラギへと近付いた。
 キサラギの勢力図は一変していた。キジを助けた女衒は消えてキサラギにはいなかった。最も美しかった四人の遊女のうちのふたりが二大勢力となって利権を争っている。キジの名とその武勇を直接に知る者は宮廷にはほとんどいない。いてもキジを恐れて知らぬ存ぜぬを演じ通した。キジの命を狙っていた者たちも皆消えていた。
 キジは偽名を用いた。キサラギとその周辺に身を置いた。再び朝廷に傭兵として雇われていった。戦の旅は続く。
 桃源郷征伐の戦争にも召集された。キジはそこで戦いさらに王子捜索の一隊としてこの河を下っている途中であった。 ☆136

 気が付けばキタの傍らにこの家の女主が立ち添っていた。キビである。自分が敷居をまたいだときに臭いと騒いでくれたあの嫗。キジは女の名を知らない。自分がかつて、その女が作り売っていた団子を買い漁ったことも思い出さないでいた。
 女はその手に何やら料理らしきを盛り付けた大皿を持っていた。その眼差し。それが自分を信じ頼り願っていることがキジにはよくわかる。それがキジを悩ませた。
 /朝廷の放った軍勢は馬鹿な犬ではない。実際に騎兵たちは標的の王子のすぐそばを通り過ぎた。彼らがこの家を見つければ火を放つ、捕まれば初老夫婦は繋がれる。子と共に本営へと運ぶはずであると思われた。
 /
―騎兵たちはすぐそこにまで来ている。しかし何とかしてこの三人、逃してみせる
 何も言わずに地面を睨み続けるキジにキビは歩み寄った。 ☆137

/
「さ、旦那様。食べてみてくだされ」
/
 見れば目の前に美味そうな団子の盛られた皿がある。それを持つ初老の女。こちらをしっかりと見据えた挑発的とも感じられる表情は大したものだと、キジは-苦笑した。
/
 キジは汚れたままの素手でその皿の団子をむしり取った。キビは今回は男の臭いにまったく動じなかった。一歩も退かず表情も変えずそこにいた。
 / ☆138

 団子を口に入れたキジは背筋が伸びた。/
―うまい!
/
 キビはさらに他の味の団子もあるとすすめる。キジは言われるままにその団子にも手を付けた。
―うまい!これはうまい!
 このような山奥でこれほどの味に出会うとは思いもしなかったキジは驚いた。/
 /さらに思い返してもいた。
―この団子、どこかで食べたことがあるか
 /
 「旦那様、もうひとつどうぞ。あの桃子がこの家に来たお祝いに作ったんです。まだ他にもたくさんありますから」
/「これは何と言うものですか」/「キビ団子です、旦那様」
―キビ団子
 キジは改めてキビの顔を見た。
―どこかで会っているか
「旦那様、私が店を出していた市場でこの団子をお買いくださった。覚えておりませんか。海沿いの街道の小さな市で」
―海沿いの街道
「その時も旦那様は弓をお持ちで、他にも何人かの兵隊さんがおりました。私の団子を全~部お買いになって馬で行かれた」
 キジはそれを思い出した。「それはいつ頃の話ですか」/
 キビは笑顔で答えた。
「昔むかしの話です」 ☆139

 キタは茶を用意してキジに飲ませた-が、すこぶるうまいので飲み過ぎた。/
 /午後の光に-山鳥が鳴く。
 河沿いとはいえ岸からこの家までの距離は河音が聞こえないほどに離れている。河岸からこれだけの距離があれば十分に逃げ切ることができるとキジは考えていた。/
 自分以外の残りの騎兵、それらは河に添わせて動かせば良いと思われた。それら騎兵を河岸から、河の流れから離れないように動かせば良い。この家は逃れ得る距離にあると判断した。 ☆140

 /キジは考えることをやめ大きな笑みで二人に言った。
「キビ団子、茶、あまりにおいしかった」
荷から銭を鷲づかみに取り出し赤い布手袋の片方に入れ二人に差し出した。
「戦の最中、持ち合わせが少ない。これでご容赦ください」
 キジは立ち上がった。その長身-に対してキビは首を横に振り言った。
「お金なぞいりません。旦那様、今日はこの子の祝い。旦那様、この子を、この子を」
キタの抱いた眠る桃っ子を何度も見返しキビは訴えた。
「この子を見逃してやってください、私たちが育てますから」
 それを聞いたキタは驚いて即座に踏み出し怒鳴った。
「だ、黙れ!何を言うか、おまえは!」 子が泣きだしこれをあやすためキタは黙った。
キジは-キビが持ったままの食べ終えた皿に金を入れた布手袋を置いて言った。/
「嫗様よ。確かに海沿いの街道。その市でキビ団子を食べました。私も思い出した」
キジはキタを見た。
「昔、私たちはすでに一度会っている。不思議なことだ」
 キタとキビは並んでうなずいた。/
「私の名はキジ。キジと申します。キサラギに、朝廷に雇われた傭兵です。今は偽名を使っている。バクセという名です。よろしいですか、これは絶対の秘密です」
/
 この時、キジがその本当の名前を人に語ったのは何年ぶりのことであったか。/それがここで自分から名乗り出るとは、しかも実の名を。さらにその偽名までも教えてしまった。/桃源郷の王子が自分をそうさせたとでもいうのか。それともあのうまかったキビ団子のせいか。自分はこの三人に完全に心を開いてしまっているのだ。なぜだ。/
 キジはつぶやいていた。
「不思議なり不思議なり、昔むかしの話なり…」
/ ☆141

 /
 キジはキタに問うた。この家までの山の道筋を。
 キタはキジを導いて歩いた。炭焼きの集落からこの家にまで続く小さな山の中の道。さらにこの家からさらに上流へと続く道の在りか。それらをキジに説いていった。
―なるほど
 キジは思った。この初老の男、キタという者が只者ではないこと、あの飢饉のツジを渡り歩いただけのことはある男だと確認しながら聞いていた。
 先に下っていった騎兵たちが集落に着き、この細い山道の存在を知らされればこれを逆上って来るだろう。
 キジはキタとキビに確認した。眠る赤ん坊、桃っ子と呼ばれるその男児の存在、それがまだ自分を含めた三人以外、誰にも明かされていないことを知った。
―助けられる、逃しきれる
/
 /キジは河原に置いてきた馬を連れに坂道を走り下り恐ろしいほどの速さで馬を家に登らせて帰った。
 別れのとき―。子を抱いたキタと布手袋の銭を受け取ったキビ、馬から降りたキジ。三人はしばらく語り合っていた。真剣な表情になったりもした。何を話していたのかはここからでは遠くて聞こえない。赤ん坊の泣き声やときどき三人の大きな笑い声は聞こえる。
 キジは三人に別れを告げたが最後に眠る子に言い放った。
「今度会うときはどこぞ、それは共に戦うときぞ」
その大きな笑みをキタとキビは見た。キジは山の道を下流へと馬を進め-炭焼きの集落へと向かった。キタとキビは頭を下げて見送った。
 キジが乗るその馬はシャンではない。シャンはこの時、すでに死んでいた。/キジはその骨を大陸船に預け乗せた。大金を使い大陸にシャンの墓を掘らせた。そこは当時、荒野であった。今その場所は上海と呼ばれている。
 キビはキジが座っていた材木の上に受け取った布手袋の銭貨を出してみた。ほとんどが金貨であった。二人はその大金に顔を見合わせキジの走り行った山道を見つめた。ふたりの間に桃の子が眠ってもいる。 ☆142

 キジはそのまま山の-小道に馬を進ませた。道はさらに河から離れ山道を登っていく。
 河岸を下って行った先の兵士たちは進路を渓谷に遮られて河の左手、山へ入る道を進んでいた。渓谷からの道をのぼる。/
 /のぼりきった先で兵士たちは渓流と平行する山の道を見つけた。 「なんとこちら岸に山道があるではないか」
四騎は炭焼きの集落へと辿り着いた。/
 集落は突然の騎馬兵たちの侵入に混乱した。 ☆143

 集落へ入った騎兵は四騎である。彼らは自分たちが河上で確認した煙の出所がここであると推定した。中央の広場で住民が見守る中、進み出てきた集落の老いた長に馬上から問い尋ねた。「上流から赤ん坊を連れて来た者を見なかったか」と。
 村の長は「それは知らない」と答えた。「ここの他にも集落はあるから、あの所からも煙は上がっておるだろうが」と隣の場所を指し示して言った。「赤ん坊ならあっちへ行って訊いてみれば良い。確か生まれたばかりの赤子を連れた者がおった」と兵士たちに告げた。
 兵士たちは示された山から上がりはじめた炭焼きの煙を確かに見た。
「その赤子は男か女か」 「知らぬ」 「この集落に赤子はおるか」 「おらぬ」 四騎は隣の集落へと続く道へと駆け抜けて行った。
/キジが集落へ着いたのはそのだいぶ後だった。キジの偽名であるバクセ、彼はこの隊の長でもあった。 ☆144

 皆、バクセを見た。/その乗る馬も-ひとまわり大きく激しいことが見て分かる。バクセの背の弓に山の光がきらめく。 ☆145

 新たな騎兵が現れた。
/
村人は何がなされるのかと見つめている。
 バクセは村長から四騎が隣の集落へ移って行ったことを聞いた。王子はそこにいないことをバクセは知っている。じきに戻ってくるだろう。バクセは四騎とこの集落で合流しようとした。
 村人は鎧姿など見たこともなく近付いては来なかった。ただひとり、男の子が村長と話しているバクセのまわりを珍しそうにうろついていた。村長の付き人のうちのひとりが男の子に、おいイヌ、おまえは家さ戻ってろ、と言ったのをバクセも聞いた。
 男の子はバクセから離れて馬や鞍を眺めていた。バクセも背後の男の子の様子を振り返り見ていたが、男の子が馬の真後ろへ入ろうとしたのを見て、危ない、と押し払った。倒れた男の子は突然の出来事に驚いていた。付き人のひとりが男の子に走り寄り強引に立ち上がらせた。付き人は男の子の顔を平手打ちした。こらイヌ!何やってんだ!おめえは!と怒鳴りつけた。男の子は泣いた。
 すまぬ、すまぬ、とバクセは男の子に歩み寄り、この馬の後ろに入ると蹴られる、どうか気をつけておくれ、と笑った。驚かせてすまなかった、と荷から砂糖を蜂蜜でくるんだ飴を取り出し、男の子の口に入れてやった。どうだ、うまいか。男の子は笑顔でうなずく。イヌという名か、年はいくつだ。男の子は片手の平をひろげて見せた。
 許しを得て村長の家の前で四騎を待つ。村人が馬に水と餌を置いていってくれた。男の子はバクセを臭がらず離れずにおり、馬に餌を食べさせたりしていた。
 桃源郷進攻の前から今まで寝ずにいる。腹も満たされ深い眠りに陥りそうだった。眠気を覚ましに男の子を馬に乗せ、集落裏手の緩やかな坂の野へ引いた。野に座れば草と土の香り。男の子が遊ぶのを見ていた。再会を果たし飲み食いし笑った―過ぎた時を想う。 ☆146

/
 四騎の隣村での捜索に収穫はなかった。やっと見つけ出した赤ん坊は女だった。集落の広場を通り抜けて四騎は戻って行った。バクセが集落へと出て来た道をさかのぼって。途中、渓谷へと下りる道を通過、そのまま山の道を進む。山の道は獣道のようでもある、しかし馬は通れた。
 山の道を進みながらひとりの兵が言った。この山道を通らないで自分たちは集落へ着いた、もっと険しい川岸を下っていた、と。隊長はどうしたんだ、と別の兵が言った。そのまた別の兵が、この道の先がどこへ続いているか確認する、この先を見る、と進んだ。ほかの三騎も続いて行った。兵士たちは疲れていら立ち、冷静さを失ってやけを起こしそうになっていた。
/
 四騎の進んで行った山の道、桃源郷の生き延びた王子のいる家、キタ翁とキビ嫗の居所へと通じる道。 ☆147

 隣村から立ちのぼる炭焼きの煙をバクセは見ていた。この後に起こるべきことを想定していた。/四人のうち誰かひとりにでも王子を見られたら四人全員を殺そうと決めた。 ☆148

 男の子を馬に乗せて野から戻ると、たった今、四騎が集落を通って山の道へ戻って行った、と知らされた。―すれ違ったか、まずかったな、とバクセ。
 /
 続けてこう言った。
「もし先に行った兵隊が死んでいたら、いいか」
それで集落の、外に出ていた者、皆が黙った。
「よく聞け、その兵隊に犯されそうになったと言え」
 バクセの言動が少し荒々しく感じられたのは、彼もまた疲れていたからかもしれない。さらに男も女も皆、外に出て聞いていた。 ☆149

 「それは誰に言うんですかいな」と訊いてきた長に、バクセは言った。
「誰にでもだ。この集落へ来て訊く者があったら、そいつには必ず言ってやれ。馬に乗った兵隊たちに犯されそうになったと。女も、子供も、年寄りもすべて、兵士に殺されそうになったと言ってやれ。さもなければ、この集落は焼き討ちにされるぞ、いいか、わかったな」
 バクセは馬を翻らせ、集落へと来た山の小道へと再び入って行き、姿を消した。去り際、バクセは村の長に銭をいくらか手渡した。男の子を手招きして近寄らせ、達者でな、と飴を包んだ赤い布手袋の片方を渡した。
 後には砂塵が残された。長をはじめ、集落の男女は、バクセが山へ消え入ったのを集まるようにして見つめていた。 

 バクセは、上流へと続く山間の道を急いだ。先に行った四騎を追う。両側を木々に覆われた道は続く。途中、切り出された材木をつなぐ渓谷を過ぎた。その辺りを過ぎた頃から道は細くなり、さらに草木に覆われている。/
 バクセは一度、馬を降りた。草木の茂る細い道に、数頭の馬が通過していることを確かめた。それらの蹄の跡は上流へ向かっている、まったく新しい跡。先に下流へと向かった自分の馬のものではない。
 さらに上流へと上る。四騎の背は見えない。

 /バクセを下流の集落へと見送ったキタ。別れ際、キタはバクセに、すぐ近くまで捜索の手は伸びている、と言われていた。今はまだ危険と隣り合わせの状態にある、と。
 それなのにキビは桃っ子への祝いの唄を陽気に声高らかに歌いはじめていた。キビに呼ばれキタも一緒に歌うよう求められたが歌える訳がない。キタは自分の姿を騎兵たちに見られていることに不安を募らせていた。胸騒ぎがした。
 キタは外へ出てバクセが姿を消した山道をしばらく見ていた。悪い予感。キタは突然走って家へ戻り、キビに家の戸をすべて閉めるように命じた。自分はその間に、出したままにしておいた鎧兜と刀を床下に隠した、桃っ子を乗せた籠も。まだふた皿あったキビ団子は土間の奥に移した。
 キビが、言われた通りにやりましたら薄暗くって嫌になります、と文句を言い出したその時、蹄の音が近付きはじめ、馬のいななきが家の外に響いた。その音に、キビは驚いて目を見開き、両手を口にやってキタを見た。そこには鋭く輝くキタの眼光があった。
 キタは、すでに桃っ子を抱き上げていた。自分に言って聞かせてみた。
「おうまさん、ぱっかぱっか」
そしてそれを笑った。キタは思い出していたのである。
―ツジにいたあの乞食、確かにそう言っておった ☆151

 バクセの先を行った兵士たちは、小道を抜けた場所に、一軒家を見つけた。馬がいななく。家の戸は閉められていた。しかしそれが廃屋ではないことは、ひと目でわかった。
 行きには通らなかった道でたどり着いた場所。道の存在を知って、兵士たちの萎えていた気概は憤っていた。「こんな家があったとは」などと、口々に吐き出しながら馬を降りる。
 「誰かいるか」と玄関の戸に怒鳴ったが、返事はない。開けようとした戸は、すべて内側から閉じられていた。
 裏手に廻った兵士が、そこに造られた畑を見つけた。そこになった実を見ればわかる。手入れの行き届いた野菜畑。ここで誰かが暮らしている。兵士のひとりが言った。
「どうする、家の中を見てみるか、どうやら家人は留守のようだが」
 さらに別の兵士が言った。
「行きの河沿いに、翁が突っ立っておったが。あの男、こちらの岸に道はないなどと、嘘を言いおったんだな」 「確かに」 「腹が立つ」
 兵士のひとりが、玄関の戸を蹴破って押し入った。土足で室内へ上がり込み、内側から閉じられた戸を次々に蹴破って、外へと倒し出しはじめた。続いて二人が馬を降り、家へと上がった。一人の兵士は馬上のままで外にいた。
 そこへバクセは到着しようとした。山の小道から兵士たちが、家を荒らしはじめているらしい様を見て、彼は呼吸を整えた。キタとキビと赤ん坊、いま三人はどうしているか。もし赤ん坊を見られていたら、即座に四人を殺す。キサラギに背くことになるとしても。 ☆151

 /兵士たちは家の中を見て廻った。壊せるものがあればと探しながら。表に出たとき、隊長であるバクセが立っていた。
 「何かあったか」
そう言ってバクセは三人を見据えた。兵士たちは、疲労から、何かに当たりたい気分だった。隊長には、「若い女でもいれば」と言いたかったが、黙っていた。朝廷の軍に所属しているということが、彼らに最低限の節度を保たさせていた。兵士たちの威勢は削がれた。彼らの様子から家の中に人を見ていない、誰もいないことをバクセは見て取った。
―三人はうまいこと家にいないでいてくれた、部下を殺さずに済んだ
 兵士たちは自分たちが常日頃、バクセを怖れていたことを思い出しはじめていた。/するとバクセはさらに極まって見えてきた。
 バクセについては、いくつもの噂があった。/そのひとつ、崩御した先の帝から、大陸の巨帝暗殺を命じられて渡航したという話がある。噂について尋ねられてもバクセは一蹴した。軍内部には昔のバクセを知ると言われる者たちがいた。しかし彼らからバクセの話が洩れ聞こえてくることは一切なかった。軍の誰もがバクセを不思議に思ってもいた。
 馬上のまま外にいた兵士は、家の持ち主が、行きに河岸で会った初老の男ではないかと考えていた。あの男が嘘を言った。それをバクセに伝えようと、続けてこの家を焼こうと言いかけようとした。
 バクセが、家の中を物色して外へ出てきたところだった。家の中から団子の皿一枚を持って出てきた彼は、大きく微笑みながら、兵士ひとりひとりの口にその団子を押し食わせ、馬上の者には投げ渡してから言った。
「そろそろ戻ろう、あまりに時間を使い過ぎた。これで手ぶらとなれば、そしりになりかねん。うん、これはうまい団子だな、おいまだあるぞ、食っていけ」
バクセは皿にあった団子すべてを兵士たちに食わせて廻った。バクセは兵士たちの様子を窺っていた。空腹に何か食わせてやれば、人の態度はすぐ変わるもの、-兵士たちもそうだった。キビ団子は、ここで威力を発揮した。バクセは笑いたかったが、知らぬ振りをした。馬上の兵士だけは団子を口にせずにいた。焼き討ちを望んでいた、その考えを口にする間もなかった。すぐにバクセは馬をひいて、家の裏へと消えたからである。
 兵士たちも後に続いた。バクセは裏手の畑を通り、河へと続く道を、まるで訪ね歩くようにして下った。
 そこはバクセにすれば、たったさっき、自分が上がってきた道でもある。しかし知らぬ振りを続けて進んだ。自分の大げさな演じっぷりに思わず吹き出しそうになり、前を向いたまま必死にこらえたりしていた。河原へと出た。最後尾にいた団子を食わずの兵士も、両岸の景観を見て、確かにあのときの翁が嘘をついていたことを知った。しかしその時には、バクセと他の兵三騎は、河岸を上流へとのぼり、その背が、木立のうねりに消えかかるほどに、距離がついていた。
 「んん~、あのくそジジイが」
そう言って手に盛ったままでいた団子を渓流に投げ打ち叩き捨て、馬を上流へと急追させた。
 誰もいなくなった。後には、戸を破られ、土足で踏み上がられた無人の家が残された。 ☆152

 キタは、キビと赤子を連れて、裏戸から外へと出て、畑を抜けて山に上がっていた。表にやって来た騎馬たちと入れ替わるようにして。森の中にキビと赤子を残し、自分は引き返して、山の斜面の高みから、家の様子を窺っていた。その場所から眼下に、バクセを先頭に、馬をひいて河原への道を下って行く、兵士たちの姿が見えた。
 キタは身を伏せながら移動し、さらにその先を目で追った。河原まで覗ける場所から見ると、最後の一騎が上流へと、駆け上がっていくところだった。/

 キタは、キビと赤子を連れて家へ戻った。外された戸を元に戻し、荒らされた室内を片付けた。その間、キビは赤子に夢中になっており、ときどき泣き声をあげる子を抱いてあやしながら、室内や外を渡り歩いていた。
「良かったね~、良かったね~、おぉ~、こわかった、こわかった~」
盛んに赤子へ語りかけては、「せっかくのお祝いが、台無しだねぇ~、でも助かって良かった、良かった。良かったねぇ~、おまえさ~ん」などと、キタにも振っていた。
 土間の奥に手つかずに残された団子の皿が一枚、キタがその前に立っている。鼻歌を歌っており、それは先にキビの歌っていた祝いの唄。一難去ったら急に腹が減った。鼻歌で、うまいうまい、と小躍りして食べていた。後ろ向きに飛んだら、柱の影からキビの真顔がこちらを覗いていた。見ていた。ばつが悪い。手にした団子をキビに見せて笑い、うまい、とキタは言い。
 /キビの臆さない様に自分は救われて-今日まで生きてこれた。キタは、言わずとも、いつもそう思っていた。
 その日、山の陽は暮れた。囲炉裏の火を、いじりながらキタは考えていた。これからのことを。キビは、赤子に添い寝している。薪が燃えて、弾ける音をたてた。 
 あのキジという人は、また行ってしまった。/まるで風のように。 ☆153

 朝、空気。肌にはまだ冷たい。山々は薄霧に覆われていた。キタとキビが、暮らした一軒家が見える。戸はすべて閉じられていた。
 そこから下流へと下ったところにある炭焼きの集落。そのうちの一軒に住む男は、キタと共に木こりの船頭として働いていた男である。キタが持ってくるキビ団子を、常々楽しみにしていたあの男である。ある夜、男の家にキタが訪ねて来た。キタは、男に言った。
 「何年か経ったら戻る。それまで自分の家を見張っておいてくれ」
キタは男に一方的に大金を押し渡して足早に帰って行った。次の日、男がキタの家を訪ねてみると、既に誰もいないようだった。キタとキビは、姿を消したのである。家と畑が残された。
 キタは、キジと再会した日の夜に決めた。キビが抱いて眠る赤子、その子を育てるということを。その子がいつの日か、失われた桃源郷の地へ戻って行くということを想い描いた。
 子を生かすためには、集落の他の者たちに、子を見られる前に、この土地を去ることが求められる、と別れ際、バクセは言っていた。初老夫婦が、突然に抱いた赤ん坊は、どこからの子かと疑われる、その前にこの地を去る。キタはキビを起こしてそれを告げた。
 バクセの去った次の日、ふたりは荷をまとめた。荷の中には、子と一緒にされていた短刀、鏡、桃を模した光る石が含まれる。その夜、集落の男に金を渡した。次の日の早朝、薄暗い頃に渓谷へ歩きくだり、下流へと向かった。持ち舟で。三人は河を下った。誰もそれを知らないうちに。
 その頃まだ、桃源郷は燃え続けていた。三人はそこから遠ざかっていった。次第に明るくなっていく渓流。キタは舟を操りながら、自分がまだ死ねないことを実感していた。
 桃っ子の故郷は消滅してしまった、桃っ子の親も親戚も皆、捕らえられてしまった、ああ、俺がしっかりしてやらねば育つものも育たん―。
「どんぶらこぉ~、どんぶらこぉ~、ぱっかぱっかぁ~、ぱっかぱっかぁ~」
キタが謳う。それに応えてキビも、訳分からずとも一緒に声を上げた。
「どんぶらこぉ~、どんぶらこぉ~、ぱっかぱっかぁ~、ぱっかぱっかぁ~」
理由などありはしない。不安など怖くはない。この時、ふたりは生気に満たされていた。
 笑顔のキビを、胸に抱かれた赤子が見つめている。その瞳に、キビは何かしら語り続けていた。三人を乗せた舟は河を下って行く。
「モモ~!モモ~!見えるかぁ~、綺麗な春の山だよぉ~」
キビは子に見せてやった。両岸の山々の美しさを。満面の笑みで。山桜が春風に舞い散った。キタが舵を取っている。山々の上の方から、鐘の音が聞こえたように感じ、キビは空を見上げた。
 その鐘の音は、清く澄んでいる。 ☆154

☆155

鐘の鳴る

鐘の鳴る

海に山にその丘に

鐘の鳴る

鐘の鳴る

あなたの暮らすその場所に

あなたの眠るその場所に

鐘の鳴る

鐘の鳴る



鐘の鳴る

鐘の鳴る



鐘の鳴る 第三章 終

400字詰め原稿用紙100枚

第三章 2稿 1/2 114~134

☆114

 そこは山々に包まれた土地である。朝霧に包まれて山頂は見えない。冷気が山肌をなめるように動いていくように見える。夜が明けようとしていた。
 まだ薄暗い。山と山の間を縫うように渓流がある。河は大きくその流れはゆるやかではない。その山裾から河岸へとひとり男があたりをうかがい歩み出てきた。武装し刀を抜いている。
 続いてもうひとり、やはり武装し刀の男がその河岸に姿を見せた。ふたりはそれぞれに河の上下、そして山々の上下を見渡し、出てきた方角へ刀を掲げて合図した。その合図に山裾から武装した男たちがさらに降り現れた。
 鎧で黒光りするその集団の真ん中には色美しい装いの女たちがいた。数人の若い女たち。それは侍女たちである。そして白髪の女、それは乳母である。
 それら数人の女たちに囲まれてさらにひとりの女が立っていた。その中央の紫と朱の装いの白い女、それはこの王国の王妃であった。妃は懐に何かを抱いている。それに手を添えて慈しんでいた。
 女たちはその様子を見守りながら妃の姿に祈りを捧げた。さらにそのまわりを武装の集団が取り囲み周囲を見張っている。かすかに揺れる鎧の音、霧が動いていく。
 朝直前の静けさ、渓流の流れる音が山々に響いている。妃は河岸へと歩み、ほかの女たちも一緒に進んだ。兵士がふたり、後ろから歩み寄り籠らしきものを置いて下がった。
 妃は抱いていた包みのようなものをその籠に託し置いた。女たちはその籠を詰め寄るようにして覗き込みさらに祈り続けた。白いひげの老兵が歩み寄り女たちへ急ぐようにと進言した。
 妃は自らの手でその籠をその岸へ押し流し放った。女たちは流れだした籠を見て泣いて拝んだ。籠は岸辺からゆっくりとその渓流に押し流されていった。
 女たちは妃の足元に集まり抱き合ってそれを見送った。兵士たちも籠の流れていった先を見つめている。
 白いひげの老兵に促がされ女たちはそれぞれに立ち上がった。その兵士は立ち尽くし放心の妃の前にひざまずき頭を垂れて進言した。女たちは妃を中心に出て来た山の裾野へと護衛され戻っていった。
 河岸から山の中へとひとりずつ、ひとりずつと入り消えていく。最後のひとりとなった兵士も周囲を窺いながら山の中へと消えた。誰もいなくなった山あいに再び渓流の流れる音だけが残された。
 流された籠はすでに遠く見えない。霧のこもる巨大な山々を照らしながら朝陽が昇りはじめた。光が霧を晴らし消し去っていく。

☆115

 流された籠はその渓流を下る。さらに下り、下り。流された岸からは遠く離れていった。
 籠の流された場所は最も内陸に位置する。それよりも海寄りの山々があった。とはいえその山も海からは遠い。そこに生活する人々のほとんどは海を見たことがない。
 その場所は炭の生産地であり炭焼きのための窯が点在していた。窯からの煙が数本、山々から空に立ち昇っている。そこで近頃よく話されることがあった。
 それは山の民に関するものだった。この山よりさらに内陸にその王国は存在していた。最も深い山の国に住むその人々は山の民と呼ばれた。しかし実際にその場所へ行ったことがある者はこの炭焼きの山にはいなかった。
 山の民はこことは違う言語であり、自分たちと話す言葉が違う者を喰う、と言われていたためである。人々はそこへ近付こうとはしなかった。
 その最奥の山に位置する王国には独自の王族が存在した。その王がキサラギの朝廷支配下に属することを拒んでいた。朝廷はこの山の国へ侵攻し戦争となった。
 炭焼きの山で語られたそれはキサラギの軍勢が山の民を征服したということだった。
 炭焼き場にはいくつかの物見の大木が存在していた。それは山々の木々のうちでもより高く強固な木に登れるよう足場を作った見張り場である。
 そこから内陸を見れば遥か遠くに黒い煙の柱が天上までに立ち昇っているのが見えた。その高い場所からその黒煙を見た男たちは「あそこが山の民のいる場所だとしたら、あんまりには遠くないかも」と驚いていた。
 それは戦火であり夜に吹く山風はその山の民の悲鳴を山伝いに運んでくるようで皆怖がっていた。

☆116

 この周辺の山々にはたくさんの窯があった。小さい窯、大きい窯。その中でも巨大な窯がいくつかあり、それぞれの巨大な窯に寄生するようにして、それぞれの集落が存在していた。集落はそれぞれ村として機能していた。
 その山の近くに渓谷があり上流からの荷が届く船着場であった。炭焼きの人々は自らの山々からは伐採をしない。もし伐採すれば自分たちの居住する空間、その周囲の環境が変わってしまうからである。
 炭とされる木材はかなりの距離を上流へのぼった場所で切り出された。切り出された木々は渓流の流れにのせて渓谷の船着場まで届けられ、それを人々は炭にした。
 渓谷は見晴らしがよいぶん外部の人間の出入りが掴める。一望できる岸ではつなぎ並べた木材の所有に関する問題も生じなかった。
 炭焼きの人々は炭を下流へ運び金品と替えた。舟で水路を行くときもあれば馬で山道を行く者もあった。下流に小さな街の市場があり炭は高く売れた。山奥でありながらも人々は生活に困らないでいた。
 ある集落を度々訪れる初老の男がいた。白髪まじりで髭も白い。短くされたその髭は男に孫のいないことをあらわす。足取りはしっかりしており腰も曲がってはいない。
 その男は以前、炭焼きの集落のひとつ、そのはずれに住んでいた。妻とふたり、子供はいない。遠い海岸寄りの平野から来てこの山奥へ移り住んでいた。
 ふたりは珍しい夫婦に見えた。時間の流れと共に集落と山の生活に馴染んでいった。
 男は、上流で木々を切り出し、それを渓流に流して渓谷の船着場まで運ぶ役目を担うようになっていった。荷を届け再び上流へと山道を上っていく。木を切り出しそれに乗って渓谷まで渓流を下って行く。きこりの船頭だった。

☆117

 山の窯で炭を作ることと窯自体を所有することは、その山で生まれ育った者でなければ許されなかった。それで男は過去に炭を作ることはしなかった。上流で伐採を続け資源を集落へ届け続けた。
 そのうちに男は集落の山を離れた。集落からさらに上流の場所に家を建てた。貯めた金を使って下流の街の大工男たちに建てさせた。離れた一軒家に妻とふたり、住み着いた。
 年を経るにつれて木を切り出すことはやめた。渓流に乗ることは続けていたがそれもいつしかしなくなった。
 河下りをやめてからは森の小枝や芝を刈って炭焼きの集落へ届け売るようになった。それでときどき男はいくつかの集落へ顔を出すのであった。
 
 その日、男は炭焼きの山のうちのひとつの集落へとやって来た。拾い集めてちょうどよい長さに切り揃えた枝、干して乾かした芝、それらをそれぞれにいくつか均等にわけて結わき、その背に担いでいた。道の途中の何件かでそれをいくつか売りわけた。
 男の荷をいつもまとめて買い上げる家がある。男はその家を訪ねて荷の残りすべてを金品と交換した。男を出迎えたその家の主は白髪であったが、ふたりは過去に仕事仲間であった。
 男はその家の主に背の荷のほかに包みを手渡した。家の主は笑顔でその袋を受け取ると大事そうに軽く頭上に持ち上げた。そして「いらん」という男の懐に無理矢理に「いいから」とあらためて金をねじ入れるのであった。
 ふたりは軒先に座った。家の主は茶を用意し受け取った袋の中に手を入れた。それは笹に包まれて甘く味付けされた団子であった。家の主はそれをひとつ食べて言った。
 「いゃぁ~うまい、これが食いたかったんだ、キビ団子、ありがとうキタ」
 そしてしばらく話をしたがそこで出てくることといえばキサラギに滅ぼされたという山の民についての話であった。

☆118

 午後からは軽く雨になった。その山にある祠の鳥居をくぐりその境内でキタは物売りを済ませ雨を見つめていた。キサラギが侵攻したというその山の国を想った。
 キタはそこへ行ったことはない。まさか、とは思いながらも、もし捕まったら喰われるのか、と用心はしていた。
 キタは勘繰っていた。それらは噂に輪のかかった類の風説ではないか、と。しかし遥か遠くの森の地平よりその黒煙は確かに上がっていた。キタもそれを確認していた。
 キタがその妻キビと住まう一軒家はこの炭焼きの山々よりさらに上流の地、その離れに位置する場所にあった。キタはそこに自らの物見の木、周囲を監視するための高台を以前より独自に備え持っていた。彼は常にそこから周囲を監視していた。
 その監視は今日までに続きその足腰はまだ弱ってはいない。日ごとキタは朝に夕に、その高い木に打ち付けた楔に足を掛け大木の先端近くに登っていた。内陸部で異様なほど高い黒煙が上がるのをつい最近目撃していた。
 それは二日前である。
 それから推測してその話す言葉が違う者を喰うと言われる山の民の王国が二日前以前に壊滅するということはありえないことと考えられた。もし王国が陥落したとすればそれは黒煙の上がった二日前、もしくはそれ以降のことだとキタは考えていた。
 だとすれば山の民が滅ぼされたのは、昨夜か、一昨日のこととなる。
 雨は緑の山々をその背景に音もなく降り注いでいる。誰もいない山奥の境内。誰が建てたとも知れないその鳥居の佇まい。
 山の民に突然に降りかかり襲うような衝撃であったであろうその戦火をひとり憶測立てたキタは背筋がしびれるような寒気を感じて硬直した。
 ではなぜ以前から炭焼きの人々が山の民はすでに滅ぼされてしまったと口々に言い合っているのか。それこそがまさに風説であることの証拠であるとキタは確信していた。
 それは意図的に流された情報であった。その首謀者はキサラギの朝廷である。朝廷はこの時、天下泰平を実現し遂げるために躍起になっていた。しかしそれに反するように各地では問題が次々と勃発していたのである。
 そのうちのひとつが近隣の小国の独立運動である。また士の反逆の動きも問題であった。

☆119

 キタは年を経てこの山奥に暮らしていた。
 彼がこの炭焼きの山へ来るまでにどこで何をしていたか、それを知る者はここにはいない。そしてそれはキタの本望でもあった。
 さらに時が全てを癒していった。キビの悲しみ、時はそのすべてを消し流していた。それもキタの本望であった。
 しかし今、老いを知った彼の身に不穏のようなものが迫っていることをキタ本人が強く感じていた。わずか隣に栄えていた王国が滅ぼされたのである。あのキサラギに。
 キタの考えではそれは昨日、もしくは一昨日の出来事であった。つい今のことである。そのことにキタは怯えていた。
 さらに集落の人々は噂に振り回されて誰ひとりとして何が実際に起こっているのかを把握していない。キサラギがかなり以前に山の民を平定したかのように人々は語りつないでいた。
 キタにはその現状がさらに恐ろしく感じられた。人とは何と踊らされるものなのかと。
 鳥居を出て集落を離れキタはその帰り道、知り合いに声を掛けられたが返事もよくせぬままに歩いて行ってしまった。集落からさらに上流にある自分の家へと続く小道に出てさらに歩速を早めていた。
 両脇に茂る木々に小雨は遮られ雨音は一切しなかった。自らの足音のみを聞きながらキタはひたすらに歩いていた。息が上がる。それでも足を休める気がしなかった。
 山の民、その王国の消滅―。
 キタには確かにそれについての心当たりがあった。

☆120

 キタがその貯めた金で建てた一軒家、それは集落から離れている。近くはない距離であったが男が歩いて遠くはない距離であった。
 正午から日暮れまでに疲れなければ充分に二、三往復できる距離である。しかし夜には女子供は怖がる山の小道であった。キタはそんな場所が好きらしい、かつて住んだ家への道には墓があった。その小雨の日の午後、まだ明るいうちにキタは自分の家へ帰った。
 開けたままにしてある戸を入り担いでいた荷を下ろす。頭や体を拭きながら土間に腰掛けて静かな室内に手を付いて声を掛けた。
 「ばあさん、おばあさんや」
返事はない。キタは草鞋を脱いで桶の水の濡れ雑巾で足をぬぐった。
「嫗さん、帰ったぞ」
キタは部屋へ上がり見たが人の姿はなかった。三つある部屋のそれぞれを覗いてキタは縁側に腰を下ろした。
「ん~畑かの…」
明るい空に小雨の降る様を眺めていた。
 思い出したようにキタは室内を振り向いた。その目線の先には刀が置かれていた。一本ではなく数本もの刀が。
 ある刀は鞘のないまま、ある刀は鞘に収められ飾りの綱の垂れ下がったまま。数本の刀はその部屋の隅でそれぞれに鈍い光を放っている。
 キタはさらにその横へと視線を動かした。そこには何体かの鎧のいくつかが無造作に置き積まれている。兜から何から数体分の甲冑がそれぞれ分散されていた。
 この家のすぐ近くを渓流が流れている。そこに仕掛けておいた網にそれら散り散りとなった武具が掛かりはじめていた。それは昨日からのことである。
 それら武具が上流の山の民の物だとキタは直感した。

☆121

 家の周囲の木立は切られて平地にならされている。家の裏手はさらに広げられており畑である。その畑の横に渓流へと下る小道が備わっていた。人ひとり通るほどの細い道で両側は木立である。
 その小道を下る途中に山の斜面を利用した畑がある。それらはすべてキタが以前より少しずつ整えてきたものである。その斜面の畑を越えるとまた両側は木立が続く。
 そのまましばらく下っていくと水の流れる音が聞こえてくる。木立は途切れ砂利の続く河岸へと抜ける。そこが渓流であった。
 その岸には数箇所の洗い場が組まれている。それもキタが作ったもので季節の水かさに合わせて使い分けていた。
 小雨は霧雨にかわっていた。そしてしばらくして雨はやんだ。空は雲に覆われていたが明るい。渓流の流れる音が山あいから立ち昇っていく。
 その水辺に接したひとつの洗い場に女の後ろ姿が、しゃがんで河に向かい何かをしていた。近付けば女は白髪まじりであり脇には濡らした衣やらが軽く積まれていた。その女、それはキビである。
 彼女はキタと離れずに共にこの山へと移住していた。そしてここでキタと共に老いを知った。この渓流の洗い場はキビが洗濯をする場所であった。
 そしてこの日、キビは河で洗濯をしていた。

☆122

 洗濯をしながらキビは思い返していた。昨日キタが河の網に掛かったと家へ運び入れた鎧や刀のことである。「あんな物騒な物を家に上げたりなんかしないでほしい」と。
 さらに何か掛かるかもしれないとキタはその後により大きくて強い網を仕掛け直していた。仕掛けたそれはキビのいる洗い場より少し下流の場所にある。
 キビは手を止めて下流に当たる左手を見やった。流れる川面からその網の先端が飛び出して白いしぶきをあげているのが見えていた。
―あの人も物好きな人だよ、私は気味が悪いや
 そして右手の上流を見てふたたび洗濯をしようと頭を下げた、が何やら目に留まり再度キビは顔を上げ右手を見つめた。首を長くしてその上流を見ていると確かに何かが流れてきている。
―何だろうね、あれ
 キビがそのまま見ていると次第に近付いてくるそれは何か箱のように見えた。渓流の流れに上下しながら揺られて流れている。
 すぐ近くまで来たところでそれは大きめの籠であった。キビの目の前をゆっくりと流れ過ぎていった。キビはその籠の行方を目で追って左手の下流をそのままに見ていた。そして籠は網に掛かった。
 キビは立ち上がりいちど背伸びをしてその様子を見ていた。流れに揺れて籠もしぶきをあげている。キビは洗い場から降りて砂利の河岸を籠を見に歩いていった。
 キビもキタ同様、その足取りはしっかりしており腰も曲がってはいない。砂利に足を取られそうになるとすかさずに両手を広げてその両肩を左右前後に重心を保ちながら歩いていく。

☆123

 網の場所まで来たキビはそこから掛かった籠を見て思った。
―あれは何かに使えそうないい籠だね、流してしまうには惜しいよ
籠は水をほとんど吸っていないようだった。だからこそここまで流れ着いたのでもあろう。
―誰かが流したんだろうかね、甲冑といいあの籠といい
 そしてキタが使ってその岸に置いておいた長い竿を手にキビは草履のまま河に入り腰まで浸した。元は海女である。河の怖さを知ってはいたが水を怖がる女ではなかった。
 流れに揺れる籠は横長で両手で抱えるほどの大きさであり、キビは竿でたぐり寄せ浮かべたまま手で押し岸へと上げた。籠は流されているときに見えたよりも実際は頑丈で上品な造りをしていた。それが適度な重さなのでキビは中身が知りたくてたまらなくなった。
 籠はすっぽりと蓋がされており側面の数ヶ所を縛られていた。キビは籠の中身が転がらないように気を付けながら歯を使ってその結びをやっと解いたがその前歯の一部は欠けていた。歳とったのである、キビも。
 蓋を開けると緑の布地だった。中身全体を隙間なく埋めたそれに触るとその生地が上質な物であるのがすぐにわかった。上部中央を紐で閉じられた薄手の布団の包みだった。布団はまったく濡れていなかった。籠の横に置いた蓋の内面には防水の加工らしきが施されていた。
―誰がわざわざ流したのかねぇ、こんな丁寧にして
 キビはその緑の布団の結びを解き開いた。開かれた布団は籠の四方に垂れた。中からはさらに濃い色をした緑の布が現れた。それで何かがさらに包まれている。美しい染めの一枚だった。
 緑の布団の上にそのさらに濃い緑の布を解き開いてみるとそれは竹細工で組まれた箱だった。深く蓋されたそれは横に大きな骨壺のようにも見えた。手の込んだそれは上質でまったく美しかった。
 キビは目を細め傾げた首を回しながら上下左右にそれを眺めた。そして一瞬ぴたりと止まり凝視して、やっ、と頭を後ろへ下げた。
―やだよ、まさか人の首でも入っているんじゃないだろうね
 息を止めた。キタが家に上げた甲冑が目に浮かぶ。ガラッと鎧の動いた音がしたような気にさせられた。

☆124

 何かの理由で部分部分に分離したらしいその鎧の一片。それを手に取りキタは家で眺めている。それは流れる途中でばらけたのか、それとも実際の戦いで分解したものなのか。それはわからない。
 そのいくつかには刀傷らしい斬り跡が残されている。一部の物には焼け焦げた跡が付いていた。昨日からの雨で河の水かさは増し流れも強くなっていた。それらが山の民の国ほど上流の奥地から流れてきたとしてもおかしくはない。
 ばらばらに引き上げたそれらの各部分を上半身、下半身とそれぞれに当てはめていけば、ほぼ一体の揃った鎧兜になるとキタは目で追った。
「おまえさん!」
 声に振り向けば表にキビが立っていた。
「なんじゃ、どこへ行っとった」
「おまえさん、ちょっと来ておくれ。河におかしな物が流れ着いたよ」
「おかしな物?なんじゃそれは」
「首かもしれないよ、だれかが首を流したのかも」
「首?なんじゃと~」
 キタはキビに先立って渓流への道を下っていく。キビもすぐ後から付いて行った。
「あれだよ、おまえさん」
河岸に出て指差された先は仕掛け直した網の岸でありキビが引き上げた籠が見える。
 ふたりは砂利の岸を両手を広げ重心を支え前後左右にと体を傾けながらその籠へと歩み寄った。それでキタは籠を覗いた。そのキタの腰の裏からキビは顔を覗かせる。
 「これに首が入っとったんか。ん?おい」
尋ねるキタにキビは答えた、「まだ見とらん」と。
「なんじゃ、見てもおらんのにどうして首などと言うのか」
「いやだよ、おまえさん。首が入っていそうな気がしたんだよ、立派な箱だし。鎧やら刀やらも流れてきたじゃないかい。今度は首が流れてきたっておかしくはないよ、さ、開けてごらん。私には怖くて開けられないから」
 「んん~」とキタは軽く唸り「河から自分で取ったのか」とキビに訊いた。「そうだよ」というキビに再度促がされキタはその竹で編まれた細工の箱をあらためて見た。
 そのまわりに敷かれている緑と濃緑の布地といい、それら一式が上質な品であるのがひと目でわかった。

☆125

 キタにはそれらの丹誠な様にそこに首などが入っているなどとはとても思えなかった。それでその竹細工の蓋を両手で持ち上げてそこから外した。その中には桃色の布が柔らかく丸みをつけてさらにまた何かを包んでいた。
 ふたりは顔を見合わせた。キビはその桃色の包みを開けてみるようにと、あごを動かして無言のうちにキタへ催促する。外した蓋を横に下ろしてキタはしばらく額を掻いていた。 
 そしてその桃色の包みに手を当て中のものが見えるようにとその布をゆっくりと擦らし退けた。キタはその手先に力のようなもの、生命の息吹のようなものを感じてその手を引っ込めた。
 キビが後ろから肩をさらに突付いてくる。促がされキタは再度桃色の布の内へ手を当て包みを開き退けた。その中身を見てふたりは口を開けたまま言葉が出てこず固まってしまった。
 そこに包まれていたのは白い産着を着た赤ん坊だった。頭髪が生えはじめた生まれて間もない頃と見える赤ん坊である。その子は目を閉じたまま動かないでいた。
 「なんてこった、嫗さんよ、こいつぁ動かないのかい」
キタはその唐突さのあまり我を忘れたように半分呆れた顔をした。その指先を眼下の赤ん坊の、そのこめかみに当ててみた。
「あたたかい、まだ生きている」
キビはキタの言葉を聞きながらただひたすらにその子を見つめている。
 キタはその指をそのまま赤ん坊の口元へと下ろした。するとその子はむずがるようにその唇をわずかに震わせた。
「水だ、ばあさん水」
 そう言われたキビは急いで首に巻いていた手ぬぐいをほどいて河の水に浸した。軽く絞りそれを持って赤ん坊へと小走りに寄り子の口へ手ぬぐいの雫を落としてやった。その雫に赤ん坊は口をぱくつかせた。
 キビは子を包む桃色の布に手を入れてまさぐり赤ん坊の手を包みの外へ出るようにさせた。桃色の布から出た白い産着、その白い袖からのぞくその子の淡い小さな手。キビはその手に自分の指を握らせてみた。すると赤ん坊はそのキビの指をしっかりと強く握り返した。
 「凄い力だよ」
そう言ってキタを見たキビの表情は年寄りのそれではなかった。その一瞬キビの両眼に生気がみなぎったのをキタは確かに見た。

☆126

 キタは河の上流に目をやった。
―誰かがこの子を流したか
キビは子の入ったその竹の箱ごと抱き上げてその子の顔を見つめている。
「おまえさん、この子に何かやらないと、さ、早く家に戻るよ」
 キビは河に背を向けてその砂利の岸を子を箱のまま抱いて家へと歩き出した。キタはその後ろ姿を立ったまま見送っている。そしてふたたび上流を見て眼には見えないさらなる奥地を想像した。
 渓流の水音が山あいに響いている。それは立ちあがるように空へと昇り周囲の山々を遥かに望んだ。

 キタは籠を運び入れ草履を脱がずにその縁側に腰掛けている。室内で忙しく立ち動くキビの様子を見ていた。男の子だあ、と子の体を拭くキビが言った。
 竹箱の外側を包んでいた緑の布団と濃緑の布地が床に敷かれその上に子を包んで桃色の包みが置かれている。子は弱っているのか、まったく泣かないでいた。
 キビは使わず大切にしておいた白米を取り出し粥を作りその汁を子に吸わせた。キビのことだ、必ず上手くやるだろう。キタにはその子がどれほど衰弱していようとも死ぬとは思えなかった。キビの女魂が必ずあの子を生かしてしまうだろう。
 キタは困っていた。
―どうしろというのだ、あんな赤ん坊を
もう一度河へ行ってその子を流し直せばいいかななどと馬鹿なことを考えて苦笑した。
 敷かれた緑の布団と布地、その上の桃色の包み、そこにいる産着の子、それらの様子を見てキタは言った。
「桃みたいだな」
「え?何だいおまえさん、何だって?」
「葉の付いたまんまの桃みたいだよそれは、桃だ、桃っ子だ」
 これらの突然の出来事にキビは忙しくして夢中だった。しかしキタはその子が普通の赤ん坊でないことを察知していた。
 その子を包んだその端麗な様だけではない。その桃色の包みの中にはその子に添うようにいくつかの品が託されていた。それは短刀と鏡である。そしてそこには手の平で小さく包めるほどの桃の実を模した光る玉も一緒にされていた。
 それらを見たキタはその子が山の民の王家に属する者であると直感していた。

☆127

 その桃をかたどった光る玉のような物をキタはそれまでに見たことがなかった。水晶なのか、ずいぶんと珍しい物だ、とキタは思った。一緒にされていた短刀と鏡も上質な物であった。そしてそれぞれには桃の実をかたどったらしい紋章が刻まれていた。
 炭焼きの山々に暮らす人々が山の民と呼ぶさらに奥地の人々、その王国は桃の産地であった。そしてその王家の紋章には桃がかたどられていた。ここへ攻め入る際に朝廷の軍勢はその山奥の秘境を桃源郷と呼びからかっていた。しかしそれらのことを炭焼きの人々はまったく知らなかった。キタもそれらのことを知らなかった。
 その日の午後、キタは渓流を河岸に沿って上って行った。子に関係するような若い男女でもがこの辺りをうろついているのではないかと思った。そしてかなり上流まで上ったが結局人には出くわさなかった。
 炭焼きの人々は滅ぼされた山の民の泣き叫ぶ声が山伝いに聞こえてくるようだと怖がっていた。その人気のない上流の場所でキタも同じように感じた。そして足早に家へと引き返した。
 キタはその足で物見の大木、監視の木へ登った。高く昇る異様な黒い煙の柱は消えかかっていた。それとは別に白い煙が何本も立ち昇っていた。そしてその日の夕方からそれらの場所から明るい光が立ち上がり空を照らし続けた。夜にはそこからの煙が空へ続々と舞い上がっていく様子が見える。
 それは山火事である。その日、朝廷の軍勢は桃源郷を焼き討ちにしていた。キタは夜もそれをその高い場所から見ていた。合戦の音、怒号のような轟きが伝わってくるように感じる。炎の明るさに対比する山々の影が浮かび上がるその夜の闇。

☆128

 「桃っ子はどうした」 家に帰ったキタはキビに訊いた。
「寝てるよ。あの子は元気な男の子だ、すぐに良くなる」 応えるキビはすまし顔だった。
 食事の用意をするキビ。奥の部屋に拾われた子を包んだ桃色の包みが見える。
「どうしたものかの、しばらくはここへ置いてもいいが、親か誰かが捜しに来るかもしれん」
「山の民の子なんだろうね、あの子は。でも戦争で滅ぼされたのかい、おまえさん」
キタは今も燃え続けているらしい山奥の光のことをキビには黙っていた。
「知らん…、ワシにはわからん」
 キタは立ち上がり奥の部屋に入った。包みの傍にしゃがんで見ればその子は眠っている。動かない子の鼻先に指をかざすと寝息がした。そのキタの背に「桃っ子には明日、湯に入れてあげようかね」とキビが言った。
 その夜、キビは子を乗せた籠を拾い上げるまでの様子をキタに話して聞かせた。
「おまえさん、それで見てるとな、河上から流れてきたんだよ。どんぶらこ、どんぶらこって」
そのキビの言葉にキタは止まった。
「何だって?今なんて言った」
「何がだい?だから河上から流れてきたんだよ、その桃っ子を入れた籠がさ」
「いや、それがだからどうやって流れてきたんだ。さっき言っただろ、何て言った」
「ん?どうやってって?だからおまえさん、河上からな、どんぶらこ、どんぶらこってさ」
「どんぶらこ?どんぶらこ」
 キタはその独特の言い回しに聞き覚えがあった。その響きに不思議な気持ちにさせられたのである。その感覚を体がいまだに記憶していた。それで思い返していた。どこかで聞いたことがある。どこだったか。「どんぶらこ」と口に小さく出してみた。それでも思い出せないままに床に就いた。
 キビは桃っ子に入れ込んで以前よりも活き活きとしているのが明らかだった。集落からも離れて毎日見るのが俺の面ばかりたあ、飽き飽きだろ、でもこの先、桃っ子をどうするか。キタは天上を見つめ考えながら目を閉じた。「どんぶらこ…」
 しばらくしてキタは目を開けた。思い出したのである。そして体を起こした。
「どんぶらこ、どんぶらこ」
何年も前のことである。まだキビと出会う前。ツジにいた乞食。その乞食が確かに言った。どんぶらこ、と。あの不思議な乞食。その立ち姿がキタの脳裏に鮮烈に思い出された。
「あの乞食だ…どんぶらこ、と言っていた」

☆129

 次の日、まだ夜の明けきらない頃にキタは再度物見の大木に登った。風はまだ冷たい。東の空が薄明るくなりかけている。山の民のものと思われる火の手はまだ上がっていた。
 渓流の流れはいつもより濁っているように思われた。滅ぼされた人々の念が流れにのってその山あいに木霊しているようでもあった。
 仕掛け直した網に燃え跡のある木々が掛かりはじめていた。野のものもあれば加工された柱の一部らしいものなどもある。キタはそれらを岸に上げた。並び乾かせば薪の替わりになる。
 キタは昨夜思い出したツジの乞食のことも考えた。あのツジから今日まで何年経ったであろうか。気が付けば山と河に囲まれたこのような場所に自分はいる。
―どんぶらこ、どんぶらこ、自分も桃っ子と同じだ
桃っ子と同じように自分も流れてきたのだとキタは感じていた。
 キタは網からすくおうとしたそれらの中に手首で切れた手と鞘がまぎれているのを見つけた。手は水を吸って膨らみ青白く変容している。キタはそれに触れないように竿で弾き出し網を渡らせた。手はさらに下流へと流れていった。
―やはり上流で戦があったのだ
キタはあらためて上流に目をやった。
―桃っ子に関係する誰かがやってくるかもしれない

 キビは朝から桃っ子の世話を焼くことに掛かりきりであった。そしてその日、キビは桃っ子が家にやって来たことを祝おうと考えていた。そして普段よりも手の込んだ料理を用意していた。ゴマ、小豆、きな粉、山菜などを使って調理を尽くしたキビ団子で、赤ん坊の桃っ子にも食べれるようにした物も別にまた用意してあった。昼を過ぎる頃、それらを作り終えてあとは盛り付けしようとしていた。
 キタは河にいた。そして上流から馬に乗った兵士たちがやって来たのに驚いていた。

☆130

 兵馬は五騎であった。河岸の砂利の上をゆっくりと下って来る、周囲を見渡しながら。兵士たちはすでにその上流からキタを黙視していたらしかった。彼らのその歩速の鈍さが逃げても無駄だと言っている。
 キタも逃げずにそこにいた。走れば追われると理解していた。彼等兵士はまだ戦況の渦中にいる、その興奮の余韻で下手をすると斬られるかもしれないことをキタは怖れていた。
 兵士たちは近付いて来る。その砂利に進むひずめの音。キタは家に残していた桃っ子のことを思い出した。不安がちらつく。そして騎兵はキタの周囲を近く遠くと取り囲んだ。
 その馬も兵士も煙の匂いを漂わせていた。今も燃え続けているのであろうあの山奥の場所から来たらしいことは濃厚だった。兵は馬を降りずに周囲を見回している。そのうちのひとりがキタに言った。
「ここの者か」
キタは無言でうなずく。
「どこに住んでいる」
キタの家はその岸辺の真横に位置する場所にあった。しかしキタは無言のまま下流の方角を指さした。さらに別の兵が訊いてきた。
「あの先に見える岩肌らしき場所は渓谷か何かか」
キタはうなずいた。その兵は他の兵に言った。
「どうする、もし河に乗って逃げたとしても、これ以上の先に下っているとは思えんがな、ここまででも相当な距離だ。もっと上流の場所で河から山に入ったのではないか、我らが通り過ぎておるのかも、だとすればこの人数では追い切れん」 「いや、もう少し下ろう。煙が上がっていたのはこの先だ。おい翁、この先に何か集落でもあるのであろう」
うなずくキタに兵士は言った。「言え、何がある」
「焼き場です、炭の焼き場が、炭焼きの集落がありますだ」
「おまえもそこの人間か」
キタはうつろにうなずいて見せた。
「山道はないか、この近くに」
「なかったと思われます。馬の通る道なら向こう岸にはあったような、なかったような」
「向こう岸か、ならばこの岸辺を下って行くしかないか」
キタは頭を下げて目を伏せた。
「誰かこの辺りで見かけなかったか、男でも女でも、翁よ」
キタは首を横に振った。
 騎兵たちはその河岸をまた下りはじめた。しかしそのうちの一騎は動かずにそこにいた、最初から一言も発さず。キタはその馬上からの視線を感じながらも顔をそちらへは向けずに下流を見ていた。先に行った兵士が下りながらこちらを振り返っている。動かずの兵はそこから応えて言った、先に行け後から行く、と。
 キタはその視界の端にいる岸を動かない騎兵の影に体が硬直した。その気配と音。兵士は馬から降りたらしかった。渓流の音が響く。

☆131

 その兵士がこちらへ歩いて来るのがわかった。その砂利の音。それが近付いて来る。キタは固まったまま先に下って行った騎兵たちの遠ざかっていく後ろ姿を見ているしかできなかった。
 兵士たちは確かに誰かを捜索している。キタの頭には家であやすキビの姿、あやされる桃っ子の様子が閃光のように思い出された。そしてその兵士はキタのすぐ側まで来て止まった。
 キタはその横に大きな兵士の存在を感じていた。そして「斬られる」と思ったが足が動かなかった。その兵士の側からは戦場の臭いなのか、燃焼した炎の煙のような臭いがした。渓流の日常とはまったく別物の、その兵士からの異質感にキタは体がすくんでいた。
 キタは自分の首をその右手、兵士の立っているその顔の方へゆっくりと振り返るために動かした。その時がちょうど、兵士もキタの顔へと、キタの前を見たままの視界に自分の顔を入らせようと、その顔を近付け寄せようとしていた時だった。
 横を向こうとする途中のキタの顔の前に、その兵士の顔が突然に割って入ってきた、そのキタの視界に現れた兵士の面構え。「ぎょっ」としてキタは新たにそこで固まった。
 キタの面前にその顔を割り入れた兵士もキタの固まったのに合わせてその腰の折り途中でそのままに、その角度で自らを止まらせた。そしてお互いしばらくその顔を見合った。川面の水音が激しくしぶいた。
 「あなた、ツジにいてらした」
兵士のその突然の問い掛けにキタの体はすぐには反応しなかった。が、頭では昨夜に思い返していたツジにいたあの不思議な乞食、その乞食の歯の揃った微笑みが即座に浮かんだ。
 「は、は、はい、おりましたが、お、おりましたが」
「そうでしょう、そうでしょう」
「でも、で、でも昔のことです、だいぶ昔のことで、むかし…」
「そうでしょう、昔です、むかし」
 ふたりはそこで改めて立ち直して向き合った。渓流の響き、その静寂。そこでキタはその兵士の顔を凝視してさらに目を見開いた。
 その大きな兵士、彼の眉間には大きなホクロがあった。そしてその兵士はその背に長い弓をも背負っていた。

☆132

 キビは家でその団子を数枚の器へと盛り付けていた。この山の界隈でそのような調理と行き届いた整えを施すことのできる女はいない。炭焼きの集落の女たちは皆キビより劣っており粗雑だった。そしていくつかの集落にキビ団子の味を知りそれを待つ客が何人もいた。
 キビは時々に桃っ子を包んだその桃色の包みの様子を見に行った。そして「もうすぐできあがるからな~、お祝いだ~」などと声を掛けた、笑顔で足取りも軽く。
 桃っ子は眠り続けていたがたまに目を覚ました。そして周囲の様子を窺うような素振りを見せた。キビはそれを見つけるとすぐに飛んで行った。そしてその桃っ子の様子をさらなる笑顔で見届けながら「おぉ~見えた見えた、何が見えた~、ん?」などと話し掛けて止まなかった。
 子を産み育てたことのないキビにとってこれほど嬉しいと感じたことはなかった。キビの世話の焼き好きは一夜明けて今では桃っ子に注がれていた。キビの喜びようは、子のこれまでとこれからを考える隙がないほどだった。
 キビが祝いの皿を用意し終えてからしばらくしてキタが河から帰ってきた。
「お帰り、おまえさん。いい匂いだろ、キビ団子つくったよ。あの子のお祝いにさ」
入り口に入ったキタにそう言い迎えたキビはキタの後ろの人影に驚き立ち止まった。
「だ、誰を連れて来たんだい、おまえさん」
 キタに促がされその後ろの人影は敷居をまたいで入ってきた。鎧姿の大きな兵士、その突然にキビは言葉が続かない。
「失礼、驚かせて申し訳ない」と男は言った。男の眉間の大きなホクロと背の長い弓のそれぞれをキビは見た。しかしその男との昔の出来事は思い出さないでいた。
 キタは男に部屋へ上がるようにすすめたが男は辞退した。そして「いい匂いだ」と鼻を嗅ぎつかせキビに向かって微笑んだ。その人を包み込むような笑顔にキビも自然と笑顔を返していたがそこで思い出しはじめていた。
―この兵隊さんとはどこかで会ったかな

☆133

 キビはその兵士の巨体に染み込んでいた戦場からの異臭に「くさい」とこぼして顔をゆがめ、ふらり後ずさりした。キビの様子を見て兵士も驚き、自分の胸元を嗅ぎながら「失礼失礼」と入ってきた戸へキビを見たまま後ずさりして外へと出ていった。
 「こらっ!無礼な!」 そう叱って立ったキタはその手に桃っ子を包みごと抱いて土間へと降りていく。
「おまえさん!何するんだい!モモッ!」
「やかましい!黙っとけ、この海女が!」
そのキタの形相のあまりの激しさにキビは黙った。しかし桃っ子を抱いたまま出て行こうとするキタへ言わずにはいられなかった。「おまえさん、やめとくれぇ~。どぉする気だい桃っ子ぉ~!」
 近付いてこようとするキビを無視してキタは兵士に続いて戸の外へ出た。そして外の陽に照らされて待っていたその男に包んだままのその子を掲げて見せた。
「この子です」
 そのキタの言葉に鎧の男は子に顔を近付けた。屋内からキビがそれを見ている。

☆134

 キタはその兵士が桃っ子を抱けるようにその包みを預けようとした。しかし兵士はそれを拒んで言った。
「いや、私はさわらないほうが良いでしょう。触れればこの子がけがれる」
 その後、二言三言、キタと兵士は言葉を交わしていた。そしてキタはその薄暗い土間からこちらを立ち見していたキビに言った。桃っ子を乗せていた籠、さらにその中で深く蓋されて桃っ子を包み守っていた竹細工の箱、そして桃っ子に添えられていた短刀、鏡、桃の実を模したらしい光る石、それらをここへ持って来るようにと。
 キビはそれらを言われるままに三度往復して外にいるキタと兵士のもとへと運んだ。その届ける度にキビはその兵士の横顔を盗み見ていた。そしてすべてを届け終えてまたその土間から兵士の立ち姿を認めたときに遂に思い出した。
 昔、自分が海沿いの集落に暮らしていた頃。その近くで定期的に立つ市場があった。そこで自分は団子を売っていた。ある時、その街道の市場沿いに武具を持った騎兵たちが現れて作った団子を買い尽くした。
 その日は自分がはじめて店に立った日であり、はじめて団子が午前中に売り切れた日であった。自分の作った団子を、キビ団子、とはじめて呼んだ日であった。
 キビは思い出した。その金の払い主、その人が今この家の外に立つ弓を持ったあの長身の兵士だということを。


■ 鐘の鳴る 089~113

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☆089

その宿場で僧と犯罪者たち、馬に乞食を乗せた噂の一団が通過し、

それを見送ったキタである。

彼もその一団の後を追うようにその街道を上っていった。

中庭に湧き水のあるあのツジの屋敷から持ってきた反物、

その残りの物はすべて金に換えていた。

持っていた釜や器もすべて食料と交換して今は無い。

道端で自炊などもうやらない。

背に袋ひとつ、どこかの都からの普通の旅人と化していた、今のキタ。

その容貌からは彼が飢饉の都市をさまよっていたなどとは

誰も想像できないほどの短期間での変身ぶりだった。

出来るだけ身を軽くして、懐は暖かく。

それが今のキタである。

途中、街道を外れ山道を進んだ。

これを越えると海がありその海岸沿いの道を行く。

そこはキタがその幼少を過ごした場所である。

キタはその地形のすべてに見覚えがあった。

潮の香、遂に自分は故郷へと帰ってきた。

彼は漁村に生まれ育った長男である。

そして親を恨み、その地を離れた。

それから流れた幾年月と放浪。

そのキタは歩きながらも夢想していた。

父、母は今はもう働くのをやめているかな、

代わりに弟たちのうちの誰かが海に出ている。

弟たちには子供ができていて暮らしが大変かもしれない、

妹たちはどこかへ嫁いで家にはいないだろうな、

あとで嫁ぎ先へ会いに出かけてやってもいいだろう、などと。

陽に映える木々と山々を右手に、そして海を左手に、

キタはその何年ぶりもの帰郷にひとり高揚していた。

初秋の海の柔な光、その透明な空気、波の音。

自分の足音が楽しい

☆090

しかし彼の育った漁村、それはさら地になっていた。

何軒も汚いボロ小屋が寄り添うように暮らしていたはずだった。

奥は小高い山、そしてその木々がキタを見つめている。

―おまえは帰ってくるのが遅すぎた、と。

「嘘何で」

キタは身が凍った。

その緑に囲まれたこの浜に自分の家は確かにあった。

何家族もがここで暮らしていた、それぞれの家で。

それなのに今、そこには誰もいない何もなくなっている。

キタはその海を背にしばらく立ったままで放心していた。

秋にその色を変えていこうとする山の木々、そしてその空、

それらの美しすぎる様がこの現実のむごさをさらに浮き立たせた。

確かにここに自分の家があったはずである、しかし何も無い。

何で

☆091

立ち尽くすキタの後ろを午後の仕事を終えて家路へと向かう海女たちが通った。

女たちは見慣れないキタの背に会話をやめて通り過ぎていったが

その中のひとりがその列を離れて立ち止まりキタを見ていた。

そしてそのひとりの海女がキタのそばへと歩き寄って来て言った。

「おまえさん、何しとるのかえ」

キタはその背後の気配と言葉に振り向きもせずに逆に尋ねた。

「ここに何軒かも家があったろうがな、皆どこへ行ってしもうたが」

それにその海女は答えた、

「おまえさん、そいつはいつの話だえ、そんな前のこと誰も知らんがの」

「いやここにわらすの家があったんだすけ、お父もお母もおったんだがの

弟や妹たちもおったんだがな、誰もいなくなってすまっての」

「何だおまえさん、ここの生まれなのけ」

「だす」

「おまえさん、何も知らんのけ」

ここでキタは女に振り向いて言った、

「何がだす」

「もう何年か前だすけ、この場所は襲われてさ、みな連れてがれたのさ」

「連れてがれたて?誰にさ」

「士にさ、士がここへ来て皆連れて行ったんぞ、誰も戻らね、それからせ」

「士がと?」

その頃、新しい商売としては人身が売買されるようになっていた。

そのための巨大な市場が形成されはじめており莫大な金が動いた。

その利益を求める者たちは組織的に人をさらうようになっていた。

小さな村落、離れの家々などは必ず集中して人がさらわれていた。

最も高く売れるのが子供であり、そのうち女子にはさらに高値が付いた。

それら人さらいの者同志の間でも激しい攻防があり、そのうちの一部、

それらがまず武装するようになり人さらいを組織的に進めた。

彼らはさらに騎馬の軍団を形成し各地の村落を襲うようになっていく。

その彼らが自らのことを「士(し)」と名乗っていた。

これが後に武士と呼ばれさらに侍のはじまりとなっていく。

この士の言動は横暴として朝廷にも伝わり問題視されはじめていた。

その海女が言うにはキタの故郷であるその海辺の村落、

そこを士が襲い皆さらわれていったというのであった

☆092

キタはそのさら地の隅に腰掛けて黙っていた。

自分が取り返しのつかない過ちを犯してしまったことに気付いて。

―生き別れたか…

家族とは二度と会わない、それは以前の自分が望んだことであった。

―それが今日、叶ったわけだ…

自分がそこにいたとしても家族を救うことはできなかったか、

母親ひとりくらいは助けることができたのではないか、

皆どこに連れられていったのだろう、

売り物にされてしまうとは…。

「おまえさん、この辺りでは見ね顔だ」

気が付けばキタに事を教えたあの海女がすぐそばに立っていた。

キタは答える力が入らなかった、それで女を無視していた。

女は首を傾げてキタの表情を真顔で覗いている。

秋の海に陽は傾き、その輝きが浜を照らしだした。

その暮れ行く波音を聞きながらキタはそのまま座り込んでいる。

いつのまにか女はいなくなっていた。

だいぶ前に入れた腕の小さな刺青のひとつに涙が落ちた。

背後の小高い山の木々が風に揺れてひどく大きな音がした

☆093

「おまえさん、」

その声にキタが見ればさっきの海女が着替えて立っていた。

「これ食べなね」

そうして女は小さな包みを手からキタの懐に入れ渡してやった。

感触で何がしかの食べ物らしいものが入っているのがわかる。

「野宿かえ?」

女の質問にキタは黙っていた。

この陽気の中、海辺での一夜などキタには慣れたものだった。

「この先に海女が使う小屋があるから使えばいいさ、

そこならすぐに火も起こせるでね。それと向こう側にさ、

士に襲われて空き家になったままの家があるんだよ、

ま、中がどんなになってるかは知らんけどね、

わらすには怖くってそばには寄れなんだ、夜なんか怖くって。」

海辺の夕暮れの輝き、それが最大になり沖の波は高く荒れた。

その見覚えのある風景はキタに幼少の頃を思い出させていた。

黙ったままその日暮れを見つめているとキタは自分の体から

ますます力が抜けていくのを感じる、その無念さ。

横向けば女が来た道を戻っていく後姿が小さく見えた。

薄暗くなっていくその中でキタはそのまま夜を迎えた。

夜の海、波の影が夜空に交錯する。

その先に見えるいくつかの星。

倒れ見た澄み渡る秋の夜空がひとつの終わりを実感させる

☆094

「おまえさん、おまえさん、」

その声でキタは目を覚ましたが辺りはまだ薄暗い。

それは昨日の海女だった。

「これ食べれね、朝の飯だす」

寝ていた腹に急に渡されたのは蒸された包みで熱くてたまらない、

「あちち」とすかさず目が覚めたキタは上半身を起き上がらせた。

「あはははは、ここで寝とったんかい、おまえさん、」

キタが急に目覚めた様子にその女は笑って言いキタのそばを廻った。

「おまえさん、こんな所で野宿かえ?あはははは、あはははは」

笑う女に目覚めたばかりのキタは「何なんだ」といきなり目がさえた。

そのキタに女は言った。

「昨日の包みを返してくれんかの、もう食べたんだろが」

―昨日の包み?

目覚めたばかりのキタにはそれが何を言うのかわからなかった。

昨日、女にもらったその食べ物の包みをキタは開けないで眠った。

女は真顔になってキタをにらみつけた、そして言った。

「何で食べんのがわれ」

☆095

一夜明けたその朝キタは女の言っていた山向こうの家へ向かった。

士に襲われて今はその家人がいないという空き家である。

周辺の地形はすべて子供の頃の記憶と一致した。

その途中に墓場がある。

誰が埋め建てたのかはわからない墓石群が今も朽ちてそこにあった。

道の両脇は小高い木々に囲まれており女子供には

確かに通りづらいと思えるその道。

夜となればなおのこと、でもそれが人嫌いなキタには心地良い。

子供の頃は自分もこの道は怖くて通れなかった。

そこを抜けた先に女の言った空き家はあった。

キタにはそれに見覚えがない。

キタはその家が自分が家族を捨てた後に建てられたものだと思った。

家は離れに小屋を持った頑丈な造りをしている。

人の気配はまったくしない。

家の前庭は畑だったらしい痕跡が残っているが雑草で荒れていた。

誰がわざわざこんな所にこんな立派に建てたのかとキタは感じた。

小屋を開けて覗いてみると農機具などがそのままにされている。

―ここの人は漁はしなかったんだろうかな、

それらはすぐにでも誰かが取りに来そうな様子で残されていた。

家屋のほうも汚れてはいたが荒らされてはいない。

部屋数は少ないがそこで確かに生活が営まれていた気配がある。

その一室にその家族の膳がそのままで残されていた。

それを見つめていたキタは涙が出た。

この家屋を家人の帰りを待ちながら整えて管理しながら

ここで冬越えしようかと思った。

帰って来るわけはないと知りながらもそう思った

☆096

その朝もだいぶ時間が経ちキタはその腹を減らしてきていた。

それであの海女にもらったふたつの包み、

そのうちの昨日に受け取ったものを取り出した。

これがあの女が返せと言った包みかとキタは手に取る。

濃紺のそれは良い生地でそこに数色の花々が刺繍されていた。

ああ、あの女がこれを縫い付けたのかなとキタは思った。

それで大切にしている一枚なのだな、と。

包みの中には笹に包まれた団子がいくつか並んで入っている。

そのひとつを手にとって鼻先に近づけてみれば団子はかすかに

醤油の香り、それが軽くあぶられてそのこげが香ばしい。

毒が盛られているとは思えない、口に入れた、うまい!

昨日の団子は冷えているのに固くなってもいるのに、うまい!

団子の中には焼き味噌のようなものが入っていたがそれがまた。

うまい!

その香ばしさが鼻にぬけて味わいは喉を通っていく。

キタは残りの団子を次々と食べ尽くしてひとり口に出して言った。

「うまい…」

☆097

キタは来た道を海岸へと戻りその周辺を散策した。

あの女の家も含まれるのだろう集落も見た。

以前そこには今ほどの数の家はなかった。

あの女も自分がここを出た後にここへ来たのだろう。

時の流れを感じる。

海岸線に続く風景は昔のままだった。

キタはその海岸線を歩いていった。

懐かしい風景、その潮風に吹かれながら。

午後になりキタは今朝、女からもらった包みをほどいた。

包みは緑色で花のような赤い模様が刺繍されていた。

また団子だった。

今度はその表面に白いゴマがまぶしてある。

ひとつ手に取り食べてみると、これがまたうまい。

今朝もらったそれはまだ柔らかかった。

団子の中には甘く煮た小豆が入っている。

キタは海を眺めながらその団子のうまさに心地良かった。

かなしみを忘れる。

「あ~あ」と。

舌も腹も満足させてそこに横になった。

両腕を組んで頭の後ろにまわして見れば秋空の光がまぶしい。

その空をトンボが渡っていくのを目を細めて見ているうちに

眠くなり、いつしかイビキをかいて寝ていた

☆098

「おまえさん、おまえさん」

その声に目を覚ますともう夕方だった。

あっと思いキタは体を起こすとあの女が立っていた。

「こんな所でなに寝てるんだい?」

女の問いにもキタはしばらく寝ぼけていた。

「今日はさ、もっと向こうで漁してたんだ。

帰りの舟で誰かがあそこで寝てるなってさ、沖から。

おまえさんかなと思って来てみたら、

やっぱりおまえさんだったね。」

キタはしばらく暮れ行く海を見ている。

キタは女に濃紺と緑のあの二枚の包みの布を返した。

受け取った女は

「どうだったい?口にあったかい?」と言う。

女のその問いにキタは平調に言った。

「うん、うまかった、いくらだ」

そのキタに女はあきれて言った。

「やだよ、金なんか」

そうしてふたりは海岸の歩いて来た道を戻って行く

☆099

夕暮れていく海を右手にキタは歩いた。

女もそれに少し遅れてその左を歩いていく。

黙っているキタに女は訊いた。

「おまえさん、なんて名だい?」

「ん?オレか?」

しばらくの沈黙に波音が響く。

「キタ」

「ん?何だえ?き?」

「キタだ、キタ」

「キタ、キタか、おまえさんキタか。キタ」

女はそのあと何も言わなかった。

キタは何で自分の名前を教えてしまったかと自問した。

それはあの団子のせいだ。

あの団子があんまりうまかったのでつい口を割ってしまった。

波音が響く。

キタは女にその名を訊こうと左後ろを見たが女はいなかった。

―ん?

振り返るとだいぶ後ろの方で女が波打ち際で何やらしている。

キタはその様子を見ていた。

流れ着いた何かを拾い集め選り分けているらしい。

しばらくして女は両手に何かをつかんで小走りでやってきた。

キタは女が走り寄って来るその様子をそのまま見ていた。

女は肩で息をしながらキタに言った。

「おまえさん、この海藻だよ、これを煮るとうまいんだ、

ちょうど打ち寄せられてた、これ料理してあとで

おまえさんにも食べさせてあげっからな」

キタは何も言わない、そしてまた歩きはじめた。

女もそのあとを海藻を両手に歩いていく。

会話はなくとも波音は続く。

秋の海の夕暮れ、どこまでも続いていく海岸線。

ふたりの後ろ姿もその中に小さく照らされている

☆100

ふたりはそのまま海岸を歩いていった。

キタはその浜砂を踏む足音が懐かしかった。

小さかった頃、この浜を駆け巡った。

時は流れて今自分は名も知らぬひとりの女とこの浜を歩いている。

あの頃の仲間は今どうしているのか、

この近くにいるのだろう、でも会ってどうなるという。

迫った夕暮れに言葉は出ない、いらない。

その右頬に暮れ行く潮の光が眩しいほどに響いている。

もう自分はあの頃には戻れないのだ、と。

キタは実感していた、そして、なんという愚か者の自分かと。

キタの後ろで女は拾い持った海藻を落とさないようにと、

そしてキタの足並みに遅れないようにと、

時々沖の波間を見つめてその輝きに見とれながらも

キタの早足な、その後ろ姿に小走りについて行っていた。

女はキタが午前中に見たあの集落の一軒にやはり住んでいた。

別れ際、女はキタに「待っていろ」と言う。

女は駆け足でその集落の一軒へと入りしばらくして出てきた。

走ってきた女はキタに新しい包みを渡した。

「今夜それ食べれな」

キタは黙ったまま受け取った、その新しい包みを。

「おまえさん、どこで寝るんだい?」と言う女に

キタは自分があの墓場の道の先の一軒家で寝ることを、

そしてそこで今年越冬するかもしれないことを伝えた。

女はそれを聞いて何か喜んでいるように見えた。

ここでキタは自分がまた口を滑らせたことを悔いたが

それならばと、女にその名を訊いてみた。

女は応えてキタに言った。

その女の名をキビという

☆101

キタはその女とそこで別れた。

キタはあの空家へと向かうためにそのまま海岸を歩く。

女はキタの背を見ていた、海の夕陽とかわるがわるに。

そうして自分の家へと入って行った。

キタは渡された包みに何が入っているのか気になった。

そしてこの夕陽を見ながら食べてしまおうと、

途中の浜に腰掛けて包みを開いた。

灰色の包みにはやはり何か花の白い刺繍が施されていた。

―刺繍が好きなんだな、あの女は

中はまた団子だった。

ひとつひとつそれぞれが焼き海苔にくるまれている。

食べてみればその中には擦りつぶした梅の中に

さらに刻んだシソが添えられているらしかった。

―うまいな、また

冷えてはいてもその団子はうまかった。

―あれは料理の上手な女なんだ、きっと

キタは海に沈んだ夕陽を全身に浴び全部を食べた。

その残光に失われた自分の家族を重ね見ていた。

近頃は金も持ち腹をすかせることもなくなった。

家族にもっと何かできただろうにとも思った。

自分が以前とは違い優しくなれるような気もした。

それにしてもこの悲惨な現状はなんなんだろう、と。

そう思うと戻らぬ月日を無視していられず体を揺すった。

「キビか…あの女の名…」

キタは呟いていた。

秋の海の風に

☆102

そしてキタは墓場の道を越えた所にある

あの空家に住むようになった。

誰もそれを責めたりはしない、

そんな場所だった。

日が昇り明るくなるとキビは走るようにしてやって来た。

いつも必ずその日の朝の飯、そしてその日の夕の飯と

それを包んで置いていった。

おまえさん、おまえさんとキビは言う。

名前を教えたのだからその名で呼べば良いのにと

キタは思った。

次第にいろいろとわかってきた。

自分がここを捨てた頃、キビの家族が越してきた、

ここにキビの親の親族がいたために移住した。

そしてここからキビは嫁いだがその亭主が悪かった。

毎日殴られてその左目が見えなくなりそうだった。

その暴行に子供の産めない体になった。

亭主はある夜酒場で暴れて殺された。

それで独り身になりこの浜へ戻ってきた。

嫁ぐという売りに出した父親もその子に情はある。

ずいぶん苦労したのだなと、キビの父は思った。

それでその家に置いた。

その家がその浜のあの集落の一軒である。

キビは一度は嫁いだがその片眼を失うほどに

殴られて旦那は死んで再度帰ってきた女として

その集落と周辺に知られた海女であった

☆103

キタはその家の前庭の雑草を刈って小さな畑を耕した。

なるものであればなんでもいい、腹の足しにはなる。

海に出て漁をしてもよかった。

しかし舟が無い。

ある日、キタはキビに訊いた。

なんで自分の家のあった集落がさら地になったのかと。

廃屋のまま残されていてもいいはずだとキタは思った。

キビはそれに答えて言った。

キタの集落とキビの集落は争っていた、漁場のことで。

キビの集落のある者が近くの酒場で偶然に士たちの会話を耳にし

それで士の来ることをキビの集落は早くに知ったが

キタの集落には知らせなかった。

それでキタの集落だけが連れ去られていった。

キビの集落はキタの集落に残されたものを略奪し

その後それぞれの家に火を放ったのだという。

海につなぎ残された舟もキビの集落の物となった。

「いやだねぇ、人なんてもんはさ、ね、おまえさん」

キビは忙しく辺りを拭きながらキタに言う。

キタは黙ったまま造った庭を見つめていたが、

キビはいつの間にかこの家に居ついているのだった。

土間の続きの台所で忙しく蒸かし物を作っている、

午後になれば縁側に座って縫い事をし、

暗くなる前にひと通りを済ませて帰っていく。

漁で取れた魚もこの家でさばき干すようになっていった。

とにかくよく働く、そしてこの家に居ついていった。

キタは黙ってそんなキビを放っておいた。

―好きにすればいい、女が

ただ自分の服すべてを洗濯され干された日には腹がたった。

行水後の丸裸のままで縁側で怒っていたがキビはそれを気にしない。

昔入れた背中の刺青を見て「なんだい、これは」などと

茶化したように訊いてきたりする。

その脳天気には言い返す気も失せたキタだった。

秋風にくしゃみをこいてキビに馬鹿に笑われていた

☆104

キビはとにかく料理の上手な女だった。

見てみればそれは蒸かしたジャガイモだった。

食べてみればその中に焼き団子が仕込んである。

その香ばしい団子の中にさらにウズラの卵が入っていた。

―うまい、それにしてもよくこんな風に思いつくものだな

キタは感嘆しキビの用意する食事が毎日の楽しみだった。

―今日は何を持ってきてくれるのかな

ある日キタはキビにいくらかの金を渡した。

ただで食べ続けるわけにはいかないと、キビに説明して。

そうこうしているうちにキタはこの先を案じた。

―どうするかな、金もいつかは底をつく

その週末は、市の立つ週だ、とキビが言った。

この近くの街道に漁家や農家がその収穫を並べ売る。

わざわざ遠方から飴や菓子を売りに来る者もいた。

薬屋も来てここで店をひろげた。

キタはその市へ出かけた。

子供の頃、こんな市場の記憶はない。

―ずいぶん人が集まるようになったんだな、この辺も

街道の両側は物売りの賑わいに人だかりがしている。

遠く、買い付けに来ていたらしいキビの姿が見えた。

キタはその姿を見ていたがキビは売り子にさかんに

値切っているらしく忙しく指を立てて交渉していた。

そうして目的の物を買い付け次の売り場へと足早に

人の並びをくぐって行くその姿。

キタは自然と微笑んでいた

☆105

秋が深まりを増しつつある。

ある時、キビが起こした炭で団子をあぶっていた。

醤油の香ばしい匂いが立ちこめる。

それを見にキタは台所へといった。

うちわを片手にキビが団子に醤油を塗っている。

その香りと手際の良さにキタは感心し、ばらすようによく見ていた。

しばらくしてキビは焼き上がった団子をひとつ取り

これもまた自分で作った焼き海苔にくるんで

キタに手渡した、「おまえさん、さ、食べれ」と。

焼き上がった団子のその香り、食べればうますぎる。

「ん~」

キタは団子を口にして小さく唸った。

「どうだい、おまえさん、うまいかい」

キビは焼いた団子のそれぞれに海苔を巻いていく。

そのひとつを自分も頬ばって「うん、うまいね」と

確認するようにして言い切った。

キタは考えていた。

―この団子、売り物になる

そしてその日、キビに話をしてみた。

今度の市場にこの団子を売りに出そうと、 

あそこでこれを出せば十分な儲けになる、と。

キビは「恥ずかしいや」と嫌がった。

それなら作るだけ作ってくれ、と

焼いて売るのは自分でやるから、と。

人嫌いでもキタはそう言ってキビに団子を用意させた。

そして焼き方の加減を教えてもらい

市の立つ日に備え炭から何まで自分用にすべてを用意した。

そして市の日にその団子を焼いて意を決して売りに出したが

これが正午を過ぎすぐに売れはじめ夢中から気付くと売り尽くしてしまっていた。

次の日も、その次の日も、その次の日もである。

キタはそれで金の心配がなくなり冬支度ができた。

市の団子は評判となりそうな売り切れ続きでキビも連日その仕込みに忙しく

海に潜っていたときよりも現金が潤って喜んでいた。

秋が盛りを過ぎた頃には正午をまわった売り切れは常となっていった頃でもある。

ある人が食べた団子をキタに尋ねた。

これはなんという団子かと。

それに対してキタは黙って考えていたが

しばらくしてぶっきらぼうに答えた。

「キビ団子だ」

☆106

キビ団子とキタが呼んだそれはよく売れた。

後に似た店で団子を売りに出した者があったが

キビ団子にはかなわなかった。

薄く酒を混ぜそれにきな粉をまぶした水あめの団子やらと

キビは次々と人の思いつかないものを調理して整えた。

そしてそのどれもがすこぶるうまかったのである。

市場での買い物に腹をすかせて歩くその買い手は皆、

キタが用意したキビ団子に正午前から群がるようになっていった。

瞬く間に売り切るにはまだだったがキタの売るその団子はその市のひとつとなり、

そこを訪れる者は皆キタとキビが夫婦だと思っていた。

その店の女が男に「おまえさん、おまえさん」と

夫を呼ぶように連呼していたためである。

キビはまるでキタの嫁のように見えて当然だった。

キタもそれをわかっていた。

「なんで亭主呼ばわりされているのか自分は」とも思う。

それでもキタはいつもそれを放っておいた。

そしてキビにはとにかく好きなようにやらせていた。

その前の亭主とのことを思いやったわけではない、

―何を人にどう思われようが構うことはない

キタはそう思っていたが団子は飛ぶように売れ続けていった。

そしてキビは闊達にますます忙しく働くことを謳歌するようになった。

そして何よりますます美しくなっていったのである。

そのキビの様にキタはその自らの命を救われていた

☆107

市で団子を売るようになった最初の頃である。

午前中に売り切れるほどにはまだ知られていない頃。

それまではキタがひとりで焼いて売りに出していたが、

その日の団子の加減は難しいから自分で焼くとキビは言い、

はじめてキタと一緒に市場に売りに立った。

キタにそれまで持たせた自分の団子が残らずに売れたことに

キビは気分を良くしていた。

団子はキビに焼き上げられ味付けされ並び出されていった。

その間キタはその市で厚めの上掛けが売られているのを見た。

―ああ、あれは冬にいいな

しかし持ち合わせではとても金額が足りなかった。

それでキタは家に金を取りに戻って平気かとキビに訊いた。

キビはすでに慣れた様子で団子を売り出しいる。

それでキタはキビに団子売りを任せて一度家へと戻った。

市場と家までは近くはないが歩いて遠すぎずの距離である。

その道の途中、これから市へ行こうとする幼なじみの男と会った。

近所で顔を見て、知り子になっ、と再会した男で立ち話をしたぶん時間を食った。

キタは家に戻り必要な金を揃えて、また市場へと向かった。

まだ昼飯時になる前の時間帯であった。

そうして考えていたよりも遅くにキタは市場へと戻ったが

キビは何やら持ち道具の後片付けをしている。

「どうした」と訊けば団子はすべて売れてしまったのだという。

満足そうな笑みを浮かべてキビはキタに説明した。

馬に乗って兵士らしい数人がこの街道を市場沿いにやって来た。

男たちは皆、武具を持っていたという。

午前中、彼らは団子を買ってそこで食べはじめた。

見慣れない男たちの風体とその馬にキビは半分驚いていた。

そして男たちは皆キビの団子を「うまい」と盛んに頬張っていた。

男のひとりが用意していた団子をすべて買い占めたのだという。

前日の売り上げの二倍近くはある額の金をキビは男に渡されていた。

キビに見せられたその金にキタも感心していた

☆108

その買い占めた男はキビに訊いた。

「この団子は何という団子ですか」

キビはそれになんとなく自然のままに答えていた。

「キビ団子です」

「キビ団子、ふ~ん聞かぬ名だな、うん。

うん、それにしてもうまい団子だ、キビ団子か。

キサラギにもこのようなものはないなぁ、うん。」

そうしてキビに向け大きく笑ってうなずいて見せた。

そのキビの話にキタは一瞬思い出していた。

キサラギのことを。

昔、家族と集落を捨ててキタが最初に向かった所、

それがキサラギだった。

キサラギに着いたキタはその一軒に入り注文をした。

はじめて訪れた帝都の活気にキタは意気揚々としていた。

しかし注文したものはいつになっても運ばれてこない。

自分より後に注文した者たちには運ばれているのに。

キタはどういうことかと店人に詰め寄ったが

店の者はキタをまったく取り扱わなかった。

そして田舎者はよそで食べるようにとキタに示した。

自分が田舎者として馬鹿にされていることを知り

キタは赤面して店を出た。

それはキサラギでの忘れられない出来事として

今もキタのうちに苦々しくも思い出されるのである。

キタがそんな過去の出来事をそこで思い返していたとは

キビは知るわけもない、続けてキタに語って聞かせた。

その買い占めた男はとても体が大きくて背が高かった。

そして大きな黒い馬に乗って南へとこの街道を行ったという。

キタはここで我に戻った。

「その人はこ~んな長い弓を持っていてな」とキビは言った。

それを聞いたキタは「その人はここに」と自分の眉間を指し、

そして「大きなホクロがあっただろう!」と訊いた。

キタはキビの話からすぐに直感した。

―その買い占めた男というのは、ツジのあの弓の人だ、

キサラギから大陸へ渡るために南下して行ったのだ、と。

そしてその通りだった。

その馬の男たちはキサラギから南の港へと向かう途中、

この街道の市場を通過した、大陸へと渡るために。

キビから団子を買い占めた男、それはあのキジだった。

ツジ鎮圧の後、朝廷から渡航の刻印を受け南下していた。

キジはこの時、大陸に何が待つのかを思いもしない。

そしてキタはわずかなところでキジにすれ違ったのだった

☆109

キタは目当てだった厚めの上掛けを買った。

そして荷をまとめたキビと市場の一軒で食事をした。

そのふたりの姿は夫婦に見えた。

知り合いの女を見つけキビは声をかけた。

そして食事を忘れてその女と話し込んでいる。

キタはそれを横目に自分の食事を済ませ荷を持ち立った。

ふたり分の勘定を払い黙ったまま行こうとした。

「悪いね、おまえさん。わらすは市見ていくからさ。」

キタは振り向かずにそこを出た。

「おまえさん、後でおまえさんとこ寄っからね」

キタはキビの声に無反応のまま歩いて行った。

「なんだえキビ、あの男はほんとに愛想が無い人だねぇ」

キビにつかまった女はキタの後姿を見て言った。

「それにしてもあんたたち、できてんだろ?な?ほれ」

「そんなんじゃないよ、やだねぇ、あんた」

キタの背を見ていたキビは静かに笑って目を伏せる。

「いつも一緒でいいね、おキビさん。一緒になればいいが」

応えずに再び食事をはじめたキビに女も話しに戻った。

「それでさ、わらす、あの馬鹿女にね、言ってやったのさ」

どうやら女ふたりの話し合いは限りなく続く気配である。

女たちを置いてキタは秋の市、その街道をくぐって行った。

そうして考えていたのはあの弓の人のことだった。

―あの人はこれから大陸へと渡るのか

あのツジでの弓の人の姿がキタの閉じた目に浮かぶ。

目を開ければ市で賑わう人々、高い空、色づく木々。

普段キタは、あの飢饉の悲惨を思い起こすことはなかった。

目の前の故郷は家族を失ってもいまだそこに存在している。

美しいふるさと。

この日がキビの団子が昼前に売り切れた最初であった。

「キサラギにもないキビ団子か…」

キタはつぶやく。

弓の人がそのように言ったとキタはキビから聞かされた。

後にキタは客に問われてそれをキビ団子と答えた。

それはこの日の出来事による。

運命の意図。

それがキジにキビ団子と呼ばせた

☆112

 その年の冬をキタはその家で越すこととなった。

浜からの小高い山を越えた墓場を通ったところにある空家である。

その家の住人は皆、どこかへと連れ去られていた。

 その冬はキタにとって厳しいものではなかった。

蓄えもあった。舟を借り漁に出、畑も耕す、そして食べ物にも事欠かない。

家の造りは頑丈で雨風、雪にもよく耐えた。

そしてその家にキビは毎日やって来た。

 市場の立つ日にはキタは団子を売りに出した。

寒い日などはあたたかなそれはさらによく売れた。

キビの工夫で煮立てた汁に団子を入れたりもした。

小海老や磯蟹を出汁にしたそれは良い味がしてすぐに売り切れた。

 団子を売る、その仕事を終えるとキビは自分の買い物に市を回った。

市場の一軒で昼食を済ませ午後はキタの家で過ごした。

夕食の準備や家屋の掃除、そして縫い物をしていた。

そして暗くなる前にはキタの夕食の準備を済ませて帰って行った。

 多めに作ったそれは同時に自分の実家の夕食でもあり大半は持ち帰った。

キタが昼寝から目覚めるとキビはすでに帰ったあとだったりした。

 冬の午後、キタは座ったまま疲れてうたた寝するキビを見た。

目を覚ましその縫い仕事を再びはじめたかという頃にまたうたた寝をする。

それを繰り返す様子をキタは黙って見ていた。

キタはその寝顔をかわいいと思ったが放っておいた。

 キタはキビの自由にさせていた。

嫁いだ先での出来事はどんなにか辛かったのだろう。

でもキタはそれにも触れないで放っておいた。

 キビは話し相手の女を家に連れて来ることもよくあった。

キタは放っておいて好きにさせていた。

暗くなって怖いというその女たちの帰り道を送りに出たりもした。

 キビもまたキタのそばにいるとなぜか心が落ち着いた。

嫁ぎ先から戻ったときはどれほど責められたか知れない。

 近隣の者はキビをよく知っていた。

そしてキビを通じてキタの存在を知った。

さらわれた集落で生まれ育った子であることを伝え聞いて

その人々もキタを放っておいた。

☆113

 冬を越え、春を迎え夏となる。

キタはその故郷の四季を見届けた。

そしてある日、刺繍していたキビに唐突に言った。

「この家を出る」と。

 キビは驚いて訊いた。

「おまえさん、家を出るって?そしたらどこへ行くのさ」

「山だ」

「山?」

「海はもう飽きた。おれは山へ行く」

 庭を見たままのキタの横顔を見てキビは考えていた。

「ふぅ~ん、山ねぇ、おまえさん、山は怖いよ?海のほうがいいよ」

「いや、おれは山へ行く」

キビは縫いかけの刺繍を見つめて「山ねぇ~」とささやいた。

 それはキタのふたたびの放浪癖だった。

そしてキタはその日以来、家にある荷をまとめだした。

それを見てキビはどうしたものかと考えていた。

 そして自分もキタに付いて行くことを決めた。

集落の実家からキタの家へと荷をまとめ揃えていった。

そんなキビをキタは放っておいた。

 明日、この浜の地を離れるという日の午後、

キビは揃え終えた自分の荷を背負って実家へと戻って行った。

それにあわせてキタはキビの父親をその集落に訪ねた。

 キビの父親はすでに娘からキタと行くと決めたことを聞いていた。

キタは貯めた金のうちから相応の額をキビの父親に渡した。

それは少ない額ではなく、むしろ猟師が驚くような額だった。

 「娘さんがおれに付いて来ようがかまわないが、

おれは一緒に来てくれなどとはひとっことも言っとらん。

おれに付いて来てキビがどうなろうとおれは知らんぞ」

キタの言葉に父親はただ頭を下げているばかりだった。

 次の朝、キタは戸締りを済ませてその家を出た。

庭へまわり実らせて取らずにおいた野菜をいくつかもいだ。

荷は背にしょった少し大きめの袋ひとつである。

 歩き出して振り返り見れば生活していた家はそこにある。

―結局、あの家の持ち主は戻っては来なかった。

自分もあの家へは戻らないのだろう。

 海岸への途中の道の墓の木立の木々が揺れた。

 海へと抜けたキタは海岸の岩に腰掛けて取った野菜を食べた。

そこはキビの集落の浜へとつながっている。

しばらく見ているとその集落の浜に数人の人影が現れた。

そしてそのうちのひとりが集落を離れこちらへと歩きだした。

 海岸線のその人影は家族と別れてきたキビである。

キビはときどき振り返り集落の人影へと手を振った。

集落の人影も手を振り返しているのが見える。

 キビは先に待つキタの姿を見つけこちらへも手を振った。

キタはそれを見ていた。

荷を背負ったキビは小走りしてキタの待つところへとやって来た。

「おはよう、おまえさん。待たせたかい?」

 息を弾ませた笑顔のキビにキタは集落の浜を指差した。

キビは振り返り再び集落の影に手を振った。

手を振り終えてキビは言った。

「おまえさん、これ少し渡し過ぎだよ、ほら」

そうしていくらかの金をキタに突き出した。

 聞けば昨日キタがキビの父親に渡した金が多過ぎると、

父親から少し返してもらって持ってきたのだという。

ずいぶんとしっかりした女だな、とキタは改めて思った。

持ってきてしまったものだ、仕方がない。

キタはそれをキビに取らせたままにして歩き出した。

キビもその後に付いていった。

 海岸線をしばらく歩き、ふたりは立ち止まり振り返った。

緩やかな浜の曲線の先、キビの集落にその人影が小さく見える。

そこはまたキタの育った集落のあった場所でもあった。

ふたりの故郷でもある。

 キタとキビは黙ったまま潮風に吹かれてそれを見ていた。

そしてまた歩きはじめて再び振り返ることはなかった。

☆110

庭に育てたいくつかの野菜が実っている。

キタはそれを手に取り見やった。

潮騒。

聞こえるはずはない、この家は海岸からは遠い。

途中の墓場の道、そこに立つ木立が風に揺れた。

キタはこれからの冬を想った。

寒く暗く長い海辺の冬。

少年の日。

吹雪く浜辺。

その横吹く風。

遠くが見えない。

次の日、雪は止んだ。

冬の空。

その垂れ込めた灰色。

揺らぐ沖の波。

鳥が流されていった。

キタは見上げた。

それに比べこの陽射しの柔らかなことを。

このあたたかな午後。

潮騒。

大陸へと進む船団。

時は流れる。

何もかもを置きざりにして。

そしてキタは浜へ出た。

ひとり、ゆっくりと。

どこまでも歩いていく。

どこまでも。

その遠い海岸線に小さなキタが見える。

沖からだったか、それは。

それでキタは立ち止まった。

音がしたように聞こえた、たった今。

鐘の音が聴こえたような。

その音は清く澄んでいた

☆111

鐘の鳴る

鐘の鳴る

海に山にその丘に

鐘の鳴る

鐘の鳴る

あなたの暮らすその場所に

あなたの眠るその場所に

鐘の鳴る

鐘の鳴る



鐘の鳴る

鐘の鳴る



鐘の鳴る 第二章 終

400字詰め原稿用紙145枚



















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第一章 2稿 4/4 076~088

☆076

キジはその出港にいる。

ツジでの乱僧たちがいる、そこには男色の僧も数多くいた。

キジを見て遠くからも頭を下げて挨拶したりしていた。

彼らは遂にこの日を迎えたと感激してひとりでに勃起していた。

キジにはどうでもいいことだった、僧侶たちのことはもう。

そしてあの乞食も連れられて来ている。

お守りにはぴったりだと誰もが感じて喋りまくっていた。

潮のにおい。

三人の馬士は皆途中で辞めてよそへ行っていた。

それほどに危険な渡航でもある。

そしてキジは笑い半分その持ち馬を連れて大陸へと試みた。

馬がそのようにしてこの海を渡ることははじめてである。

航海は一ヶ月を過ぎて終わったが多くの渡航人が死んだ。

途中ギンザは船に綱でつながれ海に引かれ漂うことを覚えた。

食べられるよりはそれがいいとキジが海へと放ったのである。

鼻の息を止める、口だけで息をすることをギンザは激しく知った。

誰もが駄目だと憂いていた秋雨の海、

雨に降られ続けたことが幸いし人の頭には血が上らなかった。

それで生き残れた。

そしてその船団の内、二隻のみが大陸へと漂い着いた。

乞食は生き残りキジとギンザも遂にその巨大な地へと降り着いた。

あれほど苦労して連れた乞食も、その頃にはどうでもよかった。

顔なじみの僧、兵もここではまだいくらかはいた。

それもここでは意味はない。

そしてキジはその大陸を支配する巨帝の城門へと入って行った。

疲れたキジは今の自分にまったく華がないことに思いが及ばなかった。

彼に託されたのが帝国進軍のための斥候としての役目であった。

最前線を行く秘密裏の部隊の一員、そこでキジは進攻を開始したが

その行進のあまりの激しさに砕けそうになった。

ギンザはすでに走れない馬になっていた。

だから途中その大陸の野に放し自由へと返してやった、泣けてくる。

それで選んだのがシャンという名のさらなる名馬であった。

キジはこのシャンと大陸の内へと進攻した

☆077

キジの部隊、そこに属する兵士たちは皆国外からの人たちだった。

身体が大きく太く、その連れた馬も見たことのない巨馬で荒い。

矢で散々に射られても一頭のまま人に襲いかかっていく馬だった。

そして人の言葉を理解する。

完全な戦闘馬であった。

最初キジとギンザはこの中では細く小さく見えた。

肌の色も自国の言葉もその持つ武具も各人がまったく違う。

そうした中でこの傭兵部隊は独自の言葉を操っていた。

自国語を越えて独自に造り上げた隠語を使って生活していた。

さらに話さず手振りで会話ができる手話集団でもあった。

そのために離れて戦っていても意思疎通ができる。

この最強の外人部隊においてキジは朦朧としていた

☆078

帝都からの指令は本隊の西への進攻のための進路確認だった。

半月ごとにその進捗を報告するために部隊のうちの何人か、

それが部隊を離れ東の帝都へと戻って行く。

その報告の任務に就いた者はもう一度この部隊へ戻ると

西へ進行する部隊の者たちへ言い残して戻って行った。

しかしその誰もが二度とその最前線の部隊へとは戻らなかった。

それほどまでに過酷な部隊だったのである。

東への路、その途中で帝都を外れて逃げる者、

帝都に到達し報告はしたが再度部隊へと帰ることを拒む者、

そしてそれらの者は逆賊として捕らえられ幽閉された。

誰よりも強靭な戦士だったのに。

罪人として扱われたとしてもその方がいい、

あの部隊に戻るよりはこの帝都でつながれていた方がいい、

そのように思わせるほどに過酷な進攻を続ける部隊だった。

一度その戦列を離れた者は二度とそこには戻って来ない。

キジがそのアゴを出したとしてもそれは普通だったのである

☆079

その傭兵たちの部隊は飛ぶように走っていく。

空を越え、いくつもの山脈を越え、平原と砂漠、

西へと。

遂に行き着いたのがイスラム圏だった。

その戦士たちと戦ってキジは違和感を覚えた。

傭兵は誰よりも死を恐れる。

だから死なない。

しかし彼らは違った。

死を恐れない。

それで斬って倒れた者がしばらくすると起き上がる。

そして再度立ち向かってきたりする。

それは部隊の多くの者が感じていた。

まったく違う人種。

この時、部隊は完全に地の果てに到達していた。

文化が違う

☆080

ここで部隊は二つに決裂した。

ひとつはそのまま西へ前進するという者たち、

そしてもうひとつはこれ以上の前進をやめるという者たち。

前進するという者たちは少なかったがそのまま進んで行き壊滅した。

前進をやめた者たち、これらもその内でふたつの主張に分裂した。

一方は南の回路を選んで東へ戻るという者たち、

もう一方は北の回路を選んで戻るべきという者たちである。

南の回路を選んだ者が多かったが彼らはすべて捕縛され殺された。

すでにその頃、帝都は彼らを巨帝に背いた反逆者集団として扱い、

新しい傭兵団を編成し次々と西へ投入し続けていたのである。

その新手に命じられた任務のひとつが反逆者の捕縛殺傷であった。

北の回路を進んだ者たちは東へ向かいながらそこでさらに分裂した。

このままの北緯で東へ向かうという者たち、

さらに北上の回路へと移動すべきだとする者たちのふたつに。

これ以上の北上は危険だった。

そこは彼らには未知の極寒の土地だったからである。

しかしだからこそ追手は来ないと北路を選ぶ者たちは主張した。

そして四、五人の者を残して部隊の生き残りは北上の路を選んだ。

西への進路は未知なる文化圏を前にその歩みを後退させるものだった。

東への退路は未知なる北極圏にその歩みをさらに前進させるものとなった。

昼のない平原、雪と氷の土地へと踏み入り追手を逃れて東へと進む。

キジとシャンもそこにいた

☆081

その北の地で嘆かれたのが食料の確保である。

そこには様々な生き物が確かにいた。

しかし部隊の一人以外、それを捕らえることができなかった。

今やこの部隊の馬の足は鈍って信用できないものへと変わっている。

ならばと、自らが馬を降り走り寄っては斬りに行ったが逃げられる。

しまいには遠くから近づいてきた巨大な白い熊に

馬もろともに襲われてその鼻に斬りつけたりしてしのいでいた。

平原でも砂漠でも経験したことのない空間と生き物たちの世界。

この氷雪の上では彼らはまったくの腰抜けでしかなかった。

ここでキジがその弓を使って遠方の獣たちすべてを射って出た。

それが部隊のすべての者を守り皆に食料をもたらした。

部隊崩壊の終局、ここでその先頭と中枢をキジとシャンが担うことになった。

キジが仕込んだ弾薬の弓、それが見たこともない巨大な魚、

その北鯨の腹を連続で爆破したときにこの部隊の残党は大歓声を上げた。

俺たちは死なない、そして絶対に生きて帰ると抱き合った。

その白い息と光。

そんなものはキジにはどうでもよかった。

何をいまさらと。

虫けらが

☆082

部隊はその北路での途中、遂に南東へと下る路を選択した。

部隊のほとんどの者は帝国のさらに南から来ていた者だった。

帝都に近づき過ぎる前に南へと抜ける路を進む、

それが彼らの選択だった。

しかしキジはそこよりさらに東から来ていた。

それは自分ひとりでもある。

共に南下するか、さらにこのまま東へとこの北路を進むか。

ここでキジは部隊と決別した。

シャンと共に北の路をさらに東へと進んだ。

たったひとり。

しかしキジには勝算があった。

星座が変わり始めている。

それはキサラギで仰ぎ見た形へと近づいてきていた。

自分が明らかに祖国へと寄って来ている。

このまま東へと、あとは海を越える、それだけが問題と考えた。

この時すでにキジは半分自分の命をあきらめていた。

しかしだからこそこの最期に試そうとも考えていた。

キサラギよりさらにはるか東に森林と湖に伏された東の国があり

そこに東奴(あずまど)と呼ばれる森人たちが生活しているといわれた。

そしてそこからさらに北へ、森と沼の地を越えさらに海を渡り、

そこに最北の民が神を奉って生活する楽園があるという伝承である。

キジは自分が祖国から見てその最北の場所にいると考えていた。

このままの北緯で海へ出れば必ず何かの手がかりがある、

あとはそこから考えれば良い、キジはそう思っていた。

大陸の最果てを横断し死にそうになりここまで来た。

行ける所まで進んで何が悪いかと神仏の前に開き直ったのである。

キジの目指した最北の楽園、それはエゾと伝え呼ばれていた

☆083

冬は終わろうとしている。

その最も過酷な環境のときに部隊は北路を進んでいた。

追手の部隊は標的がそのような路を選ぶとは考えていなかった。

それでキジたちは捕まらずにいた。

南下の路を選んだ者たちがその後どうなったかはわからない。

しかしさらに厳しい追跡が彼らを待ち受けていたのは確かであり

それは極寒を進む厳しさ以上に激しいものであっただろう。

東へと進み続けたキジはシャンを止める。

誰もいないのはそこでも同じ。

薄霧に姿を現したそれは南北に続く海峡だった。

キジは自分が祖国における最北の場所に立っていると確信していた。

星座はキサラギのそれとほぼ近い。

大陸の果てに戻って来た、そうすると目前の対岸、あれがエゾか。

キジは海岸線を下り最も対岸と近いと思われる場所を見つけた。

そこには荒組みされた小屋があった。

そこからの対岸はかなり近く泳げば半日で渡れる距離でもある

☆084

水は冷たい。

冬に救われてここまで来たが今度はその冬が行く手をふさいだ。

春夏になれば水は温む。

しかしそれまで待っていれば追手に追いつかれるだろう。

小屋が組まれていることはここに人の出入りがあることを意味した。

この小屋が対岸の者による物なのか、大陸の者による物なのか、

もし大陸の者が自分の姿を見たらその者はすぐそれを通告するだろう。

対岸の者なら舟で渡ってくるはず、しかしそれがいつかは知れない。

小屋の中には積まれた木板と粗綱、それ以外は何もなく風はしのげた。

火を焚いた形跡がないことから冬場は使用されない物であるらしい。

寒さが弱まればこの場所へは人が近づいて来るということでもある。

キジはシャンを小屋へ入れた。

外の霧は次第に濃くなり対岸は見えなくなって小屋周辺をも包んだ。

キジはシャンの手綱と鞍を解いた。

そして火をおこし一晩そこで眠った。

これだけの霧、しかも小屋の中であれば光は外へ漏れず安全だった。

寒くともキジとシャンにとっては久々の安息となった。

翌朝は快晴であった。

積まれ置かれていた木板は細長く背丈ほどで一枚一枚はかなり厚い。

キジはそれら数枚を重ね結わき、それを四つ、五つ作り

鞍の内と側面にそれぞれ頑丈に縛り付けた。

それは海に浮かんだ。

キジは食料のほとんどをシャンの口へ入れてやり言った。

「おまえなら誰にでもかわいがってもらえる」

そして厳冬の海に自分を浸した。

キジはその大陸の岸辺でシャンを野生馬へと返した。

自分は鞍の舟につかまり泳ぎ対岸を目指したのである

☆085

身を切る冷たさは予想以上だった。

雪原を越えて疲れた身体からその水温はさらに体力を奪った。

鞍の舟が頼りだった。

もしそれなしで泳ぎ出たならすでに力尽きていただろう。

そうするうちにも陽はのぼり続けていく。

そして自分の進みの悪さに冷えきりながらもイラついた。

対岸はまだ遠い、このままでは流されてしまう。

午後になれば潮の流れは変わる。

波が高くなる前に何とか対岸近くへと近づきたい。

そうして厳冬の潮水に足を動かしたがうまくいかない。

息が上がり波に揺られる、海水の冷たさに全身が麻痺してきた。

そのうちに後方から、ぶるるぶるると何か生き物の気配がした。

さすがのキジも海の生き物たちには抗し難く感じていた。

見たこともない大きさ速さの水中生物と刀弓で戦うことは難しい。

背後に近づくその生き物の気配にキジは焦った。

鞍に腰掛けて弓を構えたかったがその両腕にうまく力が入らない。

鞍につけた刀のうち短いものを抜いてその柄を口にくわえて進んだ。

顔を潜らせて眼下を見たがその水中に巨きな魚影は見えなかった。

ならば海上からかと振り向きたいが体が冷えきってそこまで動かない。

潮に見上げた空は昨夜の霧が嘘のように晴れ渡った青空だった。

その美しさと冷気とが恨めしい。

背後の生き物が自分に着々と近づいて来ているのだけはわかった。

そのぶるるぶるるという音が相手の呼吸音だとやっとわかったとき

その生き物はすでにキジのぴたり背後へと乗りつけていた。

動かす足先に相手が触れたキジはこれが最期かと振り向き

刀で斬りかかったがそこにいたのは何とシャンだった。

シャンがキジの後を追って泳いでいたのである

☆086

そうしてキジは今、雪山の頂にいる。

東の国、その森には巨大な山があると以前噂に聞いていた。

そしてその山をキジは見つけた。

夏でもその山頂から山腹には雪がある。

その夏の雪を握って口に当てた。

大陸のあの激しい雪原が思い出される。

キジは生き残った。

あの南北に続く海峡を渡った、追って来たシャンの力を借りて。

対岸は南北に長い島であった。

その南にはさらに大きな地が存在していた。

島と大地には上部、中部、南部と三つの部族が別れて暮らしていた。

部族間に対立はなくその三つの部族は武器を持たない民であった。

言葉も装いもすべてがキサラギや大陸のものとは違う。

そしてキジはここが伝説の地エゾであることを悟った。

キジは客人として各部族に丁重に扱われその導きで南下した。

彼らとの平和な日常の中でキジは癒されていく。

キジは大陸からとキサラギからの侵略に備えるようにと

三人の族長たちに伝えたが彼らは戦うこと自体を拒否した。

大地の最南端は海でありキジとシャンは彼らの巨船で送られた。

海を渡り船から降りたキジは確信した、

遂に自分がキサラギにつながる地へ辿り着いたということを。

別れ際、もう二度と会うことのないことを予感して

彼らはキジのために泣くのだった。

キジはシャンと南下を続けた。

そこは延々と続く巨大な森の沼地である。

海岸線を進んだ。

星座は完全にキサラギと一致している。

果てしなく森は続いたがある日森の先に雪を頂く山が見えた。

そしてその山を遠く見る場所に人々が暮らしていた。

言葉は通じず装いも違うが彼らが東奴と呼ばれる森の民であり

そこがキサラギで言う東の国であることをキジは理解した。

森に突き出たその巨大な山を彼らはフジと呼び崇拝している

☆087

東奴はフジに近づくことを恐れていた。

フジに近づき、ましてや登ることは彼らにとっての禁忌である。

フジは確かに巨きな山であるとキジは感じた。

キサラギにつながる地にこのような山があったのか、とも。

しかしそれ以上の山々をキジは大陸で経験していた。

その山々はヒマラヤと呼ばれていた。

その山脈の内奥を西へと渡った、あの外人部隊の一員として。

キジはフジへと登った、シャンと共に。

森の中では空が見えない、方角を見失うと命取りになると感じた。

しかし不慣れな森、そしてフジの急な勾配をシャンは恐れない。

それはキジも同じだった。

この国から海を越えて大陸へと渡ったはじめての馬がギンザであれば

エゾからこの地まで、さらにフジを登頂した最初の馬はシャンである。

雲のない晴れた日、半日で山頂へ到達した。

山頂の雪と風、眼下の北と東には森が続き南には海が広がっている。

西にも森は続いているが北と東のそれとは違う気持ちがした。

夜、その西の遥か遠くにかすかに灯りのゆらめきを見た。

キサラギ。

幻か、その光よ。

そのフジの山頂にキジはシャンといる。

その頂で昇りゆく朝陽を見つめてキジは思った。

大陸の死を怖れない戦士たちは自分にとっての地の果てだった。

あの戦士たちから見れば大海に果つるこの国が地の果てか、と。

そしてキジはフジの裾野にしばらくその身を置いた。

深淵の森に弓を引き狩りそして何度となくフジ山頂へと登った。

その冷気の中、この地の最も高き場所で無となる禅を組む。

禅はキジが大陸で教えられたもののうちのひとつであり、

まだ勃興したばかりであったひとつの新しい方法であった。

フジ山頂で禅を組む。

ある時はエゾに向かい、ある時は海へ向かい。

鞍も手綱も解かれたシャンはキジを追いかけていつも傍にいたが

キジが禅を組んでいるときにはそれを察するのか常に離れており

足を取られて火口に落ちそうになったりしていた。

大海へと堕ちて行くその黄金の壮麗。

あの日、大陸へと出港した日から幾月もが過ぎ去った。

まさかこのような定めになるとは…

あの日、思いもしなかった。

闇が山頂を覆いその天空の風が強さを増す。

西にともる幻のゆらめき。

キサラギよ。

キジにはどこかで誰かが鐘を鳴らしたように聴こえた。

その音は清く澄んでいる

☆088

鐘の鳴る

鐘の鳴る

海に山にその丘に

鐘の鳴る

鐘の鳴る

あなたの暮らすその場所に

あなたの眠るその場所に

鐘の鳴る

鐘の鳴る



鐘の鳴る

鐘の鳴る



鐘の鳴る 第一章 終

400字詰め原稿用紙537枚

第一章 2稿 3/4 065~075

☆065

夕闇。

ツジの各所から死体を焼く煙が上がっていた。

馬でその外周を内から廻っていた兵士たちも

キジの火矢を見て中央部へと集まって来た。

外部を廻った者たちも東門を開けさせて

キジの元へと合流した。

それらによればツジ外部へ逃げ切った者は一人もいない。

さらに各門からの捕縛者数がキジの元へ伝え集められ総数三百五十人となった。

同時に各方位に散っていまだに隠れている者は五十人と推定された。

キジは捕縛した者たちを僧侶たちへまとめ預け

僧侶たちと共にその寺へと引き返させること、

兵士たちは均等にわかれそれぞれの門を守ること、

ツジを完全に封鎖の状態に置くことを指令した。

その間に隠れている者を徹底的に探し出せ、と。

そして自分は刀を使った兵二人とキサラギへ行き

朝廷に鎮圧の報告と殺傷の許しを求めることを告げた。

刀を使った兵士二人はそのとき東門にいた。

その二人を馬に乗らせて南門で自分を待たせるよう伝えるために

馬二頭を東門へやらせ乗っていった者たちにはそのまま

刀の二人と交代して東門の守りに就くように命じた。

キジは子を他の兵に抱かせ再度屋敷の北へと入った。

暗がりの中、その苔の場所に乞食は座っていた。

強烈なその臭いにキジは待たせたことを詫び

乞食の手を取り立たせ表へと歩き連れ出た。

乞食がキジと共に屋敷から出てきたその様子と

その乞食の臭いに兵士たちは驚いていた。

そして騎乗兵一人をそこから降ろさせ

替わりにその乞食を馬へと乗せた。

キジは表から屋敷に入り散乱した着物数枚を

たたみ持って再度出てきた。

そして兵士たちに朝廷からの軍が来るまで

ツジを完全に封鎖しておけば相当な報酬が待っているかと言い放ち

再び子を抱いて三人と二頭で南門へと下っていった。

その際にキジはこの屋敷の主の名がカワナニであり

その中庭には湧き水のあることを兵士たちに教えた。

それで兵士たちは中へと入って行ったが暗がりの異臭と

その異様に座敷牢を発見しその惨状にさらに驚いていた

☆066

南門へと向かう道でも僧たちは死体を集め動く。

炎と屍、それが夕闇の空に舞い上がっていく。

道端の先々に上がるそれらいくつかの炎の光と煙。

それらは薄暗くなりゆく大通りを照らす灯りに見えた。

子を抱き乞食と馬で行き過ぎようとするキジを見て

あの剛毛の従者は小走りで近づいていった。

その表情は哀願していた、首輪と腕輪を解いてくれと。

従者は両手首を首の裏につけられたまま、

鞘を胸元にまだ刀を握っている。

キジは一瞬考え従者を顧みるように声をかけた。

「おいカワナニの。その刀をこの子にくれてやる気はないか、

男の子だ、刀のひとつも持たせてやりたい。

もし譲ってもらえるなら首輪だけでも解いてやるんだがな」

従者はうなずき、刀と引き換えにその首輪をはずされた。

しかし両手にはまだ錠がある。

キジは乞食を乗せていたもう一頭の馬を見て言った。

「この馬を引いてくれないか、あの坊さんたちの寺までだ。

このめくらの男が馬から落ちないようにしてやってくれ。

寺まで着いたらその腕の錠を解いてやるようにしてやる。

馬を引くなど簡単だろ、ん?どうだ?」

そして従者はそれに従った。

そして刀はその腕の中の子と共にされた。

「この刀は良い物だ、この子が死ななければ…」

キジはゆっくりと南門へと下って行く。

薄暗い道、炎の光を感じながら。

腕輪をつけたまま手綱を引いて従者も歩いて行った。

そしてキジは炎に照らされながら歩いてくる女と出会う。

女は逆毛を立てておりほぼ全裸で生傷を負っていた。

そしてその背中には死んで硬直した子を背負っていた。

呆然と炎の横を通り過ぎて歩くその女、

その女は昼間、キタが南門へ入る前に眺めていた

男たちに罵られ暴行されていた夫婦の女であった。

そしてその夫とは別れ別れとなっていた。

門が閉じられる前にツジの内部へとさまよい入り

今、発狂寸前にあった。

キジは馬上から女が横を通り過ぎていくのを見ていた。

もちろんキジがその女を見たのははじめてである。

しかしその様や死んだ子から計ってこの女の状態を一瞬で変えると見抜いた。

キジは馬を女の横に付け死んでいる背の子の頭を鷲づかみに

素早くその背から抜き取り屍の炎の中へと放り投げた。

女はしばらくして背に子がいないことに気が付いた。

そして動転していたがキジの差し出した男の子に安堵した。

女は気が違いはじめており物事を理解できなくなっていた。

それを利用してキジは助けた子の命を女に託したのだった。

さらにカワナニの屋敷から持ち出してきた着物すべて、

それと持っていた食料のほとんどと水、

そして従者から奪った刀をその子の守りとするように言い

何度も深々と頭を下げ続けているその女へと手渡した。

夜になる前にどこか眠る場所を探すように勧めた。

ここで子が突然泣きはじめそれに応じるようにしてキジが歌を詠んだ。

なきこらに わかれおしまれ つじがくれ

泣き子らに別れ惜しまれツジが暮れ 亡き子らに別れ惜しまれ辻隠れ

その一連の様子を炎の周りにいた僧侶たちが見守っていた。

キジはその女と子の元を去り際、それらの僧侶たちに

あの親子は放っておくようにと、自分が火へ投げ入れた

子のために経を唱えてやってくれと頼み、さらに南下した

☆067

刀を託された女、そしてその子、

これは生き残った。

後にその子は成長し老いも知ったキジと再会することになる。

しかしこの時、それはまだ誰も知らない。

女はその子をサルと呼んで育てた。

サル

神のみぞ知る。

今この時、確かなのはひとつ。

キジは無敵だった。



南下の門にキジは降り立った。

そこにはすでに東門からの殺傷を犯した二人の兵も待っていた。

馬を引いて。

その残りの兵を四方の門に張らせたこと、

自らはこの二人とキサラギへのぼること、

この乞食をも連れ帰り寺で待機するようにと年長の僧へ告げた。

僧侶は罪人を引き寺においてこれを食べさせる余裕がない

自分たちもキサラギへ行く、それを主張したがキジは引かなかった。

罪人たちは殺さずに寺に置けと、

その分は必ず朝廷からの褒美がつき後には渡航許可がもたらされるはず、

それを待てと告げた。

陽は沈んだ。

闇がこの騒乱の都市に降り立ち何もかもつつみはじめた。

夜の風、キジはギンザを馳せた。

刀を使った二人を連れてキサラギへとのぼる。

兵士たちは各門を封鎖した。

僧侶たちは自らの大陸への派遣の全て

それを今やキジが握っていることを理解した。

全ての死体を焼き隠れた者を捕縛し尽くしたのち

明けて寺へ戻ることを決定した、捕縛者全員と乞食を連れて。

特に男色の僧たちがキジを強く支持し譲らなかった。

彼らはどんなことでも大陸へと渡りたかった。

そして異国の男たちを抱くこと、その知らぬ国の男、

それと乱交することを強く願っていたからである

☆068

暮れてゆくツジから上がる何本もの煙。

高台のキタはそれを眺めていた。

それは風となって匂いを運んできた。

肉の焼けたいい匂い。

死体を焼いているのだと理解した。

騒乱の終わり。

以前の自分であればそれを見に再度下って行った。

しかしそれをしないで思いとどまった。

故郷へ帰るのだ。

そしてその高台で真夜中まで眠った後に北東へと迂回した。

キジは二人の兵士と共に馬上にある。

北東のキサラギに一刻も早く着きたかった。

一度、馬に水を飲ませるために止まった。

しかしそれ以外は走り続けた。

二人の兵士もキジの後に続いていたが

そのうち徐々に遅れはじめた。

その進行に改めてキジとギンザが並はずれており

自分たちとは別格の存在であることを悟らされた。

その差は大きくなりついには見えなくなった。

キジとギンザはさらに速度を増した。

真夜中の闇。

月よ、雲よ。

それら全てが止まって見えるほどに

☆ 069

その日暮れから夜を越えてキジは走り続け

日の出前、驚異的な早さでキサラギへ到達した。

そしてここでひとりの女と密会した。

その初老の女とは宮廷へ出入りする女衒である。

この女衒はキジに心服していた。

そしてキジはこの帝都において最もこの女を信用していた。

その財産のほとんどをこの女に預けていたのである。

キジは金勘定をまったくしない男でありそれが弱点だった。

この女衒はキサラギの中でも最も美しい女たち、

これらは遊女であったがその四人に知らせた。

キジがキサラギへ入ったことを。

そして宮廷へ入ったキジにもしものことがあったとして

その逃げ道を設けることをそれぞれが準備した。

時の天帝は気まぐれであり人の命を軽んじる者だった。

一度宮廷へ入れば二度と出て来ることはできないかもと

キジは気を揉みその女衒に託したのである。

四人の女はそれぞれ皆賢く力を持っていた。

帝と夜を伏したと告白するような者であったのである。

そしてキジを好いていた。

もし自分の所にキジが逃げ込んで転がってきたら

どんなにかいいだろう、そう思うと目が冴えて

じっとしていられなかった、明け方だというのに。

そして何があってもキジを生かしてみせると肝に銘じ

その日一日、誰にも会わずに待っていた。

彼女たちにしてみれば何と長い一日であったことか

☆070

キジはその軍装を解かぬまま宮廷の門に立ち謁見を求めた。

門兵たちはキジを知っておりそのままに通した。

しばらくして出てきた高官はキジの様子に目が覚めた。

甲冑のキジは汗と汚れにまみれ臭く匂った。

ツジ鎮静の第一報を持ってきたキジ、その忠誠の心意気。

キジはそれを見せるためにわざと鎧のままで来た。

すこしでも自分に分のあるように企んだのである。

高官はツジで何があったかを早く聞きたかった。

しかしまだ明け方である。

体を清めて宮内で待機するようにとキジは命じられた。

通された一室でキジは朝の沐浴をした。

ここで武具を手放した。

そして礼装に着替えたが数本の針は内股に隠し持った。

ここで幽閉されることがないように。

しばらくするとキジのいた部屋に差し入れがされた。

酒と肴のほかに書状が付けられている。

そこには 光 月 雪 風 と書かれていた。

それはキジを待つ四人の遊女を表していた。

それぞれが待機していることをキジは読みとった。

キジはそれら女たちの各居場所を知っている。

何かあったとき…キジは思いを巡らせた。

その差し入れはキジの信頼する女衒からの物である。

そしてその差し入れを運んで来た者、

それは宮廷内で働く数人の男と女であったが

これらはこの女衒にすでに買収されていた。

キジは差し入れを口にした。

毒はないと信じていたからである。

そして眠る

☆071

キジは高官との朝食の席に呼ばれ目を開けた。

今は体調が悪いと嘘を言いこれを辞退した。

口に物を入れないようにするためである。

キジは毒を盛られることを密かに案じていた。

その後、高官たちと謁見しツジでの事態を報告した。

刀で討つことを許されていないのにそれをしたこと、

その許しを請い予定通りの大陸への渡航を願い求めた。

朝廷からの目付の兵がツジで丸腰の人間を斬り殺した、

そのような世評が立てばそれは朝廷の愚行として

天帝の権威にも影響は触れる。

帝のその気まぐれからどのような判断がなされるのか、

それをキジは最も恐れていた。

カワナニの都落ちの件もその気まぐれからがその大筋である。

謁見は正午に及び、再度の待機を命じられた。

キジはその後に運ばれた昼食には口をつけた。

高官たちからの良い感触を受け取っていたからである。

─私には毒は盛られない、これで問題なく進める…

キジはそう感じ取った。

そしてツジからキジに追従した殺傷の兵士二人がその頃、

キサラギへ入ったことを知らされた

☆072

四人の女たちはその日、何か起きるかと待っていた。

それぞれがその知らせを受けたのはその日の夕方であった。

午後にキジが宮廷を出たこと、そして行方が判らなくなり

すでにその時にはキサラギを去っていたということ。

女の内のひとりはそれを聞いて、あの人らしいやと呆れ、

もうひとりはため息をつき、もうひとりは憮然としていた。

残りひとりは以前キジと馬に乗った日を思い出していた。

それはギンザという名の大きな黒い馬だった。

その上でキジの組んだ片足あぐらに座りキサラギを出た日。

馬に乗ることなど生まれてはじめてだった。

物心ついてからキサラギを出たのもそれがはじめて。

幼い頃の記憶にある野や川、そして土の匂い。

忘れかけていた自然の様子に久しぶりに触れたあの日だった。

丘陵に登り見せてもらった遙か遠くに広がる山々の陰影。

男は自分がその山々を越えたさらに向こう側へも行ったと言う。

黄昏にその山影へと射す雲間からの陽の光のきらめきを見て

女は自分もあの山の向こうくらい遠い場所から

ここへ売られて来たのかな、などと思っていた。

自分の記憶にかすかに残る生き別れた家族の面影に

今頃はどうしているのかと、そしてふっと今に戻った。

その男はもうこのキサラギにはいない。



女は自分がここを出ては生きてゆけぬことを思い出し

夜の働きのためにその夕方、少し眠った。

緊張は溶けた。

悲しくはない

☆073

ツジへ朝廷からの兵団が送られた。

そして都市を封鎖していた兵たちの役目は解かれた。

混乱の都市ツジはこうして完全に制圧された。

一方、乱僧たち二百人は捕縛の男共四百人を引いて自らの寺へ戻った。

死にそうになっていた者もひとり残さず連れて自らの寺を目指した。

掘られて歩けない者も皆、背負って連れて行った。 

誰も死なさずにキジに命じられた通りに行動したのである。

そして僧たちと捕まった犯罪者たちの行進の様は噂になった。

それは先に帰郷の旅路を続けていたキタの耳にも入ってきた。

ある宿場で今やまったく小綺麗になった商人面のキタがいる。

行進がそこを通過すると聞いて皆がその見物に待っていた。

半日ほど待っていると噂の一団がその宿場を通過した。

力に満ちた怪僧たち、その先頭にはあの巨根僧もいる。

捕らえられた男たちは衰弱して死線をさまよっていた。

しかしその行進は鞭打つように強行されていたらしい。

見物人たちはその珍しさに行列を見て喜んでいた。

そしてそれを見ていたキタは驚いた。

行進の男たちが皆歩きなのにひとりだけ馬に乗っている。

その馬は行進の最後尾近くを歩いて行ったが乗っていたのが

めくらを真似た歯の生え揃ったあの乞食だったからである。

きれいな着物を着た乞食、キタはさらに驚いた。

しかもその馬を引いているのがあの湧き水の屋敷の

そこに務めていたあの毛深い悪評の下人ではないか。

キタはその従者のあまりの悪さをツジで噂に知っていた。

それがなんであの乞食を馬に乗せて引いているというのか。

しかもその下人は両手に手錠をはめられていた。

一体何があったというのか、あの屋敷で。

乞食は僧たちに担がれた神の使いのようにさえ見え滑稽だった。

そしてキタは包み込むように大きく微笑むあの弓の人、

眉間に大きなホクロを持つあの長身の鎧の人を思い出していた。

僧侶たちは捕縛の男たちを寺に引き置いた。

剛毛の従者はキジとの約束通り寺まで乞食を馬に乗せて引き

それと引き換えにキジに言い渡されていた僧に手錠を外された。

しかしキジが言ったように男がカワナニの所へ戻ることはなかった。

捕縛の男たちは朝廷によりさらに遠方へと連行されて行った。

そしてその地で死ぬまで労働に服させられた

☆074

姿を消したキジ。

彼の元にその知らせが届けられたのはあの女衒からだった。

その知らせとは帝がツジ鎮圧を功と認めると発したことだった。

朝廷はキジをそのままに認めたのであった。

女衒はキジの居場所を知っていた。

キジは女衒にそれを教えて身をくらましていた。

女衒はそれを誰にも言わなかった、あの四人の女たちにも。

キジはある宿場からの外れにある酒屋の倉に隠れていた。

女衒から倉の鍵を受け取りギンザはその途中の馬屋に預けて。

どうやらキサラギからの追っ手のないということを知り

安心して朝から酒を飲むようなキジだった。

普通なら蒸しかえるようなその閉め切った倉、

外を歩けばその風体にすぐに自分は気付かれる。

しかし秋を迎え倉が涼しく居やすい場所となったのに救われた。

一日、その倉にこもって飲んで食べてひっくり返っていた。

深夜溜まった大小便を表に放ちながら見上げた月の空美しいことよ。

この倉の持ち主はそのキサラギの女衒を知っていた。

男の妻は嫁ぐ前に遊女でありこれらの婚姻を手助けしたのが女衒であった。

その倉の持ち主の男は帝都に詳しく酒売りの身分でキジを知っていた。

キジが先鋭的な戦人であるらしく、方々で殺し合いをはじめているらしいこと、

それを女衒から時々に教えられるように感じ取っていたからである。

キサラギの遊場の酒の手配、それにもこの女衒は深く関わっていた。

倉の持ち主の男はいつもこの女衒の顔色をうかがって生きてきた。

女衒は飲み食いするものすべてを密かに倉のキジへと届けさせた。

倉の持ち主の男は高額な報酬を受け取っていたのである、その女衒から。

女衒は賢い女であり預かっていた金をキジのために使い返していた。

キジを生かすことのできる女は自分しかいない、

そう思っていたか、いなかったのか。

とにかく力を持った女だった、その女衒は。

キジが信頼したとしても当然な器の持ち主だったのである

☆075

その男たちはふんどしの丸裸でぶらついている。

それはツジへと馬を引いた下衆なあの三人の馬士であった。

途中の宿場で買った焼き芋をほおばりながら南下して行った。

自分たちには何の意味も無い、職を失った、ツジの一件以来。

それで持ち金のいくらかを使いながら秋の街道を歩いて来た。

そんなある日、顔に刺青を彫ったりして遊んでいたときに

一頭の馬と乗り手が道を通って行った。

黒く大きな馬、そこに乗った大きな弓の人。

それを三人は追いかけた、死に物狂いで。



南下のその途中に大きな河がありそこでは漁が行われていた。

秋に海から帰る魚を獲っていたが人手が足りず困る村人に

俺もやるとそのふんどしの三人は河へと飛び込んでいった。

河を上る魚の水しぶき、それに漁をする人々の働きの姿。

丸裸の三人はひっくり返ったり飛び上がったり散々にぶちまけた。

その河べり、三人を見て笑う横になって草笛を試す男がひとり。

その後ろには大きな黒い馬が草を食んでいる。

迫るその日の夕暮れは秋そのもので美しくすがすがしかった。

澄んだ空気、冷たさの秋風、河の風よ。



キジは朝廷からの刻印を持ってその船出の都市へと向かっていた。

大陸へ渡ることを正式に認められたのである。

その船出の港都市をキジは知っていた。キジ、彼は、

そこからさらに移動した島で大陸からと密輸商取引を行っていた。

ツジの捕縛の罪人たちはそこよりさらに遠方の島に送らたという、

その連中の失態に大笑いが止まらないキジであった


第一章 2稿 3/4 055~064

☆055

キジが南下していくと案の定、

南門から逃げ延びて北上し右往左往する犯罪者たちがいた。

鎧姿のキジを見て散らしたように小路へと逃げて行く連中とすれ違う。

それらを放ってキジは走り続けて南門へと急いだ。

キジは途中すれ違う僧侶たちに東門へ行くように告げた。

東門が開いたままで逃げられるかもしれない、援護しろと。

それを聞いた僧侶たちは連中を追い東門へと全力で走った。

見えてきた南門はその戸が確かに閉められている。

南門周辺の様子はその粛清が一段落つきはじめた頃だった。

追うべき相手もその周辺にはほとんどいなくなり、

集め繋がれた男たちが地面に座り込んだり倒れ込んだりしている。

男たちは皆、僧侶たちに散々に痛めつけられて無言だった。

キジは手を持て余す僧侶たちに東門を援護するように命じた。

疲れ知らずの乱僧たちは大通りを勢いよく次々と北上して行く。

キジは南門に配置させた兵士たちと合流した。

そこは南門の真ん前である。

キジは東の合図がないのになぜ南門を閉めたのかと激しく訊いた。

兵士たちは僧たちの待ちきれない混乱ぶりの様子を伝えた。

そしてあれを見れば自分たちの主張の正しいことがわかると思い

あの乱交の家屋へとキジを静かに連れて行った。

家でも乱交が一段落つきほとんどの僧は全裸で体を休めていた。

そしてあの体格の良い僧はその快楽がさらにもっと続くようにと

神仏の力を借りると称し目を閉じ念仏を唱えながらまだ掘っていた。

その顔面にキジは膝蹴りを食らわせた。

その後ろに静かに侵入した兵士たち、血を吹き鼻が折れたと騒ぐ

体格の良い僧を尻目にキジは全裸でいる部屋の僧侶たちに告げた。

「お楽しみはこれからだぞ、東門へ行くんだ、逃げた連中がいる」

そして僧たちを無理矢理に立たせて全裸のまま外へと投げた。

キジは他の兵士たちを促してそこにいた僧すべてを表へ出した。

「何をやってもいい、その替わり絶対に逃がすな、そして殺すな」

キジは僧たちを走らせて大声で言った。

「東門には逃げ足の早い若い男がたくさんいるぞ、急いで行け!」

全裸の僧たちはその言葉に想像して再度勃起して走り出していた。

鼻から血を吹いた体格の良い僧もふらつき通りへと出て来て

「私も、私もですキジ様!私も行きます!」と言う。

その極太い陰茎があらためて勃起しているのが見えた。

そして先に走りだした連中を追って全裸のまま走り飛んで行った。

走って行く全裸の坊主たちの背を見送りキジは兵士に言った。

二人を南門へ残し隊を五人ずつふたつにわけ一方は西門へ一方は東門へ、

ツジの外壁から人を遠ざけるようにしてそれぞれ内壁を廻って進めと、

途中に僧がいた場合は自分たちと共に進むようにさせろ、

そして西門へ進む隊は西門配置の隊と合流して東門へ進むようにと、

東門へ集まる者たちを挟み撃ちにすると指揮した

☆056

南門から動かない年長の僧侶たちが何人かいた。

彼らはこの粛清の具体的な方法を決めた者たちである。

自分たちの予想とは違うその展開に腹を立てていた。

南門粛清は予想以上に早く結論し逃げた輩も少なくない。

東の予想外もまだ知らずさらに加えて、北と西の隊もまったく見えなかった。

キジはその僧たちを横目に二隊を東西へと送り出した。

そして残った兵士たちと一緒に門を開けようとした。

それを見た年長の僧侶は走り寄ってそれを止めた。

自分たちの馬がここへ来ることをキジは僧に説明したが

自分たちと異なる形で兵士と僧を動かしはじめたキジにさえ彼らは不満だった。

僧たちはその内心がキジへの嫉妬に満たされ怒りだす寸前にあった。

そしてキジの言うことには断固として反対の主張をした。

キジは手を焼きそれならば、と南門の屋根へと登った。

その敏速さに僧たちはただ眺めているしかできなかった。

キジはそこから自分がツジへとやってきた方角を望んだ。

そしてそこにこちらへと向かってくる馬と人の影を見た。

それは来る途中に道端のキタをからかった馬士たちである。

その馬の一頭がキジの愛馬である黒いギンザであった。

─やっと来たな…

キジは親指大ほどの笛を取り出しその馬影へ向けて吹いた。

それは野に遊ばせたギンザをキジが呼ぶための笛であり

遠くにまで届く高い音がする。

何回か吹かれたその笛の音にギンザは反応した。

そして馬士を置いてその一群から走り出た。

門の屋根からのキジにも黒い馬が走り出たのが見えた。

さらに高笛を何度か鳴らしてギンザを南門へと向かわせた。

ギンザはキジのいる方向を理解しそこへ向けて走った。

そのギンザの後を他の馬たちも追って猛然と走り出していた。

キジは再度笛を鳴らした。

みるみるギンザと他の馬たちが南門へと近づいていた。

「よし、ギンザ!ギンザ!ここだ、ここへ寄れ!」

キジはギンザに大きく手を振って叫んだ。

その様子を門の内側から僧侶と兵士が見上げている。

馬たちに置いてきぼりをくわされた三人の馬士、

彼らも馬を追って走っていたが追いつくはずもない。

彼らの丈の短い上着からでた腹、ふんどし姿の短足、

口々に「おこられっぞ、おこられっぞ」と叫んでいた。

一番最後を走るのがギンザの鞍を背負った馬士であった。

汚い尻が前にふたつ、さらにその先を走る馬たちが見える。

そのさらに先には人影を乗せた南門の影が見えた。

三人も汗だくになって走って行く。

「やっとツジだんがおこられっぞいや」

暮れゆく午後の陽に砂埃がゆらめき浮かび上がった

☆057

キジはギンザが近づくのにあわせて

門の屋根からツジ外壁の屋根へとそのまま辿っていった。

ギンザは南門へと着き、そこに並ぶ死体の臭いも恐れなかった。

キジは速度を落としながら来たギンザを呼び、

ギンザはキジの立つ外壁へと寄ってきた。

そしてキジはそこからギンザの背へと飛び移った。

キジの大きな体を受け止めてもギンザはよろめかない。

そして何度かいなないた。

キジは結ばれた手綱を解きそのままツジの外周を東へ走らせて

さらに曲がり北上して東門へと向かった。

振り向けばギンザを追った他の馬たちもそのまま走ってくる。

馬を見た被災者たちは口々に、ああ馬あ食べたあい、と手を掲げた。

そのまま走り進むと先の東門に人影が交錯しているのが見えた。

キジはツジの外側から東門に着こうとしていたが門はまだ開いたままであり

逃げた者たちが集まりはじめて門内部は騒然としていた。

そして逃げ集まった者たちと僧、兵が門の前で対峙していた。

「出せ」「出さぬ」と門の前で激しく衝突した直後であった。

兵のうち何人かが刀を抜いて構えている。

さらに門を抜け出て走り去ろうとする人影が遠く三人見えた。

北、西、南の門で捕らえられなかった者たちは

逃げながらその途中でお互いの情報を交換しあっていた。

そしてあのホラガイが閉門の合図であり東門ではそれがなかった、

東門はまだ開いており捕縛がはじまっていないのではと口伝えされた。

残党たちは次第にその数を東門に集結していく途中だった。

東門に着いたキジは門をくぐり出ようと集まった者たちをギンザで後退させた。

立ち上がったギンザの前脚が門に近づいた者たちへ次々と落とされる。

さらに旋回しながら後脚でまだ門近くにいる者たちを蹴り上げていった。

そして他の兵たち六人にも後から付いてきた馬たちに乗らせ同様にさせた。

門はまだ何人かの僧が盛り土をどかしている最中である。

そしてその傍らに刀傷を負った男が二、三人倒れていた。

キジはそれを見て馬を降り死体と確認し兵たちに向かって怒鳴った。

「誰が討てと言ったか!愚か者め、どいつの仕業だ!」

刀を抜いて構えていた者のうち、二人がそれだと白状した。

「馬鹿め…やっかいなことになるぞ…」

そう言い放ったキジの意味を斬った兵士は理解できないでいた。

そうしているうち犯罪者の奥の方から何やら叫び声が上がった。

キジは再びギンザに乗りその方を見ると全裸の僧たちが走って来るのが見える。

それは南門からの僧たちでツジ中央部に集合し今一気に東門へと駆け登って来た。

勃起して走って来るその様は見たことがないほど殺気立っていた。

そして全裸の僧たちは東門へ逃げてきた者たちに再度後ろから襲いかかった。

それが南門からの援護と知った東門の僧たちが続いて前から襲った。

そして激しい混乱となった。

全裸の僧たちは捕まえた男を今度はその場で強引に掘りはじめた。

その道の上での異様な光景が東門の混乱にさらに拍車をかけた。

なんだこの坊主たちは、とそこから左右に逃げた者たちで南へ走った者たちが

南門から東門へと進んでいた隊の兵士たちとまず鉢合わせし衝突した。

そのうちの一人の兵が人を乗せぬままでいた馬一頭に飛び乗りさらに駆け追った。

そして犯罪者たちの群れは北へと、さらに中心部へと散り動いて行く。

その混乱の中、キジは一人も外へ出すなと命じて斬った兵二人を連れ

ツジの外へと逃げていった三人の影を馬で追った

☆058

門から逃げた三人の影は追うギンザの蹄の音に振り返った。

そして三人は東門から北へと向かう外壁沿いの道を外れ

夏草が萎え乾ききった荒野へと繰り出た。

そして三人はさらに二人と一人に別れて逃げて行った。

キジもその北上の道を外れて荒野へとギンザを進めた。

そしてまず左手に逃げた二人を急追し峰打ちにして転ばせた。

後ろから駆けてきていた兵にこれを捕らえろと馬上から合図を示し

さらに右手へと逃げた一人を追う際にあれもと指さして示した。

兵の一人は倒れた二人へと走りもう一騎はそこから右へと走った。

追えば右手へ逃げたその一人は何かを抱きかかえて走っていた。

近づいていくうちそれはどうやら赤ん坊らしかった。

─子を抱いて逃げる男親か、

そう思いながらもキジは追いの手を緩めずに男へと迫った。

逃げるその男はまさに追ってくる馬の音にその赤ん坊を捨てた。

─親ではない、

キジはそのまま男へと迫り再度馬上からこれを峰打ちに倒した。

そして投げ捨てられた子を拾いに戻りこれを懐に抱き上げた。

騎兵の一人は二人に縄を掛け、もう一騎はこちらへ走り寄って来ていた。

キジの抱いた子は乳飲み子であり歯が生えはじめた頃であった。

子は衰弱しており子供特有の生命力で生き長らえているように見えた。

キジは子を捨て一人で逃げていた男がもう一騎に捕縛されたのを見てそれに訊いた。

「どこでさらった」

男は答えずにそっぽを向いた。

「良い値が付くのだろうな、どのくらいだ、これくらいか?」

問いに男は顔を向けたがキジはその指を示してはいなかった。

人をさらうその男は馬上のキジを激しく睨んで深く目を伏せた。

左へと逃げた男二人を繋いで近づいて来ている騎兵を見て

足下のもう一人の兵に自分は先にツジへ戻るとキジは告げた。

そしてその赤ん坊を片腕に抱いたまま東門へと走り戻って行った。

馬から降りて行く兵士二人は捕まえた男三人を時々交互に殴りながら後へついた

☆059

子を抱き進みながらキジは自分が人助けに来たのではない

そしてとんでもないコブが自分に付いてしまったと思った。

しかしキジは再度東門へと子を連れて戻って来た。

門の盛り土はかなり除かれそれを閉めることができるのは

あと少しであることが見てとれる。

あとから騎兵二人が捕縛者三人を連れて戻って来ることを、

戻った二騎には東門をそのまま守るよう伝えろ、

それらを入れた後一刻も早く門を閉めるようにとキジは僧たちに命じた。

東門内での騒乱はその最中だったが明らかに僧が強かった。

全裸の僧たちは次々とその路上で男たちを犯している。

男色のない僧たちは捕らえた者たちを盛んに暴行していた。

それらの光景が東門の先々に点々と続いていた。

綱に繋がれた男たちの列が少しずつできはじめていた。

馬に乗った兵士たちが煽るようにそれらを廻っている。

キジは子を抱いたままその騎乗兵たちを集めて告げた。

西と北の隊はまだ来ない、一人が行って西と北の隊に

縦列でなく扇状に横に広くなって東門へ向かうようにさせろ、と。

そして何れの道を捜索しても良いが決して深追いしないようにと付け加えた。

隠れた者は探さずにそのままにして先へ進め、と。

そうしてそれを告げるために一騎が西門へと駆けた。

さらに馬に乗った残りの者のその二人はツジの外壁の内側を

他の二人はツジの外壁の外側をそれぞれ逆向きに廻るようにさせ

絶対に一人も外へ逃がさず捕縛しろと命じそれぞれを行かせた。

キジは赤子を抱いて戦況を読む自分の姿を少し滑稽に思った。

さらに南門から北上して東門へ来て騎乗せずにいた兵士たち四人にはそこから

横拡がりで北西へ進ませ再度逃げ抜けて行った連中を捕獲しろと言った。

途中に僧がいたらその者も共に北西へ進攻させるようにしろ、とキジは続け

南下する北門の隊、東門へと向かう合流の隊、北西への隊の三方からで囲えと、

そう命じ兵士たちはその通りに進んで行った。

犯罪者たちの残党の多くはキジの読み通りツジの北西にいた。

変化し続ける戦況に今やキジは目付の役を越え的確に判断し指揮をしていた。

そしてキジはキンザと赤子とそのまま東門の大道りをさらに中へと進んだ。

行きながらすれ違う僧侶たちには東門を守るか北西へ進むかするようにと伝えた。

そうして再度あの屋敷へと馬を西に飛ばした

☆060

ギンザを連れていた馬士たちがその馬たちの後を追い

東門に着いた時、騎兵の二人が捕縛の男たちを引き連れて

ちょうど東門へと戻った時だった。南から東までの道で見たツジ周辺の様子、

一段落つこうとしていた東門を見た馬士たちはその惨状に唖然としていた。

そして繋がれた男たちに自分たちもその気になり唾を吐いたり

裸の僧の陰茎や掘られて血を吹く尻やらを眺めたりしていた。

それら全裸の僧の中にひとり、人一倍太い陰茎の男がおり

道に大の字になって「満足じゃ満足じゃ~」と繰り返していた。

その男の見上げる空は静かに晴れた日暮れの空で美しい。

盛り土は除かれ東門は閉じられた。

そしてそのしばらく後に東門からのホラガイの音がツジ全体に響いた。

キジは中央部へと進みながら会う兵と僧に北上するよう告げた。

南と東の門は堅い、残党は北に、ツジの北上部、北半分にいると伝えた。

そしてキジは進んで再びあのカワナニの屋敷へと戻って来た。

表に残したあの剛毛の従者はどこかへ行って今はいない。

ギンザを表に残しキジは赤子を抱いたまま屋敷の北へと廻った。

陽はさらに傾き先に来た時よりも薄暗い。

苔の美しいその北側、その東西の半ばにあの女着の乞食がひとり座っていた。

キジは歩み寄り乞食にしゃがんで言った。

「おぉ、よく待っていてくれたな」

乞食は無表情なままでキジを見ずに口をもぐつかせている。

「悪いがな、そのあめ玉、この子にもらうぞ」

そして乞食が手に持っていた袋を取り

その中からあめ玉をひとつ取り出した。

そしてそれを乞食に差し出し「これで我慢してくれ、

あとの袋はこの子にやらんと」

牢部屋を脱出したキジは乞食にあめ玉の袋を持たせた。

そしてこの屋敷の北側で迎えに来るまで待つように頼んでいた。

騒乱のはじまる市街よりもここが安全で確実と考えたのである。

あとは乞食がそれを聞いてくれるかどうかだった。

乞食がキジの言うことを理解していたかどうかはわからない。

しかし乞食はそこを動かずにそのままでいたのだったらしい

☆061

「日暮れまでにまた来る、もう少しここで待っていてくれ」

キジはそう言って渡したあめ玉を乞食の手から取り

その口へと押し入れてやった。

「どうだ、美味いだろ」

キジは乞食に歯が揃っているのを知って頼もしく思った。

この歯なら何を食べても平気だろう、大陸への厳しい船旅、

それを越え大陸へ渡った後その知らぬ地でも生きていける、

キジはそう思った。

─凄い臭いだ…とも思っていたが。



「おうまはん、はっかぱっか」

乞食はあめ玉をほおばった口でそう言った。

「そうだ、馬で行くんだ、このあと好きなだけ乗らせてやる」

キジはそう答え続けて乞食は言った。

「どんぶらほ、ほんぶらこ」

それにキジは答えた。

「あ?それは知らんな」と。



「それじゃ頼むぞ、待っていてくれ」

そしてキジは子を抱いたまま屋敷の前に戻り中へと入った。

キジはあの中庭へと向かった。

屋敷内に人の気配はない。

薄暗さが増したその室内をキジは渡って中庭へと降り立った。

北側のあの牢のある錠部屋を見たが奥は暗がりでよく見えなかった。

この距離ではあの下人にも自分の姿は見えなかったかな、

キジはそんなことを思い首と腕に輪を掛けた男を思い出していた。

そしてあんな所で死体と一緒に横になっているとはと、

置いてきたその乞食の非常識さに少し呆れた。

─女着をまとったのはあの乞食自身なのだろう…

しかしあの死体を北向きに並べたのは誰なのかな、

ずいぶんな物好きがいたものだ…

キジは湧き水に寄り口をゆすいだ

☆062

一度乞食に渡していたあめ玉の袋からひとつを取り

布に包み刀の柄で細かく砕いた。

手に水を浸し子の唇を濡らしてみた。

その唇がかすかに動いた。

キジは手からの水を指先で子にさらに飲ませた。

─助かるかな、乳替わりだ…

キジは細かくさらに砕いてあめの粒を水と一緒に飲ませた。

子は口を動かして反応しキジはまたそれを注いだ。

そして荒らされた部屋から一枚の着物を拾った。

もし女ならここで死んでしまった方が幸せか、

大の男でさえ生きていくのは辛いこの世だ、と

その子の汚れた服を取り替えたが男の子であった。

さらに他の何枚かをたたみそれで子をくるんだ。

子は目を閉じたまま眠ったように動かない。

─死ぬのか…

目を細めその子の顔を覗いた。

中庭の静けさに湧き水の流れる音がしている。

仰ぎ見た夕刻の空には遠く騒乱のざわめきがした

☆063

その粛清は時刻の経過と共に確実に進んでいった。

僧たちは強く犯罪者たちを次々に打ち倒していく。

そして南門と同じく、東、西、北それぞれの門周辺に

男たちを繋いだ綱の列ができていた。

逃げた者たちはキジの読みの通りツジの北西、

そこで自分たちが三方から囲まれていると悟った。

馬で外と内を廻る兵士たちはツジ外部へ逃げた者、

それが一人もいないのを確認して東門へと戻った。

そして外側の者はそのままツジの外側を廻り見張り、

内側の者も同じに内側を廻り見張った。

この時、飢饉のツジを見物に来ていた非情な者たち四百人は

一人残らずツジ内部に包まれていた。

北側の兵と僧たちにキジからの指令が伝わった頃

北の隊は南下を続けて東門近くにまで進んでいた。

捕えた男たちを綱に繋ぎながら、ツジの鎮圧はその終局にあった。

その間暮れ行く空に何度か火矢が上がった。

その矢は高い音をたて上がり途中爆発する、

そしてさらに上がって行き再度爆発する、

そしてさらにもう一度上がり爆発して散るというもので

キジからの合図であった。

そのような火薬を仕込んだ矢を放つ者はキジしかいない。

キジはツジからさらに遥かに隔離した土地、

そしてそこからさらに船で移動するひとつの島、

そこで大陸からの武器商人と関係を持っていた。

大陸の武器を仕入れ、それを崩して調べ

さらに自らが改良し直すということをしていた。

その矢はキジが独自に作り上げた武具だった。

矢はツジ中央部付近から放たれており

彼がそこにいることを周辺の兵士たちは知った。

さらに兵たちは捕えた者たちをそれぞれの門へと

集めるように乱僧たちへ促した。

キジは事前にそうすることを兵士たちに告げていた。

各門の捕縛数の説明から事態の経過と戦果を朝廷へ報告しようと考えていた。

そしてそれぞれの門に繋がれた男たちが集められていった

☆064

ツジに刻々と夕闇が近づく。

暗くなっていく屋敷の奥間。

中庭に立つキジは子を抱いて立ち尽くした。

指笛で表に待たせておいたギンザを呼んだ。

ギンザは頭を上下に振りながら室内を渡って来た。

キジは馬を中庭に降り立たせその湧き水を飲ませた。

静けさが再びツジを覆いはじめている。

それは騒乱の終わりでもある。

ツジの北西へと逃げ散った者たちは僧と兵に捕縛されていった。

隠れた者もその一人もツジ外部へ逃げ出させずにこののち繋がれた。

繋がれた者たちは各門へと集められ兵によりその何人かが割り出されていった。

何人か兵士たちが打ち上げられた火矢をたよりにツジの中央へと来た。

そして子を抱いてギンザと立つキジと合流した。

キジは遠くを見ていた。

他の兵士たちがそちらを見れば先に立つ男がいる。

男は何やら両腕を上げてたたずんでいる様だった。

それはキジに輪を掛けられたあの従者である。

一軒の家に隠れていたが外の静けさに出てきた。

そして自分の主の屋敷の前に立つキジと馬を見た。

そのまま逃げても輪は取れない。

しかし近づいて行くわけにもいかず

その遠くの場所からキジの長身を見つめていた。

僧侶たちは迫る日暮れの空を背に再び動き始めた。

死んだ者たちを各場所に山として集め積んでいった。

生きているのか死んでいるのか判らない者もすべて。

討伐に疲れた兵士たちは黙ってその様子を見ている。

そして僧たちはその山に火を放ちながら廻っていった。

ツジの疫病発生は回避された