241~250 | BED

241~250

☆241

 夜になった。ハチは南門周辺の屋根を見下ろせるいつもの階上にひとり座っている。初夏の夜風。好きな肴を大きめの杯で。遠く夜の木立が影になって見える。涼しい。
 細く伸ばしたあご髭に触れる。首筋と両肩をさすり撫でた。己の闇を見つめながら―
 下周辺からは歓楽のざわめきが聞こえている。カワナニの市、このツジ南門は夜になって賑わいはじめていた。
 カワナニの賭場では、役者が張りの舞台に上がるのは、十日、二十日、三十日と決められている。役者目当てで十、二十、三十日に見世は群れた。それ以外の日にも賭場は明けるが五ノ壇、六ノ壇で打つのが慣例だった。
 それらの日には「枚」に数えられない、「目」がつけられない勝負師である「三下(さんした)」が代役を務める。「役に立つ」という。彼ら三下は「枚目(ばいもく)」の付く役者になることを狙う蒼き勝負師たちである。
 役者と役者、役者と三下、三下と三下。見世と張り合いながら勝負師どうしも激しく競り合っている。下手を打てば下位へ、上手なら上位へ異動された。
 九、十枚目は四ノ壇までしか上がることができず、六、七、八枚目は三ノ壇までしか上がることができない。三、四、五枚目は二ノ壇までしか上がることができない。一ノ壇での張り振りが許される役者は二枚目だけであり、二枚目はどの壇にも上がることができた。三下は五、六ノ壇にしか上がれない。これらを壇における「関(あずかり)」といった。
 二枚目は、三枚目以下の役者たちと三下たちの誰へも自分と番を組むこと、連賭けすることを命じることができる。「使名(しめい)」という。三枚目は四枚目以下のどの役者、どの三下へも使名できる。以下順に、枚目の少ない役者を下位の役者として使名できた。十枚目は三下なら誰にでも使名できた。
 使名は勝負のはじまる前にされこれを拒むことはできない。使名が上手く働くか否かは背後の人間関係も複雑に絡む。
 三枚目が三下を番に使名し二ノ壇へ上がらせた場合など、関は破られることとなる。「急ぎ(またぎ)」という。使名による場合にのみ急ぎされた。急ぎは勝負師どうしの駆け引きにも使われる。急ぎした勝負師を「燕(つばくろ)」といった。

☆242

 カワナニの市、その外輪に位置する小さな料亭。遊女が二人、小走りに入っていく。狭い中、二人は奥の個室へ。
 女二人は開けた襖の部屋を見て声を上げ喜んだ。
「由宇ちゃん」 「あはは、由宇ちゃん」
その小狭い座敷に由宇はいた。手ぬぐいをほっかむりにして座っている。
「いや、見つかるとまずいだろ。俺、出入り禁止にされてっからな」
女二人は大笑いしながら上がり込んだ。
 店の旦那が料理の盛られた大皿を持ってくる。
「由宇さん、頼みますから、店の中で争い事だけはやめてくださいね」
「わかってる、心配しなすんな。これ」
徳利を振って見せる。
「五本くらい持ってきて」
 由宇と名乗っていたサル、南門の混沌の内に、この夜入り込んでいた。女二人はこの街の遊女で由宇を好いている。不細工だが気立てはいい。自分の連発する冗談に、もんどり打って笑ってくれる二人。由宇も二人を好いていた。
 由宇はこの二人を人づてに、この料亭へと呼び出した。まだ若い店の旦那は由宇に一目置いている。出店の準備時に由宇から大金を貰い、そのままにもなっていた。由宇はその金には一言も触れてこない。由宇には頭が上がらない。
 由宇は女二人に、たらふく飲み食いさせてやった。最近のカワナニの市の様子も訊いてみる。女たちの話からもカワナニの賭場に新手の潰し屋が入ったのは確かだった。

☆243

 カワナニの賭場に役者が出るのは次の三十日。サルは、その三十日までにヒロシマの市に入っておくように夕猿の組員に言い放ったことを思い返す。南土で―。
 ハカタの市とハナビシのある港町―。
 三十日の賭場にその新手の潰し屋が現れるとは思えない。カワナニは臨戦の態で待ち受けるだろう。もはやその賭場は勝って帰れるような場所ではない。そいつらが三十日に賭場に入れば、負けて帰ることを許されるか、勝って殺されるか、どちらしかない。
―来るわけねぇやな、来れば殺される
サルはその新手の潰し屋が、近隣の別の賭場に現れるだろうと踏んでいた。
―そのうち身元は割れるだろうぜ
 サルは三十日までにヒロシマの市へ移動すると決める。カミノセキの市へは寄らずに。
 三十日の賭場に潜り込んで、カワナニの役者連中の面も拝みたかった。カワナニの役者たちが、その枚目を激しく立ち替わりしているということを聞いていた。サルはカワナニの二枚目をまだ見たことがなかった。噂には聞いたことがある。
―カワナニの二枚目は何も喋らない男
 ツジ南門の繁華、手ぬぐいをほっかむりにしたままサルは歩いて行く。両腕をさっきの女二人にすがられて。由宇は背が高く細かった。女二人は喜んで抱きついてくる。
「ちょっと由宇ちゃん、さすって」 「由宇ちゃん、手ぇ入れていいんだよ」
―うるせぇな
 前から来た男、避けるように立ち止まり後ろを振り向く由宇。
「大丈夫だって由宇ちゃん。もぉ誰も由宇ちゃんのこと追っかけちゃいないから」

☆244

 由宇は女郎屋の集まる一角にいる。女二人に袖を引かれて。細い道をさらに奥へ。石段を登る。裏の小道。人はいない。指し示された場所には老人が一人、腰掛けていた。由宇と女二人を見て笑っている。
 「お晩。よろしくね。この人、由宇ちゃん」
由宇はその座る老人に軽く会釈した。
「いくらか渡したほうがいいんじゃねぇかい」
「大丈夫だから。無駄遣いしないの。ほら、いって」
由宇は尻を触られながらその先へ進む。
 入った部屋のそこには階上へ上がる梯子がしつらえてある。
「ここから昇っていけば賭場へも入れるし」と女。
由宇は見上げていた。
「由宇ちゃん、このあと、どぉするの。またどっか行っちゃうの」
「ヒロシマの市にな、行く。誰にも言うなよ。内緒だぜ、ホントによ」
「少し寝たほうがいいんじゃない。店で待ってるから。ね」
「そうよ、由宇ちゃん。応瀬から来てすぐヒロシマの市なんて、ね」
「そうよ、体洗ってあげる。私たち、ね」
「そうよ、由宇ちゃん。待ってるから。ね。来てね」
 由宇は女二人にいくらかの金を握らせた。
「ありがとよ」
梯子を昇っていく。女二人は最後まで由宇の尻を触って喜んでいた。由宇も好きにさせておいた。

☆245

 由宇が梯子の先から顔を出す。ツジ南門の屋根が続いている。由宇は上がった。南門周辺を埋め尽くす屋根。
 屋根と屋根の隙間から階下の光と煙が漏れている。大小様々な形をした灯りと煙。屋根屋根の方々から無数に漏れて立ち昇っている。
 南門の家屋は長屋がさらに密集した大長屋、その大長屋がさらに密集した混沌が続く。高さに違いはあっても屋根屋根は、ひしめき合ってほとんどが繋がっている。階下の喧噪が立ちこめる南門の屋根の上を由宇は賭場の方角へ進んだ。
 こもれ灯のひとつを覗く。座敷で歌い飲んで騒ぐ男女たちがいる。別の隙間からは全裸で抱き合う男女たちの様子が見えた。その薄明かりに照らされて微笑む由宇。きしむような薄い屋根を避けながら静かに歩いた。
 屋根屋根の先、右手に南門の異様がそそり立つ。門を目印に足下がカワナニの市のどの辺りかはだいたいの見当がついた。さらに賭場へと屋根を渡る。
 由宇は立ち止まった。人影が見える。人影は賭場のある場所のちょうど上の屋根にいた。陣取るように座っている。由宇はといえば背に巾着、刀を包んだ袋を持っている。由宇はそのまま進んだ。何かあれば刀を使う気でいた。
 人影は動かない。さらに近づく。影は男。男の横目に自分の姿が意識されてもいい距離。男まであと二十歩というところで由宇は立ち止まった。相手には自分の足音が聞こえているはず。男はこちらを振り向かないで地平を見続けている。由宇はさらに近づいた。
 座る男の横顔。それはハチである。ハチは杯で飲んでいる。近づく人影に気付いてはいるが振り向かない。ハチはすべてを無視して今宵を見つめていた。

☆246

 「お晩です」を三回目に大声にして、サルはイヌを振り向かせた。サルの大きな目玉をイヌは見た。サルも見た。イヌの細くつりあがった目、こけた頬、あごの細く長い髭。
 サルとイヌ、二人はこの夜にはじめて出会った。
 サルの持つ刀の包みを見流してイヌは前に向き直った。そのまま二人、しばらく夜の中に何もせずにいた。
 このあと、サルはもう少し寄って見た。イヌは刀を足元に置いている。それが見えた。これほどの至近。斬りつければどうなるのか。それでもイヌは前を見たままで動かなかった。
 ゆっくりとサルはイヌの背面を通過していく。刀を袋から出していた。屋根がきしんで音を立てる。
 それでもイヌは振り向かない。そのまま前方の夜影を見据えて動かないでいた。
 そのままで静かだった。
 サルは相手の顔をはっきりと見た。イヌもそれは同じ。風が流れる。静かなとき。
 右手から寄ってきて背後を通り左手に抜けていった相手。イヌは左を振り向いたが誰もいなかった。サルは姿を消した。
 誰もいない夜。いつもの屋根の夜。イヌは飲み直す。
 自分たちが鬼と死闘することになるとは思いもしない夜。静かな夜。
 夏。どこかで夜の蝉たちが鳴きはじめていた。
 シュテンは朝廷と戦った。オロチはセキと戦った。イバラキはシュテンと出会った。
 イヌとサル、出会った。

☆247

 おれたち、どこへ行くんだろう。近頃は、よくそんなこと考えてる。答えは知らない。
 自分はガキの頃から体、でかかった。飯も人一倍食わないと、済まないわけさ。大食らいって、よく殴られた。いつも腹が減ってたのを、おぼえてる。
 里子かなんかで、家からは捨てられた。たぶん売られたんだろうね、今にして思えば。豪農がいて。そこに雇われたんだ。住み込みで。奴隷として。
 仕事は畑作業とかさ。開墾だよな。石転がして、畑作るために土地耕すみたいな。
 朝から夜まで、そんなことしていたな。仕事は楽じゃなかったけど、おれにしてみりゃ最高だった。飯はたらふく食えた。たらふく食って、力仕事して。その繰り返し。
 汚い飯でも腹いっぱい食えたのがよかった。今の自分の力は、そこで培われたんだとおもう。同じ棟には病気で死んでいくような大人もいたけど、自分は生き残れた。
 おれはよく働いた。子供だったし。外じゃ噂になってたらしい。それで別の場所に売られた。買い手が大陸との密売人で、そいつの用心棒になった。殺しはそこでおぼえた。  
 カイやら、ジンマやらにはその頃出会った。みんな孤独で、つまらない毎日過ごしていたな。だからお互い、近づいてこうなったのかもしれない。でっかいのと、ちっちゃいのと。笑えるだろ。おれたち。
 生き物なんてもんは明日にゃ死ぬかもしれない。おれの虎と熊もみんな、朝廷の奴らに殺されちゃった。大陸から仕入れて育てたのに、赤ん坊の頃から。泣いた。
 おれたち、太陽と鉄とかって呼ばれてたらしいけど関係ない話だね。おれたちはおれたちなんだ。それで今までやってきたし、それはこれからも変わらない。
 イバラキはいい奴だ。おれたちを助けてくれた。組む気でいる。鬼として。

☆248

この舟はきっと

届くだろう

あなたを乗せて

優しい場所へ

この舟はきっと

届くはずだよ

あなたを乗せて

柔らかな土地へ

忘れないで

これまでのこと

これからのこと

あなたの心を

思い出して

私のことも

あなたと歩いた

それだけでいい

この舟はきっと

届くだろう

あなたを乗せて

誰をも連れて

さようなら

☆ 249

 夢の中では、なにも変わらない。土地も、人も。薄暗い頃に目がさえて起きて走った。夏の薄霧。暗い森の道なのに怖くなかった。どうしてだろう。あの頃。
 細い道の森の奥にモモは住んでいた。キタさんとキビさんと。
 待ちきれなくてモモを呼ぶと目をこすりながら出てきたなぁ。ふたりで走って。カブトの木があった。そこに前の日、砂糖をすり込んでおく。朝、何匹もカブトやらクワやらコガネがいるんだ。うれしかった。あの頃。眠かったけど―

 三十日。昼過ぎからツジは人で賑わっている。特に市の中の飲み食い処はどこも繁盛していた。カワナニの賭場が傾いている、三十日で倒れるかもしれない。その噂にいつもより方々から見世が集まりはじめていた頃。
 午後、カワナニは役者十人を呼んで座らせている。いつものとおり十日、二十日、三十日と役者連中出陣前の集会。ただ今回は雰囲気が違っていた。誰もそれを言わなかったけれど、皆それには気づいている。黙ったまま。カワナニが部屋の連中に言った。
 「振り張りなぞは負けていい時もある。勝ち続けてると不思議と人は喜ばねぇもんだ」
「いつも言ってるが、おまえらは俺が揃えた。最強で最高の役者共なんだ」
「賑やかにやれれば一番いいやな。頭使って見世を喜ばせてやってくれ。行け」
 散会直後、カワナニはハチを引きとめて言った。
「頼んだぞ二枚目」

 近頃は暑い日が続くようになってきた。ハチはいつもの階上の場所で平原を見つめている。例の身元不明の三人が来れば今宵、誰か死ぬことになるかのか―

☆250

 陽が暮れていく。市に入っていた客は賭場周辺に集まりはじめている。賭場が明ける。十日、二十日の倍、見世が入りそうな賑わい。今回は入場料収入だけで、十日、二十日についた損害は消えるだろうとカワナニと三次は言っていた。
 カワナニの賭場が沈みかけているという噂は大きくなって広がっている。噂は放っておかれた。客寄せにはこれが一番いいことをカワナニも知っている。
 ハチは十枚目、九枚目、八枚目の三人を先に六ノ壇へ出させた。
 各台には「司(つかさ)」と呼ばれる張り振りの進行役が付いている。司は賭場側の人間。本台で役者と直に戦いたいと願う見世は、その本台の司が持つ袋に手を入れる。袋の中でいくら持参金があるのかを指で示す。「握り(にぎり)」という。
 最も高い値を握った者が本台に上がるわけではなかった。司の頭と腕がここで試される。握ってきた者の中から誰を役者と戦わせるのか。その決定の権限は司が握っていた。場の勢いを読み誰を台へ上げるかを即決していく。二人、番で上がらせる者たちもいれば、連賭け、三人で上がらせる者たちもある。単騎、一人で張りの舞台に上がる者もいた。
 見世と司は顔馴染みになることが多い。司は見世と賭場外で会うことを禁じられていた。
 カワナニの賭場には一ノ壇から六ノ壇までに本台は二十一台ある。司はそれと同数おり、それとは別に各脇台を仕切る司が八十二人いる。百三人の司が各台に上がる。司どうしも競り合う階級制にある。
 役者と司は話さず目を見ずとも疎通できるといわれる。賭場では役者に次いで司にも重きが置かれていた。
 十枚目、九枚目、八枚目にしばらく六ノ壇を廻らせる。例の三人は来ていない。