帯ひろ志の漫画放浪記Powered by Ameba -128ページ目

漫画家入門

初めて買った漫画家入門書は、親に買って貰った、「あさのりじ著、漫画家入門」だった。
実は、どんな漫画を描かれておられるか知らなかったのだが、著書に「光速エスパー」と書いてあった。
「光速エスパー」はテレビドラマで放送され、僕も大好きな番組だったので、毎週欠かさず見ていたものだった。
へーっ、この人が作者なんだーと、思ったのだが、後に電器店店頭に飾られていた「光速エスパー」の人形が
あさのりじ版から、松本零士版の人形に切り替わったので、子供の僕は見事に混乱した(笑)
大人の事情なんだろんけど、そんな事に気がつくのはもっと後の話だ。

脱線してしまったので、話をもどそう。
この本で、大体漫画を描く過程が掴めた僕は、早速実行に移す。
もう、文房具屋のおばちゃんに、トレぺをケント紙とは言わせない!!
インクも、製図用インクや墨汁を使えばいいと解った。

謎だった部分が氷解し、僕は早速初投稿作にとりかかった。
しかし、まだネームは作らないし、原稿用紙に思いつくままにギャグを描き、描き倒していった。
案の定、ページが足りなくなり尻切れトンボになってしまったが、強引に終わらせた。
まるで逆ギレの様な終わり方(苦笑)
その、描き終わった15ページの作品は、集英社の手塚賞に送った。
まだ当時は赤塚賞が無かったので、ストーリー漫画もギャグ漫画も手塚賞で選考していたのだ。

審査発表のジャンプ発売日が来た。
冷静に考えれば、入賞する事など微塵も無い事は分る筈だが、そこは小学生、おおいに期待しているのであった(笑)
結果は当然の如く、なんにも擦りもしていない。
そりゃ、初めてペン入れして完成させた漫画が、出来が良い訳が無い。
悪いところも自分で分っているのに、直しもしないで出したのだから。

けど、良かったと思うところはあった。
それは、幾ら頭の中で素晴らしい作品を描いても、実際に形にすると言うことは、全く別物だと分った事だ。

そして、そんな時に古本屋で衝撃的な一冊の本に出会った。
石森章太郎先生の続・マンガ家入門だった。
ダメなりにも1本マンガを描いた後だったので、この入門書に書いてあるある事が、頭にどんどん入ってくる。
そうか、なるほど、ふむふむ!
特に石森先生のマンガ、「竜神沼」を使った解説にマンガの奥深さを知り、益々マンガ描きにのめり込んで行くのであった。

ケント紙を探せ。

初めてのペンとちょっと前後するが、ペンを入れる原稿用紙を手に入れるのに苦労した思い出がある。

今の時代と違い、昭和46年当時には、漫画の原稿用紙なるものは売っていなかったのである。
そりゃ、存在しないものは売れないよね。当然だけど。

で、どんな紙を使えばいいのか、と言うと、「ケント紙や模造紙を使って」と、漫画雑誌の投稿欄には書いてある。
しかし、このケント紙や模造紙が、どんな紙なのか少年帯ひろ志にはさっぱり解らない。
近所の文房具店を2件ほど廻ったが、解らないと言う。
学用品とかを置いてある店だから、あるのはボール紙や画用紙などだ。

僕が困っていると、可愛そうに思ったのか、「そうだ、おばちゃん、この紙の名前知らないから、これがきっとケント紙だよ」
と、1枚の大きな薄くてヒラヒラする紙を取り出してくれた。
おばちゃんの言葉に、僕の心はときめいた。

これで、漫画が描ける!!

それ下さい!!
嬉しそうな僕の顔に満足したのか、「はいはい」と言ってその紙をくるくると丸め、僕に持たせてくれた。
じゃ、50円ね。
高い!
1枚で50円。さすがプロも使っているケント紙、並の紙とは格が違う!
と妙に興奮し、50円を支払い、意気揚々と岐路についたのである。
当時50円と言うと、発売が始まったばかりの缶ジュースと同じ値段だったと記憶している。
今で言うと、120円位と言う事か?

家に着いた僕は、早速その紙を広げた。
しかし、おばちゃんがくるくると巻いてくれたケント紙は、「くるくる」の癖がついてしまい、
何度伸ばしても丸まってしまう。
それならばと、逆巻きで癖を取り除こうと、巻いてみた。
しかし、あろうことか、無残にも折り目がついてゆくケント紙。
なんとか広げられた時は、あちらこちら折り目が白く目立つ「ヨレ」っとしたとても50円の価値があった紙には見えなくなっていた。
もう、半分泣きそうである。

しかし、ここでめげてはプロの漫画家になんて成れやしないと、自分に鞭をうち、原稿を
規定のサイズにカット。
約4枚ほどとれたと思う。

早速その紙に鉛筆で下描きをはじめてみた。

!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?

描き難い。
おまけに、消しゴムを使うと最悪で、消えるどころか鉛筆の黒墨をぐいんぐいん伸ばして行くではありませんか。

こんな描き難い紙に、漫画を描くなんて、やっぱり漫画家って凄い!!

おばちゃんが売ってくれた紙が、トレーシングペーパーであった事に気付くのは、ほんの少し後の事である。
号泣!!

初めてのペン

僕が、はじめてつけペンを使ったのは小学6年生の時だった。
兎に角、漫画を描く真似がしたくてしょうがなかった時だった。
ネームを描いて、下描きをして、それからペンを入れるなんて知らない頃だったから、
いきなり原稿用紙に下描きをして1ページ描き終わるとペンを入れるなんて事を
している頃だった。
まぁ、やってはいけない訳では無いが、プロになれば打ち合わせが必要なので
ほとんど通用しないやり方だ。
ま、それは置いといて、問題のペンだ。
下ろしたてのペンをインク壺にドプッと浸ける。
さあ、描こうと原稿用紙の上にペンを運ぶと..................。

ぼたっ。

ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ。
そう、インクが垂れるのだ。
漫画を描き始めた初心者が、恐らくは誰しも遭遇するだろう最初の洗礼だ。
ペンにどれだけのインクを浸ければ垂れないのか解らないし、ましてや
下ろしたてのペンには錆止めにうっすら油が塗ってあり、インクを弾いて
垂らしているなんて、皆目検討がつかない。
そりゃ恐ろしい程のインク垂れまくり原稿の出来上がりである。
しかし、小学6年の僕はめげなかった。
漫画家入門に、ホワイトを使えと書いてあったからだ。
丹念に垂れたインクにホワイトを塗る。
一生懸命に塗る。一心不乱に塗る。
塗れば塗るほどホワイトが黒くなってくる。
もう、泣きそうだ。

やっと出来上がった原稿は、こんもりとホワイトの盛り上がった原稿だった。
そんな事を繰り返しながら、6ページも進んだ頃だろうか。
最初のページを描いて1週間程たったと思う。
こんもりと丘を築いたホワイトは、乾いてパリパリのヒビが入っていた............。
さらに、黒インクはいつの間にか退色して、赤茶ぽくなり、太陽の光にさらすと
なんとなくキラキラとして見えた。

キレイ.................。

そんな事言ってる場合じゃない!!
そう、使うインクを間違えていたのだ。
多分これは、万年筆のインクだったと思う。

さすがの小学生も、これは使えないと悟った。
更に、手入れを怠ったGペンは錆、クッと力を入れた瞬間に折れて先が飛んで行って
しまったのだ。

やっとインクが垂れなくなって喜んでいたのに..............。
こうして、初めて買ったペン先は無くなり、赤くなりひび割れたホワイトの原稿は
泣く泣くゴミ箱に埋葬される事になった。
苦い苦い、ペン入れデビューの思い出である。

もう一人の帯ひろ志

ペンネームの帯ひろ志についてなんですが、こんな話もありました。
確かデビューしてから10年もしないころに、当時新聞記者をやっていた伯父から連絡があり、「お前、司会もやっているのかと?」聞かれた事がありました。

もちろん僕は司会なんてやってない。
実は同じ「帯ひろ志」と言う名前を使っていた芸能関係の方がいらしたのです。
劇場かなんかで舞台だったか歌謡ショーだったかのチラシに「司会帯ひろ志」と「ひろ」の部分だけがちゃんと平仮名の名前があったそうで。
伯父はてっきり僕だと思ったそうです。

同じ名前で活動されている方がいると知り、正直「うわー、やばいなぁ」と思いました。
良く考えれば、そんなにやばくは無いのかも知れませんが、なんだか気恥ずかしいと言うか.............。

今、もう一人の帯ひろ志さんは、どうされているのでしょう。
ちょっぴり気になります。

絵を描き始める。

3歳の頃から絵を描くのが好きで、毎日保育園帰りに落書きノートを一冊買って貰い、家に帰ると夢中でノートを落書きで埋めていました。
描いていたものは鉄腕アトム、鉄人28号など当時始まったばかりのテレビアニメのヒーローだった。
これらの放送日は大変で、見て気に入ったシーンを模写するのに燃えていました。

幼稚園に通っている頃だったと思うが、「漫画を描くのがうまいわね。漫画家になるの?」と聞かれ、漫画家が何をする人かも分からず「うん」と答えていました。
今思うと、その時に刷り込まれた漫画家になると言うイメージを追いかけて漫画家になってしまったのかも知れません。
ああっ、なんて単純。
しかし、こういうキッカケもあるのかと思うと、人間の思い込みと言うのは凄い。
なんでもやってやると言う前向きの姿勢は大事だね。