本來ほんらい、人生は樂たのしいもの
樂たのしむものであり、
苦しむためのものではありません。
本來ほんらいの人生を送るための
サポートをさせていただいている
生き方ティーチャー
淨守 黎凪(きよもり れいな)
人は人と關かかわる時、
相手を分析しながら見てる。
私がそのことを知ったのは、中學生ちゅうがくせいの時でした。
同級生が、
あの人、こういう話題になると嫌な顏かおをするよね〜
この人、いつも相手を傷つけるようなことを言うよね〜
あいつは、都合が惡わるくなったら逃げるよね〜
あの人、こういうとこあるよね~
な〜んて言ってるのを聞いて、
え?
そういう風に分析してるんだ。
って、ビックリしました。
私はといえば、そんな分析なんて頭にもなく、
話す時は話に集中してて、
話を聞く時は聞くことに集中してた。
どんな人かは、全く見てなかった。
分析しながら見るっていう考えさえなかった。
なんて暢氣のんきなことよ
そういう風に、人を分析しないといけないんだと思いました。
が、いざ、分析しながら見ようとしても、
全くできず
確かに、
目は、身體からだの外側を見るようになってます。
耳は、身體からだの外の音を聞くようになってます。
常に外向き。
でも、學まなびが進んでくると、
外側を見たり聞いたりするためだけに、
そうなっているんじゃないとわかってきました。
この現實げんじつ世界は、二元と言われるように、
何かと比べないとわからないようになってます。
ん〜
そうだなぁ…
例えば、身長が180㎝の人だけを見て、
大きいか小さいかと聞かれても、
どちらとも言えないと思います。
大きいと言えるのは、身長が150㎝の人がいるからです。
逆に、身長が200センタの人がいれば、
小さいとなりますよね。
そういう風に比べて初めてわかるようになってます。
人もそうです。
いろんな人がいるから、
自分を知ることができます。
いろんな考え方を聞くから、
今までの自分の考え方を見直すことができます。
いろんな捉え方を聞くから、
新たな捉え方ができるようになるんです。
それは、
自分を卑下したり、
自分にダメ出ししたりするためではありません。
單たんに、自分を知るためです。
(ためってつけちゃうと、ちょっと重い感じですが、
言葉上ということで。)
この世界は、
自分を知るための寶たからの寶庫ほうこ
そう考えると、
人生って、
寶たから探しをして、寶たからを見つけて、
本當ほんとうの自分に還る旅とも言えると思います。
いつだって、
自分を知るための現實げんじつが準備されてる
いい具合になってます
さすがです
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