日本の女性像 1
16世紀の女性像(ルイス・フロイス)
( 網野善彦『日本の歴史をよみなおす』から )
* 問
網野は16世紀ルイス・フロイスの描いた当時の日本女性像を詳しく
解読してますが、ここが一番驚くところです。
網野のいう南北朝の歴史的転換後の事で、女性差別が厳しくなる
近世直前でも、女性の社会的地位は驚くほど高く、「自由」(というと
語弊があるが)だったのではないか、少なくとも一方的に虐げられ
抑圧された中世女性イメージは違うのではないかと、思わされましたが?
* ジェミニ
網野善彦氏が解読する16世紀日本女性像:フロイスの記述から見
えてくる「自由」
網野善彦氏がルイス・フロイスの記述を解読する中で、特に注目し、
そして多くの読者を驚かせたのは、近世を目前とした16世紀において
も、日本の女性の地位が想像以上に高かったという点です。これは、
一般的に認識されている「中世の女性は一方的に虐げられ、抑圧され
ていた」というイメージを大きく覆すものでした。
網野氏が指摘するように、南北朝の転換を経て、女性の地位が相対
的に低下していくという流れはあったものの、フロイスが記した当時
の日本の女性たちは、以下のような側面において、現代の私たちが考
える以上に「自由」な存在であった可能性が示唆されます。
・経済的な自立性: フロイスの記述からは、女性が経済活動に積極的
に参加し、財産を所有し、それを自由に処分する権利を持っていたこと
が読み取れます。これは、家父長制が強化される近世以降の女性像とは
大きく異なります。
・婚姻・離婚における主体性: 網野氏は、女性が婚姻の選択において
ある程度の自由を持ち、また、離婚も比較的容易であったことを指摘
しています。現代の感覚からすると驚くべきことですが、女性が自ら
の意思で人生の選択を行える余地があったと考えられます。
・社会における影響力: フロイスの記述には、女性が社会的な場面で
発言力を持ち、政治や文化において影響力を行使する様子が描かれて
いると網野氏は解釈しています。単なる家庭内の存在に留まらず、
社会の一員として認識されていた側面があったということです。
・性的自由の認識: 網野氏の解読では、当時の女性たちの性的自由、
あるいはそれに対する社会の認識が、後世の道徳観とは異なる部分が
あったことも示唆されています。
もちろん、「自由」という言葉には語弊があるという留保は重要
です。現代的な意味での「自由」とは異なる文脈で理解する必要が
ありますし、身分や地域による差も大きかったことでしょう。
しかし、それでもなお、フロイスの記述を通して網野氏が提示した
16世紀日本女性の姿は、私たちが抱く中世女性の固定観念を揺さぶり、
より多角的で複雑な実像があったのではないかと考えさせられるもの
です。
この網野氏の解読は、歴史を見る上での新たな視点を提供し、私
たちが過去の社会や人々の生き方を理解する上で、いかに先入観に
とらわれているかを改めて問いかけるものと言えるでしょう。
** 以下は私の補足
この16世紀ルイス・フロイス(1562年に日本に来て1597年世を去
るまで35年間日本で生活した)の描き出した日本女性像は実に驚く
べきものです。これは是非知っておいてもらいたい。
*「日本の女性は、処女の純潔を少しも重んじない。それを欠いて
も名誉も失わなければ結婚もできる」
* 財産は「日本では各人が自分の分を所有している。時には妻が
夫に高利で貸し付ける」
*「日本では(妻を)意のままにいつでも離別する。妻はそのこと
によって名誉を失わないし、また結婚もできる。日本ではしばしば
妻が夫を離別する」
* 「日本では娘たちは、両親に断りもしないで、一日でも数日でも
ひとりで好きなところに行く自由を持っている。日本の女性は夫に
知らせず、好きなところに行く自由を持っている」
* 「日本では堕胎はきわめてふつうのことで、20回も堕ろした女性
がある。日本の女性は、赤子を育てていくことができないと、みんな
のどの上に足を乗せて殺してしまう」
* 「日本では比丘尼の僧院はほとんど淫売婦の町になる」
これら全てがフロイスのキリスト教的倫理観からする偏見に根ざし
たものではなく、当時の女性像としては真実であることを、網野も
認めざるを得なかった。そしてこの状況は江戸時代になってもごく
自然に続いていたという(江戸時代の離縁状からみる離婚の実態)。
第二次大戦前まで、「少なくとも西日本ではいわゆる『夜這い』の
習俗が生きていた」し、網野も岡山で30年代までの実体験を聞かさ
れている。
宮本常一の『忘れられた日本人』でもかなり最近まで「お祭りの
ときや仏教の法会のとき、あるいは神社、仏閣にお籠りしたとき
などに、いわゆる『歌垣』と同じように、男女のフリーなセックス
が行われる習俗があったこと」を明らかにしている。
江戸時代まで普通であったらしい「間引き」(堕胎)についても、
従来のように単純に貧困と生活苦によるものとだけで捉えるのでは
なく、フロイスから見れば「性的放縦」と見える状況から、「未婚の
母」が非常に多かったと言えるわけで、「当時の女性の現実に対する
一つの対処の仕方」であったし、社会的にも黙認されていた。
また当時は「七歳までは神のうち」と言われたように子どもは人間
の範疇に入ってなかったのかもしれないのであり、今の倫理観から
見るわけにはいかない。
この中世の女性像を見ると、現代も根強く続く日本社会の女性差別
の現実(「選択的夫婦別姓」こんなことすら一向に実現しない)は
むしろ歴史的退歩ではないかとすら思える。単線的に「歴史の進歩」
を信じる史観はまさに眉唾でしかない。
これらを考える上でもう少し古の女性像を見ていきたい。
時国家文書(続き)
多角的大企業家
先のジェミニの返答では時国家文書によって明らかになった衝撃
の大きさはほぼ伝わってきませんのでもう少し触れたいと思う。
時国家は武士身分ではなく百姓で、300石の石高に相当する田畑を
持ち大きな農業経営をやっていた。
しかし他方で、大きな北前船を四艘も持ち(それも千石積、八百
石積の巨大な船)、北海道(松前)から佐渡、敦賀、さらに琵琶湖を
こえて、近江大津や京、大阪とも取引をしていた。(一航海で千両を
こえる取引をして、三百両の利潤をあげる船ーサハリンまで行って
いた。上時国家。)
時国家は製塩、炭焼き(山林経営、材木)をやりこれらの商品を
北方に運び、松前などからは昆布などを運んで京、大阪などで販売
する大規模な廻船交易を活発に行い、さらに鉱山の開発、(荘園の)
蔵元の役割も果たし、預かっている米や塩の代金や、交易の利潤を
使って金融業も営んでいた。
時国家は百姓であるが、これを「大規模農業経営者」と規定して
事足れりとするわけには到底いかない。百姓=農民とする常識が
いかに的外れかだが、他方今の歴史学ではこの時国家をどう表現する
かの用語がないのが実情だという。
網野は差し当たり「多角的企業家」とする。
「廻船を営む頭振(水呑)百姓」
さらに網野が愕然とする事実が出てきた。
江戸初期時国家とも姻戚関係にある柴草屋という、大船を二、三艘
持ち日本海の廻船交易にたずさわっていた富裕な商人が頭振(水呑)
ー石高を持たない百姓ーに位置付けられていたことが分かった。
これまで「貧しい農民、小作人」とされてきた水呑(年貢を賦課
される田畑を持たない百姓)が、実は時国家に百両もの金を貸し付け
るだけの資力を持つ商人で、土地を持ってないのは事実だが持つ必要
のない人だったのだ。こういう人も制度的には「水呑」に位置づけ
られるということだ。
またこの時国家の下人(わずかの田地を借りて耕す)友之助が、
実は北前船で千両の取引を自分の判断でやることのできる大船頭
だった、ということが襖の下張り文書から分かった、ということも
あり、制度的な身分(からするイメージ)と実態とは大きく異なる
ことが次々と明らかになってきた。
「村」は農村ではない
奥能登最大の都市輪島(1700年代)について調べると、家数の71%
が頭振(水呑)で、その中には漆器職人、素麺職人、それらの販売に
たずさわる大商人、北前船を持つ廻船人、などがたくさんいたことは
間違いないことで、「土地を持てない人ではなくて、土地を持つ必要の
ない人がたくさんいた」ことが明白になった。
網野は「江戸時代までの奥能登の実態は、港町、都市が多数形成
され、日本海交易の先端をいく廻船商人がたくさん活動しており、
貨幣的富については、きわめて豊かであり、日本有数の富裕な地域
だったとすら言えるのではないか」としている。
「百姓は決して農民と同じ意味ではなく、農業以外の生業を主と
して営む人々ー非農業民を数多く含んでいること」
また江戸時代、実態としては明瞭な中世以来の都市が全て制度的
には村とされていた。
「村にされれば、自ずから検地が行われ、田畑、石高を持つものは
百姓、持っていなければ水呑の身分にされます、、、江戸時代の「村」
は、全てが農村なのではなく、海村、山村、それに都市までを含ん
でいる」(そうした「村」は土地が少ないのだから、当然「水呑」
身分が多くなるわけだ。)
だから網野は奥能登の調査によるイメージの大逆転は能登のみには
とどまらず、列島社会全体に言えることであり、「列島社会が、農民
が人口の圧倒的多数を占める農業社会であったという常識も、自ずと
完全に覆る」として奥能登以外の具体的都市の例を挙げている。
まさにこの発見は「大逆転」であり、近世、中世、そして古代にも
遡る日本社会像の見直しを不可避に迫るものであることは間違いない。
『日本の歴史をよみなおす』 その二
「時国家文書」 (ジェミニとの問答)
5月24日
* 問
網野の研究に大きな転機となったと思われる「時国家文書」で彼が
明らかにしたことをまとめてくれませんか?
* ジェミニ
網野善彦にとって能登の時国家(ときくにけ)文書との出会いは、
彼の歴史観、特に「非農業民」論や「封建的農業社会」批判を確固たる
ものにする上で、まさに画期的な転機となりました。
時国家は、石川県輪島市に位置する、平安時代末期から続く旧家で
あり、江戸時代には廻船業などを営む大地主でした。この時国家に伝
わる膨大な古文書群(上時国家文書・時国家文書)は、網野が長年追い
求めていた「従来の史料には出てこない人々の姿」を鮮明に描き出す
ものでした。
彼が時国家文書から明らかにした主要な点は以下の通りです。
「豪農」というイメージの刷新と多角経営の実態:
従来の歴史学では、時国家は「豪農」として認識されていました。
しかし、網野が徹底的な調査(特に味噌蔵の片隅に丸められた古紙や、
襖や屏風の裏張りなど、これまで「紙屑」と見なされがちだった史料
に注目)を行った結果、時国家の経営実態が単なる農業収入に依拠する
ものではなかったことが判明しました。
時国家は、廻船業(船を所有し、海路での交易を行う)、貸金業、
さらには鉱山開発にまで手を染めるなど、非常に多角的な経済活動を
展開していたことが明らかになりました。これは、土地に縛られた
「農民」という単一の生業像とはかけ離れた実態でした。
「非農業民」の存在感と経済的役割の可視化:
時国家文書は、彼らが海を舞台に広範な交易ネットワークを築き、
塩、材木、炭などを運ぶことで、日本海側の経済に深く関与していた
ことを示しました。これは、当時の社会が農業生産だけでなく、商業や
流通といった非農業的な経済活動によっても、大いに動いていたことを
具体的に裏付けるものでした。
従来の公的な文書史料が主に年貢など農業に関連する記録に偏りがち
だったのに対し、時国家文書からは、行商、漁業、職人といった多種
多様な生業を持つ人々が、地域経済の中で重要な役割を担っていた姿
が浮かび上がりました。
「移動する人々」の活動の再評価:
時国家が廻船業を営んでいたことは、人や物の移動が中世・近世社会
において活発に行われていたことを示唆します。従来の「定住型農業
社会」というイメージに対し、網野は、遍歴する芸能民、商人、職人
など、移動しながら生計を立てる人々の存在を重視してきましたが、
時国家文書は、そうした移動と交易が社会の基盤を形成していた一例
として、彼の説を補強しました。
なぜこれが「転機」となったか:
時国家文書は、網野が提唱してきた「百姓=農民ではない」という
主張、そして「日本社会は封建的農業社会という単純な図式では捉え
きれない、もっと多様な生業や人々の活動が存在した」という認識を、
具体的な一次史料に基づいて実証する強力な証拠となりました。
特に、従来は捨てられていたような「粗末な」古紙の断片や襖の裏
張りにまで目を向け、そこから新たな情報を見出す彼の史料解読術は、
歴史研究の方法論自体にも大きな影響を与えました。
これにより、単に「公的な」文書だけでなく、日常生活の中で生み
出された多種多様な記録の中にこそ、これまでの歴史学が見落として
きた「民衆の生きた姿」が隠されている、という網野史学の核心が深
まったのです。
時国家文書の発見と分析は、網野の「日本社会は農業社会か」という
問いをより鮮明にし、その後の彼の研究活動と著作(特に『日本の歴史
をよみなおす』)に多大な影響を与えました。