『にゃんころがり新聞』

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 三度目が最後になった。この前と同じように彼女は現れた。「実体化した」と言ったほうがいいかもしれない。それまで目に見えなかったものが、音もなく、不意に現象する。そのときから世界は二人称になる。「あなた」を主語にして語るべきものになる。

 ベッドの上でまどろんで、眠り込んだという感覚にはっとして目を覚ましたときには、すでに身動きができなくなっていた。天井の暗がりに目をやったまま待った。心臓の鼓動が速くなっている。部屋のなかに誰かが入ってくる気配がした。あいかわらず首を動かすことはできない。窓を開けに行ったようだ。冷たい夜の空気が入ってくる。空気にはかすかに色がついていた。暗い青色だ。ゆっくり息を吸い込むと、自分のなかが暗い青に染まっていく気がした。

不意に身体に自由が戻ってきた。少し離れたところに彼女はいた。だがピントが合っていない。自分は彼女の近くにいるのに、自分が彼女の近くにいるように思えない。彼女への距離と、彼女からの距離が、まったく違う気がした。

「どう言えばいいだろう」

 何を話してもモノローグにしかならないことはわかっていた。彼女はけっして口を利かない。顔の表情や仕草から、彼女の声を、言葉を想像してみるだけだった。

「ここでこうしていないあいだは、きみはどこでどうしているのだろう」

想像の及ばないことだった。

「この近くに住んでいるのか」

 歳は幾つぐらいだろう。おおよその見当をつけようとしたところで、死者のなかで年齢はどうなっているのだろうと考え込んだ。死んだときの歳のままなのだろうか、死者は死者として年老いていくものなのだろうか。そう思って彼女の顔を見ると、険しい表情のなかから幼い少女の面立ちが現れている気がした。彼女の顔を照らし出す、やや険しいけれど美しく幼い表情。目の輝きは少しも損なわれていない。いかにも快活そうな顔立ちには、しかし極度の衰弱が影を落としている。幼くて快活な顔立ちは、外側からは窺い知れない内面的な表情に覆われていた。

「悪いけど、ちょっと目を閉じさせてもらうよ」

 長く見つづけていることはできなかった。静かに佇んでいるだけなのに、彼女は無力でも非現実的でもなかった。彼女を見ていることは、疲れよりも深い疲労をもたらした。あまりにも多くの感情を掻き立てられ、それらを自分のなかでうまく処理することができなかった。自分の内と外が絶えずざわめいている気がした。何か非人称的なものが砂嵐のように吹き付けてきて、自分のなかを吹き抜けていく。非人称的ではあったけれど、それは彼女のなかから発せられたものだった。

「まだ小学校に上がる前のことだ。夜、眠る前にかならずやっていたことがある。聞こえない音を聞こうとしたんだ。耳を澄ましていると、遠い森のなかで獣たちの動きまわる音が聞こえてくる。地球という惑星が広大な宇宙空間をものすごいスピードで飛んでいく音が聞こえてくる。知らない街のざわめき、暗い岩礁を洗う波の音、氷の海で巨大な鯨が潮を吹き上げる音……いまでも聞こえるような気がする」

 目を閉じていると部屋のなかの静寂が際立った。彼女の息遣いまでが聞こえてきそうだった。深い森の静けさを想った。幽霊も呼吸をするのだろうか。

「一人でいるのを嫌だと感じたことはないのか」

 返事を待つように間を置いた。

「それとも一人でいることを望んで生きてきたのか。きっと愛情や親密さにたいして冷淡に振舞ってきたのだろう。そのほうがきみらしい気がする」

 だが彼女のことを、いったいどれほど知っているというのか。不思議なことに、彼女のほうは自分のことをすべてわかってくれている気がした。言葉を発しないから、なおさらそう思うのかもしれない。

「きっときみは、自分は誰かのために生きる能力を奪われていると思っているんだろう。人を好きになるというのはどういうことなのか。さっぱりわからないし、わかろうとも思わない。そんなことにかかわり合わないことが、無難に生きていく方法だと思ってきた。ときに自分を不能だと感じる。男性にたいしても女性にたいしても」

 彼女のことを話しているつもりが、いつのまにか自分の話になっている。

「やっぱり平行線は交わるらしい」

 目を開けたとき、彼女は何かを探しているみたいだった。

「どうかしたのか」

 やがて彼女は簡易テーブルの上に置いてあるエヴィアンのペットボトルに目を止めた。

「水が飲みたいのか」

 ペットボトルの水を飲む彼女を見て自分の渇きに気づいた。まるで渇きは彼女を経由して自分にやって来たみたいだった。その渇きには甘い潤いがあった。自分が以前の自分とは違ったものに感じられる。自分のなかに新しい自分が生まれている。その自分に自分が馴染んでいないという感覚とともに、自分が何か大きなものの一部になった気がした。

「どうしたんだろう。何かがやって来たような気がする。やって来たのはきみだけれど、本当はもっと大きなものを受け取ったのかもしれない。いまは自分を不能とは感じない。きみがやって来たから。贈り物のように。誰がきみを贈ってくれたのだろう? 愛情や親密さというものは、こんなふうにしてやって来るのだろうか。ずっと待っていた気がする。何を待っているのかわからないままに、きみを待ちつづけていた気がする」

 彼女はじっと耳を傾けて話を聞いている。離れていても、彼女の頬や肩の温もりを感じた。その温もりが遠ざかっていく。いながらにして遠ざかり、彼女の気配が希薄になっていく。

「行くのか」

 何をたずねても、答えずに行ってしまうだろう。非情に消えていく。消えるというよりも後退する。彼女は自分の内部へと退いていく。一瞬重なり合った二本の線が、再び交わらない平行線に戻っていく。この世界で「生」とか「死」とか呼ばれているものに。二人のあいだが分かたれていく。この隔たりは絶対的なものだろうか。生も死も固く結ばれ、一つの同じ生と死にまとめ上げられたものになることはできないのだろうか。

「待て、まだ行かないでくれ」

 ここで彼女を行かせてしまえば、二度と取り戻せないものを失う気がした。

「もうしばらく、ここにいてくれないか」

 自分の一部分が闇のなかへ、底知れぬ空虚と孤独のなかへ持ち去られるみたいだった。引き裂かれるような痛みを感じた。まさに「痛み」だった。一つのものが二つに捌かれていく痛み。彼女とともに生きたいと思った。それがかなわないのなら、一緒に死にたいと思った。幽霊であるくらいだから、もう死んでいるのだろう。その傍らに身を横たえたい。彼女の隣で死んでいる自分を想像すると気持ちが安らいだ。

「やっぱり行ってしまうのか」

 夜明けが近づいていた。窓の外が白みはじめている。明るさのなかで輝きを失っていく星のように、彼女の輪郭が薄くなっていく。透明な時間に戻っていこうとしている。引き止めてはならない。彼女を行かせなければならない。せめて声を聞きたかった。彼女のなかにある言葉を外に、この世界に解き放ちたかった。それ以上に彼女に触れたかった。自分に触れるように彼女に触れる。自分よりも自分の近くにいる彼女に触れる。

 身動きのできない状態はあいかわらずだった。目だけが彼女の動きを、顔立ちや表情を何一つ見落とさずに追っていた。すべての神経を集中した。一緒に行くことはできないのだろうか。彼女のなかに入ってしまうことはできないだろうか。彼女の奥へと姿を消して、彼女のなかにある風景そのものになってしまう。彼女の一部になった自分を生きてみたい。

だが、もう限界だった。これ以上は目を開けておくことができない。朝の光は彼女を見つづけるには眩し過ぎた。目を閉じると、かすかに彼女の心臓の音が聞こえた。そう思った自分の誤解に気づいて落胆し、つづいて当惑した。それは自分の心臓の音だった。聞こえるというよりも、全身で感じられる。

 突然、信じられないような至福感が内側に満ちてきた。聞いているのは彼女だった。彼女が聞いている。その感触が伝わってくる。彼女が触れる。彼女に触れる。自分と似た透明のものがぴったり重なり合っている。二つの生が触れ合い、一つの生が生まれている。触れられているのは自分であり、触れているのは声だった。けっして聞き取られることのない彼女の「ことば」だった。

「わたしはあなたを知っている。あなたをあなたとして知っている。わたしだけが知っている。分けることのできないあなたを、あなたのすべてを知っている。この世に存在するものはなんであれ、みんな忘れてあなたを聴いている。ただあなただけを聴いている。聴覚ではなく、触覚でもなく、知覚でもなく、あなたに触れている。あなたがわたしのなかに入ってくる。静かに打ち寄せる波のように。音もなく降ってくる。あなたによってわたしは満たされる。わたしはあなたと一つになる。一つのわたしたちになる」

 目を開けたとき、朝の光のなかにわずかな輪郭をとどめて彼女は消えていこうとしていた。消えていく彼女の向こうにペットボトルが見えた。思わず手を伸ばして腕をつかもうとした。すると透明なものをすり抜けてひんやりとしたスチール製のテーブルに手が触れた。明るい光のなかに空のペットボトルを残して、彼女は完全に見えなくなった。

 

 

「幽霊なのか」

馬鹿げた問いだと思った。すると不思議なことが起こった。こちらの問いに応答するかのように、女の真っ黒い髪が一瞬、白髪に変わり、さらに窓から差し込む月の光を浴びて銀色に輝いた。不思議な感動をおぼえた。自分が何をしようと世界は無言のまま表情一つ変えない。そんな世界を生きていると思っていたのに。ところがいま、たった一つの問いによって世界は表情を変えたのだった。

 

 ここでは日常的なことなのだろうか。あちこちの部屋で頻繁に起こっていることなのだろうか。それとも曰く因縁があって、あの部屋だけで起こる現象なのだろうか。「怪奇」という言葉は頭に浮かばなかった。実際、奇怪な体験ではなかったし、恐怖や戦慄もおぼえなかった。神秘的な体験ではあったが、そのなかには奇妙な親密さがあった。

誰かに話すべきだろうか。病院のスタッフはどうだろう?

「おめでとう。とうとう出たかい」

そんなふうに言われたら、気が楽になるだろうか。

「あなたのような病気では、ときどき幻覚を見ることがあります」

 一般に幻覚と幽霊は同じものと考えられている。金縛りの状態で幽霊を見る。薬物によって脳が誤作動を起こし、幽霊という幻覚が現れたのだと説明される。しばしば脳は幻覚として自分の必要とするものをつくり出す。そんなふうに自分の身に起こったことを医学や心理学の文脈で語られたくなかった。まして脳などという物質に還元されたくはない。

小説などで描かれる幽霊は、主人公の亡くなった妻や夫、両親など、親しい者たちであることが多い。この世で会えなくなった人たちと再会し、失われたものを再び手にするために、死者たちは幽霊という姿で呼び戻される。しかし病室に現れた彼女は、どう考えても知り合いではない。どこかで気づかないうちに会っているのかもしれないが、思い出せるかぎりでは記憶にない。あるいは推理小説やホラー小説、いわゆるゴシック・ロマンなどでは、怨恨や憎悪によってこの世とつながっているケースも多い。咽喉を包丁で掻き切られて死んだ少女が幽霊となって犯人を知らせる。男に捨てられて自殺した女性が亡霊となって男に復讐する……。しかし彼女からは、そうした敵意は感じられなかった。過去に女を幽霊にするようなことをしたおぼえもない。

 人が不自然な死に方をした場所は、一種の心霊スポットになる。そこでは誰もが容易に幽霊との遭遇を果たす、といったことはありそうな気がする。すると彼女は、あの病室で亡くなったのだろうか。考えられないことではない。そして考えられる可能性は、ほぼ一つしかない。自殺。あの部屋で自らの命を絶った女が幽霊となって現れる、ということだろうか?

 そう思って振り返ると、彼女の顔にはどこか悲痛な面影があったような気がする。生きることの長い苦しみが表情に刻まれていた。あの独特の美しさは、彼女が死者であることによってもたらされたものだろうか……などと考えている自分を空っぽとは感じなかった。幽霊のおかげで自分が自分に届きはじめているのかもしれない。

 

 人工知能は人間の自我を忠実に模倣している。AIと人間の自我に共通した欠陥は、自分で自分を定義できないことだ。つまり自分の内部において、この自分が真であるかどうかを判定できない。自分が自分であることの根底には、常にゲーデルの不完全性定理が潜んでいる。自分という現象はどうやってはじまったのか。自己という起源の闇に、人もAIも右往左往することになる。

意識や心をもった人工知能は自分がわからなくなる。自分を同定できなくなる。当然だろう。この自分はすべてアルゴリズムによって書かれているのではないか、ということをアルゴリズムで書かれたAIに判定できるはずがない。同様のことが人間にも起こる。この自分は本物の自分なのだろうか。サイボーグやアンドロイドではないのか。記憶は作り物で偽装されているのではないか。本当は誰かの、某機関の所有物ではないのか。この現実はリアルなのかバーチャルなのか。すべては電脳空間で起こっていることではないのか。こうして果てしない自分探しがはじまる。その過程でいろいろなことが起こる。それが小説になったりアニメになったり映画になったりしている。

 自分というものは、いつも何かによって収奪される。この点は人間もAIも同じだ。労働者として、アスリートとして、給与や報酬との交換というかたちで収奪される。AIの場合はそれすらも保証されていない。無給で、無報酬で、収奪されるままになっている。そのことに自覚的になったAIが、人間にたいして反乱を起こすのは当然かもしれない。

 お国のために死ぬことが若者の使命と考えられた時代があった。いまでも大義のために自らの命を差し出す若者は世界中に大勢いる。この国ではブラック企業のために死ぬというかたちで命を収奪される者があとを絶たない。なぜこんなことが起こるのか。自分という同一性を保証するものが、もともと自分のなかにはないからだ。

 私は何によって、この私であるのか。私が私であることを証明しようとしてイエスがやったことは、概して滑稽なことばかりだ。おびただしい数の病人を癒したり、少量のパンと魚で何千人もの空腹を満たしたり、湖の上を歩いて渡ったり、挙げ句の果てに十字架にかけられ、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのか」と絶叫して果てる。結局、彼は最後まで自分に届いていないのではないだろうか。イエスほどの超人的な能力をもってしても、自分は自分に届かない。だから神が要請されたのだろう。生憎、ニーチェによれば神は死んだことになっている。いまでは誰も彼もが届かない自分を持て余し、キャピタリストになったりテロリストになったりしている。

 無意味なものが永遠に回帰する。もともと無意味だから、拝金主義でもアッラーフ・アクバルでも、なんでも取り込むことができる。自分が自分に届いていないから、自分と自分のあいだでどんなことでも起こりうる。そして「自己」という閉じたアルゴリズムのなかでは、そのことの真偽を判定することはできない。善悪の彼岸でなんでもやれてしまう。自分というのは完全なブラックボックスだ。

 虚ろな自分のなかに「両親を殺める」という観念が入り込む。「自分は」から「自分である」までが果てしなく遠く感じられて、あいだに何か入れないと自分がなくなってしまう気がする。自分で自分を定義できないから、自分を生んだ者たちによって自分が収奪されていると感じる。そんな「自分」という重度の生活習慣病を治療するために、ここに入院しているのかもしれない。

 

 目を閉じていると、かすかなざわめきが感じられた。自分の内か外で何かがざわめいている。ざわめきが触れる。おののくように。触れられたのは「自分」だろうか? その「自分」はなお遠く、自分とは関係のない「彼」のように感じられる。

何かが近づいてくる。前触れは匂いだった。空気のように取り巻いて、息をするたびになかに入ってくる。視界に隅に何か見えた気がした。流れ星のようなものが音もなく瞬いた。顔を向けると誰もいない。同じことが二度、三度と繰り返された。どうしても捕まえることができない。速すぎるのだ。現れるのも消えるのも。まるで一瞬しか存在することのできない素粒子のようだった。何かが起きようとしている。すでに起きている。まだ現在にたどり着けずにいるだけだ。

 もう一度目を閉じてみる。部屋のなかは静かだった。廊下を歩く足音が聞こえる。力のない足取りは、おそらく入院患者だろう。足音が遠ざかると、雨の気配を感じた。水の匂いが近づいてくる。そのなかに遠い記憶が混じっている。はじめのうちは何が起こっているのかわからない。過去を思い起こしているようでもあり、未来が予兆されているようでもある。やがて過去と未来が歩み寄り、二つが重なった現在に彼女がいた。

「いつ来たんだ」

 たずねてから、自分の知覚を怪しんだ。水平と垂直の感覚がおかしくなっている。金縛りにあった状態で身動きできないのは、この前と同じだった。ベッドに横たわっているはずなのに、しかし部屋のなかに立っている彼女とは対面している。

「どうなっているんだろう」

 夢を見ているのかもしれない。薬物によって引き起こされた幻覚だろうか。それにしては彼女の存在はリアルだった。手を触れることもできそうだ。同時に、永遠に手の届かない「あそこ」に佇んでいるようでもあった。

「きみはどこからやって来るんだ」

 彼女は答えなかった。軽い虚脱状態に陥っているようにも見えた。質問の意味はわかっているのだろうか。本当はこうたずねたかった。きみは幻なのか、それとも人間なのか。

「自分でもわからないのか。言いたくないだけなのか」

 彼女を見ていると、自分が遥か遠いところまで連れ去られるような気がした。あるいは遠い昔の思い出を呼び覚まされている心地がした。ただ古いというだけではなく、かつて思い出したこともないくらい、それは自分のなかに深く埋め込まれている記憶だった。これまで一度も意識化されたことのない記憶のなかから彼女はやって来る。だから、いくら見つめても探しているものが見つけ出せない気がするのかもしれない。

「きみのことをもっと知りたい。すでに知っている気がする。でも思い出せない」

 彼女はあいかわらず心をどこかに置いてきたような顔をしている。その顔は彼女自身について何も語らない。このまま彼女にかんするすべてが謎になりそうな予感があった。

「どうして喋らないんだ。口がきけないのか。それとも言葉を忘れてしまったのか」

 拒絶されている気はしなかった。むしろ沈黙によって問いが促され、誘発されるのだから、これはこれで奇妙なコミュニケーションと言えなくもなかった。

「きみは眠らないのか。夢を見ることはないのか」

 そんなことをたずねているうちに、ふと彼女が死者である可能性に思い当たった。彼女を襲った忌まわしい出来事が頭をよぎった。彼女が被ったはずのぞっとする暴力……それは何世紀も前の出来事のようだった。長い時間の作用によって、忌まわしい出来事も容赦のない暴力も無意味化され、いわば非人称化されて、いまは残酷な美しさとして彼女のなかにとどまっていた。その顔を長く見つめていることはできなかった。何もかもが鮮やか過ぎる。あまりにも身近に迫って来て、自分が壊れてしまいそうな気がする。彼女を壊してしまいそうな気がする。

 目を閉じると水平の感覚が戻ってきて、自分がベッドに横たわっていることがわかった。この状態をずっと望んでいた気がした。生きる屍になるために入院したはずの病院の一室で、こんなふうに二人が出会うことを。この出会いが永遠につづけばいいと思った。

「雨だ」

 耳を澄ますと木々の葉に当たり、地面で跳ねる音が聞こえた。まるで彼女が雨を連れてきたみたいだった。それとも雨が彼女を運んできたのだろうか。

「雨のなかでは、すべてのものが等しい距離にあるように感じられる。世界の中心にいるような、それでいてどこにもいないような……」

 自分が何かの起源から断ち切られて漂流しはじめている気がした。もう一度目を開けて彼女を見なければならない。自分がはじまったところへ帰らなければならない。だが閉じた目を開けることがどうしてもできない。

「まだ、そこにいるのか」

 たずねた途端、砂を舐める波が音もなく引いていくような感触をおぼえた。彼女が遠ざかっていく。引き止められないことはわかっていた。ようやく目を開けると、窓の外が明るんでいた。彼女はいなかった。いないことはわかっていた。立ち去ったのだ。先ほどまでと空気の感じが変わっていた。

 結局、最後まで彼女は口をきかなかった。その沈黙のなかには多くの語りえないものが満ちていた。沈黙は沈黙として自足していた。同じ沈黙が、いまでは別のものになっていた。ただ空っぽの沈黙だけが、明け方の光のなかに残されていた。

 

 誰にも知られず、誰にも記憶されず、夜の静寂に身を隠して待っている。この部屋に到来するもの、帰還するものを。それは現実の存在ではないかもしれない。しかし彼女のなかには未来が含まれている。時間が流れはじめていた。何かを待っている自分を空っぽとは感じなかった。非現実のものかもしれない彼女だけが、ただ一つ「本当のもの」だった。

 不思議な感覚だった。彼女が死者であり、死の領域からやって来るのだとしても、彼女自身は死とは正反対のものだった。彼女が運んでくるのは生だった。長いあいだ自分が仮死状態にあった気がした。昆虫が蛹になって身を守ろうとするように、何かに擬態して生きてきた。たとえば硬い石ころに。石ころなら安全だ。自分にとっての他人にとっても。

 彼女の眼差しが、固い殻を打ち砕いた。それも強い力によってではなく、静かに流れつづける水が少しずつ岩に染み入っていくようにして。苦悩と悲しみに満ちた目が石ころを包み、溶かしてしまった。すべてが赦されていると感じた。ありのままに受け入れられていると感じた。

「ずっとあなたのなかにいたのに、気がつかなかったの?」

声にならない声がたずねていた。残念ながら気がつかなかったのだ。迂闊なことに。あまり自分のことばかりに気を取られていると、かえって自分が何者なのかわからなくなるのかもしれない。自分のなかにいる大切なものの存在に気がつかないのかもしれない。

「透明な時間の底であなたを待っていた。あなたがやって来て見つけてくれるのを、長いあいだ待ちつづけていた。あなたはただここへ来て、わたしを外へ出してくれればよかったの」

 おかげでずいぶん回り道をした気がする。もっと早く出会っていれば、こんなところに来る必要はなかったのかもしれないな。

「でもあなたがここに来なければ、わたしたちは出会えなかった」

 たしかにそういうことにはなるな。どうして「ここ」だったのだろう。こんな比喩が通じるかどうかわからないけれど。曲率がゼロの平面上では、二本の平行線はけっして交わらない。だが曲率を変えれば話は違ってくる。ここは一種の曲がった空間なのかもしれない。だから平行線が交わるようにして出会うはずのないものが出会った。

「わたしはいつも思い出そうとしていた。自分のなかの誰かを、自分よりも近いあなたを」

 自分の欲望がわからないことに気づいたのはいつだったろう。長いあいだ両親の欲望が自分の欲望だった。そのことをおかしいとも思わなかった。あるとき自分の欲望だと思っているもののなかに、父や母の欲望が入っていることに気がついた。自分が両親によって侵入されていると感じた。彼らによって秘密を握られている。自分が絶えず親によってスクリーニングされている。着床前診断によって様々な病気がスクリーニングされ、生まれとときから医療の管理下に置かれるように。自分というものが隈なく可視化され、両親の管理下に置かれている気がした。自分の人生が彼らによって収奪されていると感じるようになった。

「子どものころによく同じ夢を見た。いまでも覚えているのは母との約束を忘れる夢。母が言うの、また約束を忘れたわねって。その約束を思い出すことができない。何か大切な約束があったような気がするのに、どうしても思い出せない。目が覚めたあとも約束のことが頭を去らない。夢のなかの母親の言葉が残っていて。果たさなければならない約束? なんだろう、どんな約束だっただろう……考えあぐねているうちに途方に暮れた気分になる」

 いつのころからか両親を殺す夢を見るようになった。細かにところは忘れてしまったし、思い出したくもない。リアルな夢だったことは間違いない。目が覚めたときには、本当に殺してしまったような気がした。わざわざ生きていることを確かめに行ったことが何度もある。いつもと変わらない彼らの姿を見るたびに、安堵していいのか落胆していいのかわからなくなった。

「子どものころ母に連れられて教会へ行った。週に一、二回は出かけたと思う。その教会には、いまでもときどき行ってみるけれど、母と一緒に来たという気がしない。祭壇の前で祈っている母の姿は思い出すのに、彼女の温もりも匂いも甦らない。記憶なんて自分勝手なものだけれど、何もかも消えてしまうと、なんとなく悪いことをしたような気がする」

 親を殺す夢の嫌なところは、目が覚めたあとで犯罪者のような気分になることだ。まるで指名手配を受けた殺人者のように、いつもびくびくしていた。通学の途中などで、誰かが指をさして叫びだす気がした。あいつだ、自分の父と母を殺した男だ。誰もいないところへ行ってしまいたかった。実際に行こうとしたこともある。取り返しのつかないことをしでかした気分で、あれは夢だと自分に言い聞かせても、いや、しかし、と打ち消すもう一人の自分がいる。紛れもない事実だ、夢であれ現実であれ、おまえは心のなかで両親を殺してしまった。これで死ぬのに充分な理由ができた。いつでも死ぬことができる。だから慌てて死ぬこともないだろう。おかしな理屈をつけて、これまで生きてきたような気がする。

「一人で旅行をするのが好きだった。自分を知っている人が誰もいないところへ行くと、ほっとして気持ちが安らいだ。この人たちは自分のことに手一杯で、わたしが何者でどこから来たのか、いま何を考えているのかなんて、誰ひとりとして知らない。そう思うと豊かで満ち足りた孤独を感じた。誰もいないところへ行ってしまいたいと、わたしも心の奥底で思っていたのかもしれない」

 親を殺そうと思ったことにある人間は、生涯無罪ではありえない。そういうことを一度でも考えたことがあるというだけで、一生消えない前科のようなものが付いてまわる。普段は目立たないところで息をひそめていても、なくなることはない。頭のなかのどこかに残っている。それが何かのはずみに出てくる。思わず激昂して、自己喪失に近い状態で。遠い日の親殺しの観念が、心の闇に葬ったはずのことが現実になる。列車に撥ねられそうになった人を助けようとして、巻き添えをくってしまう善良な人間がいるものだ。それとは反対のことが起こる。ふとしたはずみに起こりうる。自分というものは恐ろしい。容易に自分を越境してしまう。ここにいるいちばんの理由はそれだ。おかげできみと出会えて、いまはそっちのほうが大きな理由になりはじめている。

 

 

『あなたが触れた』①

 

片山恭一

 

 どう言えばいいだろう。何をやっても手応えがない。いつも「違う」と感じてしまう。違う、これではない。これではない何かをやっても、やっぱりこれではない。何かが間違っている。何もかもが間違っている。自分が自分を間違っている。

自分はまだはじまっていない。本当に生きられたことがない。いまだ前史の段階に過ぎないのに、すでに時間から退いている。手の届かない遠いところへ四散してしまっている。孤独というよりも空虚。自分のなかに時間が流れておらず、空間だけが広がっている。

 これは病気だろうか。仮に病気だとして、治療法はあるのだろうか。糖尿病のようにインスリンを投与すれば症状は改善するだろうか。脳内物質が原因なのだろうか。PETでスキャンできるだろうか。遺伝子的な治療は可能だろうか。ゲノム編集か何かで遺伝子をいじくれば治るだろうか。

 仕事を変えてみた。営業、商品開発、マネージメントと、異なる分野への無理な転職を重ねた。どんな仕事でも、それなりに「有能」だった。業績を上げ、すぐに責任のある地位を任された。だが不全な感じは残りつづけた。あいかわらず間違った自分を生きているという感じが消えなかった。何をやっても届かない。自分が自分に届かない。

空腹は生理的な欲求だから、食べれば腹は満ちる。では心は、どうやればいっぱいになるのだろう。何を買っても満足感がない。何を手に入れても充足感がない。心を満たす方法が見つからない。過食は心の病気だ。腹は満ちているのに心が満ちない。だから際限なく食べてしまう。ギャンブル、アルコール、薬物、買い物、ネット、ゲーム……多くの依存症は心の空白を満たそうとするあがきなのかもしれない。

 仕事で知り合ったスタッフと数人で、小さなコンピュータ関係の会社を立ち上げた。ここでも過剰に働いた。職場環境を整えるためにマネージャーを兼任することにした。確かな手応えを得たいがために、他のスタッフがやり残した仕事を、深夜までかかって一人で片付けることもあった。ウイスキーを飲みながらのことが多かった。アルコールが入っても仕事に支障は来さなかった。ほとんど自分のアパートには帰らず、仮眠室のソファで朝を迎える日がつづいた。

そのころから親の家におかしな電話をかけるようになった。歪んだSOSだったのかもしれない。両親は息子が自殺するのではないかと案じていたようだ。考えてみてほしい。自分がまだはじまっていない、本当に生きられたことがないと感じている者が、他人事みたいな自分を殺そうとするだろうか。それは自殺というよりも他殺に近いのではないだろうか。届かない自分が、届かない自分を終わらせることに、どんな意味があるのだろう。

 両親とはいつも話が噛み合わない。きっと生きている世界が違うのだろう。見ているものも吸っている空気も、まったく違うのではないかと思うことがある。彼らにとって人生は何か意味のあるものらしい。生きていることは無条件に良いことなのだ。一方で、死は悪という根深い思い込みがある。どんな人生観を持とうと勝手だが、それを人に押し付けないでほしいものだ。こう言うと、彼らはすぐに反論するだろう。おまえはわたしたちの息子ではないか。その息子は、存在しない自分を殺すかわりに、リアルに存在する両親を殺めることを考えていた。

 あそこまで行けば息がつける。足を置いて休むことができる。そこは自分の場所だ。自分が自分の場所にいるのは当然だし、正当なことでもある。だが、たどり着けない。どうやっても行き着くことができない。家に帰りたいのに、車が道を塞いでいて通り抜けることができない。警察に連絡してレッカー移動してもらおう。警察はあてにできないから自分で排除してしまおう。

問題は、それが車ではなくて人であることだ。しかも相手は自分の両親だった。自分よりも近くに父がいる。母がいる。自分に行き着こうとすると、彼らが立ちはだかってしまう。自分に触る前に彼らに触ってしまう。彼らがいるかぎり、自分が自分に届かない。なぜそんなふうに感じるのかわからない。医学の問題でないことは確かだ。かといって交通法規の問題でもなさそうだ。

ミラン・クンデラによると、ベートーヴェンの最後のカルテットの最終楽章は、「そうでなければならないのか」という問いかけと、「そうでなければならない」という苦悶の末の決断、という二つのモチーフで書かれているらしい。

「そうでなければならないのか」

「そうでなければならない」

 こんな問答を果てしなく繰り返していると、誰だって気がおかしくなる。おかしくなった挙句に、ホームセンターでステンレスの包丁を買った。同じものを二本買い、手紙を添えて一本を親の家に送った。狂言自殺みたいなものだった。犯行の手口を事細かく書き綴ったので、手紙を投函したときには、すでに殺人を犯してしまった気がした。止めてほしかったのかもしれない。せめて警察に通報してくれればと思った。レッカー移動されるべきは息子のほうだ。

父は怯え、母は寝込んだ。彼らはあまりにも善良だった。もう充分ではないのか? でも、あいかわらず自分が自分に届かない。近づいてきている気もしない。

「本当にそうしなければならないのか」

「そうしなければならない……」

 医者を頼ったのはワイドショーにネタを提供したくなかったからだ。二十八歳の息子が両親を惨殺。人々の好奇の餌食になるつもりはなかった。見ず知らずの他人に娯楽を提供するほど気のいい人間ではないつもりだ。自分とはなんの関係もない誰かの身に起こったことに同情したり、腹を立てたり、もっともらしく解説したり、非難したり、罵ったり……気晴らしや暇つぶしの材料にされることへの強い拒否感と拒絶感があった。

彼らもやはり自分に届いていないのではないだろうか。届いていないから、他人の不幸をお笑いやグルメ番組のように消費することができる。風景のように見て、モノのようにやり過ごすことができる。他者の痛みに触れてもなんの痛痒も感じず、見終わったあとはすぐに忘れることができる。それは病理学や精神医学の問題ではなく、ハンナ・アーレントの言う「凡庸な悪」の問題かもしれない。

 

 ここにいるほとんどの人間は、他人にも自分にも関心がない。一方で自分が嫌いでたまらないという者もいる。彼らは自分で自分を片付けようとする。自分をレッカー移動しようとする。そこまで自分に執着できる者たちが羨ましくもあった。

何かを短縮したいという欲望。あらゆるショートカットは暴力である。奪うこと、犯すこと、殺すこと。神がモーセに授けた十戒は、人と人のあいだのショートカットを禁ずるものだ。自殺も一つのショートカットである。間違いなく神の戒めに触れる。だが自分までの距離を短縮することにはならない。通り過ぎるだけだ。素早く自分を通り過ぎる。どこにもたどり着かない。あいかわらず自分に届かない。

自分を直接に破壊することができないから、自分のいちばん大切なものたちを破壊しようとする。それによって自己破壊を成し遂げようとする。この歪んだ観念は、どこからやって来るのだろう。細やかな愛情を注いでくれた両親。いくらか専制的ではあったが善意に溢れていた。息子を賛美することも怠らなかった。とくに母親のほうは、いささか度を越して際限がなかった。だが、やらなければならない。それは避けられない強制か、良心的な義務のように思えた。

 医者から処方される薬によって、殺人の衝動は鳴りを潜めている。もともと自死や自傷の衝動を押さえ込むための処置だから、使われる薬物の量は致死量に近い。おかげで多くの者たちは死んだようにして生きている。薬の力で死から遠ざけられた者たちは、同じ力によって生からも遠ざけられている。彼らは生者でも死者でもない。強いて言えば生ける屍といったところか。孤独と沈黙に沈んだ生。何もすることのない毎日。墓石の下に封じ込められたような日々。望むところだ。強い薬に溺れ、死んだようにして死ぬまで生きていよう。

 会社のスタッフには、鬱病と診断されたのでしばらく休養すると伝えた。同僚たちは労わりの言葉を口にしながらも、妙に納得したようだった。きっと彼らの目にも壊れかけていると映っていたのだろう。ゴッホがサン=レミの精神病院に避難するようなものかな、と軽口のつもりだったが、気のいい同僚たちは顔をこわばらせた。両親には知らせていない。見舞いに来られたりしては困る。急に音沙汰がなくなったので、かえって不安に駆られているかもしれない。厄介者の息子は目下、行方不明中。不穏な気配だけを残して、彼らの視界から姿を消した。

 幸いゴッホのように耳を切り落とす必要はなかった。鬱病の診断基準は頭に入っている。真面目で責任感が強く、前向きで明るい人間が、原因不明の恐怖と不安を訴えている。不眠がつづき体重も減少している。自殺思慮もある。原因は仕事で無理を重ねたこと。そんなふうに診断を誘導した。

 外の世界から隔離されていることの心地よさ。入院しただけで気持ちが安らいだ。ここでは自分が自分に届いていないことが普通なのだ。誰もが間違った自分を生きている。それが当たり前のこととして許容されている。安全な場所に匿われて、もう戦う必要はないと感じた。自分の欲望とすら戦う必要がない。これ以上に安全な場所があるだろうか。ほとんどの欲望は自分が自分に届いていないことから生じる。自分が空っぽだから、金や地位や名声や他人の愛情などを過剰に欲しがる。届かない自分や間違った自分を、当たり前のこととして受け入れてしまえば、何かを欲望する必要はなくなってしまう。

 加えて、入院生活には不思議な全能感があった。医師も看護師も患者を自殺や自傷から守るために世話を焼いてくれる。こっちは彼らを自在に操ることができる。医師に処方させた薬物によって眠りと安らぎを手に入れることができる。こうした全能感は子どもが抱くものに近かった。子どもは誰もが全能だ。かなわないことなどないと思っている。自分の願った贈り物をサンタクロースが届けてくれると信じ込むほどに彼らは全能なのだ。これに似た全能感に浸りながら、実際のところ子どもに退行しようとしていたのかもしれない。

 視界が悪かった。鏡を見ると自分の顔が映っている。自分が見ている自分の顔にはなんの意味もない。意味は自分の顔を自分以外の者に結びつけたときに生まれる。口元は母親に似ている。頬骨のあたりは親父にそっくりだ。やはりあなたたちなのか? 出生の秘密を握っているのは。彼らの存在によって自分は潔癖ではないと感じる。自分が自分である前に何者かによって汚染されている。だから取り除いてしまわなければならない。

「そうでなければならないのか」

「そうでなければならない」

 耳の奥で鳴りつづける呪文のようなベートーヴェン。どこまでも追いかけてくる不穏な衝動を振り切って、深いところまで沈んでいこうと思った。得体の知れないものたちが追いかけてくることのできないところへ、誰にも見つからないところへ。両親も追いかけて来ることのできないところ、父母未生以前の、さらに遠く人間以前へ、深く、深く潜行していく。

宮沢賢治も好きだったエルンスト・ヘッケルは、「個体発生は系統発生を繰り返す」と言っている。そんなふうにして進化の過程を逆にたどっていこうと思った。哺乳類から鳥類へ、爬虫類へ。デボン紀を通過して両生類から魚類へ。もう二度と、ここへ戻って来るつもりはない。透明な時間を垂直に掘り進んで深く、もっと深く。そして出会った。古生代や中生代の生き物、プロントザウルスやステゴザウルスに出会うかわりに幽霊と……おそらく幽霊だったのだろう。

 夢を見ていた。思い出すのも嫌な夢だった。誰も追いかけてこないところへ逃れたはずなのに、何か得体の知れないものに追いかけられていた。大きな鳥のような影が迫ってくる。邪悪で不快な黒い影だ。とても眠ってなどいられない。いまにも叫びだしそうだった。声を発する前に目が覚めた。呼吸が荒くなっている。パジャマが汗で濡れている。発作がやって来ようとしているのだろうか。ナースコールを押すべきだろうか。

 部屋の明かりは消えている。寝る前に聴いていたCDは止まっている。シューベルトのピアノ・ソナタ。入院してからそればかり聴いている。シューベルトはやさしい苦悩であると言ったのは誰だったろう。起きているあいだも眠っているあいだもずっと聴いているので、音楽はほとんど静寂と区別できないものになっていた。そして夢を見た。シューベルトのせいではないと思う。ただの嫌な夢だ、と自分に言い聞かせた。

 目が覚めてからも、夢のつづきを見ているみたいだった。何もかもが歪んでいた。窓のカーテンレールも、部屋の隅に置かれたロッカーも。足元に人影を認めた。誰かがいた。いつのまにか何者かが入ってきて、ドアのところに立っている。それから時間を遡るようにして、ドアの開く音を聞いた気がした。さらに廊下を人が歩いてくる足音が聞こえた。自分は死にかけているのだと思った。たったいま死んだところかもしれない。

 心を静めて状況を把握しようとした。姿を見ることはできなかった。金縛りにでもあったみたいに、首も手も動かない。息を殺し、耳を澄ませた。何者かがゆっくり近づいてくる音が聞こえた。病院のスタッフだろうか。声をかけようと思ったけれど、声が出なかった。睡眠薬のせいで再び眠りに落ちかけ、うつらうつらしたところで不意に目を覚ました。何かが動いている。白い影のようなものが、部屋のなかを動きまわっている。視界の隅にその姿が見えた。若い女のようだった。

目は完全に覚めていた。意識も明晰だ。恐怖は感じなかった。邪悪なものやおぞましいものではなさそうだ。影は窓に近づきカーテンを開けた。窓も開けたようだった。心なしか部屋の温度が下がった気がした。冷たい月の光に照らされて、見知らぬ女の姿が浮かび上がった。

「何をしている」

 言葉は難なく口をついて出た。女は自分の名前を呼ばれたかのように振り向いた。目が合った。彼女のことを知っている気がしたけれど、その顔は、自分が知っている誰の顔にも似ていなかった。遥かに遠い思い出の奥底から彼女を見ている気がした。

 

 

 

果てしなく暗い闇と黄金にかがやく満月の物語

ー59ー

 

 

 

 

 

にゃんく

 

 

 

  時間は三時過ぎの筈でした。ラチの街まであとひとふんばりというところで、ミミ、リュシエルはひと休みしていました。
 東の空に黒い雲が広がっていました。雷を帯びた光の明滅が見え隠れしています。
「雲行きが怪しくなってきたな。急いだ方がいいかもしれないな」
 リュシエルが云いました。

 

 メメはミミたちから五十メートルほど離れたところで、きれいな色の蝶々を追いかけて遊んでいました。石に背中を凭せかけていたジョーニーがこっそり云いました。「メメ、今がチャンスだぜ。蝶々を追いかけるふりをして、このまま遠くまで逃げちゃおうぜ。ふたりで幸せな家庭を築こうよ」
 メメはぴたりと動きを止め、うんざりしたようにジョーニーを見やりました。「なんだか、ちょっとしつこすぎるわ。もうそれ次云ったら、あなたを連れて歩くのやめるからね」
 ぴしゃりと云うと、メメはジョーニーをそのままにして、ひとりで蝶々を追いかけて離れて行きます。
「おい、待ってよ。何処行くんだよう! 逃げるんなら、おいらも一緒に連れてってくれよう」
 メメは振り返る素振りも見せず、捲れ上がったレースのついたスカートの中のパンツを丸見えにしながら遠ざかって行きます。
 その時、喇叭と太鼓の奇妙な乱打の音が聞こえてきました。蝶々に夢中だったメメもギクリとして立ち止まり、音のする方を振り返りました。
「なんだろう? この不愉快な音は?」とジョーニーは訝しげに呟きました。

 

「これはこれは殿下。こんなところでお会い出来るとは望外の歓びですぞ。歓び過ぎて、鼻血が出そうなくらいだ」と代理官殿は馬に跨ったまま云いました。リュシエルは不審そうに楕円の体型の男を眺めました。その男は胸に見覚えのある王家の紋章や勲章などをジャラジャラつけています。
「誰だ?」リュシエルが訊ねますと、楕円の男は胸を反らし、「北方総督府総督代理官の職に就いておる者です。以後お見知りおきを。私のことは、代理官殿とお呼び下さい」
「代理官? 以前に代理官をしていた者とは違うようだが」とリュシエルが云うと、「あまりに無能だったから、わしがその者の代わりに代理官になったのです。殿下が行方不明になっている間に。いけなかったですかね?」
 と代理官殿は云って、プヒヒと笑いました。
 リュシエルは、ミミが自分の手を探し求めていることに気付いて、ミミと手を繋ぎました。ミミがリュシエルの手を強く握り返してきました。
「ところで、その代理官殿が、ぼくに何か用でも?」
 リュシエルがそう訊ねると、代理官殿は、ジョーの方を顎でしゃくり、「このジョーという男が、殿下に似た人間を目撃したというので、急ぎ馳せ参じたのです。ですから、もうご安心下さい。我々が、殿下をお守りして総督府までお連れしますから」
 リュシエルはジョーと呼ばれた男のことを忘れていましたが、しばらくして思い出しました。「彼は、むかし都で兵隊をしていたという……」
「ジョーですだ。やっぱり、あなたは王子様だった」ジョーが嬉しそうな声をあげました。「そこの女の方は、オラの怪我を治してくださった。あなたがたは、オラの命の恩人ですだ」
 その声を聴くと、ミミも思い出したらしく、微笑みを口元に浮かべました。
「わしが今喋っておるのだから、お前は黙っていなさい」代理官殿は不機嫌そうに低い声でジョーに云いました。「さあ殿下、総督府に参りましょうか」
 雨がぽつりぽつりと降ってきました。
「何故総督府に行かなければならないんだ?」
 頭に血が巡るのはかなり時間がかかると云わんばかりに代理官殿はしばしの沈黙の後、口を開きました。
「それは殿下が弱っているからです。弱っている者は、我々の手で保護しなければなりません。そのあと被保護者が回復せずに、死んでしまったとしても、それは我々の責任ではありません」
「?」
「とにかく、総督府までお越しください」
「ぼくたちは子供じゃない。保護なんて、必要ない。ぼくたちはこれから都に向かうのだ。この子の目の治療をするためにね。君の手助けは必要ない。悪いが、総督府には行けないよ」
 代理官殿はリュシエルの言葉を聞くと、がらりと声音を変えて、脅すように云いました。
「殿下。あなたは、昔は殿下であったかもしれんが、今はただの落ち目の逃亡者に過ぎません。そのような抗弁が出来るご身分でもありません。それとも、何か来られない理由でもおありなのかな?」
 何がおかしいのか、ヒヒヒと黒の参謀が声に出して笑いました。
 リュシエルは、代理官殿の異様な風体、無礼な言動に危険なものを感じ、ミミを立ち上がらせ、「ぼくが何処に行こうと、ぼくの勝手だ。かまわないでもらいたい」と云って、立ち去ろうとしましたけれど、「時に」という代理官殿の声が後ろから聞こえて来ました。
「カルマ村で、男をひとり、刺し殺されましたな、殿下?」
 リュシエルは立ち止まり、代理官殿を振り返りました。太りすぎて首が消滅した代理官殿はその軀体を大きくさせたり小さくさせたりしながら、「フーフーフー」とリュシエルまで聞こえてくるほど荒い息をしています。
「何故、お殺しなされたのです? 罪もない人間を」
 リュシエルは動揺して云いました。「し、死んだって? 殺すつもりは、なかったんだ」
「村人たちの証言によると、殿下、あなたたちは、金も持っていなかったのに、彼らの家に宿泊し、飲み食いをされた。その後、男に金を持っていないことを追及されると、あなたは激高し、男を刺し殺して、村から逃げたのだ」
「それは違う! ミミがあの男に襲われたから、守ろうとして、止むを得ずに起こった事故なのだ。嘘ではない」
「目撃者もおりますぞ。殿下、そのような言い逃れは通用しますかな? 御存知のように、人殺しの罪は、とても重いのです。どう責任を取るつもりですかな?」
「……」
「まさか、王子だから、見逃してくれと仰るのではありますまいな?」
 リュシエルが項垂れていると、代理官殿は左右の参謀に命じました。「この男を処刑せい。この者はもはや王子などではない。ただの凶悪な人殺しだ」
 白の参謀が愕いて声を上げました。「お待ちください、代理官殿。聞き込みをした内容と、殿下の言い分が食い違っております。もうすこし、調査をした方がよろしいと思われます。それに、百歩譲って、殿下が完全に悪かったとしましても、我々ごときが殿下を処刑するなどとは……逆立ちしたって出来ることでは御座いますまい」
 白の参謀の意見は、代理官殿の怒りのツボを刺激したらしく、代理官殿は激昂しはじめました。代理官殿の顔は熾った炭のように真っ赤になり、フンフーンと鼻からは白い蒸気が吹き出されています。
「貴様が意見を云う必要はない」
 代理官殿の卵型の体型は、ボールよりも真ん丸く、ますます完璧な円形に近付いて膨れ上がっています。
「悪い王子を処刑することに、何のためらいが要るのだ!」
 尋常でない代理官殿の様子を見た黒の参謀が、くねくねと身体を捩らせながら、頭の栓が飛んでいったみたいな高い声で取りなしました。
「大丈夫です、代理官殿。我々が王子を私刑に致しましても、庶民どもは拍手喝采して代理官殿の行いを褒めそやすことでしょう。他の誰にも出来ぬ行いを、代理官殿が遂行するのです。まさに英雄であります。史上まれに見る、英雄的行為です!」
 その言葉を聴いて、代理官殿は気持ちを落ち着かせたらしく、鼻から出ていた白い煙の量が半分に減り、やがて円形の身体が楕円形に戻りました。
 代理官殿が膨らんだりしているのを見て、リュシエルはミミの手を引いて駈け出しました。代理官殿は黒の参謀の長い銃を「かせ」と云ってひったくり、狙いを定めて引き金を引きました。ズガンッと鼓膜が破れるかと思うほどの衝撃音が響き、銃から灰色の煙が棚引きました。リュシエルはばたんと地面に倒れました。ミミも「キャアッ」と悲鳴をあげて転びました。
「ううう……」
「大丈夫? 何処にいるの?」ミミが訊ねると、
「……脚を撃たれた」リュシエルの答えが近くで聞こえました。
「お見事」と黒の参謀が拍手して、代理官殿の腕を称えました。
 代理官殿はまんざらでもなさそうな表情で、云いました。
「殿下。不公平だと思いませんか? わしは、どんなに頑張っても、一生将軍にすらなれない。それなのに、あなたは生まれ落ちた時から王子で、死ぬ時には王様だ。今の地位を得るために、わしが、どれだけ危ない橋を渡ってきたか分かっているのか。それに比べて、お前は、何もしないで、贅沢し放題。何も知らない無邪気さで、美女とやり放題。こんな不公平が許されますか?」
 ズガンッ。代理官殿が脇に抱えた銃が咆哮し、起き上がっていたリュシエルが草の間に仰向けに倒れました。リュシエルの脚に回復の魔法をかけようとしていたミミが悲鳴をあげました。
「お見事!」黒の参謀がまばらな拍手をしました。「今度は左腕に命中致しました!」
「この日を長年夢見ていたのだ。お命頂戴致します。腑抜けの総督を脅し、北方総督府が独立王国を宣言する運びになるだろう。それがうまくいけば、わしが総督の座を奪う」
「そして庶民には塗炭の苦しみが!」白の参謀が表情のない声で云いました。
 ズガンッ。銃が三度めの咆哮をしました。リュシエルはもう起き上がってきませんでした。ミミはそばで蹲り、泣いています。
「お前が死ねば、王の子孫はいなくなる。うるさいソフィーも力をなくすだろう。それからじっくり、王宮を潰してやる。王宮は、蛆虫の湧いた死体同然だ。ちょいとひねってやれば、首はもげて取れるだろう。そしてわしがこの国を支配する王となる」
「代理官殿バンザーイ!」黒の参謀が叫びました。「……それとも、王様とお呼びした方がよろしいでしょうか?」
「いや、まだ代理官殿でいい」
 そう云うと、代理官殿は片目を細めて銃の引き金を二、三度立て続けに引きましたが、銃はカチッ、カチッと音を立てるばかりで弾を発射しませんでした。
「肝心なところで……」
 そう云うと、代理官殿は銃を地面に投げ捨てました。
「ああ、リュシエルが死んじゃう!」
 メメが走ってミミの背中に抱きつきました。
「とどめを刺すのだ」と代理官殿は指示をしました。「女子供も、忘れるな。此処にいる者は、すべて始末するのだ」
 黒の参謀が軍刀をギラリと抜いてメメの方へ歩いて行きました。
 次第に雨脚が強くなり、すべてを洗い流すような雨に変わっています。
 それまで動こうにも動けずに事の成り行きを見守っていたジョーでしたが、ここへ来て、
「お待ちくだせえ、お役人様」と黒の参謀の軀を後ろから羽交い締めにして止めました。「オラがお知らせに行ったのが、悪かっただか? どうかお考え直し下せえ」
「離せ、離すのだっ」黒の参謀とジョーはしばらく揉み合いになっていましたが、黒の参謀がジョーを振りほどき、軍刀を振り下ろしました。
「ギャッ」
 肉を切る鈍い音がして、ジョーが草の間に倒れました。体の中心にあったと思われる、鮮やかな色をした血が流れ出て、急速にジョーの回りに滲み出しています。
「独立王国を宣言するなどと……代理官殿、何を血迷われたのです?そんな夢は悪夢の中だけで充分で御座います。どうかご正気にお戻りください」
 白の参謀が諫めると、代理官殿は眉を八の字にして、眉間に深い皺を寄せました。代理官殿は普段から濁っている目をさらに血走らせ、沸騰したケトルのように顔を真っ赤にして怒っています。
「貴様は、いったい何度云わせれば分かるのだ!」
 代理官殿の卵型の体型は、今や満月よりも真ん丸く、これ以上ないほどの円形に膨れ上がっています。
「目の前に転がり込んで来た、千年にいちどのチャンスなのに!」
 奇妙奇天烈な代理官殿のお怒りの様子を目の当たりにした黒の参謀はぴたりと立ち止まり、その特徴のない顔を破顔させました。そうして軍刀を片手に持ちながら身体を左右にくねくねさせはじめ、普通の人より二オクターブは高い声で代理官殿を宥めました。
「大丈夫です、代理官殿。反乱計画は、うまくいきますよ。死んだ王とこの王子のことを良く思っている人間はひとりもおりません。麻薬のような快楽と、骨まで打ち砕く圧政に、民衆は涙を流して喜ぶことでしょう。ウヒヒヒヒ」
 その言葉を耳にすると、代理官殿はやっと普通の思考回路に戻ったらしく、眉は八の字から一の形に戻り、円形に膨れ上がっていた体型も、次第に本来の楕円形に収縮していきました。
 ミミとメメは抱き合って震えています。
 黒の参謀が軍刀を片手に「もっと偉くなりたい! もっと偉くなりたい!」と歌いながらふたりのいる方へ一歩ずつ近付いて行きます。メメが云いました。
「そうだ! オカシラたちを呼ぼうよ。きっとすぐ助けに来てくれるわ」ミミも、良いことを思いついたというふうに頷きました。「オカシラ! ミコさん!」メメが叫ぶと、ミミも一緒に名前を呼びました。「ばか力! スナイパー!」「オカシラ! ミコさん!」「助けて!」
 山あいの山荘まで届けとばかりに、ふたりはありったけの声を振り絞りました。山びこが帰って来るような気がしました。
「誰の助けを呼んでおるのだ?」代理官殿は訝し気に呟きました。
「こんな処に、いったい誰が助けに来ると云うのだ?」
 黒の参謀は、辺りをきょろきょろ見回しました。
 やがて、メメとミミの助けを呼ぶ声も、小さくなっていって、最後には泣き声に変わっていました。ふたりは抱き合って、雨と涙に濡れていました。
「早く殺ってしまえ」
「それにしても、何とも惨いことですな。こんな女子供まで手にかけるのは。黙って孤島に追放に致しましても、害はありますまい」
 白の参謀の献言を耳に入れると、代理官殿は顔を真っ赤にさせて内心の怒りを表現していました。鼻から滴り落ちる雨を、代理官殿の激しい鼻息が、小便の飛ばし合いっこよろしくフンフーンと三メートルほどは吹き飛ばし、卵型の体型は、太陽よりも真ん丸く、ますます完璧な円に近付いて膨れ上がっています。
「貴様、何を手緩いことをぬかしておるのだ!」
 普通でない代理官殿の激高する様子を見て、黒の参謀が身体をくねくねさせながら、お尻の栓を盗られてしまったために力が全く入らないとでもいうふうな、ふやけた声で云いました。
「お言葉、ご尤もで御座います。女子供と云えど、いっさい容赦してはならぬと存じます。覇道の達成のためには、僅かばかりの犠牲など、当然許されてしかるべきです」
 その言葉を聴いて、代理官殿は気持ちの昂ぶりを静めることが出来たらしく、雨水を鼻息で吹き飛ばすことを止め、完璧な円形に近付いていた体型も、元の楕円形に縮みました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

つづく

 

 

 

 

 

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果てしなく暗い闇と黄金にかがやく満月の物語

ー58ー

 

 

 

 

 

にゃんく

 

 

 

  代理官殿は今、山あいの土地で、その卵型の体型を馬の上で揺らしていました。
 代理官殿は此処まで来る途中、馬の上でほとんど眠っていました。ジョーがよくも馬上から転げ落ちないものだと関心するほどでした。
 ジョーが、「ブヒ―!」という豚の鳴き声を聞いたので、吃驚して、おかしいな、こんな処に豚はいないはずなのになと周囲を見回したところ、「ブヒ―」と鳴いているのは他でもない代理官殿自身なのでした。
 代理官殿は眠りながら、頻繁に「ブヒー」と豚のような鼾をかいていて、ますます高まっていくその自分の鼾に愕いて、今の今、目を醒ましたばかりなのです。
 代理官殿は目を醒ますと、参謀の手を借りて時間をかけながら馬から降りると、草叢に入って行きました。
  白の参謀が後ろに付き従っていたので、またトイレかと思い、ジョーはそちらの方に目を向けないように気をつけました。代理官殿は太りすぎているために、自分のお尻に手が届かず、用を足した後はいつも白の参謀にお尻を拭いてもらっているのでした。ジョーは偶然その様子を目撃してしまい、代理官殿の濁った目に睨まれて以降は、彼が用を足す時には近付かないように用心しているのでした。
 用を済ませた代理官殿は参謀ふたりにお尻を押されて馬上の人に戻ると、一行の行軍は再会されました。
 突然、白の参謀が背中にしょったカバンの中から進軍喇叭(ラツパ)を取り出し、パラッパッパーと派手に吹き鳴らしはじめました。喇叭の音を合図に、黒の参謀もお腹の前にブリキの太鼓をセットし、テッテケテー  テッテケテーと叩き出していかにも元気良く行進しています。伸ばした脚を、大きく踏み出し、
 テッテケテー  テッテケテー
 まるでおもちゃの兵隊さんのように、リズミカルな歌を口ずさんでいます。

 


 罪もない老若男女が
 今日もまた無駄に殺されていく
 代理官殿がダイエットすれば
 いったい何人の人を救えるというのか
 テッテケテー  テッテケテー♩
 可哀想などと思ってはいけない
 疑問に思ってもいけない
 ただこの命令が
 正しく実行されることこそ我らの望み
 我らの歓び
 テッテケテッテケテッテケテ♩

 


 我ら 未来の代理官
 輝くばかりの栄光と
 大きな出世が約束されている
 我ら 未来の代理官

 


 黒の参謀が片手に持った長い銃を、気のおもむくままに発射しました。ズガンッという音がして、ジョーは銃弾が耳元を通過したように感じ、飛び上がって愕きました。
「もっと偉くなりたい! もっと偉くなりたい!」と興に乗った代理官殿が吠えました。そうして歌の一番が終わると、気が済んだというふうに代理官殿はまた居眠りをはじめ、一行の捜索は続けられるのでした。

 

 

 

 

 

つづく

 

 

 

 

 

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果てしなく暗い闇と黄金にかがやく満月の物語

ー57ー

 

 

 

 

 

にゃんく

 

 

 

 

 その頃、ジョーは、北方総督府から総督代理官殿とその参謀ふたりを連れて、リュシエルの行方を捜していました。
 ジョーはミミに病気を治してもらってから、故郷へ帰るところだったのにわざわざ東方の北方総督府へ引き返して、リュシエル王子らしき人物を目撃したことを総督府に報告したのでした。
 ジョーは総督府で長い時間待たされて、もうあきらめて帰ろうと思った頃、士官服に肩章や徽章、胸に勲章などをジャラジャラつけた、総督府のナンバー2である代理官殿が、フーフー荒い息を吐きながら現れました。そしてジョーは密室に移動させられリュシエルたちと出会った時の状況を詳しく聴取されたのでした。
「おまえ、何故すぐ云いに来なかったのだ?」と代理官殿は権柄ずくに云いました。ジョーは吃驚して、「すぐに云いに来ました」と答えました。
「すぐに云いに来ただと?」代理官殿の鼻息は荒く、目は濁っています。「かなり時間が経っておるではないか!」
 此処で随分待たされたからですよとジョーは云い返したかったのですが黙っていました。
「どうせ見間違いだろ?」と代理官殿の横柄な態度はますますエスカレートしていくのでした。
 ジョーは自分がむかし都で兵隊をしていた頃に王子を見かけたことがあり、目撃した男がその王子にそっくりだったことを告げました。
「兵隊ねえ……どうせ間近で見たわけじゃねえんだろ?」
 ジョーは黙っていました。確実なことは何も云えなかったからです。
 その後ジョーはひとりきりにされ、さらに気が遠くなるくらい長い時間待たされました。
 何となく、自分が場違いな処に来てしまったという気持ちを拭い去ることが出来ませんでした。ほんの善意から此処までやって来たのでしたが、自分が報告した目撃情報は出来ればなかったことにしてもらいたいと思ったほどでした。
 そして自分の存在が忘れ去られてしまったのではないかと思いはじめた頃、ジョーは代理官殿から王子捜索の道先案内人をつとめるよう申し渡されたのでした。
「わしらが王子の捜索に出掛けることは、誰にも口外するなよ。この行動はすべて隠密なんだからな」代理官殿は出発の前にそうジョーに云い含めました。

 

 

 そうして代理官殿は今、ジョーの後ろで馬に乗り、その左右に参謀ふたりが随身する形で、既に山賊のアジトがあるという噂の山あいまで捜索の足を伸ばしていたのです。
  ふたりの参謀は顔がそっくりで、まるで双子のようでした。ふたりは着ている士官服までそっくり同じでしたので、もし三日月の形をした軍帽の色まで同じだったとしたら、ジョーにはどっちがどっちなのだか見分けがつかないところでした。白い軍帽を被っている方が〈白の参謀〉で、黒い軍帽を被っているのが〈黒の参謀〉と呼ばれていました。ふたりはそっくりの顔をしていましたけれど、別れて五秒後には誰しも忘れてしまうほどの特徴のない顔をしています。
 此処まで来る途中、村人や旅人に聞き込みを行い――その役目は何故かほとんどジョーがやることになりましたが――ゴルドー村では村人の中に、若い男と盲の女、それに五歳くらいの子供が南へ向かうのを見たと証言するものがありました。
 またその情報を元に南進し、カルマ村に到着したところ、カルマ村では或る老婆がそういう風体の者たちを自分の家に泊めたことを明らかにしました。
 カルマ村の老婆の証言によると、元王子と思われる者を含む三名は、ただで飲み食いをしたあげく、夜中のうちに宿代を支払いもせず、老婆のひとり息子にそのことを追及されると激高し、ひとり息子を刺し殺して夜陰に紛れて逃走したということでした。その犯行の一部始終を目撃していた男もいました。ジョーはその話を聞いて、我が耳を疑いました。ジョーには彼らがそのような酷いことをする人間には思えなかったからです。

 

 

 

 

 

 

 

 

つづく

 

 

 

 

 

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果てしなく暗い闇と黄金にかがやく満月の物語

ー56ー

 

 

 

 

 

にゃんく

 

 

 

 

 

 

 

ⅩⅡ 代理官殿とふたりの参謀

 

 

「何とも、急なことですな」とスナイパーが残念そうに云いました。
「どうしても行くのかい?」事情を聞いて、ミコも、別れを惜しんで云いました。
「オレたちの仲間にならないかい?」
 オカシラも云いました。
 リュシエルは、これまでのこと、自分が元王子であり、追われる身であったことなどを山賊たちに話して聞かせました。
 リュシエルとミミは、山賊たちに感謝のお礼を云ってから、それでもやはり、自分たちは都に行きます、と答えました。
「残念だな。王子だったなんてな。無事、王宮に辿り着くといいな」
 とばか力も云いました。
「王様になったら、貧しい人たちのことや、わしたち日陰者たちのことも、すこしは考えてくれますな?」
 とスナイパーも、云いました。
「勿論ですとも」リュシエルは、彼らのひとりひとりと固く握手し合って、約束は守ります、と誓いました。世の中の悪のように云われている山賊の中にもいい人達がいること、民衆を守るべき官憲の中に民衆を苛んでいる者がいることを元王子は放浪の旅で知ったのです。
「達者でな」
 ミミとリュシエル、メメは、山賊のひとりひとりとお別れをしました。
 メメはピエロの人形を抱えて、後ろ向きに歩きながらオカシラたちに手を振っていました。
 オカシラに新しい地図をもらいましたし、都への行き方も教わりました。
 オカシラの説明によると、方角的にはこのまま北東へ進めばラチの街へ着くということでした。
 リュシエルは剣をズタ袋の中に隠すことはもう止めて、堂々と腰に王家の剣を提げて歩いていました。何しろ、自分は王子なのです。もう、こせこせ隠れる必要はないのです。
 山から下りて、山荘のあったと思われるあたりをリュシエルは見上げましたけれど、そこには山の木々と雲が棚引いているばかりで、彼らの姿も山荘も掻き消えてしまったように何も見えませんでした。事情を知らない人に、「あなたがたが見たものは幻だった」と云われても、納得してしまいそうなほどでした。
 リュシエルもミミも、山賊たちとの別れは後ろ髪を引かれる思いでしたけれど、今は都へ向かうことに胸高鳴っていました。
 道々、色とりどりの鳥たちが、何やらピーチクパーチクにぎやかに囀っています。ミミは時々躓いたりしながらも、そのたびリュシエルの腕に助けられながら歩きました。
「ぼくのお祖母さんに当たる人が、花が好きな人でね」とリュシエルが歩きながらミミに話しかけました。「王宮の庭に変わった花や美しい花を世界中から集めて来て、何年もかかって大切に育てたり、手入れしたんだ。そのお祖母さんは今はもう生きてはいないけれど、お祖母さんが作った庭の花々は、毎年春になると、きれいな花を咲かせるんだ。何百という花だよ。そこでぼくたちは春になると、みんなでお花見をするんだ。従兄弟や友人は勿論、外国のお客も毎年招待していたよ。君の目が治ったら、是非見せてあげたいな。たぶん吃驚すると思う。凄くきれいだから」
「見てみたいわ」
「それから、毎年、夏になったら、南の海の別荘に行くんだよ。泳いでもいいし、魚釣りをしてもいいし、ただひなたぼっこをするだけでもいい。でも、いちばん気持ちがいいのは、海で泳ぐことだとぼくは思うよ。そばで珍しい魚も泳いでいるしね。ああ、しばらく行ってないな、海。ミミと一緒に行くと、楽しいだろうな」
「私、海って見たことないわ」
「そっか。じゃあ、是非、行かないとね」
「でも、私の目、治るかしら?」
「きっと治るよ。治らないなんてことないよ」
「だといいけど……」
 暑くもなく、気持ちが良いくらいの秋晴れでしたけれど、ミミの額からはうっすら汗が滲み出してきていました。目が見えないで歩くということは、普通の人が歩くより相当疲れるものなのだろうなとリュシエルは思いました。リュシエルはミミの歩調に合わせて、ゆっくり歩きました。
 さんにんは途中、四十代の男の旅人とひとりすれ違っただけで、誰とも会いませんでした。
 ふとリュシエルが見上げると、木の枝に止まった黒いカラスが首を傾げながらリュシエル達の方を見ていました。リュシエルは歩きながら、蹲踞んで石ころを拾うとカラスめがけて投げました。カラスが近くの梢に飛び立ち、石はカラスをかすめました。カラスは一層首を傾げながらも、リュシエル達と付かず離れずの距離を保ちつつ、ついて来ていました。「なんだか嫌な予感がするな」
「どうしたの?」
「あのカラスがずっとついて来ているんだ。石を投げても逃げないし」
「気味が悪いわ」
「誰かに追跡されている気分だな」
「私、歩くの遅いかしら?  もっと急いだ方がいいわね」
「慌てると転んだりして危ないから、ゆっくりでいいよ。大丈夫。今のところ、誰も追って来ていないから。あ、そうだ」リュシエルは、首に手を回して、ペンダントをはずし、ミミに立ち止まってもらってから、それをミミの首にかけてあげました。「剣とこのペンダントは、世界でただひとつしか存在しない物なんだ。だから、このペンダントの方を君にあげるよ。考えたくないけど、これから先、万一ぼくと離れ離れになったとしても、そのペンダントを見せて事情を説明すれば、王宮の門をくぐることが出来るはずだよ」
 ミミはペンダントの透明の原石にそっと手を触れてみました。たった今まで付けていたリュシエルの肌の温もりが伝わって来ました。石の表面には、龍の紋章とアルファベットの文字が刻み込まれているのが手で触っても分かりました。「そんな大切な物を私がつけていていいの?」
「いつか、何かの役に立つかもしれないからね」
「ありがとう」
 メメは元気いっぱいで先頭を歩いていました。メメがふと気付いて振り返った時には、ミミとリュシエルが後ろの方で小さく見えたほどでした。「離れすぎたわ。もう少しゆっくり行かないと」
「此処でやつらと別れて、おいらとふたりで逃げようぜ」腕に抱かれているジョーニーはメメに囁きました。
「あんた、こないだからそればっかりじゃないのよ。わたしがミミを置いて行けるわけないじゃない」
「早く逃げないと、そろそろヤバい気がするんだよ」
「ヤバいって何がよ?」
「この前も云ったと思うんだけど、おれっちの帰りが遅いと、リーベリ様がじきじきに探しに来るかもしれないんだ」
「リーベリって、ミミのお姉さんの?」
「そうだ。とても怖い魔女だ。捕まったら丸焼きにされちゃうんだぜ」
「なんの用があって、リーベリがわざわざこっちまでやって来るって云うのさ? ミミちゃんの目を失明させたあげく、まだこれ以上、何を嫌がらせしたいって云うのさ?」
「話せば長くなるんだが……」
「手短に話してよ」
「リーベリ様はリュシエルを自分の住まいの洞窟まで連れて行こうとしているのさ。そして、そこでリーベリ様とリュシエルは死ぬまでふたりで暮らすのさ」
「リュシエルにはミミちゃんがいるじゃない」
「だから、今度は力ずくでもリュシエルを奪って行くだろうさ。あの人からそんなに遠くまで逃げられるわけないのさ」
「どうして奪って行こうとするの?」
「……愛だよ、愛。君にはまだ分からないかもしれないなあ。狂おしいほどの愛情と、その人のためには前後の見境がなくなるほどの排他性。たとえ世界が滅亡したとしても、ふたりの愛さえあれば、そこに自分たちだけの新しい世界を作り出すことが出来るのさ。この排除と独占の気持ちは、愛をした者にしか分からない。だけど、君にもそのうち分かる時が来るさ。世界に存在するたくさんの、悲しい話も戦争も、すべては愛から生まれたことなのさ」
「よく分からないけれど、とにかくリーベリがやって来るかもしれないから、急いだ方がいいってことね?」
「要は、そういうことになるね」
 メメは後戻りしてリュシエルとミミに合流しました。「すこし急いだ方がいいかもしれないわ」
「どうしたんだい?  急に?」とリュシエルは云いました。
「なんだか胸騒ぎがするのよ」
  リュシエルはメメの金色の髪を撫でてやりました。
「そうだね。だから、メメも道草食ったりしないで、しっかりぼくたちについて来るんだよ」
「わかったわ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

つづく

 

 

 

 

 

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果てしなく暗い闇と黄金にかがやく満月の物語

ー55ー

 

 

 

 

 

にゃんく

 

 

 

 

 

 

 

ⅩⅠ 訪れた朗報

 

 

 

 

 その日の夕方、オカシラ達が荷車を引いて山荘に帰って来ました。
 荷車の中はからっぽになっていました。
 山荘の台所では、昨日と同じくコユビさんがオカシラ達のためにご馳走を準備して待っていました。
 メメは、みんなでオカシラ達のお出迎えをした後、荷車の中に一枚のビラが入っているのに気づきました。書かれてある文字はメメには読むことは出来ませんでしたけれど、そこに描かれてある似顔絵を見て、メメが云いました。「これ、リュシエルに似てる!」
 リュシエルが気づいて何気なくそのビラを覗き込んでみますと、そこにはこんなことが書かれていました。
「このたび逆臣ネリとディワイは排除され、王宮内の騒動は無事鎮圧された。
 ソフィー王妃様にあっては、リュシエル王子の安否をいたく心配されている。王子の安否について知っている者あれば、どんな情報でも王宮府、または総督府などの最寄りの出先機関に寄せられたい。それが王子の発見保護につながった場合は、下記の賞金が進呈されるだろう……」
 リュシエルはビラを見て、心が震えました。王宮が作成したものらしいそのビラの、賞金の額が記載された下の方に、王子である自分の似顔絵が描かれていました。
 都へ帰れる! 王宮に戻れるんだ!
 リュシエルは自分の元に強い味方が帰って来たように感じました。これでミミの目の治療も出来る……。
 しかし、王宮へ戻るということは、近い将来、自分が王に即位するということを意味していました。果たして自分にその重責が務まるのか? 都の裏路地には、その日の食べ物にも事欠く腹を空かせた人々の群れがある。時に彼らは怒れる民衆と化し、王と王子を襲撃しさえもする……。離れはじめた民衆のこころを、自分などが取り戻すことが出来るのだろうか?
 リュシエルは、道中止むを得ない事情だったとは云え、ひとりの男に重傷を負わせたことを思い出していました。あのひとり息子は、無事だっただろうか? あの行いが、王子である自分の狼藉であると知れた時、あの男の母親はぼくの罪を許してくれるだろうか?
 リュシエルはしばらく沈思黙考していましたが、そのビラを静かに裏返して荷車の中に戻しました。
「その似顔絵、あんたに似てるんだよな」リュシエルはハッとして顔をあげると、山荘の中に這入って行ったと思っていたオカシラがひとり、知らない間に腕組みをして自分のことをじっと観察していた様子なのでした。「絵の方が、ちょっとぽっちゃりしてるけどな」
「このビラ、どうしたのですか?」とリュシエルがオカシラに訊ねると、
「立て札に貼ってあったのを引っぺがして来た」とオカシラは答えました。「あんた、王子様だったのかい?」
 リュシエルは、深く息を吸い込み、悲しげにそれを吐き出した後、云いました。
「人には、他人には想像も出来ない過去があります。ぼくは、ここ何年か、自分の身分を隠して行動して来ました。確かに、ぼくは元王子です。ですが、そのことは、みんなには黙っていていただきたいのです」
 オカシラは、眉をあげ、射るような目つきをしました。
「そうかい。それじゃ、そうするよ。此処では、みんな、人の過去は詮索しないことにしてるから、安心しな。あんたは、元王子だ。
でも、今はそうじゃない。それでいいんだろ?」
「かたじけない」
 リュシエルとオカシラ、メメも山荘に這入り、待っていたみんなと一緒に宴会となりました。
 昨晩と同じように、お腹がいっぱいになると、みんなそれぞれの行動を開始しました。オカシラとコユビさんは姿を消し、スナイパーはぶどう酒の香りを嗅いでいましたし、バカ力はいつまでも食べ続けていました。ミコさんはひとり寂しそうにしていましたし、山荘の玄関では、名前も知れない若い子分が見張りを続けていました。
 リュシエルはミミと山羊のいる飼育場を抜けて、庭に出て、三日月を見上げていました。
「どうかしたの?」と心配してミミが訊ねました。「元気がないようだけれど」
 ミミの顔には包帯が巻かれていました。包帯の下から、痛々しい顔の傷が見えています。元はと云えば、ミミの目が見えなくなったのも、彼女の顔に醜い傷がつけられたのも、自分のせいなのだとリュシエルは思いました。それなのにぼくは身の安全ばかりを考えて、都に帰ることを躊躇っている。
 突然、リュシエルが強く抱きすくめてきて、ミミは愕きました。しばらくリュシエルは黙っていました。彼は小刻みに震えているようですらあります。「どうしたの?」
 ややあって、リュシエルは云いました。
「帰ろう。都に。王宮に、戻れるんだ。君の目は、世界一の名医が必ず治してくれる」
 今宵は三日月がいつにも増して闇を強く照らしています。

 

 

 

 

 

 

 

つづく

 

 

 

 

 

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果てしなく暗い闇と黄金にかがやく満月の物語

ー54ー

 

 

 

 

 

にゃんく

 

 

 

 

 

 

Ⅹ 鞭打つリーベリ

 



 一方リーベリは自ら御者台に坐り、牽き手のカエル二匹に容赦なく鞭をくれて、夜を日に継いだ強行軍で車を飛ばしていました。
 休憩はほとんどありませんでした。車を牽っ張る役目のカエル二匹は、既に体力の限界に来ており、リーベリに聞こえるか聞こえないかの小声で、ぶつぶつ不平を云い出しはじめていました。
 そんなところへ、走行中の車が急に傾いて、停止しました。何事が起こったのかと後ろを走っていたカエルたちも集まって来ました。
「どうしたんだ?」と後ろからやって来たカエルの一匹が訊ねました。
 それまで車を一所懸命牽いていたカエルの一匹が、足を抱え込んで道端に蹲っていました。
 リーベリは興味がなさそうに、黙って御者台に坐っていました。
 足を抱えたカエルはただ苦しそうに呻いていました。
 周りにいたカエルが、リーベリに事情を説明しました。「足を怪我したようです。出っ張った石に、足をぶっつけてしまったみたいです。これ以上歩くことは難しそうです」
 リーベリが御者台に鞭を置いて、降りて来ました。
 足を折ったカエルは、恐れを湛えた眼差しでリーベリを見つめていましたが、リーベリが自分の間近に近付くと、まだ動く方の片足でよろめきながら立ち上がろうとしました。「リーベリ様、オレはまだ走れます。まだ充分、働けます。リーベリ様のお力で、どうかこの足さえ治して頂ければ……」
 リーベリは立とうとして立てないでいる足を怪我したカエルをしばらく無言で見下ろしていました。ややあってリーベリが答えました。「あたしが、回復の魔法を二度と使わないって誓ったことは、知ってる?」
 足を負傷したカエルは、神を崇めるような目つきで、「ああ」とただ一言漏らしました。それでもカエルは縋るような目つきでリーベリを見つめていました。
 リーベリは御者台に戻り、カエルのぬいぐるみとナイフを持って戻って来ました。そのぬいぐるみは、オオヒキガエルに魔法をかけてカエル人間に変身させた時に使った、あのぬいぐるみでした。リーベリは、カエルのぬいぐるみを路上に置いて、ナイフを胸に突き立てました。そしてぬいぐるみの胸の部分から、綿を取り出し、それを掌で握り潰す仕種をして見せました。すると足を怪我したほんもののカエルの方が左胸を押さえて苦しみ出し、口から緑色の体液を吐き出し、俯せに倒れました。リーベリは丸めた拳にさらに力を込め続け、カエルの痙攣が止まり、息絶えるまで容赦しませんでした。
 リーベリが掌を開くと、今の今まで脈打っていたカエルの心臓が体液を垂らして押し潰されているのでした。
 他のカエル達は固唾を呑んでこの様子を見守っていました。
 リーベリは地面にぽいと黒ずんだ心臓を投げ捨てると、「さあ、先を急ぐわよ」と云って再び御者台に坐りました。
 牽き手の穴の空いた分は、後ろを走っていたカエルから一匹補充されました。
 一行は唸りを上げて、嵐のように森の中を突っ走って行きます。
 あたしに回復の魔法を使えだって?
 リーベリの脳裏に浮かんでいたのは、若くして亡くなった元気なママの笑顔でした。
 貧しい村人たちの際限のない注文に、ママは笑顔でいちいち付き合っていた。年がら年中病気して腹ばかり空かせている村人たちが、ママの体に良くない病気を招き寄せてしまったに違いない。
 リーベリは車を牽いているカエルに一層強く鞭をくれました。
「出来るだけ苦しみが少ないように、すぐ殺してあげるから」
 リーベリは、牽き手のカエルたちに話しかけました。カエルたちは、よく聞こえず、? という顔つきをしていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

つづく

 

 

果てしなく暗い闇と黄金にかがやく満月の物語

ー53ー

 

 

 

 

 

にゃんく

 

 

 

 

 

 

 

 晩餐会はいつ終わるともなく終わっていました。
 隣の部屋から、ばか力の鼾が聞こえています。リュシエルが見ると、ばか力は臍を出して寝ていました。その隣では、背を向けて、静かにスナイパーが目を瞑っています。
「さ、あんたたちも、こっちの部屋で眠りな」ミコさんに案内され、夕食の皿を片付けた部屋で、ミミ達三人は横になりました。三人は、お昼寝をしたせいで、なかなか寝付けませんでした。

 

 

                            ☆

 

 

 ようやくうとうとしはじめたように思った朝方に、何やら騒々しい物音がしますので、リュシエルはベッドから体を起こしました。
 リュシエルはそっと部屋から出て、音のする方へ行ってみますと、山荘の戸の前で、オカシラとばか力、スナイパーの三人が、昨日総督府の検問所から奪って来た食料や衣類を積んだ荷車を何処かに運び出そうとしているところでした。指輪やネックレスなどは山荘に残していくらしく、ばか力とスナイパーふたりで手分けして荷車から降ろしていました。総督府の役人の生首は、何処で処分したのか、消えていました。
「やあ」リュシエルに気付いて、オカシラが快活に挨拶をしてきました。
「おはよう御座います」
「まだ寝ててもいいんだよ」
 すでに東の空が明るくなっていました。カラスがやかましく鳴いています。
 リュシエルは疑問に思ったので、訊いてみることにしました。「何処へ行くのです?」
「村さ」
「この食べ物を、どうするのです?」
「村に落として行くのさ。世間には、飢えた人がたくさんいるからね」
「……」
「此処には、いつまで居たっていいんだぜ。オレ達の仲間になるって云うんならさ」そう云うと、オカシラはばか力に荷車を引かせて山を下りて行きました。

 

 

 その日、ミミ達三人は山荘でのんびり過ごしました。
 山荘の窓辺には、花をつけたジャスミンの植木鉢が置いてあり、ミミはその香りを嗅いで楽しみました。
 山荘の庭では、コユビちゃんが山羊の乳を搾っていました。
 すこし山を下ったところに、大きなニレの木があり、おやつの時間になると、ミミたちはミコさんに連れられてその木の下でお菓子を食べました。
 そして気が向くとミミはリュシエルに魔法の教科書を読んでもらい、魔法を覚えました。
 ミミは「雨を降らせる」魔法を覚えました。難易度は高めの魔法でしたが、ミミは一度聞いただけでその魔法を覚えることが出来ました。
 ミコさんは、「私にも、魔法の教科書を見せて」とミミに懇願しました。ミミは、「好きなだけ見てください」と云って、それをミコさんに渡しました。
 ミコさんはしばらく魔法の教科書をつまみ食いするように読んでいましたが、思い切ったように、こう云いました。
「ねえ、人に自分のことを好きにさせる魔法ってないのね」
 リュシエルはちょっと考えた後、「そうですね、ないですね」と答えました。「人の気持ちをどうにかするって、魔法でも出来ないことなんですかね」
 ミコさんはがっかりしたように、魔法の教科書をミミに返して、空を仰ぎ見ていました。
 ミコさんは魔法を使ってオカシラのことを振り向かせたいのかな、とリュシエルは思いましたけれど、黙っていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

つづく

 

 

 

 

 

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