三度目が最後になった。この前と同じように彼女は現れた。「実体化した」と言ったほうがいいかもしれない。それまで目に見えなかったものが、音もなく、不意に現象する。そのときから世界は二人称になる。「あなた」を主語にして語るべきものになる。
ベッドの上でまどろんで、眠り込んだという感覚にはっとして目を覚ましたときには、すでに身動きができなくなっていた。天井の暗がりに目をやったまま待った。心臓の鼓動が速くなっている。部屋のなかに誰かが入ってくる気配がした。あいかわらず首を動かすことはできない。窓を開けに行ったようだ。冷たい夜の空気が入ってくる。空気にはかすかに色がついていた。暗い青色だ。ゆっくり息を吸い込むと、自分のなかが暗い青に染まっていく気がした。
不意に身体に自由が戻ってきた。少し離れたところに彼女はいた。だがピントが合っていない。自分は彼女の近くにいるのに、自分が彼女の近くにいるように思えない。彼女への距離と、彼女からの距離が、まったく違う気がした。
「どう言えばいいだろう」
何を話してもモノローグにしかならないことはわかっていた。彼女はけっして口を利かない。顔の表情や仕草から、彼女の声を、言葉を想像してみるだけだった。
「ここでこうしていないあいだは、きみはどこでどうしているのだろう」
想像の及ばないことだった。
「この近くに住んでいるのか」
歳は幾つぐらいだろう。おおよその見当をつけようとしたところで、死者のなかで年齢はどうなっているのだろうと考え込んだ。死んだときの歳のままなのだろうか、死者は死者として年老いていくものなのだろうか。そう思って彼女の顔を見ると、険しい表情のなかから幼い少女の面立ちが現れている気がした。彼女の顔を照らし出す、やや険しいけれど美しく幼い表情。目の輝きは少しも損なわれていない。いかにも快活そうな顔立ちには、しかし極度の衰弱が影を落としている。幼くて快活な顔立ちは、外側からは窺い知れない内面的な表情に覆われていた。
「悪いけど、ちょっと目を閉じさせてもらうよ」
長く見つづけていることはできなかった。静かに佇んでいるだけなのに、彼女は無力でも非現実的でもなかった。彼女を見ていることは、疲れよりも深い疲労をもたらした。あまりにも多くの感情を掻き立てられ、それらを自分のなかでうまく処理することができなかった。自分の内と外が絶えずざわめいている気がした。何か非人称的なものが砂嵐のように吹き付けてきて、自分のなかを吹き抜けていく。非人称的ではあったけれど、それは彼女のなかから発せられたものだった。
「まだ小学校に上がる前のことだ。夜、眠る前にかならずやっていたことがある。聞こえない音を聞こうとしたんだ。耳を澄ましていると、遠い森のなかで獣たちの動きまわる音が聞こえてくる。地球という惑星が広大な宇宙空間をものすごいスピードで飛んでいく音が聞こえてくる。知らない街のざわめき、暗い岩礁を洗う波の音、氷の海で巨大な鯨が潮を吹き上げる音……いまでも聞こえるような気がする」
目を閉じていると部屋のなかの静寂が際立った。彼女の息遣いまでが聞こえてきそうだった。深い森の静けさを想った。幽霊も呼吸をするのだろうか。
「一人でいるのを嫌だと感じたことはないのか」
返事を待つように間を置いた。
「それとも一人でいることを望んで生きてきたのか。きっと愛情や親密さにたいして冷淡に振舞ってきたのだろう。そのほうがきみらしい気がする」
だが彼女のことを、いったいどれほど知っているというのか。不思議なことに、彼女のほうは自分のことをすべてわかってくれている気がした。言葉を発しないから、なおさらそう思うのかもしれない。
「きっときみは、自分は誰かのために生きる能力を奪われていると思っているんだろう。人を好きになるというのはどういうことなのか。さっぱりわからないし、わかろうとも思わない。そんなことにかかわり合わないことが、無難に生きていく方法だと思ってきた。ときに自分を不能だと感じる。男性にたいしても女性にたいしても」
彼女のことを話しているつもりが、いつのまにか自分の話になっている。
「やっぱり平行線は交わるらしい」
目を開けたとき、彼女は何かを探しているみたいだった。
「どうかしたのか」
やがて彼女は簡易テーブルの上に置いてあるエヴィアンのペットボトルに目を止めた。
「水が飲みたいのか」
ペットボトルの水を飲む彼女を見て自分の渇きに気づいた。まるで渇きは彼女を経由して自分にやって来たみたいだった。その渇きには甘い潤いがあった。自分が以前の自分とは違ったものに感じられる。自分のなかに新しい自分が生まれている。その自分に自分が馴染んでいないという感覚とともに、自分が何か大きなものの一部になった気がした。
「どうしたんだろう。何かがやって来たような気がする。やって来たのはきみだけれど、本当はもっと大きなものを受け取ったのかもしれない。いまは自分を不能とは感じない。きみがやって来たから。贈り物のように。誰がきみを贈ってくれたのだろう? 愛情や親密さというものは、こんなふうにしてやって来るのだろうか。ずっと待っていた気がする。何を待っているのかわからないままに、きみを待ちつづけていた気がする」
彼女はじっと耳を傾けて話を聞いている。離れていても、彼女の頬や肩の温もりを感じた。その温もりが遠ざかっていく。いながらにして遠ざかり、彼女の気配が希薄になっていく。
「行くのか」
何をたずねても、答えずに行ってしまうだろう。非情に消えていく。消えるというよりも後退する。彼女は自分の内部へと退いていく。一瞬重なり合った二本の線が、再び交わらない平行線に戻っていく。この世界で「生」とか「死」とか呼ばれているものに。二人のあいだが分かたれていく。この隔たりは絶対的なものだろうか。生も死も固く結ばれ、一つの同じ生と死にまとめ上げられたものになることはできないのだろうか。
「待て、まだ行かないでくれ」
ここで彼女を行かせてしまえば、二度と取り戻せないものを失う気がした。
「もうしばらく、ここにいてくれないか」
自分の一部分が闇のなかへ、底知れぬ空虚と孤独のなかへ持ち去られるみたいだった。引き裂かれるような痛みを感じた。まさに「痛み」だった。一つのものが二つに捌かれていく痛み。彼女とともに生きたいと思った。それがかなわないのなら、一緒に死にたいと思った。幽霊であるくらいだから、もう死んでいるのだろう。その傍らに身を横たえたい。彼女の隣で死んでいる自分を想像すると気持ちが安らいだ。
「やっぱり行ってしまうのか」
夜明けが近づいていた。窓の外が白みはじめている。明るさのなかで輝きを失っていく星のように、彼女の輪郭が薄くなっていく。透明な時間に戻っていこうとしている。引き止めてはならない。彼女を行かせなければならない。せめて声を聞きたかった。彼女のなかにある言葉を外に、この世界に解き放ちたかった。それ以上に彼女に触れたかった。自分に触れるように彼女に触れる。自分よりも自分の近くにいる彼女に触れる。
身動きのできない状態はあいかわらずだった。目だけが彼女の動きを、顔立ちや表情を何一つ見落とさずに追っていた。すべての神経を集中した。一緒に行くことはできないのだろうか。彼女のなかに入ってしまうことはできないだろうか。彼女の奥へと姿を消して、彼女のなかにある風景そのものになってしまう。彼女の一部になった自分を生きてみたい。
だが、もう限界だった。これ以上は目を開けておくことができない。朝の光は彼女を見つづけるには眩し過ぎた。目を閉じると、かすかに彼女の心臓の音が聞こえた。そう思った自分の誤解に気づいて落胆し、つづいて当惑した。それは自分の心臓の音だった。聞こえるというよりも、全身で感じられる。
突然、信じられないような至福感が内側に満ちてきた。聞いているのは彼女だった。彼女が聞いている。その感触が伝わってくる。彼女が触れる。彼女に触れる。自分と似た透明のものがぴったり重なり合っている。二つの生が触れ合い、一つの生が生まれている。触れられているのは自分であり、触れているのは声だった。けっして聞き取られることのない彼女の「ことば」だった。
「わたしはあなたを知っている。あなたをあなたとして知っている。わたしだけが知っている。分けることのできないあなたを、あなたのすべてを知っている。この世に存在するものはなんであれ、みんな忘れてあなたを聴いている。ただあなただけを聴いている。聴覚ではなく、触覚でもなく、知覚でもなく、あなたに触れている。あなたがわたしのなかに入ってくる。静かに打ち寄せる波のように。音もなく降ってくる。あなたによってわたしは満たされる。わたしはあなたと一つになる。一つのわたしたちになる」
目を開けたとき、朝の光のなかにわずかな輪郭をとどめて彼女は消えていこうとしていた。消えていく彼女の向こうにペットボトルが見えた。思わず手を伸ばして腕をつかもうとした。すると透明なものをすり抜けてひんやりとしたスチール製のテーブルに手が触れた。明るい光のなかに空のペットボトルを残して、彼女は完全に見えなくなった。
了