やぁセバスチャンか。おはよう。ずいぶんとグッスリと眠った気がするよ。ここは……
----- 旦那さまは今、バンコクにおいでですよ。お好きな街でございましょ? うれしくございましょ?
そうかバンコクなのか。で、いったい今はいつなんだ?
----- おや、どうなさいました? 今日は3月21日でございます。 そちらはもう暑いのでございましょうね。
もう暑いだって? セバスチャン…… バンコクはいつだって暑いんだ。
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慣れた街の慣れた宿のいつもと同じ部屋で目覚めたものだから、セバスチャンからのモーニングコールを受けた時、いったいいつのバンコクなのか一瞬理解できなかった。それほどぐっすりと眠ってたってことだな。
やっぱりアジアだな。アジアの夜は深く眠れる。
去年も旅をバンコクから始めて、カナダ、キューバ、メキシコ、ドイツ、チェコ、スロバキア、オーストリア、スロベニア、クロアチア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、トルコ、ギリシャ、そしてミャンマーとラオスを回って、何度目かのバンコクで旅を終えたのだっけ。
そして今年も旅をバンコクから始めようと考えたんだ。
だからバンコクでの目覚めのことを思い起こすと、いつの時の事だかよく分からなくなる。
もしさ…… もしもだよ。目覚めた時にいままでの旅がすべて夢だったとしたらどうなるんだろう。
もし今が、初めて訪れたバンコクの夜の、次の朝だったとしたら……
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行って戻って来たという事は、行かなかったのと同じなのかな? セバスチャン。
----- それは違うと思いますよ、旦那さま。行ったという経験が残ってございます。
行って戻って、その後に行く前と同じ日常が待っていて、また同じ日々を送ることになってもかな?
----- そうでございましょうね。経験がございます。
セバスチャンは経験って言うけれど、その経験が役に立たなかったらどうなるんだよ。
----- 旦那さま…… 役立つものだけが経験だみたいな旦那さまのような考え方をすれば、人間の経験なんて意味がなくなってしまいましょう。
経験なんて、ほとんどはその後の人生の役に立たないものばかりでございます。役に立つような経験をしたかどうかではなくて、その経験を味わえたかどうかで判断なさってはどうでございます?
味わえたかどうかか…… セバスチャン。ボクはいままでの旅を味わったのかな。これからの旅を味わえるのかな?
ただ計画して、その計画がスムーズに進むように行動して、そしてまた何も変わらずにいつもの街に戻ることになるんじゃないだろうか。
----- それが、旦那さまの味わい方なんでございます。
大笑いをしながら過ごすのだけが楽しい経験ではありますまい。小さなハードルを越えることを積み重ねる。そんな楽しみ方だってありますでしょう。旦那さまは、そうしたかったのではございましょう?
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去年と今年のボクの旅は、ON のような OFF のような、奇妙な時間だ。
楽しむためだったら、もっと色んな方法を考えついただろうと思う。世の中には楽しむチャンネルはいくつもあるからね。でもボクはある意味ストイックで、だから、せっかくの機会を無駄に過ごす旅をしているようにも思える。
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セバスチャン。味わうって言ってもさ…… 何を見ても何を聞いてもそれが目新しくてヴィヴィッドな、そんな青年の旅とは違うんだよ。出来事のすべては、自分がいままでの経験から想像できる範囲内のことなんだ。いや、違うな…… その範囲内におさまるように、そう行動しているってことなのかな。
----- 旦那さま。人間は旅の経験に大きな変化の芽を期待しながら、同時に平穏に自分の街に戻って来ることを願っている。そういうものなのでございます。
旦那さまは既に、平穏ないつもの生活に戻る術を身につけてしまっているのでございますよ。だから旅は無難に終わるのです。そういうものなのでございます。
セバスチャンは、東京のお屋敷の状態をいつもの通り、普段と変わらず、旦那さまが帰宅された次の朝まるで旅に出なかったのではないかと思えるように、整えておこうと存じます。
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この旅の後普段の生活に戻ったとして、それは元のボクなのか、違うボクなのか…… まぁ、それは帰ってから考えることにしよう。
まずは明日の早朝、次の街に向かって慣れた街バンコクを出発しなくっちゃ。
35度の気温の中、何度もこの街を訪れていながら行く事のなかった寺をいくつか回ってホテルに戻った後、しばらく眠り込んでしまっていた。
気がつくと大通りの車の音と、時折通過する高架電車の音が聞こえている。
南の国の夜が始まろうとしている時間だな。
宿の隣の、いつものシーフードレストランで、まずはビールでも飲もうかな。
