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源氏供養


少し前に、パンフ用として書いた能『源氏供養』粗筋。
比較的に平易な曲なのだが、意訳的な解釈で書けずに難しかった。


安居院法印は石山寺の観世音参詣に向かう途中、寺近くで一人の里女に呼び止められる。
女は法印に、私は石山寺に籠り『源氏物語』を書いたが、主人公『光源氏』の供養をしなかった科により成仏できずにいる。法印に回向をしてくれるように頼み、自分が紫式部であることを問われるままに匂わせながら姿を消した。

中入り

石山寺詣を終えた深夜。法印が紫式部の菩提を弔っているとが紫式部の霊が身を恥じらいながら現れた。

法印は光源氏を供養し、布施の代わりに式部の舞を所望する。

式部は、源氏の供養しなかったために妄執の迷いにある事を告げ、自らが舞う曲舞の中に源氏物語の巻名を織り込み成仏を導きを願い、自ら源氏へ供養としたのであった。

法印が思うに、紫式部とは石山の観世音菩薩の化身であり、世の無常を教えるために菩薩が方便として人々に源氏物語を書いたのであり、思えば夢の間の言葉であったのだ。


…主語の位置関係、時系列の整理が今一つ書けておらず、やや残念。

能『江口』…宇宙の消滅


学生時代に読んだ記事では、宇宙に存在する全ての物質が寿命を閉じる時、光の粒とニュートリノに分かれて消滅するのだ…と。
もし、光とニュートリノに分化する時に人類の生命が維持されているとは、およそ思えない。しかし、その場に居合わせたとするならば、身体に痛みや苦痛はあるのだろうか。電子レベルでの解体に感覚があるとは思われず。だが、そういう末世や摂理の終焉を感じていた時代が、日本の中世だとも言われる。その思想における中心人物の一人に一休禅師がいる。
この一休が作成、作詞したとも伝わる能がある。それが能『江口』という曲だ。


能『江口』の最終段落、その章句に『光とともに白妙の、白雲にうちのりて…』とある。
万物が消え去る瞬間、広大な宇宙が広がりを見せ輝いて消える…そういうイメージを、この能に描かれた詞や構成は抱かせる。


むろん、時に現実を厳しく眺め、ある時は穏やかに接した一休に絶望や破滅願望はない。人は産まれた以上は生きるべきだ。それだけで良いじゃないか…と。

人生に個々の貴賤はあるだろうが、もし貴賤があるからと言っても、人は無意味ではなく価値に変わりがない事を、我々はどう解釈するのか…そこが解決しない課題なのだろう。

内部事情…焦らぬ事



先日、オリジナル形態へ再復帰したミノルタSR7s。裏蓋とフィルム圧板には新旧差があって、旧型は横55ミリ、タテ40ミリ。新型は左右横に小張り出し幅が付いて、耳があるような形に変更されている。当然、裏蓋へ装着する板バネの形状や止め鋲も違う。

極めて小さな改良だが、おそらくフィルムの安定を向上させたのであろう。

参考までに、未だ修理不可能でジャンクのまま放り出してあるKonica・FTAのフィルム圧着板は長大である。タテはミノルタより僅かに小さい38ミリだが、横は70ミリとフイルムガードと同一の長さで、さすがにフィルムメーカーが出した一眼レフだ。

このFTA、実家の押し入れジャンク箱から運んできて修理を目論んだが、このままでは固くて重いだけの粗大ゴミである。修理不可能の原因が、この巻き戻し軸を固定する真鍮芋ネジである。固着して、どうにもならない。ネジを壊すしか手は思い付かず…一枚目の写真は潰れた芋ネジ箇所だ。。


さてさて…中古カメラ屋で初期ミノルタのジャンクを見つけては『買って帰り、修理しようか…』という妄想が酷くなった。

二枚目、以前にワンコインで入手。セルフタイマーを外して自称『ミノルタSR1press 』…おそらく前板を外してタイマーギアを調整すれば最良だろうが、今は手を付けないでおこう。

撮影や作動に不備はないのに、ここで失敗しては『帰らぬはもとの水…』だからね。