雑草
雪に濡れて光る『ツワブキ』
ギックリ腰の状態で容易に動けない状態で、昨日は能を一つ撮影。
その結果は…自己嫌悪の坩堝に落ちている。何か撮影自体が下手になったのではないか…とさえ思う。
ところで…ガーデニングを趣味とする人でなくても、庭の管理で頭を悩ますのが『雑草』の存在だ。だいたい春を過ぎると、草を抜いたとしても十日サイクルで生えてくる。
『雑草という草はない』…まさに、正しい意見である。雑草も植物として生命活動をしている。
しかし、美しく整理された庭を求める場合、雑草は邪魔な存在となる。
たとえば茶道には茶庭作りという分野がある。それは、いかにも自然の山野を切り取ったように作り込む。
下草や立木など、敷石や砂利も吟味して配置する。実は、この『自然に見せる』というのが曲者なのだ。
人間が考案した『自然』であって、本来の自然ではない。
ゆえに、雑草など利益にならない植物は徹底して排除される。大らかな寛容さを以てしては成立しないのが、つまりは『庭園作りの精神』だろう。
そうとは思いながら、私は雑草を抜く際には一抹の躊躇いがある。
ゆえに、余所様の見事な庭であっても雑草が片隅に残してあったりすると、ちょっと安心したりする。
私は雑草の一つも残さない庭を見ると、その作り手の心にある偏狭な寒々しさを感じてしまうからだろう。
歌を聞くときの耳
昨日、早朝近くの地震で目覚めた。激痛の走るギックリ腰を抱えては、何が来たとして如何ともならない。
動画サイトでも眺めて歌でも聞こう…と、『さよならの向こう側に・山口百恵』
幾度聞いても良い歌だと思う。見た動画は『引退公演』のものだった。あれは、いったい何年前か…。
時折、声を詰まらせながら歌う山口百恵の姿。現役時代、歌唱力があるとは、必ずしも評価されなかった歌手と言われていた。
しかし、歌手が巧いから、人が歌を聞くのではない。
その人、その歌手の歌として聞きたい場合が、歌を求める理由なのだ。
唯一人の『山口百恵』が歌うから『さよならの向こう側に』…なのである。
確かにリズム感覚、節回しや声質、声量は歌手の基本であろう。そして、その全てが優れていたとしても、優れた歌手として成立するとは言い切れない。
たとえば、『口パク』と言われて久しいAKB48ですら、おそらく最後に到達すべき山頂は『山口百恵』的地平に違いないのだ。
彼女等のド下手な歌唱力であっても、人は別の部分で真実に心から感動するものなのだ。
『歌は世につれ、世は歌につれ…』とはよく言った言葉だと思う。




