一献
近所の飲み屋にいる看板犬toto
ぎっくり腰に悩まされたが、ようやく回復してきた。
能楽の仕舞に足拍子というものがある。床を調子を合わせて『和的なステップ』を踏むものだ。
名称として、刻み拍子とか七拍数拍子など、様々な打ち方がある。
(アパートの部屋では下に住人がいない時にやらないと、大変な迷惑行為だ…)
むろん、腰が痛ければ不可能な所作の一つ。
その足拍子を、思い切り踏み込んでも痛みは起きなくなった。
ふむ、この調子…この調子。
さて、稽古会の打ち上げなど必要に迫られた時以外(幹事など役員であるため)、春先より久しく禁酒してきた。
外で飲むことも控えたまま過ごしている。
しかし、雨が降ると無性に酒が欲しくなるようで、今夜は嵐の音を肴に部屋で一献あげた。
鶏肉を薄切りにして塩を振り、フライパンに油を引かず焼くという即席焼き鳥。一緒にネギを炒めてネギマ風にする。
これがシンプルで、意外と美味い。
お試しあれ。
今夜は早めに就寝。私は、低気圧が来ると眠くて仕方がない。
開花
植物を育ててみて一つ知った事がある。植物には都合というものがない。
ここでの都合とは、すなわち我々による『人間社会の都合』が通用しない事だ。
単純な様に見えるが、自然の摂理に従って植物は忠実に、かつ厳格に生きているように感じる。
そして適切な管理を施せば、確実に答えてくれる対象でもあるようだ。
昨秋に植えたムスカリは、十日前には一つだけ花の穂先を伸ばしていたが、今週帰省して庭を眺めると一面に花を咲かせようとしている。
花は原発事故も不況も知らない。花は咲く行為において、人間の都合など斟酌しない。
時に、親しい人の死や別れもある。
それでも春が来れば花は咲く。
咲いた花を眺めている私に、花は私も生きている事を無言の中に教えてくれる。
ゆえに樹齢数百年の大樹などは、生きる事において絶対に『厳格な意志』であるに違いないと…その乾いた幹肌に触れながら耳を傾ける。
私が雑草を摘む事に強い躊躇いを感じるのは、雑草と老樹に植物の生命として大差はないと思うからなのだ。
しかし、雑草は人間の都合で抜かれる。私も雑草を抜く。
抜いた雑草を乾かし土にすき込む事で、せめてもの慰めにするのだ。
春の訪れ
ようやく咲いた椿
今日はエイプリルフールだった。
確かに、紛れもなく…狼少年はともかくも、誰も大ウソを語る気分ではない。
いや、どんなウソも下手すると現実になりそうだ。
ウソを楽しむというのは、かなり高踏な技法による語り芸だと私は思う。
それは『センス』の問題だ…というよりも、絶対に真実しかありえない状況が転換されて『実は大ウソ』だったが、安堵と落胆に満ち溢れていて面白いはずた。
…たぶん。
大きなウソは見抜けない…と言ったのは誰だったかな。
逆にウソのないものもある。春の訪れと共に開花する花、例えば桜などは人間の都合など無関係に咲き誇る。
桜を眺めていると、現実の日々の喜びも悲しみも、あるいは迷いという心の闇でさえ、全部ひっくるめて真実だと教えてくれるような気がする。




