雑草
雪に濡れて光る『ツワブキ』
ギックリ腰の状態で容易に動けない状態で、昨日は能を一つ撮影。
その結果は…自己嫌悪の坩堝に落ちている。何か撮影自体が下手になったのではないか…とさえ思う。
ところで…ガーデニングを趣味とする人でなくても、庭の管理で頭を悩ますのが『雑草』の存在だ。だいたい春を過ぎると、草を抜いたとしても十日サイクルで生えてくる。
『雑草という草はない』…まさに、正しい意見である。雑草も植物として生命活動をしている。
しかし、美しく整理された庭を求める場合、雑草は邪魔な存在となる。
たとえば茶道には茶庭作りという分野がある。それは、いかにも自然の山野を切り取ったように作り込む。
下草や立木など、敷石や砂利も吟味して配置する。実は、この『自然に見せる』というのが曲者なのだ。
人間が考案した『自然』であって、本来の自然ではない。
ゆえに、雑草など利益にならない植物は徹底して排除される。大らかな寛容さを以てしては成立しないのが、つまりは『庭園作りの精神』だろう。
そうとは思いながら、私は雑草を抜く際には一抹の躊躇いがある。
ゆえに、余所様の見事な庭であっても雑草が片隅に残してあったりすると、ちょっと安心したりする。
私は雑草の一つも残さない庭を見ると、その作り手の心にある偏狭な寒々しさを感じてしまうからだろう。
