HOODのブログ -361ページ目

帰り道

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昨夜から少し苛つき気味であったが、ともかくも引きずりながら今日が終わる。

自らの未熟さは仕方ないが、確かに…改めるべきなのだろう。

しかしだ。
お前は未熟だ…と指摘する相手は、それなりに覚悟して物を言っている事を、多少なりに希望したりするが、たいていは自分が気持ち良いから何かを言っていたりするものだ。



先日、ブログに書いた産廃場に咲く椿。
一昨日に観察すると、産廃場は震災で閉鎖になっているようだ。
あの椿は、廃墟と化した空き地で花と蕾を結び続けるのだろうか。

そういう安らかな場所とは到底思えない。
それは人間の思いこみだ。こうして咲いているだけマシだろう…。


余計なお世話なのだな。

我が身に問う

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心が少し疲労気味。朝から降り続いている雨だれの音が、ベランダにカウントを取るように響く。


私の撮影する対象は能楽だ。そこで、能について人から尋ねられる質問が一つある。

『能を理解する簡単な方法ってありますか…?』


国文学と芸能史、しかも古典文学による古典のための古典による古典芸術…それが能楽だ。
では、あえて一言。上の質問に対して、『能を簡単に理解する方法、あるいは好きになる方法』など…実は…ない。

研究書・専門書の類はもとより、能楽ガイドブックや初心者向けの本など、幾多も出版されている。だが…興味だけでは読んだところで、頭には入らず、何を説明しているのか理解できないだろう。


さらに実技(謡、舞)の上達方法など技術指導書を読み、明日より少しは上手くなれる…ものではない。
そんな指導書が存在するのならば、最初にプロ達が真っ先に読むだろう。


能とは理解によって知識へ蓄積される学問ではない。また師匠について謡や舞の技術を高めたから能の領域に到達するのか…でもないようだ。

では…能とは何か。
そこで、私なりの一言。『能とは知識にあらず。能は男から見た女、女から眺めた男に似て…常に日常の風景にある』
男が女を知りたければ、まず男である自身を理解する事から始まる。

同様に、能を知りたければ、人である自分自身を理解することから能に近づく…(能を求める自分の意識ということ…能を求めていなければ、絶対に好きにはならないよね)

そこに時代を超越した芸能である能が、人の情熱を揺さぶる作用、能楽の汎神性があると私は思う。

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花の一生。

北関東某所。水戸より常磐線で約一時間ほど走った沿線、里山風景の中に小さな産廃場が見える。

近隣農家が土地を売ったのか、長閑な田園には場違いな有様だ。

先日、その産廃場外の片隅に、いつしか大きな鉢植えの椿が置かれている事に気が付いた。
遠目に見ても、かなりの椿は大木である。おそらく郊外レストランなどに飾られていた椿なのだろう。薄いピンク色の花を沢山付けていたので、違和感のある景色として私の目にも入ったのだ。


推察するに、椿は産廃として運ばれたが燃やすには忍びない、と考えた人物が産廃場の塀外へ置き捨てた…身を入れて育てるつもりはないが、そこで育ったなら…それで良いと。

人に焼却処分するのを躊躇わせた力が、かの椿にあるのだろうか。

または、小さな風雅、気紛れか。

椿の運命など知る由もないが、産廃場が閉鎖になっても椿だけ残って数百年という事もある。
または、明日には処分されているかも知れない。


伝説になってゆく巨木が生まれた由縁とは、意外と人々の思いこみなのかな…と思う。
写メは近所の神社にある藪椿。