東京の空の下
今日は定期検診日。多少(かなり)気分が落ち込み気味なのでブログはミーハーな話題に逃げる。
都内でしか見られず、地方ではあまり見かけないモノ。
その一つが文化人や芸能人との遭遇だ。東京の空の下、有名人に出会う機会は少なからず…である。
文化人編
井伏鱒二…何しろ小学生時代から憧れた作家である。
学生生活で都内に出たら、『絶対に荻窪に住むんだ!』と決めていて、生前の井伏邸の前に何回か行ってみたり、作家愛用の寿司屋に入ってみたり…そんな荻窪生活をしていた。
そして、今日の朝みたいに冬の雨が降るある日。駅に向かう私は通りに出る小道を急ぐ。道の先、一際立派な邸宅の前に一台の緑色したタクシーが止まっていて、一人の小柄な老人が立っている。次第に、その老人が井伏鱒二である事に気が付く私。
井伏氏も、こちらを見ている。私は…物凄い緊張と混乱…何か言うべきか。
しかし、学生であった私は軽く挨拶をするのが精一杯。今でも、ただ慚愧の念に耐えない。
もうね…部屋に引き返して書棚から井伏鱒二作品の本を持ってきてサインを貰うとか、何か話をしてみるとか、何でも良いから話が聞きたい…いや、あの寿司屋や鰻屋の評価でも良い。
実際、井伏鱒二、夏目漱石などは写本するくらい自分自身の文体にしたい、と願った作家なんだよねぇ。
雨の街角を歩く度に、ふと…あのシーンが蘇る。
簡単撮影
朝から寝込んだままだ。全く…。
臥せっていては、生きる楽しみがないな。
先程録画しておいた『日曜美術館・植田正治うえだしょうじ』を見る。
写真は、ある領域を越えた段階から危険な表現を帯びてくる。撮影とは、そのボーダーラインを認識する作業だと私は思っている。
危険な風景写真、危険なポートレート、…危険な能楽写真、いや、それはないか…存在するならば一枚くらい撮影してみたい。
しかし、街角スナップ撮影行為が危険な撮影行為になりつつあるのは疑う余地もない。
それは幾度かブログで書いたから、もう繰り返さないが、土門拳や荒木経帷が描いたような偶発的なスナップは不可能だろう。
彼らが撮影した『筑豊の子』『さっちん』にしても絶対的非演出のスナップではない。撮影者の眼差しという演出が、そこにある。その演出こそが作家生命でもあり、世に問う『危険な作品』ともなりうる。
撮影者の眼差しを喪失した写真は記録でもなければ、証人でもない。
『眼差し』とは、被写体との関係性と言い換えても良いだろう。そこに本質的なリアルな問題提起や作品主題がある。
もし、主題を失えば写真は写真でなくなる。
極端な例で考えるならば、誰でも簡単に使えるスマホや携帯で撮影した写真画像でも同じことだ。
ゆえに、簡単になればなるほど撮影行為とは、表現行為を『危険な事』と考える場合、タブーと化してしまうわけだ。
やや話が逸れた。
冬の剪定は芽が吹く前にする事
実家の庭。オモトに結んだ赤い実。
なんと…実を結ぶにはナメクジやカタツムリの媒介があって、実を結ぶのだとか。それは、真実か…本当なのか。
思わず、『嘘のようだが、本当の話なのだ』と、天才バカボンの台詞を思い出した。
さて、困った。喘息が治まらない…引きこもり気味になり仕事への判断が鈍る。
こんな深夜、私は何を待つのか。寝た方が良策だ。
国会では『特定秘密保護法』が成立したと速報が入った。
私の感想として、この法律に関しては、私個人を無視した同調圧力的な対応、あるいは『うんざりした表情の羅列』に、いささか辟易している。
私は第一義として、この法案に関して反対の立場である。
そこは最初に断っておく。だが、一方で反対意見を述べる側、リベラルと称する勢力の示す政治意識にも本質的な疑問があるのだ。
その疑問を差し引いても、やはり当法案には反対である。
しかし、すでに決定した以上は従うのが義務であり、一人の国民としての責任なのだが…あくまで反対の立場を通すつもりだ。
所詮は無名、無力の一庶民である。出来る事は、やはり限られている。
おそらく反対の立場を変えない以上、次第に私の周囲からは知人や友人は去ってゆくかも知れぬ。
それは、私が人の憎悪に接する機会が減る作業であると同時に、私が人を大切に思う喜びも削られてゆく過程と思っている。
そうであっても、やはり私は当法案や武器輸出、集団防衛権も反対である。
そこは曲げられない。


