簡単撮影
朝から寝込んだままだ。全く…。
臥せっていては、生きる楽しみがないな。
先程録画しておいた『日曜美術館・植田正治うえだしょうじ』を見る。
写真は、ある領域を越えた段階から危険な表現を帯びてくる。撮影とは、そのボーダーラインを認識する作業だと私は思っている。
危険な風景写真、危険なポートレート、…危険な能楽写真、いや、それはないか…存在するならば一枚くらい撮影してみたい。
しかし、街角スナップ撮影行為が危険な撮影行為になりつつあるのは疑う余地もない。
それは幾度かブログで書いたから、もう繰り返さないが、土門拳や荒木経帷が描いたような偶発的なスナップは不可能だろう。
彼らが撮影した『筑豊の子』『さっちん』にしても絶対的非演出のスナップではない。撮影者の眼差しという演出が、そこにある。その演出こそが作家生命でもあり、世に問う『危険な作品』ともなりうる。
撮影者の眼差しを喪失した写真は記録でもなければ、証人でもない。
『眼差し』とは、被写体との関係性と言い換えても良いだろう。そこに本質的なリアルな問題提起や作品主題がある。
もし、主題を失えば写真は写真でなくなる。
極端な例で考えるならば、誰でも簡単に使えるスマホや携帯で撮影した写真画像でも同じことだ。
ゆえに、簡単になればなるほど撮影行為とは、表現行為を『危険な事』と考える場合、タブーと化してしまうわけだ。
やや話が逸れた。
