HOODのブログ -20ページ目

天守閣から




簡単に記せば、鴫野から大阪城内までは単純に市民の軽散歩コースだ。
だが、三百年前の鴫野攻防戦や七十年前の大阪空襲、その死者を思いやると徳川三百年の平和とは庶民・支配層に関わらず貴重な時間であった事が知れる。

何より近現代史において、江戸が終わり政治・経済の中心を東京に奪われた喪失感が、この地にはある。そのコンプレックスが大阪の原動力にも感じるが、温もりの中にある裏腹な一抹の寂しさも、また大阪なのだ。


天守が近づくにつれ、今や城内は中国人や韓国、中近東、欧米人だけが目につく。城は大阪のシンボルだが(たぶん…)、厳かな武士文化の魂など城内や公園には微塵も見当たらない。テーマパークそのものだ…。

関西弁よりも遥かに難解な異国の言語を並べ立てる人々を掻き分けて、天守閣に辿り着く。そして、先ほど歩いてきた鴫野方面を眺望した。



もし、今の大阪の眺望を一瞥した秀吉ならば感慨を漏らすに違いない。


『ぁあ、左様か…』

目指すは本丸






鴫野・八剱神社を後にして一路、旧大和川沿いに歩く。慶長年代の鴫野付近は湿地と水田であり、多数の兵員を展開するには不向きであったという。

川堤を巡って、大阪方木村重成・後藤又兵衛、徳川方佐竹・上杉方による鉄砲隊による激しい銃撃戦闘が繰り広げられた。川を挟んでの右側今福に佐竹、左側の鴫野を上杉側が進む。僅かに堤跡があり、市街地より若干高い。

点と線を結び、互いに縦進的に拠点を奪い合う戦いは、佐竹方が撤退、ついには上杉方のみで支える窮地に陥った。

鴫野の市街地を大阪城を目指して歩く私の目の前に、一つの碑が見えた。何か歴史的な石碑なのか。


たしかに、それは『戦いに命を落とした人々』への鎮魂碑であった。ただ…三百年前の戦闘ではなく、身近な近現代史であり『大阪空襲』で戦火に焼かれた人々を悼む石碑であった。

人は経験を忘れ去った時に同じ過ちを再体験する。その輪廻の繰り返しなのか。愚行は、また未来に続くのか…どうなんだろう。

そんな、やや暗い気持ちで歩いていると、突然に堀端に出た。

水面の向こうに遥か大阪城見える。戦線を維持し、ここまで到達した上杉方も、同じように感慨を抱いたのだろうか。


『お前、城は、まだ先ではないか…ここまで来たら城内まで行くのだろ?』

大阪城の郭は堀と川を巧みに配置し、幾重にも迂回を繰り返しながら城内へ導いている。

小高く築き上げた内陣は、まさに要塞の壁に等しい。城壁の各銃眼は堅固であり、まさに近代戦でも通用する。

大手門を過ぎると…ドーン! 天守閣があった。

おおきに…ほんまでっか?



大阪より海道下り、北関東に戻る道中。
大阪の地で三泊して、撮影仕事の終わった三日目は一人食い倒れを目指していた。

あと…関西弁の収集。

曰く、『関東、東京のヤツラが似非関西弁使うの気持ち悪いし、我慢ならん』って…まぁ、東京で仕方なく生活する『自称関西人』の慣用表現の一つ。

そういうネイティブ関西人の嫌みに屈せずに、密かに関西弁とは何かを考えていた私には、まさしく絶好の機会である。

京橋のガード下飲み屋、天満宮のうどん屋、鰻屋、鉄板焼屋、鴫野商店街のタコ焼き屋など耳に神経を集中して、関西人の発する『関西弁』を味わう。

たぶん、当地に半年も暮らせば発音に関しては『らしく』真似する事も可能。
特に天満宮や鴫野で耳にした関西弁は美しい…とさえ感じた。

一年くらい大阪で暮らせば、似非者にはなれる…はず。

だが、絶対に余所者である私には不可能な言葉があった。

それが『ほんまでっか?』だ。この『ほんまでっか…』が、普通の会話でも絶妙のタイミングで出てくる。

『えっ、マジ?』


『あぁ、そうですか?』

『ぁあ、左様ですか…』

私見として『左様ですか?』が語感として、一番に近いように思われたが、とにかく間髪入れずに出せる言葉ではない。

似非として表面を繕う限りは破綻する。
それは能楽の謡や仕舞も同じ。一生続ける気力と覚悟でやらないと、本物になるのは難しい。


…関西弁はな、オマイラ、東北の余所モンには一生真似できへんよ。

…ぇえ、そんなの無理やねん。最初から知っていたゎ。

…だから、それヤメぇ。

…でもな。ワシな、毎日、東京から大阪まで新幹線で通ってな。京橋のガード下で関西弁勉強したってねん。

…ぇえ、ほんまでっか?、、東京から大阪まで、毎日?

…ほんまや。気持ちだけは関西人やで。

…もぉ、大概にせぇ!

写メは、太閤さんと鴫野商店街にある洋食焼き・タコ焼き屋『かおり』…の逸品。これが『ほんまに』旨い。粉モンの魂が感じられた逸品。

また買いに行きたいなぁ。