HOODのブログ -18ページ目

神域というもの




市内にある『素鳶神社』境内。この日は、まだ新年を迎える準備に入っておらず、境内にそびえる樹齢四百年と呼ばれる大欅の落ち葉が、境内一面に散っている。


買ってきた缶コーヒーを開け、一人呑気に一年を振り返る。

周囲の農村風景、年末の作業も終えたのか静かなものだ。

さて…帰ろう。

社殿を振り返り、『また、新年に来るよ…』と心に呟いた。


その時だ。急に風が吹いた。社殿に積もっていた落ち葉が、旋風に巻き上げられて、人形に立ち上がり境内を走り去った。

確かに、風に任せて神様が走り去った。
不思議な瞬間だった。


目に見えるものを信じる必要はない。いや、信じない方がマシかも知れぬ。

だが、古来から見えない力や存在はあるのかも知れないな。

面前には左義長の準備されていたし、大晦日・正月の風景も近い。

冬木立


だいぶ更新が空いた。十日以上、思い付く記事も少なくて、ついに何も書かなかった。

田舎暮らし。冬の景色を眺めながら、北風が吹けば背を丸め西を向く。

快晴の空、抜け落ちた木立の影を冬の風が、枝を鳴らして通りすぎた。

文体も遺伝するのか


終わりなき道ではないが、この堕ブログは更新何回目なのだろう。

もとより書く事が好きなので、今日に至るわけだ。人が書く文章には必ず文体というもの、言葉の選択や使い方という点においても個性や性格が出る。加えて言うならば、親に声や表情が似るように親から貰った文体がある。少なくとも私は、文体には親からの伝承性が存在すると考えている。


逆に言えば、自らの表現とは、その伝承性を如何に撃ち壊し、オリジナルの文体を手にできるのか。それが課題でもある。

私は親に文章までは似たくない。どこか近親憎悪めいた疎ましくあった。そこで、一つの方法を思い付いた。

それが『写本』である。好きな作家の作品をノートに書き写す。たぶん二年くらい『写本』に夢中だったと記憶する。親の範疇から抜け出すこと、さらに言えば『作家・書き手』に憧れがあった。

そんな見果てぬ夢のために『写本』が役に立ったとは言えないのだが、型を何かに求めたのは確かだと思う。