神域というもの
市内にある『素鳶神社』境内。この日は、まだ新年を迎える準備に入っておらず、境内にそびえる樹齢四百年と呼ばれる大欅の落ち葉が、境内一面に散っている。
買ってきた缶コーヒーを開け、一人呑気に一年を振り返る。
周囲の農村風景、年末の作業も終えたのか静かなものだ。
さて…帰ろう。
社殿を振り返り、『また、新年に来るよ…』と心に呟いた。
その時だ。急に風が吹いた。社殿に積もっていた落ち葉が、旋風に巻き上げられて、人形に立ち上がり境内を走り去った。
確かに、風に任せて神様が走り去った。
不思議な瞬間だった。
目に見えるものを信じる必要はない。いや、信じない方がマシかも知れぬ。
だが、古来から見えない力や存在はあるのかも知れないな。
面前には左義長の準備されていたし、大晦日・正月の風景も近い。
文体も遺伝するのか
終わりなき道ではないが、この堕ブログは更新何回目なのだろう。
もとより書く事が好きなので、今日に至るわけだ。人が書く文章には必ず文体というもの、言葉の選択や使い方という点においても個性や性格が出る。加えて言うならば、親に声や表情が似るように親から貰った文体がある。少なくとも私は、文体には親からの伝承性が存在すると考えている。
逆に言えば、自らの表現とは、その伝承性を如何に撃ち壊し、オリジナルの文体を手にできるのか。それが課題でもある。
私は親に文章までは似たくない。どこか近親憎悪めいた疎ましくあった。そこで、一つの方法を思い付いた。
それが『写本』である。好きな作家の作品をノートに書き写す。たぶん二年くらい『写本』に夢中だったと記憶する。親の範疇から抜け出すこと、さらに言えば『作家・書き手』に憧れがあった。
そんな見果てぬ夢のために『写本』が役に立ったとは言えないのだが、型を何かに求めたのは確かだと思う。




