戦艦大和を無用の長物とか時代錯誤の役立たずとか言う向きもあるが、大和の建造が決まったのは昭和12年で航空機は急速な発達を遂げてはいたが、まだまだ主戦兵器は戦艦だった、(^_-)-☆😉👿。だから貧乏で数を頼めない日本が米国と張り合うには性能で凌駕するしかなかった、(^_^;)😅👿。
そこでこれまでの主力艦の主砲よりも2インチ口径の大きい18インチ砲を採用して米国の主力艦をアウトレンジして撃破することを計画して大和型戦艦の建造に踏み切った、(^_^;)😅👿。大和型戦艦は基準排水量6万4千トン、満載排水量7万3千トン、18インチ砲9門(3連装砲塔3基)を備えた防御力の高い世界最大の戦艦だった、(^_-)-☆😉👿。
その後航空機が急速に発達して主戦兵器の座を航空機に譲ったが、それでも強力な攻撃力と強固な防御力を備えた戦艦は有力な兵器だった、(^_-)-☆😉👿。太平洋戦争前半は空母機動部隊が主戦兵器として戦い戦艦はその護衛艦となったが、大和型戦艦は速力がやや低いということで空母機動部隊には加わらなかったが、戦闘に参加するには莫大な燃料が必要なことと最大の主力艦を傷つけたくないという考えもあったのだろう、(~_~;)😅👿。
もしも本当に大和型戦艦を使うなら米軍の航空戦力がさほど強大になっていなかった戦争前半期だったのだが、(・_・;)😅👿。特にガダルカナル島攻防を巡るソロモン方面の戦闘に投入すれば大きな戦力になっただろう、(^_-)-☆😉👿。
大和型戦艦が戦闘に投入されたのは昭和19年6月のマリアナ沖海戦からだが、この頃には米軍の空母機動部隊の戦力は強大になっていてその前では何者も存在し得ないような状況だった、(・_・;)😅👿。昭和19年10月のレイテ沖海戦では同型艦の武蔵が魚雷20本以上、爆弾10数発を受けて撃沈された、(・_・;)😅👿(^_^;)。大和も爆弾数発を受けて損傷している、(・_・;)😅👿(^_^;)。
そして昭和20年4月、大和は沖縄海上特攻に駆り出されて延べ1千機という米軍の航空攻撃を受けて魚雷10本以上、爆弾数発を受けて撃沈された、(・_・;)😅👿(^_^;)。大和型戦艦の特徴は世界最大の主砲とその強固な防御力で魚雷20本の被雷に耐えた戦艦は存在しない、(--〆)😠👿。大和は左舷に9本以上の魚雷を受けてバランスを失って転覆したが、それでも多数の航空攻撃に2時間半も耐えている、(--〆)😠👿。
大和型戦艦の欠点は装甲が船体にリベット止めされていて魚雷を受けるとその衝撃でリベットが飛び散って装甲がずれて浸水すること、レーダーの精度が落ちることなどだが、装甲の装備方法はある程度改善されているし、レーダーも対空2種類、対水上1種類を装備して光学照準と合わせるとレーダー射撃も実用レベルだったともいう、(--〆)😠👿。
大和型戦艦は極めて強力な戦艦だったが、貧乏な日本🇯🇵が爪に火を灯すような思いをして建造した虎の子だったのでやはり「ここ一番で使いたい」という気持ちが海軍首脳に強かったのだろう、(--〆)😠👿。「局地戦などに大和、武蔵を使うのはもったいない」という心情が時期を逸したのだろうが、極めて強力な戦力を使うべき時に使うべきだっただろう、(--〆)😠👿。普段は軽やCカーに乗っている者がスーパーカーなんかに手を出すから使いたくなって失敗するみたいなことを言った海軍幹部もいた、(--〆)😠👿。また大和型戦艦を動かすと大量の燃料が必要だったので常に燃料が逼迫していた日本海軍はその点も気にしていたのかもしれない、(--〆)😠👿。
大和を撃沈した際の米軍機の損害は10機というが、米軍は劇的勝利を印象づけたいことと基本的に損害を極小化するのが米軍のやり方なので実際にはもっと多くの損害があったのだろう、(--〆)😠👿。何百門の機銃や高角砲を備えた艦隊を攻撃して10機の損害なんていうのも嫌らしい、(--〆)😠👿。それでも大和他第二艦隊の損害に比べれば微々たるものではあっただろう、(--〆)😠👿。大和型戦艦は無用の長物でも何でもない。要はその使い方の問題だっただろう、(--〆)😠👿。