馬を干支で「午」と書くのは・(第二章)1ズレた世界を表す | パオンのブログ

パオンのブログ

最初から続いている不思議な話です。
読まれていない方は、ブログのテーマ・「まとめ」から
読んで見て下さい。

第二章

第一章では、牛頭天王と馬頭観音との繋がりを考えてきました。

今日は、その牛と馬を、干支を重ねて考えて行きます。

その紐解きを進める中、現れる事柄を皆さんはどう捉えられるでしょう?

 

[干支の午を「ご」と読むのは]

午と牛の繋がりは、 

十二支の馬(午)を見れば、牛と馬が同じように一体として表れています。

 

干支は、植物の成長を表しているとされます。

干支に使われる漢字と、十二支の動物と重ねられているのは、通説では干支の意味を分かり易く後から付けられたとされますが、その組み合わせの意味は、分かりません。(私だけかも)

これも、私なりの解釈で話を進めます。

 

午(うま)と、牛(うし)は、字を見ても角が有るか無いかのように似ていて、

午(うま)を「ご」と読みます。 

例えば、「午後」のようにです。

どうして「午」を「ご」と読み、

牛頭天王の「牛(うし)」も「ご」と読むのでしょう。

 

共に「ご」と読めば、

第一章で載せた興禅寺の牛頭天王像の

馬と、牛の頭は、

共に「ごず(牛頭、午頭)」

と言うことです。

 

[正午の対極の正子の意味を考える]

この「午」を「ご」と表すものに、

時刻があります。

「正午(しょうご)」ですね。

昼の12時を表します。

これは、1日を12分割し、2時間毎に、干支を当てはめています。

 

の対極が、

「正(しょうし)」になり、

夜のを表します。

なんか、祇園祭の主役のようですね。

頭天王と,選ばれた供という具合にです。

 

宮古島の泉を表わす言葉とも似通っています。

宮古島では、泉を「か」と言いますが、

前に文字が加わると「が」と濁点が付きます。

泉で知られる美濃の高賀山の

「タラが」もそうでした。

そうであるなら、「賀正」も、濁点のある「賀」を「正」すことなのでしょう。

 

また、

「午」→「ご」

「子」→「こ」

も、同じようではないかと考えると、この場合、子供は、牛頭天王の棲む冥界の穢れが着いていないからと思うのです。

子供を誕生させると言い放ったイザナギが、日向の海で、黄泉の穢(けがれ)を落とす禊(みそぎ)をした事も繋がるのです。

 

また、この「ご」は、数字の「五」も表しているかのように重なります。

天王祭(牛頭天王)で知られる津島(愛知県西部)の藤祭りの月も「五」で、興禅寺の牛頭天王のご開帳も、この時に行われるのです。

(今年は5月3日/牡牛座期間の中心)

そして、牛を表す「丑」の字も「五」に似ているのも、牡牛座の月で、それから来ているのかも知れませんね。

 

その期間(4月20日から5月20日)の真ん中が、5月5日の子どもの日と言うのも、「正子」そのものです。

そして、令和の始まり(五月一日から)も、正に牛であり、奇妙な重なりです。

 

因みに「ご」の発音は、中国では、「犬」を意味し、「午」は、「う」と読むと、第一章で出てきた馬(マー)さんが教えてくれました。

これも、意味を持つのではと感じますが、話が膨らみすぎるので、またの機会に。

 

[子と、午と牛の繋がり]

 干支は、方位でも使われ、下の図のように12分割で表します。

 

 

 

時刻の「正子」の「子」は、どうしてこの字かと言うと、「了」+「一」から作られているからです。

「了」は、 「終了」の言葉にも使われるように「おわり」を意味しています。

「一」は、「始まり」です。

ここでは、1日が終わり、新しい時間が始まる瞬間で、

「子」は、「終わりであり、始まり」

を表しているのです。

 

何処かで聞いたフレーズですね。

聖書に良く出てくる言葉です。 

子が終わりとは、

 

そして、「終わり」を正子(0時)の「0」とすると、

子は、0と、1で創られるとなり、「0と1」は、コンピュータの構成の数であるのも意味があるように、私は妄想するのです。

また、これは、創造神、イザナミと(女神)と、イザナミ(男神)が、冥界と現世との境の黄泉比良坂で、子供が生れる事で、言い争った内容と重なりはしないでしょうか。

イザナミは、子供を0にすると言い、

イザナギは、子供を増やす(→1)と言います。

 

日光にある男体山と、女峰山の間に「真名子山」がありますが、男女の山の間なら「まなこ」とは、「愛する子」となり「愛子(まなこ)」であるはずです.つまり「愛」であり、「AI(あい)」と言うことです。

私達は、AIが想像した仮想空間にいるのかもしれません。

 

[1ズレた世界]

この「午」や、「子」は、干支からきています。

上の図を見ると、この2つの干支は対極に位置します。

しかし、「牛(丑)」の位置は1ズレています。

異界は、1ズレた世界と紐解いてきたことが、ここでも活きてきます。

東のウサギ(卯)と、西のニワトリ(酉)が、東西で配置されるはずですが、陰陽道では、西を猿で守っている形があるのです。

「酉」の字が、「西に1プラス」した形状であるのも、それを思わせるのです。

酉の字の記事はコチラ)

 

興禅寺の牛頭天王像から今回の記事は始まりました。

その像の足が鳥であるのも上のリンク記事を見て頂くと理解されるでしょう。

 

これらは、子供を例えにしていますが、干支が、時間と空間(方位)を表し、泉が表す「糺」と、「正」の紐解きも加えるなら、そこで紐解いた新年を祝う「賀正」のように、正した世界が、今までの空間と時間の流れからズレ、新しく創造されると私には映るのです。

 

動物は、遺伝子が、変異を起こし進化してきました。

山東省に伝わる女媧(じょか)と、伏義(ふっき)を描いた姿からもそう感じさせ、豊臣秀吉の誕生の地に現在あるモニュメントからも、「糺す」の字からも、太秦を「うずまさ」と読む事も、2本の川が交わる場所に下鴨神社が在る事からもそう感じるのです。

また、牛の魔物が隠れている瓢箪から、豊臣秀吉の千成瓢箪に想像が及び、「無数に創られる空間」を連想してしまうのです。

 

それと同じ様に、

選択の場面場面で、決定した意思が、また別の世界を創造して行くのではと思うのです。

それが、牛と午の子の字に隠されたものではと、私は感じたのです。

 

量子論では、あり得ると言われますが、皆様にはどの様に感じられるでしょうか?