パオンのブログ

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最初から続いている不思議な話です。
読まれていない方は、ブログのテーマ・「まとめ」から
読んで見て下さい。

第五話 藤原岳があるのは、菅原一族の怨念を恐れて? 

 

目次 /////

 

●麻の一族の特徴

**千葉県

**名古屋の日置神社の特徴

**南信州

**西美濃周辺

 **いなべ(三重県北部)

 

 ●いなべの歴史

**員弁郡にも見られる二つの神

 

●疑問1 何故、菅原道真の左遷の話が絡むのか?

●疑問2 何故、いなべは、員弁とも、猪名部とも書くのか?

 

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[麻の一族の特徴]

このシリーズの最後になります。

ここまで、麻の一族(忌部/いんべ)と、菅原道真、日置部、いなべ(三重県北部)を絡めて紐解いてきました。

今日は、今までの内容が複雑であるため、少し、まとめながら、「いなべ」で一番に不思議と感じたものを紐解いていきます。

 

 

いなべは、上総の国(かすさのくに/千葉県)や、善光寺とも繋がりが見られ、元善光寺(飯田市坐光寺)の南信州や、養老(西美濃)にも見られました。

 

 

**千葉県

忌部(いんべ)一族から派生した 麻の一族は、特に千葉県に基盤を築いたようで、阿波(あわ)の国(徳島県)から、安房(あわ)の国(千葉県)へ渡ったとされます。

そして、古墳が集まっている地でもあるのです。

千葉県の古墳の時代は、北の地から来た騎馬民族がいたともされ、武家が登場した頃には、平家の拠点(千葉県佐倉市/旧・上総の国)でもあったのです。

織田信長が、「上総介」と名乗った場所でもありました。

これは、通説とは違いますが、織田信長が、麻の一族と深く関わっていたからだと私は感じています。

 

 

**名古屋の日置神社の特徴

名古屋の日置神社は、「忌部/斎部(いんべ)?」一族の神・天太玉(あまのふとだま)を祀りました。

 

 

(名古屋市中区橘の日置神社)

この神社は、と所縁があり、この地(現・大須/旧・日置村)には胡瓜の紋の織田信長の菩提寺(万松寺)があります。

この日置部は、菅原の姓を持ちます。

日置神社のある地区に、名古屋の中心的お寺、大須観音があり、現在は、「大須」と言う地名ですが、古くは「日置村」と言いました。

この大須観音は、岐阜羽島の桑原大須と言う地にあった菅原道真所縁(京都北野天満宮勧請に関わる)の北野山真福寺寶生院を、徳川家康が名古屋に持って来たのでした。

(大須観音)

何故、家康は、桑の産地であっただろう地から、麻に関わるだろう一族のエリアに、梅の菅原道真の寺を持ってきたのでしょうね。

これについては、今日の内容からは、逸れていくので、別な機会に紐解いていきます。

この答えらしきものが、伊勢神宮に見られたのです。

 

**南信州

 信州には、忌部の麻が、如実に 現れています。

 

飯田市にも古墳群があり、

麻績(おみ)神社(飯田市坐光寺)が元善光寺と並んであります。

(元善光寺)

(麻績神社)

古くは下伊那郡の中心地で、伊賀良村も飯田市の名に吸収されています。

麻績神社では、何故か、菅原道真の大宰府左遷の内容が含まれるのです。

伊那市(猪名部から由来) には、

木工技術に優れた集団がいて、熱田神社(伊那市)が伊那の東照宮と言われるように木工技術に優れ、日本全国へ出稼ぎに行っていたと伊那の記録には残っています。

そして、木曽を育てる馬飼いがいました。

 

 下伊那と言われた坐光寺の麻績神社は、その地から北東に離れた麻績村(長野県北東部)を信奉していた名主が開いた神社で、

その麻績村は、越の聖人の修行の地として知られ、菅原道真のルーツの伊香氏族から派生した「伊賀氏」が織田信長の伊賀攻めの後、伊賀氏族をこの地に流した歴史を持ち、

伊香氏族をルーツに持つ菅原道真の大宰府へ流された事と重なるのです。

 

**西美濃周辺

岐阜県養老の北にある南宮大社(鍛冶屋の宮)は、ヤマトタケルが関わる猪の神の伊吹山を信奉しています。

(伊吹山の山頂の猪の神)

象鼻古墳群、昼飯大塚古墳、池田古墳群が点在し、

神戸町(伊吹山東麓)の金幣日吉神社周辺は、麻の栽培や、木工技術と、鍛冶屋が栄えていました。

その地に、善光寺の紋が見られる事から、

 

元善光寺の寺紋

 

(伊吹山東麓の日吉神社の立ち三つ葉葵の紋)

池田古墳群の「池田」が繋がります。

池田氏との繋がりは確認できませんが、善光寺の本多氏と同じく 賀茂神社の直系氏族で、賀茂の紋(立ち葵)を継承しているものと思われます。

葵の紋の徳川家康が、西美濃(羽島)にあった菅原道真所縁の真福寺(現・大須観音)を名古屋の日置村へ持ってきた事も、忌部(日置)が絡んでいるのです。

日置との繋がりは、大須観音でも忘れ去られていて、私の推測でしかありません。

羽島の近くに祖父江善光寺(鍛冶屋由来の名の祖父江)があり、

馬飼の 名前の橋がある事から、馬飼一族の地であったと伺い知れます。

 

 *いなべ(三重県北部)

麻績塚古墳など沢山の古墳群が見られ、その地の中心的な神社が

名部神社と言います。

(猪名部神社)

周辺には、上げ馬神事が各所で見られ、

菅原道真所縁の豪族(伊香氏族)の地であり、朝鮮半島との繋がりが見られ、麻の栽培や加工、木工技術に長けた集団の地の特徴を持ち、

菅原道真を太宰府へ左遷した人物が絡むのです。

 

このいなべは、鉄の一族が伝播したライン上でもあり、

忌部に絡む平清盛を倒した藤原秀郷所縁の寺・唯願寺(上石津)がいなべの北東部にあり、藤原の名を持つ藤原岳が存在します。

 

 [いなべの歴史]

いなべは、伊勢神宮の御厨(みくりや/食料などを奉賛する神領地)としての歴史を歩みました。

伊勢神宮との繋がりが、私のいなべの疑問を解消してくれるですが、もう少し後の記事で紐解いていきます。

 

いなべの茶臼山古墳から出土する埋葬品の特徴が、東日本にも見られると言われます。

これは、千葉県の歴史が北から来た騎馬民族と、馬の神事と、古墳が多い事で、私には一致するのです。

 

いなべ地域の守護宮の猪名部神社の主祭神は、

 伊香我色男命(いかがしこおのみこと)と書き、

古事記では、

伊迦賀色許男命と記されています。

この「伊香」は、琵琶湖島北部余呉湖周辺の伊香郡をルーツに持つ菅原氏のルーツと思われ、
それは、名古屋の日置部が「菅原」姓を持ち「忌部氏(いんべ)」からきているからと言えます。

 

**員弁郡にも見られる二つの神

愛知県西部に隣接する員弁郡(いなべ/三重県北部)にも、

天太玉神(菅原道真)と、天児屋根神(藤原鎌足)の組合わせが見られます。

この繋がりは幾つか有りますが、その一つは、

この員弁に、藤原岳と言う山がある事です。

この「藤原」と言う名前は、奈良時代の初めに、藤原氏が率いる軍隊がこの地に立ち寄り、兵士の一部が住み着いた事から始まったとされます。

この員弁郡を知ると、私には、もっと、藤原氏が積極的にこの地に関わったと思うのです。

名古屋の日置神社から追ってくると、菅原に繋がるものが見えてきそうなのに、どう言う訳か「藤原」が前面に現れています。

 

不思議なのは、「員弁」の名前の由来から見えるのが「菅原氏」と、「猪」なのです。

この地は、日本の歴史を知るには重要な地と言われ、多くの歴史研究家が調べていますが、私のこの説は、色々読み漁っても、語られているものには出会いませんでした。

だから、素人の私の話は、個人的満足なものです。

 

この二つのアイテムは、名古屋の日置神社(菅原/天太玉神)と、隣接する高顕寺(猪/摩利支天)や、京都御所の西に見られる護王神社(猪)と、隣接する菅原院(菅原道真誕生の地)に見られるからです。


[疑問1 何故、菅原道真の左遷の話が絡むのか?]
忌部の祭神のルーツは、天岩戸伝説での天太玉神であると思われ、その後「忌部(いんべ)氏」へ変化し、紀州へ移った神道系の木工を得意とした一族と、私は推測しています。
それは、信州の伊那の語源も猪名部から来ていて、その地の熱田神社は、伊那の東照宮と呼ばれるほど、彫り物技術に優れた集団がいたとされる事からも推測しています。

名古屋の日置部は、阿波の国から来た「麻」を祭儀で使うために育てる一族である思われ、信州の麻績(おみ)神社も、菅原道真の左遷の踊りが祭りのメインになっています。
また、長野県中部の麻績村の歴史も伊香をルーツに持つ伊賀氏が、織田信長の伊賀攻めの後、流された歴史があるのです。
私は、これらの事から、員弁に、争いの持つ菅原と藤原の2系統の占いの一族が見え隠れする事に疑問を持つのです。

 

その疑問を持ち、猪名部神社の縁起を読んだ時、私は、驚きました。「菅原時平」の名前が見られたのです。

その縁起には、

平安時代前期、藤原時平が、この神社の格付けを延喜式神名帳に記載する命を出したと書かれていたのです。

また、興福寺の修繕の仕事を、この地の木工集団に与えたとも書かれていたのです。

これには、違和感を感じるのです。

 

これは、菅原道真左遷後の事で、

菅原道真を大宰府に追いやった藤原時平が、藤原氏の菩提寺である興福寺の仕事まで、菅原をルーツに持つ一族に与えるとは、何か意味があると思わざるを得ないのです。

 

菅原道真の左遷には、怨念の「くわばらくわばら」の雷の伝説があるのもそう思わせる一因なのです。

相当な恨みを持っただろう事が推測できます。

 

名古屋の日置神社に隣接していた、お寺(願興寺)にも雷の伝説がある事から結びつけてしまうのです。


私は、菅原道真に繋がる一族を懐柔させるために藤原時平が便宜を図り、おいしい仕事を提供し、伊香の氏族を取り込んで、懐柔したのではと推測するのです。

藤原時平は、菅原一族の反乱を恐れていたのではないでしょうか?

忌部(菅原)の天太玉神と対極なのが藤原氏のルーツの天児屋根神であり、藤原氏の権力が強くなるまで、皇室の神儀の祝詞は、二つの一族が別々に行っていたと記録に残っていますが、その後、藤原氏の祝詞のみに変化していくのです。


私の推測和裏付けるようなものはあるのでしょうか?

[疑問2 何故、いなべは、員弁とも、猪名部とも書くのか?]
いなべを表す神社の名に「猪」が付いていますが、伊香の一族が信奉する鉄の一大生産地であった伊吹山の神・猪と関係しているのでしょうか。

忌部氏族は、鉄の一族でもあるからそう思うのです。

私には、良く「麻」と「鉄」の棲み分けが分からないのです。

それは、菅原道真と、猪との繋がりが、名古屋の日置神社や、飯田の麻績神社にも見られ、京都にもその繋がりは、幾つも見られるのです。


(菅原道真誕生の寺/京都)

(猪の護王神社と、菅原道真の寺との位置)

名古屋の日置部は、鉄の一族でもあるかのようにその地に痕跡が残っているのです。

 

 

 

(金気の結界がある・金山の地名と鍛冶屋の街が近い)

これは、「火」と「水」の関係にも繋がっていくのです。
信州にも、水の属性を持つカラス天狗と共に、対極の火は、秋葉権現で表され、

(麻績神社入り口の秋葉権現の銘の石碑)

伊吹山周辺は、特に東近江の日野町(火の町)が火に特化していて、京都愛宕同様に水の化身の猪が、日野町の守護宮・綿向神社に見られるのです。

そして、藤原秀郷伝説のある三上山(野洲市)が火の神を祀る事がそう思わせるのです。
人の流れが、宇曽川、愛知川を起点に、桑名の方へ流れて行ったとされる方がいた事から、太宰府天満宮の鷽(うそ)に不思議な一致が見られるのです。
まだ菅原道真との繋がりは、この起点に見られるのですが、
しかし、イノシシが充てられた意味が見つかりません。

 

これまでの私の記事の内容をつなぎ合わせると、占いの一族の呪術が、創造神話に繋がるのです。(多分)