ピラミッド信仰の日本での痕跡 / 日置神社と夏至の太陽 | パオンのブログ

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最初から続いている不思議な話です。
読まれていない方は、ブログのテーマ・「まとめ」から
読んで見て下さい。

私がブログを始めるきっかけは、我が家に不思議な縁と言うものが纏わりついている事を知ったからです。

 

その縁を一つ一つ調べて行くと、古代エジプトのピラミッド信仰が隠れている事に気が付きました。

 

最初は、そんな馬鹿な事は無いと半信半疑でしたが、ある事を知った時、私の気持ちは確信に変わりまし

 

た。

 

しかし、それでも、心の何処かに、否定する自分が、まだいました。

 

今日の私が書く内容を知った時、間違いなく、自分はその不思議な力の中にいると思ったのです。

 

そう感じた事柄を書き綴っていきます。

 

 

[日置神社の不思議]

 

名古屋市中区橘の日置神社周辺に詳しい方と、最近、メールのやり取りをしています。

 

以前にも、尾張国分寺の事でヒントを頂きましたが、もう一つ興味深い情報を頂きました。

 

橘の日置神社(ひおきじんじゃ)と、海部郡の日置八幡宮(ひきはちまんぐう)とは、夏至の時

 

に、一直線に太陽とつながると言うものでした。

 

日本では、冬至の太陽が海から昇ったばかりの時を、冬至の風呂に浮かべる柚で表しています(多分)

 

エジプトのピラミッドは、それとは対照的に、夏至に沈む地平線上の太陽をホルエム・アケドと呼び、崇めま

 

す。

 

その時には、メンカウラーと、クフのピラミッドの間に沈む太陽とスフィンクスが重なり、ヒエログリフにも、こ

 

の形が描かれています。

 

日本とは逆のようですね。

 

 

[海部郡の日置神社(ひきじんじゃ)]

 

私を謎解きの底に引き込んだのが、愛知町の不思議な配置から知った日置神社でした。

 

その日置神社には、興味を引かれる、もう一つの日置神社が海部郡にありました。

 

名古屋の西部の中核都市の津島の津島天王社の近くにありました。

 

海部の日置神社の南には、柚木と言う地名があり、北は十一面観音とつながるだろう愛宕です。

 

この事もここに引かれる理由でしたが、それ以上に、プライベートな事がウエートを占めていました。

 

(以前の海部郡の日置神社の記事はコチラ)

 

 

この神社は、神功皇后(じんぐうこうごう)と、玉依姫を祀ります。

 

つまり、海の一族を表し、神功皇后(じんぐうこうごう)は、御井の信仰の発祥の高良大社や、住吉大社、シャ

 

クナゲ、そして、山車に関わり、それらは、総べて、古代エジプト信仰と重なるのです。

 

 

博多の中族と、海部族の発祥の地(推測)には、1800年前から住吉大社があり、住吉大社と、高良大社の神

 

紋は、共に鳥の巣なのです。住吉大社は、ウサギで知られる神社なのに鳥の巣です。

 

これは、桃太郎の伝説の中にも隠されています。

 

鳥の姿は、エジプトでは太陽神ラーです。

 

前にも紐解いたように、対には、ウサギが隠れているのです。

 

十二支を並べてみると良く解ります。

 

酉の周りの動物は、桃太郎のお供の動物たちと言えます。

 

酉は、西に一を加えた字で、ニワトリを表し、羽のラインの中央は、丹羽郡(愛知県)でニワトリを表す字で

 

す。

 

勿論、丹羽郡がニワトリを表すのならば、ウサギも対でいます。

 

丹羽郡の対岸は稲羽郡と昔は呼ばれ、各務原の御井の神社の周辺を今でも稲羽地区と呼んでいます。

 

秀吉の馬印の瓢箪のルーツになった稲羽山城のある地です。

 

秀吉は三面大黒天を信奉していました。

 

大黒様と稲羽とくれば、

 

この地には稲羽(本来の字)の白ウサギが隠れているのでしょう。

 

こじつけ気味ですが、最後まで読まれると、不思議な感覚になるはずです。

 

 

エジプトのトリの姿の太陽神ラーは、西を表していると思うのは、上記で書いた夏至の沈む太陽

 

を重要視した信仰を持つからです。

 

酉(鳥)の字が西に似ている事からも分かります。

 

この字をトリに充てた人は、このからくりを知っていたのでしょうね。

 

私の推測通りなら、古代エジプト信仰と、対になっているのが、日本の信仰に隠れているものと思われます。

 

西方極楽浄土へ導く鳳凰も、その字の中に酉と同じような形が見られます。

 

鳥に一が加えられています。

 

対にある凰の字にも、源氏の色・白の王として表れています。(多分)

 

 

海部郡の日置神社は、何故「ひき」と読むのか不思議でした。

 

この「ひき」は、朝鮮の言葉では「土塁」を表しているとされ、

 

日時計は「土圭(どけい)」と呼ばれ、時計(とけい)の読み方は、これから来ているのでしょう。

 

日置は、日置部と言われる天文方を職業にする人々であるからと、海部の地が、渡来系の人々とのつながり

 

を感じるから、「ひき」と呼ばれるのも理解できます。

 

また、土圭は、もう一つ意味を持ち、立砂の元になったとされます。

 

昔は、天皇から土地を拝領した時、土を三角形に盛り、その上で「ここは、私の領地だ」と神に宣言する儀礼

 

として使われました。

 

 豊臣秀吉が京都に造った御土居(おどい)も、これから来ていると私は思っています。

 

京都の洛中を囲んだ土塁は、学者の間でも分かっていない構造物なので、何と言えませんが、秀吉は、この

 

土塁の上に立って、ここから中は、神から与えられた土地だと宣言したのではないでしょうか。

 

秀吉の御土肥は、以前にも紐解いています。コチラ)(御土居の原型と思われるものはコチラに)

 

 

文頭に書いた、この日置の夏至の太陽が、どの様に、私が驚いたのか。秀吉と、どう結びついているのかに

 

入って行きます。

 

 私に、夏至の太陽と、日置の情報を頂いた時、頭の中に、日置神社の配置がある程度入っていたので、

 

海部郡と、名古屋の日置は、一直線には繋がらないと感じていたのです。

 

夏至のラインを地図に引いたら、やはり、結ばれませんでした。

 

何と繋がるのだろうと、ラインを追ってみました。

 

ある場所まで来た時、鳥肌が立ちました。

 

中村日赤病院の曰くのある池の上を通り、私が生まれた場所の真上に来た時です。

 

 

その場所は、上の地図の夏至の沈む太陽のライン上です。

 

更に進むと、中村公園の中にある秀吉の誕生の地を通ったのです。

 

以前、ヒエログリフと重ねたモニュメントの上も通るのです。(その記事はコチラ)

 

 

私が不思議と思うものがライン上で、それもピンポイントで並ぶのです。

 

驚きは、これだけではなかったのです。

 

このラインを進むと、山王の文字が。2つほど目に入りました。

 

甚目寺町山王と夏至の沈む太陽のライン

 

稲沢市平和町山王とライン

 

スタートの日置にも猿の山王があります。

 

少し猿に関するものが多すぎます。

 

秀吉は、猿と呼ばれていた事から(本当は、明治に入ってから)明らかに、この謎を知る者が痕跡を残したと

 

しか考えられませんが、私の生まれた場所と、このラインの先にあるものを考えると見えないパワーがつなげ

 

ているとしか考えられません。

 

このラインの先にはまだあり、それを目にした時、本当に驚きました。

 

それは、次回に・・・

 

次の記事を読まれないと、この記事は完結しませんので、是非、UPしたら再びご来店下さい。