夏至のラインが結ぶ、日吉(山王信仰)との不思議なつながり | パオンのブログ

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最初から続いている不思議な話です。
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読んで見て下さい。

前からの続きです。

 

名古屋の日置神社を起点に、夏至の沈む太陽のラインを追って、

 

木曽川に架かる馬飼(まかい)大橋まで来ました。

 

その途中、私の生まれた所や、秀吉の生まれた所をピンポイントで通過していたのです。

 

驚きました。こんなことってあるんだと思った時、少し怖くなりました。

 

このライン上には、ここで書いていない場所があります。

 

それは、過去の出来事とつながって来るのですが、書くには、とても勇気がいるので、書けません。

 

 

今日は、それを飛ばして、ラインを先に進めます。

 

そこには、まだ驚くものが待っていたのです。

 

このラインは、養老の御井の神社の真上を通り、沢田と言う地の上を通ったのです。

 

以前にも、沢田の姓がこの謎を解くキーマンと書いてきた事が当たったようです。

 

 

 

[日吉と夏至のライン]

 

このラインのスタートからここまで、山王信仰に関わる地域が6箇所ライン上にあり、この養老の

 

地図を見ても分かるように、日吉地区があり、ここでも日吉大社の山王信仰が見られるのです。

 

この信仰は、サルの信仰とも言われるのです。

 

秀吉が猿と呼ばれるのもこれから来ています。

 

 

この養老は、シャクナゲを観に行って気が付いた事から興味を持った場所で、我が家の墓

 

のある江南(愛知県北部・昔、丹羽郡の中心地)に多く住む沢田の姓が地名として見られたから

 

でした。

 

今までの記事を読まれた方は、私が、御井の神社を中心に話を進めている事をご存知と思わ

 

れます。

 

この養老も、その信仰を絡め何度も取り上げてきました。

 

私自身、まさか、この神社の真上をこのラインが通過するとは思ってもいませんでした。

 

この神社は、地図上では現れない見つけにくい場所にあるのです。

 

地元の人に尋ねても、知らない人がいた事に驚いたほどでした。

 

それよりも、多岐神社の方が大きくて、知名度があったのです。

 

最初に訪れた時には、三神町に多岐神社は在ったので、ここが、御井の神を祀っている社かと

 

間違えました。

 

滋賀県の三神山に御井の三柱が降りたとされるからです。

 

このラインを知って、この御井を隠したかったのではと感じたのです。

 

この地の沢田地区には、一人も沢田の姓を持つ人がいない事も、ミステリアスな気持にさせます。

 

養老の御井神社の記事はコチラから続いています

養老の御井神社を訪れた時の記事はコチラから続いています。画像が多く添付されています

 

もう一度、この地域を調べ直してみようと思い、ここまでライン上で6箇所も見られた山王信仰の

 

この地の日吉地区(上記地図参照して下さい)にターゲットを絞り、この地図上の日吉小学校に

 

尋ねしました。

 

「日吉と名が付いていますが、由来は何ですか?」と尋ねましたが、分かる方はいませんでし

 

た。

 

その後、この地域の郷土史に詳しい方に尋ねても、古くから有る名前だとは分かるだけで、何も

 

得られませんでした。

 

この日吉と、日置と、養老とのつながりを表すものを忘れていました。

 

以前の記事にありましたが、それは、次回に日吉と日置のつながりを書く予定なのでその時に

 

書きます。

 

 

[秀吉と、瓢箪と、御井から太陽神ラーを見出す]

 

我が家の秀吉が生まれた中村にも、日吉地区があり、日吉小学校がありますが、この地は、秀

 

吉に関わる場所なので分かります。(これも不思議ではあるのですが・・・)

 

どうつながるのか、私なりに推測してみました。

 

この地は、秀吉と直につながるものはありません。

 

ただ、瓢箪からはつながります。

 

養老は、瓢箪の伝説があり有名です。

 

瓢箪に水を入れたら酒になったと言う話です。

 

江南の対岸(稲羽地区)にも御井の神社があり、竹筒に酒を入れ池に浮かべる神事(酒占神事)

 

がある事から、御井と酒に何らかの関わりを持つのではと思われます。

 

(御井の酒占神事の記事はコチラ)

 

この地は、三輪族と、その守護宮・大神神社が近くにある事や、象鼻古墳の名前から、

 

酒のルーツの奈良桜井の大神神社が関っていると思われるのです。

 

上の養老の地名にも桜井が見られるのも、それを表しているのではないでしょうか。

 

酒の字にも、「酉」の字が隠れています。

 

この地を紐解いてきて、浮かび上がった鳥の姿の太陽神・ラーなのかもしれませんね。

 

養老と、ピラミッド信仰を紐解いた記事はコチラ

 

この地の南には、本シャクナゲの群生地がありますが、その南側には、多良と呼ばれる地域が

 

あります。

多良峡

 

この名前も、ラー(良)が多くいると私には写ってしまいます。

 

このこじつけは、瓢箪からも結びつきます。

 

秀吉も、上記の各務原の御井神社のある稲羽地区で瓢箪を拾い馬印(旗)としました。

 

その秀吉は、幼名を日吉丸と言い、その謂れは、母が男の子を授かるよう、日吉権現に願った

 

ら、太陽神が腹(子宮)に入る夢を見て、懐妊したと言うものです。

 

古代エジプトの太陽信仰の思想そのものです。

 

太陽神は、西に向かい、女神の胎内へ入って行きます。

 

エジプトの玄室に描かれた太陽が女神の体内に入って行く天井画。

 

酒のルーツの大神神社の祭り主・大物主(入れ物に入ったヘビ)を酒に置き換えると、

 

養老の伝説の瓢箪に入っているものは、「ヘビ」と言えます。

 

この地にある大神神社に隣接する唯願寺の伝承からもそう思え、(唯願寺の伝承の記事はコチラ)

 

太陽神の化身の秀吉と、瓢箪に入ったヘビと、酒の字の酉を重ねると、太陽神ラーの姿そのも

 

のです。

 

 

 

太陽神を宿したのが、日吉権現に祈願した事から、日吉丸と幼名を付けたとされます。

 

その日吉丸について書かれている一番古い資料は、1625年に書かれた「甫庵(ほあん)太閤

 

記」に見られます。

 

そして、竹内と言う人物によって世に広められました。

 

御井神社のルーツの高良大社は、竹内宿禰(たけうちすくね)が関わって、シャクナゲも竹内家

 

が関わっているつながりは、ただの偶然でしょうか?

 

また、秀吉を猿と呼んだのは、神奈川県の寒川神社(八方易と泉で知られる)付近に住んでい

 

た徳川の旗本の土屋(中村姓をルーツ)氏が書いた「秀吉素性記」に登場し、明治になって、そ

 

れが知られるようになり、秀吉=猿となったのです。

 

秀吉と猿の記事はコチラ

 

幼名は、身分の低かった秀吉には無いとするのが妥当で、

 

これらは、すべて、秀吉を利用して謎解きのアイテムとしたのではと、私には、思えてなりません。

 

 

[西に意識がある日置神社]

 

日置神社は、易に関わりがあります。

 

 西の愛知町(泉が湧く地の意味)は、易を語源の安井の名を持つ人々が多くいます。

 

名古屋の日置神社から西に猿の橋があり、東にウサギの橋があります。

 

日置神社のある地域の西は、猿の山王の地となっている事も、「西は、猿」としている事を強く意識

 

しています。

 

それを表すかのように

 

その西へ、夏至のラインを走らせると、山王地区から始まり、日吉地区(名古屋市中村区)の上

 

を通り、秀吉の誕生の地の真上を通り、その後も、山王と付く2地点を通り、養老の日吉地区に

 

辿り着きました。

 

6ヶ所もあり、これは、異常な数です。

 

日吉と名が付く地名は、全国各地にありますが、この夏至のライン上にこれほど並ぶものでしょ

 

うか?

 

[日吉小学校が在る場所]

 

日吉小学校を検索した時、全国で数箇所ヒットしました。

 

何故、小学校に絞ったかと言うと、御井の神は、子供に特化した神だからです。

 

この場所には、日吉ごとも園もあり、この地も、子供に特化した地のようだったのです。

 

検索すると全国で、6件ヒットしました。その中で、気になった場所が2箇所ありました。

 

一つは、久留米にあったのです。

 

御井の神社のルーツの場所である高良()大社と、太陽の船が描かれた古墳群のある場所で

 

す。

 

もう一つは、日置市日吉(鹿児島)にありました。

 

久留米の日吉は、養老とつながり、

 

鹿児島の日吉は、日置とつながったのです。

 

 

[秀吉は、山王信仰の本来の姿を知っていたか?]

 

然しながら、秀吉は、今までにも書いてきたように、鍛冶屋との関わりがあったはずです。

 

今まで、秀吉を追って書いてきた事を考えると、この不思議な縁を知らない方がおかしいです。

 

この養老の御井神社は、金屋鍛冶屋邸に併設されている事と、

 

秀吉の最初の城の在る、長浜は、鍛冶で知られ、姫路城も、稲羽城も同じく鍛冶で知られる

 

地でつながっているからです。

 

この夏至のラインと鍛冶屋に付いては、次回にでももう少し掘り下げて書いて行きます。

 

秀吉は、限りなく、鍛冶信仰とつながっていたと思うのです。

 

豊臣秀吉と山王信仰の関わりが濃く現れている事から、江戸時代の旗本・土屋氏は、秀吉を猿

 

と呼んだのではないでしょうか?

 

けっして、容姿が猿に似ていたからではないと思われます。

 

秀吉は、この不思議な細工に、没した後、利用されただけではなく、本人も、理解していたとも取

 

れるのです。

 

それは、稲羽城で、瓢箪を拾い馬印にした事や、京都の御土居を造った事、鍛冶屋の多い地

 

域に城を構えた(長浜・姫路城)事からです。

 

 

[私との不思議なつながり]

 

しかし、どうしても分からないのが、私との関わりです。

 

秀吉と同じ場所で生まれ、

 

それは、共に、夏至の沈み行く太陽のライン上で

 

秀吉は、太陽神の化身とされ、私も、八十八夜で生まれた事は、

 

八十八が太陽神を表すから、太陽神を内包していると言え、

 

生まれた場所の前に、油の神社があったことや、それを調べると、家族にもつながります。

 

私だけに限定するなら、この神社の油は、お聖天様を助けた、十一面観音の油でした。

 

この御井の神社も、前に紐解いたように、十一面観音と深く関わっている事が、更に謎を深めて

 

います。

 

このお聖天様と、十一面観音を表す変わった絵があります。

 

それが、これです。

wikpediaより参照

 

この象と、、上記の養老の地図にある象頭古墳群の名前と不思議なつながりを見せます。

 

そして、我が家の墓がある江南が、養老でも沢田の姓からつながり、また、日置神社のある地域の

 

山王稲荷から江南に結びつき、日置盤からつながった私の易の名を持つ友人からも江南と結び

 

つくのです(プライベートな事を含むので書けません)。

 

この不思議な縁は、土地の名前や配置とは違って、物理的に仕組むことは出来ません。

 

私が、この仕組みに気が付いて辿り付く様な仕掛けが有るとしたら、それは、未知の力の成せ

 

る技としか言い様がありません。

 

この日置と、養老の御井のつながりが、本当に日吉とつながり、その根底には、ピラミッド信仰

 

があるかを、面白い配置を紹介しながら、次回は紐解いて行きます。

 

この夏至のラインのつながりに嵌って行くことでしょう。

 

 

つづく