<金陵方面 修道人>

人類の歴史は,多くの貪欲と怨恨による災いが溢れ,宗教も同じでした。 サンジェさんの天地工事がとても感謝して驚くべきことでした。 砂漠でオアシスに会ったように,サンジェさんに感謝し,一生懸命に修道することに決心しました。 しかし首都生活が私にはとても難しいでした. 私の西欧的思考と生活方式が首都生活で頻繁な葛藤を起こして, 首都人の価値観と文化が理解されませんでした. 私の体は韓国人ですが,私の考えは西洋的であるため,このために道友たちの誤解をたくさん買うようになりました。

入道後,私は奉徳をとてもしたかったです。 しかし私の友達は皆アメリカにいたし私は一人で韓国に残っていました。 そうしているうちに実の弟が韓国に遊びに来るようになったし飛行機から降りるやいなや口ずさみを連れてきました. 韓国語が下手だった妹も道を理解するようになり,一緒に首都を熱心にすることになりました。 いつのまにか一年が経って私は、再び米国へ戻ることになりました。 気持ちとしては国籍をあきらめて韓国に居たいと思いましたが,行かなければならないでした。

修道しながら私は本当に悔しかったです。 どうして韓国で修道ができるのか。 なぜ韓国人たちだけが,この道を進む機会が与えられるのか疑問に思えました。 ある意味では私はその時になって,自分自身を西洋人と見ているということを悟ったようです。 私が愛し,好きな人が韓国人ではないという理由で首都ができないというのは話にならないと思いました。 私は世界の多様な人たちに,サンジェさんの徳を知らせる道人になりたいと誓いました。

その後8年が経っていつのまにか内修だった私は中間役員になりました。 後覺たちは世界各国を代表する多国的であり,皆一生懸命できます。 たとえ言葉と皮膚の色と思いが違ってもただ彼らの心を見てサンジェさんが探してくださったと思います。

後覺の中でペルー修道人がいますが,その家の人たちは躁うつ病で苦しんでいました。 一例として,彼の兄は不安定な感情の変化によって酔っ払った状態で娘を連れて夜車を連れて遠くへ逃げたりもしました。 こうした事柄によって家族間に深刻な不和と感情的な衝突が生じてとても大変でした。 その修道人は何度も100日、最善を差し上げたし、その後サンジェさんの徳化を通して家の中の人たちは祈りを連れてともに、首都して今は幸せな家庭になりました。 その修道人は,自分のように苦難にさいなまれる多くの人々に,兄弟の徳化を伝えるために今日も最善を尽くしています。

イギリス修道人は職場では常に悔しい状況に直面しました。 時には解雇され,上司に悪口を言われ,仲間からいじめられ,多くの傷を受け,苦しみました。 多くのミレーのニーアル・(1980~2000の間に生まれた世代)らは、麻薬中毒やうつ病と様々な精神的苦悩に直面していました。 これらは大巡真理会の首都を通じて自分たちの苦難の原因が分かったし,またそのように心の平和を取り戻そうとしたが,結局はどうして暴力的に変わったのかを自分で理解するようになりました。 サンジェさんの教えはこのような人たちを大きく感動させただけでなく,彼ら自身について多くのことを分かってくれました。 結局,全ての悟りの始まりは自分を正しく理解することから始まると思います。 また,このような原理で私たちは相手だけでなく,私たちを取り囲んでいる世の中を正しく理解することができると思います。

キリスト教文化に慣れている外国の人々は,祖上と神明などの不慣れな概念と文化的な違いで,韓国人より大巡思想を理解することが出来ない場合が度々あります。 けれども, 純粋に葬祭の教えをよく受け入れて,泰雲珠を真心を込めて誠心誠意を尽くします.

修道しながら今更ながら私はサンゼさまが私の心を私よりもっとよく分かっていることを悟るようになりました。 幼い頃,私の夢は将来,いい仕事をする人になって,多くの人に助けを与える人生を生きる事でした。 報徳事業を通じて願い事をする事になって,今はとても感謝しています。ありがとうございます。 サンゼ様は足りないですが,ただ心をこめて私たちを捜してくださるようです。 この世の中には利くていい人々でいっぱいになっていると思います。 韓国だけでなく世界中どこにも上帝さんの大順の眞理に聞きたい人がいるなら彼らと一緒にいてほしいです。

 

 

 

人同士の戦いは天上で先靈神の間の衝突を起こしから…天上戦いが終わった後に人間の戦いが決定されナニラ。 (ギョボプ1枚54節)

人間は,誰もが自分の意志によって人生を営もうとしているが,常に希望通りに成し遂げられるものではない。 人間の生には多様な要因が影響しているためだ。 上記の上帝は天上世界でのことが私たちの暮らしに重大な影響を及ぼしていることを悟らせる一つの予証だ。 しかし,この天上世界は神が存在する空間であり,人間の感覚的能力では分からない領域に属するため,私たちはこのような事実を認識することができないまま生きている。

私たちの生活に影響を与える要因は,一般的に大きく二つの側面から考えられる。 それは,私たちが直接見て感じることができる,具体化された物理的レベルでの要因と,内面の心理的要因がそれである。 物理的レベルに該当するものとしては,国,社会的環境や家庭環境をはじめとして身体的要因等が挙げられる。 このような領域は,個人の意志だけでは決して簡単に変えられるか克服できない。

一方で,自分が生み出していく心の態度や意志は心理的側面といえる。 このような側面は物理的領域とは異なり,可視的に明確に表れないが,非常に重要な影響力を持つ。 いくら良い環境と身体的条件をもっていても,心の姿勢が否定的なら正しい人生を営むことはできないだろう。 逆によくない状況に置かれていても,それを乗り越えようと最善を尽くす肯定的な生き方は,自分の人生をより良い姿に変化させることができる。 こうした要因は我々が一般的に認識している.

しかし,一般的に理解する次元を超えて私たちの感覚的能力として認識できない天上の世界が作用していることも生の現実である。 このような事実は'典經'の幾つかの章から見ることができる。 人間生命の始まりと関連し,上帝様は"天が人を出す時に計り知れない功力を持ち出せ。 したがって、すべての人の先靈神らは60年間、ボールにボールを積んで使えそうな子孫一つを引き出すものの、そんなに力をかけても子孫一つを得ない先靈神たちも多いものだよ。"(ギョボプ2枚36節)と仰った。 この言葉によれば,私たちの生命は親から始まる前に,霊魂神たちの無限の功力によって始まったことが分かる。 それゆえ,先霊神は自分の生命の誕生に関与し,血肉の同質性という側面から直接的に結びついた大切な存在としての意味を持つ。 このように人間の生命の始まり点から天上界の影響が働いているのである。

また,上帝は天上界にある先霊神たちがその子孫を霊神の手から取り出して正しい修道の道として掲げるとおっしゃる。 これは,私たちの首都生活の裏面に見えない,先霊の按配が働いていたことを裏付ける言葉だ。 先靈神が苦労して苦労をし,子孫を首都の道に立たせるのは,その子孫が天の意思に符合する生を生きていくようにするためだ。 このような先靈神の功力は,韓国に首都生活に対する限りない悲しみを感じさせる。

それだけでなく,今日の人類の文明発達にも天上界が多大な影響を与えたことが分かる。 こうした事実は上帝さまの"こちらから地下神は天上のすべての妙法を倣い印税にそれを施した。 西洋のすべての文物は天国の模型を真似たもので、"(ギョウン1枚9節)という言葉で見ることができる。 この一節は,西欧のヨーロッパにおける産業革命以降に発達した今日の物質文明も,天上界のあらゆる五妙な法がそのまま投影され,成立したものであることを物語っている。 以上の様々な節で明らかになった事実は天上界し,人間の暮らしにどれほど莫大な影響力を及ぼしているかを十分に認識させる。

一方、上ギョボプ1枚54節の内容の中には逆に人間も天上界に影響を及ぼしかねないことが明らかになっている。 人同士の争いが天上界で,先霊の神たちの間の戦いを起こすというのだ。 したがって,このような人間の行動は,神の世界に一定の影響を及ぼすということが分かる。

このように天上界と人間世界は互いに影響し合う関係に置かれているが,毎瞬間,このような事実を私たちは十分に感じないようだ。 天上界が人間の感覚的能力として認識できない世界だから当然のことかもしれない。 しかし,これからは私たちの考えの転換が必要だ。 上帝の教えを通じて,私たちの人生は天上界とつながり,相互に莫大な影響を及ぼしていることが分かるからだ。

今の私の行動が,ある意味であの天上世界に影響を及ぼす恐れもある。 また今,私の人生は天上世界の意に適っていないかもしれない。 このように私の人生が天上世界につながっていることを考え,自分の人生を深く省察する時,私たちの首都生活がもう少し正しい方向に進むのではないか。

 

 

 

人類の科学技術が急速に発展している中、最近4次産業革命によるロボットと人工知能、生命工学の融合が大きく注目されている。 ここに脳科学は人間に対する理解を広げ,ロボットや人工知能の研究にかなり貢献している。 脳科学の発展が,未知の領域に止まっていた脳の神秘を少しずつ究明しているのだ。 しかし,人間が自分の脳の能力を何パーセントも使用できるかは依然として不確実であり,学界で発表される数値も変わりつつある。 もし,人間が自分の脳に潜んでいる能力をすべて発揮すれば,どんなことが起きるだろうか。 'ルーシー(Lucy)'はこうした想像と脳科学の仮説に基づいて作られた映画だ。

2014年に公開したルーシーは海外で封切られると同時にボックスオフィスを席巻したリュック・ベッソン監督の話題作だ。 この映画は'グランブルー'、'ニキータ'、'レオン'、'第5元素'などの独特な世界を作ったりしてアクションの巨匠として定着したリュック・ベッソン監督が10年前から頭の中で構想して準備してきた作品だ。 彼が長年の期間にわたって完成したルーシーは人間の脳使用量の平均値が10%に過ぎないという仮説に基づいてそれを超える際に起こり得る想像の中の出来事を描いた作品だ。 ハリウッドの代表的なアクション女優,スカレット·ヨハンソン(ルーシー役)が主人公を演じ,神を演技できる唯一の俳優というモーガン·フリーマン(ノーマン役)が世界的な脳科学者として登場する。 さらに,大韓民国代表俳優チェ·ミンシク(ミスターチャン役)が地下組織のボスとして登場する幻想のキャスティングは,マスコミと観客の期待を集めるのに十分だった。 映画は,平凡な女性ルーシーが一連の事件を通じて脳使用量が急激に増えたことで起こる出来事を興味深く描いている。

平凡な生活を過ごしていたルーシーは,数日間付き合った男から,正体不明のカバンを一つずつミスターチャンに伝えてほしいという依頼を受ける。 わけも分からないままかばんを伝えようとした彼女は,険しい男たちに引かれてミスター張りに会う。 彼は恐ろしい犯罪組織のボスとして公権力も軽く見る人物だ。 ミスター章の手にかかったルーシーは、突然に青色の合成物質であるCPH401の運び屋に転落する。 彼女と3人の男性は腹部切開後のお腹の中に薬物を一袋ずつ入れたまま、欧州各国に送られる。 ルーシーがどこかに送られる前に突然の外部衝撃で,お腹の中の強力な薬物が体内に広がる。 すると,彼女の中のすべての細胞と感覚が覚め,脳の使用量が急増し,人間の限界を越える驚くべき変化が起きる。

ルーシーの脳使用量が20%、40%、60%… このように徐々に高まりつつあり,想像できない能力を持つようになり,膨大な量の知識や情報も習得することになる。 また,相手の心を読み取り,重力と電波を自由自在に利用するなど,超能力に近い力を発揮する。

ルーシーの脳使用量の変化は,スクリーンに順次表示され,観客がルーシーの急激な変化を理解できるよう支援する。 そして,その過程で起きる変化は世界的な脳科学者で,人間の脳使用量による変化を研究してきたノーマン博士の講演を通じて説明される。 人間の脳使用量は平均10%だが、もし24%を使用することになれば、自分の体のすべての機能を制御することができて超感覚が生じる。 脳使用量が40%に到達すれば、すべての状況の制御が可能となって62%では他人の行動を調整することができる。 もし人間が脳使用量の100%に到達すれば、どんなことが起きるだろうか。 ノーマン博士は,"それは我々の想像を絶する未知の領域だ"と語る。

ルーシーの脳細胞は時間が経ちながら,自ら知的能力を引き上げ,肉体的超能力まで強化する。 加工する力を持つようになったルーシーは,ミスター章を探して復讐をし,他の薬物の行き先も把握する。 一方,彼女の脳使用量が増えるにつれ,人間的な感情と感覚は薄くなるが,人類が築いた情報が脳の中で爆発して途方もない知識が蓄積される。 しかし、彼女に残された寿命が24時間も残っていないという事実を知ることになる。 ルーシーは,インターネット検索を通じて脳科学を研究してきたノーマン博士を探し,彼と電話で話し,すべての生命の存在理由が自分が得た知識を後世に伝えることにあることを悟る。 そこで彼女も自分が得た知識を人類に伝えるためにフランスにあるノーマン博士を訪ねる。

この時、ミスター・長は、CPH4を取り戻し、復讐を果たすために執拗にルーシーの後を追っていた。 ルーシーも自分の脳使用量を100%まで引き上げるためにはCPH4がもっとたくさん必要だった。 だから、他の所に送られた3人の運び屋をフランス警察の協力を得て、逮捕する。 しかし,ミスター職人の手下が警察を制圧し,運搬者から薬物を奪取しようとする。 このような事実を超感覚で知ったルーシーは,道路上のすべての状況を予測·統制し,途方もない速度で逆走行して走っていって,彼らを制圧して薬物を確保する。

その後,ルーシーはノーマン博士を訪れ,薬物をすべて自分の体内に投薬する。 その時,重武装したミスター張りと彼の部下たちが彼女を訪れ,警察と熾烈な銃撃戦を繰り広げ,状況は緊迫する。 薬物投与直後,脳使用量が再び急激に増えたルーシーは,時間を超えて空間を出たりする。 ルーシーは,空間を移動して時間を遡り,先史時代の太初の人類と出会い,恐竜時代を経て,宇宙が誕生する瞬間まで到達する。 同時に彼女は自分が得た知識を人類に伝えるために未来のコンピュータを作る。 ルーシーの脳使用量が100%に到達した瞬間、ミスター場が彼女に引き金を引いたけど、彼女は跡形もなく消える。 そして彼女が得たすべての宇宙的知識はコンピュータによってUSBの形で保存され,ノーマン博士に伝わる。 ルシーを助けていた警察がミスター章を処断した後,彼女の行方を尋ねたとき,彼女は"私はすべての所に存在する(I am everywhere)"というメールを送る。

'ルーシー'はアクション映画のように見えるが,脳の神秘に注目したSF映画の性格が濃い。 リュック監督は,脳科学と人間の存在理由,鋭いアクションを混合し,人間の脳が持つ能力に対する想像を思う存分繰り広げてみせた。 銃撃神や自動車の逆走行動などの強烈なアクションと近代から先史時代,恐竜時代,広大な宇宙まで幅広い背景をリアルに描き出したコンピューターグラフィックは,この映画の白眉と言っても過言ではない。 しかし,リュック·ベッソン監督がルシーを通じて伝えたいメッセージは"人間の存在理由"に対する質問に答えることにあるかもしれない。 ルシーが自分が得た莫大な知識をどうすればいいかモルガン博士に尋ねたとき,彼は"生命の唯一の目標は自分が学んだことを伝えることだった"と答えた。 ルーシーは,自分を犠牲にして,そのすべての知識を人類の繁栄と発展のために伝えたいと考えている。

この映画は脳科学という独特の素材を創意的なアイデアと緻密な演出で立派に描き出した作品だ。 ルーシーの主人公であるスカレット·ヨハンソン(ルーシー役)の素敵なアクションと繊細な感情表現もとても立派で,モーガン·フリーマン(ノーマン博士役)とチェ·ミンシク(ミスター·チャン役)の演技も印象的だった。 しかし、この映画で最も印象深かったのはルーシーの脳使用量が100%に到達する際に演出された場面だ。

ルシーを見ながら道を通った瞬間,道人たちもこれと似たことを経験し,天地と一つになるだろう。 もちろん、人間の平均脳使用量が10%に過ぎないというのは一つの仮説に過ぎず、映画のように脳使用量が100%に到達したとしても道統は、そのレベルを異にということには異見がないものだ。

 

 

人工知能と囲碁棋士、イ・セドル9段との囲碁対決で人工知能の前にこの9段が否応なくされる場面をTVで視聴しながらたくさんの人が大きな衝撃に陥った。 ひいては"人間が映画のように人工知能によって征服されるのではないか"という気もした。 ある人は,これから人生の目標を設定するにあたって,コンピューターが人間よりうまい領域は避けなければならないと言った。 しかし、イ・セドル9段が人工知能がまだ計算しなかった弱点を捉え、一本をやっと勝つシーンを見て、'人間が到底超えられない壁のようだった人工知能をどうやって勝つことができただろうか。'と考えてみることになった。

論理的で数学的な計算能力は人間が人工知能にさいなまれる。 この分野でスーパーコンピューターはまさに神だ。 人間は人工知能にその場を譲るしかない。 しかし囲碁のように場合の数が拡大し,不確実性が極大化する領域では,人間が人工知能より優れていると考えてきた。 しかし,実際に対局を繰り広げた結果は,予想を覆すものだった。 囲碁は算術的計算と論理的な数読,全体の形勢判断などが必要な頭脳ゲームだ。 ここでの読み取りとは,具体的な形勢の中で行なった場合を一つの場合を心の中で考え,その結果を予\測して最も適した数を置くものである。

囲碁の流れが単純化すると,燕山能力がすぐれた人工知能が有利だが,一本勝ちで見られるように囲碁の形勢が複雑になって深い読み取りが必要な場合に集中力を発揮すれば,人間が勝てる可能性を見せてくれた。 形勢が複雑な場合,人工知能は確率で予測するため正確度が落ちるが,人間は正確な数を読むことで的中した数を見つけることができた。 ゲームで勝った後、この9段の一言は"そこしか数がありませんでした。"だった。 全体の数をすべて読まなければできない言葉だ。 このように的中した受難全体の形勢を読み終えてからこそ,見つけ出せる最も最適の数だ。 人工知能と人間の対決で現われたお互いの長所と短所を見て,後天の人尊時代に神と人間の調和と役割を考えてみることになる。

科学技術の発達は人間の理性的な側面,知能的な側面が人工知能に取って代わることを示した。 しかし,人間には良心と倫理道徳の恩恵がある。 知能が理性的な側面なら,倫理道徳は心霊的な側面だ。 人間に残った最後の砦としての霊的な倫理道徳は,人工知能に代替できないものだ。 上帝が"これからは人尊時代"と言って,正心と倫理道徳を強調した。 仁尊は天と地より人間が一番貴重だという意味だ。 仁尊時代は神黙於人であり,神明が人間に滅ぼされる時代だ。 墳という字の意味は,帝侯が天子から下賜された土地を"墳地"と言ったことから類推することができる。 この時,人によって磨いた仕事によって任された任務に耐える神明の護衛を受ける。 つまり,磨いたところにより上帝から運勢を奉る時,神明がその任務を全うするように応じるのである。 上帝が神道をおっしゃって,神命で公判を受け,神命で盗まれるといわれたのがこの点では早い。

仁尊時代に命事は天が任され,そのことの成事は人間にかかっている。 ここで天は上帝の主宰下の新明界といえる。 先天の進人事略とは違う "陳人士大天命"は,"謀事在人 成事在天"の時代に出た言葉で,人間ができる最善を尽くし,その性事は天の命にかかっているという意味だ。 しかし後天の人尊時代は神明が模写し,その聖事は人間にかかっている。 神明が人間に封じ込められ,神明が模写し,その聖事を人間が担う根拠と理由は,人間に天地の中央である心があり,天地人の中心に立って,的中した倫理道徳を実現することができるからだ。 上帝は"都は宇宙万象の始原であり,生成変化の法則であり,徳は人性の神脈であり,神脈は精神の原動力なので,この原動力は倫理道徳だけが新しい脈になるだろう"と仰った。 サンジェさんが後天には善で食べて生きる度数を絞ったと言った。(ギョボプ2枚55節)このように葬祭様は人をよくする線を実行する者が長い間、福を享受できるように度数を組んで給へりければ、インジョン時代は新人が調和して倫理、道徳で暮すことができる世の中なのだ。

"典經"に神明が運數位を見つけ,器局に試験をする例がある。それによると,神明が運輸の場所を訪れ,各家庭を出入りしながら器局に試験をするが,和気を失った者には,身名が大きな仕事を任せない器部だと言って嘲笑して去る。 神明は運數位を探す方法でその家庭に火気が存在するかどうかを試す。 これはすなわち和合の能力を意味し,包容する心の大きさを意味する。 よく考えや構想が大きいことを"泡布が大きい"という。 頭で考えるが,それを入れる器は心だからだ。

的中した数でなければ,多くの人を納得させることができず,不平と恨みが積もる。 もしかすると,和合は,的中した神の一手を探し出すことにかかっているかもしれない。 各自の置かれた状況によって的中した数は異なる。 経緯が変わるのだ。 したがって,これを探し出すということは,一瞬,私の前に近づいてくる事物を正しい心で観察する中で,理治の根源である太極(テグク)が事物と接する地点で会う的中した数を見つけることだ。 これは,すぐに正心だけが全ての理屈の根源である太極に到達でき,この心であっては数多くの場合が一つの原理に統合されて和合をさせることができるという意味だ。 これは,多くの事物と接しながら営む人間の生活の中で,倫理道徳の根源である"太極,すなわち大純真理"を求めて接続していく道である。 すなわち,タイ極という原理とパターンを人間史の具体的な現実に適用して実践していくことである。 人間史の中で大純真理を具体的に適用して実践していくことがまさに中独人であり倫理道徳の実現である。

後天の倫理道徳は,天徳と地徳と人徳を合わせた大徳だ。 中察人事による倫理道徳の実現は,身名のモットー事と人間の倫理的判断が結合した大徳の実現である。 人尊時代を迎え,今や倫理的に生まれ変わった人間は,この上なく貴重な存在であり,数多くの神明と共に後天の歴史を創造し,地上天国を建設する逆軍となる。 ポドクは中察人事による倫理道徳の常道を果たす道だ。 したがって,すべての修道人はあらゆる富と名誉に価値を置かずに,ただお葬の徳化をし,倫理道徳を実践して,人をうまく導くことに邁進しなければならない。

 

 

 

 

驪州本部道場の布正門には"開門納客","其數其然"の壁画があります。 "ドアを開けておくと客が入ってくるが,その数がそうだ"という意味の題名のように,壁画の中には開け放題のドアの中に数人の客が入ってくる姿が描かれています。 そのお客さんは,笠をかぶり,上品な医官を備えた士人の容貌を有するもので,昔から学者は志のある所に集まる人だそうです。 ところが壁画を見ながら妙にもその学者の数字が23人であるのに壇上が浮上して、文章で書いてみます。

23という数は、韓国のある道で重要な意味を持っています。 先に道主あなたが救國濟世の志を抱いて1917年に感悟得道ですが、この時道主さんは23聖シました。 『大順指針』には"道主が15歳の時奉天命して23歳に得道なる 太乙呪に本領合理を成し遂げたこと"としたが、これは23歳に感悟得道したのでは太乙呪が23者であることと関連が深いということです。 また、上帝さんは"金京訢は五十年勉強で太乙呪をもらう.その呪文を神明から得る時、多くの人を生かすという命令を受けもらう"(ギョウン1枚20節)とおっしゃいましたがこれは縁によって入ってくる多くの人に太乙呪を伝え、布德するという意味とも考えられます。

布正門の"布正"という言葉は"道を正しく広げろ"という意味でしょう。 このような布正門に開門納客其數其然の壁画が描かれたのは,直ちに布德天下の意味,つまり"天地大道を大いに正しく開けろという意味"ではないかと思われます。 したがって,遺命として宗通を受けた都事様が燕源の流れを正しく正覚して奉徳の真意に同感し,その志を胸いっぱい抱えたソンビの姿でこの道場に集まることを望まれたはずです。

上帝さんがキム・ヒョンリョルが食料が底をついてお客さんが来るのを苦しくされているので"開門納客に其數其然と一人なので人の家に客がたくさんきて一つなり"(空士3枚36節)とおっしゃいました。 天地大道に参加する意思のあるお客さんが入ってくるように,修道人は主人としての礼儀をわきまえ,手厚い礼遇で客を出さなければなりません。 これと共に23文字の太乙呪を伝えたら布德天下を成し遂げることができ、真心で上帝さんの德化を伝える時私たちも道通を受けられるはずです。 特に2017年は道主あなたが太乙呪に本領合理を成してから100年が過ぎ、都典さん誕降100年になる意味深い年です。 今,布正門を開放して入ってくるお客を誠意ある心で迎えるべきで,上帝さんが残した意思を実践するのに最善を尽くさなければなりません。

 

 

 

本当な人生と生の本質に向けた本源的な追求が,時には人間を修行の道に立たせる。 その道はよく日常の安楽さを後にして苦行し,私生活の楽しさを超えた厳粛さにある。 そのためか,一般的な認識の中で描かれた修行の姿は,普通の現実を乗り越えようとする神秘である。 苦行の遂行が持つそうした重さは,神秘と特別さで求道者を飾るが,その重さに耐えるために,求道者は,生の素朴な喜びと安楽を犠牲にすることを美徳として持つ傾向がある。

修行の高行的特性は,主に精神と肉体の関係に対する認識に起因する。 精神は純粋で高潔なものであり,肉体は濁り低級だと見る考えは,肉体を精神の束縛と見なし,肉体に苦痛を与えることでそのくびきを克服させるようにした。 このような苦行の方式は,下等宗教よりは高等宗教で発達してきた。 それは精神と肉体に対する高度の抽象的な事由を通じて得られた二元的観念が高等宗教で主に体系化されたからである。 このような霊と肉の二元化がその二人の間の位階を分け、片方が他方に一方的に犠牲することになる結果を生んだのだ。 このような精神と肉体の二元的観念のほかに、人生は苦痛と楽しさの二つの側面が交互に循環することなので、今後への楽しさを確保するため、現在を、苦痛で補充しなければならないという苦行の信念がある。 これもまた,苦痛と楽しさ,そして現世と来世の二元的観念に起因し,楽しさを人生の目的に置いて現世を苦痛で満たし,その対価として来世の楽しさを約束してもらう。

高等宗教の中で,苦行遂行が最も活発で多様に流行した宗教は,断然ヒンドゥー教だ。 インドのヒンズー教の苦行を"タパス(tapas)"と言うが,苦行のやり方も多様だ。 例えば断食,火の上を歩くこと,引き続き片足を持って立っていること,灰や棘·牛の糞の上に横になること,頭や爪を切らないことなどがある。 現在もインドには禁欲としての苦行を通じて、来世に、天上で生まれるという信念で、自分の生命を絶つ苦行者が少なくなく、乞食だけに依存して生活する苦行者も500万人にのぼるという。

西洋にも苦行の姿がある。 10世紀から12世紀後半まで欧州の宗教的影響力の中心を成したフランスのクルルィニ修道院は特に苦行的宗教的慣習が多かったことがよく知られている。 断食,禁欲,清貧といった苦行は高い段階の遂行と認識され,このような修行を行ない,克服する人々を世人たちは仰ぎ見て尊敬した。

肉体的欲望の節制を通じて,精神の高揚と道徳的境地への志向は,宗教が持つ人間の理想性実現に対する積極的な行為という点で,苦行はある程度その価値を認められた。 だが,本来の宗教的趣旨を忘却して手段としての苦行そのものが目的に変質し,盲目的な方向に流れる傾向もなくはなかった。 肉体に対する虐待と忍耐を修行の境地と考え,肉体から始まる人生の生理と喜びを無視したことで,人間社会の常識と身体的生活の地盤が崩壊することもできた。 したがって,苦行のこのような極端な側面に対して,ヒューマニズムに基づいた近代的宗教では,人間の肉体的生活を尊重し,それを保護する中で遂行を人生の安定と結び付けようとした。

一方,仏教の釈迦は解脱に至る前,師匠と修行者とともに苦行修行をし,前世にも様々な苦行したという話がある。 しかし,彼はそうした苦行の極端がむしろ人間を苦痛のくびきに陥ると見て,苦行遂行から中途の遂行へと進むようになった。 彼の教えどおり,仏教では苦行を六種苦行外道や宿作外道といい,正しい修行方法とは思わない。

このような事実から考えると,修行は人間と生命の愛をその根にしなければならないことが分かる。 修行は,今この瞬間に呼吸する人間の生から始まり,仕上げもその中で行われる。 来世のために現世の人生と肉体を軽視したり,肉体から来る生の素朴な喜びを低級だと考え,顔を背けることは,まさに肉体と現実に対してほめたたえる。 修行とは,人間の肉体的生活と精神的理想の位階を設けるのではなく,一つの価値に合わせることである。 生命を軽んじて日常の生活を脅かす修行は,自分の身体と身体を通じて行われる暮らしの良識を没価値にする危険がある。 宗教の遂行過程でこのような極端な信念が,個人と社会を混乱に陥れた例はいくらでもある。したがって治癒としての遂行は,人間に与えられた性向を押さえつけ,人為的に裁断するのではなく,認定と開放で均衡と調和をなすことだ。 そうすることで,人間の世の苦痛を乗り越え,自分と万物に対する愛から始まった治癒としての修行をしなければならないだろう。 苦痛に追い込む極端な遂行よりも,治癒の意味として"私とお互いを大切にする共存"の遂行が,私たちが進むべき道ではないだろうか。

 

 

昔,イギリスの北の海でニシンを捕まえて生計を立てている漁師たちに大きな話題があったが,それはどうすれば北海から遠い距離にあるロンドンまでニシンを新鮮に送り,高価でニシンを売ることができるかということだった。

当時,ニシンは英国人が特に好きな魚だったので,ロンドンまでニシンを新鮮に維持したまま持って行けるのなら,大金を儲けるのはやめたも同然だった。 しかし,漁師たちがあらゆる知恵を出し,いくら試みたとしても,船がロンドンに到着する頃なら,百面百もニシンがほとんど使えなくなって死ぬ一歩手前の状態だった。

ところがあるある漁師は,"北海で獲れたニシンを,本当に生き生きと生きたままロンドンに持ってきて,高値で売って,一人で大きな利益を得ていた。 彼の知る仲間の漁師がその秘法について聞いたが,彼は"自分だけの秘密"だと決して教えなかった。

そうしてある日,本当に辛く生きていくある仲間を哀れんだ漁師は,その同僚に自分の秘法をこっそり教えてあげた。

その同僚の漁師は目を見張るような様子で"それでうめがニシンを全部とらえない?"と質問した。

その漁師は"そうだよ,初めは当然何匹のニシンを口にすることかな。 しかし,たったの何匹だけなの。おもしろいものは,残りの生きているニシンたちは,そのナマズをあちこち避けようと,みんなしっかりしているから,結局そのうなぎのために,生きているニシンを全部新鮮にしてくれたんだから!"

この'ニシン話'はイギリスの有名な歴史学者、トインビー(1889~1975)が彼の講演で話した内容です。 トインビーは歴史の連続性や反復性に対する認識の下、世界史28つの文明の発生と成長、解体の過程を比較分析して不朽の名著である『歴史の研究』12冊を27年間、著述する偉業を打ち立てました。

歴史学者ヘロドトス(紀元前480?~420?)が"エジプトはナイル川の贈り物だ"としたようにエジプト文明は毎年経験するようになるナイル川の氾濫のために太陽力や幾何学、建築術、天文学が発達したというが、これをトインビーは'挑戦と応戦'の原理で説明しました。

歴史的に自然環境の良い国は,常に発展で遅れ,古代文明と世界宗教の発祥地は,すべて厳しい地でした。 トインビーは過酷な環境にうまく適応した事例としてエジプト文明,スメール文明,ミノス文明,インド文明,アンデス文明,中国文明を聞きました。 一方,インカ文明,マヤ文明,メソポタミア文明などは,歴史の裏に跡形もなく消え去りました。 トインビはこの部分に注目し,自然災害や外勢の侵略のような深刻な挑戦を受けた文明は,これまで輝かしく発展してきているが,そのような挑戦を受けていない文明は自ら滅びていたと結論づけました。

この挑戦と応戦の原理は歴史観だけでなく,私たちの暮らしの中にもそのまま適用されます。 私たちが生きていく人生がまさに挑戦と応戦です。 トインビは,まさにこのような生活の原理を歴史の研究を通して理論化したものです。 人類の歴史は人間個人の生き方でもあります。 私たちは共同体の中で社会生活をしながら人生を営んでいきます。 個人の運命は共同体の運命と密接な関連があります。 これは人間が社会を離れては生きられない理と同じです。

"挑戦とは,私たちの生活において異なるものではなく,私たちが経験する試練と苦痛です。 試練と苦痛ということも一つの認識であって実体があるわけではありません。 ただ,経験があるだけなのに,それを経験する人間がある人は辛いと感じ,ある人は大変だが耐えられると思うし,ある人はその中で喜びと教訓を見つけます。 これを応戦と言います。 これが人間が感じるようになり応戦の三つの側面です。

応戦に対する三つの人生の態度は、道の尋牛図に例えると面イスジ(勉而修之)と聖地優性(誠之又誠)、道統、チンギョン(道通眞境)の違いです。 深雨はそっぽを向く環境を表わすのではなく,まさに私たちの内面的な心の状態を表わすことを自覚する必要があります。 すべてが心の境地を現す象徴的な絵です。

トインビの挑戦と応戦の法則は,私たちが深く熟考するに値する生の真実です。 歴史的統計でそのような法則を発見したのは,トインビーの偉大な業績なので,簡単に見逃してはならないでしょう。 一人の学者がそのような真理を発見することは至難な過程があったことを忘れてはいけません。 誰でもそのような真理を世の中に表に出せるものではないことを知るべきです“

上帝はすべてのことにその目的を達成しようとする過程には必ず障害があるのが当然ですが,これを"劫厄"と言うといい,劫厄を克服していくのに成功したことを知るべきだといわれました。 大勢の人がこの劫厄して自暴自棄することから脱線して目的を達成できず,中島で前途を塞いでしまう場合が多いと言われ,何事にも"劫厄を克服!"と言いました。

人生の狂風はいくらひどくても一時的なものに過ぎません。 黒い雲の裏にはいつも太陽が光っているということを忘れてはいけません。 傷ついた貝が真珠をつくります。今日の逆境が明日の成功の土台であることを私たちは体験的によく知っています。 鋼鉄はどのように鍛えられるのか,そしてどのように名剣に生まれ変わるのかを私たちはよく知っています。 上り坂があれば下り坂があり,引き潮があれば満ち潮があって,必ず船を出すことができる日が来なければなりません。 厳しい時でも成功の時でも"また過ぎ去ること"です。 辛いからと落胆しないで,小さな成就に自慢しないで,食べた心を再び食べて休まず進んだ時,運輸もそこにあるし,図統もそこにあるし,地上天国の道もそこにあります。

今この瞬間,私に任された職分に誠·敬·信をまっとうし,正心立義と求心霊し,すべてを上帝の任意に任せています!

 

 

最近,ヒーリングに関するテレビ番組が,かなり多い。

多くの人がこうしたヒーリング放送に熱狂する理由は"代理満足"にある。 テレビ画面の中に見られる美しい自然風景と余裕のある演技者の姿に感情移入し,心が安らぐのを感じる。 たとえ,代理満足で満たさなければならないインスタント·ヒーリングだが,直接離れることができない現実のため,適当に妥協してみる。 インスタントな食べ物で空腹を満たすように,インスタント·ヒーリングで心理的安定感を満たして生きていく現代人の自画像が,一見愉快に見えるが,背中におおわれた影は隠す方法がない。

ヒーリングを普通"治癒すること"と言う。 心身が不安な状況を癒し"安心の状態"に戻すこと,すなわち安心の状態を追求することだ。 安心は自らの心から顕在する。 人が安心を感じるためには"目的達成"という自己満足感がなければならないからだ。 旅行に行ってヒーリングを受けるためには直接旅行に出なければならないし,感動でヒーリングを受けるためには感動的な映画や本を読まなければならない。 朝寝坊したり,テレビを視聴したり,大声で歌を歌うなどの簡単な方法でも満足感が得られる。 このような満足感で得られる安心は,他人と共にすることはできるが,代わりにすることはできない。 主体が自分自身であるからだ。安心を得るための自分の課題は,太乙呪に自ら癒すことである。

大巡真理会でも安心を語っている。 社会で言うヒーリングとしての安心は"安らかな心"を追求するという点で大順真理会の安心と共通点を持つ。 しかし,もう少し詳しく見ると,解釈の違いがある。 大巡真理会の安心とは,良心と私心間の葛藤を克服し,良心を保存して心が安らかな状態をいう。 安心するためには"安らかな心"を維持することだけでなく,欲心をよく治めて無欲清浄な暮らしを実践しなければならないのだ。 このような意味で,大巡真理会の安心は,ヒーリングが持つ心身の治癒概念を含んだまま,倫理的人間像を追求するという点で,より理想的だと言える。

多くの人が善を追求する。善という道徳的基準の最も理想的な価値を意味する。 善が満ちている世の中では不正に感情を消耗する必要はない。 お互いを理解し,思いやり,譲歩し,徳を施す状況で自然に互いを癒し,ヒーリングする。 しかし,現代社会の現実はそうではない。 "無限競争"の現代社会の病理的現象が次第に高まり,ヒーリングを求める声も次第に高まっている。 結局,こうした現象も善の不在から始まったのではないかと思う。 この時,大順真理会の安心は,ヒーリングが持つ治癒の意味を超えて,完全な人間像,すなわち,自分の本性を回復した善良な人生を目指すという点で,現代人の傷を癒す有用な処方箋になり得る。

ヒーリングとしての安心は,抱徳天下·光済創生の大義に起因している。 しかし,これを世間の人たちに伝え,イシュー化させるのはまだ容易ではない問題だ。 安心を得るための"ヒーリング"が自分の課題だと先に言及したように,大巡真理会の安心を説くのも,完全に首都人が解決しなければならないためだ。 人が準備するヒーリングの中に太乙呪が溶け込んだ安心の席がもう少し増えることを望む。

 

 

世界経済フォーラムの創立者であるクラウス・シュバプ(Klaus Schwab)会長が過ぎた2016年'ダボス世界経済フォーラム'で4次産業革命を言及して以来、これに対する各界各層の議論と関心が、内外で熱い。 4次産業革命は1次機械化、2次産業化、3次情報化とは、三回の産業革命を経て'知能化'という新たな産業技術の急激な変化と発展を意味する。 我々が直面した世の中は人工知能(AI:Artificial Intelligence)、ビックデータ(Big Data)などの知能情報技術に触発された高度の技術社会に進入しており、これがすなわち4次産業革命時代だ。

4次産業革命時代ではこれまで人類が開発した全ての技術が融合して一次元高い技術が誕生するという。 代表的に人間と人工知能ロボットの融合,現実と仮想世界の融合,工学と生物学の融合,センサーと人間の融合で全く違う次元へ人間の限界を拡張するとしている。 このような技術の発達は私たちの暮らしを大きく変化させるだろう. 人の仕事を人工知能に代わって,治せない病気がなく,寿命が大きく延びる。 食べ物や着るものなど,生活を領有することへの悩みはなくなるだろうという見方もある。 ただし、技術の飛躍的な発展を人間の精神世界つまり、倫理的な部分がついていけるかという意見が持ち上がったことによって4次産業革命は両刃の剣という憂慮を生んだりもしている。

人間の精神的成熟を高めるための試みは,教育界の関心分野でもある。 競争的構造において上位に位置する少数だけが名門大学に入れる現在の教育構造は,学生を利己主義に染めさせている。 これを解決するための人性教育が必要だという声がますます大きくなっている。 人間とロボットの境界が曖昧になるという4次産業時代にもかかわらず、結局その主体は人間だ。 人間の倫理的成熟が,超先端技術時代の平和的方向性を決定することになるという話だ。

4次産業革命はさまざまな分野の技術を融合するその内在的な要素に'連結'が核心です。 連結により,現実とサイバー世界が融合し,スマートセンサーの発展により,家,交通,医療,都市などが人間に繋がります。 このような変化が我々を新しい世界に導くことにより,興味深く安楽で楽な世界へ案内することもできますが,プライバシーの侵害や"人間"のアイデンティティを失うことで,さらなる社会問題を呼び起こすこともできます。

4次産業革命を'融合革命'と言うが、ここにはデジタル世界と現実世界の融合という意味もあるが、'自律走行車'の事例で見られるように人工知能、電子制御技術、機械工学、通信工学など各産業の高度化された技術が融合して人々に便利な新分野が作られているという意味でもある。 これは,秋の風に万物が成熟して実を結ぶように,これまで科学と産業など多くの分野で発展してきた多くの成果が相まって,人間生活がより便利な文明に生まれかわると理解される。

上帝任が,宗徒に"西洋人が発明した文明をそのままにしておけば正しいか,歩けば正しいか"と問うと"その通りにおかれ,利用艦が創生の片意になります"という返事を聞いた後,その言葉を正しいと告げ,"彼らの機械は天国のものを見習うことか"と問うのを考えてみると,新しい文明の急進的発展に対して恐れるのではなく,私たちがそのような文明をどうやって道徳的,倫理的に活用することができる。 多くの分野で人工知能とロボットが人に取って代わるようになる状況で,人々は単純労働から脱して人間本来の姿に関心を持つようになり,"人間というものはどんな存在なのか"と問う人間アイデンティティに対する混乱と悩みが結局人類が霊性に目覚めるきっかけを与えてくれるのではないかと考えてみる。

 

 

上帝は"私は天も改め,地も改め,人にも神明に胸の中に出入りさせ,すべて改めよう。 だから私は弱く,病んで,貧しく,浅く,愚かな者を痛めるので,たとえ草木でも,気を付けると書けるようになるからだ"とおっしゃった。(ギョボプ3枚1節)

上帝様は開闢長としていらっしゃって天地公使を見ました。 天地工事は別の言葉で"三界公事"といい,天地である三界を開闢する工事です。 公社の内容を見ると,名簿と宗長を新しく任命し,各地域を担当する神名を変え,度数を新たに構成するなど,様々な工事を行いました。 これによって天地図数は相生の原理によって動き,神明もこれに合わせて動くようになりました。 仁尊時代を迎え,人間には神明と調和し,上帝がなさった天地工事の仕事を実現しなければならない使命が与えられています。 しかし,人間はこのような神明界の変化を知らないまま,先天の上克的な環境によって生きてきた習性どおり生活をしています。

人間が神明と調和し,天の仕事をするためには首都の課程が必要です。 "首都は,神明に人間の胸の中を行き来させ,心を正しく使う過程です。 ここで注目すべきは,上帝が書き直して使う人間が,弱く病気にかかって貧しく,浅くて愚かな人たちだという点です。 サンゼさんが"私はただ心を見るだけだ"と言いました。 サンジェ様がこの人たちを直して使うのは,ただ外見的に表れた姿よりは,彼らの心のためと言わなければなりません。

上帝が探して使う人に関する内容は,次の"戦闘警察"の句節にもよく表れています。 "富貴の者は貧賤を好まず強い者は弱いのを好まず賢明な者は愚かさを楽しまないので、したがって、貧賤て病んで愚かな者が必ず私の人なり"(ギョボプ1枚24節)とした一節がそれです。 ここで貧天と弱さ,愚かさを楽しむという意味が何でしょうか?

まず"貧天を楽しむ"ということを理解する前にこれに似ているもので,安貧楽道の意味を調べる必要があります。 苦しい生活をしながらも,楽な気持ちで自分の噴水と道を守るという意味です。 これは心の境地でもあります。私心と良心の葛藤の中で良心を守り道に止まる喜びを知っているのです。 物欲を追い求めてから来る苦痛で時間を無駄にするよりは,気楽に過ごした方がいいという自覚でもあります。 金持ちは一生を生きていくのに必要な理想に財物を集めた者です。 見物生心という言葉があるように,人々は財の前に物欲が生じ,それを取るために個人的には互いに競争し,国家的には戦争も厭わなかったのです。 その過程で良心と道徳は消え,物欲によって発動する邪心に駆られるようになります。 サンジェ様がお金持ちはビンチョンを楽しむことができないとおっしゃって, また,富豪の所々には活気と災難が溢れており,大きな運輸は手に負えないとのことです。 身命が胸の中に出入りし,人を直そうとするとき,殺気と災いが邪魔になるからです。 したがって"貧天を楽しむ"ということは,殺気と災いが満ちた財物を追求するより良心と道徳を重視する生活態度なのです。

'弱いことを楽しむ'は意味は葬祭様がよく覚えておけとした詩の"チョセユの上耳(處世柔爲貴:世渡りしさには柔らかくすることを大切にして)カンカンシ画記(剛强是禍基:強く頑丈なのは化の土台となる)"(ヘンロク3枚49節)を通じて理解して見ることができます。 やさしく処世すれば,相手が私の言葉によく耳を傾けるようになり,その結果,疎通がうまく行って和合の土台になります。 これに反して強く処世することは,芽生えもしようとしていたことに障害が生じ,前途を塞いでしまう結果をもたらします。 強くて強いのは,禍の根源として人にツンをさせる恐れが大きいからです。 このような観点で,弱さは柔らかいことで理解でき,弱いものを楽しめば万事が順調に行われます。

上帝さんが"富貴の者は自慢自足するが、貧窮した者は私の境遇を私が思って道成德立を一日も早く待ちながら運輸が苦しい時ごとに私を考えてくれるだろうから彼らが私の人なり。"(ギョボプ2枚8節)と言いました。 ここで貧窮している者は,愚かで弱い者を含んで言った言葉です。 このような人は運勢がきつい度に上帝を思う敬天の生活態度を大事にしているため,彼らが上帝さまであるのです。

このように"上帝様"が"書き直したい"と列挙した人々を見ると,自分のことは棚上げにせず,良心を欺かない"無自己"の心,"礼"を言わない心,和合しようとする心,敬天の心,神明と調和しようという心などで大純真理を実践する態度が見られます。 その過程で,運命が人間の胸の中を行き来しながら性格と体質を直すことになります。 神明が胸の中に入ると,人間が神明と調和して調和を成すが,これがまさに神人調和だと思います。"太乙呪"を通じて新人の調和になったのは,それだけ人間が改造されたという意味です。 このようにして改造された人間は天の志を地上に実現し,上書きが緑化する地上仙境を開く主役なのです。