本当な人生と生の本質に向けた本源的な追求が,時には人間を修行の道に立たせる。 その道はよく日常の安楽さを後にして苦行し,私生活の楽しさを超えた厳粛さにある。 そのためか,一般的な認識の中で描かれた修行の姿は,普通の現実を乗り越えようとする神秘である。 苦行の遂行が持つそうした重さは,神秘と特別さで求道者を飾るが,その重さに耐えるために,求道者は,生の素朴な喜びと安楽を犠牲にすることを美徳として持つ傾向がある。

修行の高行的特性は,主に精神と肉体の関係に対する認識に起因する。 精神は純粋で高潔なものであり,肉体は濁り低級だと見る考えは,肉体を精神の束縛と見なし,肉体に苦痛を与えることでそのくびきを克服させるようにした。 このような苦行の方式は,下等宗教よりは高等宗教で発達してきた。 それは精神と肉体に対する高度の抽象的な事由を通じて得られた二元的観念が高等宗教で主に体系化されたからである。 このような霊と肉の二元化がその二人の間の位階を分け、片方が他方に一方的に犠牲することになる結果を生んだのだ。 このような精神と肉体の二元的観念のほかに、人生は苦痛と楽しさの二つの側面が交互に循環することなので、今後への楽しさを確保するため、現在を、苦痛で補充しなければならないという苦行の信念がある。 これもまた,苦痛と楽しさ,そして現世と来世の二元的観念に起因し,楽しさを人生の目的に置いて現世を苦痛で満たし,その対価として来世の楽しさを約束してもらう。

高等宗教の中で,苦行遂行が最も活発で多様に流行した宗教は,断然ヒンドゥー教だ。 インドのヒンズー教の苦行を"タパス(tapas)"と言うが,苦行のやり方も多様だ。 例えば断食,火の上を歩くこと,引き続き片足を持って立っていること,灰や棘·牛の糞の上に横になること,頭や爪を切らないことなどがある。 現在もインドには禁欲としての苦行を通じて、来世に、天上で生まれるという信念で、自分の生命を絶つ苦行者が少なくなく、乞食だけに依存して生活する苦行者も500万人にのぼるという。

西洋にも苦行の姿がある。 10世紀から12世紀後半まで欧州の宗教的影響力の中心を成したフランスのクルルィニ修道院は特に苦行的宗教的慣習が多かったことがよく知られている。 断食,禁欲,清貧といった苦行は高い段階の遂行と認識され,このような修行を行ない,克服する人々を世人たちは仰ぎ見て尊敬した。

肉体的欲望の節制を通じて,精神の高揚と道徳的境地への志向は,宗教が持つ人間の理想性実現に対する積極的な行為という点で,苦行はある程度その価値を認められた。 だが,本来の宗教的趣旨を忘却して手段としての苦行そのものが目的に変質し,盲目的な方向に流れる傾向もなくはなかった。 肉体に対する虐待と忍耐を修行の境地と考え,肉体から始まる人生の生理と喜びを無視したことで,人間社会の常識と身体的生活の地盤が崩壊することもできた。 したがって,苦行のこのような極端な側面に対して,ヒューマニズムに基づいた近代的宗教では,人間の肉体的生活を尊重し,それを保護する中で遂行を人生の安定と結び付けようとした。

一方,仏教の釈迦は解脱に至る前,師匠と修行者とともに苦行修行をし,前世にも様々な苦行したという話がある。 しかし,彼はそうした苦行の極端がむしろ人間を苦痛のくびきに陥ると見て,苦行遂行から中途の遂行へと進むようになった。 彼の教えどおり,仏教では苦行を六種苦行外道や宿作外道といい,正しい修行方法とは思わない。

このような事実から考えると,修行は人間と生命の愛をその根にしなければならないことが分かる。 修行は,今この瞬間に呼吸する人間の生から始まり,仕上げもその中で行われる。 来世のために現世の人生と肉体を軽視したり,肉体から来る生の素朴な喜びを低級だと考え,顔を背けることは,まさに肉体と現実に対してほめたたえる。 修行とは,人間の肉体的生活と精神的理想の位階を設けるのではなく,一つの価値に合わせることである。 生命を軽んじて日常の生活を脅かす修行は,自分の身体と身体を通じて行われる暮らしの良識を没価値にする危険がある。 宗教の遂行過程でこのような極端な信念が,個人と社会を混乱に陥れた例はいくらでもある。したがって治癒としての遂行は,人間に与えられた性向を押さえつけ,人為的に裁断するのではなく,認定と開放で均衡と調和をなすことだ。 そうすることで,人間の世の苦痛を乗り越え,自分と万物に対する愛から始まった治癒としての修行をしなければならないだろう。 苦痛に追い込む極端な遂行よりも,治癒の意味として"私とお互いを大切にする共存"の遂行が,私たちが進むべき道ではないだろうか。