「怨霊と呪術」その18

 

 平安京は徹底した風水都市であり、多層な呪術によって護られている。京都御所の鬼門の角はヘッこんでおり、その延長線上には比叡山延暦寺が配されているというのは有名な話だ。しかし、平安京はそれ以上に、複雑で綿密な風水の呪法の組み合わせによって創られた計画都市である。

 

 

 まず、都が山城の地へ引越した経緯からおさらいしておこう。もともとは朝廷内での改革派と守旧派の勢力争いによる、長岡京への首都移転計画が発端だった。しかし長岡京が完成する間際、皇太弟だった早良親王の謀反が発覚。これを知った桓武天皇が激怒し、その騒動の最中に早良親王は、非業の死を遂げてしまう。問題はその後であった。完成した長岡京に引越したが、とたんに天変地異が勃発、これは早良親王の怨霊の祟りに違いないと恐れた桓武天皇は、宇佐八幡の神官でもあった和気清麻呂に命じて神託を受ける。その結果、山城の地に都を再度移すことになる。

 その際、京都へ下見に行った時の様子が「日本後記」に
「この国は、山河襟帯、自然に城を作す」と記述されている。「山河襟帯」とは、中国の歴史書「史記」に、四神相応の地という意味で使われている言葉である。つまり都の移転先である山城の地は、中国の風水で言うところの四神相応の地であると報告しているのだ。しかし、これは表向きの話で、平安京への遷都は「山城派」と呼ばれる人たちによる計画であった。

 

 

 江戸はこれまでも書いてきたように、天海大僧正による呪術によって設計された都市である。平安京の船岡山に信長の首を埋め、信長の怒りのパワーで北朝天皇家を守るよう配しながら、江戸は徳川家のための多層的な呪術を施したが、風水としての江戸の設計には平安京と同じ四神相応が当たられている。但し、平安京とは少々気の流し方が異なっている。

 

 以下の画像を見ると、徳川の気の流れをグルっと回して、各街道につなげて全国へ広げながら、さらに最終的には東京湾に穢れが流れ込むような仕掛けになっている。さらに、鬼門と裏鬼門もダブルで抑えている。鬼門は「丑寅」だが、丑の角度の上には神田明神と東叡山寛永寺を配置し、寅の角度の上に浅草寺が配されている。裏鬼門も同様に、未の角度に徳川家の菩提寺・芝の増上寺を、申の角度に山王鳥居のある赤坂の日枝神社を配して守護している。

 

 

 天界の場合、家康のパワーを愛知県から静岡、富士山頂上を経由させて日光へと送り込み、そのパワーが真南の江戸に送り込まれる仕掛けとなっており、さらに江戸の中には平将門の北斗七星魔法陣が配されていた。これは平安京にはない呪術的な結界であるが、そもそも天界は仏教系八咫烏で物部氏である。平安京の呪術は秦氏によるものだ。この秦氏による呪術都市・平安京の守り神となったのが陰陽師だったが、宗家である賀茂氏、賀茂氏に育てられた安倍晴明の末裔の2家による支配は、あくまでも天皇家と貴族のためのものであったため、やがて一般民衆は正式な陰陽師とはことなる在野の陰陽師を求めるようになる。

 

 

◆ヤミ陰陽師の出現と律令制の崩壊

 

 延喜元年(901年)以降、陰陽寮の宮廷陰陽道化は更に進み、陰陽寮の外の人物が天文・陰陽・易・暦を習得。門外不出の国家機密政策はこの頃には破綻していた。やがて平安中期以降、摂関政治や荘園制が蔓延。律令体制が更に緩むと、堂々と律令の禁を破伴って陰陽寮所属の官人ではない「ヤミ陰陽師」が私的に貴族らと結びつき、彼らの吉凶を占ったり災害を祓うための祭祓を密かに執り行い始めた。

 

 こうした流れにより、場合によっては敵対者の呪殺まで請け負うような風習が横行するようになる。陰陽寮の正式な陰陽師にもこの風潮に流される者が続出。職掌からかけ離れ、方位や星巡りの吉凶を恣意的に吹き込むことによって天皇・皇族や、公卿・公家諸家の私生活における行動管理にまで入り込み、朝廷中核の精神世界を支配し始め、正規業務を越えて政権の闇で暗躍するようになっていった。

 

 こうした話を聞くと、怪しげな占い師が芸能人の心を支配し、ひたすら金を貢がせるというのと同じようなことが平安時代にも起きていたということだ。まぁ、陰陽師も所詮は人間である。全員が特別な能力をもっていたわけではないし、なにせ陰陽師も官僚である。今の官僚も金や地位のためには、平気で敵対勢力を陥れ、有力政治家に媚を売る者たちがいるのと同じだ。 また、本来禁止されている陰陽寮以外での陰陽師活動を行う者が都以外の地方にも多く見られるようになり、地方では道摩法師(蘆屋道満)などをはじめとする民間陰陽師が多数輩出されることとなった。

 

 

 律令制の完全崩壊、そして戦国時代後の豊臣秀吉による弾圧にともない、陰陽寮と官人としての陰陽師はその存在感を喪失する。だが、逆にそれまで建前上国家機密とされていた陰陽道は一気に広く民間に流出し、全国で数多くの民間陰陽師が活躍した。このため、中近世においては陰陽師という呼称はもっぱら民間で私的依頼を受けて加持祈祷や占断などを行う民間陰陽師を指すようになり、各地の民衆信仰や民俗儀礼と融合、それぞれ独自の変遷を遂げた。

 

 また、漂泊する民間陰陽師は他の漂泊民と同じく賤視の対象とされ、時に「ハカセ」と呼ばれたが、陰陽師を自称して霊媒や口寄せの施術を口実に各地を行脚し高額な祈祷料や占断料を請求する者も見られるようになり、「陰陽師」に対してオカルティックで胡散臭いイメージが広く定着することとなる。まさに現代と同じである。まるで1分間だけでも10万円を要求した細木数子みたいなものだ。歴史は繰り返す。何度も繰り返すのである。

 

 だが、播磨国から吉備国にいたヤミ陰陽師たちには別の呼び名があった。それは「上原」である。問題はこの「上原」の読みである。それはなんと「かんぱら」だという。「かんぱら」とは裏陰陽道「迦波羅」(カバラ)の呪術師「漢波羅」(かんぱら)のことである。となると、蘆屋道満を筆頭とする在野の陰陽師には、物部氏系の呪術師が多数存在したこととなる。

 

 

 秀吉が薨じ、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍が破れ、豊臣家の勢いに翳りが見ると、晴明の末裔である土御門久脩(ひさなが)は徳川家康によって山城国乙訓(おとくに) など広範にわたる177石6斗の知行を与えられて宮中へ復帰、慶長8年(1603年)に江戸幕府が開かれると、土御門家は幕府から正式に陰陽道宗家として認められ、江戸圏開発にあたっての施設の建設・配置の地相を担当、後の日光東照宮建立の際にも用いらる。

 

 また、幕府は風説の流布を防止するのと民間信仰を統制する目的で、当時各地で盛んになっていた民間陰陽師活動の制御にも乗り出し、その施策の権威付けのため陰陽家2家(賀茂・安倍)を活用。存続していた土御門家に加えて、断絶していた賀茂家の分家幸徳井家(こうとくいけ)を再興させ、2家による諸国の民間陰陽師支配をさせようと画策した。

 土御門家勢力は天和2年(1682年)に幸徳井友傳が夭折した機会を捉え、幸徳井家を事実上排除。陰陽寮の諸職を再度独占するとともに、旧来の朝廷からの庇護に加えて、
江戸幕府からも唯一全国の陰陽師を統括する特権を認められ、各地の陰陽師に対する免状(陰陽師としてではなく「陰陽生」の免許)の独占発行権を行使、後に家職陰陽道と称されるような公認の家元的存在となって存在感を示す。

 

土御門家が発行した免許

 

 土御門家はの陰陽道は外見に神道形式をとることで「土御門神道」として知られるように至り、土御門家は絶頂期を迎える。戦国時代では各大名家に召し抱えられる形で混乱期を乗り越えた陰陽師たちだったが、なかなか食うに困る状況が続き、さらに秀吉の時代には顧みられることのなかった陰陽道も、江戸幕政下で盛り返したのである。が、あくまでも表である。

 

 そもそも安倍晴明は平安京の最高権力者、藤原道長を護っていた。が、それは表である。裏側では風水都市「平安京」をさらに呪術で護った存在である。そして、重要なのは晴明流の奥義を加えて「陰陽道」をまとめあげたことである。だからこそ、それを真似する者たちが続出したのである。その奥義書を『三国相伝宣明暦経註』(さんごくそうでんせんみょうれきけいちゅう)ともいい、『簠簋内伝金烏玉兎集』(ほきないでんきんうぎょくとしゅう)とも称される。この『簠簋』(ほき)とは、「簠=竹甫皿」、「簋=竹艮皿」で、古代中国で用いられた祭器の名称である。

 問題は
「金烏」である。金烏は太陽に棲むとも太陽の化身とも言われる三本足の金の烏であり、太陽を象徴する霊鳥である。玉兎は月に棲むとも言われるウサギで、月を象徴する。つまり陰陽であり、すなわちこれは気の循環を知り、日月の運行によって占うという陰陽師の秘伝書であることを象徴している。が、金烏(きんう)とは「金鳥」(きんちょう)であり、金鵄(きんし)である。裏陰陽道「迦波羅」(カバラ)の呪術師「漢波羅」秘密組織「八咫烏」の3人の首領のことである。

 


『簠簋内伝金烏玉兎集』

 『簠簋内伝金烏玉兎集』の著者について、晴明の死後に編集されたものであるため晴明ではないという説も強い。江戸中期の「泰山集」に当時の安倍家宗家の当主であった安倍泰福の言葉として
「簠簋内伝は真言僧が作ったものであり、安倍家伝来のものではない。晴明が伝授したのは吉備真備が入唐して持ち帰った天文だ」という言が記載されているという。また、「日本陰陽道史総説」によれば、著者は晴明の子孫にあたる祇園社の祠官とみなしている。晴明の子である安倍吉平の後、安倍家は時親、円弥、泰親の3流に分かれていり、その中の円弥の子孫が祇園社に入ったらしく、さらにその子孫の晴朝が簠簋内伝の著者ではないかとしている。

 

 『簠簋内伝金烏玉兎集』は、全5巻で構成されている。第1巻は牛頭天王の縁起と、様々な方位神とその吉凶を説明しており、第2巻は世界最初の神・盤古の縁起と、盤牛王の子らの解説、暦の吉凶を説明している。これらは全てヤハウェ=スサノウの縁起を示している。第3巻は1、2巻には書かれなかった納音、空亡などが説明されており、第4巻は風水、建築に関する吉凶説を、第5巻は密教占星術である宿曜占術をのべている。1〜3巻と、4〜5巻はあきらかに異質である。最初に1〜2巻が書かれ、それの増補として3巻が加えられ、それに、別個に成立したと思われる本が加えられ、これが4巻、5巻であったと考えられている。

 

 ここに暗号がある。金烏=金鵄=物部系八咫烏が伝えてきた奥義と、玉兎=秦氏系八咫烏が伝えてきたものを合体させた象徴なのである。烏=黒=陰、兎=白=陽で、陰陽を表し、太陽=生、月=死を象徴。創造神ヤハウェの顕現から現人神イエス・キリストの降臨、その死と復活の奥義を伝えているのである。簡単に言ってしまえば「旧約聖書+新約聖書」が伝えるカッバーラの奥義を記しているのである!

 

 

<つづく>