「大和と日本」の謎:その18
火山をシンボルとした「火高見王朝:日高見王朝」の第五代目「天之常立比古神」の諱は「神農比古」(しんのうひこ)といい、15代・天之神農氏神の諱「農作比古」まで、ずっと名前に「農」という字が使われた。「神農比古」を「神農彦」と書き換えると、「農作を教えた神を奉ずる男(の預言者)」とも取れる。日本に稲作をもたらしたのは徐福である。「神農」は中国神話の原初の神々である「三皇五帝」の一人である。前回の連載<「穢れ」と「言霊」の謎:その30 >でも書いたが、この「三皇」とは「伝説の皇帝:三皇(天皇・地皇・人皇)」のことで、それは「黄帝(軒轅氏)」であるとした。「黄帝」(こうてい)は、古代中国の伝説上の君主であり、日本では「ユンケル黄帝液」の名称でも知られている。
応神天皇の御代に「和仁」がもたらした『千字文』(せんじもん)は四文字一句の「歌」で、全部で250句が記されており、中で非常に気になる一節に「龍師火帝 鳥官人皇」があった。古代中国の神話時代には、官に「龍」の名前を付けた「大皞」(たいこう)や「炎帝」(えんてい)、官に「鳥」の名前を付けた「小皞」(しょうこう)や「黄帝」(こうてい)がいたとされいてるが、ユダヤ的な解釈でいえば、「龍=ヤハウェ」の名前を付けた皇帝が「大皞」「炎帝」で、「鳥=イエス・キリスト」の名前を付けた皇帝が「小皞」や「黄帝」という話となる。さらに、「龍師」は「大皞」の官名で「伏羲氏」のこと、「火帝」は「炎帝」で「神農氏」のこと。また、「鳥官」は「小皞」の官名で黄帝の子「金天」のこと。「人皇」は伝説上の帝王「三皇(天皇・地皇・人皇)」の一人、すなわち「黄帝」で「軒轅氏」のことなのだという。
「龍師火帝 鳥官人皇」の絵図
中国の多くの姓氏が始祖を三代の帝王や諸侯としたので、現在も多くの漢民族は黄帝を先祖に仰いでいる(炎黄子孫)。本来は雷神であり、「軒轅」が龍蛇形の星座を指す場合があり、『山海経』に登場する軒轅国の住民が人面蛇身であり、伝説において龍との関係が深いことから黄帝は龍蛇形の神だったと考えられている。つまり、「雷神で龍蛇形の神」というなら絶対神ヤハウェ、もしくはヤハウェの預言者だったということになる。「鳥=イエス・キリスト」の名前を付けた皇帝が「黄帝」なら、「龍神=雷神=スサノウ=ヤハウェ」で、「蛇神=天照大神=イエス・キリスト」で、「ヤハウェ=イエス・キリスト」だから、「龍蛇形の神」というのは同一神だと伝えていることになる。
さらに、「伝説の皇帝:三皇(天皇・地皇・人皇)=黄帝」というのは、「天孫降臨」のことであり、天皇=天照大神、地皇=スサノウ、人皇=天孫ニニギノミコトもしくは天孫ニギハヤヒノミコトである。ニニギなら秦氏の神話となり、ニギハヤヒなら物部氏の神話だ。この三皇の治世を継ぎ、中国を統治した五帝の最初の帝とされ、また、「三皇」のうちに数えられることもある「黄帝」は、 本来は「皇帝」と表記されたが、戦国時代末期に五行思想の影響で「黄帝」と表記されるようになったとされる。簡単にいえば、神話である。史実ではない。
「黄帝」と「始皇帝」
「黄帝=軒轅氏」について、漢代の歴史書『史記』五帝本紀や『国語』晋語によると、姓は姫姓、氏は軒轅氏で、『山海経』に登場する怪神帝鴻と同一のものとする説もある。蚩尤を討って諸侯の人望を集め、神農氏に代わって帝となった人物という。『史記』はその治世を、従わない者を次々に討ち、道を開いて、後世の春秋戦国時代に中国とされる領域をすみずみまで統治した開国の帝王の時代として描く。まるで始皇帝のようでもあるが、ユダヤ的な解釈をすれば、「出エジプト」の際に従わないイスラエル人を滅ぼしつつ、約束の地カナン=古代イスラエルに導いたモーセのようでもあり、古代イスラエル王国の領地を最大化した王ダビデだ。
「ヤマト民族=黄人」だったことを考えると、「黄帝」の伝承は古代中国に渡来したイスラエル民族が「伝説」として伝えた歴史だということになる。そして、その末裔は「蓬莱山」たる古代の日本列島に渡来した。ならば、その伝承を日本に持ち込んだのは、徐福の末裔のはずだ。海部氏と物部氏である。その同族が「邪馬台国」が樹立された際、女王・卑弥呼の擁立を良しとせず、東へと移動して、男王・卑弥弓呼を擁立した「狗奴国」を作ったのではないか。すると、祖先の徐福の伝承を知っていたのは当然で、逆に自分たちこそ正統なる徐福の末裔と主張しようと考えたのではなかろうか。それが後世にまとめられた「宮下文書」となったのなら、非常に腹落ちする。
「宮下文書」
◆「テキ屋」と「ヤクザ」と「外物部氏」
前回の連載<「穢れ」と「言霊」の謎:その30 >で、「テキ屋」と「ヤクザ」は奉ずる神が違うと書いた。香具師・テキ屋業界では、神農を「神農皇帝」の名称で、守護神・まもり本尊として崇敬してきた。これは神農の時代に物々交換などの交易をする市場がはじめられたこと、また神農の子孫であるとされる「融通王」が日本ではじめての露天商であるという伝説などが理由であるとされてきたからで、香具師・テキ屋の儀式では祭壇中央に掛け軸が祀られるほか、博徒の「任侠道」に相当するモラルを「神農道」と称している。
一方、任侠(ヤクザ)の世界では「天照大神・八幡大菩薩・春日大明神」の三神の前で「襲名披露」を行うが、テキ屋系の組織では式場に守護神の「神農像」を置き、その前で交盃するところから、通常「神農盃」と称している。任侠(ヤクザ)の組織とテキ屋の組織では崇める神が異なるということだが、どちらも日本では「差別」の対象となってきた人たちである。筆者はずっと「被差別民とは物部氏」と書いてきたが、前回の連載ではテキ屋系組織は物部氏の中でも大和朝廷に与せずに、反抗してきた「外物部氏」であるとした。実はここにこそ「宮下文書」が書かれた意図が隠されている。「外物部氏は物部氏とは違うのだ」という主張である。
ヤクザが奉ずる「天照大神・八幡大菩薩・春日大明神」の三神
一般的に「天照大神・八幡神(八幡大菩薩)」は秦氏が奉じる神であり、「春日大明神」は藤原氏の神とされる。「春日神」(かすがのかみ)は、春日明神または春日権現とも称される神道の神である。総本社たる「春日大社」から勧請を受けた神のことであり、神社の祭神を示すときに主祭神と並んで春日大神などと書かれる。メインではないところに意図が隠されている。春日神を祀る神社は春日神社などという社名になっており、日本全国に約1000社ある。だが、「春日神」とは、春日大社の祭神である武甕槌命、経津主命、天児屋根命、比売神の四柱の神の総称である。
「武甕槌命」(鹿島神宮)と「経津主命」(香取神宮)は藤原氏(中臣氏)の守護神とされ、天児屋根命と比売神は藤原氏の祖神とされる。延喜式神名帳には記された日本三大神宮は、「伊勢神宮」「鹿島神宮」「香取神宮」である。だが、鹿島神宮も香取神宮も東国の社である。創建は古く、もともと藤原氏とは関係のない社であったが、大和朝廷の東征の際に屈服させられた外物部氏の社だったのである。だからこそ、出雲の神々を屈服させ国譲りを成功させた「武甕槌命」(タケミカヅチノミコト)と「経津主命」(フツヌシノカミ)という天孫族の武神がそれぞれ祀られているのである。
鹿島神宮も香取神宮も、かつて、伊勢神宮の次に格式高いのはこの二つ神宮において他に無し、と言われるほどに政治的にも宗教的にも重要視されていた。どうして出雲を制圧した神がこの土地に来たのか。それは「日本武尊:ヤマトタケルノミコト」から「坂上田村麻呂」に至る大和朝廷の東征の証なのである。関東以北のまつろわぬもの達を制圧する拠点として選ばれたということであり、鹿島の神も香取の神も「蝦夷の平定神」として東国に祀らた神だったのである。
鹿島神宮は茨城県鹿嶋市にある神宮で、全国に約600ある鹿島神社の総本社であり。日本建国かつ武道の神と呼ばれる「武甕槌命=建御雷神」(タケミカヅチ)を祀る。ここにも「倭建命=日本武尊:ヤマトタケルノミコト」の暗号が隠されているのである。香取神宮は千葉県香取市にある神宮で、下総国の一宮である。全国にある約400社の香取神社の総本社でもあり、鹿島神宮とはセットである。鹿島神宮の「武甕槌命=建御雷神」と香取神宮の「経津主神」は共に武神であり、『日本書記』ではこの2神で葦原中国を平定させたとされている。だが、1つ謎がある。それは「経津主神」である。
経津主神
経津主神は『日本書紀』のみに登場し、『古事記』には登場しない。別名はイワイヌシ・イハヒヌシで、斎主神または伊波比主神と表記される。『出雲国風土記』や『出雲国造神賀詞』では「布都怒志命」(ふつぬしのみこと)、『肥前国風土記』ではなんと「物部経津主之神」(もののべのふつぬしのかみ)として登場しているのである。『常陸国風土記』に出てくる「普都大神」(ふつのおおかみ)とも同視される。『出雲国造神賀詞』では、「高御魂命」(タカミムスビ)が皇御孫命に地上の支配権を与えた時、出雲臣の遠祖「天穂比命」(アメノホヒノミコト)が国土を観察、再び天に戻って地上の様子を報告し、自分の子の「天夷鳥命」(アメノヒナトリノミコト)に「布都怒志命(経津主神)」を副えて派遣したとされている。
『古事記』では経津主神が登場せず、「思金神」(オモイカネ)が「天尾羽張神」(アメノオハバリ)もしくはその子の「建御雷神」(タケミカヅチ)を送るべきだと天照大御神に進言。天尾羽張神が建御雷神の方が適任だと答えたため、建御雷神が「天鳥船神」(アメノトリフネ)を副えて葦原中国へ天降ったとなっている。が、もちろんこれは神話であり暗号である。「天穂比命」の子「天夷鳥命」と「天鳥船神」と「経津主神」は同じ神のことである。「天夷鳥命」は出雲氏の祖神で、「高天原から天降り、葦原の中つ国の国を平定した」とあるからだ。それは別名にも表れている。「武夷鳥命」(たけひなどりのみこと)、「建比良鳥命」(たけひらとりのみこと)なのである。ここにもまた「倭建命=日本武尊:ヤマトタケルノミコト」の暗号が隠されているだ。
天日名鳥命神社(鳥取県・大畑市)
「天夷鳥命=武夷鳥命=建比良鳥命」とは「武甕槌命=経津主命」でもあり、これらの神の名は全て大和朝廷が東国を制圧したことを伝える「ヤマトタケルノミコト」の神話なのである。「天夷鳥命=建比良鳥命」は『古事記』では、「天之菩卑能命」の子で、国造らの祖神として登場しているが、『日本書紀』の同じ場面では、天穂日命(古事記の天之菩卑能命)が国造らの祖神とされ、建比良鳥命は登場しない。「崇神紀」に、「武日照命」(たけひなてり)という名が見られ、別名を「武夷鳥」(たけひなとり)・「天夷鳥」(あめひなとり)といい、語形の類似や伝承の関係性から建比良鳥命と同神と考えられている。
「建比良鳥命」の名義は、「建」の字は「健」に通じ、猛々しいの意、「比良」は境界の意で異郷を表すと捉えられ、勇猛な異郷(出雲国)への境界を飛ぶ鳥と解する説がある。また、「武日照命」の別名の「ヒナテリ」を神名の原形と捉え、天上から降って辺鄙を平定した功を讃えた名とする説や、ヒナトリを原形と捉え、「日の鳥」の意と解する説がある。「日の鳥」とは「火の鳥」でもあり、鳥の姿になった太陽神=イエス・キリストのことである。さらに「鳥=原始キリスト教徒」、「比良=異郷=東国」とすれば、原始キリスト教徒・秦氏による東国の「外物部氏」の社を制圧した話となる。もちろん「日照」も同様である。
鳥取県・大畑市にある小さな社である「天日名鳥命神社」(アメノヒナドリノミコトジンジャ)では、中古に神廟が火災に遭ったことで燔滅(せんめつ)し、後の代に本社一宇を建て、三神<天日名鳥命・天穂日命・天日鷲命>共に祭祀し「天三祇の宮」と称した、と伝えている。「せんめつ」を「殲滅」と書かず、「燔滅」という当て字にしている。「燔」とは音読みは「ハン」「ボン」で訓読みは「やく」「あぶる」「ひもろぎ」である。意味は「やく。あぶる。あぶり肉。ひもろぎ。祭りに供える肉。」であり、燔祭(はんさい)のことである。つまり、中古の時代に「天日名鳥=原始キリスト教徒」によって社を見せしめの生贄として焼かれたことで、三神を奉ずる社に変えさせられた、と伝えているのである。「鳥取(県)」とは、「鳥=原始キリスト教徒によって取られた(奪われた)」場所なのである。
だが、問題は『肥前国風土記』に記された「物部経津主之神」(もののべのふつぬしのかみ)という名である。経津主神とは物部の神ではなく、逆らう物部氏、外物部氏を制圧した天孫族の神だったのではないのか?これはどういう意味なのか。
<つづく>