自殺は絶対にダメ~人生は有限、希望は無限 | 始まりはアドラー心理学

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より、楽しい日々を送るために、
より、ハッピーな人生を過ごすためには、
どうすればいいのでしょうか?
そのための方法論や実践論を考えています。
ちょっと難しい内容かも知れませんが、
みなさんのお役に立てるような情報を伝えていきたいと思います。

夏季の訪れにより、厄介なウイルスパニックも沈静化しつつあり、

多少ながら人々の動きも快活になり始めています。

結局、感染による国内の死者は僅か900人という低い数値で、

昨季のインフル1ヶ月の死者1700人にさえ遠く及ばないレベルでした。

既にウイルス騒ぎが架空の捏造であった事は明らかですが、

それより遥かに大きな危機が我々の眼前に迫っています注意

国内でも既に多くの企業や個人事業主が

倒産や廃業に追い込まれており、

その流れは留まる気配を見せません。

雇用の差止めや解雇による失業者も増加し続けています。

まさに、空前絶後の危機と称して過言ではないでしょう汗

経済不況としてのレベルはバブル崩壊や

リーマンショックを遥かに上回り、

20世紀初めの世界大恐慌をも超える勢いとなっていますぎくっ 

 

そんな最中、巷では自殺者の大幅増加が強く危ぶまれています。

コロナ渦が起こる前、日本の年間自殺者数は、

約2万人という水準でした。

これだけでも驚くべき数ですが、

過去のリーマンショックや消費税増税の際には、
実に3万人を超える自殺者が出ていたのです。

現状からすると、これを超える可能性は高いでしょうsei 

ただ、この自殺者という数値は、

明確に自殺が確認された場合に限定されています。

これを、不審死という定義にすると実に年間15万人にも及ぶそうです

その中に相当数の自殺が含まれているのは間違いないと思います。

何とも絶望的な気分ですねガーン

というより、何とかならないのでしょうか?

これを見ずに若干の死者しか出ていない新型コロナばかりを

重視する状況に違和感を覚える人は多いと思います。

それが、故意で起こされているか否か、は別として…。

 

自殺に至る人が正常な精神状態にない事は誰もが知る部分です。

かといって、異常である訳でもありません。

人が自殺を考えるのは、精神が異常を来しているのではなく、
心が危機に襲われているからです表情

ある意味、自殺というのは究極の自己防衛策ともいえます。

トチ狂って自分を殺しているのではなく、

ただ危機(苦しみ)から逃れるがために、

敢えて死という道を選ぶしかなかったのです汗

この危機や苦しみは、人間が何か行動する際の

大きな動機となります。

当たり前ですが、何かしら危機を感じない限り、
人が現状から逃げ出して何か思い切った行動を取る必要は

ない訳です。

よって、もし我々に「苦しみ」という感覚が備わっていなければ、
この世界に「自殺」という概念も初めから存在してなかったでしょう。

余りに当たり前な話ですが、ここにこそ「自殺防止」の

大きなポイントがあるのですひらめき電球

 

人が自ら命を絶たないためには、当たり前ながら

本人の心身を危機に追い込む原因を排除する必要があります。

こういうと、「失業」、「貧困」、「イジメ」、「過重労働」、
「対人関係のもつれ」などが頭に浮かびますが、

これらは根本的な原因には当たりません。

何故なら、人間の危機や苦しみは

外部から訪れている訳ではないからです。

全ては自分の意思により、自ら作り出している物なのです。

例えば、イジメが及ぼす危機的状況は、

自身の現状を「イジメられている」、
「仲間外れにされた」、「傷つけられた」などと認知し、

「嫌だ」、「苦しい」と思う事によって生じますショボン 

よって、現状に対して「イジメられている訳ではない」、
「仲間なんて不要」、と認知すれば、

この後に苦しみが生じる事はないはずです。

また、「確かにイジメられてる」、「明らかに仲間外れ」と認知しても、

「別に気にならない」と思えば同様に苦しむ事もなくなりますふふん

経済損失や失業なども同様であり、少し視点と認知を変えれば、
現実は変わらずとも苦しみだけは露と消え去る訳です消える

 

多くの場合、自殺は絶望から始まります。

絶望とは「希望がない」という事ですねあたりまえ 

よって、イジメられて絶望するのは、

本人の希望が「イジメから逃れたい」以外に
存在しなくなった事を意味します。

もし、それ以外に何らかの希望が存在すれば、
いくら「死にたい」という意思があっても

そう簡単に自ら命を絶つような事は出来ないでしょう。

元来、希望は行動の源泉であり、人の生に大きな「勇気」と
強烈な「意欲」を及ぼしますがんばる

よって、何か1つでも確かな希望があれば、

忽ち「生きたい」という意欲と「やるぞ」という勇気が芽生え、

必然的に「死にたい」という思いが相殺されるのです。

仮に、自身の心にある多くの危機感や

苦しみを払拭する事が出来なくても、

それを補うだけの十分な希望や喜びがあれば、

行動として「自殺」の選択肢はなくなる訳ですねGOOD

 

希望とは欲望や願望を意味し、「何かを手に入れたい」、
「何かをやりたい」と思う意思を指しますやった  

よって、これら希望の数が多ければ多いほど、

もしくはそれが強ければ強いほど、
生きる意欲と勇気も大きくなるはずですアップ

強い希望とは、即ち強い刺激を指します。

例えば、「東大に合格した」、「事業を起こして成功した」、
「好きな人とカップルになれた」、「念願叶って玉の輿に乗った」、

などは実に強い刺激であり快楽といえます。

このような強い刺激や快楽を求める気持ちは、
大きな希望であると同時に生きる事に明確な目的を及ぼします。

簡単にいえば夢ですね虹

何かしら大きな刺激を伴う夢があれば、

それだけで生きる希望が湧いて幸せでいられるという事です。

 

但し、強い刺激を伴う大きな希望は、

それが潰えた時に自らを傷つける鋭い刃と化します剣 

よって、その希望への期待が大きいほど、

失敗した時の苦しみも大きくなる訳です反省! 

強烈な苦しみは意識を一転に集中させます。

それは、原因となる大きな希望に意識を集中させていた

裏返しでもあります。

これこそ、自殺者の心理状態なのですガーン 

意識を大きな苦しみに一転集中させると、

それより小さな希望に思いが向かなくなります。

その結果、ただ苦しみだけで心が一杯になり、

必然的に生きる意欲が失われてしまうのです。

実際、既に自殺してしまった人には、

生きるに値する様々な希望や願望があり、
これに伴う刺激や快楽を得る多くのチャンスがあったはずです。

これらを無視して安易に自らの命を絶ってしまうなんて、

余りに勿体ないといわざるを得ませんザンネン…。

 

我々が自殺せずに長く人生を闊歩するためには、
より多くの様々な希望や願望や目的を持ち、

そこに隈なく意識を分散させる必要があります拡大 

人が幸せに生きるために、それほど大きい夢や強い刺激は

必要ありません。

ある意味、高望みは無用という訳ですね。

自分に出来ない事をしようとしたり、

自分の手にした届かない物を得ようとすると、

後で大きな苦しみを味わう可能性が高くなりますやれやれ

単純に安らかで幸せな人生を送るには、
ハイリスクハイリターンという生き方では部が悪い訳です。

それより、小さな希望を豊富に集めて慎ましく無難に過ごす方が
遥かに効率的だと思います。

いわば、大きなリスクを抑え小さなリターンを増やして
全体をプラスに導く生き方です歩くチューリップピンク

もちろん、夢を諦めろという訳ではありません。

一般的に難易度が高くてハイリスクなミッションであっても、
それを為すだけの十分な可能性が自身にあれば、

大いにチャレンジすべきです焦る                      虹

もし、それが失敗に終わり、結果として多くの労力と

長い時間が失われたとしても、何の憂いも危惧も必要ありません。

1つの大きな夢が潰えたとて、

それ以外に多くの希望や願望があれば、
以降に幸せな人生を送る事は十分に出来るからです満足

大切なのは、意識を一転に集中させない事です。

普段から視点を拡げて多くの様々な希望に気持ちを分散していれば、

その中の何か1つを失っても「かすり傷」程度にしか感じないでしょう。

ただ1つ命さえ失わなければ、生きる意味と希望がなくなる事など

絶対にないのですないないない

 

以上に付け加えたいのは、「どんなに小さな望みでも、
思いによっては巨大な希望に成り得る」という事です。

先ほど「高望みはいけない」と述べましたが、
そもそも、望みに高いも低いもありやしません。

思いや価値観は人それぞれで、

これに客観的な基準を設ける必要なんて何もないのです。

個人的に、「実業家として成功し、派手な交遊生活を送りたい」と
「普通の会社員になって好きな趣味に打ち込みたい」、

という2つの希望を高低に振り分ける事は不可能だと思います無理 

また、「リッチで自由なキャリアウーマンになりたい」と
「 普通に結婚して子どもを産み育てたい」という2つの希望にも

けして優劣なんて付けられないですよねモヤ

望みだけでなく、喜びや快楽でも同じ事がいえます。

例えば、「高級ワイン」と「安いワイン」の美味しさを

上下で分ける事は、現実からすると全く無意味です。

実際、2万円のボルドーより、チリの千円ワインの方が

美味しいという人は大勢いますワイン好

それは感覚や好みに個人差があるからですね。

また、美味しい物を食べる味の感覚でも同じ事がいえます。

例えば、庶民が近所の居酒屋で

3000円コースの飲み食いをした時の快楽と、
セレブがフランスの三ツ星レストランで

30000円の豪華ディナーを食べた時の快楽は、

感覚的にいうと同レベルなのです。

ただ、庶民が生まれて初めて豪華ディナーを食べたとしたら、
「居酒屋でなんて目じゃねえ」と驚愕するのは確かでしょうきゃぁ~

それは、両方を食べて比較したからですね。

それでも、この時に感じた豪華ディナーの快楽と、
初めて居酒屋で飲み食いした時の快楽は、

感覚的には何の差もありません。

やはり、美味しい物を食べたら誰でも「旨え!」としかいえず、
その感激はいつも同じなのですきゃぁ~うれしい  

以上から、我々が感じる喜びや快楽や幸福感は、
いつでも誰でも常に一定である事が分かります。

つまり、下手に他と比較して優劣を付けない限り、
どこの誰でも最高に幸せな人生を送れる訳です音譜

 

アドラー心理学を信奉する僕としては、

自己決定性と課題の分離を尊重する事に
極めて大きな価値を抱いていますキラキラ

簡単に、自己決定性とは、「自分の事は自分で決める」という事、

課題の分離とは「自分と他者の自己決定を区別する」という事を

示します。

まとめると、「あらゆる個人には自由に生きる権利があり、
それを他者が侵害してはならない」
という事です。

よって、仮に自殺を個人の自由とすれば、

これを他人に否定する権利はない、という事になってしまいますねあせる

課題の分離を前提として考えると、そういう判断になるのです。

安楽死でも同じ事がいえます。

人間の生を個人の自由と捉えるならば、
患者が死によって苦しみから逃れる権利を奪うのは、

むしろ暴力になり兼ねませんパンチ

しかし、個人的には自殺を自己決定性と課題の分離の範疇で

捉えるべきではないと思います。

何故なら、残された人々の生きる大きな希望と勇気を

奪い兼ねないからです団体 sei

人間を死なせて他者を苦しめるという点からすれば、
自殺と殺人は同じと捉えて良いと思います。

いや、自殺の方が遥かに酷ですガーン 

殺人であれば、怒りを犯人に向けられるだけ、
残された人たちの失意や苦しみも多少は緩和されるでしょう。

しかし、自殺だと、残された人たちの怒りや後悔や罪悪感の全てが、
彼らの肩に重く伸しかかる事になりますトボトボ 

「何故、気付いて上げられなかったのか?」、
「もっと話を聞いて上げるべきだった!」、などと自分を攻め、

やり場のない後悔と悲しみに打ちのめされる破目になるのですショボン泣

自殺する人が死ぬほど苦しんで生きる望みを失っていたからと、

それで他人の希望を奪って死ぬほど苦しませても仕方ない、

という理由には、絶対になりません。

人間というのは、ただ生きているというだけで
他者が生きる大きな勇気と喜びに成り得るのです星エヘン!星

それは、どんなに辛く苦しい目に遭っても、

人の生きる希望が潰える事は有り得ない、という事でもあります。

この世界に僅か1人でも

自分の存在に希望を抱いてくれる人がいるならば、

それだけで人が生きる意味は十分あるのですがんばる

 

人間たる者であれば、自分だけに意識を集中してはいけません。

むしろ、苦しい時、辛い時こそ、意識を分散し、
周囲の人々に目を向けるべきです目

反対にいうと、人が勇気と希望をなくして苦しむのは、
自分の事にしか目が向いていない証拠でもあります。

これを心理学でいうと、自尊感情と自己肯定感に乏しく、
自己承認欲求が強い状態ですね。

即ち、自信をなくして愛に飢えているのです。

ある意味、自己決定性と課題の分離が不能な状態ともいえます。

本来は自身の課題として自ら見出すべき生きる勇気と希望が、
他者から与えられる事を持っているのですえ~んSOS

このままでは、何も起こらず、何も始まらず、何も変わりません。

待つのではなく、自分から動き、自ら進んで他者に働き掛けるのです。

人間にとって、自分を気に掛けてくれる他人の存在は
生きる大きな意欲と活力の源泉と成り得ますおっす! 

また、他人に生きる希望と喜びを与えるという事は、
即自分の生きる勇気と意味にも繋がるのです。

「人間は、一人では生きられない」という言葉からもよく窺えます。

これこそ、我々が個々に分かれて集団で生きている

最大の理由でもあるのです。

 

自身のメンタルを「与えられる側」から「与える側」にシフトする事は、
我々の人生にとって極めて大きな分岐点となります愛 

いうなれば、人がリアルな現状に幸せを見出せないのは、
自身の心が「与えられる側」に大きく傾いているからなのです。

与える側になれば、まさに人生は薔薇色と化しますブーケ1

世の中には自分以外の他人が大勢いるではありませんか?

他者に希望と喜びを与えれば与えるほど、
自身の生きる勇気も意欲もより強く大きな物になっていきます。

与える側に立って与え続ける限り、人々の生きる希望がなくなる事も、

自身の生きる意味がなくなる事も絶対にないのです登場ayaわーい 

 

与える側へのシフトとは、アドラー心理学でいう
共同体感覚に目覚める事と同じ意味を指します。

共同体感覚とは、「自分は全体の一部である、

だから全体のために自身の役割を果たそう」、という自覚の事です。

アドラーは、「共同体感覚が深まると自と他の区別が希薄になる」、

と称しました。

つまり、分離されていた自分と他人が全体によって1つになる訳です。

共同体感覚が深まると、あらゆる物事を「自分」ではなく、
「僕ら」、「みんな」という視点で捉えるようになります。

自分の立場や利益をだけを考えるのではなく、
全体としての公益や共有を重んじるようになるのです。

意味合い的には、巷でいわれる「ウィンウィン」や
仏教の「自利即利他~じりそくじた、他利即自利」とよく似ています。

それぞれを簡単にいえば、「みんなで一緒に得をする」、
「自分と他人の利益は同じ」という事です。

また、ラグビーでいう「オールフォーワン、ワンフォーオール」も

同じ事を示しています。

「全体は一人のために、一人は全体のために」という意味合いは、
まさに共同体感覚そのまんまです団体はぴ♪ 

 

 

残念ながら、これから多くの人々が自殺に追い込まれる事は、
ほぼ間違いないと思いますガーン 

経済の大不況に伴う、企業の倒産や失業や生活苦など
様々な苦しみが社会に拡がり続ける以上、

それを避ける事は不可能でしょう。

でも、以上を読まれた皆さんであれば、もう大丈夫だと思います。

常々、アドラー心理学の自己決定性による的確な認知傾向が整えば、
その心が苦しみの淵に沈む心配は何もないはずですGOOD

当然、我々に全体的な自殺者の増加を防ぐ力はありません。

ただ、周囲にいる縁ある人たちに何らかの手助けをする事ならば、
いくらでも出来ますウワーン!前にならえ

もちろん、周囲に自殺しそうな人が早々いるとは限りませんが、

身近な人たちが抱える苦しみを多少でも和らげれば、
全体にとっては大きなプラスになるはずなのです。

生きる勇気と希望は、人から人へと確実に伝播していきます拡大 

その拡散力の強さはウイルス感染の比ではありません。

今後、より多くの人々の心に勇気と希望が芽生えれば、
どこか知らない場所で苦しむ誰かの自殺が「なし」になる事も

十分に有り得るのです。

 

残念ながら、日本社会のリアルな共同体感覚は

甚だ希薄といわざるを得ません。

世の中は相も変わらず、「自分の事だけで精一杯」で
「他人に無関心」な人ばかりで溢れています反省!   小悪魔ピース   トボトボ 

世の中には、自発的に自らの苦しみをクリアする事が出来ず、
ひたすら「与えられる事」を待ち続けている大人が大勢いるのです。

でも、もう我々は気付きました。

その気にさえなれば、「与える側」として

今直ぐにでも前に進める状態にあるのです歩く   焦る

多くの人々が共存共栄する共同体の中で、

それぞれ個々には様々な役割があります。

一人としては限界がありますが、より大勢が立ち上がれば、
まさに無限と呼べるほど多くの事が出来るはずです無限

幸い我々には未だ生命があります。

残された時間は有限でも、そこで生きる希望は無限なのですがんばるラヴ

 

さて、そろそろ始めましょうか。

難しい事など何もありません。

ただ、周囲の仲間たちに自分から先に手を差し伸べて
「一緒に生きよう」と微笑み掛けるだけです愛