今一度『棺蓋録』をお楽しみ頂くために。
以下、ライナーノーツです。僕はジャンルで言うと、いわゆる肉体労働者である。毎日11時間ほどの立ち仕事でその間に休憩は殆ど無く、尚且つ神経を擦り減らす接客業という二重苦なので、終業後などはそれはもう心身共にヘトヘトになってしまう。なので帰宅の地下鉄では座って数分後に必ず強烈な睡魔が襲って来る。しかし、いい大人が電車で居眠りなどみっともないので、それだけは絶対にするものかと必死に抗うのだが、おそらく向かいの席に座る女子大生なんかから見れば、その姿はまるで高木ブー状態であろう(志村けんが真似するアレね、と言っても今どきの女子大生が志村けんと高木ブーを知っているかどうかは怪しいが)。ところがここ1年ほどの事なのだが、そんな対睡魔戦真っ只中 in 地下鉄状態の僕に神様があるプレゼントをくれるようになった。半醒半睡の僕の眼前に突然、子供の頃に目に映っていた風景が温度や匂いや感情といった空気感までを伴って鮮明に現れるようになったのである。身体は今確かに京都の地下鉄の中にあるはずなのに、目の前には何故か80年代の青森が‥。そしてその青森というのは、僕が自覚的に憶えている思い出らしい青森ではなく、全く意識の外に追いやられていた美化されていない寒々しく生々しい様々なシーンの青森であり、それが毎回ランダムに現れるのである。どうやらこれは「入眠時幻覚」と呼ばれる現象に近いらしい(僕の場合は少し違うかも知れないが‥)。昔の青森のようなTHE 田舎に暮らす子供というのは、基本的に他者の目というものが存在しない土着の閉じた文化での生活を強いられるため、リアルで得られる都会的な開かれた情報に触れる事が圧倒的に少なく、社会的にも経済的にも身体的にも絶対的に弱者である場合が殆どで、実際のところ僕もそうであった。しかし、そんな田舎コンプレックス全開な現実の中にいても、何故だかあの頃の僕は得体の知れない何かに確かにワクワクを感じて生きていた。マイナス10℃の雪道を毎日独りでトボトボ歩きながらも51:49というギリギリだが僅かにワクワクの方が勝っていたように思う。しかし、果たしてそれはTVの中だけに存在する80年代というキラキラした狂騒の世界特有の、田舎のそれとはかけ離れた雰囲気に、無知な田舎の子供が無意識のうちに便乗してのワクワクだったのか、ただ単に子供特有の未来への可能性のレンジの広さから来るワクワクだったのかは判らない。だが、このショートムービーのような入眠時幻覚を不意に喰らった現実世界を生きる僕(既に初老)も毎回その直後には、それにつられて何故かちょっとだけワクワクして電車でハッと目を醒ましてしまうのだ。人生における物凄く大事な何かを取り戻したような気分で。さて、ここに来て本題の2Danbelt Experienceことワタナベサトシ氏のアルバム『棺蓋録』である。この作品はもう甚だ乱暴に言い切ってしまえば、僕にとってのこの入眠時幻覚を解体して再構築したような音楽である。例の80年代の青森の子供と同じように「51:49」で「ワクワク:絶望」が鳴っている。このアルバムがリリースされる2023年現在も世界情勢は異様なまでに不安定であり、そのおかげで地球上の殆ど全ての人間がそれぞれに何らかのシリアスな問題を背負わされ、しかもそれが常態化してしまっている事などはもはや言うまでもない。そしてこのアルバムもそんな世相を敏感に反映してか、全曲一貫してこの世界を、この国を、この命を憂うテーマで溢れ返っている。収録曲自体は1992年から2022年までの約30年という比較的長いスパンの間でそれぞれ作られた作品群だが、どの曲も一聴して死を連想させるようなニュアンスが漂っている点からしても、この世界は少なくとも30年もの長い間、いかに不穏なままであり続けたのかという事と、ワタナベ氏が少年時代から現在に至るまでいかに繊細にこの世界と向き合って来たのか、という事を如実に証明しているとも言える。ところがどっこい、ワタナベ氏はそんな憂い専門で終わるただの細っそい繊細さんではない。シューゲイザー的絶望をひと通りかき鳴らしたかと思った次の瞬間、その状況に痺れを切らしたかの如く「それがどうかしたのか」「だから何だと言うのか」と言わんばかりに、現実世界とはまるでねじれの位置から「希望のようなもの」を飄々と鳴らして見せたりする。それもあくまで低温を保ちつつ、清々しいシニカルな態度も漂わせつつ‥。「フシギナセカイへと 夜を明け渡そう 音のない夜には さあ踊り明かせばいい 見知らぬ外へと そろそろ行こう 窓を閉めないで また戻ってくればいい」(フシギナセカイ)今生きている現状がどんなに思い通りになっていないとしても、この希望のようなものに触れながら生きているか否かで、その人生の内容には雲泥の差があると思う。それが例え実生活とは全く無縁のねじれの位置関係にあったとしても。いや、むしろ大人になればなるほどその2つのねじれ位置は拡がって行くのかも知れない。何故なら大人はどうしてもビジネスや健康、効率や調和など生活に必要なものを優先してしまいがちだが、この希望のようなものはきっとそれらの最大公約数的なものとは無関係な素数的なワクワクからしか生まれて来ないからだ。そしてそのワクワクはきっと誰もが子供の頃に既に醸成されていて、それこそが人間が生きる目的そのものなのだ。だからこそ、その人の持つワクワクとは本来、本当にその人の個人的なものであるべきであり、それに対しては誰も文句や批判は一切言えないという当たり前過ぎて逆に嘘っぽく聞こえてしまうこの真実を、このアルバムはかなり謙虚なトーンで伝えて来る。ワタナベ氏のロマンティシズムがふんだんに散りばめられたリリックと、朧儚げなボーカルが逆にその説得力を静かに増幅させながら‥。楽曲的な特徴から分析するとワタナベ氏はきっと音楽活動を始めた頃からクリエイティブに対するインプット、アウトプットには無尽蔵にエネルギーを使えるタイプだったのではないだろうか。学生時代に作られたという最初期の頃の楽曲でも既にド変態な5拍子が炸裂していたり、逆回転のギターソロ、とんでもない転調など、その実験的アプローチの数々から音楽作りに対する貪欲な姿勢が容易に窺えるし、最近作られた楽曲にはそれぞれ更に実験的な要素が課せられている。全体的なサウンド面では京都在住の音楽家・北航平氏によるナチュラルでアンビエント、且つ斬新でキレのあるエレクトロニカ系のリズムが特徴のトラックとアレンジが功を奏していて、聴いているとこちらもついついその独特なメランコリックサウンドが醸し出すフシギナセカイに自然と引っ張り込まれてしまう。余談だがワタナベ氏の生業は医師である。その社会的責任や社会的地位という観点から見てもそこには日々、とんでもなく膨大なエネルギーを要するであろう事は、世間知らずな僕でも容易に想像が出来る。よくTVで密着取材されているような自己顕示欲の強そうな医師達は皆一様に利己を滅して患者に尽くしている、かの様に見えるからだ。しかし、そんな苛烈な日常の寸暇を惜しんでまでも機材を揃え、音楽制作に没頭してしまうある種の業の深さというか情念というか必死さというか、その「どうしようもなさ」も例のワクワクから来る希望のようなものとして、このアルバムの芯に静かにひっそりと横たわっている。以上の要素が相まってこのアルバムが放つ波長は、例の帰宅途中に不意に訪れる入眠時幻覚の後に味わうそれとよく似ていて非常に心地良い。何だか人生という全く扱い難いものを再びより良い方向へクリエイトして行くための普遍的な原動力のようなものに触れ直したような感覚に。「ヴィンケル図法で照らそう 綺羅煌く視界をよくないことばかりじゃない 一歩踏み出す勇気」(Lord, Have Mercy)当たり前のことだが、今僕は子供の頃に思い描いていた未来という世界に物理的に生きている。そしてきっと僕の個人的で根源的な未来への希望のようなものは青森の子供だった僕が既に清算済みにしてくれていたのだと思う。マイナス10℃の雪道を独り何処まででもトボトボと歩き回りながら。そのこと自体もうすっかり忘れてしまっていたが‥。しかし結局のところ僕は平凡な大人になってしまったのだが、特別ではない普通の人生の中でもやれることをやって行こうと思う。その既に清算済みの希望のようなものに見合った人生にこの人生を徐々に修正して近づけて行くために。そのほんの第一歩として、やはり電車での居眠りなどはみっともないので絶対にしてはならないな、と思う。「失われたショーネンよ 清算はもうお済みでしょう」(ショーネン)メメントモリ美容室 石渡幸治 via2Danbelt Experience Your own website, Ameba Ownd