報恩抄 下 (訳文-3)


 この事を、日本国の中において、ただ、日蓮一人だけが知っていたのであります。

 もし、この事を言い出したならば、「殷の紂王が比干(紂王の忠臣)の胸を裂いた
ように、夏の桀王が竜蓬(桀王の諫臣)の首を切ったように、ケイヒン国(インド)
の檀弥羅王が師子尊者(付法蔵・二十四人目の伝灯者)の首を刎ねたように、天竺
(インド)の道生(注、一闡提でも成仏出来ることを説いた僧、鳩摩羅什の弟子)が
蘇山へ流されたように、宋の徽宗(老荘思想を信奉していた皇帝)が法道三蔵(徽宗
を諫めた宋代の僧)の顔に焼き印を押したように、私(日蓮大聖人)も、同様の処遇
を受けることになるであろう。」ということは、かねてから、承知しておりました。

 けれども、法華経勧持品第十三においては、「我、身命を愛せず。但、無上道を惜
しむ。」と、お説きになられています。
 また、涅槃経においては、「むしろ、身命を喪失したとしても、仏の教えを隠匿し
てはならない。」と、お諫めになられています。
     
 「今世において、命を惜しむのであれば、一体、いつの世において、仏に成る事が
出来るのであろうか。また、如何なる世において、父母・師匠を救い奉る事が出来る
のであろうか。」と、ひたすら思い切って、この事を申し始めました。

 すると、案に違わず(予想していた通り)、或いは所を追われたり、或いは罵られ
たり、或いは討たれたり、或いは疵(きず)を被ったりしているうちに、去る弘長元
年〈辛酉〉五月十二日に御勘氣(注、幕府からの咎めを受けて、罪を付されること。)
を受けて、伊豆国・伊東に流されました。
 また、弘長三年〈癸亥〉二月二十二日に赦免となりました。

 私(日蓮大聖人)は、その後も、ますます菩提心を強盛にして、正法を申しました。
 すると、ますます大難が重なっていく事は、あたかも、大風によって、大波が起こ
っていくような状況でした。

 昔、威音王仏の世に御出現された不軽菩薩が杖木で責められたことに対しても、「我
が身に、過去世からの罪が存在するためである。」ということを、私(日蓮大聖人)
は認知させられました。
 また、歓喜増益仏の末の世に御出現された覚徳比丘がお受けになられた大難に対し
ても、「私(日蓮大聖人)受けた大難には及ばない。」と、思われます。

 日本六十六箇国・島二つの中において、一日・片時たりとも、如何なる地において
も、私(日蓮大聖人)の住むべき場所はなかったのであります。

 昔は二百五十戒の戒律を持って、忍辱の行を積んだ羅喉羅(釈尊の十大弟子の御一
人・密行第一)のような持戒の聖人でも、富楼那(釈尊の十大弟子の御一人・説法第
一)のような智者でも、日蓮に会ったならば、悪口を吐きます。

 根が正直であって、魏徴(唐の太宗皇帝の諫臣)や忠仁公(清和天皇の摂政であっ
た藤原良房)のような賢者等でも、日蓮を見れば、理を曲げて、非道を行います。

 ましてや、世間の一般の人々は、私(日蓮大聖人)に対して、あたかも、犬が猿を
見た時のように、猟師が鹿を追い込めた時のように接しています。

 日本国の中には、一人として、「彼(日蓮大聖人)の言うことには、理由があるの
だろう。」と、云う人がいません。
 それも、道理でしょう。

 人々は、念仏を申しています。
 ところが、私(日蓮大聖人)は、その人たちと向かい合うたびに、「念仏は、無間
地獄に堕ちる。」と、言っています。
 
 また、人々は、真言を尊んでいます。
 ところが、私(日蓮大聖人)は、「真言は、国を亡ぼす悪法である。」と、言って
います。

 そして、国主は、禅宗を尊んでいます。
 ところが、日蓮は、「禅宗は、天魔の所為である。」と、言っています。

 故に、自ら招いた禍でありますので、日本国の人々が私(日蓮大聖人)を罵ったと
しても、咎めてはおりません。たとえ、咎めたとしても、相手は、一人ではありませ
ん。

 そして、人々から殴打されたとしても、痛くはありません。
 何故なら、私(日蓮大聖人)は、当初から、難を受けることを承知していたからで
す。

 私(日蓮大聖人)は、このようにして、ますます身命も惜しまずに、力を尽くして、
謗法を責めました。
 すると、禅僧数百人・念仏者数千人・真言師百千人が、或いは奉行に付いたり、或
いは権力者に付いたり、或いは権力者の女房に付いたり、或いは後家尼御前(権力者
の未亡人)等に付いて、無尽の(あらゆる)讒言を為しました。

 最終的には、「日蓮は、天下第一の大事である日本国を失わせようと呪詛している
法師である。日蓮は、故最明寺殿(北条時頼)や極楽寺殿(北条重時)のことを、『無
間地獄に堕ちた。』と申している法師である。御尋問をされるまでもない。直ちに、
首を斬るべきである。日蓮の弟子たちに対しても、或いは首を斬ったり、或いは遠国
に流罪したり、或いは牢に入れるべきである。」と、尼御前たちがお怒りになったの
で、そのまま刑が執行されたのであります。
 
 去る文永八年〈辛未〉九月十二日の夜は、相模の国・龍口の地において、首を斬ら
れるはずでした。
 ところが、どうしたことでしょうか。
 その夜は生き延びて、依智(現在の神奈川県厚木市依知)という所へ移送されました。

 また、文永八年九月十三日の夜には、「日蓮が赦免されるだろう。」と、多くの者
が騒いでいました。
 ところが、どうしたことでしょうか。
 佐渡の国まで流されることになりました。

 佐渡の国においては、「今日、日蓮の首を斬るだろう。」「明日、日蓮の首を斬る
だろう。」と云われている間に、四年の歳月が経過しました。
 結局、文永十一年〈太歳甲戌〉二月十四日に赦免されて、文永十一年三月二十六日
に鎌倉へ入りました。

 そして、文永十一年四月八日には、平左衛門尉に見参(面会)して、様々な事を申
しつけました。(注、日蓮大聖人の三度目の国家諫暁)
 その際に、私(日蓮大聖人)は、「今年中に、必ず、蒙古が押し寄せて来るであろ
う。」と、平左衛門尉に申しておきました。

 そして、文永十一年五月十二日に鎌倉を出て、この山(身延山)に入りました。
 私(日蓮大聖人)は、偏(ひとえ)に、父母の恩・師匠の恩・三宝の恩・国恩を報
じようとするために、我が身を破り、命を捨てたのです。
 けれども、身命が失われなかったので、この山(身延山)へ入ることにしました。

 また、賢人の習いとして、「三度、国を諫めたとしても、用いられることがなけれ
ば、山林に交わりなさい。」と、云われています。
 これは、古代からの定説であります。 
 
 この功徳は、必ずや、上は三宝(仏・法・僧)から、下は大梵天王・帝釈天王・大
日天王・大月天王までも、ご存知のことでしょう。
 私(日蓮大聖人)の父母も、故道善房の聖霊も、助かることでしょう。

 ただし、疑問に思うことがあります。

 目連尊者は、母の青提女を助けようと思いました。けれども、青提女は、餓鬼道に
墜ちてしまいました。
 大覚世尊の御子であっても、善星比丘は、阿鼻地獄へ墜ちてしまいました。

 これらの事例は、「仮に、その人を、力の限り、救おうと思ったとしても、自業自
得の結果であるものは、救い難い。」ということを意味しています。

 故道善房は、大切な弟子のことですから、「日蓮が憎い。」とは思わなかったので
しょう。
 けれども、極めて臆病である上に、「清澄寺を離れたくない。」と、執着した人(道
善房)であります。

 「地頭の東条景信が恐ろしい。」と、道善房は云っていました。
 また、提婆達多と瞿伽利(注、提婆達多を師匠として、舎利弗や目連を誹謗したた
め、地獄に堕ちた釈迦族の者)との関係のような、円智と実成(注、二人とも、日蓮
大聖人に敵対した清澄寺の住僧と思われる。)が清澄寺の上と下に居て、道善房は脅
されていました。

 それらのことを必要以上に恐れて、愛おしいと思う年頃の弟子等さえも捨ててしま
った人(道善房)ですから、「後生は、如何なるものになるのか。」と、疑っていま
す。

 ただ一つの救いは、東条景信と円智・実城が先に死亡したことです。
 それによって、道善房は、何らかの救済になったと思われます。
 けれども、彼等(東条景信・円智・実城)は、法華経の十羅刹女の責めを被って、
早々に亡くなったのであります。

 後に、道善坊は、少しだけ、法華経を信じるようになりました。
 しかし、それは、喧嘩をした後の乳切木(護身用の棒)のようなものです。また、
昼の灯火のようなものです。
 それらは、時機を逸してしまえば、何の役にも立ちません。

 その上、如何なる事があったとしても、子や弟子等に対しては、不便に思うもので
あります。
 力のない人ではなかったにも関わらず、佐渡国まで流されていた私(日蓮大聖人)
の許を一度も訪れなかった事は、道善房が法華経を信じていなかった証しになるでし
ょう。

 それにしても、嘆かわしいことでありますので、彼の人(道善房)の御死去の報せ
を聞いた際には、仮に、火の中に入ったとしても、水の中に沈んだとしても、道中を
走り続けたとしても、清澄寺へ行きたかったのです。

 「御墓を叩いて、法華経を一巻読誦しよう。」と、私(日蓮大聖人)は、強く思い
ました。

 けれども、賢人の習いとして、自分(日蓮大聖人)の心の中では、遁世(隠遁の身)
と思っていなくても、世間の人は、私(日蓮大聖人)のことを、遁世(隠遁の身)と
認識しているでしょうから、見境もなく走り出したならば、「最後まで、意志を通す
ことの出来ない人だ。」と、思うに違いありません。
 
 ならば、如何に、私(日蓮大聖人)が道善房のことを思っていたとしても、参上す
るべきではありません。

 ただし、各々御二人(浄顕房・義浄房)は、日蓮が幼少であった頃の師匠でいらっ
しゃいます。
 勤操僧正・行表僧正は、伝教大師の御師でありました。ところが、後になると、返
って、伝教大師の御弟子となられています。
 私(日蓮大聖人)と浄顕房・義浄房の関係は、それと同様です。

 日蓮が東条景信に憎まれて、清澄山を出た際に、私(日蓮大聖人)を追って、浄顕
房・義浄房が清澄山を忍び出られたことは、天下第一の法華経の御奉公であります。
 故に、後生に対して、疑いをお持ちになってはなりません。

 質問致します。

 法華経一部・八巻・二十八品の中において、何物が肝心になるのでしょうか。

 お答えします。

 華厳経の肝心は、大方広仏華厳経です。
 阿含経の肝心は、仏説中阿含経です。
 大集経の肝心は、大方等大集経です。
 般若経の肝心は、摩訶般若波羅蜜経です。
 双観経の肝心は、仏説無量寿経です。
 観経の肝心は、仏説観無量寿経です。
 阿弥陀経の肝心は、仏説阿弥陀経です。
 涅槃経の肝心は、大般涅槃経です。

 このように、一切経においては、皆、『如是我聞』(注、仏教の経典の冒頭には、
共通して、『如是我聞→是くの如く、我は聞いた。』と記されている。)の語句の
上に記された題目が、その経の肝心となっています。
          
 大乗経は大乗経なりに、小乗経は小乗経なりに、それぞれの経典の題目を以て、肝
心としています。
 大日経・金剛頂経・蘇悉地経等においても、また、同様であります。

 仏も、また、同様のことが云えます。
 大日如来・日月燈明仏・燃燈仏・大通仏・雲雷音王仏等々、これらの仏も、また、
その御名前の内に、種々の徳を備えられていらっしゃいます。

 今、この法華経においても、また、同様であります。
 法華経序品第一の冒頭の『如是我聞』の上にお記しになられた、『妙法蓮華経』の
五字は、即ち、法華経一部・八巻の肝心であり、また、一切経の肝心であり、そして、
一切の諸仏・菩薩・二乗(声聞・縁覚)・天・人・修羅・竜神等の頂上の正法であり
ます。
       
 質問致します。

 『南無妙法蓮華経』と、その意味を理解していない者が題目を唱えていたとします。
 その一方で、『南無大方広仏華厳経』と、その意味を理解していない者が題目を唱
えていたとします。

 これらの二つの行為は、同等になるのでしょうか。また、その題目を唱える功徳に、
浅深の差別があるのでしょうか。

 お答えします。
 それらの二つの行為の功徳には、浅深等の差別があります。

 疑問があります。
 その根拠は、如何なるものでしょうか。

 お答えします。

 小河は、露・涓(しずく)・井(井戸水)・渠(溝水)・江(入り江の水)等を収
めることは出来ます。けれども、大河を収めることは出来ません。
 大河は、露・涓(しずく)・井(井戸水)・渠(溝水)・江(入り江の水)、及び、
小河を収めることは出来ます。けれども、大海を収めることは出来ません。

 阿含経は、露・涓(しずく)・井(井戸水)・渠(溝水)・江(入り江の水)等を
収めた小河のようなものです。
 方等経・阿弥陀経・大日経・華厳経等は、小河を収めた大河のようなものです。

 それに対して、法華経は、露・涓(しずく)・井(井戸水)・渠(溝水)・江(入
り江の水)・小河・大河・天雨等の一切の水を、一滴たりとも漏らさぬ大海となりま
す。

 それを譬えると、身体に熱のある者が大寒水の辺(ほとり)で寝ていれば、涼しく
感じます。けれども、小水の辺(ほとり)で臥しているだけでは、依然として、身体
が苦しいようなものです。

 五逆罪(殺父・殺母・殺阿羅漢・出仏身血・破和合僧)の謗法を犯した大一闡提人
(注、正法を信ずることなく、覚りを求める心もないため、成仏する機縁を持たない
人)が、阿含経・華厳経・観無量寿経・大日経等の小水の辺(ほとり)で臥している
だけでは、大罪の大熱を冷ますことが出来ません。

 しかし、法華経の大雪山の上に臥したならば、五逆罪・正法誹謗・一闡提等の大熱
は、忽(たちま)ちに退散するのであります。
 
 ならば、愚者(機根の乏しい末法の衆生)は、必ず、法華経を信ずるべきでありま
す。
 各々の経典の題目を唱えること自体は、易しい行為です。それは、何れの経典の題
目を唱える場合でも、同じです。
 けれども、愚者と智者が題目を唱える功徳には、天地雲泥の差があります。

 (注、上記は、「たとえ、愚者であったとしても、法華経の題目を唱える者の功徳
は勝れている。しかし、智者であったとしても、爾前経の題目を唱える者の功徳は劣
っている。」という意味。)

 それを譬えると、大きな綱は、大きな力を持っている者であっても、切り難いので
す。
 しかし、小さな力しか持っていなくても、小刀を持っていれば、容易に、大きな綱
を切ることが出来ます。

 同様に、堅い石を、鈍刀で切ろうとすると、大きな力を持っている者であっても、
割り難いのです。
 しかし、利剣を持っていれば、小さな力しか持っていなくでも、割ることが出来ます。
 
 更に譬えると、たとえ、成分を知らなくても、薬を服すれば、病は治癒します。
 しかし、単なる食物を服しただけでは、病が治癒しません。

 また、仙薬(不老不死の薬)を飲めば、寿命を延ばすことが出来ます。
 けれども、凡薬(凡庸な効能の薬)を飲んだだけでは、病を癒せたとしても、寿命
を延ばすことが出来ません。
   
 疑問があります。
 法華経二十八品の中において、何が肝心となるのでしょうか。

 お答えします。

 ある者は、「法華経の各品は、皆、それぞれの事情に従って、肝心となる。」と、
云っています。

 ある者は、「方便品第二・如来寿量品第十六が肝心となる。」と、云っています。

 ある者は、「方便品第二が肝心となる。」と、云っています。

 ある者は、「如来寿量品第十六が肝心となる。」と、云っています。

 ある者は、「方便品第二の『開・示・悟・入』の法門(注、衆生に対して、仏の知
見を開かせ、示し、悟らせ、入らしめること。)が肝心となる。」と、云っています。

 ある者は、「方便品第二の『諸法実相』の法門(注、十界の諸法が、悉く、実相の
当体であり、妙法蓮華経の当体であること。)が肝心となる。」と、云っています。
     
 質問致します。
 あなたのお考えは、如何でしょうか。

 お答えします。
 「南無妙法蓮華経が肝心となる。」ということです。

 その証拠は、如何なるものでしょうか。

 お答えします。
 阿難尊者と文殊師利菩薩等は、『如是我聞』(注、是くの如く、我は聞いた。)等
と、云われています。それが、証拠となります。

 質問致します。
 その真意は、如何なるものでしょうか。

 お答えします。

 法華経が御説法されていた八年の間、阿難尊者と文殊師利菩薩は、この法華経の無
量の義を、一句・一偈・一字も残すことなく、御聴聞されています。
 そして、阿難尊者と文殊師利菩薩は、仏(釈尊)の御入滅後、仏典結集をなされて
います。

 九百九十九人の阿羅漢が筆に墨をつけていた際に、阿難尊者と文殊師利菩薩は、『妙
法蓮華経』と(阿羅漢に)書かせてから、『如是我聞』と(阿難尊者と文殊師利菩薩
が)お唱えになりました。

 この仏典結集の所行こそ、「『妙法蓮華経』の五字は、法華経一部・八巻・二十八
品の肝心となる。」ということへの証拠であります。

 故に、過去の日月灯明仏の時代から、法華経を講じていたと云われている、光宅寺
の法雲法師は、「『如是』とは、将(まさ)に、所聞(仏から聞いた教え)を伝えよ
うとして、経典の最前の題目に、法華経一部全体の法門を提示しているのである。」
等と、云われています。

 霊鷲山において、法華経を目の当たりに聴聞されたと云われている、天台大師は、
『如是』とは、所聞(仏から聞いた教え)の法体である。」等と、仰せになられてい
ます。

 章安大師は、このように、仰せになられています。

 「記者(天台大師の法門を御解釈された章安大師)は、このように、解釈して云う。
『思うに、序王(天台大師の序文)は、法華経の『玄意』(深い意味)を述べられて
いる。そして、法華経の『玄意』(深い意味)は、法華経の『文心』(経文の心)を
述べられている。」と。

 この章安大師の御解釈において、「『文心』とは、題目である。そして、題目は、
法華経の心である。」ということが云われています。

 妙楽大師は、『法華玄義釈籤』において、「釈尊御一代の教法を収めることは、法
華経の『文心』より出ていることである。」等と、仰せになられています。
 
 天竺(インド)には、七十箇国があります。その総名は、月氏国と云います。

 日本には、六十箇国があります。その総名は、日本国と云います。

 『月氏』という名の内に、七十箇国、及び、その国々の人間や家畜や珍宝等が、皆、
入っています。

 『日本』という名の内に、六十六箇国があります。
 出羽国の鷲の羽も、奥州(東北)の金も、及び、国の珍宝や人間や家畜も、そして、
寺塔も神社も、皆、『日本』という二字の名の内に収まっています。

 
 天眼(天人の眼)を以て、『日本』という二字を見れば、日本の六十六箇国、及び、
その国々の人間や家畜等を見ることが出来ます。

 法眼(仏法の眼)を以て、『日本』という二字を見れば、人間や家畜等がこちらで
死んでいたり、あちらで生まれたりしている状況を見ることが出来ます。

 それを譬えると、人の声を聞いて体格を把握したり、足跡を見て身体の大小を推測
するようなものであります。
 そして、蓮を見れば、池の大小を計る事が出来ます。また、雨を見れば、竜の大き
さを考えられます。

 これらの事例には、皆、「一つの物事に、一切が含有されている。」という道理が
示されております。

 阿含経の題目には、概ね、一切の法門があるようにも見えます。
 けれども、ただ、小乗の釈迦仏が一仏いらっしゃるだけで、その他の仏は説かれて
いません。

 また、華厳経・観無量寿経・大日経等には、一切の法門があるようにも見えます。
 けれども、二乗(声聞・縁覚)を仏に成す法門(二乗作仏)と、久遠実成(注、法
華経本門の如来寿量品第十六において、釈尊が五百塵点劫という久遠の昔に、法身・
報身・応身の三身を備えられた仏に成道されていた真実を明かされたこと。)の釈迦
仏が説かれていません。

 それを例えると、花が咲くだけで、果実が実らないようなものです。
 雷が鳴るだけで、雨が降らないようなものです。
 鼓を叩いても、音が鳴らないようなものです。
 眼があっても、物を見ることが出来ないようなものです。
 女性であっても、子供を産めないようものです。
 人間であっても、命がなく、また、神(魂)がないようなものです。

 大日如来の真言・薬師如来の真言・阿弥陀如来の真言・観世音菩薩の真言等も、ま
た、同様のことであります。
    
 それらの経典(爾前経)の中においては、あたかも、大王・須弥山・日月・良薬・
如意宝珠・利剣等のように扱われています。
 けれども、法華経の題目と対比すれば、天地雲泥の勝劣が存在するだけでなく、そ
れらの経典(爾前経)のいずれにおいても、当初から備えていた自用(はたらき)が
失われます。

 それを例えると、多くの星の光が、一つの日輪(太陽)に奪われるようなものです。
 たくさんの鉄が一つの磁石によって、鉄の特質が失われるために、引き寄せられる
ようなものです。
 大剣が小火の中に入れられると、その用(特性)を失うようなものです。
 牛乳・驢乳(ロバの乳)等が、師子王の乳に出会えば、水と成るようなものです。
 多くの狐が術を使っても、一匹の犬に遭遇すれば、その術の力を失うようなもので
す。
 狗犬(小犬)が小虎に遭遇すると、顔色が変わるようなものです。

 南無妙法蓮華経と唱えるならば、南無阿弥陀仏の用(はたらき)も、南無大日真言
の用(はたらき)も、観世音菩薩の用(はたらき)も、一切の諸仏・諸経・諸菩薩の
用(はたらき)も、皆、悉く、妙法蓮華経の用(はたらき)によって、失なわれます。
 
 それらの経々は、妙法蓮華経の用(はたらき)用を借りなければ、皆、無駄なもの
となってしまいます。
 それは、当時(現在)、眼の前にある道理であります。

 日蓮が南無妙法蓮華経と弘めれば、南無阿弥陀仏の用(はたらき)は、あたかも、
月が隠れるように、潮が干いていくように、秋冬に草が枯れるように、氷が太陽の光
で溶けるように、その用(はたらき)が失われていく様子を見なさい。

 質問致します。

 もし、本当に、この法(妙法蓮華経)が尊いとするならば、何故に、迦葉・阿難・
馬鳴・竜樹・無著・天親・南岳・天台・妙楽・伝教等は、あたかも、善導が南無阿弥
陀仏を勧めて、漢土(中国)へ弘通したように、また、慧心・永観・法然が日本国を、
皆、阿弥陀仏の信仰に為したように、お勧めにならなかったのでしょうか。

 お答えします。

 この難(論難)は、古くからの難(論難)であります。
 今に始まった事ではありません。

 馬鳴菩薩・竜樹菩薩等は、仏(釈尊)の御入滅後六百年・七百年頃に、御出現され
た大論師であります。
 これらの人々が世に出られて、大乗経を弘通されると、諸々の小乗の者が疑って、
このように云いました。

 「迦葉・阿難等は、仏(釈尊)の御入滅後二十年から四十年ほど御存命になられて、
正法を弘められた理由は、如来(釈尊)御一代の肝心を弘通されるためであろう。

 ところが、これらの人々(馬鳴菩薩・竜樹菩薩等)は、ただ、如来(釈尊)の『苦・
空・無常・無我』の法門だけに特化して、法門を説いている。
 今、如何に、馬鳴・竜樹等が賢かったとしても、迦葉・阿難等に対して、勝るもの
ではない。〈これが第一の論難〉

 迦葉は、仏(釈尊)にお会いになられて、解脱(覚り)を得られた人である。
 しかし、これらの人々(馬鳴菩薩・竜樹菩薩等)は、仏(釈尊)にお会いになって
いない。〈これが第二の論難〉

 インドの外道は、『常・楽・我・浄』の法門を立てている。
 それに対して、仏(釈尊)は、世に御出現なされて、『苦・空・無常・無我』と、
お説きになられている。
 ところが、この者ども(馬鳴菩薩・竜樹菩薩等)は、『常・楽・我・浄』と云って
いる。〈これが第三の論難〉」と。
 
 そこで、仏(釈尊)も御入滅になられました。
 また、迦葉等もお亡くなりになりましたので、第六天の魔王が小乗の者どもの身に
入れ替わって、「仏法を破り、外道の法と為してしまおう。」と、しているのであり
ます。

 それ故に、「仏法の怨敵に対しては、頭を割れ、首を切れ、命を断て、食物を止め
よ、国を追放せよ。」と、諸の小乗の人々が申していました。

 けれども、馬鳴菩薩・竜樹菩薩は、ただ、一人・二人であります。
 馬鳴菩薩・竜樹菩薩は、昼夜に渡って、悪口の声を聞き、朝暮に渡って、杖や木で
撲たれたました。
     
 しかしながら、この二人(馬鳴菩薩・竜樹菩薩)は、仏(釈尊)の御使いでありま
す。

 まさしく、摩耶経においては、「仏滅後六百年に馬鳴が出現して、仏滅後七百年に
竜樹が出現するであろう。」と、お説きになられています。
 その上、楞伽経等にも、同様の事柄が記されています。
 また、付法蔵経においても、同様の事柄が記されているのは、申し上げるに及びま
せん。

 けれども、諸の小乗の者どもは、それらの経典の御記述を用いずに、ただ、理不尽
に、馬鳴菩薩・竜樹菩薩を責めたのであります。

 法華経法師品第十においては、「如来現在・猶多怨嫉・況滅度後」(如来の御在世
でさえ、なお、怨嫉が多い。ましてや、御入滅の後には、尚更である。)と、仰せに
なられています。

 馬鳴菩薩・竜樹菩薩は、上記の経文の意義を、この時に当たって、少々、御自身の
罪障を知ることにより、身読なされたのであります。
 提婆菩薩が外道に殺されたり、師子尊者が首を斬られたことも、この事例を以て、
推察していきなさい。

 また、仏滅後・一千五百余年において、月氏(インド)の東の方角に、漢土(中国)
という国がありました。
 その国(漢土)の『陳』・『隋』の時代に、天台大師が御出世なさっていらっしゃ
います。

 この人(天台大師)は、このように仰いました。

 「如来(釈尊)の聖教には、大乗教もあれば小乗教もある。顕教もあれば密教もあ
る。権教(爾前経)もあれば実教(法華経)もある。

 迦葉・阿難等は、一向に(もっぱら)、小乗教を弘めた。

 馬鳴・竜樹・無著・天親等は、権大乗教を弘めて、実大乗教の法華経については、
ただ、指を指(さ)して、法義を隠されていた。

 或いは、法華経の表面的なことだけを述べられて、法華経の始・中・終(全体)に
ついては述べられなかった。

 或いは、法華経の迹門のことだけを述べられて、法華経の本門については説き顕さ
れなかった。

 或いは、法華経の本門と迹門のことを説かれていても、法華経の観心(注、一念三
千の法門のこと。末法においては、事の一念三千・三大秘法の御本尊となる。)につ
いては説かれていなかった。」と。

 すると、漢土(中国)における南三・北七の十家の流れを汲む末弟(学者・僧侶)
数千万人は、一時に、どっと嘲笑しました。

 そして、南三・北七の十家の流れを汲む、末弟(学者・僧侶)数千万人は、こう云
いました。

 「世も末になると、不思議なことを云う法師が出現するものだ。

 時によっては、我等を偏執する(執拗に中傷する)者がいたとしても、後漢の永平
十年〈丁卯〉の年(仏法が中国に伝来した年)から、今、陳・隋の時代に至るまでの
三蔵・人師二百六十余人に対して、『物を知らない。』と申した上に、『謗法の者で
ある。悪道に墜ちた。』と云う者(天台大師)が出現した。

 この者(天台大師)は、あまりにも狂氣じみているために、法華経を持って来られ
た鳩摩羅什三蔵に対しても、『物を知らない者だ。』と申している。」と。

 また、南三・北七の十家の流れを汲む、末弟(学者・僧侶)数千万人は、このよう
に、天台大師を罵りました。

 「漢土(中国)のことは、さて、置いたとしても、この者(天台大師)は、月氏(イ
ンド)の大論師である、竜樹・天親等の数百人の四依の菩薩(注、仏滅後に、正法を
護持・弘通して、人々の拠りどころとなる四種の菩薩のこと。)に対しても、『未だ
に、実義を述べられていない。』と云っている。

 この者(天台大師)を殺そうとする人がいたとしても、鷹を殺すようなものだ。
 鬼を殺すよりも、この者(天台大師)を殺した方が有益である。」と。

 また、妙楽大師の時代には、月氏(インド)から、法相宗・真言宗が渡来してきま
した。
 そして、漢土(中国)においても、華厳宗が開かれました。
 妙楽大師は、それらの宗派の者を、とにかく責められたので、これもまた、騒ぎに
なりました。

 日本国においては、仏滅後・一千八百年に当たる頃、伝教大師が御出現なされまし
た。

 伝教大師は、天台大師の御注釈書を御覧になられた上で、欽明天皇の時代から二百
六十余年間に及ぶ、南都六宗の教えを責められました。
 すると、南都六宗の者どもは、「釈尊御在世当時の外道や、漢土(中国)の道士(道
教の僧)が、日本に出現した。」と云って、伝教大師を誹謗しました。

 そして、伝教大師は、「仏滅後・一千八百年間において、月氏(インド)・漢土(中
国)・日本に存在しなかった、円頓の大戒(注、円頓の経典である法華経の教旨に則
った、大乗戒壇のこと。)を比叡山延暦寺に立てよう。」と、仰せになられました。

 それのみならず、伝教大師は、「西国(九州)・筑紫国の観音寺の戒壇、東国(関
東)・下野国の小野寺の戒壇、中国(近畿)・大和国の東大寺の戒壇は、いずれも同
様に、小乗教の臭糞の戒壇である。その価値は、瓦や石程度のものである。その戒を
持つ法師等は、野干(狐)や猿猴(猿)等の如き存在である。」と、仰せになられま
した。

 それに対して、南都六宗の者どもは、このように、伝教大師を罵りました。

 「たいへん不思議なことではないか。法師(僧侶)に似た大蝗虫(イナゴ)が、国
に出現した。仏教の苗は、一時にして、失われてしまうだろう。

 殷の紂王・夏の桀王(注、いずれも、中国の悪王として知られる。)が法師(僧侶)
となって、日本に生まれたのである。
 仏教を破壊した、後周の宇文(武帝)・唐の武宗が、再び、世に出現したのである。

 仏法も、ただ今、まさに、失われてしまうだろう。この国も、滅びてしまうだろう。」
と。

 このように、大乗教と小乗教の二種類の法師が同時期に出現した状況は、あたかも、
修羅と帝釈天王、秦の項羽と漢の高祖を、一国に並べたような模様でした。
 
 そして、諸の人々は、手を叩き、舌を震わせながら、このように、伝教大師を罵り
合っていました。

 「仏(釈尊)の御在世には、仏(釈尊)と提婆達多との間で、二つの戒壇に関する
争い事があったため、若干の人々が死んだ。
 そのため、他宗(天台宗以外の宗派)に背くことには、理解が出来る。

 しかし、我々の師匠である天台大師でさえもお立てにならなかった、円頓の戒壇(注、
円満かつ速やかに成仏する教法の戒壇=法華経の戒壇)を、伝教が『建立するべきで
ある。』と主張していることは、誠に、不思議ではないか。

 何と、恐ろしいことであろう。何と、恐ろしいことであろう。」と。

 それでも、経文には、明確に、戒壇建立の意義がお説きになられています。
 そのため、比叡山の大乗戒壇(法華経の戒壇)は、既(弘仁14年・823年)に、
建立されたのであります。
     
 従って、内証(心中の覚り)が同じであったとしても、その方々が流布された教法
の価値としては、迦葉尊者・阿難尊者よりも、馬鳴菩薩・竜樹菩薩等の方が勝れてい
ます。
 また、馬鳴菩薩等よりも、天台大師の方が勝れています。
 そして、天台大師よりも、伝教大師の方が超越されています。(注、天台大師が建
立出来なかった法華経の戒壇を、伝教大師が比叡山に建立されたため。)

 つまり、「世が末になると、人の智慧は浅くなり、仏教は深くなる。」ということ
です。
 それを例えると、軽病には凡薬(通常の薬)で済んだとしても、重病には仙薬(不
老不死の薬)が必要となるようなものです。
 そして、弱い人には、強い味方がいることによって、助けることが出来るようなも
のです。

 質問致します。
 天台大師・伝教大師が弘通されなかった正法があるのでしょうか。

 お答えします。
 有ります。

 求めて、質問致します。
 それは、何物でしょうか。

 お答えします。
 三つあります。

 末法のために、仏(釈尊)が留め置かれた正法です。
 それは、迦葉尊者・阿難尊者等や、馬鳴菩薩・竜樹菩薩等や、天台大師・伝教大師
等が弘通されなかった正法となります。

 求めて、質問致します。
 その形貌(形や姿)は、如何なるものでしょうか。

 お答えします。

 一つには、日本及び一閻浮提(世界全体)が、一同に、本門の教主釈尊(人法一箇
の大御本尊)を本尊とするべきであります。 
 所謂、宝塔(注、法華経見宝塔品第十一において、虚空会の儀式で涌出した七宝の
塔。)の内に在す、釈迦如来・多宝如来・その他の諸仏、並びに、上行菩薩等の地涌
の四菩薩が脇士となります。

 二つには、本門の戒壇であります。

 三つには、日本・漢土(中国)・月氏(インド)・一閻浮提(世界全体)において、
人ごとに、智慧のある者・智慧のない者を区別することなく、一同に、他事(他の教
えや修行)を捨てて、南無妙法蓮華経と唱えるべきであります。
        
 しかし、この事(本門の本尊・本門の戒壇・本門の題目)は、未だに、広まってい
ません。
 一閻浮提(世界中)の内で、仏滅後・二千二百二十五年の間、一人も唱えておりま
せん。 
 日蓮一人だけが、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経等と、声も惜しまずに、唱えて
いるのであります。

 そのことを例えると、風の強さによって、波に大小が生じたり、薪の量によって、
炎の高低があったり、池によって、蓮の大小が異なったりするようなものです。

 また、雨の大小は、竜によって定まります。
 そして、「根が深ければ、枝が茂る。水源が遠ければ、川の流れは長い。」と、云
われていることも、同様の事例になります。

 周の時代が七百年も続いた要因は、文王(周王朝の創始者である武王の父)が『礼
孝』を重んじたからであります。
 その一方、秦の時代が長く続かなかったのは、始皇(始皇帝)の左道(誤った政治)
に因るものです。

 日蓮の慈悲が広大であるならば、南無妙法蓮華経は、末法万年の他、未来までも流
れていくことでしょう。
 日本国の一切衆生の盲目を開いていく功徳があります。それによって、無間地獄へ
の道を塞ぎます。
 この功徳は、伝教大師・天台大師を超えて、竜樹菩薩・迦葉尊者にも勝れています。

 極楽における百年の修行の功徳は、穢土(娑婆世界)における一日の功徳に及びま
せん。
 正像二千年(正法時代・像法時代の二千年間)の弘通は、末法の一時の弘通に劣り
ます。
 
 これは、ひとえに、日蓮の智慧が賢いからではありません。末法という『時』の必
然性であります。
 春には花が咲き、秋には果実が実り、夏は暖かく、冬は冷たくなります。
 『時』の必然性があるからこそ、季節が運行しているのではないでしょうか。

 法華経薬王菩薩本事品第二十三においては、「私(釈尊)が入滅した後、後の五百
年の間(末法)に、広宣流布をして、閻浮提(世界中)において、悪魔・魔民・諸の
天竜・夜叉・鳩槃荼(鬼神)等に隙を与えることによって、この教えが断絶するよう
なことがあってはならない。」等と、仰せになられています。

 もし、この経文が空しいものとなってしまうのであれば、法華経において、成仏の
記別(注、仏が未来世における弟子の成仏を明らかにすること)が与えられていたと
しても、舎利弗は、華光如来となる事が出来ません。

 迦葉尊者も、光明如来となる事が出来ません。
 目連尊者も、多摩羅跋栴檀香仏となる事が出来ません。
 阿難尊者も、山海慧自在通王仏となる事が出来ません。
 摩訶波闍波提比丘尼も、一切衆生喜見仏となる事が出来ません。
 耶輸陀羅比丘尼も、具足千万光相仏となる事が出来ません。

 そして、法華経で説かれた『三千塵点』(注、法華経迹門でお説きになられた、久遠
の三千塵点劫の過去のこと。)も戯論となり、『五百塵点』(注、法華経本門でお説き
になられた、久遠の五百塵点劫の過去のこと。)も妄語となるでしょう。

 恐らく、教主釈尊は無間地獄に堕ちて、多宝如来は阿鼻地獄の炎にむせび、十方の諸
仏は八大地獄を栖として、一切の菩薩は百三十六の地獄の苦しみを受けることになるで
しょう。

 何故に、そのような義(仮説)が成り立つのでしょうか。
 そのような義(仮説)が成り立たないのであれば、日本国の人々は、一同に、南無妙
法蓮華経と唱えることになります。

 ならば、咲いた花は、根に返っていきます。果実の真味(成分)は、土に留まります。
 この功徳は、故道善房(日蓮大聖人の師匠)の聖霊の御身に集まることでしょう。

 南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。

 建治二年〈太歳丙子〉七月二十一日、この書を記しました。

 甲州(山梨県)波木井の郷・身延山の岳より、安房国・東条郡・清澄山在住の浄顕
房・義城房(日蓮大聖人の修業時代の兄弟子)の許へ、奉送致します。

 報恩抄 下 (訳文-2)

 

 お答えします。


 ただし、古代の人々が、不可思議の徳を持っていた場合であっても、仏法の邪正は、
そのような事に依っておりません。
 
 インドの外道が、恒河(ガンジス河)の水を、自らの耳に十二年間留めたり、或い
は、大海の水を吸い干したり、或いは、太陽や月を手に握ったり、或いは、仏教徒を
牛や羊に変えたりしました。

 けれども、彼等は、益々、大慢を起こして、生死に迷う業因を積んでいったのであ
ります。

 このことを、天台大師は、『法華玄義』において、「名利を求めることによって、
見愛(注、三界の煩悩を総称した見思惑のこと。)を増す行為である。」と、御解釈
されていらっしゃいます。

 光宅寺の法雲が、忽(たちま)ちに雨を降らせたり、須臾(瞬時)に花を咲かせた
ことに関しても、妙楽大師は、『法華玄義釈籤』において、「感応は、このように勝
れていたとしても、なお、仏法の理には適っていない。」と、お書きになられていま
す。

 天台大師は、法華経をお読みになられて、須臾(瞬時)に、甘雨を降らせていらっ
しゃいます。
 また、伝教大師も、三日の間に、甘露の雨を降らせていらっしゃいます。

 しかし、天台大師も伝教大師も、雨を降らせたことによって、「御仏意に叶ってい
る。」とは、仰せになられていません。

 仮に、弘法大師が如何なる徳をお持ちであったとしても、法華経を『戯論の法』(児
戯に類した無益な法)と定めて、釈迦仏のことを『無明の辺域』(煩悩に縛られた迷
いの境地)と書かれている御筆(記述)を、賢い智慧をお持ちの人が用いてはなりま
せん。
 ましてや、上記に挙げられている、弘法大師の徳の数々には、不審な事があります。

 弘法大師の『般若心経秘鍵』においては、「弘仁九年の春、天下に大疫病が流行し
た。」等と、記されています。
 春は九十日(3ヶ月)あります。弘仁九年の何れの月、何れの日になるのでしょう
か。
 これが、第一の不審点です。

 そもそも、弘仁九年には、大疫病が発生していたのでしょうか。
 これが、第二の不審点です。

 また、弘法大師の『般若心経秘鍵』においては、「夜が変じて、日光が赫々と輝い
ていた。」と、記されています。
 この記述の真偽は、もっとも大事なことです。

 弘仁九年は、嵯峨天皇の御時代となります。
 そのような記述が左史・右史の記録(太政官の公文書)に掲載されているのでしょ
うか。
 これが、第三の不審点です。

 たとえ、左史・右史の記録(太政官の公文書)に掲載されていたとしても、信じ難
い事であります。
 何故なら、成劫二十劫・住劫九劫・以上二十九劫の間において、未だに、発生して
いない天変であるからです。

(注記、仏教の経典では、『成・住・壊・空』の『四劫』が説かれている。
 ある世界が成立して、流転・破壊を経てから、次の成立に至るまでの期間を、『成劫・
住劫・壊劫・空劫』の四つに分けられている。

 上記御金言の「成劫」とは、世界が生成していく時代のこと。
 また、上記御金言の「住劫」とは、世界が安定・構築していく時代のことになる。

 そして、『成劫・住劫・壊劫・空劫』は、それぞれ、二十劫ずつに分かれている。
 その一劫は、人寿が十歳から八万歳まで増えて、また、八万歳から十歳まで減ってい
く期間となる。

 上記御金言の「住劫九劫」とは、『住劫』の二十劫における、第九番目の劫の時期を
意味している。
 また、上記御金言の「二十九劫が間」とは、『成劫』の二十劫+『住劫』の九劫=『二
十九劫』を意味している。)

 夜中に、日輪(太陽)が出現したという事は、如何なる事でしょうか。
 また、釈迦如来御一代の聖教にも、そのような記載は見受けられません。

 「未来において、夜中に、日輪(太陽)が出る。」ということは、中国の三皇(伏
羲、神農、黄帝)・五帝(ショウコウ、センギョク、テイコク、帝堯、帝舜)の三墳
・五典(三皇・五帝に関連した書物)にも掲載されていません。

 仏教の経典においては、減劫(人寿が減少していく時代)の時にだけ、「二つの日
(太陽)、三つの日(太陽)、以下、七つの日(太陽)が出る。」という旨の御記述
があります。
 けれども、それは、昼間のことです。
 夜に日(太陽)が出現すれば、東・西・北の三方角は、一体、どうなるのでしょう
か。
 
 たとえ、内典(仏教の書物)・外典(仏教以外の書物)に記載されていなくても、
現実に、「弘仁九年の春、何れの月、何れの日、何れの夜の、何れの時に、日(太陽)
が出た。」という旨の公家・諸家・比叡山等の日記(記録)が存在するならば、少し
は、信じることも出来るでしょう。

 その次の『般若心経秘鍵』の記述では、「昔、私(弘法大師)は、霊鷲山の御説法
の際に、莚(むしろ)に座して、親しく、その深文を聞き奉っている。」等と、書か
れています。

 この記述は、この筆(般若心経秘鍵)を、他の人に信用させるために、創作した大
妄語でしょう。

 仮に、『般若心経秘鍵』の記述が真実であるならば、霊鷲山において、「法華経は
戯論、大日経は真実。」と、仏(釈尊)がお説きになられたことを、阿難・文殊が誤
って、「妙法華経は、皆、是れ、真実である。(妙法華経 皆是真実)」と、書いて
しまったことになるのでしょうか。
 その他、如何に解釈すれば、宜しいのでしょうか。

 語るに足りない淫女(和泉式部)や破戒の法師(古曾部入道)等が和歌を詠んで、
雨を降らせたにも関わらず、三七日(三週間)経っても、雨を降らせることが出来な
かった人(弘法)に、このような徳があるのでしょうか。
 これが、第四の不審点です。

 『孔雀経音義』においては、「弘法大師は、智拳の印(金剛界の大日如来が結んで
いる拳の印)を結んで、南方に向かうと、急に面門(口)が開いて、金色の毘盧遮那
仏と成った。」等と、記されています。

 この記述も、また、「何れの王、何れの年、何れの時」の出来事に該当しているの
でしょうか。

 漢土(中国)においては、『建元』の時代を始めとして、日本においては、『大宝』
の時代を始めとして、緇素の日記(僧侶・在俗の記録)が存在しています。
 そして、大事件が発生した時には、必ず、その年号が記されています。

 ところが、これほどの大事件があったにもかかわらず、王の名前も、臣下の名前も、
年号も、日時も、何故に、記されていないのでしょうか。

 また、その次の『孔雀経音義』の記述においては、「三論宗の道昌、法相宗の源仁、
華厳宗の道雄、天台宗の円澄等は、皆、その法類である。」等と、記されています。

 そもそも、円澄は、寂光大師と称しています。日本天台宗・第二代の座主になりま
す。
 では、なぜ、その時に、日本天台宗・第一代の座主であった義真和尚や、日本天台
宗の根本(宗祖・本師)となる、伝教大師を招かなかったのでしょうか。

 円澄は、日本天台宗・第二代の座主であります。そして、円澄は、伝教大師の御弟
子でした。けれども、その一方では、弘法大師の弟子でもありました。
 
 従って、弟子の円澄を召くよりも、あるいは、三論宗の道昌、法相宗の源仁、華厳
宗の道雄を招くよりも、日本天台宗の伝教大師・義真和尚のお二人を召くべきだった
のではないでしょうか。
     
 しかも、この日記(孔雀経音義)においては、「真言瑜伽の宗(瑜伽の修行をする
真言宗)と真言密教の曼荼羅の道法は、この時から建立された。」等と、記されてい
ます。
 この『孔雀経音義』の筆記は、「伝教大師・義真和尚が御存命されている時のもの
である。」と、見受けられます。  

 弘法は、平城天皇の御時代の大同二年(807年)から弘仁十三年(822年)ま
で、盛んに、真言宗を弘めた人であります。
 その時、このお二人(伝教大師・義真和尚)は、現に、御存命でいらっしゃいまし
た。
 
 また、義真和尚は、天長十年(833年)まで生きていらっしゃいました。
 ならば、その時(833年)まで、弘法の真言宗は、弘まっていなかったのでしょ
うか。
 このように、『孔雀経音義』には、色々と、不審な点があります。

 そもそも、孔雀経の注釈書(孔雀経音義)は、弘法の弟子である真済が、自ら記し
た書物であります。
 因って、その内容は、信じ難いものがあります。

 また、真済は、邪見の者ではないでしょうか。
 このような書物を作成する際には、公家・諸家・天台宗の円澄の記述を引用して、
正当性を立証するべきでしょう。
 併せて、三論宗の道昌・法相宗の源仁・華厳宗の道雄の記述も引用するべきです。

 そして、『孔雀経音義』においては、「急に面門(口)が開いて、金色の毘盧遮那
仏と成った。」等と、記されています。

 「面門」とは、口のことです。口が開いたのでしょうか。
 「眉間が開いて」と書こうとしたものを、誤って、「面門(口)」と書いてしまっ
たのでしょうか。
 謀書(偽書)を作成するが故に、このような誤りがあるのではないでしょうか。
     
 『孔雀経音義』においては、「弘法大師は、智拳の印(金剛界の大日如来が結んで
いる拳の印)を結んで、南方に向かうと、急に面門(口)が開いて、金色の毘盧遮那
仏と成った。」と、云われています。
 
 しかし、涅槃経の第五巻においては、このように仰せになられています。

 「迦葉は、仏(釈尊)に申し上げた。

 世尊よ。我(迦葉)は、今、この四種の人(注、如来の御入滅後に依り所となる人。
須陀オン・斯陀含・阿那含・阿羅漢)に依らない。

 如何なる理由の故か。
 それは、『瞿師羅経』の中において、仏(釈尊)が瞿師羅の為に、このようにお説
きになられているからである。

 『もし、大宇宙の天魔が、仏法を破壊しようと欲するが故に、身を変じて、如来の
像(姿)となったとする。

 その有様は、仏の相好である三十二相・八十種好を具足しており、荘厳なる輝きを
発している。
 そして、その円満なる顔の光は、満月の明かりのように、遍く行き渡っている。

 眉間の白毫相(注、仏の眉間に白毛があること。三十二相の一つ。)は雪よりも白
く、(中略)、左の脇より水を出したり、右の脇より火を出したりする。』と、お説
きになられているからである。」と。

 また、涅槃経の第六巻においては、このように仰せになられています。

 「仏(釈尊)は、迦葉に対して、このように告げられた。

 『私(釈尊)が般涅槃(御入滅)した後に、 (中略)
 この魔波旬(第六天の魔王)が、段々と、当に、我が正法(釈尊の仏法)を破壊す
るであろう。 (中略)

 第六天の魔王が姿を変化させて、阿羅漢の身や仏の色身となるであろう。
 そして、第六天の魔王が、有漏の形(煩悩を有している身)でありながら、無漏の
身(煩悩を離れた身→仏の御身)に変じて、我が正法(釈尊の仏法)を破るであろう。』」
と。

 弘法大師は、「法華経は、華厳経・大日経に対しても、戯論(稚戯の如き拙い教え)
に過ぎない。」等と、云っています。
 しかも、弘法大師は、「仏身を現じた。」と、云っています。

 これらのことを、「第六天の魔王が、有漏の形(煩悩を有している身)でありなが
ら、仏の御身に変じて、我が正法(釈尊の仏法)を破るであろう。」と、涅槃経にお
いて、お記しになられているのであります。
    
 涅槃経で仰せになられている、『正法』とは、法華経のことになります。
 故に、その次の涅槃経の経文においては、「久しく、既に、成仏している。」と、
仰せになられています。
 また、涅槃経の経文では、「涅槃経は、法華経の中の如し。」等と、仰せになられ
ています。

 釈迦如来・多宝如来・十方の諸仏は、「一切経の中において、法華経は、真実の教
えである。大日経等の一切の経典は、不真実の教えである。」等と、仰せになられて
います。
 しかし、弘法大師は、「私(弘法大師)は仏身を現じた。華厳経・大日経に対すれ
ば、法華経は戯論となる。」等と、云われています。

 仏説が真実であるならば、まさしく、弘法は、天魔になるのではないでしょうか。

 また、三鈷(注、三鈷杵。真言密教の祈祷に用いる道具。)の記述は、特に不審が
あります。
 「漢土(中国)の人が、日本にやって来て、三鈷を掘り出した。」ということも、
信じ難いものがあります。

 以前から、人を遣わして、三鈷を埋めていたのではないでしょうか。
 ましてや、弘法は、日本の人であります。高野山に三鈷を埋めることは、簡単に出
来るはずです。
 
 弘法には、このような虚偽の話が多くあります。
 これらの事例を以て、「弘法は、御仏意に適っている人である。」と、認知するこ
との証拠とはなりません。


 そして、真言宗・禅宗・念仏宗等が次第に興隆してきた頃に、人王第八十二代・尊
成隠岐の法王(後鳥羽法皇)が、権太夫殿(北条義時)を滅ぼそうとして、年々、計
画を練っておられました。

 特段のことをしなくても、隠岐の法王(後鳥羽法皇)は国主(天皇)のお立場でし
たから、あたかも、師子王が兎(うさぎ)をねじ伏せるように、鷹が雉(きじ)を取
るように、権太夫殿(北条義時)を屈服させることは容易のはずでした。

 その上、隠岐の法王(後鳥羽法皇)は、比叡山・東寺・園城寺・奈良七大寺・天照
太神・正八幡・山王神社・加茂神社・春日神社等に、数年の間、或いは調伏の祈祷を
させたり、或いは神に祝詞を申し上げていました。

 にもかかわらず、戦が始まってしまうと、権太夫殿(北条義時)の攻撃を、二日・
三日の短期間さえも防ぐことが出来ずに、順徳上皇は佐渡の国(新潟県)へ、土御門
上皇は阿波の国(徳島県)へ、後鳥羽上皇は隠岐の国(島根県)へ流罪となってしま
いました。
 最終的に、この三人の上皇は、流罪の地で崩御なされたのであります。
     
 権太夫殿(北条義時)を調伏するための上首(代表者)であった、仁和寺御室(道
助法親王・後鳥羽上皇の第二皇子)は、ただ、東寺を追放されただけではありません。
 眼の如く寵愛されていた、第一の天童・勢多伽(道助法親王の長男)が首を切られ
たことは、調伏の祈祷が逆の作用をもたらした証拠であります。

 それは、「まさしく、『還著於本人』(注、法華経観世恩菩薩普門品第二十五の経
文が出典。法華経の行者を謗ったり害する者は、かえって、自分自身に、その果報を
受けるようになること。)の故である。」と、見受けられます。 

 しかし、この惨事は、まだ、僅かの事であります。
 この後、必ずや、日本国の国臣・万民が一人も漏れなく、まるで、乾草を積んで火
を付けられたように、大山が崩れて谷が埋められたように、我が国(日本国)が他国
から攻められる事が出来するでしょう。

 私(日蓮大聖人)も、その徳を仰いで、信じ奉っています。

 報恩抄 下 (訳文-1)

 日本国は、一同に、慈覚・智証・弘法の流れを汲むようになってしまいました。
 一人として、謗法を犯していない者はおりません。

 ただし、このような事に陥った根源を勘案してみると、あたかも、大荘厳仏の世の
末のようであり、一切明王仏(師子音王仏)の末法のようであります。

 (注記、『大荘厳仏の世の末』とは、仏蔵経において、大荘厳仏の涅槃の後に、空
の法義を継承した普事比丘が、四比丘の衆から誹謗されたことを示されている。
 『一切明王仏』は、『師子音王仏』のお書き誤り。諸法無行経において、師子音王
仏の末法に、諸法の実相を説かれた喜根比丘が、勝意比丘等から誹謗されたことを示
されている。)

 威音王仏(威音王如来)の末法においては、改悔があったとしても、なお、千劫と
いう極めて長い間、阿鼻地獄(無間地獄)に堕ちました。

 (注記、威音王仏とは、法華経常不軽菩薩品第二十に説かれている如来のこと。威
音王如来の像法の末に御出現された常不軽菩薩は、一切衆生を但行礼拝した。しかし、
増上慢の四衆から、杖木瓦石等の迫害を受けられている。一方、常不軽菩薩を迫害し
た者たちは、その罪によって、千劫の間阿鼻地獄に堕ちたが、法華経との逆縁によっ
て救済されている。上記の御金言は、その法華経常不軽菩薩品第二十の御記述の内容
を指されている。)

 ましてや、日本国の真言師・禅宗・念仏者等は、一分の改心もありません。
 法華経譬喩品第三に仰せの「如是展転、至無数劫」(是くの如く展転して、無数劫
の間、無間地獄に至る。)は、疑いのないことでしょう。

 このような謗法の国になってしまったため、諸天からも捨てられました。
 諸天がこの国を捨てられると、古くから日本国を守護されていた善神も、祠を焼き
払われて、寂光土の都へお帰りになってしまいました。
     
 ただ、日蓮だけが、この国に留まり残って、謗法を告げ示すと、国主は、この事(日
蓮大聖人の折伏)を怨みました。
 そのため、数百人の民を用いて、或いは罵詈を行ったり、或いは悪口を言ったり、
或いは杖木で打ったり、或いは刀剣で斬ったり、或いは宅々ごとに封鎖したり、或い
は家々ごとに追い払いをしました。

 それが叶わなければ、今度は、国主自らが手を下して、二度までも、私(日蓮大聖人)
を流罪(伊豆御流罪・佐渡御流罪)に処しました。
 そして、去る文永八年九月十二日には、龍口の地において、私(日蓮大聖人)の首を
切ろうとしました。

 最勝王経(金光明経)においては、「悪人を愛敬して、善人を治罰する由来の故に、
他方(他国)から怨賊が到来して、国の人民は喪乱に遭遇する。」等と、仰せになら
れています。

 大集経においては、「もし、また、諸の武士や国王が諸の非法を行って、世尊の声
聞の弟子を悩ませたり、もしくは、毀(そし)ったり、罵(ののし)ったり、刀杖を
以て打撃したり、及び、衣や鉢等の種々の資材・仏具を奪い、もしくは、他者からの
給施(布施)に妨害を起こす者があるならば、我等は、彼等に対して、自ずと、即座
に、他方(他国)からの怨敵を蜂起させるであろう。及び、自国内の領土にも、また、
兵が決起して、疫病・飢饉・季節はずれの風雨・闘争・訴訟が発生するであろう。ま
た、その王をしても、権力が久しいことはなく、また、当に、自らの国を亡失させる
であろう。」等と、仰せになられています。

 これらの経文の通りであるならば、日蓮がこの国にいなければ、仏(釈尊)は大妄
語の人となって、阿鼻地獄(無間地獄)は如何にしても脱れることが出来ないでしょ
う。

 去る文永八年九月十二日に、私(日蓮大聖人)は、平左衛門尉並びに数百人の兵士
に向かって、「日蓮は、日本国の柱である。日蓮を失うことになれば、日本国の柱を
倒す行為になる。」等と、云いました。

 前記の経文(最勝王経・大集経)には、「国主たちが、悪僧どもの讒言によって、
もしくは、諸の人々の悪口によって、智人を刑罰に処するならば、即座に、戦が起こ
り、また、大風を吹かせたり、他国から攻められるであろう。」という主旨のことが
記されています。

 去る文永九年二月の北条一門の同士討ちの戦(二月騒動)、文永十一年四月の大風
の発生、文永十一年十月に大蒙古が襲来したことは、偏(ひとえ)に、日蓮に起因す
ることであります。
 ましてや、以前より、私(日蓮大聖人)は、これらの事を勘文(立正安国論等の御
提出)しておりました。誰人を以て、疑うことが出来るのでしょうか。
     
 弘法・慈覚・智証の誤り、並びに、禅宗と念仏宗に基づく災いが相次いで起こった
有様は、まさしく、逆風に大波が起こったり、大地震が重なったようなものでありま
す。
 従って、次第に、日本国も衰えて参りました。

 太政入道(平清盛)が国の実権を握った後に、承久の時代に入ってから、三名の上
皇が流罪に処されて、世(国権)は、東(鎌倉)に移りました。
 けれども、ただ、国の中が乱れただけであって、他国から攻められる事はありませ
んでした。

 その当時も、謗法の者は、国に充満していました。
 けれども、その謗法を明示して、顕すほどの智人がいなかったのです。
 故に、現今(日蓮大聖人御在世当時)と比較すれば、まだ、平穏な状況でした。
   
 そのことを譬えると、眠れる師子に手を付けなければ、吼えないようなものであり
ます。
 速い流れであっても、櫓(ろ)を差さなければ、波は高くなりません。
 盗人であっても、盗みを止めさせなければ、怒ることはありません。
 火は、薪を加えなければ、炎が盛んになることはありません。

 謗法があったとしても、それを顕す人がいなければ、一見、国も穏やかであるよう
に、見受けられます。
 その例を提示すると、日本国に仏法が渡来し始めた頃に、始めは何事もなかったの
ですが、物部守屋が仏像を焼いたり、僧を迫害したり、寺の堂塔を焼いたため、天か
ら火の雨が降り、国に疱瘡(ほうそう)が発生して、兵乱が続いたようなものです。
   
 しかし、この度(日蓮大聖人御在世当時)は、その当時とは比較にならないほどの
状況であります。

 謗法の人々は、国に充満しています。それに対して、日蓮の大義(日蓮大聖人の御
法義)も強く攻めかかっています。
 その様子は、修羅と帝釈との合戦や、仏と魔王との合戦にも、劣るものではありま
せん。

 金光明経(最勝王経)においては、「時に、隣国の怨敵が、このような念を起こす
であろう。当に、四兵(象兵・馬兵・車兵・歩兵)を揃えて、その国土を崩壊させる
であろう。」等と、仰せになられています。

 また、金光明経(最勝王経)においては、「時に、王が様子を見終わって、即ち、
四兵(象兵・馬兵・車兵・歩兵)を率いて、その国に行軍して、討罰を為そうとする。
我等は、その時、当に、眷属や無量無辺の薬叉等の諸天善神と共に姿を隠しながら、
守護・助勢を行う。ならば、その怨敵によって、自然に(自ずと)、降伏することに
なるであろう。」等と、仰せになられています。

 最勝王経(金光明経)の経文は、以上の通りであります。
 また、大集経や仁王経にも、同様の内容が記されています。 

 これらの経文(金光明経・大集経・仁王経)の通りであるならば、正法を行ずる者
を国主が怨み、邪法を行ずる者の味方を国主が行うならば、大梵天王・帝釈天王・大
日天王・大月天王・四天王等が隣国の賢王の身に入れ代わって、その国を攻めるよう
に見受けられます。

 例えると、仏教に敵対した訖利多王を雪山下王が攻めたり、仏法の僧侶を弾圧した
大族王を幻日王が滅ぼしたようなものであります。

 訖利多王と大族王は、月氏(インド)の仏法を失わせた王であります。
 漢土においても、仏法を滅ぼした王は、皆、賢王に攻められています。

 けれども、この度(日蓮大聖人御在世当時)は、その当時と比較にならないほどの
状況であります。

 国主は仏法の味方をするようでありながら、実際には、仏法を失う法師(僧侶)の
味方をしている故に、愚者は、全ての状況を知ることが出来ません。
 智者であったとしても、通常の智人には、知り難いものがあります。
 諸天であったとしても、劣った天人には、知らないこともあるでしょう。

 ならば、古来の漢土(中国)・月氏(インド)の乱れよりも、現在(日蓮大聖人御
在世当時)の日本国の乱れの方が大きいことになります。

 法滅尽経においては、「私(釈尊)が涅槃した後、五逆罪(殺父・殺母・殺阿羅漢・
出仏身血・破和合僧)の盛んな濁った世に、魔道が興こり、盛んになる。そして、魔
が沙門(僧侶)の姿となって、我が道(仏道)を壊乱するであろう。(中略)悪人は
海中の砂のように多く、善者は極めて少ない。一人、若しくは、二人ぐらいであろう。」
と、仰せになられています。

 涅槃経においては、「このような涅槃経典を信ずる者は、爪の上に載った土のよう
に少ない。(中略)この経を信じない者は、十方世界が所有する大地の土のように多
い。」等と、仰せになられています。

 これらの経文(法滅尽経・涅槃経)は、私(日蓮大聖人)の肝に染みました。
 当世の日本国においては、「自分も、法華経を信じている、信じている。」と、諸
の人々が言っています。
 彼等の言葉の通りであるならば、一人も、謗法の者がいないことになります。

 しかしながら、これらの経文(法滅尽経・涅槃経)おいては、「末法には、謗法の
者が十方世界の大地の土のように多く、正法の者は爪の上に載った土のように少ない。」
という主旨のことが記されています。
 従って、経文と世間の人々の評価は、水と火のように、異なっています。

 世間の人々は、「日本国においては、日蓮一人だけが謗法の者である。」等と、云
っています。
 これもまた、経文とは、天と地のように、異なっています。

 法滅尽経においては、「善者は一人。若しくは、二人。」等と、仰せになられてい
ます。
 涅槃経においては、「信ずる者は、爪上の土。(爪の上に載った土のように少ない)」
等と、仰せになられています。

 経文の通りならば、日本国においては、ただ、日蓮一人だけが『爪上の土』であり、
『一人・二人』に該当するのであります。

 経文を用いるべきなのでしょうか。それとも、世間の人々の言葉を用いるべきなので
しょうか。

 質問致します。

 涅槃経の経文には、「涅槃経の行者は、爪の上に載った土のように少ない。」等と、
仰せになられています。

 ところが、貴殿の義においては、「法華経の行者は、爪の上に載った土のように少
ない。」等と、云われています。
 これは、如何なることでしょうか。

 お答えします。

 涅槃経においては、「法華経の中の如し。」等と、仰せになられています。

 妙楽大師は、『法華文句記』において、「大経(涅槃経)自らが、法華経を指して、
至極の経典と為している。」等と、仰せになられています。

 『大経』(大般涅槃経)と云う経典は、涅槃経のことです。
 涅槃経においては、法華経を『至極の経典』と指しています。

 ところが、涅槃宗の人が、「涅槃経は、法華経に勝っている。」と申していること
は、あたかも、主人を所従と言い、下郎(部下)を上郎(上長)と言っているような
ものであります。   

 涅槃経を読むということは、法華経を読むということであります。
 譬えば、賢人は、自分のことを見下されたとしても、国主を重く扱う者のことを悦
ぶようなものです。
 涅槃経は、法華経を見下して、自ら(涅槃経)を誉める人のことを、返って、敵と
して憎まれます。

 この例を以て、知るべきです。
 華厳経・観無量寿経・大日経等を読む人も、「法華経が劣っている。」と思いなが
ら読むことは、それらの経々(華厳経・観無量寿経・大日経等)の心に背いているの
であります。

 この件によって、知るべきです。
 法華経を読む人が、この経(法華経)を信じるようであったとしても、「諸経にお
いても、得道(成仏)が出来る。」と思うことは、この経(法華経)を読まない人に
該当するのであります。
     
 例を挙げると、三論宗の嘉祥大師は、『法華玄論』と云う十巻の文書を作って、法
華経を讃歎しました。
 けれども、妙楽大師は、嘉祥大師を責められて、「法華経に対する毀(そし)りが、
その書物の中に在る。何故に、法華経の弘教・讃歎と成るのであろうか。」等と、仰
せになられています。

 このように、嘉祥大師は、法華経を破る人でした。
 しかし、その後、嘉祥大師は見解を翻して、天台大師に仕えました。

 そして、「私(嘉祥大師)は、人前で法華経を読まない。何故なら、私(嘉祥大師)
が法華経を読むならば、悪道が免れ難いからだ。」と云って、七年の間、自らの身を
橋として、天台大師の踏み台にされました。

 法相宗の慈恩大師には、『法華玄賛』と題した、法華経を讃歎している文書が十巻
あります。
 伝教大師は、その文書を責められて、「法華経を讃歎していると雖も、還って、法
華経の心を殺している。」等と、仰せになられています。
     
 これらの事例から考えてみると、法華経を読んで讃歎する人々の中に、無間地獄に
墜ちる者が多く存在しています。

 嘉祥大師や慈恩大師でさえ、既に、一乗(一仏乗の教え=法華経)を誹謗した人に
なります。
 ましてや、弘法・慈覚・智証が、何故に、法華経を蔑如した人にならないのでしょ
うか。

 嘉祥大師のように、主宰していた講を廃止して、集っていた聴衆を解散して、自ら
の身を橋として、天台大師の踏み台になられたとしても、なお、それ以前に犯した、
法華経誹謗の罪は消えることがないでしょう。

 法華経常不軽菩薩品第二十において、不軽菩薩を軽蔑して毀(そし)った者どもは、
その後、不軽菩薩に信伏随従を申し上げました。
 けれども、未だに、重罪が残って、千劫という極めて長い間、阿鼻(無間)地獄に
堕ちたのであります。

 ならば、弘法・慈覚・智証等は、たとえ、翻す心があったとしても、なお、人前で
法華経を読むのであれば、重罪は消え難いのです。
 ましてや、彼等には、翻す心もありません。また、法華経を失い、真言密教を昼夜
に行い、朝夕に伝法している者どもであります。

 世親菩薩・馬鳴菩薩は、小乗経を以て、大乗経を破った罪に対して、舌を切ろうと
さえしました。
 世親菩薩は、「仏説であったとしても、阿含経(小乗の経典)を、戯れにも、舌の
上には置かない。」と、誓いました。
 馬鳴菩薩は、懺悔のために、『大乗起信論』を作って、小乗経を破折されました。
 
 嘉祥大師は、天台大師を招請されてから、百人余りの智者の前で、五体を地に投げ、
全身から汗を流し、紅の涙を流しながら、「今からは、弟子を見ない。法華経を講じ
ることもない。弟子の顔を眺めて、法華経を読み奉るならば、如何にも、私(嘉祥大
師)に力があって、法華経を知悉しているように、誤解をされるからだ。」と、云い
ました。

 そして、嘉祥大師は、天台大師より高僧・老僧であったにもかかわらず、わざと、
人が見ている時に、天台大師を背負われて河を越えたり、御説法の高座に近づいてか
ら、天台大師を自ら(嘉祥大師)の背中に乗せられて、高座に上らせ奉ったのであり
ます。

 最終的に、嘉祥大師は、天台大師が御臨終を迎えられた後に、隋の皇帝の許に見参
をされました。
 その際に、嘉祥大師は、まるで、小児が母に先立たれた時のように、足を擦りなが
ら泣いていました。
    
 嘉祥大師の『法華玄論』を見ると、特段、法華経を誹謗した疏(注釈書)ではあり
ません。
 ただ、『法華玄論』には、「法華経と諸大乗経(法華経以外の全ての大乗経)には、
法門に浅深があったとしても、その心は一つである。」と、書かれてあります。
 これが、謗法の根本になるのでしょうか。

 華厳宗の澄観においても、真言宗の善無畏においても、彼等の著書には、「大日経
と法華経は、理が一つである。」と、はっきり書かれてあります。
 嘉祥大師に罪科があるならば、善無畏三蔵も、謗法の罪科を脱れ難いのです。
    
 
 そもそも、善無畏三蔵は、中天(中インド)の国主でした。
 善無畏三蔵は、その位を捨てて他国に赴き、殊勝・招提の二人に会ってから、法華
経を伝授されました。
 そして、百・千にも及ぶ石の塔を立てたため、法華経の行者のように見受けられま
した。

 しかしながら、善無畏三蔵は、大日経を習い始めてから、「法華経は、大日経より
劣っている。」と、思うようになったのでしょうか。

 当初、善無畏三蔵は、それほど、上記の義を抱いていなかったのです。
 けれども、漢土(中国)に渡来して、玄宗皇帝の師となった頃から、天台宗を嫉ん
で思う心が芽生えたのでしょう。

 それ故に、善無畏三蔵は、忽(たちま)ちに、頓死(急死)しました。
 そして、二人の獄卒から、鉄の縄を七本付けられて、閻魔大王の王宮に連れて行か
れました。      

 後漢の時代に、インドから中国へ仏教が伝来して以来、四百余年が経過しました。
 像法時代の五百年代に入ると、陳・隋(中国)の時代において、『智ギ』という
小僧が御一人いらっしゃいました。
 後には、『天台智者大師』と号し奉られた方であります。

 天台大師は、『南三北七』の邪義を破折された上で、「釈尊御一代聖教の中にお
いては、『法華経第一・涅槃経第二・華厳経第三』である。」等と、お定めになら
れました。

 以上、大集経でお説きになられている、像法時代前半の五百年間・『読誦多聞堅
固』の時代(経典の読誦と御説法の聴聞が盛んに行われる時代)の概要であります。

 それから、善無畏三蔵が「命は、未だに尽きていない。」と云うと、閻魔王宮から
帰されました。
 すると、法華経謗法の罪と思ったのでしょうか。

 善無畏三蔵は、真言宗の観念や印・真言等を投げ捨てて、法華経譬喩品第三の『今
此三界』(注、「今、此の三界は、皆、是れ我が有なり。」→「欲界・色界・無色界
の三界は、皆、仏が所有されている。」という意味。)の経文を唱えると、鉄の縄も
切れて、この世に戻されました。

 また、善無畏三蔵が玄宗皇帝から祈雨を仰せつけられた際には、忽(たちま)ちに、
雨が降りました。
 けれども、大風が吹いて、国を破壊しました。

 結局、善無畏三蔵が亡くなった際には、弟子等が集まって、臨終の立派な様子を褒
めていました。
 けれども、善無畏三蔵は、無間大城(無間地獄)に堕ちました。
     
 質問致します。

 何故に、善無畏三蔵が地獄に堕ちた事を知っているのでしょうか。

 お答えします。

 彼の伝記(宋高僧伝)を見ると、「今、善無畏の遺体を観ると、身体が次第に縮小
して、黒い皮膚が陰惨に広がり、骨が露わになっている。」等と、記されています。

 善無畏三蔵の弟子等は、師の死後に、地獄の相が顕れた事を知らずして、善無畏三
蔵の徳を称えているように思われます。
 けれども、書き表した筆記は、返って、善無畏三蔵の過失を記述しているのです。

 前記の通り、善無畏三蔵が死亡した後には、「身体が次第に縮小して、黒い皮膚が
陰惨に広がり、骨が露わになっている。」等と、伝記(宋高僧伝)に書かれています。
 しかしながら、「人が死んだ後に、色が黒くなることは、地獄の業である。」と、
お定めになられた事は、仏陀(釈尊)の御金言(正法念経等が御出典)であります。
     
 では、善無畏三蔵が地獄に墜ちた業因は、何事になるのでしょうか。

 善無畏三蔵は、幼少の時に、国主の位を捨てています。これは、第一の道心であり
ます。
 その後、善無畏三蔵は、月氏(インド)の五十余りの国において、修行しています。
 慈悲の深さのあまりに、善無畏三蔵は、漢土(中国)にも渡来しています。

 天竺(インド)・震旦(中国)・日本・一閻浮提(全世界)の中に真言を伝えて、
鈴を振りながら弘経したことは、まさしく、この人(善無畏三蔵)の徳であります。
 にもかかわらず、「如何にして、地獄に堕ちたのであろうか。」と、後生を願おう
とする人々は御尋ねをするべきです。    
 
 また、金剛智三蔵は、南天竺(南インド)の大王の太子(皇太子)でありました。
 金剛智三蔵は、金剛頂経を漢土(中国)に伝来させています。その徳は、善無畏三
蔵に匹敵しています。
 そして、善無畏三蔵と金剛智三蔵は、互いに師となりながら、真言密教を相伝しま
した。

 しかるに、金剛智三蔵が玄宗皇帝の勅宣によって、祈雨をしたところ、七日の間に
雨が降ってきました。
 天子(玄宗皇帝)が大いに悦んでいると、忽(たちま)ちに、大風が吹いて来まし
た。

 王(玄宗皇帝)や臣下等は興醒めした故に、使者を派遣して、金剛智三蔵を追放し
ようとしました。
 けれども、どうのこうのと云っている間に、金剛智三蔵は、漢(中国)の国内に留
まることになりました。

 結局、金剛智三蔵は、玄宗皇帝の姫宮が御死去された際に、「生き返るための祈祷
を為しなさい。」という旨の御命を受けています。
 そのため、金剛智三蔵は、姫宮の身代わりとして、宮中の七歳の少女二人を、薪の
中に詰め込んで、焼き殺しています。

 まさしく、この事こそ、無慙(無惨)に思われます。しかも、玄宗皇帝の姫宮も生
き返らなかったのです。   
    
 不空三蔵は、月支(インド)から、金剛智三蔵の御供をしてきました。
 故に、不空三蔵は、これらの事(善無畏三蔵と金剛智三蔵の行状)を不審に思った
のでしょう。

 善無畏三蔵と金剛智三蔵が入滅した後に、不空三蔵は月支(インド)へ帰って、竜
智菩薩にお会いになりました。 
 そして、真言の教義を習い直して、天台宗に帰伏しました。
 ところが、心の中だけは天台宗に帰伏していても、不空三蔵の身は帰伏する事があ
りませんでした。

 不空三蔵も、玄宗皇帝からの祈雨の勅宣を受けています。
 祈祷を始めてから三日が経つと、雨が降ってきました。
 天子(玄宗皇帝)はお悦びになって、御自らが御布施を下されています。     

 ところが、しばらくすると、大風が荒れ下って、内裏を吹き破りました。
 そして、雲閣月卿(殿上人→玄宗皇帝)の宿所も、一ヶ所も残ることなく、破壊さ
れたように見えました。

 そのため、天子(玄宗皇帝)は大いに驚いて、「風を止めよ。」と、宣旨を出され
ました。
 しかし、風が吹いた後、一時的に止んだとしても、しばらくすると、また、風が吹
いてくる有様でした。
 そういう状況が数日間続いて、風が止む事はありませんでした。

 結局、玄宗皇帝の使者が派遣されて、不空三蔵が追放されることにより、風が止ん
だのであります。

 この三人(善無畏・金剛智・不空)が引き起こした悪風は、漢土(中国)・日本に
おける、一切の真言師が引き起こした大風の根源であります。

 なるほど、そういうことでしょう。
 去る文永十一年四月十二日の大風は、東寺第一の智者と称された、阿弥陀堂・加賀
法印の祈雨によって、吹いてきた逆風であります。

 この史実(文永十一年四月十二日の大風)は、善無畏・金剛智・不空の悪法を、少
しも違えることなく、伝えているのでしょうか。
 誠に、心憎いことであります。心憎いことであります。
     
 弘法大師は、去る天長元年の二月の大旱魃(かんばつ)の際に、祈雨をしたことが
あります。
 その直前には、守敏が祈雨をして、七日の内に、雨を降らせました。
 ただし、京の都の中だけに雨が降って、田舎に雨が注ぐ事はありませんでした。

 その次に、弘法が受け継いで、祈雨をしました。
 一七日(一週間)経っても、雨の氣配はありません。
 二七日(二週間)経っても、雲さえありません。

 三七日(三週間)が経過すると、天皇が和氣真綱を使者として、御幣(神に奉ずる
幣)を神泉苑に捧げられました。
 すると、雨が三日間降りました。

 このような経緯がありながら、弘法大師並びに弟子等が、この雨を奪い取り、「自
らの祈雨によって、降らせた雨である。」と、言い触らしていました。
 そして、今(日蓮大聖人御在世当時)に至るまで、四百余年の間、「弘法の雨」と
言っています。 
             
 慈覚大師は、「夢で、日輪(太陽)を射った。」と、云っています。
 一方、弘法大師は、「弘仁九年の春に、大疫病の治癒を祈ると、夜中に、大日輪(太
陽)が出現した。」と、大妄語を述べています。

 しかし、成劫以来、住劫の第九の減に至るまで、以上・二十九劫の間に、「日輪(太
陽)が夜中に出た。」という史実はありません。

 (注記、仏教の経典では、『成・住・壊・空』の『四劫』が説かれている。
 ある世界が成立して、流転・破壊を経てから、次の成立に至るまでの期間を、『成劫・
住劫・壊劫・空劫』の四つに分けられている。

 上記御金言の「成劫」とは、世界が生成していく時代のこと。
 また、上記御金言の「住劫」とは、世界が安定・構築していく時代のことになる。

 そして、『成劫・住劫・壊劫・空劫』は、それぞれ、二十劫ずつに分かれている。
 その一劫は、人寿が十歳から八万歳まで増えて、また、八万歳から十歳まで減ってい
く期間となる。

 上記御金言の「住劫の第九の減」とは、『住劫』の二十劫における、第九番目の減の
時期を意味している。
 また、上記御金言の「二十九劫が間」とは、『成劫』の二十劫+『住劫』の九劫=『二
十九劫』を意味している。)

 前記の通り、慈覚大師は、「夢で、日輪(太陽)を射った。」と、云っています。

 では、五千巻とも七千巻とも云われる内典(仏教の書物)や、三千巻余りと云われる
外典(仏教以外の書物)において、「日輪(太陽)を射る夢は、『吉夢』である。」と
いう事が記述されているのでしょうか。
 それとも、そういう記述は、存在しないのでしょうか。
    
 修羅は、帝釈天王を怨んで、日天(太陽・大日天王)を射っています。
 ところが、その矢が返って、自ら(修羅)の眼に刺さっています。

 中国の殷の紂王は、日天(太陽・大日天王)を的にして射ったことにより、身を滅
ぼしています。

 日本の神武天皇の御時代には、度美長(注、長髄彦のこと。大和地方の土豪の首長)
と五瀬命(神武天皇の兄)が合戦をしています。

 その際、五瀬命(神武天皇の兄)の手に矢が刺さると、「我(五瀬命)は、日天(太
陽・天照大神)の子孫である。日(太陽)に向かい奉って、弓を引いたが故に、日天
(太陽・天照大神)からの責めを被ることになる。」と、五瀬命(神武天皇の兄)は
告げられています。

 インドの阿闍世王は、仏(釈尊)に帰依をなされました。
 ある時、阿闍世王は、内裏(宮殿)に帰って、御眠りになっていました。

 すると、阿闍世王が驚いた様子で、「日輪(太陽)が、天から地に落ちる夢を見た。」
と、臣下たちに向かって語りました。
 臣下たちは、「仏(釈尊)の御入滅なのでしょうか。」と、云いました。

 須跋陀羅の夢も、また、同様のことを意味しています。

(注記、須跋陀羅は、釈尊御入滅の直前に、教化を受けて得道した弟子である。

 ある晩、「一切の人が目を失い、裸形で闇の中に立っている。太陽は落ち、地は破
れ、大海は乾き、大風が須弥山を吹き散らしている。」という夢を、須跋陀羅が見た。

 その翌朝、須跋陀羅は、釈尊が今夜半に涅槃する知らせを聞いた。そのため、釈尊
の許へ、須跋陀羅はお会いに行かれた。

 その場で、須跋陀羅は出家して、釈尊御入滅の日の夜に、羅漢となっている。)

 我が国(日本国)において、日(太陽)を射ったり、日(太陽)が落ちたりするよ
うな夢は、特に、忌むべき夢であります。
 何故なら、神(守護の善神)のことを、『天照』(天照大神)と称しているからで
す。
 そして、国のことを、『日本』と称しているからです。

 また、教主釈尊を、『日種』と申し上げています。
 摩耶夫人(釈尊の御母様)が日(太陽)を御懐妊された夢を御覧になって、御授か
りになられた太子が、後に、教主釈尊となられたことに由来しています。    

 慈覚大師は、大日如来を比叡山に立ててから、釈迦仏を捨てています。
 そして、真言三部経(大日経・金剛頂経・蘇悉地経)を崇めて、法華三部経(法華
経・無量義経・普賢経)の敵となったが故に、この夢(太陽を射った夢)が出現した
のであります。

 ここで、事例を提示します。

 漢土(中国)の善導は、当初、密州の明勝という者にお会いして、法華経を読んで
いました。
 ところが、後に、道綽に会ってから、法華経を捨てて、観経(観無量寿経)に依拠
した疏(注釈書)を作りました。

 そして、善導は、法華経を『千中無一』(千人の中で、一人も成仏することが出来
ない。)と定めました。
 その一方で、念仏を『十即十生・百即百生』(十人いれば十人とも、百人いれば百
人とも、往生することが出来る。)と定めました。

 その後、自らの法義を成就させようとするために、善導は、阿弥陀仏の御前におい
て、「仏意に叶っているのでしょうか。それとも、叶っていないのでしょうか。」と、
祈誓を為しました。

 それから、毎晩、夢の中で、常に、一人の僧が来現して、善導に指導・教授をした
そうです。 
 そして、その僧は、「もっぱら、経法の通りにせよ。」と、語ったそうです。

 それらの事柄が、観念法門経(善導の著書)等に記されています。
   
 法華経方便品第二においては、「もし、法を聞く者があれば、一人として、成仏し
ないことはない。」と、仰せになられています。
 一方、善導は、「法華経は、千人の中で、一人も成仏することが出来ない。」等と、
云っています。

 法華経と善導の主張とは、水・火のように、正反対です。

 善導は、観経(観無量寿経)のことを、「十即十生・百即百生」(十人いれば十人
とも、百人いれば百人とも、往生することが出来る。)と、云っています。
 しかし、無量義経においては、観経(観無量寿経)等のことを、「未だに、真実を
顕していない。」等と、定義づけられています。

 無量義経と楊柳房(注、善導のこと。善導が柳の木から身を投げて死亡したことを
暗示されている。)の主張とは、天・地のように、正反対です。

 にもかかわらず、上記の内容を、「阿弥陀仏が僧となって来現されたから、善導の
主張は真実である。」と証明しようとしても、如何にして、本当の事と受け止められ
るのでしょうか。

 そもそも、阿弥陀仏は、法華経の御説法の座に来られて、舌を出されなかった(法
華経が真実の教えであることを証明されなかった)のでしょうか。
 観音菩薩・勢至菩薩は、法華経の御説法の座にいなかったのでしょうか。

 この事例を以て、類推しなさい。「慈覚大師の御夢は、災いである。」ということ
を。

 質問致します。

 弘法大師の『般若心経秘鍵』においては、このように云われています。

 「時に、弘仁九年の春、天下に大疫病が流行した。

 因って、嵯峨天皇御自らが筆端を黄金に染められて、紺色の紙を爪掌(手)に握り、
般若心経一巻を書写し奉った。
 私(弘法大師)は、般若心経講読の任に選ばれ、その立場に則って、経旨の大意を
綴った。
 
 すると、未だに、結願の詞(仏事の終結の際に発する言葉)を発していなかったに
もかかわらず、疫病から蘇生した人々が道に佇んでいた。
 そして、夜が変じて、日光が赫々と輝いていた。

 これは、愚身(弘法大師の身)の戒徳ではない。
 金輪(嵯峨天皇)の御信力の所為である。

 ただし、神舎に詣でようとする輩は、この秘鍵(般若心経秘鍵)を誦し奉るように
せよ。
 昔、私(弘法大師)は、霊鷲山の御説法の際に、莚(むしろ)に座して、親しく、
その深文を聞き奉っている。

 何故に、その義(霊鷲山の御説法の義)に達していないことがあろうか。」と。

 『孔雀経音義』(弘法の弟子・真済の著書)においては、このように云われていま
す。

 「弘法大師が日本へ御帰国した後に、真言宗を立てようと欲していた。そのため、
諸宗の人々を、朝廷に集合させた。諸宗の人々は、弘法大師の即身成仏の義を疑って
いた。

 そこで、弘法大師は、智拳の印(金剛界の大日如来が結んでいる拳の印)を結んで、
南方に向かうと、急に面門(口)が開いて、金色の毘盧遮那仏と成った。
 その直後には、すぐ、弘法大師の本体に戻っていた。

 すると、諸宗の人々は、「入我我入の事(注、仏が我が身に入ったり、我が身が仏
に入ったりする事)や即身頓証(即身成仏)の疑いは、この日を以て、釈然と氷解し
た。」と、語った。
 このようにして、真言瑜伽の宗(瑜伽の修行をする真言宗)と真言密教の曼荼羅の
道法は、この時から建立された。」と。

 また、『孔雀経音義』においては、このように云われています。

 「この時に、諸宗の学徒は、弘法大師に帰依して、始めて真言を得た。そして、諸
宗の学徒は、益々、要請をして、習学した。

 三論宗の道昌、法相宗の源仁、華厳宗の道雄、天台宗の円澄等は、皆、その法類で
ある。」と。

 『弘法大師伝』(弘法の伝記)においては、このように云われています。

 「日本へ帰国する船に乗られる日、弘法大師が発願して、『私(弘法大師)が学ん
だ所の教法に、もし、感応する地があるならば、この三鈷(注、三鈷の杵のこと、真
言密教の祈祷に用いる道具。)は、その場所に到るであろう。』と、仰った。

 それから、日本の方に向かって、弘法大師が三鈷を投げ上げると、遥かに飛んで、
雲に入った。
 こうして、弘法大師は、十月に御帰国された。」と。

 また、『弘法大師伝』においては、このように云われています。

 「高野山の下に、入定の所(禅定に入る場所)を決められた。(中略)日本に帰国
される船の海上から投げた三鈷は、今、新たに、此処で発見された。」と。

 この大師(弘法大師)の徳は、無量であります。まだ、その徳の二・三例だけを、
示したに過ぎません。
 弘法大師には、このような大徳があるにもかかわらず、何故に、この人(弘法大師)
を信じることなくして、還って、阿鼻地獄に堕ちると云うのでしょうか。


報恩抄 上 (訳文-2)


 質問致します。

 華厳宗の澄観、三論宗の嘉祥、法相宗の慈恩、真言宗の善無畏・弘法・慈覚・智証
等のことを、『仏の敵』と、貴殿は仰っているのでしょうか。

 お答えします。

 このことは、大いなる難であります。仏法における、第一の大事であります。

 私(日蓮大聖人)の愚眼を以て、経文を拝見すると、「法華経より勝れたる経典が
ある。」と云う人は、「たとえ、如何なる人であったとしても、謗法の罪を免れる事
が出来ない。」と、見受けられます。

 故に、経文の如く、申し上げるのであれば、「如何なる理由を以て、『彼等が仏敵
ではない。』と、云えるのでしょうか?」ということになります。
 もし、また、恐れを為して、そのことを指摘せずに、黙止するのであれば、一切経
の勝劣は空しくなってしまうことでしょう。

 また、彼等を恐れるがために、各宗派の末流の人々だけを、『仏敵』と云ったとし
ます。

 この場合に、各宗派の末流の人々は、「『法華経より大日経が勝っている。』と、
申していることは、我見や私見ではない。当宗の祖師の御義である。持戒・破戒の修
行の違い、智慧の勝劣、身分の上下はあったとしても、学んだ所の法門においては、
違う事がない。」と、云うことになるでしょう。

 この場合には、各宗派の末流の人々に、咎(とが・過失)がなくなってしまいます。

 また、日蓮が、この事を知りながら、世間の人々を恐れて、申し上げなかったなら
ば、涅槃経において、「むしろ、身命を喪失したとしても、教えを隠匿してはならな
い。(寧喪身命不匿教者)」と仰せになられている、仏陀(釈尊)からの諫暁を用い
ない者となってしまいます。

 如何にすれば、宜しいのでしょうか。
 この事を云おうとするならば、世間からの難は、恐ろしいものがあります。
 黙止しようとするならば、仏(釈尊)からの諫暁を、免れる事が出来なくなります。
 進退は、ここに、窮まってしまいました。

 それは、尤も(もっとも)なことでしょう。

 法華経法師品第十の経文においては、「しかも、この法華経は、如来の御在世でさ
え、なお、怨嫉が多い。ましてや、如来の滅度の後には、尚更である。」と、仰せに
なられています。

 また、法華経安楽行品第十四においては、「一切世間において、怨が多いため、信
じ難い。」等と、仰せになられています。

 釈迦如来を、御母堂の摩耶夫人が御懐妊された際に、第六天の魔王が摩耶夫人の御
腹を通し見て、「我等が大怨敵である、『法華経』と申す利剣を、摩耶夫人が懐妊し
た。事の成ぜぬ先に(釈尊がお生まれにならないうちに)、何としても、亡き者にし
てしまおう。」と、考えました。

 そこで、第六天の魔王は、大医の姿に変身して、浄飯王宮に入りました。
 そして、「御産・安穏の良薬を持って来た、大医であります。」と喧伝して、毒を
后(摩耶夫人)に献じたのであります。

 その後、釈尊がお生まれになった際には、第六天の魔王が石を降らせたり、乳に毒
を混入させたり、そして、釈尊が城を出られる際には、第六天の魔王が黒い毒蛇に変
じて、道を塞いだりしました。

 それ以外にも、第六天の魔王は、提婆達多・瞿伽利・波瑠璃王・阿闍世王等の悪人
の身に入り込むことによって、或いは、提婆達多に大石を投げさせて、仏(釈尊)の
御身から血を出させたり、或いは、釈迦族の人たちを殺したり、或いは、釈尊の御弟
子等を殺害しました。

 これらの大難は、皆、第六天の魔王等によって、「仏・世尊に、法華経を説かせて
なるものか。」と、巧みに共謀されたものであります。

 これらは、法華経法師品第十において、「如来の御在世でさえ、なお、怨嫉が多い。
(如来現在猶多怨嫉)」と、仰せになられている大難に該当致します。
 これらの大難は、遠い難(釈尊御在世当時の大難)になります。

 それよりも、近い難があります。
 舎利弗・目連・諸の大菩薩等も、法華経が説かれる以前の四十余年間は、法華経の
大怨敵の内に該当する人たちでした。

 法華経法師品第十の経文においては、「ましてや、如来の滅度の後には、尚更であ
る。(況滅度後)」と、仰せになられています。
 つまり、「未来の世には、また、これらの大難よりも、更に、恐ろしい大難が存在
するであろう。」と、お説きになられているのです。

 仏(釈尊)でさえも、忍び難いような大難を、凡夫は、如何にして、忍ぶ事が出来
るのでしょうか
 ましてや、「仏(釈尊)の御在世よりも、更に、大きな大難である。」と、伝えら
れています。

 それは、如何なる大難になるのでしょうか。

 提婆達多が長さ三丈(約9メートル)・広さ一丈六尺(約5メートル)の大石を投
げたり、阿闍世王が象を酔わせて、釈尊を殺害しようとしたことよりも、更に、超過
した大難であると思われます。

 法華経の経文には、「釈尊がお受けになられた大難よりも、更に、勝った大難であ
る。」という主旨のことが、お説きになられています。

 ならば、「たとえ、小さな過失がなかったとしても、大難に、度々、値う人こそ、
如来滅後の法華経の行者(注、日蓮大聖人のこと)である。」と、知るべきでしょう。

 付法蔵の人々(釈尊の仏法を順次に付嘱された二十四人の方々)は、四依の菩薩(釈
尊の滅後に正法を護持弘通して、人々の依り所となる四種の人格を有した菩薩)であ
ります。
 そして、付法蔵の人々は、仏(釈尊)の御使いであります。

 提婆菩薩は、外道に殺されています。
 師子尊者は、檀弥羅王に頭を刎ねられています。
 仏陀密多は十二年間、竜樹菩薩は七年間も、国王を改心させるために、赤旗を掲げ
通されています。
 馬鳴菩薩は、金銭三億の代償として、他国に身を移されています。
 如意論師は、謀略に陥れられたため、無念の死を遂げられています。

 これらの方々は、正法時代の一千年間の内に、御出現なさっています。

 像法時代に入って五百年、乃ち、仏滅後一千五百年と云われる時、漢土(中国)に
一人の智人が御出現なされました。
 その御名を、始めは『智ギ』、後には『(天台)智者大師』と号されています。

 天台大師は、「法華経の義を、ありのままに弘通しよう。」と、思われました。
 ところが、天台大師が御出現される以前の百千万の智者(他宗の僧侶)は、それぞ
れに、釈尊御一代の聖教を判じていました。
 結局の所、『十流』、所謂、『南三・北七』と呼ばれる宗派に分かれていました。

 このように、当時の漢土(中国)には、十流の宗派がありました。けれども、その
中の一流を以て、最上としていました。
 所謂、『南三』の中で、第三番目に数えられる、光宅寺の法雲法師の一派でありま
す。

 この人(法雲法師)は、釈尊御一代の仏教を、五つに分けていました。
 その五つの中から、三経を選び出していました。
 所謂、華厳経・涅槃経・法華経であります。

 法雲法師は、「一切経の中においては、華厳経が第一である、大王の如し。涅槃経
が第二である、摂政・関白の如し。第三の位の法華経は、公卿等の如し。この三経以
下の経典は、万民の如し。」と、云っていました。

 この人(法雲法師)は、元々、智慧が賢かった上に、慧観・慧厳・僧柔・慧次等と
いう大智者から、法門を習い伝えられていました。
 それのみならず、『南三・北七』の諸師の義を責め破り、山林に交わって(こもっ
て)からは、法華経・涅槃経・華厳経の研鑽を積んでいました。

 そこで、梁の武帝は、法雲法師を召し出して、内裏の内に、寺院を建立しました。
 梁の武帝は、その寺院を『光宅寺』と名付けて、この法師(法雲法師)を崇めてい
ました。

 また、「法雲法師が法華経を講じた時、天から花が降る有様は、あたかも、仏(釈
尊)の御在世のようであった。」と、伝えられています。

 天監五年に、大旱魃があったため、天子(梁の武帝)は法雲法師を招請されて、法
華経を講じさせました。

 すると、法雲法師が法華経薬草喩品第五の「其雨普等・四方倶下」の二句を講じて
いた時、天から甘雨が降ってきました。
 そのため、天子(梁の武帝)は感激のあまり、即座に、法雲法師を僧正の位に任じ
ました。

 あたかも、諸天が帝釈天王に仕えるように、また、万民が国王を怖れるように、天
子(梁の武帝)自らが、法雲法師に仕えたのであります。

 その上、或る人が、「この人(法雲法師)は、過去に、灯明仏がいらっしゃった時
より、法華経を講じてきた人である。」という夢を見たそうです。
     
 法雲法師には、『法華経義疏』という著書が四巻あります。

 『法華経義疏』において、「この経(法華経)は、未だ、真理を明かしていない。」
と、法雲法師は云っています。
 また、『法華経義疏』において、「法華経には、異なった方便が記されている。」
等と、法雲法師は云っています。

 まさしく、「法華経は、未だ、仏理を極めていない経典である。」と、『法華経義
疏』には書かれているのであります。
 この人(法雲法師)の御義が、仏意に相い叶っているからこそ、天より、花も下り、
雨も降ってきたのでしょうか。

 このように、特筆すべき事があったため、「それでは、法華経は、華厳経・涅槃経
よりも劣る経典なのであろう。」と、漢土(中国)の人々は思うようになりました。
 その上、新羅・百済・高麗・日本の地まで、『法華経義疏』が弘まったため、大体、
世間一同が、法雲法師の御義を用いるようになりました。

 ところが、法雲法師が御死去されてから間もない頃、つまり、梁の時代の末・陳の
時代の始めに、智ギ法師(天台大師)と云う小僧が御出現なされたのであります。

 智ギ法師(天台大師)は、南岳大師と云う方の御弟子でありました。

 けれども、師匠(南岳大師)の義に、若干の不審をお持ちになっていたこともあっ
て、智ギ法師(天台大師)は、一切経が保管されている蔵に入り、度々、経典を御覧
になられました。
 その中でも、華厳経・涅槃経・法華経の三経を選び出されて、特に、華厳経を講じ
られていました。

 その他にも、礼文(仏を礼拝する賛嘆文)を造って、日々、功徳を積まれていたの
で、世間の人々は、「この人も、『華厳経第一』と、思っているのだろう。」と、見
ていました。

 ところが、智ギ法師(天台大師)は、法雲法師が一切経の中において、『華厳経第
一・涅槃経第二・法華経第三』と立てたことが、あまりに不審であったため、殊更、
華厳経を御覧になられていたのであります。
     
 このようにして、智ギ法師(天台大師)は、「一切経の中においては、『法華経第
一・涅槃経第二・華厳経第三』である。」と、見定められたのであります。

 そして、智ギ法師(天台大師)は、このように嘆かれました。

 「如来の聖教は、漢土(中国)に渡来した。けれども、人々を利益することはない。
 却って、一切衆生を、悪道に導びいている。それは、人師の誤りに依るものである。

 例えば、国の長である人が、東を西と言い、天を地と言い出したならば、万民は、
そのように心得るものである。

 その後に、身分の卑しい者が出来して、『あなた達が云っているところの西は、東
である。あなた達が云っているところの天は、地である。』と、真理を言ったとして
も、用いられることはないであろう。

 そして、その国の家来たちは、国の長の心に叶おうとするために、真理を言った人
を讒言して、討伐することであろう。」と。
  
 そのため、智ギ法師(天台大師)は、「如何にすればいいのか。」と、思いました。
 けれども、やはり、黙止するべきことではありません。
 因って、智ギ法師(天台大師)は、「謗法によって、光宅寺の法雲法師は、地獄に
堕ちた。」と、宣言なされたのであります。

 すると、その時、南三・北七の諸師(諸流派の僧侶)は、蜂の如く蜂起して、烏の
如く、烏合してきました。
 南三・北七の諸師(諸流派の僧侶)は、智ギ法師(天台大師)に対して、「頭を割
ってしまうべきか、国から追放するべきか。」等と、申していました。

 その模様を、陳主(陳の国王)がお聞きになっていました。
 そして、南三・北七の諸流派の僧侶・数人を召し合わせた上で、陳主(陳の国王)
御自身も列座されて、それぞれの主張を御聴聞されたのであります。

 その場には、法雲法師の弟子たちである、慧栄・法歳・慧コウ・慧ゴウ等という、
僧正・僧都以上の位を有した僧侶が百人以上いました。
 彼等は、各々、悪口を言って、眉を上げて、眼を怒らせて、手を上げて、拍子を叩
いていました。

 しかしながら、智ギ法師(天台大師)は、末座に坐して、顔色を変えず、言葉を誤
らず、威儀を静かにして、諸の僧侶の発言を一つ一つ書き取り、彼等の発言ごとに、
責め返していきました。

 逆に、智ギ法師(天台大師)は、彼等に詰問をなされて、「そもそも、法雲法師の
御義である、『第一華厳経・第二涅槃経・第三法華経』と立てている法門の証文は、
如何なる経典にあるのか。確かで、明らかなる証文を出してみよ。」と、責められま
した。
 すると、彼等は、各々、頭をうつ伏せて、顔色を失って、一言の返事もすることが
出来ませんでした。
 
 重ねて、智ギ法師(天台大師)は、このように、彼等を責められました。

 「無量義経には、正しく、『次説、方等十二部経・摩訶般若・華厳海空』等と、お
記しになられている。

 つまり、仏(釈尊)御自らが、華厳経の名を呼び上げられて、無量義経の中で、『華
厳経は、未顕真実(未だ真実を顕していない教え)である。』と、打ち消されている
のである。

 法華経より劣っている無量義経にさえ、華厳経は責められている。
 貴殿たちは、如何に心得ることによって、華厳経のことを、『釈尊御一代における、
第一の経典である。』と、言うのか。

 貴殿たちが、各々、御師(法雲法師)の味方をしようと思うのなら、この無量義経
の経文を破って、無量義経よりも勝れている経文を取り出して、御師(法雲法師)の
御義を助けてみなさい。

 また、涅槃経のことを、『法華経より勝れた経典である。』と言っているのは、
如何なる経文が根拠であるのか。

 涅槃経第十四巻(聖行品)においては、華厳経・阿含経・方等経・般若経を挙げら
れて、涅槃経に対する勝劣が説かれている。
 けれども、全く、法華経と涅槃経との勝劣は見受けられない。
 ましてや、涅槃経第九巻(如来性品)においては、法華経と涅槃経との勝劣が分明
になっている。

 所謂、涅槃経の経文においては、『この経(涅槃経)の出世は、(中略)、法華経
の中で、八千の声聞が記別(注、仏が未来世における弟子の成仏を明らかにすること)
を受けたことを得て、大果実を成じた(成仏した)ようなものである。あたかも、秋
の収穫が終わり、冬のために蔵へ入れた後には、更なる所作をする必要がないような
ものである。』等と、仰せになられているではないか。

 明らかに、涅槃経の経文においては、爾前経のことを、収穫前の『春・夏』の如
き存在と、位置付けられている。
 そして、涅槃経と法華経のことを、『菓実の位』と、お説きになられているのであ
る。

 その中でも、法華経のことを、『秋収冬蔵(注、秋に農作物の収穫をして、冬に蔵
へ入れること)の大菓実の位』と、お定めになられている。
 そして、涅槃経のことを、『秋の末・冬の始めのクン拾(注、収穫が終わった後の
落ち穂拾いのこと)の位』と、お定めになられている。

 この涅槃経の経文においては、『正しく、法華経に対しては、我が身(涅槃経)が
劣る。』と、承伏されている。

 また、法華経の経文においては、已説(爾前経)・今説(無量義経)・当説(涅槃
経)と申して、『この法華経は、前と並びとの経々(爾前経・無量義経)に対して勝れ
ているだけでなく、後に説こうとする経(涅槃経)に対しても、勝っている。』と、仏
(釈尊)が定められているのである。

 既に、教主釈尊がこのようにお定めになられたのであるから、仏弟子が疑うべき
ことではない。

 けれども、『我が滅後(釈尊の御入滅後)は、如何になってしまうのか。』と、教主
釈尊御自身が疑いをお思いになられた故に、東方・宝浄世界の多宝如来を証人に立て
られた。
 そして、多宝如来は、大地より踊り出られて、『妙法華経皆是真実』と証明された
のである。

 また、十方世界の分身の諸仏も、重ねて、お集まりになられた上で、広く長い御舌
を、大梵天に付けられた。
 そして、教主釈尊も、広く長い御舌を、大梵天に付けられたのである。

 それから、しばらくした後に、多宝如来は、宝浄世界へお帰りになられた。
 十方分身の諸仏は、各々の本国土にお帰りになられた。

 その後、多宝如来・十方分身の諸仏が御不在になられてから、教主釈尊が涅槃経を
お説きになられて、仮にも、『涅槃経は、法華経に勝る。』と仰せになったならば、
果たして、教主釈尊の御弟子たちが信用されるのであろうか。」と。

 このように、天台大師は、彼等(法雲法師の弟子である、僧正・僧都以上の位を有
した、慧栄・法歳・慧コウ・慧ゴウ等の僧侶)を責められました。

 すると、あたかも、日月(太陽と月)の大光明が修羅の眼を照らすように、また、漢
王の剣が諸侯の首に掛かるように、彼等(法雲法師の弟子である、僧正・僧都以上の
位を有した、慧栄・法歳・慧コウ・慧ゴウ等の僧侶)は、両眼を閉じて、頭を垂れた
のであります。
  
 天台大師の御様子は、狐やウサギを前にして、師子王が吼えた姿に似ていました。
また、鷹や鷲が、鳩や雉を責めた姿に似ていました。

 このような御様子でありましたので、「さては、法華経は、華厳経・涅槃経よりも
勝れた経典である。」と、震旦(中国)一国に流布するだけでなく、かえって、五天
竺(インド全土)までも評判が聞こえていきました。

 そして、天台大師は、「月氏(インド)の大小の諸論も、智者大師(天台大師)の
御義には勝つことが出来ない。教主釈尊が、再度、御出現されたのであろうか。仏教
が二度現れた。」と、賞賛されたのであります。

 その後、天台大師は御入滅なされました。
 中国では、陳・隋の世も代わって、唐の世となりました。

 章安大師も、御入滅なされました。
 そして次第に、天台大師の仏法を、習学する氣運が失せていきました。

 その頃、唐の太宗皇帝の時代に、玄奘三蔵と云う人が、貞観三年に、始めて月氏(イ
ンド)に入り、貞観十九年に帰国しました。
 玄奘三蔵は、月氏(インド)の仏法を尋ね尽くして、法相宗と云う宗義を渡来させ
ました。
 この宗派の教義は、天台宗と水火の関係でした。

 しかるに、玄奘三蔵は、天台大師が御覧にならなかった、深密経・瑜伽論・唯識論等
を渡来させて、「法華経は、一切経に対しては勝れている。けれども、深密経に対して
は劣っている。」と、言い出しました。

 それに対して、天台の末学(天台宗の末流の学僧)たちは、智慧が薄かったが故に、
「天台大師は、それらの経論を御覧になっていなかった。玄奘三蔵の主張はもっともで
ある。」と、思ってしまいました。

 また、唐の皇帝の太宗は、賢王でありました。
 その上、玄奘三蔵に対する御帰依も、決して、浅くありませんでした。

 仏弟子として、言わなければならない事はありました。
 けれども、いつの時代であっても同様ですが、時の威(時の国王の権威)を怖れて、
申し上げる人はいなかったのです。

 「法華経が最上である。」という立場を覆して、玄奘三蔵どもが『三乗(声聞・縁
覚・菩薩)真実』『一乗(仏)方便』『五性各別』(注、声聞乗性・縁覚乗性・如来
乗性・三乗不定性・無性の“五性”は、各々が別の存在であり、決して変えることの
出来ないものとする法相宗の教義。)と主張した行為は、残念なことであります。

 天竺(インド)より渡って来た教義ですが、その実体は、月氏(インド)の外道が、漢
土(中国)に渡って来たのでしょうか。

 「法華経は方便の教え、深密経は真実の教え。」と云うのであれば、釈尊・多宝如
来・十方の諸仏の誠言も、かえって虚しくなり、玄奘や慈恩こそ、時の生身の仏とし
て、敬われていたのでしょうか。
     
 その後、中国では、則天皇后の時代になりました。

 以前、天台大師によって責められた華厳経に、また重ねて、新訳の華厳経が渡来し
てきました。
 すると、かつての憤りを果たそうとするために、新訳の華厳経を以て、天台大師に
責められた旧訳の華厳経を扶助することにより、華厳宗と云う宗派を、法蔵法師と云
う人が立てました。

 この宗派は、「華厳経を根本法輪とする。法華経を枝末法輪とする。」と、申して
いました。
 また、彼等は、「南三北七の諸宗派の教義は、第一華厳・第二涅槃・第三法華であ
る。天台大師の教義は、第一法華・第二涅槃・第三華厳である。今の華厳宗の教義は、
第一華厳・第二法華・第三涅槃である。」等と、申していました。

 その後、玄宗皇帝の時代に、善無畏三蔵は、天竺(インド)より、大日経・蘇悉地
経を渡来させました。
 金剛智三蔵は、金剛頂経を渡来させました。
 また、金剛智三蔵には、不空三蔵という弟子がいました。

 この三人は、月氏(インド)の人であり、家柄も高貴である上、人柄も漢土(中国)
の僧には似ていませんでした。
 加えて、彼等が説いた法門も、何とも言いようのない、目新しさがありました。

 それは、中国に仏教が伝来した後漢時代より、その当時(唐の時代)に至るまで存
在しなかった、印と真言という法門を新たに添えていたため、威光があるように見え
たからです。
 故に、天子は頭を傾けて、万民は掌を合わせました。
 
 これらの人々(善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵)は、下記の義を主張しました。

 「華厳経・深密経・般若経・涅槃経・法華経等の勝劣は、所詮、顕教の枠内のこと
であり、釈迦如来の唱えた説の分を超えない。
 今の大日経等の経典は、密教であり、大日法王の勅言である。

 華厳経・深密経・般若経・涅槃経・法華経等々は、民の万言である。
 けれども、この大日経は、天子の一言である。

 華厳経・涅槃経等を大日経と比較すれば、梯子を立てたとしても、及ぶものではな
い。
 ただ、法華経だけが、大日経に相似した経典であろう。

 けれども、法華経は、釈迦如来の説法であり、民の正言の如きものである。
 この経(大日経)は、天子の正言の如きものである。

 言葉は似たようなものであるが、それを発する人柄には、天地雲泥の違いがある。
 譬えると、濁水に映った月と、清水に映った月ぐらいの違いがある。
 月の影は同じかも知れないが、水には、清濁の違いがある。」と。

 これらのことを、善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵は申していました。
 ところが、その根拠を、尋ね顕す人もおりません。

 そのため、諸宗は、皆、落ち伏して、真言宗に傾倒していきました。
 そして、善無畏三蔵・金剛智三蔵死去の後、不空三蔵が、また月氏(インド)に戻
って、『菩提心論』という論を渡来させたため、いよいよ真言宗の勢力が盛んになっ
ていきました。

 ただし、妙楽大師という方がいらっしゃいました。
 天台大師御在世から、二百余年後に、御生誕された方です。

 妙楽大師は智慧が賢い人であった上に、天台大師の論釈を見極められておられたの
で、このようにお考えになっていました。

 「天台大師の論釈の御心は、『天台大師御入滅後に渡来してきた、深密経・法相宗、
また漢土(中国)において、一宗として立てられた華厳宗、そして大日経・真言宗よ
りも、法華経は勝れた経典である。』ということである。

 にもかかわらず、或いは智慧が及ばないためか、或いは人を畏れているのか、或い
は時の国王の威を恐れているのか。
 それらの故に、仏法の真理を云わないようである。

 このような有様では、天台大師の正義が失われてしまうであろう。」と。

 また、妙楽大師は、「法相宗と華厳宗と真言宗の邪義は、中国の陳・隋時代に存在
した、南三・北七の諸流派の邪義にも勝っている。」と、お思いになっていました。

 それ故に、妙楽大師は、三十巻の注釈書をお造りになりました。
 所謂、『摩訶止観弘決十巻』・『法華玄義釈籤十巻』・『法華文句記十巻』のことです。

 これらの三十巻の文(摩訶止観弘決十巻・法華玄義釈籤十巻・法華文句記十巻)は、
本書(天台大師三大部→摩訶止観・法華玄義・法華文句)の重複している箇所を削り、
不足分を加筆するだけでなく、天台大師の御在世には存在しなかった邪義の故に、天
台大師からの御責めを免れたようにも見受けられる、法相宗と華厳宗と真言宗を、一
時に破折された書物であります。
 
 また、日本国においては、人王第三十代・欽明天皇の時代である、欽明十三年〈壬
申〉十月十三日に、百済国(朝鮮)より、一切経と釈迦仏の像が渡来してきました。

 また、用明天皇の時代には、聖徳太子が仏法を読み始められて、和氣妹子という臣
下を漢土(中国)に派遣されました。
 そして、聖徳太子が過去世で所持されていた、一巻の法華経を取り寄せられて、持
経と定められました。
 
 その後、人王第三十七代・孝徳天皇の時代には、三論宗・華厳宗・法相宗・倶舎宗・
成実宗が渡来してきました。
 人王第四十五代・聖武天皇の時代には、律宗が渡来してきました。
 それらを合わせると、六宗となります。

 人王第三十七代・孝徳天皇から人王第五十代・桓武天皇の時代に至るまで、十四代・
百二十余年の間、天台・真言の二宗は、日本に存在しなかったのであります。

 報恩抄 上 (訳文-1)

 そもそも、「老いた狐は、塚を後にしない。(注、老狐が死ぬ時は、故郷の丘に、
首を向けて亡くなる故事からの由来)」と、云われています。

 また、「昔、毛宝という者に助けられた白亀がいた。毛宝が戦に敗れた時、白亀は
毛宝を背に乗せて、水上を渡航させたことにより、恩を報じた。」と、云われていま
す。

 このように、畜生でさえ、恩を報ずることを弁えています。
 ましてや、人倫(人の道)であるならば、尚更のことであります。

 例えば、古代の賢者で、予譲と云う者は、主君であった智伯の恩を報ずるために、
漆を塗ったり炭を呑んだりしながら、仇を討とうとしました。
 そして、最期は、自害をしています。 

 また、衛の国の弘演と云う臣下は、腹を裂いた後に、主君の懿公の肝を自らの腹に
入れてから、亡くなっています。

 ましてや、仏教を習おうとする者は、父母の恩・師匠の恩・国の恩(主・師・親の
三徳への御恩)を忘れてはなりません。

 この大恩を報ずるためには、必ずや、仏法を習い極めて、智者とならなければ、大
恩を報ずる事は出来ません。

 例えば、大勢の盲目の人々を導く場合に、自らが生盲の身であったとしたら、それ
らの人々に、河川にかかった橋を渡らせることは出来ません。
 また、風の方角を弁えない大舟は、諸の商人を導いて、宝山に至る事が出来ません。

 仏法を習い極めようと思うならば、暇(時間)がなければ、仏法を習い極めること
が出来ません。
 そして、暇(時間)を得ようと思うならば、父母・師匠・国主等に随っていては、
不可能となります。

 良きにつけても、悪しきにつけても、出離の道(仏道)を弁えようとするためには、
父母・師匠等の心に随ってはならないのです。

 上記の考え方は、「世間の道理から、明らかに外れている。冥土(仏法)にも、適
うものではない。」と、諸の人は思うことでしょう。

 しかしながら、外典の孝経においても、父母・主君に随うことなく、忠臣・孝人で
あった事例も見受けられます。

 内典の仏経においては、「恩を捨て、無為(仏道)に入ることは、真実・報恩の者
の行為である。」等と、仰せになられています。

 殷の国の比干という者は、紂王に随わなかったため、賢人の名を得ています。
 そして、悉達太子(釈尊の出家前の御名)が、父の浄飯大王の命に背いたことによ
って、三界第一の孝子となられたことは、上記の事例に該当します。

 このように考えた上で、父母・師匠等に随うことなく、仏法を学んでいく程に、釈
尊御一代の聖教を覚るための十の明鏡が存在することに氣づきます。

 所謂、倶舎宗・成実宗・律宗・法相宗・三論宗・真言宗・華厳宗・浄土宗・禅宗・
天台法華宗であります。

 「この十宗を明師として、一切経の心を知るべきである。そして、この十の鏡は、
皆、正直に、仏道修行の道を照らしている。」と、世間の学者等は思っています。

 この十宗のうちで、小乗の三宗(倶舎宗・成実宗・律宗)は、あたかも、民の消息
(民間人の私文書)が他国へ渡ったとしても、国家として、如何なる用を為さないよ
うなものであります。
 従って、しばらくの間、小乗の三宗については、置いておきます。

 大乗の七鏡(法相宗・三論宗・真言宗・華厳宗・浄土宗・禅宗・天台法華宗)こそ、
生死の大海を渡って、浄土の岸に着くための大船であるため、これを習い極めること
により、「我が身も助け、人々も導こう。」と思って、習学していく程に、大乗の七
宗(法相宗・三論宗・真言宗・華厳宗・浄土宗・禅宗・天台法華宗)は、いずれも、
いずれも、自讃ばかりをしていました。

 彼等は、「我が宗こそ、釈尊御一代の心を得た宗派である。我が宗こそ、釈尊御一
代の心を得た宗派である。」等と、云っていました。

 所謂、華厳宗の杜順・智厳・法蔵・澄観等のことであります。
 そして、法相宗の玄奘・慈恩・智周・智昭(注、道昭のお書き誤り)等のことであ
ります。
 そして、三論宗の興皇・嘉祥等のことであります。
 そして、真言宗の善無畏・金剛智・不空・弘法・慈覚・智証等のことであります。
 そして、禅宗の達磨・慧可・慧能等のことであります。
 そして、浄土宗の道綽・善導・懐感・源空等のことであります。

 これらの宗々の者どもは、皆、それぞれの宗派の拠り所とする経典や論釈を用いて、
「私が一切経を覚った。私が仏意を極めた。」と、云っています。

 これらの人々は、下記のように云っています。

 華厳宗の人は、「一切経の中には、華厳経第一なり。法華経・大日経等は、臣下の
如し。」と。
 真言宗の人は、「一切経の中には、大日経第一なり。余経は、衆星の如し。」と。
 禅宗の人は、「一切経の中には、楞伽経第一なり。」と。
 他の宗派の人々も、同様のことを云っています。

 しかも、上記に挙げた宗派の諸師は、あたかも、諸天が帝釈を敬うように、また、
衆星が太陽や月に随うように、世間の人々から思われています。

 私ども凡夫は、いずれの師であったとしても、信じる限りにおいては、不足があり
ません。
 そのため、彼等を仰いで、信じるべきなのでしょう。
 けれども、日蓮の愚案は、晴れ難いものがありました。

 その理由は、下記の通りです。

 「世間を見渡すと、各々、『私が』『私が』と云ったとしても、国主は、但一人で
あります。

 国主が二人になれば、その国土は穏やかになりません。家に、二人の主人がいたな
らば、その家は、必ず崩壊します。

 一切経も、また、同様のことでしょう。
 何れの経典であったとしても、その中の一経だけが、一切経の大王でいらっしゃる
のではないでしょうか。」と。

 ところが、十宗(倶舎宗・成実宗・律宗・法相宗・三論宗・真言宗・華厳宗・浄土
宗・禅宗・天台法華宗)・七宗(法相宗・三論宗・真言宗・華厳宗・浄土宗・禅宗・
天台法華宗)等と宗派が乱立しているため、各々が諍論して譲らない状態にありまし
た。

 それを譬えると、一つの国に、七人・十人の大王がいることによって、万民の暮ら
しが穏やかにならないようなものです。

 「如何にすれば、宜しいのでしょうか。」と、疑っていた折りに、私(日蓮大聖人)
は、一つの願を立てました。

 「私(日蓮大聖人)は、八宗(倶舎宗・成実宗・律宗・法相宗・三論宗・真言宗・
華厳宗・天台宗)や十宗(倶舎宗・成実宗・律宗・法相宗・三論宗・真言宗・華厳宗
・浄土宗・禅宗・天台法華宗)には随いません。」と。

 それは、あたかも、天台大師が専ら経文を師とされて、釈尊御一代の経典の勝劣を
お考えになられたようなものです。
 そして、一切経を開き見ると、涅槃経と云う経典には、「法に依って、人に依らざ
れ。(依法不依人)」等と、仰せになられています。

 「法に依って、人に依らざれ。(依法・不依人)」と仰せの経文において、『依法』
と申しますのは、仏(釈尊)がお説きになられた一切経のことです。
 そして、『不依人』と申しますのは、仏(釈尊)以外の普賢菩薩・文殊師利菩薩等
の菩薩や、前記に挙げた諸の人師であります。

 また、涅槃経においては、「了義経に依って、不了義経に依らざれ。(依了義経・
不依不了義経)」等と、仰せになられています。

 この涅槃経の経文で指されているところの『了義経』とは、法華経のことになりま
す。
 『不了義経』と申しますのは、華厳経・大日経・涅槃経等の已今当の一切経(法華
経以外のすべての経典)になります。

 故に、仏の御遺言を信ずるならば、専ら法華経を明鏡として、一切経の心を知るべ
きでしょう。

 随って、法華経の経文を開き奉れば、薬王菩薩本事品第二十三において、「この法
華経は、諸経の中において、最も、その上に在る。」等と、仰せになられています。

 この経文の如くであるならば、須弥山の頂に帝釈天王が居るように、転輪聖王の頂
に如意宝珠があるように、多くの木の頂に月が宿るように、諸仏の頭頂に肉髻がある
ように、この法華経は、華厳経・大日経・涅槃経等の一切経の頂上に在する、如意宝
珠であります。

 そこで、専ら、論師・人師の言を捨てて、経文に依るならば、大日経・華厳経等よ
りも、法華経が勝れていらっしゃることは、日輪(太陽)が青天に出現した時に、眼
の見える者ならば、誰でも、天と地を見る事が出来るようなものです。

 つまり、「法華経と爾前経における、経典の高低・上下の格差は、歴然としている。」
ということです。

 また、大日経・華厳経等の爾前経を見てみると、この法華経の経文に対して、相似
した経文は一字・一点もありません。

 所詮、大日経・華厳経等の爾前経は、或いは、小乗経に対して、『勝劣』をお説き
になられたり、或いは、『俗諦(世俗の理)』に対して、『真諦(仏法の理)』をお
説きになられたり、或いは、諸の『空諦・仮諦』に対して、『中道(中諦)』を褒め
られているにしか過ぎません。

 そのことを譬えると、小国の王が自国の臣下に対して、『大王』と言うようなもの
であります。
 一方、法華経は、諸国の王に対して、『大王』と言うようなものであります。

 ただ、涅槃経だけには、法華経に相似した経文があります。
 それ故に、天台大師が御出現される以前、南三・北七の諸宗派の僧侶は勘違いを
して、「法華経は、涅槃経に劣っている。」と、云っていました。

 けれども、専ら経文を開き見ると、法華経の開経である無量義経においては、華厳
部・阿含部・方等部・般若部等の四十余年の経々を挙げられて、「四十余年未顕真実」
等と、仰せになられています。

 また、法華経においては、「涅槃経に対して、我が身(法華経)が勝る。」という
主旨の内容が説かれています。

 また、涅槃経においては、「この経の出世は、(中略)法華経の中の八千の声聞に
対して、記別(未来の成仏の保証)を授かったことを得て、大果実を成じた後には、
秋収冬蔵(注、秋に収穫が終わり、冬に収蔵すること)の如く、更なる所作をする必
要がないようなものである。」等と、法華経に対して、仰せになられています。

 上記の経文は、涅槃経自体において、「我が経典は、法華経に劣っている。」と、
説かれている経文であります。

 このように、涅槃経の経文は、明瞭であります。
 けれども、南三・北七の諸宗派における、大智を有した諸の僧侶でさえ、迷ってし
まった経文であるため、末代の学者は、よくよく眼を留めなければなりません。

 前記の経文によって、ただ、法華経と涅槃経との勝劣のみならず、十方世界の一切
経の勝劣も知ることが出来ます。

 たとえ、その経文に迷ったとしても、天台大師・妙楽大師・伝教大師が一切経の勝
劣を御了見なされた後には、眼のある人々であるならば、認知すべき事柄となります。

 しかしながら、天台宗の貫主であった慈覚・智証でさえ、なお、この経文の解釈に
は暗いものがあります。
 ましてや、他宗の人々においては、尚更のことであります。

 或る人は、疑いながら、このように云っています。

 「漢土(中国)・日本に渡来した経々の中には、法華経より勝れた経典がなかった
としても、月氏(インド)・竜宮(竜王が住む宮殿)・四天王天(持国王天・増長天
・広目天・毘沙門天)・大日天・大月天・トウリ天(帝釈天王の住処)・トソツ天(内
院は弥勒菩薩の住処・外院は天界衆の欲楽処)等には、恒河沙(ガンジス河の砂)の
如く、多くの経々がある。
 ならば、その中には、法華経より勝れた御経があるだろう。」と。

 その疑問に対しては、このように、返答を致します。

 「一を以て、万を察するべきです。

 まさしく、『庭戸(家の中)を出ることがなくとも、天下を知ることが出来る。』
という諺は、このことに該当します。

 あなたの疑問は、あたかも、『我々は、南天だけを見たことがある。東天・西天・
北天の三方向の空を見たことがない。』と、癡人が疑って、云うようなものです。

 では、東天・西天・北天の三方向の空には、この日輪(太陽)以外に、別の日(太
陽)が存在するのでしょうか。

 同様に、山を隔てた場所から、煙が立っているのを見ていながら、『実際に、火を
見ていなければ、確かに、煙は上がっているけれども、火が燃えていないかも知れな
い。』と、云うのでしょうか。

 このように云う者は、一闡提(注、正法を信ずることなく、覚りを求める心もない
ため、成仏する機縁を持たない衆生)の人と知るべきです。
 まさしく、生盲の人(仏法に対する見識のない人)に、他なりません。」と。

 法華経法師品第十においては、釈迦如来の金口の誠言を以て、釈尊御一代・五十余
年の一切経の勝劣を定められた上で、「我が所説の経典は、無量千万億にして、已に
説き(爾前経)、今説き(無量義経)、当に説く(涅槃経)であろう。しかも、その
中に於いて、この法華経は、最も難信難解である。」等と、仰せになられています。

 この経文は、ただ、釈迦如来御一仏の御説であったとしても、等覚(菩薩の最高位)
以下の者は、仰いで信じるべきであります。

 その上、法華経見宝塔品第十一においては、多宝如来が東方世界よりお越しになら
れて、「釈迦牟尼世尊、所説の如きは、皆、これ真実なり。」と、御証明なされてい
ます。

 また、十方分身の諸仏は、法華経の会座に来集されてから、釈迦如来と同様に、広
く長い御舌を梵天に付けられて、法華経の真実を御証明なされています。
 その後に、十方分身の諸仏は、各々の国々へ、お還りになられています。

 『已今当』の三字(爾前経・無量義経・涅槃経)は、釈尊御一代五十年の御説法、
並びに、十方三世の諸仏の御経を、一字・一点も残さずに引き載せられた上で、法華
経に対比なされて説かれた教えであります。

 十方の諸仏は、法華経の会座において、『已今当』の三字(爾前経・無量義経・涅
槃経)に御判形(御証明)を加えられています。

 従って、十方の諸仏が、また、各々の自国へお還りになられた後に、十方の諸仏の
弟子たちに向かわれて、仮に、「法華経より勝れた御経がある。」と説かれたとして
も、その国土における所化の弟子たち(十方の諸仏の国土において、教化を受ける弟
子たち)は、果たして、信用されるのでしょうか。

 また、「自分は見ていないけれども、月氏(インド)・竜宮(竜王が住む宮殿)・
四天王天(持国天・増長天・広目天・毘沙門天)・大日天・大月天等の宮殿の中に、
法華経より勝れている経典があるのではないか。」と、疑いを起こす者がいたとしま
す。

 その場合には、反詰して、このように云いなさい。

 「ならば、今の大梵天王・帝釈天王・大日天王・大月天王・四天王(持国天王・増
長天王・広目天王・毘沙門天王)・竜王は、法華経の御座にいらっしゃらなかったの
でしょうか。

 もし、大日天王・大月天王等の諸天が、『法華経より勝れた御経が存在する。汝が
知らないだけだ。』と仰るのであれば、それこそ、大誑惑(大嘘つき)の大日天王・
大月天王であります。」と。

 もし、仮にも、このような不義を云う大日天王・大月天王がいたとしたら、日蓮は、
大日天王・大月天王を責め奉って、このように云います。

 「大日天王・大月天王は、虚空に住しておられますが、あたかも、我等凡夫が大地
に住んでいる如く、空から墜落されるようなことがないのは、上品の不妄語戒(最も
勝れた不妄語戒)の功徳力の故であります。

 もし、大日天王・大月天王が『法華経より勝れた御経がある。』と仰せになられる
ような、大妄語を発するのであれば、恐らくは、未だ、壊劫(注、四劫の一つ、世界
が壊滅する時期のこと。)に至らないうちに、大地の上にドッと落ちてしまうことで
しょう。

 その上、無間地獄の大城における、最下層の堅い鉄の場所まで落ちなければ、堕落
を止めることは出来ないでしょう。

 大妄語の人は、少しの瞬間も、空に住して四天下を廻ることは、出来ないのであり
ます。」と。

 ところが、華厳宗の澄観等や、真言宗の善無畏・金剛智・不空・弘法・慈覚・智証
等のように、大智を有した『三蔵法師』『大師』等と呼ばれている者どもが、「華厳
経・大日経等は、法華経より勝れている。」と、法門を立てています。

 私(日蓮大聖人)どもの分斉では、及ばぬ事かも知れません。
 けれども、仏法の大道理の示される所から鑑みると、まさしく、彼等は、『諸仏の
大怨敵』に、他なりません。

 極悪の所行を犯した、提婆達多・瞿伽梨等であったとしても、物の数ではありませ
ん。
 大天(注、インドのマトラ国の人物。両親や阿羅漢を殺害した後に出家、慢心を起
こして、仏教教団分裂の因を作った。)や大慢(注、インドのマロウバ国のバラモン。
慢心を起こして、諸尊の像を刻んで椅子の脚とした。大乗経を誹謗したため、生身で
地獄に堕ちている。)の存在を、外に求めては(他人事としては)なりません。

 彼等の教えを信ずる輩は、恐ろしいことになります。恐ろしいことになります。

 此の事日本国の中に但日蓮一人計りしれり。
 いゐいだすならば、殷の紂王の比干が胸をさきしがごとく、夏の桀王の竜蓬が頚を
切りしがごとく、檀弥羅王の師子尊者が頚を刎ねしがごとく、竺の道生が流されしが
ごとく、法道三蔵のかなやきをやかれしがごとくならんずらんとは、かねて知りしか
ども、法華経には「我身命を愛せず、但無上道を惜しむ」ととかれ、涅槃経には「寧
ろ身命を喪ふとも教を匿さざれ」といさめ給えり。
 今度命ををしむならば、いつの世にか仏になるべき、又何なる世にか父母師匠をも
すくひ奉るべきと、ひとへにをもひ切りて申し始めしかば、案にたがはず、或は所を
おひ、或はのり、或はうたれ、或は疵をかうふるほどに、去ぬる弘長元年辛酉五月十
二日に御勘氣をかうふりて、伊豆国伊東にながされぬ。
 又同じき弘長三年癸亥二月二十二日にゆりぬ。
 其の後弥菩提心強盛にして申せば、いよいよ大難かさなる事、大風に大波の起るが
ごとし。
 昔の不軽菩薩の杖木のせめも我が身につみしられたり。覚徳比丘が歓喜仏の末の大
難も此には及ばじとをぼゆ。
 日本六十六箇国、島二つの中に、一日片時も何れの所にすむべきやうもなし。
 古は二百五十戒を持ちて忍辱なる事、羅云のごとくなる持戒の聖人も、富楼那のご
とくなる智者も、日蓮に値ひぬれば悪口をはく。
 正直にして魏徴・忠仁公のごとくなる賢者等も、日蓮を見ては理をまげて非とをこ
なう。 
 いわうや世間の常の人々は犬のさるをみたるがごとく、猟師が鹿をこめたるににた
り。
 日本国の中に一人として故こそあるらめという人なし。道理なり。
 人ごとに念仏を申す、人に向かふごとに念仏は無間に堕つるというゆへに。人ごと
に真言を尊む、真言は国をほろぼす悪法という。国主は禅宗を尊む、日蓮は天魔の所
為というゆへに。
 我と招けるわざわひなれば、人ののるをもとがめず。とがむとても一人ならず。打
つをもいたまず、本より存ぜしがゆへに。
 かういよいよ身もをしまず力にまかせてせめしかば、禅僧数百人、念仏者数千人、
真言師百千人、或は奉行につき、或はきり人につき、或はきり女房につき、或は後家
尼御前等えつひて無尽のざんげんをなせし程に、最後には天下第一の大事、日本国を
失はんと咒そする法師なり。故最明寺殿・極楽寺殿を無間地獄に堕ちたりと申す法師
なり。御尋ねあるまでもなし、但須臾に頚をめせ。弟子等をば又或は頚を切り、或は
遠国につかはし、或は篭に入れよと、尼ごぜんたちいからせ給ひしかば、そのままに
行なはれけり。
 去ぬる文永八年辛未九月十二日の夜は相模の国たつの口にて切らるべかりしが、い
かにしてやありけん、其の夜はのびて依智というところへつきぬ。
 又十三日の夜はゆりたりとどどめきしが、又いかにやありけん、さどの国までゆく。
 今日切る、あす切る、といゐしほどに四箇年というに、結句は去ぬる文永十一年太
歳甲戌二月の十四日にゆりて、同じき三月二十六日に鎌倉へ入り、同じき四月の八日、
平左衛門尉に見参してやうやうの事申したりし中に、今年は蒙古は一定よすべしと申
しぬ。
 同じき五月の十二日にかまくらをいでて、此の山に入れり。これはひとへに父母の
恩・師匠の恩・三宝の恩・国恩をほうぜんがために、身をやぶり命をすつれども、破
れざればさてこそ候へ。
 又賢人の習ひ、三度国をいさむるに用ゐずば山林にまじわれということは、定まれ
るれいなり。
 此の功徳は定んで上は三宝より下梵天・帝釈・日月までもしろしめしぬらん。父母
も故道善房の聖霊も扶かり給ふらん。
 但し疑ひ念ふことあり。目連尊者は扶けんとをもいしかども、母の青提女は餓鬼道
に墜ちぬ。大覚世尊の御子なれども、善星比丘は阿鼻地獄へ墜ちぬ。
 これは力のまますくはんとをぼせども、自業自得果のへんはすくひがたし。
 故道善房はいたう弟子なれば、日蓮をばにくしとはをぼせざりけるらめども、きわ
めて臆病なりし上、清澄をはなれじと執せし人なり。
 地頭景信がをそろしといゐ、提婆・瞿伽利にことならぬ円智・実城が上と下とに居
てをどせしをあながちにをそれて、いとをしとをもうとしごろの弟子等をだにもすて
られし人なれば、後生はいかんがと疑う。
 但一つの冥加には、景信と円智・実城とがさきにゆきしこそ、一つのたすかりとは
をもへども、彼等は法華経の十羅刹のせめをかほりてはやく失せぬ。後にすこし信ぜ
られてありしは、いさかひの後のちぎりきなり、ひるのともしびなにかせん。
 其の上いかなる事あれども、子・弟子なんどいう者は不便なる者ぞかし。力なき人
にもあらざりしが、さどの国までゆきしに一度もとぶらわれざりし事は、法華経を信
じたるにはあらぬぞかし。
 それにつけてもあさましければ、彼の人の御死去ときくには、火にも入り、水にも
沈み、はしりたちてもゆひて、御はかをもたたいて経をも一巻読誦せんとこそをもへ
ども、賢人のならひ、心には遁世とはをもはねども、人は遁世とこそをもうらんに、
ゆへもなくはしり出づるならば、末もとをらずと人をもうべし。
 さればいかにをもうとも、まいるべきにあらず。
 但し各々二人は日蓮が幼少の師匠にてをはします。勤操僧正・行表僧正の伝教大師
の御師たりしが、かへりて御弟子とならせ給ひしがごとし。
 日蓮が景信にあだまれて清澄山を出でしに、をひてしのび出でられたりしは、天下
第一の法華経の奉公なり。後生は疑ひおぼすべからず。
 問うて云はく、法華経一部八巻二十八品の中に何物か肝心なる。
 答へて云はく、華厳経の肝心は大方広仏華厳経、阿含経の肝心は仏説中阿含経、大
集経の肝心は大方等大集経、般若経の肝心は摩訶般若波羅蜜経、双観経の肝心は仏説
無量寿経、観経の肝心は仏説観無量寿経、阿弥陀経の肝心は仏説阿弥陀経、涅槃経の
肝心は大般涅槃経。
 かくのごとくの一切経は皆如是我聞の上の題目、其の経の肝心なり。
 大は大につけ、小は小につけて、題目をもて肝心とす。大日経・金剛頂経・蘇悉地
経等、亦復かくのごとし。
 仏も又かくのごとし。大日如来・日月燈明仏・燃燈仏・大通仏・雲雷音王仏、是等
も又名の内に其の仏の種々の徳をそなへたり。
 今の法華経も亦もってかくのごとし。如是我聞の上の妙法蓮華経の五字は、即一部
八巻の肝心、亦復一切経の肝心、一切の諸仏・菩薩・二乗・天人・修羅・竜神等の頂
上の正法なり。
 問うて云はく、南無妙法蓮華経と心もしらぬ者の唱ふると、南無大方広仏華厳経と
心もしらぬ者の唱ふると斉等なりや、浅深の功徳差別せりや。
 答へて云はく、浅深等あり。
 疑って云はく、其の心如何。
 答へて云はく、小河は露と涓と井と渠と江とをば収むれども、大河ををさめず。大
河は露乃至小河を摂むれども、大海ををさめず。
 阿含経は井江等露涓ををさめたる小河のごとし。方等経・阿弥陀経・大日経・華厳
経等は小河ををさむる大河なり。
 法華経は露・涓・井・江・小河・大河・天雨等の一切の水を一タイももらさぬ大海
なり。
 誓へば身の熱き者の大寒水の辺にいねつればすずしく、小水の辺に臥しぬれば苦し
きがごとし。
 五逆謗法の大一闡提人、阿含・華厳・観経・大日経等の小水の辺にては大罪の大熱
さんじがたし。
 法華経の大雪山の上に臥しぬれば、五逆・誹謗・一闡提等の大熱忽ちに散ずべし。
 されば愚者は必ず法華経を信ずべし。各々経々の題目は易き事同じといへども、愚
者と智者との唱ふる功徳は天地雲泥なり。
 譬へば大綱は大力も切りがたし。小力なれども小刀をもてばたやすくこれをきる。
譬へば堅石をば鈍刀をもてば大力も破りがたし。利剣をもてば小力も破りぬべし。譬
へば薬はしらねども服すれば病やみぬ。食は服せども病やまず。譬へば仙薬は命をの
べ、凡薬は病をいやせども命をのべず。
 疑って云はく、二十八品の中に何れか肝心なる。
 答へて云はく、或は云はく、品々皆事に随ひて肝心なり。或は云はく、方便品・寿
量品肝心なり。或は云はく、方便品肝心なり。或は云はく、寿量品肝心なり。或は云
はく、開・示・悟・入肝心なり。或は云はく、実相肝心なり。
 問うて云はく、汝が心如何。
 答ふ、南無妙法蓮華経肝心なり。
 其の証如何。
 答へて云はく、阿難・文殊等、如是我聞等云云。
 問うて曰く、心如何。
 答へて云はく、阿難と文殊とは八年が間、此の法華経の無量の義を一句一偈一字も
残さず聴聞してありしが、仏の滅後に結集の時、九百九十九人の阿羅漢が筆を染めて
ありしに、妙法蓮華経とかかせて如是我聞と唱へさせ給ひしは、妙法蓮華経の五字は
一部八巻二十八品の肝心にあらずや。
 されば過去の灯明仏の時より法華経を講ぜし光宅寺の法雲法師は、「如是とは将に
所聞を伝へんとして前題に一部を挙ぐるなり」等云云。
 霊山にまのあたりきこしめしてありし天台大師は、「如是とは所聞の法体なり」等
云云。
 章安大師の云はく、記者釈して曰く「蓋し序王とは経の玄意を叙し、玄意は文心を
述す」等云云。此の釈に文心とは題目は法華経の心なり。
 妙楽大師云はく「一代の教法を収むること法華の文心より出づ」等云云。
 天竺は七十箇国なり、総名は月氏国。日本は六十箇国、総名は日本国。
 月氏の名の内に七十箇国乃至人畜珍宝みなあり。
 日本と申す名の内に六十六箇国あり。出羽の羽も奥州の金も乃至国の珍宝人畜乃至
寺塔も神社も、みな日本と申す二字の名の内に摂まれり。
 天眼をもっては、日本と申す二字を見て六十六箇国乃至人畜等をみるべし。法眼を
もっては、人畜等の此に死し彼に生ずるをもみるべし。
 譬へば人の声をきいて体をしり、跡をみて大小をしる。蓮をみて池の大小を計り、
雨をみて竜の分斉をかんがう。これはみな一に一切の有ることわりなり。
 阿含経の題目には大旨一切はあるやうなれども、但小釈迦一仏ありて他仏なし。
 華厳経・観経・大日経等には又一切有るやうなれども、二乗を仏になすやうと久遠
実成の釈迦仏なし。
 例せば華さいて菓ならず、雷なって雨ふらず、鼓あて音なし、眼あて物をみず、女
人あて子をうまず、人あて命なし又神なし。
 大日の真言・薬師の真言・阿弥陀の真言・観音の真言等又かくのごとし。
 彼の経々にしては、大王・須弥山・日月・良薬・如意珠・利剣等のやうなれども、
法華経の題目に対すれば雲泥の勝劣なるのみならず、皆各々当体の自用を失ふ。
 例せば衆星の光の一つの日輪にうばはれ、諸の鉄の一の磁石に値ひて利精のつき、
大剣の小火に値ひて用を失ひ、牛乳・驢乳等の師子王の乳に値ひて水となり、衆狐が
術一犬に値ひて失ひ、狗犬が小虎に値ひて色を変ずるがごとし。
 南無妙法蓮華経と申せば、南無阿弥陀仏の用も、南無大日真言の用も、観世音菩薩
の用も、一切の諸仏諸経諸菩薩の用も、皆悉く妙法蓮華経の用に失はる。
 彼の経々は妙法蓮華経の用を借らずば、皆いたづらものなるべし。当時眼前のこと
はりなり。
 日蓮が南無妙法蓮華経と弘むれば、南無阿弥陀仏の用は月のかくるがごとく、塩の
ひるがごとく、秋冬の草のかるるがごとく、氷の日天にとくるがごとくなりゆくをみ
よ。
 問うて云はく、此の法実にいみじくば、など迦葉・阿難・馬鳴・竜樹・無著・天親・
南岳・天台・妙楽・伝教等は、善導が南無阿弥陀仏とすすめて漢土に弘通せしがごと
く、慧心・永観・法然が日本国を皆阿弥陀仏になしたるがごとく、すすめ給はざりけ
るやらん。
 答へて云はく、此の難は古の難なり、今はじめたるにはあらず。
 馬鳴・竜樹菩薩等は仏滅後六百年七百年等の大論師なり。此の人々世にいでて大乗
経を弘通せしかば、諸々の小乗の者疑って云はく、迦葉・阿難等は仏の滅後二十年四
十年住寿し給ひて正法をひろめ給ひしは、如来一代の肝心をこそ弘通し給ひしか。
 而るに此の人々は但苦・空・無常・無我の法門をこそ詮とし給ひしに、今、馬鳴・
竜樹等はかしこしといふとも迦葉・阿難等にはすぐべからず〈是一〉。
 迦葉は仏にあひまいらせて解りをえたる人なり。此の人々は仏にあひたてまつらず
〈是二〉。
 外道は常・楽・我・浄と立てしを、仏世に出でさせ給ひて苦・空・無常・無我と説
かせ給ひき。此のものどもは常・楽・我・浄といへり。〈是三〉 
 されば仏も御入滅なりぬ。又迦葉等もかくれさせ給ひぬれば、第六天の魔王が此の
ものどもが身に入りかはりて仏法をやぶり外道の法となさんとするなり。
 されば仏法のあだをば頭をわれ、頚をきれ、命をたて、食を止めよ、国を追へと、
諸の小乗の人々申せしかども、馬鳴・竜樹等は但一・二人なり。昼夜に悪口の声をき
き朝暮に杖木をかうぶりしなり。
 而れども此の二人は仏の御使ひぞかし。正しく摩耶経には六百年に馬鳴出で、七百
年に竜樹出でんと説かれて候。其の上、楞伽経等にも記せられたり。又付法蔵経には
申すにをよばず。
 されども諸の小乗のものどもは用ひず、但理不尽にせめしなり。
 「如来現在猶多怨嫉況滅度後」の経文は、此の時にあたりて少しつみしられけり。
 提婆菩薩の外道にころされ、師子尊者の頚をきられし、此の事をもっておもひやら
せ給へ。
 又仏滅後一千五百余年にあたりて、月氏よりは東に漢土といふ国あり。陳・隋の代
に天台大師出世す。
 此の人の云はく、如来の聖教に大あり小あり、顕あり密あり、権あり実あり。迦葉・
阿難等は一向に小を弘め、馬鳴・竜樹・無著・天親等は権大乗を弘めて、実大乗の法
華経をば、或は但指をさして義をかくし、或は経の面をのべて始中終をのべず、或は
迹門をのべて本門をあらはさず、或は本迹あって観心なしといゐしかば、南三北七の
十流が末、数千万人時をつくりどっとわらふ。
 世の末になるままに不思議の法師も出現せり。時にあたりて我等を偏執する者はあ
りとも、後漢の永平十年丁卯の歳より、今陳・隋にいたるまでの三蔵人師二百六十余
人を、ものもしらずと申す上、謗法の者なり悪道に墜つるといふ者出来せり。
 あまりのものくるはしさに、法華経を持て来たり給へる羅什三蔵をも、ものしらぬ
者と申すなり。
 漢土はさてもをけ、月氏の大論師竜樹・天親等の数百人の四依の菩薩もいまだ実義
をのべ給はずといふなり。此をころしたらん人は鷹をころしたるものなり。鬼をころ
すにもすぐべしとののしりき。
 又妙楽大師の時、月氏より法相・真言わたり、漢土に華厳宗の始まりたりしを、と
かくせめしかば、これも又さはぎしなり。
 日本国には伝教大師が仏滅後一千八百年にあたりていでさせ給ひ、天台の御釈を見
て欽明より已来二百六十余年が間の六宗をせめ給ひしかば、在世の外道・漢土の道士、
日本に出現せりと謗ぜし上、仏滅後一千八百年が間、月氏・漢土・日本になかりし円
頓の大戒を立てんというのみならず、西国の観音寺の戒壇・東国下野の小野寺の戒壇・
中国大和国東大寺の戒壇は、同じく小乗臭糞の戒なり、瓦石のごとし。其を持つ法師
等は野干猿猴等のごとしとありしかば、あら不思議や、法師ににたる大蝗虫、国に出
現せり。仏教の苗一時にうせなん。殷の紂・夏の桀、法師となりて日本に生まれたり。
後周の宇文・唐の武宗、二たび世に出現せり。仏法も但今失せぬべし、国もほろびな
んと。
 大乗・小乗の二類の法師出現せば、修羅と帝釈と、項羽と高祖と一国に並べるなる
べし。
 諸人手をたたき、舌をふるふ。在世には仏と提婆が二つの戒壇ありてそこばくの人
々死ににき。されば他宗にはそむくべし。我が師天台大師の立て給はざる円頓の戒壇
を立つべしという不思議さよ。あらをそろしをそろしとののしりあえりき。
 されども経文分明にありしかば、叡山の大乗戒壇すでに立てさせ給ひぬ。
 されば内証は同じけれども、法の流布は迦葉・阿難よりも馬鳴・竜樹等はすぐれ、
馬鳴等よりも天台はすぐれ、天台よりも伝教は超えさせ給ひたり。
 世末になれば、人の智はあさく仏教はふかくなる事なり。例せば軽病は凡薬、重病
には仙薬、弱き人には強きかたうど有りて扶くるこれなり。
 問うて云はく、天台・伝教の弘通し給はざる正法ありや。
 答へて云はく、有り。
 求めて云はく、何物ぞや。
 答へて云はく、三つあり、末法のために仏留め置き給ふ。迦葉・阿難等、馬鳴・竜
樹等、天台・伝教等の弘通せさせ給はざる正法なり。
 求めて云はく、其の形貌如何。
 答へて云はく、一つには、日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし。
所謂宝塔の内の釈迦・多宝・外の諸仏、並びに上行等の四菩薩脇士となるべし。
 二つには、本門の戒壇。
 三つには、日本乃至漢土月氏一閻浮提に人ごとに有智無智をきらはず、一同に他事
をすてて南無妙法蓮華経と唱ふべし。
 此の事いまだひろまらず。一閻浮提の内に仏滅後二千二百二十五年が間、一人も唱
へず。日蓮一人南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経等と声もをしまず唱ふるなり。
 例せば風に随って波の大小あり、薪によって火の高下あり、池に随って蓮の大小あ
り、雨の大小は竜による、根ふかければ枝しげし、源遠ければ流れながしというこれ
なり。
 周の代の七百年は文王の礼孝による。秦の世ほどもなし、始皇の左道によるなり。
 日蓮が慈悲広大ならば、南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながるべし。日本国
の一切衆生の盲目をひらける功徳あり。無間地獄の道をふさぎぬ。此の功徳は伝教・
天台にも超へ、竜樹・迦葉にもすぐれたり。
 極楽百年の修行は穢土の一日の功に及ばず。正像二千年の弘通は末法の一時に劣る
か。
 是はひとへに日蓮が智のかしこきにはあらず。時のしからしむるのみ。春は花さき、
秋は菓なる、夏はあたたかに、冬はつめたし、時のしからしむるに有らずや。

 「我が滅度の後、後の五百歳の中に広宣流布して閻浮提に於て断絶して悪魔・魔民・
諸の天竜・夜叉・鳩槃荼等をして其の便りを得せしむること無けん」等云云。
 此の経文若しむなしくなるならば、舎利弗は華光如来とならじ、迦葉尊者は光明如
来とならじ、目ケンは多摩羅跋栴檀香仏とならじ、阿難は山海慧自在通王仏とならじ、
摩訶波闍波提比丘尼は一切衆生喜見仏とならじ、耶輸陀羅比丘尼は具足千万光相仏と
ならじ。
 三千塵点も戯論、五百塵点も妄語となりて、恐らくは教主釈尊は無間地獄に堕ち、
多宝仏は阿鼻の炎にむせび、十方の諸仏は八大地獄を栖とし、一切の菩薩は一百三十
六の苦をうくべし。
 いかでかその義あるべき。其の義なくば日本国は一同の南無妙法蓮華経なり。
 されば花は根にかへり、真味は土にとどまる。此の功徳は故道善房の聖霊の御身に
あつまるべし。
 南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。

 建治二年〈太歳丙子〉七月二十一日 之を記す。
 甲州波木井の郷身延山の岳より、安房の国東条郡清澄山浄顕房・義城房の本へ奉送
す。
 日本国は慈覚・智証・弘法の流れなり。一人として謗法ならざる人はなし。
 但し事の心を案ずるに、大荘厳仏の末、一切明王仏の末法のごとし。
 威音王仏の末法には改悔ありしすら、猶千劫阿鼻地獄に堕つ。
 いかにいわうや、日本国の真言師・禅宗・念仏者等は一分の廻心なし。「如是展転、
至無数劫」疑ひなきものか。
 かかる謗法の国なれば天もすてぬ。天すつればふるき守護の善神もほこらをやひて
寂光の都へかへり給ひぬ。
 但日蓮計り留まり居て告げ示せば、国主これをあだみ、数百人の民に或は罵詈、或
は悪口、或は杖木、或は刀剣、或は宅々ごとにせき、或は家々ごとにをう。
 それにかなはねば、我と手をくだして二度まで流罪あり。去ぬる文永八年九月の十
二日には頚を切らんとす。
 最勝王経に云はく「悪人を愛敬し善人を治罰するに由るが故に、他方の怨賊来たっ
て国人喪乱に遭ふ」等云云。
 大集経に云はく「若しは復諸の刹利国王諸の非法を作し、世尊の声聞の弟子を悩乱
し、若しは以て毀罵し、刀杖をもって打折し、及び衣鉢種々の資具を奪ひ、若しは他
の給施に留難を作す者有らば、我等彼をして自然に卒かに他方の怨敵を起こさしめん。
及び自界の国土にも亦兵起こり、病疫飢饉し、非時に風雨し闘諍言訟せしめん。又其
の王をして久しからずして復当に己が国を亡失せしむべし」等云云。
 此等の経文のごときは、日蓮この国になくば、仏は大妄語の人、阿鼻地獄はいかで
脱れ給ふべき。
 去ぬる文永八年九月十二日に、平左衛門並びに数百人に向かって云はく、日蓮は日
本国のはしらなり。日蓮を失ふほどならば、日本国のはしらをたをすになりぬ等云云。
 此の経文に、智人を国主等、若しは悪僧等がざんげんにより、若しは諸人の悪口に
よて失にあつるならば、にはかにいくさをこり、又大風吹かせ、他国よりせむべし等
云云。
 去ぬる文永九年二月のどしいくさ、同じき十一年の四月の大風、同じき十月に大蒙
古の来たりしは、偏に日蓮がゆへにあらずや。いわうや前よりこれをかんがへたり。
誰の人か疑ふべき。
 弘法・慈覚・智証の誤り、並びに禅宗と念仏宗とのわざわいあいをこりて、逆風に
大波をこり、大地震のかさなれるがごとし。さればやうやく国をとろう。
 太政入道が国ををさへ、承久に王位つきはてて世東にうつりしかども、但国中のみ
だれにて他国のせめはなかりき。
 彼は謗法の者は国に充満せりといへども、ささへ顕はす智人なし。かるがゆへに、
なのめなりき。
 譬へば師子のねぶれるは手をつけざればほへず。迅き流れは櫓をささへざれば波た
かからず。盗人はとめざればいからず。火は薪を加へざればさかんならず。
 謗法はあれどもあらわす人なければ国もをだやかなるににたり。
 例せば日本国に仏法わたりはじめて候ひしに、始めはなに事もなかりしかども、守
屋仏をやき、僧をいましめ、堂塔をやきしかば、天より火の雨ふり、国にはうさうを
こり、兵乱つづきしがごとし。
 此はそれにはにるべくもなし。謗法の人々も国に充満せり。日蓮が大義も強くせめ
かかる。修羅と帝釈と、仏と魔王との合戦にもをとるべからず。
 金光明経に云はく「時に隣国の怨敵是くの如き念を興さん。当に四兵を具して彼の
国土を壊るべし」等云云。
 又云はく「時に王見已はって、即ち四兵を厳ひて彼の国に発向し、討罰を為さんと
欲す。我等爾の時に、当に眷属無量無辺の薬叉諸神と各形を隠して為に護助を作し、
彼の怨敵をして自然に降伏せしむべし」等云云。
 最勝王経の文、又かくのごとし。大集経云云。仁王経云云。
 此等の経文のごときんば、正法を行ずるものを国主あだみ、邪法を行ずる者のかた
うどせば、大梵天王・帝釈・日月・四天等、隣国の賢王の身に入りかわりて其の国を
せむべしとみゆ。
 例せば訖利多王を雪山下王のせめ、大族王を幻日王の失ひしがごとし。訖利多王と
大族王とは月氏の仏法を失ひし王ぞかし。漢土にも仏法をほろぼしし王、みな賢王に
せめられぬ。
 これは彼にはにるべくもなし。仏法のかたうどなるやうにて、仏法を失ふ法師のか
たうどをするゆへに、愚者はすべてしらず。智者なんども常の智人はしりがたし。天
も下劣の天人は知らずもやあるらん。
 されば漢土・月氏のいにしへのみだれよりも大きなるべし。
 法滅尽経に云はく「吾般泥オンの後、五逆濁世に魔道興盛し、魔沙門と作って吾が
道を壊乱せん。乃至、悪人転多く海中の沙の如く、善者甚だ少なくして、若しは一、
若しは二」云云。
 涅槃経に云はく「是くの如き等の涅槃経典を信ずるものは、爪上の土の如し。乃至、
是の経を信ぜざるものは、十方界の所有の地土の如し」等云云。
 此の経文は予が肝に染みぬ。当世日本国には、我も法華経を信じたり信じたり、諸
人の語のごときんば、一人も謗法の者なし。
 此の経文には、末法に謗法の者十方の地土、正法の者爪上の土等云云。経文と世間
とは水火なり。
 世間の人の云はく、日本国には日蓮一人計り謗法の者等云云。又経文には天地せり。
 法滅尽経には善者一・二人。涅槃経には信ずる者は爪上の土等云云。
 経文のごとくならば、日本国は但日蓮一人こそ爪上の土、一・二人にては候へ。経
文をや用ふべき、世間をや用ふべき。
 問うて云はく、涅槃経の文には、涅槃経の行者は爪上の土等云云。汝が義には法華
経等云云、如何。
 答へて云はく、涅槃経に云はく「法華の中の如し」等云云。妙楽大師云はく「大経
自ら法華を指して極と為す」等云云。
 大経と申すは涅槃経なり。涅槃経には法華経を極と指して候なり。
 而るを涅槃宗の人の涅槃経を法華経に勝ると申せしは、主を所従といゐ下郎を上郎
といゐし人なり。
 涅槃経をよむと申すは、法華経をよむを申すなり。譬へば、賢人は国主を重んずる
者をば、我をさぐれども悦ぶなり。涅槃経は法華経を下げて我をほむる人をば、あな
がちに敵とにくませ給ふ。
 此の例をもって知るべし。華厳経・観経・大日経等をよむ人も法華経を劣るとよむ
は、彼々の経々の心にはそむくべし。
 此をもって知るべし。法華経をよむ人の此の経をば信ずるやうなれども、諸経にて
も得道なるとをもうは、此の経をよまぬ人なり。
 例せば、嘉祥大師は、法華玄と申す文十巻造りて法華経をほめしかども、妙楽かれ
をせめて云はく「毀其の中に在り、何ぞ弘讃と成さん」等云云。
 法華経をやぶる人なり。されば嘉祥は落ちて、天台につかひて法華経をよまず、我
経をよむならば悪道まぬかれがたしとて、七年まで身を橋とし給ひき。
 慈恩大師は玄賛と申して法華経をほむる文十巻あり。
 伝教大師せめて云はく「法華経を讃むると雖も還って法華の心を死す」等云云。
 此等をもってをもうに、法華経をよみ讃歎する人々の中に無間地獄は多く有るなり。
 嘉祥・慈恩すでに一乗誹謗の人ぞかし。弘法・慈覚・智証あに法華経蔑如の人にあ
らずや。
 嘉祥大師のごとく講を廃し衆を散じて身を橋となせしも、猶や已前の法華経誹謗の
罪やきへざるらん。
 不軽軽毀の者は不軽菩薩に信伏随従せしかども、重罪いまだのこりて、千劫阿鼻に
堕ちぬ。
 されば弘法・慈覚・智証等は設ひひるがへす心ありとも、尚法華経をよむならば重
罪きへがたし。いわうやひるがへる心なし。又法華経を失ひ、真言教を昼夜に行なひ、
朝暮に伝法せしをや。
 世親菩薩・馬鳴菩薩は小をもて大を破せる罪をば、舌を切らんとこそせしか。
 世親菩薩は仏説なれども、阿含経をばたわふれにも舌の上にをかじとちかひ、馬鳴
菩薩は懺悔のために起信論をつくりて、小乗をやぶり給ひき。
 嘉祥大師は天台大師を請じ奉りて、百余人の智者の前にして、五体を地になげ、遍
身にあせをながし、紅のなんだをながして、今よりは弟子を見じ、法華経をかうぜじ、
弟子の面をまぼり法華経をよみたてまつれば、我が力の此の経を知るににたりとて、
天台よりも高僧老僧にてをはせしが、わざと人のみるとき、をひまいらせて河をこへ、
かうざにちかづきてせなかにのせまいらせ給ひて高座にのぼせたてまつり、結句御臨
終の後には、隋の皇帝にまいらせ給ひて、小児が母にをくれたるがごとくに、足をす
りてなき給ひしなり。
 嘉祥大師の法華玄を見るに、いたう法華経を謗じたる疏にはあらず。
 但法華経と諸大乗経とは、門は浅深あれども心は一つとかきてこそ候へ。此が謗法
の根本にて候か。
 華厳の澄観も、真言の善無畏も、大日経と法華経とは理は一とこそかかれて候へ。
嘉祥大師とがあらば、善無畏三蔵も脱れがたし。 
 されば善無畏三蔵は中天の国主なり。位をすてて他国にいたり、殊勝・招提の二人
にあひて法華経をうけ、百千の石の塔を立てしかば、法華経の行者とこそみへしか。
 しかれども大日経を習ひしよりこのかた、法華経を大日経に劣るとやをもひけん。
 始めはいたう其の義もなかりけるが、漢土にわたりて玄宗皇帝の師となりぬ。
 天台宗をそねみ思ふ心つき給ひけるかのゆへに、忽ちに頓死して、二人の獄卒に鉄
の縄七つつけられて閻魔王宮にいたりぬ。
 命いまだつきずといゐてかへされしに、法華経謗法とやをもひけん、真言の観念・
印・真言等をばなげすてて、法華経の今此三界の文を唱へて、縄も切れかへされ給ひ
ぬ。
 又雨のいのりををほせつけられたりしに、忽ちに雨は下りたりしかども、大風吹き
て国をやぶる。結句死し給ひてありしには、弟子等集まりて臨終いみじきやうをほめ
しかども、無間大城に堕ちにき。
 問うて云はく、何をもってかこれをしる。
 答へて云はく、彼の伝を見るに云はく「今畏の遺形を観るに、漸く加縮小し、黒皮
隠々として、骨其れ露なり」等云云。
 彼の弟子等は死後に地獄の相の顕はれたるをしらずして、徳をあぐなどをもへども、
かきあらはせる筆は畏が失をかけり。
 死してありければ、身やうやくつづまりちひさく、皮はくろし、骨あらはなり等云
云。人死して後、色の黒きは地獄の業と定むる事は仏陀の金言ぞかし。
 善無畏三蔵の地獄の業はなに事ぞ。
 幼少にして位をすてぬ。第一の道心なり。月氏五十余箇国を修行せり。慈悲の余り
に漢土にわたれり。
 天竺・震旦・日本・一閻浮提の内に真言を伝へ鈴をふる、この人の徳にあらずや。
いかにとして地獄に堕ちけると、後生ををもはん人々は御尋ねあるべし。
 又金剛智三蔵は南天竺の大王の太子なり。金剛頂経を漢土にわたす。其の徳善無畏
のごとし。又互ひに師となれり。
 而るに金剛智三蔵勅宣によて雨の祈りありしかば七日が中に雨下る。天子大いに悦
ばせ給ふほどに、忽ちに大風吹き来たる。王臣等けうさめ給ひて、使ひをつけて追は
せ給ひしかども、とかうのべて留まりしなり。
 結句は姫宮の御死去ありしに、いのりをなすべしとて、身の代に殿上の二の女子七
歳になりしを薪につみこめて、焼き殺せし事こそ無慙にはをぼゆれ。而れども姫宮も
いきかへり給はず。
 不空三蔵は金剛智と月支より御ともせり。此等の事を不審とやをもひけん。畏と智
と入滅の後、月氏に還りて竜智に値ひ奉り、真言を習ひなをし、天台宗に帰伏してあ
りしが、心計りは帰れども、身はかへる事なし。
 雨の御いのりうけ給はりたりしが、三日と申すに雨下る。天子悦ばせ給ひて我と御
布施ひかせ給ふ。
 須臾ありしかば、大風落ち下りて内裏をも吹きやぶり、雲閣月卿の宿所一所もある
べしともみへざりしかば、天子大いに驚きて宣旨なりて風をとどめよ。且らくありて
は又吹き又吹きせしほどに、数日が間やむことなし。結句は使ひをつけて追ふてこそ、
風もやみてありしか。
 此の三人の悪風は、漢土日本の一切の真言師の大風なり。
 さにてあるやらん。去ぬる文永十一年四月十二日の大風は、阿弥陀堂加賀法印、東
寺第一の智者の雨のいのりに吹きたりし逆風なり。
 善無畏・金剛智・不空の悪法をすこしもたがへず伝へたりけるか。心にくし、心に
くし。
 弘法大師は去ぬる天長元年の二月大旱魃のありしに、先には守敏祈雨して七日が内
に雨を下らす。但し京中にふりて田舎にそそがず。
 次に弘法承け取りて一七日に雨氣なし、二七日に雲なし。三七日と申せしに、天子
より和氣真綱を使者として、御幣を神泉苑にまいらせたりしかば、雨下る事三日。
 此をば弘法大師並びに弟子等、此の雨をうばひとり、我が雨として、今に四百余年、
弘法の雨という。
 慈覚大師の夢に日輪をいしと、弘法大師の大妄語に云へる、弘仁九年の春大疫をい
のりしかば、夜中に大日輪出現せりと云云。
 成劫より已来住劫の第九の減、已上二十九劫が間に、日輪夜中に出でしという事な
し。
 慈覚大師は夢に日輪をいるという。内典五千七千、外典三千余巻に日輪をいるとゆ
めにみるは、吉夢という事有りやいなや。
 修羅は帝釈をあだみて日天をいたてまつる。其の矢かへりて我が眼にたつ。
 殷の紂王は日天を的にいて身を亡ぼす。
 日本の神武天皇の御時、度美長と五瀬命と合戦ありしに、命の手に矢たつ。
 命の云はく、我はこれ日天の子孫なり。日に向かひ奉りて弓をひくゆへに、日天の
せめをかをほれりと云云。
 阿闍世王は仏に帰しまいらせて、内裏に返りてぎょしんなりしが、をどろいて諸臣
に向かって云はく、日輪天より地に落つとゆめにみる。
 諸臣の云はく、仏の御入滅か云云。須跋陀羅がゆめ又かくのごとし。
 我が国は殊にいむべきゆめなり。神をば天照という、国をば日本という。又教主釈
尊をば日種と申す。摩耶夫人日をはらむとゆめにみてまうけ給へる太子なり。    
 慈覚大師は大日如来を叡山に立てて釈迦仏をすて、真言の三部経をあがめて法華経
の三部の敵となりしゆへに、此の夢出現せり。
 例せば漢土の善導が、始めは密州の明勝といゐし者に値ひて法華経をよみたりしが、
後には道綽に値ひて法華経をすて観経に依りて疏をつくり、法華経をば千中無一、念
仏をば十即十生・百即百生と定めて、此の義を成ぜんがために、阿弥陀仏の御前にし
て祈誓をなす。仏意に叶ふやいなや、毎夜夢の中に常に一の僧有り、来たって指授す
と云云。乃至一経法の如くせよ。乃至観念法門経等云云。
 法華経には「若し法を聞く者有れば一として成仏せざるなし」と。
 善導は「千の中に一も無し」等云云。法華経と善導とは水火なり。
 善導は観経をば十即十生・百即百生と。無量義経に云はく、観経は「未だ真実を顕
はさず」等云云。無量義経と楊柳房とは天地なり。
 此を阿弥陀仏の僧と成りて、来たって真なりと証せば、あに真事ならんや。抑阿弥
陀は法華経の座に来たりて、舌をば出だし給はざりけるか。観音・勢至は法華経の座
にはなかりけるか。
 此をもてをもへ、慈覚大師の御夢はわざわひなり。
 問うて云はく、弘法大師の心経の秘鍵に云はく「時に弘仁九年の春天下大疫す。爰
に皇帝自ら黄金を筆端に染め、紺紙を爪掌に握って、般若心経一巻を書写し奉り給ふ。
予講読の撰に範りて経旨の宗を綴り、未だ結願の詞を吐かざるに、蘇生の族途に彳ず
む。夜変じて日光赫々たり。是愚身の戒徳に非ず、金輪の御信力の所為なり。但神舎
に詣でん輩は此の秘鍵を誦し奉れ。昔、予、鷲峰説法の莚に陪して、親しく其の深文
を聞きたてまつる。豈其の義に達せざらんや」等云云。
 又孔雀経の音義に云はく「弘法大師帰朝の後、真言宗を立てんと欲し、諸宗を朝廷
に群集す。即身成仏の義を疑ふ。大師智拳の印を結びて南方に向ふに、面門俄に開い
て金色の毘盧遮那と成り、即便本体に還帰す。入我我入の事、即身頓証の疑ひ、此の
日釈然たり。然るに真言瑜伽の宗、秘密曼荼羅の道、彼の時より建立しぬ」と。
 又云はく「此の時に諸宗の学徒大師に帰して、始めて真言を得て、請益し習学す。
三論の道昌、法相の源仁、華厳の道雄、天台の円澄等、皆其の類なり」と。
 弘法大師の伝に云はく「帰朝泛舟の日発願して云はく、我が所学の教法若し感応の
地有らば、此の三鈷其の処に到るべしと。仍って日本の方に向かって三鈷を抛げ上ぐ
るに遥かに飛んで雲に入る。十月に帰朝す」云云。
 又云はく「高野山の下に入定の所を占む。乃至、彼の海上の三鈷今新たに此に在り」
等云云。
 此の大師の徳無量なり。其の両三を示す。かくのごとくの大徳あり。いかんが此の
人を信ぜずして、かへて阿鼻地獄に堕つるといはんや。
 答へて云はく、予も仰いで信じ奉る事かくのごとし。但し古の人々も不可思議の徳
ありしかども、仏法の邪正は其れにはよらず。  
 外道が或は恒河を耳に十二年留め、或は大海をすひほし、或は日月を手ににぎり、
或は釈子を牛羊となしなんどせしかども、いよいよ大慢ををこして、生死の業とこそ
なりしか。
 此をば天台云はく「名利を邀め見愛を増す」とこそ釈せられて候へ。
 光宅が忽ちに雨を下らし須臾に花を感ぜしをも、妙楽は「感応此くの如くなれども
猶理に称はず」とこそかかれて候へ。
 されば天台大師の法華経をよみて須臾に甘雨を下らせ、伝教大師の三日が内に甘露
の雨をふらしてをはせしも、其れをもって仏意に叶ふとはをほせられず。
 弘法大師いかなる徳ましますとも、法華経を戯論の法と定め、釈迦仏を無明の辺域
とかかせ給へる御ふでは、智慧かしこからん人は用ふべからず。いかにいわうや、上
にあげられて候徳どもは不審ある事なり。
 「弘仁九年の春天下大疫」等云云。春は九十日、何れの月何れの日ぞ、是一。
 又弘仁九年には大疫ありけるか、是二。
 又「夜変じて日光赫々たり」云云。此の事第一の大事なり。弘仁九年は嵯峨天皇の
御宇なり。左史右史の記に載せたりや、是三。
 設ひ載せたりとも信じがたき事なり。成劫二十劫・住劫九劫・已上二十九劫が間に
いまだ無き天変なり。
 夜中に日輪の出現せる事如何。又如来一代の聖教にもみへず。未来に夜中に日輪出
づべしとは、三皇五帝の三墳五典にも載せず。
 仏経のごときんば、減劫にこそ、二つの日三つの日乃至七つの日は出づべしとは見
ゆれども、かれは昼のことぞかし。夜日出現せば東西北の三方は如何。
 設ひ内外の典に記せずとも、現に弘仁九年の春、何れの月、何れの日、何れの夜の、
何れの時に日出づるという。公家・諸家・叡山等の日記あるならば、すこし信ずるへ
んもや。
 次下に「昔、予、鷲峰説法の莚に陪して、親しく其の深文を聞く」等云云。
 此の筆を人に信ぜさせしめんがために、かまへ出だす大妄語か。
 されば霊山にして法華経は戯論、大日経は真実と仏の説き給ひけるを、阿難・文殊
が誤りて妙法華経をば真実とかけるか、いかん。
 いうにかいなき淫女、破戒の法師等が歌をよみて雨らす雨を、三七日まで下らさざ
りし人は、かかる徳あるべしや、是四。
 孔雀経の音義に云はく「大師智拳の印を結んで南方に向かふに、面門俄かに開いて
金色の毘廬遮那と成る」等云云。
 此又何れの王、何れの年時ぞ。
 漢土には建元を初めとし、日本には大宝を初めとして緇素の日記、大事には必ず年
号のあるが、これほどの大事にいかでか王も臣も年号も日時もなきや。
 又次に云はく「三論の道昌・法相の源仁・華厳の道雄・天台の円澄」等云云。
 抑円澄は寂光大師、天台第二の座主なり。其の時何ぞ第一の座主義真、根本の伝教
大師をば召さざりけるや。
 円澄は天台第二の座主、伝教大師の御弟子なれども、又弘法大師の弟子なり。
 弟子を召さんよりは、三論・法相・華厳よりは、天台の伝教・義真の二人を召すべ
かりけるか。
 而も此の日記に云はく「真言瑜伽の宗、秘密曼荼羅道彼の時より建立しぬ」等云云。
 此の筆は伝教・義真の御存生かとみゆ。  
 弘法は平城天皇大同二年より弘仁十三年までは盛んに真言をひろめし人なり。其の
時は此の二人現にをはします。又義真は天長十年までをはせしかば、其の時まで弘法
の真言はひろまらざりけるか。かたがた不審あり。
 孔雀経の疏は、弘法の弟子真済が自記なり、信じがたし。又邪見の者が公家・諸家
・円澄の記をひかるべきか。又道昌・源仁・道雄の記を尋ぬべし。
 「面門俄かに開いて金色の毘盧遮那と成る」等云云。
 面門とは口なり、口の開けたりけるか。眉間開くとかかんとしけるが誤りて面門と
かけるか。ぼう書をつくるゆへにかかるあやまりあるか。
 「大師智拳の印を結んで南方に向かふに、面門俄かに開いて、金色の毘盧遮那と成
る」等云云。
 涅槃経の五に云はく「迦葉、仏に白して言さく、世尊、我今是の四種の人に依らず。
何を以ての故に。瞿師羅経の中の如き、仏瞿師羅が為に説きたまはく、若し、天・魔・
梵、破壊せんと欲するが為に変じて仏の像となり、三十二相八十種好を具足し荘厳し、
円光一尋面部円満なること猶月の盛明なるがごとく、眉間の毫相白きこと珂雪に踰え、
乃至、左の脇より水を出だし右の脇より火を出だす」等云云。
 又六の巻に云はく「仏迦葉に告げたまはく、我般涅槃して、乃至、後是の魔波旬漸
く当に我が之の正法を沮壊すべし。乃至、化して阿羅漢の身及び仏の色身と作り、魔
王此の有漏の形を以て無漏の身と作り、我が正法を壊らん」等云云。
 弘法大師は法華経を華厳経・大日経に対して戯論等云云。而も仏身を現ず。此涅槃
経には魔、有漏の形をもって仏となって、我が正法をやぶらんと記し給ふ。
 涅槃経の正法は法華経なり。
 故に経の次下の文に云はく「久しく已に成仏す」と。又云はく「法華の中の如し」
等云云。
 釈迦・多宝・十方の諸仏は一切経に対して、法華経は真実、大日経等の一切経は不
真実等云云。
 弘法大師は仏身を現じて、華厳経・大日経に対して、法華経は戯論等云云。
 仏説まことならば弘法は天魔にあらずや。
 又三鈷の事、殊に不審なり。漢土の人の日本に来たりてほりいだすとも信じがたし。
已前に人をやつかわしてうづみけん。いわうや弘法は日本の人、かかる誑乱其の数多
し。
 此等をもって仏意に叶ふ人の証拠とはしりがたし。
 されば此の真言・禅宗・念仏等やうやくかうなり来たる程に、人王第八十二代尊成
隠岐の法王、権太夫殿を失はんと年ごろはげませ給ひけるゆへに、国主なればなにと
なくとも、師子王の兎を伏するがごとく、鷹の雉を取るやうにこそあるべかりし上、
叡山・東寺・園城・奈良・七大寺・天照太神・正八幡・山王・加茂・春日等に数年が
間、或は調伏、或は神に申させ給ひしに、二日三日だにもささへかねて、佐渡国・阿
波国・隠岐国等にながし失せて終にかくれさせ給ひぬ。
 調伏の上首御室は、但東寺をかへらるるのみならず、眼のごとくあひせさせ給ひし
第一の天童勢多伽が頚切られたりしかば、調伏のしるし還著於本人のゆへとこそ見へ
て候へ。 
 これはわづかの事なり。此の後定んで日本国の国臣万民一人もなく、乾草を積みて
火を放つがごとく、大山のくづれて谷をうむるがごとく、我が国他国にせめらるる事
出来すべし。
 桓武の御宇に最澄と申す小僧あり。山階寺の行表僧正の御弟子なり。法相宗を始め
として六宗を習ひきわめぬ。
 而れども仏法いまだ極めたりともをぼえざりしに、華厳宗の法蔵法師が造りたる起
信論の疏を見給ふに、天台大師の釈を引きのせたり。此の疏こそ子細ありげなれ。
 此の国に渡りたるか、又いまだわたらざるかと不審ありしほどに、有る人にとひし
かば、其の人の云はく、大唐の揚州竜興寺の僧鑑真和尚は天台の末学道暹律師の弟子、
天宝の末に日本国にわたり給ひて、小乗の戒を弘通せさせ給ひしかども、天台の御釈
を持ち来たりながらひろめ給はず。人王第四十五代聖武天王の御宇なりとかたる。
 其の書を見んと申されしかば、取り出だして見せまいらせしかば、一返御らんあり
て、生死の酔ひをさましつ。
 此の書をもって六宗の心を尋ねあきらめしかば、一々に邪見なる事あらはれぬ。
 忽に願を発して云はく、日本国の人皆謗法の者の檀越たるが、天下一定乱れなんず
とをぼして六宗を難ぜられしかば、七大寺六宗の碩学蜂起して、京中烏合し、天下み
なさわぐ。七大寺六宗の諸人等悪心強盛なり。
 而るを去ぬる延暦二十一年正月十九日に、天王高雄寺に行幸あって、七寺の碩徳十
四人、善議・勝猷・奉基・篭忍・賢玉・安福・勤操・修円・慈誥・玄耀・歳光・道証
・光証・観敏等の十有余人を召し合はす。
 華厳・三論・法相等の人々、各々我が宗の元祖が義にたがはず。最澄上人は六宗の
人々の所立一々に牒を取りて、本経本論並びに諸経諸論に指し合はせてせめしかば、
一言も答へず、口をして鼻のごとくになりぬ。
 天皇をどろき給ひて、委細に御たづねありて、重ねて勅宣を下して、十四人をせめ
給ひしかば、承伏の謝表を奉りたり。
 其の書に云はく「七箇の大寺、六宗の学匠、乃至、初めて至極を悟る」等云云。
 又云はく「聖徳の弘化より以降、今に二百余年の間、講ずる所の経論其の数多し。
彼此理を争って其の疑ひ未だ解けず。而も此の最妙の円宗猶未だ闡揚せず」等云云。
 又云はく「三論・法相、久年の諍ひ、渙焉として氷の如く解け、昭然として既に明
らかにして、猶雲霧を披いて三光を見るがごとし」云云。
 最澄和尚、十四人が義を判じて云はく「各一軸を講ずるに法鼓を深壑に振るひ、賓
主三乗の路に徘徊し、義旗を高峰に飛ばす。長幼三有の結を摧破して、猶未だ歴劫の
轍を改めず、白牛を門外に混ず。豈善く初発の位に昇り、阿荼を宅内に悟らんや」等
云云。
 弘世・真綱二人の臣下云はく「霊山の妙法を南岳に聞き、総持の妙悟を天台に闢く、
一乗の権滞を慨き、三諦の未顕を悲しむ」等云云。
 又十四人の云はく「善議等牽かれて休運に逢ひ、乃ち奇詞を閲す。深期に非ざるよ
りは何ぞ聖世に託せんや」等云云。
 此の十四人は華厳宗の法蔵・審祥、三論宗の嘉祥・観勒、法相宗の慈恩・道昭、律
宗の道宣・鑑真等の、漢土日本の元祖等の法門、瓶はかはれども水は一つなり。
 而るに十四人、彼の邪義をすてて、伝教の法華経に帰伏しぬる上は、誰の末代の人
か、華厳・般若・深密経等は法華経に超過せりと申すべきや。小乗の三宗は又彼の人
々の所学なり。大乗の三宗破れぬる上は、沙汰のかぎりにあらず。
 而るを今に子細を知らざる者、六宗はいまだ破られずとをもへり。譬へば盲目が天
の日月を見ず、聾人が雷の音をきかざるゆへに、天には日月なし、空に声なしとをも
うがごとし。
 真言宗と申すは、日本人王第四十四代と申せし元正天皇の御宇に、善無畏三歳、大
日経をわたして弘通せずして漢土へかへる。
 又玄ボウ等、大日経の義釈十四巻をわたす。又東大寺の得清大徳わたす。
 此等を伝教大師御らんありてありしかども、大日経・法華経の勝劣いかんがとをぼ
しけるほどに、かたがた不審ありし故に、去ぬる延暦二十三年七月御入唐、西明寺の
道邃和尚、仏瀧寺の行満等に値ひ奉りて、止観円頓の大戒を伝受し、霊感寺の順暁和
尚に値ひ奉りて真言を相伝し、同じき延暦二十四年六月に帰朝し、桓武天王に御対面、
宣旨を下して、六宗の学生に止観・真言を習はしめ、同七大寺にをかれぬ。
 真言・止観の二宗の勝劣は漢土に多くの子細あれども、又大日経の義釈には理同事
勝とかきたれども、伝教大師は善無畏三蔵のあやまりなり、大日経は法華経には劣り
たりと知ろしめして、八宗とはせさせ給はず。
 真言宗の名をけづりて、法華宗の内に入れ七宗となし、大日経をば法華天台宗の傍
依経となして、華厳・大品般若・涅槃等の例とせり。
 而れども大事の円頓の大乗別受戒の大戒壇を、我が国に立てう立てじの諍論がわず
らはしきに依りてや、真言・天台の二宗の勝劣は弟子にも分明にをしえ給はざりける
か。
 但し依憑集と申す文に、正しく真言宗は法華天台宗の正義を偸みとりて、大日経に
入れて理同とせり。されば彼の宗は天台宗に落ちたる宗なり。
 いわうや不空三蔵は善無畏・金剛智入滅の後、月氏に入りてありしに、竜智菩薩に
値ひ奉りし時、月氏には仏意をあきらめたる論釈なし。漢土に天台という人の釈こそ
邪正をえらび、偏円をあきらめたる文にては候なれ。あなかしこ、あなかしこ、月氏
へ渡し給へと、ねんごろにあつらへし事を、不空の弟子含光といゐし者が妙楽大師に
かたれるを、記の十の末に引き載せられて候を、この依憑集に取り載せて候。
 法華経に大日経は劣るとしろしめす事、伝教大師の御心顕然なり。
 されば釈迦如来・天台大師・妙楽大師・伝教大師の御心は一同に大日経等の一切経
の中には、法華経はすぐれたりという事は分明なり。
 又真言宗の元祖という竜樹菩薩の御心もかくのごとし。
 大智度論を能く能く尋ぬるならば、此の事分明なるべきを、不空があやまれる菩提
心論に皆人ばかされて、此の事に迷惑せるか。
 又石淵の勤操僧正の御弟子に空海と云ふ人あり。後には弘法大師とがうす。
 去ぬる延暦廿三年五月十二日に御入唐、漢土にわたりては金剛智・善無畏の両三蔵
の第三の御弟子、恵果和尚といゐし人に両界を伝受、大同二年十月二十二日に御帰朝、
平城天王の御宇なり。
 桓武天王は御ほうぎよ、平城天王に見参し御用ひありて御帰依他にことなりしかど
も、平城ほどもなく嵯峨に世をとられさせ給ひしかば、弘法ひき入れて有りし程に、
伝教大師は嵯峨の天王、弘仁十三年六月四日御入滅、同じき弘仁十四年より、弘法大
師、王の御師となり、真言宗を立てて東寺を給ひ、真言和尚とがうし、此より八宗始
まる。
 一代の勝劣を判じて云はく、第一真言大日経・第二華厳・第三は法華涅槃等云云。
 法華経は阿含・方等・般若等に対すれば真実の経なれども、華厳経・大日経に望む
れば戯論の法なり。
 教主釈尊は仏なれども、大日如来に向かふれば無明の辺域と申して、皇帝と俘囚と
の如し。天台大師は盗人なり、真言の醍醐を盗んで、法華経を醍醐というなんどかか
れしかば、法華経はいみじとをもへども、弘法大師にあひぬれば物のかずにもあらず。
 天竺の外道はさて置きぬ。漢土の南北が、法華経は涅槃経に対すれば邪見の経とい
ゐしにもすぐれ、華厳宗が、法華経は華厳経に対すれば枝末教と申せしにもこへたり。
 例せば、彼の月氏の大慢婆羅門が大自在天・那羅延天・婆籔天・教主釈尊の四人を
高座の足につくりて、其の上にのぼって邪法を弘めしがごとし。
 伝教大師御存生ならば、一言は出されべかりける事なり。又義真・円澄・慈覚・智
証等もいかに御不審はなかりけるやらん。天下第一の大凶なり。
 慈覚大師は去ぬる承和五年に御入唐、漢土にして十年が間、天台・真言の二宗をな
らう。
 法華・大日経の勝劣を習ひしに、法全・元政等の八人の真言師には、法華経と大日
経は理同事勝等云云。天台宗の志遠・広修・維ケン等に習ひしには、大日経は方等部
の摂等云云。
 同じき承和十三年九月十日に御帰朝、嘉祥元年六月十四日に宣旨下る。
 法華・大日経等の勝劣は、漢土にしてしりがたかりけるかのゆへに、金剛頂経の疏
七巻、蘇悉地経の疏七巻、已上十四巻。此の疏の心は、大日経・金剛頂経・蘇悉地経
の義と、法華経の義は、其の所詮の理は一同なれども、事相の印と真言とは、真言の
三部経すぐれたりと云云。
 此は偏に善無畏・金剛智・不空の造りたる大日経の疏の心のごとし。
 然れども、我が心に猶不審やのこりけん。又心にはとけてんけれども、人の不審を
はらさんとやおぼしけん。此の十四巻の疏を御本尊の御前にさしをきて、御祈請あり
き。
 かくは造りて候へども仏意計りがたし。大日の三部やすぐれたる、法華経の三部や
まされると御祈念有りしかば、五日と申す五更に忽に夢想あり。
 青天に大日輪かかり給へり。矢をもてこれを射ければ、矢飛んで天にのぼり、日輪
の中に立ちぬ。日輪動転してすでに地に落んとすとをもひて、うちさめぬ。
 悦んで云はく、「我に吉夢あり。法華経に真言勝れたりと造りつるふみは仏意に叶
ひけり」と悦ばせ給ひて、宣旨を申し下して日本国に弘通あり。
 而も宣旨の心に云はく「遂に知んぬ、天台の止観と真言の法義とは理冥に符へり」
等云云。
 祈請のごときんば、大日経に法華経は劣なるやうなり。宣旨を申し下すには、法華
経と大日経とは同じ等云云。
 智証大師は本朝にしては、義真和尚・円澄大師・別当・慈覚等の弟子なり。
 顕密の二道は、大体此の国にして学し給ひけり。天台・真言の二宗の勝劣の御不審
に、漢土へは渡り給ひけるか。
 去ぬる仁寿二年に御入唐、漢土にしては、真言宗は法全・元政等にならはせ給ひ、
大体大日経と法華経とは理同事勝、慈覚の義のごとし。
 天台宗は良ショ和尚にならひ給ふ。真言・天台の勝劣、大日経は華厳・法華等には
及ばず等云云。
 七年が間漢土に経て、去ぬる貞観元年五月十七日に御帰朝。
 大日経の旨帰に云はく「法華尚及ばず、況んや自余の教をや」等云云。
 此の釈は、法華経は大日経には劣る等云云。
 又授決集に云はく「真言禅門乃至若し華厳・法華・涅槃等の経に望むれば是摂引門
なり」等云云。
 普賢経の記・論の記に云はく、「同じ」等云云。
 貞観八年丙戌四月廿九日壬申、勅宣を申し下して云はく「如聞、真言・止観両教の
宗、同じく醍醐と号し、倶に深秘と称す」等云云。
 又六月三日の勅宣に云はく「先師既に両業を開いて以て我が道と為す。代々の座主
相承して兼ね伝へざること莫し。在後の輩、豈旧迹に乖かんや。如聞、山上の僧等、
専ら先師の義に違いて偏執の心を成す。殆ど余風を扇揚し、旧業を興隆するを顧みざ
るに似たり。凡そ厥の師資の道、一を欠くも不可なり。伝弘の勤め寧ろ兼備せざらん
や。今より以後、宜しく両教に通達するの人を以て延暦寺の座主と為し、立てて恒例
と為すべし」云云。
 されば慈覚・智証の二人は伝教・義真の御弟子、漢土にわたりては又天台・真言の
明師に値ひて有りしかども、二宗の勝劣は思ひ定めざりけるか。
 或は真言すぐれ、或は法華すぐれ、或は理同事勝等云云。
 宣旨を申し下すには、二宗の勝劣を論ぜん人は、違勅の者といましめられたり。此
等は皆自語相違といゐぬべし。他宗の人はよも用ひじとみえて候。
 但し二宗の斉等とは、先師伝教大師の御義と、宣旨に引き載せられたり。
 抑伝教大師何れの書にかかれて候ぞや。此の事よくよく尋ぬべし。
 慈覚・智証と日蓮とが、伝教大師の御事を不審申すは、親に値ふての年あらそひ、
日天に値ひ奉りての目くらべにては候へども、慈覚・智証の御かたふどをせさせ給は
ん人々は、分明なる証文をかまへさせ給ふべし。詮ずるところは信をとらんがためな
り。
 玄奘三蔵は月氏の婆沙論を見たりし人ぞかし。天竺にわたらざりし宝法師にせめら
れにき。
 法護三蔵は印度の法華経をば見たれども、嘱累の先後をば漢土の人みねども、誤り
といゐしぞかし。
 設ひ慈覚の伝教大師に値ひ奉りて習ひ伝へたりとも、智証大師は義真和尚に口決せ
りといふとも、伝教・義真の正文に相違せば、あに不審を加へざらん。
 伝教大師の依憑集と申す文は、大師第一の秘書なり。
 彼の書の序に云はく「新来の真言家は則ち筆授の相承を泯し、旧到の華厳家は則ち
影響の軌範を隠し、沈空の三論宗は弾訶の屈恥を忘れて称心の酔ひを覆ふ。著有の法
相は撲揚の帰依を非し、青竜の判経を払ふ等。乃至、謹んで依憑集の一巻を著はして
同我の後哲に贈る。其時興ること、日本第五十二葉弘仁の七丙申の歳なり」云云。
 次下の正宗に云はく「天竺の名僧、大唐天台の教迹最も邪正を簡ぶに堪へたりと聞
いて、渇仰して訪問す」云云。
 次下に云はく「豈中国に法を失って之を四維に求むるに非ずや。而も此の方に識る
こと有る者少なし。魯人の如きのみ」等云云。
 此の書は法相・三論・華厳・真言の四宗をせめて候文なり。天台・真言の二宗同一
味ならば、いかでかせめ候べき。
 而も不空三蔵等をば、魯人のごとしなんどかかれて候。善無畏・金剛智・不空の真
言宗いみじくば、いかでか魯人と悪口あるべき。
 又天竺の真言が天台宗に同じきも、又勝れたるならば、天竺の名僧いかでか不空に
あつらへ、中国に正法なしとはいうべき。
 それはいかにもあれ、慈覚・智証の二人は、言は伝教大師の御弟子とはなのらせ給
へども、心は御弟子にあらず。
 其の故は此の書に云はく「謹んで依憑集一巻を著はして、同我の後哲に贈る」等云
云。
 同我の二字は、真言宗は天台宗に劣るとならひてこそ、同我にてはあるべけれ。
 我と申し下さるる宣旨に云はく「専ら先師の義に違ひ偏執の心を成す」等云云。
 又云はく「凡そ厥師資の道、一を欠けても不可なり」等云云。
 此の宣旨のごとくならば、慈覚・智証こそ専ら先師にそむく人にては候へ。
 かうせめ候もをそれにては候へども、此をせめずば、大日経・法華経の勝劣やぶれ
なんと存じて、いのちをまとにかけてせめ候なり。
 此の二人の人々の、弘法大師の邪義をせめ候わざりけるは最も道理にて候ひけるな
り。
 されば粮米をつくし、人をわづらはかして、漢土へわたらせ給はんよりは、本師伝
教大師の御義をよくよくつくさせ給ふべかりけるにや。
 されば叡山の仏法は、但伝教大師・義真和尚・円澄大師の三代計りにてやありけん。
 天台の座主すでに真言の座主にうつりぬ。名と所領とは天台山、其の主は真言師な
り。
 されば慈覚大師・智証大師は、已今当の経文をやぶらせ給ふ人なり。已今当の経文
をやぶらせ給へば、あに釈迦・多宝・十方の諸仏の怨敵にあらずや。
 弘法大師こそ第一の謗法の人とをもうに、これはそれにはにるべくもなき僻事なり。
 其の故は、水火天地なる事は僻事なれども人用ふる事なければ、其の僻事成ずる事
なし。弘法大師の御義はあまり僻事なれば、弟子等も用ふる事なし。
 事相計りは其の門家なれども、其の教相の法門は、弘法の義いゐにくきゆへに、善
無畏・金剛智・不空・慈覚・智証の義にてあるなり。
 慈覚・智証の義こそ、真言と天台とは理同なりなんど申せば、皆人さもやとをもう。
 かうをもうゆへに事勝の印と真言とにつひて、天台宗の人々画像木像の開眼の仏事
をねらはんがために、日本一同に真言宗におちて、天台宗は一人もなきなり。
 例せば、法師と尼と、黒きと青きとはまがひぬべければ、眼くらき人はあやまつぞ
かし。僧と男と、白と赤とは目くらき人も迷はず、いわうや眼あきらかなる者をや。
 慈覚・智証の義は、法師と尼と、黒きと青きとがごとくなるゆへに、智人も迷ひ、
愚人もあやまり候ひて、此の四百余年が間は叡山・園城・東寺・奈良・五畿・七道・
日本一州、皆謗法の者となりぬ。  
 抑も法華経の第五に「文殊師利、此の法華経は諸仏如来の秘密の蔵なり。諸経の中
に於て、最も其の上に在り」云云。
 此の経文のごとくならば、法華経は大日経等の一切経の頂上に住し給ふ正法なり。
 さるにては、善無畏・金剛智・不空・弘法・慈覚・智証等は、此の経文をばいかん
が会通せさせ給ふべき。
 法華経の第七に云はく「能く是の経典を受持すること有らん者も、亦復是くの如し。
一切衆生の中に於て亦為れ第一なり」等云云。
 此の経文のごとくならば、法華経の行者は川流江河の中の大海、衆山の中の須弥山、
衆星の中の月天、衆明の中の大日天、転輪王・帝釈・諸王の中の大梵王なり。
 伝教大師の秀句と申す書に云はく「此の経も亦復是くの如し。乃至、諸の経法の中
に最も為れ第一なり。能く是の経典を受持すること有らん者も、亦復是くの如し。一
切衆生の中に於て亦為れ第一なり」已上経文なりと引き入れさせ給ひて、次下に云は
く「天台法華玄に云はく」等云云。已上玄文と、かかせ給ひて、上の心を釈して云は
く「当に知るべし、他宗所依の経は未だ最も為れ第一ならず。其の能く経を持つ者も、
亦未だ第一ならず。天台法華宗所持の法華経は最も為れ第一なる故に、能く法華を持
つ者も亦衆生の中の第一なり。已に仏説に拠る、豈自歎ならんや」等云云。
 次下に譲る釈に云はく「委曲の依憑、具さに別巻に有るなり」等云云。
 依憑集に云はく「今吾が天台大師、法華経を説き法華経を釈すること群に特秀し唐
に独歩す。明らかに知んぬ、如来の使ひなりと。讃めん者は福を安明に積み、謗らん
者は罪を無間に開かん」等云云。
 法華経・天台・妙楽・伝教の経釈の心の如くならば、今日本国には法華経の行者は
一人もなきぞかし。
 月氏には教主釈尊、宝塔品にして一切の仏をあつめさせ給ひて大地の上に居せしめ、
大日如来計り宝塔の中の南の下座にすへ奉りて、教主釈尊は北の上座につかせ給ふ。
 此の大日如来は、大日経の胎蔵界の大日・金剛頂経の金剛界の大日の主君なり。
 両部の大日如来を郎従等と定めたる多宝仏の上座に教主釈尊居せさせ給ふ。此即ち
法華経の行者なり。天竺かくのごとし。
 漢土には陳帝の時、天台大師南北にせめかちて、現身に大師となる。「群に特秀し
唐に独歩す」というこれなり。
 日本国には伝教大師六宗にせめかちて、日本の始め第一の根本大師となり給ふ。
 月氏・漢土・日本に但三人計りこそ、「一切衆生の中において亦為れ第一」にては
候へ。
 されば秀句に云はく「浅きは易く深きは難しとは、釈迦の所判なり。浅きを去って
深きに就くは、丈夫の心なり。天台大師は釈迦に信順して、法華宗を助けて震旦に敷
揚し、叡山の一家は天台に相承して、法華宗を助けて日本に弘通す」等云云。
 仏滅後一千八百余年が間に法華経の行者漢土に一人、日本に一人、已上二人、釈尊
を加へ奉りて已上三人なり。
 外典に云はく「聖人は一千年に一たび出で、賢人は五百年に一たび出づ。黄河はケ
イ渭ながれをわけて、五百年には半河すみ、千年には共に清む」と申すは一定にて候
ひけり。
 然るに日本国は叡山計りに、伝教大師の御時、法華経の行者ましましけり。
 義真・円澄は第一・第二の座主なり。第一の義真計り伝教大師ににたり。第二の円
澄は半ばは伝教の御弟子、半ばは弘法の弟子なり。
 第三の慈覚大師は、始めは伝教大師の御弟子ににたり。御年四十にて漢土にわたり
てより、名は伝教の御弟子、其の跡をばつがせ給へども、法門は全く御弟子にはあら
ず。而れども円頓の戒計りは、又御弟子ににたり。
 蝙蝠鳥のごとし。鳥にもあらず、ねずみにもあらず。梟鳥禽・破鏡獣のごとし。法
華経の父を食らひ、持者の母をかめるなり。
 日をいるとゆめにみしこれなり。されば死去の後は墓なくてやみぬ。
 智証の門家園城寺と慈覚の門家叡山と、修羅と悪竜と合戦ひまなし。園城寺をやき
叡山をやく。智証大師の本尊の慈氏菩薩もやけぬ。慈覚大師の本尊、大講堂もやけぬ。
現身に無間地獄をかんぜり。但中堂計りのこれり。
 弘法大師も又跡なし。
 弘法大師の云はく「東大寺の受戒せざらん者をば東寺の長者とすべからず」等、御
いましめの状あり。
 しかれども寛平の法王は仁和寺を建立して、東寺の法師をうつして、我が寺には叡
山の円頓戒を持たざらん者をば住せしむべからずと、宣旨分明なり。
 されば今の東寺の法師は、鑑真が弟子にもあらず、弘法の弟子にもあらず。戒は伝
教の御弟子なり。又伝教の御弟子にもあらず、伝教の法華経を破失す。
 去ぬる承和二年三月廿一日に死去ありしかば、公家より遺体をばほらせ給ひ、其の
後誑惑の弟子等集まりて御入定と云云。
 或はかみをそりてまいらするぞといゐ、或は三鈷をかんどよりなげたりといゐ、或
は日輪夜中に出でたりといゐ、或は現身に大日如来となり給ふといゐ、或は伝教大師
に十八道ををしへまいらせ給ふといゐて師の徳をあげて智慧にかへ、我が師の邪義を
扶けて王臣を誑惑するなり。
 又高野山に本寺・伝法院といいし二つ寺あり。本寺は弘法のたてたる大塔大日如来
なり。伝法院と申すは正覚房が立てし金剛界の大日なり。
 此の本末の二寺昼夜に合戦あり。例せば叡山・園城のごとし。誑惑のつもりて日本
に二つの禍の出現せるか。
 糞を集めて栴檀となせども、焼く時は但糞のかなり。大妄語を集めて仏とがうすれ
ども、但無間大城なり。
 ニケンが塔は、数年が間利生広大なりしかども、馬鳴菩薩の礼をうけて忽ちにくづ
れぬ。
 鬼弁婆羅門がとばりは、多年人をたぼらかせしかども、アスバクシャ菩薩にせめら
れてやぶれぬ。
 拘留外道は石となって八百年、陳那菩薩にせめられて水となりぬ。
 道士は漢土をたぼらかすこと数百年、摩騰・竺蘭にせめられて仙経もやけぬ。
 趙高が国をとりし、王莽が位をうばいしがごとく、法華経の位をとて大日経の所領
とせり。法王すでに国に失せぬ、人王あに安穏ならんや。
夫老狐は塚をあとにせず。白亀は毛宝が恩をほうず。畜生すらかくのごとし、いわ
うや人倫をや。
 されば古の賢者予譲といゐし者は剣をのみて智伯が恩にあて、こう演と申せし臣下
は腹をさひて、衛の懿公が肝を入れたり。
 いかにいわうや、仏教をならはん者の父母・師匠・国恩をわするべしや。
 此の大恩をほうぜんには、必ず仏法をならひきはめ、智者とならで叶ふべきか。誓
へば衆盲をみちびかんには、生盲の身にては橋河をわたしがたし。方風を弁へざらん
大舟は、諸商を導きて宝山にいたるべしや。
 仏法を習ひ極めんとをもわば、いとまあらずば叶ふべからず。いとまあらんとをも
わば、父母・師匠・国主等に随ひては叶ふべからず。
 是非につけて、出離の道をわきまへざらんほどは、父母・師匠等の心に随ふべから
ず。
 この義は諸人をもわく、顕にもはづれ冥にも叶ふまじとをもう。しかれども、外典
の孝経にも、父母・主君に随はずして忠臣・孝人なるやうもみえたり。
 内典の仏経に云はく「恩を棄て無為に入るは真実報恩の者なり」等云云。
 比干が王に随はずして賢人のなをとり、悉達太子の浄飯大王に背きて三界第一の孝
となりしこれなり。
 かくのごとく存じて、父母・師匠等に随はずして仏法をうかがいし程に、一代聖教
をさとるべき明鏡十あり。
 所謂、倶舎・成実・律宗・法相・三論・真言・華厳・浄土・禅宗・天台法華宗なり。
 此の十宗を明師として一切経の心をしるべし。世間の学者等をもえり、此の十の鏡
はみな正直に仏道の道を照らせりと。
 小乗の三宗はしばらくこれををく。民の消息の是非につけて、他国へわたるに用な
きがごとし。
 大乗の七鏡こそ、生死の大海をわたりて浄土の岸につく大船なれば、此を習ひほど
ひて我がみも助け、人をもみちびかんとおもひて習ひみるほどに、大乗の七宗いづれ
もいづれも自讃あり。我が宗こそ、一代の心はえたれえたれ等云云。
 所謂、華厳宗の杜順・智厳・法蔵・澄観等、法相宗の玄奘・慈恩・智周・智昭等、
三論宗の興皇・嘉祥等、真言宗の善無畏・金剛智・不空・弘法・慈覚・智証等、禅宗
の達磨・慧可・慧能等、浄土宗の道綽・善導・懐感・源空等。
 此等の宗々みな本経本論によりて、我も我も一切経をさとれり、仏意をきはめたり
と云云。
 彼の人々の云はく、一切経の中には華厳経第一なり。法華経・大日経等は臣下のご
とし。
 真言宗の云はく、一切経の中には大日経第一なり。余経は衆星のごとし。
 禅宗が云はく、一切経の中には楞伽経第一なり。乃至余宗かくのごとし。
 而も上に挙ぐる諸師は、世間の人々各々おもえり。諸天の帝釈をうやまひ、衆星の
日月に随ふがごとし。
 我等凡夫はいづれの師なりとも信ずるならば不足あるべからず。仰いでこそ信ずべ
けれども、日蓮が愚案はれがたし。
 世間をみるに、各々我も我もといへども国主は但一人なり。二人となれば国土おだ
やかならず。家に二の主あれば其の家必ずやぶる。
 一切経も又かくのごとくや有るらん。何れの経にてもをはせ、一経こそ一切経の大
王にてはをはすらめ。
 而るに十宗七宗まで各々諍論して随はず。国に七人十人の大王ありて、万民をだや
かならじ、いかんがせんと疑ふところに、一つの願を立つ。我八宗十宗に随はじ。
 天台大師の専ら経文を師として、一代の勝劣をかんがへしがごとく、一切経を開き
みるに、涅槃経と申す経に云はく「法に依って人に依らざれ」等云云。
 依法と申すは一切経、不依人と申すは仏を除き奉りて外の普賢菩薩・文殊師利菩薩
乃至上にあぐるところの諸の人師なり。
 此の経に又云はく「了義経に依って、不了義経に依らざれ」等云云。
 此の経に指すところ、了義経と申すは法華経、不了義経と申すは華厳経・大日経・
涅槃経等の已今当の一切経なり。
 されば仏の遺言を信ずるならば、専ら法華経を明鏡として、一切経の心をばしるべ
きか。
 随って法華経の文を開き奉れば「此の法華経は諸経の中に於て最も其の上に在り」
等云云。
 此の経文のごとくば、須弥山の頂に帝釈の居るがごとく、輪王の頂に如意宝珠のあ
るがごとく、衆木の頂に月のやどるがごとく、諸仏の頂に肉髻の住せるがごとく、此
の法華経は華厳経・大日経・涅槃経等の一切経の頂上の如意宝珠なり。
 されば専ら論師・人師をすてて経文に依るならば、大日経・華厳経等に法華経の勝
れ給へることは、日輪の青天に出現せる時、眼あきらかなる者の天地を見るがごとく、
高下宛然なり。
 又大日経・華厳経等の一切経をみるに、此の経文に相似の経文一字一点もなし。
 或は小乗経に対して勝劣をとかれ、或は俗諦に対して真諦をとき、或は諸の空仮に
対して中道をほめたり。
 譬へば、小国の王が我が国の臣下に対して大王というがごとし。法華経は諸王に対
して大王等と云云。
 但涅槃経計りこそ法華経に相似の経文は候へ。
 されば天台已前の南北の諸師は迷惑して、法華経は涅槃経に劣ると云云。
 されども専ら経文を開き見るには、無量義経のごとく華厳・阿含・方等・般若等の
四十余年の経々をあげて、涅槃経に対して我がみ勝るととひて、又法華経に対する時
は「是の経の出世は、乃至、法華の中の八千の声聞に記別を授くることを得て、大果
実を成ずるが如く、秋収冬蔵して更に所作無きが如し」等云云。
 我と涅槃経は、法華経には劣るととける経文なり。
 かう経文は分明なれども、南北の大智の諸人の迷ふて有りし経文なれば、末代の学
者能く能く眼をとどむべし。
 此の経文は、但法華経・涅槃経の勝劣のみならず、十方世界の一切経の勝劣をもし
りぬべし。
 而るを経文にこそ迷ふとも、天台・妙楽・伝教大師の御れうけんの後は、眼あらん
人々はしりぬべき事ぞかし。
 然れども、天台宗の人たる慈覚・智証すら猶此の経文にくらし。いわうや余宗の人
々をや。
 或る人疑って云はく、漢土・日本にわたりたる経々にこそ、法華経に勝れたる経は
をはせずとも、月氏・竜宮・四王・日月・トウリ天・トソツ天なんどには、恒河沙の
経々ましますなれば、其の中に法華経に勝れさせ給ふ御経やましますらん。
 答へて云はく、一をもって万を察せよ。庭戸を出でずして天下をしるとはこれなり。
 癡人が疑って云はく、我等は南天を見て東西北の三空を見ず。彼の三方の空に此の
日輪より外の別の日やましますらん。山を隔て煙の立つを見て、火を見ざれば煙は一
定なれども火にてやなかるらん。
 かくのごとくいはん者は一闡提の人としるべし。生き盲にことならず。
 法華経の法師品に、釈迦如来金口の誠言をもて五十余年の一切経の勝劣を定めて云
はく「我が所説の経典は無量千万億にして、已に説き今説き当に説かん。而も其の中
に於て此の法華経は最も為れ難信難解なり」等云云。
 此の経文は但釈迦如来一仏の説なりとも、等覚已下は仰ぎて信ずべき上、多宝仏東
方より来たりて真実なりと証明し、十方の諸仏集まりて釈迦仏と同じく広長舌を梵天
に付け給ひて後、各々国々へかへらせ給ひぬ。
 已今当の三字は、五十年並びに十方三世の諸仏の御経の一字一点ものこさず引き載
せて、法華経に対して説かせ給ひて候を、十方の諸仏此の座にして御判形を加へさせ
給ひ、各々又自国に還らせ給ひて、我が弟子等に向かはせ給ひて、法華経に勝れたる
御経ありと説かせ給はば、其の土の所化の弟子等信用すべしや。
 又我は見ざれば、月氏・竜宮・四天・日月等の宮殿の中に、法華経に勝れさせ給ひ
たる経やおはしますらんと疑ひをなさば、反詰して云へ、されば、今の梵釈・日月・
四天・竜王は、法華経の御座にはなかりけるか、若し日月等の諸天、法華経に勝れた
る御経まします、汝はしらず、と仰せあるならば、大誑惑の日月なるべし。
 日蓮せめて云はく、日月は虚空に住し給へども、我等が大地に処するがごとくして
堕落し給はざる事は、上品の不妄語戒の力ぞかし。法華経に勝れたる御経ありと仰せ
ある大妄語あるならば、恐らくはいまだ壊劫にいたらざるに、大地の上にどうとおち
候はんか。無間大城の最下の堅鉄にあらずば留まりがたからんか。大妄語の人は須臾
も空に処して四天下を廻り給ふべからずと、せめたてまつるべし。
 而るを華厳宗の澄観等、真言宗の善無畏・金剛智・不空・弘法・慈覚・智証等の大
智の三蔵・大師等の、華厳経・大日経等は法華経に勝れたりと立て給ふは、我等が分
斉には及ばぬ事なれども、大道理のをす処は、豈諸仏の大怨敵にあらずや。
 提婆・瞿伽梨もものならず、大天・大慢外にもとむべからず。彼の人々を信ずる輩
はをそろしをそろし。
 問うて云はく、華厳の澄観・三論の嘉祥・法相の慈恩・真言の善無畏、乃至弘法・
慈覚・智証等を、仏の敵との給ふか。
 答へて云はく、此大なる難なり。仏法に入りて第一の大事なり。愚眼をもて経文を
見るには、法華経に勝れたる経ありといはん人は、設ひいかなる人なりとも謗法は免
れじと見えて候。
 而るを経文のごとく申すならば、いかでか此の諸人仏敵たらざるべき。若し又をそ
れをなして指し申さずば、一切経の勝劣空しかるべし。
 又此の人々を恐れて、末の人々を仏敵といはんとすれば、彼の宗々の末の人々の云
はく、法華経に大日経をまさりたりと申すは我私の計らひにはあらず、祖師の御義な
り。戒行の持破、智慧の勝劣、身の上下はありとも、所学の法門はたがふ事なしと申
せば、彼の人々にとがなし。
 又日蓮此を知りながら人々を恐れて申さずば、「寧喪身命不匿教者」の仏陀の諫暁
を用ひぬ者となりぬ。いかんがせん、いはんとすれば世間をそろし、黙止さんとすれ
ば仏の諫暁のがれがたし。進退此に谷まれり。
 宜なるかなや、法華経の文に云はく「而も此の経は如来の現在にすら猶怨嫉多し、
況んや滅度の後をや」と。又云はく「一切世間怨多くして信じ難し」等云云。
 釈迦仏を摩耶夫人はらませ給ひたりければ、第六天の魔王、摩耶夫人の御腹をとを
し見て、我等が大怨敵法華経と申す利剣をはらみたり。事の成ぜぬ先にいかにしてか
失ふべき。
 第六天の魔王、大医と変じて浄飯王宮に入り、御産安穏の良薬を持ち候大医ありと
ののしりて、毒を后にまいらせつ。
 初生の時は石をふらし、乳に毒をまじへ、城を出でさせ給ひしかば黒き毒蛇と変じ
て道にふさがり、乃至提婆・瞿伽利・波瑠璃王・阿闍世王等の悪人の身に入りて、或
は大石をなげて仏の御身より血をいだし、或は釈子をころし、或は御弟子等を殺す。
 此等の大難は皆遠くは法華経を仏世尊に説かせまいらせじとたばかりし、如来現在
猶多怨嫉の大難ぞかし。此等は遠き難なり。
 近き難には舎利弗・目連・諸大菩薩等も四十余年が間は、法華経の大怨敵の内ぞか
し。
 況滅度後と申して、未来の世には又此の大難よりもすぐれてをそろしき大難あるべ
しと、とかれて候。
 仏だにも忍びがたかりける大難をば凡夫はいかでか忍ぶべき。いわうや在世より大
なる大難にてあるべかんなり。
 いかなる大難か、提婆が長三丈、広さ一丈六尺の大石、阿闍世王の酔象にはすぐべ
きとはをもへども、彼にもすぐるべく候なれば、小失なくとも大難に度々値ふ人をこ
そ、滅後の法華経の行者とはしり候わめ。
 付法蔵の人々は四依の菩薩、仏の御使ひなり。
 提婆菩薩は外道に殺され、師子尊者は檀弥羅王に頭を刎ねられ、仏陀密多・竜樹菩
薩等は赤幡を七年・十二年さしとをす。馬鳴菩薩は金銭三億がかわりとなり、如意論
師はをもひじにに死す。
 此等は正法一千年の内なり。
 像法に入って五百年、仏滅後一千五百年と申せし時、漢土に一人の智人あり。始め
は智ギ、後には智者大師とがうす。
 法華経の義をありのままに弘通せんと思ひ給しに、天台已前の百千万の智者しなじ
なに一代を判ぜしかども、詮じて十流となりぬ。所謂南三北七なり。
 十流ありしかども一流をもて最とせり。所謂南三の中の第三の光宅寺の法雲法師こ
れなり。
 此の人は一代の仏教を五にわかつ。其の五つの中に三経をえらびいだす。所謂華厳
経・涅槃経・法華経なり。
 一切経の中には華厳経第一、大王のごとし。涅槃経第二、摂政関白のごとし。第三
法華経は公卿等のごとし。此より已下は万民のごとし。
 此の人は本より智慧かしこき上、慧観・慧厳・僧柔・慧次なんど申せし大智者より
習ひ伝へ給はるのみならず、南北の諸師の義をせめやぶり、山林にまじわりて法華経
・涅槃経・華厳経の功をつもりし上、梁の武帝召し出だして、内裏の内に寺を立て、
光宅寺となづけて此の法師をあがめ給ふ。
 法華経をかうぜしかば、天より花ふること在世のごとし。
 天監五年に大旱魃ありしかば、此の法雲法師を請じ奉りて法華経を講ぜさせまいら
せしに、薬草喩品の「其雨普等・四方倶下」と申す二句を講ぜさせ給ひし時、天より
甘雨下りたりしかば、天子御感のあまりに現に僧正になしまいらせて、諸天の帝釈に
つかえ、万民の国王ををそるるがごとく、我とつかへ給ひし上、或人夢みらく、此の
人は過去の灯明仏の時より法華経をかうぜる人なり。
 法華経の疏四巻あり。
 此の疏に云はく「此の経未だ碩然ならず」と。亦云はく「異の方便」等云云。
 正しく法華経はいまだ仏理をきわめざる経と書かれて候。
 此の人の御義、仏意に相ひ叶ひ給ひければこそ、天より花も下り雨もふり候ひけら
め。
 かかるいみじき事にて候ひしかば、漢土の人々、さては法華経は華厳経・涅槃経に
は劣るにてこそあるなれと思ひし上、新羅・百済・高麗・日本まで此の疏ひろまりて、
大体一同の義にて候ひしに、法雲法師御死去ありていくばくならざるに、梁の末、陳
の始めに、智ギ法師と申す小僧出来せり。
 南岳大師と申せし人の御弟子なりしかども、師の義も不審にありけるかのゆへに、
一切経蔵に入って度々御らんありしに、華厳経・涅槃経・法華経の三経に詮じいだし、
此の三経の中に殊に華厳経を講じ給ひき。
 別して礼文を造りて日々に功をなし給ひしかば、世間の人おもはく、此の人も華厳
経を第一とおぼすかと見えしほどに、法雲法師が、一切経の中に、華厳第一・涅槃第
二・法華第三と立てたるが、あまりに不審なりける故に、ことに華厳経を御らんあり
けるなり。
 かくて一切経の中に、法華第一・涅槃第二・華厳第三と見定めさせ給ひてなげき給
ふやうは、如来の聖教は漢土にわたれども、人を利益することなし。かへりて一切衆
生を悪道に導びくこと、人師の誤りによれり。
 例せば国の長とある人、東を西といゐ、天を地といゐいだしぬれば、万民はかくの
ごとくに心うべし。後にいやしき者出来して、汝等が西は東、汝等が天は地なり、と
いわばもちうることなき上、我が長の心に叶はんがために、今の人をのりうちなんど
すべし。
 いかんがせんとはをぼせしかども、さてもだすべきにあらねば、光宅寺の法雲法師
は謗法によて地獄に堕ちぬとののしらせ給ふ。
 其の時南北の諸師はちのごとく蜂起し、からすのごとく烏合せり。
 智ギ法師をば頭をわるべきか国をうべきか、なんど申せし程に、陳主此をきこしめ
して、南北の数人に召し合わせて、我と列座してきかせ給ひき。
 法雲法師が弟子等の慧栄・法歳・慧コウ・慧ゴウなんど申せし僧正・僧都已上の人
々百余人なり。
 各々悪口を先とし、眉をあげ、眼をいからかし、手をあげ、拍子をたたく。
 而れども智ギ法師は末座に坐して、色を変ぜず、言を誤らず、威儀しづかにして、
諸僧の言を一々に牒をとり、言ごとにせめかへす。
 をしかへして難じて云はく、抑法雲法師の御義に、第一華厳・第二涅槃・第三法華
と立てさせ給ひける証文は何れの経ぞ、慥かに明らかなる証文を出ださせ給へとせめ
しかば、各々頭をうつぶせ、色を失ひて、一言の返事なし。
 重ねてせめて云はく、無量義経に正しく「次説方等十二部経・摩訶般若・華厳海空」
等云云。
 仏、我と華厳経の名をよびあげて、無量義経に対して未顕真実と打ち消し給ふ。
 法華経に劣りて候無量義経に華厳経はせめられて候。いかに心えさせ給ひて、華厳
経をば一代第一とは候ひけるぞ。
 各々御師の御かたうどせんとをぼさば、此の経文をやぶりて、此に勝れたる経文を
取り出だして、御師の御義を助け給へとせめたり。
 又涅槃経を法華経に勝ると候ひけるはいかなる経文ぞ。
 涅槃経の第十四には、華厳・阿含・方等・般若をあげて、涅槃経に対して勝劣は説
かれて候へども、またく法華経と涅槃経との勝劣はみへず。
 次上の第九の巻に、法華経と涅槃経との勝劣分明なり。
 所謂、経文に云はく「是の経の出世は、乃至、法華の中の八千の声聞、記別を受く
ることを得て大菓実を成ずるが如し、秋収冬蔵して更に所作無きが如し」等云云。
 経文明らかに諸経をば春夏と説かせ給ひ、涅槃経と法華経とをば菓実の位とは説か
れて候へども、法華経をば秋収冬蔵の大菓実の位、涅槃経をば秋の末冬の始めクン拾
の位と定め給ひぬ。此の経文、正しく法華経には我が身劣ると、承伏し給ひぬ。
 法華経の文には已説・今説・当説と申して、此の法華経は前と並びとの経々に勝れ
たるのみならず、後に説かん経々にも勝るべしと仏定め給ふ。
 すでに教主釈尊かく定め給ひぬれば疑ふべきにあらねども、我が滅後はいかんかと
疑ひおぼして、東方宝浄世界の多宝仏を証人に立て給ひしかば、多宝仏大地よりをど
り出でて、「妙法華経皆是真実」と証し、十方分身の諸仏重ねてあつまらせ給ひ、広
長舌を大梵天に付け、又教主釈尊も付け給ふ。
 然して後、多宝仏は宝浄世界えかへり、十方の諸仏各々本土にかへらせ給ひて後、
多宝・分身の仏もおはせざらんに、教主釈尊、涅槃経をといて法華経に勝ると仰せあ
らば、御弟子等は信ぜさせ給ふべしやとせめしかば、日月の大光明の修羅の眼を照ら
すがごとく、漢王の剣の諸侯の頚にかかりしがごとく、両眼をとぢ一頭を低れたり。
 天台大師の御氣色は師子王の狐兎の前に吼えたるがごとし、鷹鷲の鳩雉をせめたる
ににたり。
 かくのごとくありしかば、さては法華経は華厳経・涅槃経にもすぐれてありけりと、
震旦一国に流布するのみならず、かへりて五天竺までも聞こへ、月氏大小の諸論も智
者大師の御義には勝たれず、教主釈尊両度出現しましますか。仏教二度あらはれぬと
ほめられ給ひしなり。
 其の後天台大師も御入滅なりぬ。陳隋の世も代はりて唐の世となりぬ。章安大師も
御入滅なりぬ。
 天台の仏法やうやく習ひ失せし程に、唐の太宗の御宇に玄奘三蔵といゐし人、貞観
三年に始めて月氏に入り同十九年にかへりしが、月氏の仏法尋ね尽くして法相宗と申
す宗をわたす。此の宗は天台宗と水火なり。
 而るに天台の御覧なかりし深密経・瑜伽論・唯識論等をわたして、法華経は一切経
には勝れたれども深密には劣るという。
 而るを天台は御覧なかりしかば、天台の末学等は智慧の薄きかのゆへに、さもやと
おもう。
 又太宗は賢王なり、玄奘の御帰依あさからず。いうべき事ありしかども、いつもの
事なれば時の威をおそれて申す人なし。
 法華経を打ちかへして、三乗真実・一乗方便・五性各別と申せし事は心うかりし事
なり。
 天竺よりはわたれども、月氏の外道が漢土にわたれるか。
 法華経は方便、深密経は真実といゐしかば、釈迦・多宝・十方の諸仏の誠言もかへ
りて虚しくなり、玄奘・慈恩こそ時の生身の仏にてはありしか。
 其の後則天皇后の御宇に、前に天台大師にせめられし華厳経に、又重ねて新訳の華
厳経わたりしかば、さきのいきどをりをはたさんがために、新訳の華厳をもって、天
台にせめられし旧訳の華厳経を扶けて、華厳宗と申す宗を法蔵法師と申す人立てぬ。
 此の宗は華厳経をば根本法輪、法華経をば枝末法輪と申すなり。
 南北は一華厳・二涅槃・三法華、天台大師は一法華・二涅槃・三華厳、今の華厳宗
は一華厳・二法華・三涅槃等云云。
 其の後玄宗皇帝の御宇に、天竺より善無畏三蔵は大日経・蘇悉地経をわたす。金剛
智三蔵は金剛頂経をわたす。又金剛智三蔵の弟子あり、不空三蔵なり。
 此の三人は月氏の人、種姓も高貴なる上、人がらも漢土の僧ににず。
 法門もなにとはしらず、後漢より今にいたるまでなかりし印と真言という事をあひ
そいてゆゆしかりしかば、天子かうべをかたぶけ、万民掌をあわす。
 此の人々の義にいわく、華厳・深密・般若・涅槃・法華経等の勝劣は顕教の内、釈
迦如来の説の分なり。今の大日経等は大日法王の勅言なり。
 彼の経々は民の万言、此の経は天子の一言なり。
 華厳経・涅槃経等は大日経には梯を立てても及ばず。但法華経計りこそ大日経には
相似の経なれ。
 されども彼の経は釈迦如来の説、民の正言、此の経は天子の正言なり。言は似たれ
ども人がら雲泥なり。譬へば濁水の月と清水の月のごとし。月の影は同じけれども水
に清濁ありなんど申しければ、此の由尋ね顕はす人もなし。諸宗皆落ち伏して真言宗
にかたぶきぬ。
 善無畏・金剛智死去の後、不空三蔵又月氏にかへりて、菩提心論と申す論をわたし、
いよいよ真言宗盛りなりけり。
 但し妙楽大師と云ふ人あり。天台大師よりは二百余年の後なれども、智慧かしこき
人にて、天台の所釈を見明らめてをはせしかば、天台の釈の心は後に渡れる深密経・
法相宗、又始めて漢土に立てたる華厳宗、大日経・真言宗にも法華経は勝れさせ給ひ
たりけるを、或は智の及ばざるか、或は人を畏るか、或は時の王威をおづるかの故に
云はざりけるか。かうてあるならば天台の正義すでに失せなん。
 又陳隋已前の南北が邪義にも勝れたりとおぼして、三十巻の末文を造り給ふ。所謂、
弘決・釈籤・疏記これなり。
 此の三十巻の文は、本書の重なれるをけづり、よわきをたすくるのみならず、天台
大師の御時なかりしかば、御責めにものがれてあるやうなる法相宗と華厳宗と真言宗
とを、一時にとりひしがれたる書なり。
 又日本国には、人王第三十代欽明天皇の御宇十三年壬申十月十三日に、百済国より
一切経・釈迦仏の像をわたす。
 又用明天皇の御宇に聖徳太子仏法をよみはじめ、和氣妹子と申す臣下を漢土につか
はして、先生の所持の一巻の法華経をとりよせ給ひて持経と定め、其の後人王第三十
七代孝徳天王の御宇に、三論宗・華厳宗・法相宗・倶舎宗・成実宗わたる。
 人王四十五代に聖武天王の御宇に律宗わたる。已上六宗なり。
 孝徳より人王五十代の桓武天王にいたるまでは十四代一百二十余年が間は天台・真
言の二宗なし。
 季札という者は、「一度、心に誓った約束に背くことはしない。」と決意して、王
からの重宝であった剣を、亡くなった徐国の君主の墓に掛けました。

 王寿という人は、川の水を飲んだお礼として、金貨を川の水に投げ入れました。

 公胤という人は、自らの腹を裂いて、主君の肝を入れました。

 これらの人々は賢人であり、恩を報じた人々であります。

 ましてや、舎利弗・迦葉等の偉大なる聖人は、二百五十の戒律と三千の威儀(起居動作の作法)を一つも欠かすことなく守り、見惑(理性的な迷い)と思惑(感情的な迷い)を断じて、欲界・色界・無色界の三界(迷える現実世界)を超越した聖人であります。

 そして、舎利弗・迦葉等の偉大なる聖人は、大梵天王・帝釈天王や、その他の諸天善神の導師であり、一切衆生の眼目となる存在であります。

 しかしながら、舎利弗・迦葉等の偉大なる聖人は、法華経が説かれるまでの四十余年の間、「永久に成仏出来ない。」と嫌われて、捨て去られていました。

 ところが、法華経の不死の良薬を舐めることによって、焦げた種が芽を出したり、一度割れた石が元通りに合ったり、枯木に華が咲いて実がなったりすることのように、奇跡的にも、成仏を許される旨の記別を与えられました。

 未だに、舎利弗・迦葉等の偉大なる聖人は、釈尊のような八相作仏の相を示しておりませんが、何としても、法華経に対する重恩に報いなければなりません。
 もし、法華経の重恩に報いなかったならば、季札・王寿・公胤等の賢人にも劣るどころか、不知恩の畜生に該当することでしょう。

 毛宝に助けられた亀は、救命された恩を忘れることなく、毛宝の命を救いました。

 昆明地の大魚は、漢の武帝に命を助けられた恩に報いようとして、素晴らしい珠を夜中に捧げました。

 このように、畜生でさえ、恩に報いているのであります。
 ましてや、舎利弗・迦葉等の偉大なる聖人が、恩に報いないはずがありません。

 阿難尊者は斛飯王の次男であり、羅喉羅尊者は浄飯王の孫であります。

 彼等は、世間的にも家柄が高かった上に、小乗経における阿羅漢の悟りを得た身でありながら、法華経が説かれる以前は成仏を抑えられていました。
 けれども、八年間の霊鷲山における法華経の御説法の席において、彼等は、『山海慧』『蹈七宝華』という如来の号を授けられました。

 もし、法華経が存在しなかったとすれば、如何に家柄が高く、如何に偉大なる聖人であったとしても、誰が、彼等を恭敬したのでしょうか。

 中国の夏の桀王や殷の紂王は、大国の君主であり、人民の帰依を受けていました。
 しかしながら、悪政を行って国を滅ばしたため、今でも悪者の代表として、「桀・紂(けつ・ちゅう)、桀・紂(けつ・ちゅう)」と呼ばれています。

 身分の卑しい者や癩病の者も、「貴様は、桀・紂のようだ。」と言われたならば、罵られたと思って、腹を立てるものです。

 法華経五百弟子授記品第八に御登場される千二百の声聞や、数え切れないほど多くの声聞たちは、仮に、法華経が存在しなかったとすれば、誰も、その名さえ聞くことはなかったでしょう。

 また、誰も、彼等の言葉に、耳を傾けて習うことはなかったでしょう。
 そして、千人の声聞が一切経を結集したとしても、よもや、見る人はいなかったでしょう。
 ましてや、これらの人々を絵像や木像に顕して、本尊と仰ぐことはなかったでしょう。

 これは、ひとえに、「法華経の御力によって、一切の阿羅漢たちは、人々からの帰依を受けている。」と、いうことです。

 仮に、諸の声聞たちが法華経を離れてしまったならば、魚が水を離れ、猿が木を離れ、小児が乳を離れ、民が王を離れてしまうようなものであります。

 その声聞たちが、どうして、法華経の行者を捨てることが出来るのでしょうか。

 諸の声聞たちは、爾前の経々により、肉眼に加えて、天眼・慧眼を得ました。
 また、法華経によって、法眼・仏眼を備えるようになりました。

 諸の声聞たちは、十方の隅々の世界でさえ、明らかに、照らし見ていることでしょう。
 ましてや、この婆婆世界の中において、法華経の行者(日蓮大聖人)を知見していないことがあるのでしょうか。

 たとえ、日蓮が悪人であったとして、一言・二言、一年・二年、一劫・二劫、もしくは、百千万億劫の間、諸の声聞たちを悪口・罵詈したとしても、また、刀や杖で危害を加えようとする様子があったとしても、法華経さえ信仰している行者であるならば、見捨てるはずがありません。

 譬えば、幼児が父母を罵ったとしても、父母が幼児を捨てることはありません。

 梟鳥(フクロウ)は成長すると、母を食うようになります。
 けれども、母は、子を捨てません。

 破鏡という獣は成長すると、父を殺すようになります。
 けれども、父は、子に従います。

 畜生でさえ、なお、この通りであります。
 ましてや、偉大なる聖人が、法華経の行者を見捨てることがあるのでしょうか。

 故に、四人の偉大なる声聞が、釈尊の教えを理解して述べた経文(法華経信解品第四)において、このように、仰せになられています。

 「我等は、今こそ、真の声聞である。仏道の声を以って、一切衆生に聞かせよう。

 我等は、今こそ、真の阿羅漢である。諸の世間における、天界・人界の衆生、魔王、梵天等に対して、普(あまね)く、供養を受けることが出来る。

 我等は、世尊から大恩を受けた。
 法華経をお説きになられるという希有な振る舞いによって、我等を憐れんで教化して、利益を与えてくださった。

 無量億劫(計り知れないほどの長い時間)を費やしたとしても、誰が、釈尊からの大恩に報いることが出来るのであろうか。

 また、手足を以って供給したり、頭のてっぺんを地に付けて礼拝したり、ありとあらゆる一切の物を供養したとしても、皆、釈尊からの大恩に報いることは出来ない。

 あるいは、釈尊を、頭に押し頂き、両肩に担い、ガンジス河の砂の数ほどの無量の劫(極めて長い時間)において、心を尽くして恭敬したとしても、もしくは、美味なる料理・数え切れないほどの宝の衣・多くの寝具・種々の湯薬を供養したとしても、もしくは、最高の栴檀の木や多くの珍宝によって塔を建てたり、宝の衣を地に敷いたりしても、釈尊からの大恩に報いることは出来ない。

 そして、上記の如き供養を、ガンジス河の砂の数ほどの無量の劫(極めて長い時間)において、繰り返し行ったとしても、なお、釈尊からの御恩に報いることは出来ない。」と。

 諸の声聞たちは、前四味の経々(法華経以前の爾前経)において、何度も、釈尊からの呵責を蒙り、人界・天界等の衆生が集まった御説法の中で、恥辱を受けるようなことが数え切れないほどありました。

 それ故に、迦葉尊者の泣く声は、三千世界に響き渡りました。
 須菩提尊者は、呆然として、手に持っていた鉢を捨てました。
 舎利弗は、食べていた飯を吐きました。
 富楼那は、「美しい瓶に、糞を入れるようなものだ。」と、嫌われました。

 かつて、釈尊は、鹿野苑において、阿含経を讃歎されていました。
 その上で、「二百五十の戒律を師とせよ。」と、慇懃(おんごん)に誉めておきながら、今では、いつの間にか、釈尊御自らが説かれた御説法の内容を、ここまで強く謗られるようになっています。

 故に、彼等は、「釈尊は、『二言相違』(注、前に言ったことと、後に言ったこと
が相違すること。)の失を犯されているのではないか。」と、申していました。
    
 ここで、例を挙げます。

 釈尊が提婆達多に対して、「お前は、愚か者だ。人の唾を食っているような者だ。」と、罵ったことがあります。
 そのため、提婆達多は、毒矢が胸に刺さったように思い、恨みを抱きながら、このように言いました。

 「瞿曇(釈尊)は、仏ではあり得ない。

 私(提婆達多)は、斛飯王の嫡子である。また、阿難尊者の兄でもあり、瞿曇(釈尊)の親類にも該当する。
 ならば、たとえ、どんなに悪い事があったとしても、内々に教訓すべきである。

 これほどの人界・天界等の衆生が集まった御説法の場で、これほど大いなる禍根を残すようなことを、面と向かって言う者(釈尊)は、大人や仏と呼ばれるべきであろうか。

 過去においては、妻となるべき婚約者を奪った敵である。そして、今では、一座の中で、恥をかかされた敵である。
 今日からは、どんなに生まれ変わっても、どんなに世が移っても、瞿曇(釈尊)の大怨敵となってやるのだ。」と、提婆達多は誓ったのであります。
     
 こうしたことから、「今の偉大なる声聞たちは、元々、外道であるバラモンの家の出身である。」ということに、思いが至ります。
 また、彼等は、外道の長者であったため、諸国の王に帰依されて、多くの檀那たちに尊敬されていました。
 家柄が高貴な人もいれば、富や財産が充満していた者もいました。

 ところが、彼等は、それらの輝かしい身分等を打ち捨てて、慢心の旗を下ろして、俗服を脱いで、くすんだ色の粗末な僧衣を身にまとって、白い毛の払子や弓矢等を捨てて、托鉢用の鉢を手に握り、貧乏人や乞食のような姿で、釈尊に付き奉りました。
 風雨を防ぐ家もなく、命をつなぐ衣類や食べ物にも乏しい有様でした。

 その上、全インド及び全世界の人々は、皆、外道の弟子・檀那でありました。
 故に、釈尊でさえも、九横の大難に遭遇されています。

 つまり、釈尊がお受けになられた九横の大難の中には、提婆達多から大きな石を崖の上から落とされたり、阿闍世王から酒に酔った象を放たれたり、阿耆多王から馬に食べさせる麦を供養されたり、婆羅門城で臭い米のとぎ汁を供養されたり、婆羅門女が鉢を腹に入れて、「釈尊の子供を身ごもった。」という虚言を吐いたこと等が挙げられます。

 ましてや、釈尊の弟子が難を受けた数は、申し尽くせないほどになります。

 量り知れないほど多くの釈迦族の人々は、波瑠璃王に殺されました。
 千・万の眷属は、酒に酔った象に踏み殺されました。
 華色比丘尼は、提婆達多に殺害されました。
 迦虞提(かるだい)尊者は、馬の糞に埋められました。
 目連尊者は、竹杖外道に殺害されました。
    
 その上、六師外道は一致同心して、釈尊を陥れるために、阿闍世王・波斯匿王等に対して、讒言(ざんげん)を訴えました。

 「瞿曇(釈尊)は、世界第一の大悪人である。

 瞿曇(釈尊)が行く所では、三災・七難が先立って起こる。
 その有様は、大海が多くの河川を集めたり、大山が多くの木々を集めている如くである。

 また、瞿曇(釈尊)の所には、多くの悪人が集まっている。
 つまり、迦葉・舎利弗・目連・須菩提等のことである。

 人間としての身を受けた者であるならば、忠孝を優先しなければならない。
 ところが、彼等は瞿曇(釈尊)に騙されて、父母の教訓を用いずに出家した。

 また、国王・国法の命令にも背いて、山林に篭った。
 故に、彼等は、この国に留まってはならない者どもである。

 従って、天においては、太陽・月・星々に異変が生じている。地においては、多くの災いが盛んに起きている。」と。

 声聞たちは、前記の難だけでも、耐えられるとは思えなかったのです。
 そればかりか、更なる災いが起こり、仏陀(釈尊)にさえも、付き添い難くなっていったのであります。

 なぜなら、人界・天界等の衆生が多く集まった御説法の砌に、何度も、釈尊から呵責される声を聞くたびに、どのように振る舞ったらいいのか、全くわからなくなったからです。
 声聞たちは、ただ、慌てるばかりでした。

 その上、声聞たちにとって、大いなる大難の第一には、下記のことが挙げられます。

 浄名経(維摩経)においては、「汝(声聞)に布施をする者は、福田(福徳を生ずる田)に供養するとは言えない。汝(声聞)を供養する者は、地獄・餓鬼・畜生の三悪道に堕ちる。」等と、仰せになられています。

 この経文の心は、釈尊が庵羅苑という所にいらっしゃった時に、大梵天王・帝釈天王・大日天王・大月天王・四天王等の三界の諸天善神、また、地神・竜神等、数えきれないほど多くの方々が集まった御説法の場で、「須菩提等の比丘(僧侶)を供養するような天界・人界の衆生は、地獄・餓鬼・畜生の三悪道に堕ちるであろう。」と、仰せになられたことにあります。

 このような御説法を拝聴した天界・人界の衆生たちが、果たして、迦葉・舎利弗・目連・須菩提等の声聞を供養するのでしょうか。

 結局のところは、「仏(釈尊)の御言葉によって、多くの二乗(声聞・縁覚)を殺害するのであろうか。」と、見受けられました。

 そのため、心有る人々は、仏(釈尊)のことを疎んじていました。

 これらの二乗(声聞・縁覚)の人々は、仏(釈尊)を供養し奉ったついでに、おすそ分けを貰うことによって、細々と身命を養っていたのでしょうか。

 従って、これらの事から勘案すると、仮に、釈尊が四十余年の爾前経(注、釈尊が御歳三十歳から七十二歳までの四十二年間に渡って爾前経を説かれたこと。)だけをお説きになられて、八ヶ年の法華経(注、釈尊が御歳七十二歳から八十歳までの八年間に渡って法華経を説かれたこと。)をお説きになられずに御入滅したならば、誰が、二乗(声聞・縁覚)の尊者を供養し奉ったのでしょうか。

 もし、そうであったならば、彼等は、生きながらにして、餓鬼道に堕ちたことでしょう。

 ところが、春の太陽が冷たい氷を消し去るかのように、大風が無数の草露を吹き落とすかのように、釈尊は、法華経をお説きになられる直前に説かれた無量義経において、「未だ真実を顕していない。(未顕真実)」と、仰せになられました。

 そのことによって、四十余年に渡ってお説きになられていた爾前経を、一言にして、一時にして、打ち消されました。

 また、大風が黒雲を巻き散らすかのように、大空に満月が現れるかのように、青天に太陽が輝き渡るかのように、釈尊は、法華経方便品第二において、「世尊は、久しい間、方便の法を説かれた後に、必ずや、真実の教えをお説きになられる。(世尊法久後・要当説真実)」と、仰せになられました。

 そして、釈尊から、舎利弗は『華光如来』・迦葉は『光明如来』として、成仏の記別を授けられました。

 舎利弗・迦葉等の二乗(声聞・縁覚)たちが照らし出される光景は、まるで、赫々たる太陽のように、明々たる月のように、天子の詔勅のように、明鏡のように、浮かび上がりました。

 であるからこそ、舎利弗・迦葉等の二乗(声聞・縁覚)たちは、釈尊の御入滅後において、人界・天界の多くの檀那等から、あたかも仏陀(釈尊)の如く、仰がれたのであります。

 水が澄めば、月は、その影が映し出されることを惜しみません。
 風が吹けば、草木は、靡(なび)かないことがあるのでしょうか。

 同様に、法華経の行者が在すならば、これらの二乗(声聞・縁覚)の聖者たちは、たとえ、大火の中を通り過ぎたとしても、大石の中を通り抜けたとしても、必ず、訪れて来るはずであります。

 「迦葉尊者が禅定の境地に入ったのは、将来、弥勒仏が出現される時において、仏法の弘通に努めるためである。」と、云われています。
 その逸話も、事と次第によるはずです。一体、どうなってしまったのでしょうか。

 私(日蓮大聖人)としては、「誠に不審なことである。」としか、申しようがありません。

 今は、後五百歳(末法)の時に当たらないのでしょうか。
 『広宣流布』という御言葉は、妄語となってしまうのでしょうか。
 それとも、日蓮が、法華経の行者ではないのでしょうか。

 「所詮、法華経は、『教内』(教典の内の教え)である。」と下して、「教典の外に、禅の悟りは、別に伝わっている。(教外別伝)」と称する、大妄語の者(禅宗)を守ろうとしているのでしょうか。

 また、「浄土教以外の聖道門の教えを捨てよ、閉じよ、閣け、抛て。(捨閉閣抛)」と定めた上で、『選択集』等の木版に、「法華経の門を閉じよ、法華経の経巻を投げ捨てよ。」と彫りつけて、法華堂を崩壊させる者(念仏宗)を守護しようとしているのでしょうか。

 確かに、諸天善神は、釈尊の御前において、誓願をされています。
 けれども、濁世(末法)の大難の激しさを見るにつけて、天から下りて来られないのでしょうか。

 太陽や月は、天に存在しています。
 今でも、須弥山は崩れていません。
 海の潮も、干潮・満潮を繰り返しています。
 四季も、変わることなく巡っています。

 にもかかわらず、「法華経の行者(日蓮大聖人)を守護しないのは、一体、如何なる理由であるのか。」と、大いなる疑問がますます積もり重なって参ります。

 また、諸の大菩薩や天界・人界等の衆生は、爾前経において、成仏の記別を得たように見受けられました。
 けれども、それは、あたかも、水に映った月を取ろうとしたり、影を本体と誤認するようなものでした。

 つまり、「見かけの形だけはあっても、実義(真実の意義)が備わっていない。」ということです。
 従って、彼等は、仏の御恩の深さが分かっているようでありながら、実際には、それを体得するほどの深さに達していなかったのであります。

 釈尊が初めて成道した時には、まだ、教えをお説きになられることがなかったのです。
 その際に、法慧菩薩・功徳林菩薩・金剛幢菩薩・金剛蔵菩薩等の六十人余りの大菩薩が、十方の諸仏の国土から教主釈尊の御前にお来しになって、賢首菩薩や解脱月等の菩薩の求めに応じて、十住・十行・十回向・十地等の法門を説かれました。

 これらの大菩薩が説かれた法門は、釈尊から習い奉ったものではありません。
 その際には、十方の世界から、諸の大梵天王等も来られて、法を説かれていました。
 これも、また、釈尊から習い奉った法門ではありません。

 総じて、華厳経の御説法の座における大菩薩や諸天善神や竜神等は、釈尊の教えを拝聴した時点で、既に、『不思議解脱』という境地に住していた大菩薩であります。

 彼等は、釈尊が過去世で菩薩の修行をされていた当時の御弟子でしょうか。
 それとも、十方の世界において、釈尊以前に御出現されていた仏の御弟子でしょうか。

 いずれにしても、彼等は、教主釈尊の御一代の御教導における、『始成正覚』の仏(注、今世において、釈尊が三十才の時に始めて仏の覚りを成じられたこと。)の弟子ではありません。

 釈尊は、華厳経の後に、阿含部・方等部・般若部の経典を説かれました。
 そして、蔵教(小乗の教え)・通教(権大乗の教え)・別教(深奥なる教え)・円教(円満なる真実の教え)の四教を説かれた時に、ようやく釈尊の御弟子は出来して参ります。 

 無論、これらの法門(方等部・般若部の経典)も、釈尊の御自説ではありますが、御正説(真髄の教え)が説かれた訳ではありません。

 その理由は、方等部・般若部の経典で明らかにされた別教・円教の内容が、華厳経で説かれた別教・円教の趣意を超えるものではないからです。

 しかし、華厳経で説かれた別教・円教の趣意も、法華経の教主釈尊がお説きになられた別教・円教ではなく、法慧菩薩等の大菩薩が説かれた別教・円教の段階に止まっています。

 法慧菩薩等の大菩薩は、釈尊の御弟子のように、人目には見受けられます。
 けれども、ある面では、釈尊の師匠と云っても、過言ではありません。

 何故なら、華厳経において、釈尊は、法慧菩薩等の大菩薩の説法を聞かれたことによって、彼等の悟りの智慧を確かめられた後に、方等部・般若部の御説法において、再度、別教・円教を説かれているからです。

 故に、方等部・般若部の別教・円教と、華厳経で説かれた別教・円教は、本質的な内容が変わらないことになります。
    
 従って、華厳経では、法慧菩薩等の大菩薩が、釈尊の師匠ということになっています。
 華厳経において、法慧菩薩等の大菩薩を数えられた上で、『善知識』(善き友・善き師)と説かれているのは、こういう経緯によるものです。

 つまり、『善知識』という存在は、「一方的に師匠として定まっているものでもなく、一方的に弟子として定まっているものでもない。」ということになります。

 また、蔵教(小乗の教え)・通教(権大乗の教え)に関しても、別教(深奥なる教え)・円教(円満なる真実の教え)から枝分かれした教えであります。

 故に、別教・円教を知る人は、必ず、蔵教・通教も知っていることになります。

 人にとって、『師』とは、『弟子』の知らないことを教えてこそ、『師』というものであります。

 例えば、釈尊以前の一切の人界・天界の衆生と外道の者は、二天・三仙の弟子でありました。
 外道は、九十五種まで分派していますが、所詮、三仙の思想の域を出ていません。

 教主釈尊も、当初は三仙の思想を習い学んで、外道の弟子になられていました。
 しかし、苦行・楽行を続けられて十二年経った後、『苦・空・無常・無我』という理を悟られたため、外道の弟子という立場を捨てられて、『無師智』(師を持たずに智慧を得た)と御宣言されたのであります。

 また、人界・天界の衆生も、釈尊のことを、『大師』(偉大なる師)と仰がれていました。

 そういうことから考えると、法華経以前の華厳部から般若部までの御説法においては、釈尊が法慧菩薩等の大菩薩の御弟子という立場になられます。
 それを例えると、「文殊師利菩薩は、釈尊から数えて、九代目の師匠であった。」と、云うようなものであります。

 諸の爾前経において、「釈尊は、悟りを開かれてから涅槃に入られるまで、仏として、一字たりとも説かれなかった。(不説一字)」と仰せになられているのも、そのことを意味しています。
    
 釈尊が七十二歳の御年に、マガダ国の霊鷲山という山において、無量義経をお説きになられています。

 その際に、これまでの四十余年間に説かれた主要な経典を挙げられて、また、その他の枝葉の経典を含められた上で、「これまでの四十余年間においては、未だに、真実を顕していない。(四十余年未顕真実)」と、打ち消されたのは、このことであります。

 この時、まさしく、諸の大菩薩や天界・人界等の衆生は、慌てて、「実義(真実の教え)を説かれ給え。」と、請うたのであります。

 無量義経においては、実義(真実の教え)と思われるような事が、一言、お説きになられています。
 けれども、未だに、実義(真実の教え)そのものは、お説きになられていません。

 そのことを譬えると、「月が出ようとする時、未だに、月そのものは、東の山に隠れている。また、月の光が西の山に届いたとしても、人々には、月そのものが見えない。」ということになります。
    
 法華経方便品第二において、釈尊は、『略開三顕一』(略して、声聞・縁覚・菩薩の三乗を開き、仏の一乗を顕す。)を、お説きになられました。

 その時、釈尊は、『一念三千』という御心中の本懐を、略しながら、お述べになられました。

 それは、始めての出来事でしたので、あたかも、ほととぎすの鳴き声を、寝ぼけている者が一音聞いたかのように、あるいは、月が山の端に出たものの、薄雲が覆っているかのように、微かに漂っている様子でした。

 すると、舎利弗たちは驚き、諸天善神・竜神・大菩薩たちを集めて、このように、釈尊に要請されました。

 「諸天善神・竜神等の数は、ガンジス川の砂のように多く、仏を求める多くの菩薩たちの数は八万もある。また、万・億という国から、大勢の転輪聖王が来至されている。皆が合掌・敬心を以て、具足の道を聞くことを欲している。(法華経方便品第二)」と。

 この経文の意味は、「四味・三教(法華経以前の爾前経)をお説きになられた四十余年の間において、未だに、聞いたことのない法門を拝受したい。」と、舎利弗等が要請されたことにあります。

 前記の法華経方便品第二の経文には、「具足(完全円満な教え)の道を聞くことを欲する。」と、仰せになられています。

 また、大涅槃経には、「薩とは、具足の義を意味する。」等と、仰せになられています。

 無依無得大乗四論玄義記には、「沙とは、訳して、六と云う。インドでは、六を以て、具足の意味としている。」等と、云われています。

 吉蔵の注釈書には、「沙とは、訳して、具足とする。」等と、云われています。

 天台大師の法華玄義第八巻には、「薩とは、梵語(サンスクリット語)の音写であり、中国では、妙と訳する。」等と、仰せになられています。

 竜樹菩薩は、釈尊から数えて付法蔵(付法相承)の十三番目であり、真言宗・華厳宗等の諸宗の元祖であります。
 その本地は、法雲自在王如来であります。
 また、垂迹の姿は、竜猛菩薩として、世に知られています。

 そして、菩薩地の初地の位にある大聖者(竜樹菩薩)は、『大智度論』千巻の肝心として、「薩とは、六という意味である。」等と、云われています。

 『妙法蓮華経』と云うのは、漢語であります。

 インドにおいては、『薩達磨分陀利伽蘇多攬(サダルマ・プンダリキャ・ソタラン)』と、云います。

 善無畏三蔵は、法華経の肝心の真言として、「ノウマクサンマンダボダナン(帰命普仏陀)・オン(三身如来)・アアアンナク(開示悟入)・サルバボダ(一切仏)・キノウ(知)・サキシュビヤ(見)・ギャギャノウババ(如虚空性)・アラキシャニ(離塵相也)・サツリダルマ(正法也)・フンダリキャ(白蓮華)・ソタラン(経)・ジャ(人)・ウン(遍)・バン(住)・コク(歓喜)・バザラ(堅固)・アラキシャマン(擁護)・ウン(空無相無願)・ソハカ(決定成就)」と、云っています。

 (注、上記の真言の大意は、「南無、普遍なる法身・報身・応身の三身如来よ。全ての衆生に遍く開かれ示されている悟りに入り、一切の仏の智慧を知見すれば、大空が清らかな如く、煩悩の塵から離れるであろう。そして、妙法蓮華経の教えに遍く住することにより、人々は歓喜しながら、教えを堅固に擁護することを、迷いなく決定・成就出来るであろう。」ということである。)

 これは、南インドの鉄塔の中において、竜樹菩薩から伝承された、法華経の肝心の真言であります。
    
 この法華経の真言の中に、『薩哩達磨』(サツリダルマ)と記されているのは、『正法』のことであります。

 『薩』とは、梵語(サンスクリット語)を音写した言葉であり、漢訳すると『正』になります。
 『正』は『妙』であり、『妙』は『正』であります。

 従って、『正法華』(正法華経)とも、『妙法華』(妙法蓮華経)とも、漢訳されています。
 また、『妙法蓮華経』の上に、『南無』の二字をおけば、『南無妙法蓮華経』となります。

 『妙』とは、『具足』であります。
 『六』とは、『六度万行』、すなわち、あらゆる修行のことです。
 諸の菩薩は、「あらゆる修行を具足する方法を聞きたい。」と、思われたのであります。

 『具』とは、『十界互具』であります。
 『足』とは、「一界に十界が具備されているため、それぞれの界に、他の九界が含まれており、不足することなく具備されている。」という意味になります。
 それが、『満足』の義となるのであります。
 
 そもそも、法華経は、全八巻・二十八品によって構成されており、合計・六万九千三百八十四の文字は、その一字一字が、皆、『妙』の一字を具備しております。
 また、合計・六万九千三百八十四の文字は、その一字一字が、皆、三十二相・八十種好を有する仏陀(ブッダ、仏のこと)であります。

 このように、十界のそれぞれの界において、皆、それぞれに仏界が顕れるのであります。

 妙楽大師は、『摩詞止観弘決』において、「一切衆生は、『仏果』を具している。ましてや、他の九界の『果』を具しているのは、当然のことである。」等と、云われています。

 また、法華経方便品第二において、釈尊は、「衆生に対して、仏の知見(智慧)を開かせることを欲している。」等と、お答えになられています。

 この経文で仰せになられているところの『衆生』とは、二乗(声聞・縁覚)の舎利弗等のことであり、一闡提(仏性の欠けた有情)のことであり、九法界(仏界を除いた十界のすべて)のことであります。

 それによって、「無辺に存在している衆生のすべてを救おう。」と仰せの誓願(衆生無辺誓願度)が、ここに満足(成就)したのであります。

 釈尊は、法華経方便品第二において、「私(釈尊)は、過去に誓願を立てた。それは、『一切衆生を、私(釈尊)と等しくして、異なることのないように欲する。』との誓願であった。私(釈尊)が過去に願ったことは、今、既に満足(成就)している。」等と、仰せになられています。

 諸の大菩薩や諸天善神等は、この法華経の法門をお聞きになって、「我等は、昔から、しばしば、釈尊の御説法を聞き奉ってきた。けれども、未だかつて、このように、深妙なる最上の法を聞いたことがなかった。(法華経譬喩品第三)」と、了解されました。

 伝教大師は、この法華経譬喩品第三の経文を、下記のように御解説されました。

 「前半の『我等は、昔から、しばしば、釈尊の御説法を聞き奉ってきた。』とは、『昔、法華経が説かれる以前に、華厳経等の大法が説かれることを聞き奉ってきた。』という意味である。また、後半の『けれども、未だかつて、このように深妙なる最上の法を聞いたことがなかった。』とは、『未だに、法華経の一仏乗の教えだけは、聞いたことがなかった。』という意味である。」と。

 結局、諸の大菩薩や諸天善神等は、「華厳・方等・般若・深密・大日等の数えきれないほどの諸の大乗経(爾前経)においては、釈尊御一代の教えの肝心である『一念三千』を明かされる上で、大綱・骨髄となる『二乗作仏』や『久遠実成』等の法義を、未だに、聞かされていなかった。」と、了解されたのであります。