報恩抄 上 (訳文-1)

 そもそも、「老いた狐は、塚を後にしない。(注、老狐が死ぬ時は、故郷の丘に、
首を向けて亡くなる故事からの由来)」と、云われています。

 また、「昔、毛宝という者に助けられた白亀がいた。毛宝が戦に敗れた時、白亀は
毛宝を背に乗せて、水上を渡航させたことにより、恩を報じた。」と、云われていま
す。

 このように、畜生でさえ、恩を報ずることを弁えています。
 ましてや、人倫(人の道)であるならば、尚更のことであります。

 例えば、古代の賢者で、予譲と云う者は、主君であった智伯の恩を報ずるために、
漆を塗ったり炭を呑んだりしながら、仇を討とうとしました。
 そして、最期は、自害をしています。 

 また、衛の国の弘演と云う臣下は、腹を裂いた後に、主君の懿公の肝を自らの腹に
入れてから、亡くなっています。

 ましてや、仏教を習おうとする者は、父母の恩・師匠の恩・国の恩(主・師・親の
三徳への御恩)を忘れてはなりません。

 この大恩を報ずるためには、必ずや、仏法を習い極めて、智者とならなければ、大
恩を報ずる事は出来ません。

 例えば、大勢の盲目の人々を導く場合に、自らが生盲の身であったとしたら、それ
らの人々に、河川にかかった橋を渡らせることは出来ません。
 また、風の方角を弁えない大舟は、諸の商人を導いて、宝山に至る事が出来ません。

 仏法を習い極めようと思うならば、暇(時間)がなければ、仏法を習い極めること
が出来ません。
 そして、暇(時間)を得ようと思うならば、父母・師匠・国主等に随っていては、
不可能となります。

 良きにつけても、悪しきにつけても、出離の道(仏道)を弁えようとするためには、
父母・師匠等の心に随ってはならないのです。

 上記の考え方は、「世間の道理から、明らかに外れている。冥土(仏法)にも、適
うものではない。」と、諸の人は思うことでしょう。

 しかしながら、外典の孝経においても、父母・主君に随うことなく、忠臣・孝人で
あった事例も見受けられます。

 内典の仏経においては、「恩を捨て、無為(仏道)に入ることは、真実・報恩の者
の行為である。」等と、仰せになられています。

 殷の国の比干という者は、紂王に随わなかったため、賢人の名を得ています。
 そして、悉達太子(釈尊の出家前の御名)が、父の浄飯大王の命に背いたことによ
って、三界第一の孝子となられたことは、上記の事例に該当します。

 このように考えた上で、父母・師匠等に随うことなく、仏法を学んでいく程に、釈
尊御一代の聖教を覚るための十の明鏡が存在することに氣づきます。

 所謂、倶舎宗・成実宗・律宗・法相宗・三論宗・真言宗・華厳宗・浄土宗・禅宗・
天台法華宗であります。

 「この十宗を明師として、一切経の心を知るべきである。そして、この十の鏡は、
皆、正直に、仏道修行の道を照らしている。」と、世間の学者等は思っています。

 この十宗のうちで、小乗の三宗(倶舎宗・成実宗・律宗)は、あたかも、民の消息
(民間人の私文書)が他国へ渡ったとしても、国家として、如何なる用を為さないよ
うなものであります。
 従って、しばらくの間、小乗の三宗については、置いておきます。

 大乗の七鏡(法相宗・三論宗・真言宗・華厳宗・浄土宗・禅宗・天台法華宗)こそ、
生死の大海を渡って、浄土の岸に着くための大船であるため、これを習い極めること
により、「我が身も助け、人々も導こう。」と思って、習学していく程に、大乗の七
宗(法相宗・三論宗・真言宗・華厳宗・浄土宗・禅宗・天台法華宗)は、いずれも、
いずれも、自讃ばかりをしていました。

 彼等は、「我が宗こそ、釈尊御一代の心を得た宗派である。我が宗こそ、釈尊御一
代の心を得た宗派である。」等と、云っていました。

 所謂、華厳宗の杜順・智厳・法蔵・澄観等のことであります。
 そして、法相宗の玄奘・慈恩・智周・智昭(注、道昭のお書き誤り)等のことであ
ります。
 そして、三論宗の興皇・嘉祥等のことであります。
 そして、真言宗の善無畏・金剛智・不空・弘法・慈覚・智証等のことであります。
 そして、禅宗の達磨・慧可・慧能等のことであります。
 そして、浄土宗の道綽・善導・懐感・源空等のことであります。

 これらの宗々の者どもは、皆、それぞれの宗派の拠り所とする経典や論釈を用いて、
「私が一切経を覚った。私が仏意を極めた。」と、云っています。

 これらの人々は、下記のように云っています。

 華厳宗の人は、「一切経の中には、華厳経第一なり。法華経・大日経等は、臣下の
如し。」と。
 真言宗の人は、「一切経の中には、大日経第一なり。余経は、衆星の如し。」と。
 禅宗の人は、「一切経の中には、楞伽経第一なり。」と。
 他の宗派の人々も、同様のことを云っています。

 しかも、上記に挙げた宗派の諸師は、あたかも、諸天が帝釈を敬うように、また、
衆星が太陽や月に随うように、世間の人々から思われています。

 私ども凡夫は、いずれの師であったとしても、信じる限りにおいては、不足があり
ません。
 そのため、彼等を仰いで、信じるべきなのでしょう。
 けれども、日蓮の愚案は、晴れ難いものがありました。

 その理由は、下記の通りです。

 「世間を見渡すと、各々、『私が』『私が』と云ったとしても、国主は、但一人で
あります。

 国主が二人になれば、その国土は穏やかになりません。家に、二人の主人がいたな
らば、その家は、必ず崩壊します。

 一切経も、また、同様のことでしょう。
 何れの経典であったとしても、その中の一経だけが、一切経の大王でいらっしゃる
のではないでしょうか。」と。

 ところが、十宗(倶舎宗・成実宗・律宗・法相宗・三論宗・真言宗・華厳宗・浄土
宗・禅宗・天台法華宗)・七宗(法相宗・三論宗・真言宗・華厳宗・浄土宗・禅宗・
天台法華宗)等と宗派が乱立しているため、各々が諍論して譲らない状態にありまし
た。

 それを譬えると、一つの国に、七人・十人の大王がいることによって、万民の暮ら
しが穏やかにならないようなものです。

 「如何にすれば、宜しいのでしょうか。」と、疑っていた折りに、私(日蓮大聖人)
は、一つの願を立てました。

 「私(日蓮大聖人)は、八宗(倶舎宗・成実宗・律宗・法相宗・三論宗・真言宗・
華厳宗・天台宗)や十宗(倶舎宗・成実宗・律宗・法相宗・三論宗・真言宗・華厳宗
・浄土宗・禅宗・天台法華宗)には随いません。」と。

 それは、あたかも、天台大師が専ら経文を師とされて、釈尊御一代の経典の勝劣を
お考えになられたようなものです。
 そして、一切経を開き見ると、涅槃経と云う経典には、「法に依って、人に依らざ
れ。(依法不依人)」等と、仰せになられています。

 「法に依って、人に依らざれ。(依法・不依人)」と仰せの経文において、『依法』
と申しますのは、仏(釈尊)がお説きになられた一切経のことです。
 そして、『不依人』と申しますのは、仏(釈尊)以外の普賢菩薩・文殊師利菩薩等
の菩薩や、前記に挙げた諸の人師であります。

 また、涅槃経においては、「了義経に依って、不了義経に依らざれ。(依了義経・
不依不了義経)」等と、仰せになられています。

 この涅槃経の経文で指されているところの『了義経』とは、法華経のことになりま
す。
 『不了義経』と申しますのは、華厳経・大日経・涅槃経等の已今当の一切経(法華
経以外のすべての経典)になります。

 故に、仏の御遺言を信ずるならば、専ら法華経を明鏡として、一切経の心を知るべ
きでしょう。

 随って、法華経の経文を開き奉れば、薬王菩薩本事品第二十三において、「この法
華経は、諸経の中において、最も、その上に在る。」等と、仰せになられています。

 この経文の如くであるならば、須弥山の頂に帝釈天王が居るように、転輪聖王の頂
に如意宝珠があるように、多くの木の頂に月が宿るように、諸仏の頭頂に肉髻がある
ように、この法華経は、華厳経・大日経・涅槃経等の一切経の頂上に在する、如意宝
珠であります。

 そこで、専ら、論師・人師の言を捨てて、経文に依るならば、大日経・華厳経等よ
りも、法華経が勝れていらっしゃることは、日輪(太陽)が青天に出現した時に、眼
の見える者ならば、誰でも、天と地を見る事が出来るようなものです。

 つまり、「法華経と爾前経における、経典の高低・上下の格差は、歴然としている。」
ということです。

 また、大日経・華厳経等の爾前経を見てみると、この法華経の経文に対して、相似
した経文は一字・一点もありません。

 所詮、大日経・華厳経等の爾前経は、或いは、小乗経に対して、『勝劣』をお説き
になられたり、或いは、『俗諦(世俗の理)』に対して、『真諦(仏法の理)』をお
説きになられたり、或いは、諸の『空諦・仮諦』に対して、『中道(中諦)』を褒め
られているにしか過ぎません。

 そのことを譬えると、小国の王が自国の臣下に対して、『大王』と言うようなもの
であります。
 一方、法華経は、諸国の王に対して、『大王』と言うようなものであります。

 ただ、涅槃経だけには、法華経に相似した経文があります。
 それ故に、天台大師が御出現される以前、南三・北七の諸宗派の僧侶は勘違いを
して、「法華経は、涅槃経に劣っている。」と、云っていました。

 けれども、専ら経文を開き見ると、法華経の開経である無量義経においては、華厳
部・阿含部・方等部・般若部等の四十余年の経々を挙げられて、「四十余年未顕真実」
等と、仰せになられています。

 また、法華経においては、「涅槃経に対して、我が身(法華経)が勝る。」という
主旨の内容が説かれています。

 また、涅槃経においては、「この経の出世は、(中略)法華経の中の八千の声聞に
対して、記別(未来の成仏の保証)を授かったことを得て、大果実を成じた後には、
秋収冬蔵(注、秋に収穫が終わり、冬に収蔵すること)の如く、更なる所作をする必
要がないようなものである。」等と、法華経に対して、仰せになられています。

 上記の経文は、涅槃経自体において、「我が経典は、法華経に劣っている。」と、
説かれている経文であります。

 このように、涅槃経の経文は、明瞭であります。
 けれども、南三・北七の諸宗派における、大智を有した諸の僧侶でさえ、迷ってし
まった経文であるため、末代の学者は、よくよく眼を留めなければなりません。

 前記の経文によって、ただ、法華経と涅槃経との勝劣のみならず、十方世界の一切
経の勝劣も知ることが出来ます。

 たとえ、その経文に迷ったとしても、天台大師・妙楽大師・伝教大師が一切経の勝
劣を御了見なされた後には、眼のある人々であるならば、認知すべき事柄となります。

 しかしながら、天台宗の貫主であった慈覚・智証でさえ、なお、この経文の解釈に
は暗いものがあります。
 ましてや、他宗の人々においては、尚更のことであります。

 或る人は、疑いながら、このように云っています。

 「漢土(中国)・日本に渡来した経々の中には、法華経より勝れた経典がなかった
としても、月氏(インド)・竜宮(竜王が住む宮殿)・四天王天(持国王天・増長天
・広目天・毘沙門天)・大日天・大月天・トウリ天(帝釈天王の住処)・トソツ天(内
院は弥勒菩薩の住処・外院は天界衆の欲楽処)等には、恒河沙(ガンジス河の砂)の
如く、多くの経々がある。
 ならば、その中には、法華経より勝れた御経があるだろう。」と。

 その疑問に対しては、このように、返答を致します。

 「一を以て、万を察するべきです。

 まさしく、『庭戸(家の中)を出ることがなくとも、天下を知ることが出来る。』
という諺は、このことに該当します。

 あなたの疑問は、あたかも、『我々は、南天だけを見たことがある。東天・西天・
北天の三方向の空を見たことがない。』と、癡人が疑って、云うようなものです。

 では、東天・西天・北天の三方向の空には、この日輪(太陽)以外に、別の日(太
陽)が存在するのでしょうか。

 同様に、山を隔てた場所から、煙が立っているのを見ていながら、『実際に、火を
見ていなければ、確かに、煙は上がっているけれども、火が燃えていないかも知れな
い。』と、云うのでしょうか。

 このように云う者は、一闡提(注、正法を信ずることなく、覚りを求める心もない
ため、成仏する機縁を持たない衆生)の人と知るべきです。
 まさしく、生盲の人(仏法に対する見識のない人)に、他なりません。」と。

 法華経法師品第十においては、釈迦如来の金口の誠言を以て、釈尊御一代・五十余
年の一切経の勝劣を定められた上で、「我が所説の経典は、無量千万億にして、已に
説き(爾前経)、今説き(無量義経)、当に説く(涅槃経)であろう。しかも、その
中に於いて、この法華経は、最も難信難解である。」等と、仰せになられています。

 この経文は、ただ、釈迦如来御一仏の御説であったとしても、等覚(菩薩の最高位)
以下の者は、仰いで信じるべきであります。

 その上、法華経見宝塔品第十一においては、多宝如来が東方世界よりお越しになら
れて、「釈迦牟尼世尊、所説の如きは、皆、これ真実なり。」と、御証明なされてい
ます。

 また、十方分身の諸仏は、法華経の会座に来集されてから、釈迦如来と同様に、広
く長い御舌を梵天に付けられて、法華経の真実を御証明なされています。
 その後に、十方分身の諸仏は、各々の国々へ、お還りになられています。

 『已今当』の三字(爾前経・無量義経・涅槃経)は、釈尊御一代五十年の御説法、
並びに、十方三世の諸仏の御経を、一字・一点も残さずに引き載せられた上で、法華
経に対比なされて説かれた教えであります。

 十方の諸仏は、法華経の会座において、『已今当』の三字(爾前経・無量義経・涅
槃経)に御判形(御証明)を加えられています。

 従って、十方の諸仏が、また、各々の自国へお還りになられた後に、十方の諸仏の
弟子たちに向かわれて、仮に、「法華経より勝れた御経がある。」と説かれたとして
も、その国土における所化の弟子たち(十方の諸仏の国土において、教化を受ける弟
子たち)は、果たして、信用されるのでしょうか。

 また、「自分は見ていないけれども、月氏(インド)・竜宮(竜王が住む宮殿)・
四天王天(持国天・増長天・広目天・毘沙門天)・大日天・大月天等の宮殿の中に、
法華経より勝れている経典があるのではないか。」と、疑いを起こす者がいたとしま
す。

 その場合には、反詰して、このように云いなさい。

 「ならば、今の大梵天王・帝釈天王・大日天王・大月天王・四天王(持国天王・増
長天王・広目天王・毘沙門天王)・竜王は、法華経の御座にいらっしゃらなかったの
でしょうか。

 もし、大日天王・大月天王等の諸天が、『法華経より勝れた御経が存在する。汝が
知らないだけだ。』と仰るのであれば、それこそ、大誑惑(大嘘つき)の大日天王・
大月天王であります。」と。

 もし、仮にも、このような不義を云う大日天王・大月天王がいたとしたら、日蓮は、
大日天王・大月天王を責め奉って、このように云います。

 「大日天王・大月天王は、虚空に住しておられますが、あたかも、我等凡夫が大地
に住んでいる如く、空から墜落されるようなことがないのは、上品の不妄語戒(最も
勝れた不妄語戒)の功徳力の故であります。

 もし、大日天王・大月天王が『法華経より勝れた御経がある。』と仰せになられる
ような、大妄語を発するのであれば、恐らくは、未だ、壊劫(注、四劫の一つ、世界
が壊滅する時期のこと。)に至らないうちに、大地の上にドッと落ちてしまうことで
しょう。

 その上、無間地獄の大城における、最下層の堅い鉄の場所まで落ちなければ、堕落
を止めることは出来ないでしょう。

 大妄語の人は、少しの瞬間も、空に住して四天下を廻ることは、出来ないのであり
ます。」と。

 ところが、華厳宗の澄観等や、真言宗の善無畏・金剛智・不空・弘法・慈覚・智証
等のように、大智を有した『三蔵法師』『大師』等と呼ばれている者どもが、「華厳
経・大日経等は、法華経より勝れている。」と、法門を立てています。

 私(日蓮大聖人)どもの分斉では、及ばぬ事かも知れません。
 けれども、仏法の大道理の示される所から鑑みると、まさしく、彼等は、『諸仏の
大怨敵』に、他なりません。

 極悪の所行を犯した、提婆達多・瞿伽梨等であったとしても、物の数ではありませ
ん。
 大天(注、インドのマトラ国の人物。両親や阿羅漢を殺害した後に出家、慢心を起
こして、仏教教団分裂の因を作った。)や大慢(注、インドのマロウバ国のバラモン。
慢心を起こして、諸尊の像を刻んで椅子の脚とした。大乗経を誹謗したため、生身で
地獄に堕ちている。)の存在を、外に求めては(他人事としては)なりません。

 彼等の教えを信ずる輩は、恐ろしいことになります。恐ろしいことになります。